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阿弥陀仏とお釈迦さまの関係とは!? [阿弥陀仏]

本師本仏の阿弥陀仏

「阿弥陀仏」といわれる仏さまは、どんな方でしょうか。
世間ではお釈迦さまといっても阿弥陀仏といっても、
レッテルが違うだけで、
同じ仏さまだろうと思っている人があります。
しかし、それは大変な間違いです。
お釈迦さまと阿弥陀仏とは、全く違う仏なのです。
その違いを知らないと、仏教は全く分かりませんので、
よく知っていただきたいと思います。

お釈迦さまは、今から約2600年前、
インドで活躍された方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の悟りを
開かれてから、
80歳でお亡くなりになられるまでの45年間、
教えていかれたみ教えを、
今日、仏教と言われます。

お釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏の悟りを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。
そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しにきたのだよ」と、
私たちに教えてくだされたのが、
阿弥陀仏といわれる仏さまです。


(蓮如上人:親鸞聖人の教えを一器の水を一器に移すかのごとく、
一切自分の考えを入れずに正確に日本中に伝えられた高僧
親鸞聖人は、真実の仏教である「弥陀の本願」を誰よりも鮮明に教えられた方)

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阿弥陀仏とお釈迦さまとの関係について、
蓮如上人は『御文章』に次のようにおっしゃっています。

ここに弥陀如来と申すは、
   三世十方の諸仏の本師本仏なれば

お釈迦さまは、地球上ではただ一人の、
仏のさとりを開かれた方ですが、

大宇宙には地球のようなものが
数え切れないほどあります。
その大宇宙には、数え切れないほどの
仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。

よく知られているのは、大日如来とか、薬師如来とか、
奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、
それらの仏も皆、十方諸仏の一人です。

「本師本仏」とは、本師も本仏も先生ということですから、
この大宇宙の仏方の先生だということです。
これはお釈迦さまがおっしゃっていることなのですが、
親鸞聖人も明らかにされ、
蓮如上人もこのように言われているのです。

「阿弥陀仏は十方諸仏の先生である」ということは、
「大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏のお弟子」
ということです。

諸神の上が、弥勒や観音、地蔵菩薩などの菩薩であり、
その菩薩の上が諸仏ですが、

それらは皆、阿弥陀仏のお弟子です。

地球上では三大聖人、二大聖人といっても
常にトップに挙げられるお釈迦さまも、
十方諸仏の一人ですから、
弥陀と釈迦の関係は、師匠と弟子、
阿弥陀仏を先生をするなら、
お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方が、
阿弥陀仏のことを、
「偉大な仏さまだ、尊い仏さまだ、われらの先生だ」
と讃めたたえて、
手を合わせ、拝んでおられるのです。


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●仏教=弥陀の本願

仏教の教えのすべては、今日、
一切経といわれるものに書き残されています。
それは七千余巻という膨大なお経の数です。
仏教に何が教えられているかを知るには、
この一切経を余すところなく読んで、
正しく理解しなければなりません。
ところが難しい漢字ばかりのお経ですから、
誰でも全部読めるものではありませんし、
理解できるものでもありません。
今日、世界の光と仰がれています親鸞聖人は、
その一切経を何回も読み破られ、
「お釈迦さまの教えていかれたことは、
これ一つなんだよ」と、
『正信偈』に次のように書かれています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

「如来、世に興出したまう所以は、唯、
弥陀の本願海を説かんがためなり

と読みます。
「如来」とは、釈迦如来、すなわちお釈迦さまのこと。
「世に興出したまう所以は」とは、
「お釈迦さまが、この地球上に現れて
仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、
「ただ一つのことを説かれるためであった」
ということです。

七千冊以上のお経があり、
四十五年間教えられた、と聞くと、
「お釈迦さまは、いろいろなことを説かれたのだろう」
と思う人もあろうが、そうではない。
お釈迦さまの教えられたことは、
たった一つなのだと、
親鸞聖人は断言なされています。

一切経の99パーセント読んでも、
こんな断言はできません。
後の1パーセントに何が書かれてあるか
分からないからです。

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私たちは釈迦が教えられた、
そのたった一つのことを聞けば、
仏教すべてを聞いたことになり、
仏教のすべてを知ったことになるのです。

だから釈迦のただ一つ説かれた、
そのことほど大事なことはありません。
親鸞聖人は、それこそ「弥陀の本願」である、
とおっしゃっています。

弥陀の本願とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
阿弥陀仏という仏さまが本当に願っていられる御心は、
大変広くて深いので、
海に例えて「本願海」と言われています。
弟子の使命は、先生の御心を正確に、
一人でも多くの人にお伝えすること以外ありませんから、

お釈迦さまも45年間、
自分の先生である阿弥陀仏の本願以外、
教えていかれなかったのだと
断言されている親鸞聖人のお言葉に、
深くうなづかずにはおれません。

お釈迦さまが、阿弥陀仏の本願一つを
明らかにされたように、
親鸞聖人の九十年の生涯も、
阿弥陀仏の御心以外には、
教えられたことはありませんでした。

では、その「本願」とは、どういうことでしょうか。


(世界の光・親鸞聖人アニメより)

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弥陀の本願とは

「本願」とは、「誓願」ともいわれるように「約束」のこと。
ですから「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束のことです。

阿弥陀仏は、次のように誓われています。

(弥陀の十八願)

設我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国
乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法

我を信じよ
どんな人も必ず救う
絶対の幸福に

約束には必ず相手があります。
弥陀のお約束の相手を、「十方衆生」、
すなわち「すべての人」とおっしゃっています。

この中に入らない人は一人もありません。
男も女も、老いも若きも。
才能の有無、健常者・障害者、
人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、
どんな人とも約束する、と誓われているのです。

では、どのような約束をなされているのでしょうか。
約束で一番大事なのは、その内容。
金銭の貸借で言えば、金額に当たります。
阿弥陀仏は、「絶対の幸福に、必ず救い摂る」
と誓っておられます。

「絶対の幸福」とは、「歎異抄」には「摂取不捨の利益」とか、
無碍の一道」と書かれているように、
絶対に崩れない大安心、
色あせない大満足のことです。

その絶対の幸福に、平生ただ今、
必ず救い摂ってみせると誓われているのが、
弥陀の本願なのです。

私たちは、何のために生まれてきたのか、
どこへ向かって生きているのか、
なぜ苦しくても生きねばならないのか、
全く分かりません。
親鸞聖人は、
「この世で阿弥陀仏の本願により、
絶対の幸福に救い摂られ、
死ねば弥陀の浄土へ往って、
弥陀と同じ仏に生まれることである。」
と教えています。


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阿弥陀仏に救われるのは死んでからではない、まさに“今”! [阿弥陀仏]

 

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

生死の苦界ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
      (親鸞聖人・教行信証)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

「生死の苦海ほとりなし」
我々の生を、苦しみの海に例えられています。
人は皆、空と水しか見えない海に漂うように、
真に向かうべき方角を知らず、
幸せも波間の丸太で当てにならない。
すがりついて一時の安息はあっても、
荒波が次々と襲いかかり、幸福に裏切られては
塩水飲まされる日々に限り(ほとり)はありません。

「久しく沈める我ら」
“久しく”とは、長い間。
それは五十年や百年ぐらいではありません。
生死生死を繰り返し、果てしなく迷い続けてきたと
親鸞聖人は仰っています。

「弥陀弘誓の船のみぞ」
「弥陀」とは、すべての仏の師である阿弥陀仏のこと。
「弘誓」は、
“すべての人(十方衆生)を必ず絶対の幸福に救う”お約束。
これを「阿弥陀仏の本願」といい、
苦海を明るく楽しく渡す唯一の船に例えられておられます。

「乗せて必ず渡しける」
「本願の船に乗る」とは「本願どおり救われる」ことです。

では、乗せていただくのは「いつ」でしょう。
渡してくださるのは「どこへ」なのか。

今回は、この二つの疑問にお答えいたします。

●「助けてくださるそうな」は絵に描いた馬

「すべての人を必ず本願の船に乗せてみせる」
と阿弥陀仏が命を担保に誓われても、
「ふーん、乗せてくださるそうな」
とノンキな人が少なくありません。

五百年ほど昔、京都に、午年生まれの馬好きな金満家がいた。
日本一の画家に立派な馬の絵を描かせたが、
賛(さん)が欲しい。
当時、有名であった大徳寺の一休に依頼した。
「よかろう」
と一休、筆を執り、
「馬じゃげな(馬じゃそうな)」
と書いた。

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「これほど立派な馬を、ブタやタヌキに見るものか。
立派な絵を台なしに・・・」
金満家は地団駄踏んで悔しがったが、
後のまつり。
悩んだ末、蓮如上人を訪ねた。
「蓮如さま。一休にとんでもないことを書かれました。
この絵を生かす賛(さん)を加えてもらえませぬか」
「よし、よし」
と蓮如上人、筆を執られ、
「そうじゃげな」
と並べて書かれたという。
どんなにまことらしくとも絵は絵。
だから、「馬じゃげな」、「そうじゃげな」、なのです。

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「阿弥陀さまが助けてくださるそうな」
では所詮は絵に描いた馬です。

「弥陀の本願まことだった」
と大悲の願船に乗せていただくところまで
聞かせていただかねばなりません。

●手に汗されての教導

では、弥陀弘誓の船に乗せていただけるのは
“いつ”なのでしょう。
親鸞聖人は、こう教示なされています。

呼吸の頃(あいだ)すなわち来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎す(このす)ことなかれ

            (教行信証)
一息つがざれば次の生(来生)である。
永久にもどらぬ人生となる。
ただ今、阿弥陀仏に救われねば、
いつ救われるというのであろうか。  
永遠のチャンスは今しかない。
刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔を残さぬように。

『御文章(御文)』にも、こう記されています。

命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候

          (蓮如上人)

すべての人は
「本当に弥陀弘誓の船に乗せてもらえるのか」
と、必ず疑いを持つ。
その不審が晴れるのは、船に乗った時。
「貸した金、ちゃんと返すだろうか」
の疑念は、返済された時になくなるのと同じです。

阿弥陀仏に対しての疑い(不審)が、
「命のあるうち(命のうち)」に晴れなければ
「後悔のみ」である。    
生きている現在、弥陀弘誓の船に乗せていただき、
早く疑い晴れた身になりなさい」
とのご勧化です。

弥陀弘誓の船に乗せていただくのは、
死んでからではない。まさに“今”なのです。

●弥陀弘誓の船の行き先は?

では、現在ただ今、弥陀弘誓の船に
乗せていただいた人は、
どこへ連れて行ってもらえるのでしょう。

親鸞聖人は、『正信偈』に明言されています。

必至無量光明土(必ず無量光明土に至る)

無量光明土とは、限りなく明るい世界、
阿弥陀仏のまします極楽浄土のことです。
弥陀弘誓の船に乗せていただけば、
無限に明るい浄土へ往けるから、
一息一息、光明の広海を快走する
愉快で楽しい船旅となります。

弥陀の浄土へ「往」って、仏に「生」まれることを
「往生」といい
弥陀弘誓の船に乗せていただけば、
いつ死んでも浄土往生間違いない身になれます。

これを、「往生一定」というのです。
生きている現在ただ今、
浄土往生が本決まり(往生一定)になるのです。

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●現在と死後 二度救われる

弥陀弘誓の船に乗せていただくのは、
「生きている今」であり、
その人が、一息切れて行く世界は「無量光明土」です。

弥陀の救いにあえば、
この世は大安心、大満足の絶対の幸福に生かされ、  
来世は必ず弥陀の浄土で仏に生まれます。

このように阿弥陀仏の救いは、現在と、死後と二度ある。
これを「現当二益(げんとうにやく」といいます。

「現益」と「当益」のことで、
「現益」とは現在(この世)の救い(利益)、
「当益」は死後(当来)の救い(利益)です。

現在、弥陀弘誓の船に乗せられた人だけが、
死んで無量光明土に生まれられるのですから、
親鸞聖人は、現在の救いを強調されたのです。

聖人、九十年のみ教えを「平生業成
といわれるゆえんです。
  

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●平生業成・・・聖人の教えを表す一枚看板

「平生」とは、「生きている今」。
「業」とは、「人生の大事業」。
大事業とは、オリンピック開催や、
宇宙開発プロジェクトなどではない。
私たち一人一人の、「人生の大事業」であり
「人生の目的」のことです。
  
何のために人間に生まれてきたのか。
苦しくてもなぜ自殺してはならないのか。
すべての人にとって最も大事な「人生の目的」を、
親鸞聖人は「業」の一字で表されています。

「成」とは、完成の「成」。
達成、卒業、決勝点がること。
「平生業成」とは、
「平生ただ今、人生の目的が完成する。
だから早く完成せよ」

と叫び続けていかれた親鸞聖人の教えを、
漢字四字で表された、一枚看板なのです。

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「この世はどうにもなれない、死んだら極楽、死んだら仏」
と死後の花降る浄土を夢みる物語が仏教ではありません。
勝負は平生に決するのです。

覚如上人(親鸞聖人の曾孫)は、こう教えられています。

然れば、平生の一念によりて、
往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念(おもい)に
住せばかなうべからず(執持鈔) 

浄土に往けるかどうか(往生の得否)は、
平生の一念で決まる。
今、往生一定の身になっていなければ(不定の念に住せば)、
浄土往生できない(かなうべからず)

弥陀弘誓の船は、本当にあるのか」
「こんな私でも乗せていただけるのだろうか?」

と、疑いでフラフラな心(不定の念)が、
過去無量劫の生死流転の根元です。

それが、平生のただ今、
弥陀弘誓の船に乗った一念で無くなり、
往生は一定となる時が必ず来ます。

同時に生命の大歓喜が湧き上がるのです。

弥陀弘誓の船に乗せていただくには、
「聴聞に極まる」。

命あるうちに、弥陀の救いに疑い晴れるまで、
真剣に聞かせていただきましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 親鸞聖人の教え=釈迦の教え=弥陀の本願
に関して疑問に思われている方は、
クリックして記事をご覧ください。

阿弥陀仏とはどんな仏さま?


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阿弥陀仏とはどんな仏さま? [阿弥陀仏]

阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか。

一般には阿弥陀仏、お釈迦さまと、呼び名こそ違っても、
仏さまといえば、皆、同じだと思っている人が多いようです。
仏教では、
「阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
              (御文章)
“阿弥陀仏は大宇宙のすべての仏方の先生、
指導者である”と教えられています。

後で詳説しますが、
お釈迦さまも「三世十方の諸仏」の一仏であり、
阿弥陀仏とは違う仏です。

この違いが分からねば、
仏教は決して分かりませんから、
まずよく知っていただきたいと思います。

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たくさんの仏さまが大宇宙にまします

仏教では、大宇宙には地球のような世界が
無数にあると説かれています。

今日の天文学でも、生命を持ちうる惑星が
銀河系だけで億単位に上るというのが定説です。
宇宙全体で考えれば、どれほど膨大な数になるか
想像も及びませんね。
それをお釈迦さまは、「ガンジス河の砂の数」と表現され、
その宇宙観を2600年前に説いておられるのです。
地球にお釈迦さまが出られたように、
十方世界、大宇宙には、
数限りもない仏さまがおられます。

大日如来や薬師如来、
奈良の大仏として有名なビルシャナ仏、
お釈迦さまも、皆、「三世十方の諸仏」の一仏なのです。

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阿弥陀仏は諸仏の先生

阿弥陀仏は諸仏の「本師本仏」といわれています。
「本師」も「本仏」も先生のことですから、
阿弥陀さまは諸仏の指導者であり、
諸仏方は、阿弥陀仏の弟子、生徒ということです。
私たちの地球に現れた唯一の仏、お釈迦さまは、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、生涯、先生である阿弥陀仏のことばかりを
説いておられます。

それを親鸞聖人は、
如来、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を
説かんがためなり
」  (正信偈)
とおっしゃっています。
弟子の使命は、師の御心を多くの人に
伝える以外にないからです。

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阿弥陀仏は最尊第一の仏

では、なぜ阿弥陀仏を本師本仏と尊敬するのでしょう。
それは阿弥陀仏の能力がズバ抜けて素晴らしいからです。
お釈迦さまは、
無量寿仏(阿弥陀仏)の威神光明は最尊第一にして、
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり
」(大無量寿経)
とおっしゃって、
大宇宙で最も尊い仏が阿弥陀仏であり、
諸仏の力は足下にも及ばない。

だから「諸仏の王」ともいわれています。
その最尊第一阿弥陀仏が、私たち一人一人と、
崇高なお約束をなさっている。
それが阿弥陀仏の本願といわれるものです。

どのような内容か、次回で明らかにしましょう。

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弥陀は逃げ回っている我々を追い詰めて救う! [阿弥陀仏]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

      (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

最初に親鸞聖人は「誠なるかなや」と言われています。
これは、「本当だった」「ウソではなかった」
という喜びの言葉です。
裏を返せば、それまでは「本当だろうか」
「ウソではなかろうか」
と疑っていたということです。

例えば、腹痛で苦しんでいる時、
「この特効薬をのめば、あなたの腹痛は治りますよ」
と言われても「ホントかな」と疑う。
ところが、のんだ途端に腹痛がピタリと治まれば、
「ホントだった」と知らされます。

では、親鸞聖人は、何に対する疑いが晴れ、
「誠なるかなや」と仰ったのでしょう。
それは、次のお言葉、「摂取不捨の真言」
が誠だったと言われているのです。

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
すべての仏の師匠・阿弥陀仏が誓われたお約束で、
『歎異抄』の冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、

どんな人も、
必ず摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救う

誓いです。

ここで、
阿弥陀仏が約束されている相手「どんな人も」とは、
「すべての人」のことですが、
それはどんな者なのでしょう。

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阿弥陀仏は、私たちすべての人間を
どのようなものと見て取られて、
摂取不捨と誓っていられるのでしょうか。

「煩悩具足の者」と見られています。
煩悩とは、欲、怒り、妬みそねみといった醜く恐ろしい心。
煩悩具足とは、煩悩の塊、ということです。

「花より団子」「花の下より鼻の下」で、
美しい桜の下、飲んだり食べたりでルンルンで、
私たちは煩悩がフル回転します。
酔っ払って我を忘れ、
ケンカや醜態をさらすのも煩悩の仕業です。
4月の誕生石はダイヤモンド。
宝石に目がくらむのは財欲のため。
欲のままに行動に移せば恐ろしい事件へと発展します。
以前、49歳の男が、
指輪など293点(約1億4000万円相当)
を奪ったうえ、店長と従業員5名を拘束し、
火をつけ、6人を殺害した事件があった。
この男は死刑になりました。
「わが子を注目させたい」のは名誉欲。
学芸会の劇で、主役をめぐって争う
親のモンスターぶりをしばしば耳にします。
日本のある学校で、
「白雪姫の劇の主役が一人なのはおかしい」
と複数の親が教師に迫った。
結局、白雪姫を25人に増やし、小人役なし、
魔法使いのおばあさん役なしの話に仕立てあげたという。
これはイギリスの大手新聞『タイムズ』紙にまで取り上げられ、
「アメリカも同じ」「韓国でも似たようなことがある」
とのコメントが寄せられ物議を醸しました。

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「主役問題」は、さらに深刻な事件にも発展します。
これは、ロシアの名門バレエ団であったこと。
『白鳥の湖』の主役をめぐるトラブルで、
配役を決める監督が顔に強酸性の薬をかけられ、
失明の危機に陥りました。
犯行の指示をしたのは団員の一人。
恋人の女性ダンサーが主役を希望したのに、
「鏡を見てみろ」と拒否された怨恨からの復讐でした。
傷つけられた名誉欲が、恨み・怒りとなったのです。

保険金殺人、ストーカー事件、食品偽装、毒物混入・・・。
世の中を騒然とさせるニュースは、
人間の煩悩によるものばかりです。

「世の中、悪いヤツがいるものだ」
と思われるかもしれませんが、
ほかでもない、これは我々のことなのです。

親鸞聖人は、「すべての人が煩悩具足なのだよ」と、
こう言われています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて
欲もおおく、瞋り(いかり)腹立ち、
そねみねたみ心間(ひま)なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず

          (親鸞聖人・一念多念証文)

人間は、死ぬ(臨終の一念に至る)まで、
煩悩が止まることも、なくなることもないのです。
そして、縁さえ来ればどんなことでもする親鸞だ
と、
こうも告白されています。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(歎異抄)
口や身体に出さないのは「縁」が来てないだけ。
心の中では、誰にも言えない恐ろしいことを
思い続けている、との懺悔です。

蓮如上人は、
阿弥陀仏は、全人類を“すべての仏に見捨てられた極悪人”
と見て取られている

と、『御文章』で、こう教えられています。

空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

            (二帖目八通)
ここで「極悪人」といわれているのは、
倫理道徳でいうような悪人ではありません。
仏の眼からご覧になった私たち人間の姿なのです。

善導大師でさえ

善導大師は、親鸞聖人が大心海化現の善導と
尊敬されているお方です。
(※大心海化現・・極楽浄土から
仏さまが姿を変えて現れたこと)
この善導大師は、「30余年、別の寝処(しんじょ)なし」
と言われ、30年以上、布団を敷いて休まれませんでした。
夜更けまで仏法の研鑽に励まれ、
そのまま机のうつぶすようにして休まれたのです。
また、淫らな心が生じないよう、
母親以外の女性を一切、見られなかったともいわれます。

ところが、同じ善導大師が、
心は一日、八億四千遍もコロコロ変わり通しだ。
思っていることは皆、地獄行きのタネばかり

と次のように言われています。

一日のうちに八億四千の憶い(おもい)あり、
念々になすところこれみな三塗の業なり

(三塗の業・・・苦しみの世界に沈むタネまき)

これは、阿弥陀仏によって照らし出された自己の実態であり、
倫理道徳レベルの問題ではありません。
仏の眼からごらんいなれば、万人が例外なく、
「煩悩具足」「諸仏に捨てられた極悪人」なのです。

しかし、うぬぼれ強い私たちは、とてもそうは思えず、
「そこまでひどくない」「どこを見てるのだ」とはねつける。
その心は、「阿弥陀仏は私を見損なっている」と、
弥陀の本願を疑っている心です。

この本願疑惑心を「疑情」といいます。
物や人に対する疑いではありません。
阿弥陀仏の本願に対する疑いだけを「疑情」というのです。

逃げる者を、追いかけ、追い詰め、助ける

阿弥陀仏は、すべての人を「煩悩具足の者」
「諸仏に見捨てられた者」とお見抜きのうえで、
「摂取不捨の利益(絶対の幸福)に必ず救う」
と誓っておられます。

摂取」の摂とは、逃げ回っている者を、どこまでも追いかけ、
逃げ場がなくなるまで追い詰めて助ける、ということ。
阿弥陀仏が追いかけ追いかけ助けようとされているのに、
私たちは逃げ回っている。


こう聞いても、
「いや、私は阿弥陀さまに助けてもらいたいと思っています。
逃げるなんてとんでもない」
と反発する心が出てくるでしょう。

これも弥陀の本願を疑う心、“疑情”です。
私たちは、阿弥陀さまの御心に背き、
逃げ回っていながら、その自覚すらありません。

これこそ、煩悩具足の姿なのです。
ある講演で、助かりたいと思いながら逃げている姿を、
こう例えられました。

       ■       ■
以前、友達と散歩していた時、
城の空堀に子犬が落ちているのを見つけた。
石垣はほとんど直角。
小犬は何度も堀から上がろうとしたが、
ツルツルと滑って落ちてしまう。
このまま雨が降り、水がたまれば死んでしまう。
何とか助けてやりたいと、
板を持ってきて、堀から上らせようとするが、
犬は逃げ回る。
ひどい目に遭わされるのではと疑っているのだろう。
鬼が来たとでも思っているのか。
こちらは助けたい一杯、犬も助かりたい一杯。
なのに、逃げ回り続ける。
長い時間かけてようやく逃げ場のない隅に追い詰め、
やっと引き上げることができた。
小犬は、広い世界に出て、飛び跳ねる。
私たちもまた喜んだ。

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     ■      ■

助かりたいと願いながら、助ける人を疑い、
逃げ回る小犬。
弥陀を疑っている私たちも同じなのです。

煩悩具足の者は、真実から逃げ回っている。
そういう者を、ガチッと摂め取って、
二度と捨てない絶対の幸福に救ってみせる
と誓われた真実の言葉が弥陀の本願なのです。

●「まこと」と知らされる2つのこと

親鸞聖人も、救い摂られるまでは
弥陀の本願を疑っておられた。
だからこそ、弥陀に摂取され疑情が破れて、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
と仰ったのです。
これは、「まことだった!本当だった。
無上の仏さまを疑い、逃げ回っていた親鸞を、
絶対の幸福に救うと誓ってくだされた
弥陀の本願まことだった」
という懺悔と歓喜のお言葉なのです。


このことを「信心数え歌」には、
逃げてもにがさぬ御慈悲とは、
ほんに今迄知らなんだ

と歌われています。

『歎異抄』には、こう述懐されています。

しかるに仏かねて知ろしめして、
煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願は、
かくのごときの我らがためなりけりと知られて、
いよいよ頼もしく覚ゆるなり

        (歎異抄第九章)
とうの昔に弥陀は、煩悩の巨魁が私だと、
よくよくご存じで、その私を救わんと
本願を建ててくださったのだ。
感泣せずにおれないではないか。

このように、弥陀の本願に疑い晴れて「誠だった」と
知らされることは2つあります。

一、煩悩具足で、諸仏に見捨てられた極悪人が
私であったと知らされる。
(自分の本当の姿がハッキリする)

二、絶対の幸福に救う(摂取不捨)と誓われた阿弥陀仏の本願、
まことだったと知らされる。(救いの法がハッキリする)

煩悩以外に何もない私たちが、本当の幸せになるには、
阿弥陀仏のお力による以外ありません。

仏法を聞く目的は、知識欲を満たすためではありません。
「摂取不捨の真言まことだった」
と弥陀の本願に疑い破れるまで、
真剣に聞かせていただきましょう。

 


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弥陀から逃げ回っている者とは、誰か? [阿弥陀仏]

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
       (親鸞聖人・教行信証)


まことだった!本当だった。
弥陀の誓願にウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。


今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
阿弥陀仏の本願」のことです。
大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束
で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
“どんな人も必ず絶対の幸福に救う”
誓いです。

絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
摂取の「摂」は、逃げ回っている者を、
追いかけ、逃げ場のないところまで追いつめて救うこと

と述べてきました。
“逃げ回っている者”とは、
弥陀の本願を疑い続けている者のことです。


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そう聞きますと、
なるほど。あの人は、仏法のお話に誘っても断ってばかり。
確かに逃げてるなあ

とか、
夫は、地域の催し物や映画なら一緒に行くけど、
仏法は聞こうとしない。
うちの人も逃げ回っている

と、他人事のように思われるかもしれません。
しかし、阿弥陀仏は、
すべての人を「仏法を疑い、逃げ回っている者」と仰るのです。

「えっ!どうして仏法を聞いている私が?」
と認められない心が出てくるでしょう。

実は、その「私は阿弥陀仏を信じている。疑っていませんよ」
という心そのものが、疑い、逃げ回っている姿なのです。
なぜでしょうか。


信じる心も念ずる心もないのが私たち


阿弥陀仏は、
「すべての人は、煩悩具足で罪悪深重、
まことの本願を信ずる心も念ずる心もない」
と私たちを見抜かれています。

まことの心がカケラでもあれば、
そのまことの心でまことの本願を信ずることもできましょうが、
骨の髄まで煩悩に染まり切った私たちには、
まことを信ずる心は全くありません。

ゼロなのです。
だからこそ弥陀は、「信ずる心も、念ずる心もおこしてみせる」
と誓われています。

蓮如上人は、こう言われています。


信ずる心も念ずる心も、
弥陀如来のご方便より発さしむるものなり

          (御文章二帖目一通)


阿弥陀仏は、私たちを“煩悩の塊”、
つまり“不実の塊”だと見られている。
不実の者は、不実のことは信じても、
真実をはねつける。
それなのに「いや、私は阿弥陀さまを信じている」
とうぬぼれています。
それは「阿弥陀仏は、素直に信じている私をご存じないのでは」
と無上仏(阿弥陀仏)を疑っている心です。
弥陀の本願を疑い、背を向けて逃げる私たちは、
迷いながら迷いに気づかず、
疑いながら疑っていることに気づきません。
逃げ回って堕ちていく先は地獄。
何と哀れな者よ、とても見捨ててはおけぬと、
弥陀は何とか助けてやりたいと私たちを、
追いかけ回し、引っ捕らえて、
浄土往生間違いない身(絶対の幸福)に救ってくださるのです。


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苦しみがやまない原因は?


阿弥陀仏の本願を疑う心のみを「疑情」といいます。
人や物を疑う心とは違います。

この「疑情」こそが苦悩の根元だと親鸞聖人は、
こう教示されています。


還来生死輪転家(生死輪転の家に還来することは)
決以疑情為所止(決するに、疑情を以て所止と為す)

                               (正信偈)


まず「生死輪転の家に還来する」からお話しましょう。
安心、満足というゴールのない円周を、
限りなく回って苦しんでいるさまを、
「生死輪転」とも、「流転輪廻」ともいわれます。
私たちは車の輪が回るように、
同じところをグルグル回り続けている。
そんな一生をトンチで有名な一休さんは、
こう歌っています。
「人生は
食て寝て起きて 糞たれて
子は親となる 子は親となる」
食べたら出す。
出しては食べる。
台所と便所の往復です。


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疲れた体を横たえたら、もう朝。
寝ておりたい。けれど仕事がある。
せわしなく一日が過ぎ、気づけばもう寝る時間。
布団の上げ下げの人生は、
まさに同じことの繰り返しではないでしょうか。
来る日も来る日も、「食て寝て起きて」の反復ならば、
「生まれてきてよかった」の満足などあろうはずがありません。

そうやって親になり、生まれた子供もまた、
おなじように親になる。
天下人、家康でさえ、
「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」
と告白しています。
苦しみの重荷を下ろせず、
果てしない流転の道(遠き道)を歩き続ける人生だった、
との嘆きです。
苦しみは、なぜ、やまないのでしょうか。


私はもう、釣りをしているよ。


「どんな和歌でも、これを下の句にすれば、
皆、納得する」
と室町時代の歌人がいう。
その言葉とは「それにつけても金の欲しさよ」。
試しに一つ。
「朝夕の飯さえこわし やわらかし 
それにつけても金の欲しさよ」
現代でもしきりに、
「もっと金があればなあ」の嘆きが聞こえてきます。
他にも、「マイホームが欲しい」
「もっと認められ、出世したい」
「恋人さえできれば」などなど。
ほとんどの人が苦しみの原因をそこらに見定めて、
それを得ようと、懸命に努力しているが、
果たして幸せになれるのでしょうか。
考えさせる小話があります。


レマン湖のほとりでスイス人が釣りをしている。
ところが全く釣れない。
しばらく見ていた日本人が、
「釣れませんね。いっそ底網をかけてバーッと取ったらどうです」
と提案した。
「底網かけて捕ってどうする」
とスイス人。
「市場で売れば大もうけできる」
「儲けてどうする」
「景色がいいからこの辺の別荘を買えばいい」
「別荘を買ってどうする」
「のんびり釣りでもすればいい」
すると、スイス人。
「私はもう、釣りをしているよ・・・」


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フィギィア・スケートの女王と持てはやされたキム・ヨナ選手
オリンピック後のインタビューで、試合後に見せた万感の表情を
「ずっと我慢してきたことが涙となってあふれ出た」と説明した。
我慢してきたこととは?続けてこう語った。
「スケートを見るのも嫌になって随分たつ」
「競技や、翌日の練習の心配なく生活できること、
軽い気持ちで未来を考えて生活できるだけで今は快適」
「(パンなど)もう好きなだけ食べることができる」
世界トップアスリートが涙を流すほどの喜びは、
“普通の生活ができる”こと。
レマン湖の例になぞらえるなら、
こう言えるかもしれない。
「普通の生活なら、もうしてるよ」


今日、日本で最も権威ある文学賞の一つ「芥川賞」は、
芥川龍之助の業績をたたえて創設されたものですが、
芥川自身は「人生は地獄よりも地獄的である」(侏儒の言葉)
と胸のうちをさらけ出し、最後は自殺しています。
35年の一生でした。
文豪・夏目漱石
「人間は生きて苦しむ為めの動物かもしれない」
と妻への手紙に本音を漏らしています。
金や地位、名声などを得ても、
苦しみはやみません。
人間の苦悩の根っこはもっとずーっと深いのです。

家を離れて生きられないように、
離れ切れない苦しみを親鸞聖人は「家」に例え、
「終わりなき苦しみ」を
「生死輪転の家に還来している」
と言われています。


親鸞聖人の明答


では、人生を苦に染める元凶は何でしょう。
親鸞聖人の解答は、驚くべきものです。
決するに、疑情を以て所止と為す
「疑情ひとつ」と断言される。
「決するに」「所止と為す」の断定には迷いがありません。
和讃にも、
流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき
                 (高僧和讃)
と教えられ、苦悩(流転輪廻)がやまない(きわなき)原因は、
「疑情のさわりにしくぞなき」
と言われています。

「しくぞなき」も「これひとつ」の断定です。
「苦悩の根元は、これひとつ」の「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」のこと。
予想もつかぬところに、苦悩の真因があったのです。


この真実を一体、誰が知るでしょう。
この「疑情」が破れ、過去無量劫からの迷いを断ち切られた
親鸞聖人の魂の叫びが、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言(阿弥陀仏の本願)」
なのです。
アニメーション『世界の光・親鸞聖人』
第一巻の最後の場面で、
その喜びをこう告白されています。
不思議なるかなや、不思議なるかなや。
弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり」
「あぁ、多生にも、値(あ)い難き本願力に、今値えたり。
億劫にも、獲難き真実の信心を、今獲たり」

本願、まことだった。まことだった


疑情が浄尽(じょうじん)し、
「露ちりほどの疑心」のなくなった人は、
二度と迷わぬ絶対の幸福に生かされる。
これを蓮如上人は、
「この心の露塵程も疑なければ、
必ず必ず極楽へ参りて、美しき仏とは成るべきなり」
と言われるのです。
この疑情を晴らすには、
阿弥陀仏の本願を聞くよりほかにありません。


おなじくアニメの第一巻で、法然上人はこう説かれています。


「釈尊が、この世にお出ましになったのは、
阿弥陀仏の本願一つを、説かんがためでありました。
この法然も、弥陀の本願によって、救われたのです。
13歳で出家してより、27年間、比叡での難行・苦行も、
京都・奈良で学んだ、華厳・法相などの学問も、
この法然の後生の一大事の解決には、なりませんでした」
「泣く泣く山を下りました。
黒谷で、7000余巻の釈尊の説かれた経典をひもとくこと、5回。
法然のような者でも助かる道がなかろうかと、
探し求めました。
そして、ついに、私一人を助けんがための、
阿弥陀仏のご念力が届いた一念に、
法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救い摂られたのです」
「その不思議、その驚き、尊さは、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く、
阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。
いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、
救われるのです。よくよく聞いてください」

このように、アニメーション『世界の光・親鸞聖人』の中で、
親鸞聖人、法然上人といった方々が説法されていますから、
このアニメを見せていただくままが聴聞です。
苦しみ迷いの打ち止めをするには、人間に生まれ、
仏法を聞かせていただく以外ありません。
「弥陀の本願まことだった」と疑情が晴れ渡り、
必ず浄土へ往ける身になるまで、
阿弥陀仏の本願を、真剣に聞かせていただきましょう。


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我々は死刑前夜のパーティで浮かれている。 [阿弥陀仏]

  (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。 

重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と)
                    (親鸞聖人・正信偈)

今回は、この一行について学びましょう。
これは、
「重ねて誓うらくは、『名声、十方に聞えん』と」
と読みます。
「重ねて誓う」とは、
「阿弥陀仏が、重ねて約束なされている」
ということです。

本師本仏の阿弥陀仏は、
「すべての人を
平生に必ず助ける
絶対の幸福に」
と、凄いお約束をなされています。

これを「阿弥陀仏の本願」といわれます。
「本願」とは「誓願」とも言われるように、
「約束」のこと。
『歎異抄』冒頭に「弥陀の誓願」と言われているのも、
この「阿弥陀仏の本願」のことです。

約束には、必ず相手がありますが、
阿弥陀仏の約束の相手は、「十方衆生」。
すべての人と、誓われているのです。
この中に入らない人は、一人もありません。

今、キリスト教を信じている人も、
イスラム教の人も、ユダヤ教の信奉者も、無宗教の人も。
アメリカ人、イギリス人、日本人、
中国人、アフリカ人も、すべて。
相手構わず、一切差別のない
「弥陀の本願」ですから、
『歎異抄』には、

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず(第一章)

と説かれています。
男も女も、老いも若きも、慈善家・殺人犯、
頭の善し悪しなどは、まったく関係ない。
阿弥陀仏は、古今東西の全人類と、
約束されているのです。
しかも、その内容が凄い。
「死んだらお助け」ではありません。
「現在ただ今」救い摂る。

どんな極悪人も、平生の一念に、
「絶対の幸福」に助け切る

という、とてつもないことを誓われています。
こんな約束のできる方は、
大宇宙に無数の仏方ましませども、
本師本仏の阿弥陀仏だけ
ですから、
親鸞聖人は「弥陀の本願」を「無上殊勝の願」とか
「希有の大弘誓」と、『正信偈』に絶賛されています。

生きるのは、変わらぬ幸せになるため

ここで、「必ず救う」と弥陀が誓われている、
「絶対の幸福」とは、どういうことでしょうか。

生きる目的は幸福だパスカルも言います。
自殺するのも楽を願ってのことであり、
政治も経済も、科学、医学、すべての営みは、
幸せのほかにはありえません。
これに異論を唱える人はいないでしょう。

ドラマでも、事件が落着してようやく
娘の家庭に平穏が訪れた時、
親父さんが娘の両手を握って、
「いいか、○○子、この幸せ、離したらアカンで!!」
と語るシーンがありました。

人は皆、不幸や災難を厭い、
安心や満足を求め、手にした幸せは
いつまでも続いて欲しいと願って、
生きているのです。

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ところが、私たちの追い求める喜びは、
変わり通しで、やがては苦しみや悲しみに変質し、
崩壊、無に帰することさえあります。
恋のトキメキや結婚の喜びは、どれだけ続くでしょう。

相手がいつ病や事故で倒れたり、
変心して破鏡の憂き目にあうかも知れません。

幸せは、指の間から砂がこぼれ落ちるように消えていく。
最愛の人との突如訪れる離別や死別。
生涯かけて築いた家もマッチ一本で灰になり、
昨日まで団欒の家族の家庭も、交通事故や災害で、
「まさか、こんなことになろうとは・・・」
天を仰いで茫然自失。

辛い涙の現実が溢れてはいないでしょうか。

中国四川省の大地震は、深刻な被害をもたらしました。
崩壊した校舎の瓦礫を前に、
見つからぬ我が子の名を呼び続け、
泣き叫ぶ母親の映像に、
誰もが胸ふさがる思いをしたでしょう。

岩手・宮城内陸の震災でも、
「何もかも無くなってしまいました」
と嘆く被災者が映し出されていましたが、
決して他人事ではありません。
瓢箪の川流れのように、
今日あって明日どうなるか知れぬ幸福は、
薄氷を踏む不安がつきまといます。

たとえしばらく続いても、死刑前夜のパーティーで、
総崩れの終末は、悲しいけれど避けられません。

まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ 

                    (御文章)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。
財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、
日頃、あて力にしている妻子や財宝も、
いざ死ぬときには何一つ頼りになるものはない。
一切の装飾ははぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、
一体、どこへゆくのだろうか

蓮如上人の警鐘乱打です。

風前の灯火のような幸せ求めて、
今日も人はあくせく苦しんでいる。
悲劇の滝壺に向かっているすべての人を、
阿弥陀仏はご覧になられて、
「なんとしても助けてやりたい。
絶対に崩れぬ大安心・大満足の身に、必ず救い摂ってみせる。
若し平生に、真っ暗闇の心を、
絶対の幸福に生まれ変わらせることができなければ、
この弥陀は仏のさとり(正覚)を捨てる」
(若不生者不取正覚)
と、「平生の救い」に命を懸けて誓われているのが、
「弥陀の本願」です
から、
親鸞聖人は「若不生者のちかい」とも讃嘆されているのです。

この誓いを果たすために、
阿弥陀仏が大変なご苦労をなされて完成されたのが、
「南無阿弥陀仏」という六字の名号です。

重ねて誓われたのは、疑心を晴らすため

阿弥陀仏は、こう誓われています。

「すべての人を絶対の幸福にする力のある
『南無阿弥陀仏』の名号を、必ず作ってみせる。
私の完成する名号の素晴らしさを、
大宇宙にただ一仏でも、
褒めない仏さまがもしあるならば、
私は仏のさとりを捨てる」

大宇宙のすべての仏(十方諸仏)が褒め称える「名号」とは、
十方諸仏が“助けることができない”と見捨てたすべての人を、
助ける力のある「名号」のこと。

釈迦も、大日如来も、薬師如来も、
ビルシャナ如来も作ることができない「名号」、
十方諸仏の誰も成就できない、
そんな「南無阿弥陀仏」を完成させてみせると、
弥陀は命を懸けて約束されているのです。

ところが、そう聞いても、迷いの深い私たちは
「本当だろうか、そんなことができるのだろうか」と疑う。
そこで阿弥陀仏は重ねて、
「必ず、名号を作ってみせる。間違いなく完成させるぞ」
と誓っておられる
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「重誓名声(みょうしょう)聞十方」
(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と)
と教えてくださっているのです。

「名声(みょうしょう)」とは、
「南無阿弥陀仏」の名号のこと。
「十方に聞えん」とは、
「その名号の素晴らしさを、大宇宙のすべての仏に、
褒め称えさせる」ということです。

それは、大宇宙のすべての人(十方衆生)に
名号の大功徳を聞かせ、受け取らせて、助けるため。
ですから、
「重ねて誓うらくは、『名声、十方に聞えん』と」
とは、
阿弥陀仏は、十方諸仏の褒め称える『南無阿弥陀仏』を、
必ず作ってみせる、
と命を懸けて約束されているのだ。
『絶対に間違いない、必ず完成させる。
そして苦しみ悩むすべての人に、その功徳の宝を与えて、
絶対の幸福に救ってみせる』と、
重ねて誓われているのだよ」
と仰っている、親鸞聖人のお言葉です。

名号は、すでに完成されている

では、阿弥陀仏は、約束されているとおりの「南無阿弥陀仏」を、
もう完成されているのでしょうか。
お釈迦さまは、こう証言されています。

十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の
威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう

            (大無量寿経)

大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほど沢山の仏方が、
異口同音に、阿弥陀仏の作られた『南無阿弥陀仏』に名号の、
想像できない大功徳を褒め称えておられるのだ」
このとおり、すでに阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」
を完成されていることが分かります。

お釈迦さまのお言葉ですから、間違いありません。
親鸞聖人は、弥陀が完成なされた、
私たちを一念で絶対の幸福に救い摂る、
この「六字の名号」の大功徳を、
「功徳の大宝界」とか「本願の大智海」とも
『正信偈』に讃嘆され、蓮如上人は平易に、
こう詳解されています。

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功徳のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

                (御文章)

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする
絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである

医者が薬を作ったのは、患者に与えるため

ところが、いくら素晴らしい「南無阿弥陀仏」が完成されていても、
私が受け取らねば、私は助かりません。

ちょうど、どんな病気でも治す力のある薬がすでに完成していても、
患者がそれを飲まなければ、病気は治らないのと同じです。

医者が薬を作るのは、それを患者に与えて、
患者の病気を助けるためだからです。
阿弥陀仏が、無上の宝である「南無阿弥陀仏」
を作られたのは、私たちに与えて、
「絶対の幸福」に救うためです。

では、どうすれば、私たちは「南無阿弥陀仏」の大功徳を、
阿弥陀仏から受け取らせていただけるのでしょうか。

それ一つを説かれたのが仏教であり、
仏教の真髄を明らかにされた親鸞聖人です。

『正信偈』には、その聖人九十年の教えが、
圧縮されています。
次号、解説を続けましょう。

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弥陀の光明は太陽も、月の光も超越する! [阿弥陀仏]

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀仏に親鸞、救われたぞ
阿弥陀仏に親鸞、助けられたぞ」
と、絶対の幸福に救い摂られた親鸞聖人が、
「どうして極悪の親鸞が、
こんな幸せな身に救い摂られたのか。
それは救いたもうた阿弥陀如来が、
もの凄いお力の仏さまであったからなのだ」

と、弥陀のお力を十二の働きに分けて絶賛されているのが、
この六行です。

「十二光」といわれています。
「光」とは仏教で仏さまのお力を表されます。
前号で「智慧光」まで解説しました。
今回は「不断光」「難思光」「無称光」「超日月光」
について述べましょう。

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不断光

不断光」とは、「途切れることのないお力」
ということです。

一念で阿弥陀仏に救い摂られたことを
「信心決定」とか「信心獲得」「信心を獲る」
といわれますが、
阿弥陀仏から賜ったその「他力の信心」が、
死ぬまで変わらずに続くのです。
弥陀に救い摂られるまで(信前)は、
自分で何とか途切れないように、続かせようとしている。
これを自力といわれます。
「仏法のことを思おう」「忘れないようにしよう」
と努力しているのです。

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ところが、弥陀に救われてから(信後)は、
私が忘れないように努めているのではない、
「他力の信心」が私を死ぬまで導いてくだされる。
仏法のことを忘れている時も、
何を思っている時も「信心」が変わらないのは、
阿弥陀仏の「不断光」の働きによるのです。

蚊取り線香に火をつけると、火の力で最後まで進みます。
火を押して「もっと進め、ここを燃やせ」と努力しなくても、
火はそのまま最後まで燃えるでしょう。
一念の信心の火がつくと、その後、
続かせようとしなくても、
全く仏法と別なことを思っている時も、
信心は死ぬまで続いてくだされる。
救われるまで(信前)とは、まるで逆になるのです。
これもまた例えですが、昔はよく、馬子(まご)が馬を引き、
その馬に人や物をのせて運んでいました。

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この場合、主人は馬子であり、
その主人に馬が引かれている、という状態です。
信前はそのように、私が主人となって、
信心を引っ張ろう、引っ張ろうとしている。
「ほかのことを考えないようにしよう」
「仏法のことを思おう、思おう」としているのです。
ところが、他力の信心を獲得してから(信後)は、
その信心が主人となって、
私が引っ張られ生かされる人生に変わってしまう。
蓮如上人はこれを、次のように教えられています。

「『一念の信心を獲て後の相続』というは、
更に別のことに非ず、はじめ発起するところの安心(あんじん)に
相続せられて、
とうとくなる一念の心のとおるを、
『憶念の心つねに』とも、『仏恩報謝』ともいうなり。
いよいよ帰命の一念、発起すること肝要なり」
と仰せ候なり
               (御一代記聞書)

●難思光

「難思光」とは、文字どおり、「想像もできないお力」
ということです。

食いたい、飲みたい、楽がしたい、
金が欲しい、名誉が欲しい、女が欲しい、
男が欲しいと、自分の欲望を満たす「相対の幸福」
しか思っていない私たちには、「絶対の幸福に救い摂る」
という弥陀の本願力は、想像を超えています。

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「この世はどうにもなれない」「絶対の幸福に助かった、
ということなどあるはずがない」「人生に、完成も卒業もない」
と思い込んでいるすべての人にとって、
「平生の一念に、人生の目的を果たさせる」
という弥陀のお力は、人智を超越していますから、
「難思光」と言われるのです。

●無称光

「無称光」は、「言うことができないお力」
ということです。

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親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた世界を、
何とか伝えようとなされたのですが、
不完全な言葉で伝えることはできないと、
絶望への挑戦であったに違いありません。

この、心も言葉も絶えた世界を、「大信海」と高らかに、
次のように讃嘆されています。

大信海を按ずれば、貴賎・緇素(しそ)を簡ばず(えらばず)、
男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、
修行の久近(くごん)を論ぜず
            (教行信証)
“貴いとか賤しいとか、僧侶とか俗人とか、
男女、老少、罪の軽重、善根の多少など、
大信海の拒むものは何もない。
完全自由な世界である”
と明言し、続いて「非ず」を14回も重ねて、
一切の人智を否定されています。
想像も言語も絶えた「真実の信心」の、
ギリギリの表現に違いありません。

行に非ず・善に非ず・頓(とん)に非ず・漸(ぜん)に非ず、
定(じょう)に非ず・散に非ず、正観に非ず・邪観に非ず、
有念(うねん)に非ず・無念に非ず、
尋常に非ず・臨終に非ず、多念に非ず・一念に非ず。
ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽なり
              (教行信証)

言葉の絶える笑話があります。
炭火を運ぶ小僧がつまずいて、思わず火の粉が足の上にこぼれた。
アチチ!と飛び跳ねる小僧を面白がって、
いじわる和尚が問答しかける。
「こりゃ小僧。アチチ!とは、いかなることか言うてみよ」
「はぁ、はぁ」
と返事はするが、なんとも言いようがない。
「それぐらい説明できぬようでは、和尚にはなれぬぞ」
と大喝すると、窮した小僧、とっさに残り火を
和尚のツルツル頭めがけてふりかけた。

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「アチチ!アチチ!なにをするか、バカもん!」
和尚たまらず怒鳴りつける。
すかさず小僧、
「和尚さま。アチチ!ということを説明してみなされ。
それぐらい講釈できぬようでは、和尚とはいえませぬ」
と打ち返したという。
月並みの体験でも、その表現に困惑するのがよく分かります。
ましてや言葉にもかからず、文字にも表せず、
思い浮かべることさえできぬ大信海を、
懸命に伝えようとされる聖人ですが、とどのつまりは、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)」
としか言いようがなかったのです。

●超日月光

「超日月光」とは、「日月を超えた光」ということで、
阿弥陀仏の光明は、昼間いちばん明るい太陽の光も、
夜最も明るい月の光も、はるかに超越していることを
讃嘆されているお言葉です。

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「日も月も 蛍の光さながらに
   行く手に弥陀の光かがやく」

これは、先の大戦後、A級戦犯として刑場の露と消えた東条英機が、
死の直前に歌ったものといわれます。

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エリート軍人として駆け上がり、
抜群の記憶力から「カミソリ東条」
と呼ばれていた彼は、独裁内閣を築きました。
戦争を主導し、赫々(かっかく)たる戦果を上げていた時は
騎虎(きこ)の勢いでしたが、
敗戦するや犯罪人として巣鴨刑務所の独房に収監されます。
板敷きの上にワラ布団を置き、毛布5枚のほか、
何も持ち込めない。
そこには、かつての総理大臣、陸相、参謀総長、内務、
文部、軍需、外務の各大臣を歴任した威厳は微塵もありませんでした。
孤影悄然(こえいしょうぜん)たる姿は、
人間本来の実相を見せつけられた思いであったでしょう。
世人のつけた一切の虚飾をそぎ落とされたそこにあるものは、
か弱き葦のような、罪悪にまみれた自己でしかありませんでした。

戦犯の9割が仏教徒だったことから、
刑務所では浄土真宗の布教使が教誡師として
法話をすることになりました。
東京は30度を越える暑さの中、
風も入らぬ蒸し風呂のような仏間で東条は、
扇子も使わず、身動き一つせずに聴聞していたといいます。
顔からダラダラ流れ落ちる汗を、ぬぐおうともしない東条の真剣さに打たれ、
布教使も汗まみれで法話を続けました。
獄中で親鸞聖人の教えを聞法し、
多生にもあい難い弥陀の本願を喜ぶ身となった東条
は、
よく『正信偈』を拝読し、人にも勧めていたといいます。
(※弥陀の本願喜ぶ身とは、弥陀に救われたこと)
それで、弥陀のお力を「超日月光」とも
言われることを知っていたのでしょう。

絞首台の階段を上る前に、残した辞世が先の
「日も月も蛍の光さながらに」の歌です。
この世で最も明るい日の光も、はるかに超え勝れている弥陀の光明を、
親鸞聖人は「超日月光」と言われているのです。

●すべての人が救われる

阿弥陀仏は、これら十二の光を大宇宙に普く放って、
塵刹を照らしてくだされているのだよ

と言われているのが、

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
の5行です。
「塵刹」とは、「チリのような世界」ということ。
大宇宙の中では、この地球も塵芥(ちりあくた)の一つに過ぎません。
宇宙はちょうど、大きな部屋にたくさんの塵が
浮かんでいるようなものです。
カーテンのすき間から陽光が差し込んで、見えることがありますね。
地球は、浮かんでいる塵の一つ。
そこに70億人の人が住んでいるのです。
「塵刹を照らす」とは、その大宇宙のすべての世界を
照らしてくだされている、ということです。そして、
「すべての人が、このような弥陀の光明のお育てにあずかって、
必ず無碍の世界へ出させて頂くことができるのだ。

皆人よ、どうか親鸞と同じように、
『帰命無量寿仏如来 南無不可思議光』と叫ばずにおれない身に、
早くなってもらいたい」
と、阿弥陀仏の偉大なお力を讃えられている、
『正信偈』のお言葉です。


 


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すべての仏に喜びまもられる大安心の身に [阿弥陀仏]

阿弥陀仏に救われたらどうなる?

すべての仏に
 喜びまもられる
  大安心の身に

頻発する豪雨、地震、不可解な凶悪事件や生活物資の値上げ、
年金・福祉から個別に抱える問題に至るまで、
私たちは日常に、大小さまざまな不安を感じています。
立場の差はあれ、そんな心配と無縁な人はないでしょう。

仏教は、それら不安の根本を解決する教えですが、
どうして不安がなくなるのでしょう。

今回は親鸞聖人が詳しく示されたお言葉から学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●親鸞聖人の実体験
   「皆さんも、早く同じ幸せに」

阿弥陀仏に救われると、どんな幸せに生かされるのでしょうか。
親鸞聖人は、

「南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益(りやく)きわもなし」
       (現世利益和讃)
“弥陀に救われ念仏する身になれば、
この世で、限りない大功徳大利益(りやく)を頂いて、
幸せ一杯、満足一杯で生活させてもらえるようになるのだよ

「こころは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)
心は弥陀のお浄土へ往ってあそんでいるように、
明るく愉快なのだ

とおっしゃっています。
「苦悩の絶えない人生に、そんな喜びがあるものか」
「単なる空想の物語ではなかろうか」
だれでも疑問に思うでしょう。
しかし親鸞聖人は、ご自身の上に確認されていないことを、
推測で述べられる方ではありません。
これらは聖人の生々しい実体験の告白であり、
同時に、「早く皆さんも、こんな幸せな身になってくれよ」
と勧めておられるお言葉なのです。

●この世で獲られる十の利益(りやく)

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では聖人が、「きわもなし」と証言されている「利益」とは、
どのようなことでしょうか。
弥陀から賜る無限の幸せを、
十にまとめて教えられているのが、
有名な「現生十種の利益」です。

「現生」とは、死後ではなく、「現在、生きている時」。
「利益」は仏教で「幸福」のことですから、
「現生十種の利益」とは、この世で弥陀から頂く
十の幸せを言われるものです。

主著『教行信証』には、
「金剛の真心を獲得する者は、
横に五趣・八難の道(どう)を超え、必ず現生に十種の益を獲(う)。
何者をか十と為る(する)」
と説かれ、十の利益を教えられています。
「金剛の真心」とは、
「金剛石(ダイヤモンド)のような硬い、真実の信心」のこと。
弥陀に救い摂られると、いかなる人から
どんな非難攻撃を受けようとも微動だにせぬ、
金剛石のような不壊不変(ふえふへん)の信心を賜りますから、
「弥陀に救われた」ことを、
「金剛の真心を獲得する」と言われているのです。
次に「横」とは、仏教で「他力」(阿弥陀仏の本願力)を表します。
「横に五趣・八難の道を超え」とは、
「阿弥陀仏のお力によって、
永の迷いの打ち止めをさせられた」こと。
その人は必ず、この世で十種の幸福を頂くのだ
と言われているのが、「必ず現生に十種の利益を獲」というお言葉です。
「必ず」ですから、「十の利益を頂く人もいる、
頂かない人もいる」というものではありません。
「阿弥陀仏に救われた人(金剛の真心を獲得する者)」は、
間違いなく、頂けるのです。
今回は、その「現生十種の利益」の中で、
「護られる幸せ」という点で共通している、
次の三つの利益を中心にお話いたしましょう。

①冥衆護持の益
④諸仏護念の益
⑥心光常護の益

「護持」「護念」「常護」とは、
いずれも「護られる」ということです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すべての仏、菩薩、諸神に護られる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●夜昼つねに休みなく
     冥衆護持の益

初めの「冥衆護持の益」とは、「冥衆」の「冥」は、
“片明かり”を表す字で、ちょうど夏のスダレのように、
「一方からは見えるが、もう一方からは見えない」
状態をいいます。
「冥衆」とは、あちらからはこちらが分かる、
そういう世界の人たちのことで、
「諸神」と「菩薩」のことです。
「諸神」とは、仏教で教えられる色々の神、
「菩薩」は、仏のさとりを求めて努力している人、
具体的には観音菩薩や勢至菩薩、地蔵菩薩など。
阿弥陀仏に救われると、これらもろもろの神や菩薩たちが、
護ってくだされる幸せを、「冥衆護持の益」と言われているのです。

分かりやすく親鸞聖人は『ご和讃』に、

「南無阿弥陀仏をとなうれば
梵王帝釈帰敬す
諸神善神ことごとく
よるひるるねにまもるなり」

阿弥陀仏に救われて、お礼の念仏を称える身となった人は、
梵王・帝釈が敬い、諸天・善神が皆、夜昼常に護ってくだされ、
心配のない生活をさせていただけるのだ

と教えられています。
「夜昼、常に」ですから、24時間、無休です。
ほかにも

「南無阿弥陀仏をとなうれば
四天大王もろともに
よるひるつねにまもりつつ
よろずの悪鬼をちかづけず」
「天神地祇(てんじんちぎ)はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり」

と、「四天大王」「善鬼神」などの神々に護られる利益を証言され、
また、

「南無阿弥陀仏をとなうれば
観音勢至はもろともに
恒沙塵数(ごうじゃじんじゅ)の菩薩と
かげのごとくに身にそえり」
と、観音菩薩や勢至菩薩、ガンジス河の砂の数ほど沢山の菩薩方が、
影のように離れず護ってくだされている
大安心の心境を、告白されています。
このように、数限りもない冥衆(神々や菩薩方)が、
私たちのほうからは見えませんが、
向こうからは私たちの一挙手一投足まで
よくみそなわし護ってくだされるのだと、
親鸞聖人はおっしゃっているのです。

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●「どうか護らせて
     ください」
     諸仏護念の益

次に「諸仏護念の益」の「諸仏」とは、
大宇宙に無限にまします仏方のこと。
最高無上の仏覚を開かれた方々ですから、
「冥衆」よりも上の方です。
大日如来、薬師如来、ビルシャナ如来はじめ、
『阿弥陀経』には六方(東西南北上下)にまします
恒河沙(ごうがしゃ)の仏の名が説かれていますが、
それら大宇宙の無数の仏さま方に護られ、
大安心の生活させていただける幸せを、
「諸仏護念の益」と言われるのです。

この利益に生かされた聖人は、

「南無阿弥陀仏をとなうれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまうなり」

阿弥陀仏に救われたならば、
大宇宙にまします数え切れないほどの沢山の仏方が、
百重にも千重にも取り巻いて、
護ってくだされるのだ
”と高言されています。
「よろこびまもりたまうなり」ですから、
イヤイヤ仕方なく、ではない。
義理や仁義で護るのでもありません。
諸仏方のほうから、
「どうか護らせてください。お願いです」
と言われるのですから驚きです。
では、欲や怒りや愚痴一杯の、
お粗末な私たちを、なぜ諸仏方が護ってくだされるのかといえば、
それは
「我々の先生である、本師本仏の阿弥陀仏に助けてもらった、
尊い人だ」
と、諸仏が護ってくだされるのだよ。

私を助けたもうた阿弥陀仏が、
最高に尊い方だからなのだ。

だから弟子の諸仏方は幾重にも囲んで、
夜昼常に、喜び一杯護ってくだされるのだよ、
こんな大安心がほかにあろうか、といわれているのです。

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ですから、阿弥陀仏に救い摂られると、
あらゆる恐怖観念から解放されて、明るくたくましく
生き抜くことができるのです。

病気なども静かに安堵して療養できるから、
全快も早くなります。
最近の医学では、従来純粋に器質的な病気とされていた目の病気、
皮膚病、心臓病、糖尿病、結腸炎、じんましん、ぜんそく、
そのほか、精神と何の関係もないように考えられる病気も、
心配やイライラした気持ちの連続など、
精神的なものがかかわって引き起こされているともいわれます。
古人の言にも、病気は病と気からである、
とあり、米国のジョン・A・シンドラー博士も、
「良い感情は最良の薬である」
「快い感情は奇蹟的に作用する」
と言っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある働き盛りのサラリーマンが、夜明け方、
手洗いに起きて中庭へタンを吐いた。
それが真っ赤だったので、びっくり仰天。
てっきり結核と思い込んだ彼は、ヘナヘナと、
その場に座り込んでしまった。
いつまでも帰らぬ夫を案じて起きてきた妻が、
それを見つけて、ようやく寝室まで連れ戻し、
頭に手をやると相当の熱だ。
早速、医者を呼ぶなどしての大騒ぎ。
ワケを聞いた妻が、よくよく庭に出て確かめてみると、
散った椿の花の上に、タンを吐いたことが分かった。
真相を話すと、たちまち熱は下がり、
ケロリとした本人は、張り切って勤めに出かけたという。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
精神的な立ち直りが、その人の生活のすべてに好影響を与え、
職場の人々とか取引先のような対人関係も自然に好転し、
したがって経済的にも恵まれるようになるのです。
ところが、こんなことはだれでも一応承知しているのですが、
そんな心になれないのが人間の常ではないでしょうか。
悪いことと知りながら腹を立て、
いけないと思いながらクヨクヨ苦しむ。
このどうにもならない心に、
他力の妙用(みょうよう)によって安らかな明るさを
与えられるのが、
諸仏に護念される者の大利益(だいりやく)であり、
さればこそ聖人は、

「南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ」
      (現世利益和讃)

弥陀に救われ念仏を称えれば、
永らく苦しめてきた罪消えて、
当然受くべき大難や若死にからも免れ、
この世も幸せ一杯に暮らせるようになるのだ

と断言なされているのです。

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●こころは
   浄土にあそぶなり
      心光常護の益

ここまで、大宇宙のすべての諸神・菩薩・諸仏に護られる幸せについて、
親鸞聖人からお聞きしてきましたが、
さらに「心光常護の益」の「心光」とは、
阿弥陀仏のお力のこと。

助けてくだされた阿弥陀仏が、
「私に護らせてくれ」と護ってくだされるのが、
「心光常護の益」です。
これを親鸞聖人は、

「金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける」

「阿弥陀仏に救い摂られた一念」を
「金剛堅固の信心のさだまるとき」と言われ、
その時を弥陀が待ちかまえて、
摂め取って護ってくだされるのだ

と教示されています。
普通は、守ってもらうほうが守ってくださる方に、
「どうか守ってください」とお願いするものでしょう。
病気でいえば、患者が医者に「どうか助けてください」
と懇願するのが常識です。
逆に医者は患者に「どうかあなたを診察させてください、
治療させていください」と頼む話など、
聞いたことがありません。

“よくよくお慈悲を聞いてみりゃ、
助くる弥陀が手を下げて、
任せてくれよの仰せとは、
ほんに今まで知らなんだ”

とも歌われているように、阿弥陀仏は、
おまえたちに、助かりたいという
純粋な気持ちなんかこれっぽっちもないことを、
よーく知っているから、
どうか私に助けさせてくれ、護らせてくれ

と、助ける方が助ける相手に、
お願いなされている
のですから、
常識外れとしか言いようがありません。
まさに親鸞聖人が「超世の悲願」
(この世の常識を超えた弥陀の救い)
と絶賛されているとおりではありませんか。

このように、「諸神」や「菩薩」などの冥衆も、
その上の「諸仏」も、その諸仏の先生の「阿弥陀仏」も、
大宇宙のこれらの方々が皆、
「どうか護らせてください」と、
あちらから頭を下げておられるのです。

屈強なボディガードを何人も雇って警護してもらえば、
治安の悪い国でも安心できるでしょうが、
それはあくまでも仕事であり、お金のためです。
裏切られて暗殺されることもありますから、
不安はぬぐえません。
しかし「金剛の真心を獲得」した人には、
冥衆も諸仏も、本師本仏の阿弥陀仏も、
「夜昼つねに、よろこびまもりたまうなり」
四六時中、喜んで護ってくだされるのです。

「こころは浄土にあそぶなり」
心は極楽浄土へ往って遊んでいるように楽しいのだよ
と聖人が言われるのも、当然でしょう。

早く皆さんも弥陀の本願を聞き開き、
かかる大利益を弥陀から頂いて、
心は浄土に遊ぶ身になってくれよ、
と念じておられる、親鸞聖人の教えです。

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清浄光の働き [阿弥陀仏]

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

 

ここで親鸞聖人は、阿弥陀仏のもの凄いお力を
絶賛なされています。
阿弥陀仏は大宇宙くまなく、無量光・無辺光
・無碍光・無対光・光炎王光・清浄光・歓喜光
・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光
という十二の光明を放って

無数にある地球のような世界のすべての人々を、
照らしてくだされる。

その絶大なご念力に照育されて親鸞、
救い摂られることができたのだ。
なんという幸せ者なのか。
深重なる弥陀のご恩徳に、感泣せずにおれない」
弥陀に救われた聖人の慶びが、
一言一句にみなぎっています。

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では「弥陀の救い」とは、どんなことでしょうか。
それを知るために、まず『正信偈』とはどんなお聖教か、
お話ししましょう。
親鸞聖人が『正信偈』を書かれたお気持ちは、
「どうか皆さんに、知ってもらいたいことがある。
私亡き後の世の人々にも、なんとかして伝えたいことがある」、
これ以外にありませんでした。

「そのためにはどう書いたらよいのか、
どう表現したら分かってもらえるだろうか」
と、一字一涙の思いで筆を執られたのが
『正信偈』です。

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その「知ってもらいたいこと」とは、
何であったのか。
『正信偈(しょうしんげ)』という名前に明らかです。
「正信」は「正しい信心」、「偈」は「うた」ということですから、
『正信偈』は「正しい信心を表された偈」ということ。
親鸞聖人が、私たちに「なんとしても伝えたかったこと」
とは、「正しい信心」一つであったのです。

●「正しい信心を獲得せよ」
       聖人90年のメッセージ

せっかく聖人が「伝えたい」と言われても、
中には「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと
思われる人もあるかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ、
一日たりとも生きてはいけないのです。

例えば、明日も生きておれると、命を信じて生きています。
いつまでも達者でおれると健康を信じております。
夫は妻を、妻は夫を信じ、
子供は親を、親は子供を信じて生きております。

金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。
宗教を否定する共産主義者は、共産主義を信じている人たちです。
神や仏を信ずるだけが信心ではありません。
何かを信じておれば、それはその人の信心です。

何を命として信ずるかは一人一人違ってましょうが、
すべての人は何かの信心を持って生きているのです。
生きるということは、イコール信ずることだということです。

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ところが私たちは、信じていたものに裏切られた時に
苦しみ悩みます。

病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。
子供に老人ホームに入れられて泣くのは、
命と信じて育てた子供に裏切られたからです。
しかも深く信じていればいるほど、
それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。
こんな事件がありました。

米ロサンゼルス郊外の住宅で、
元ファンド投資家の男(45)が妻子ら5人を殺して
自殺する無理心中事件があった。
妻(39)と義母(69)のほか、19歳、12歳、7歳の息子3人の
計5人を自宅で射殺。
自殺した男を含めて6人の遺体が発見された。
遺書には、家計悪化が無理心中の理由だと説明。
捜査当局は、株価急落を目の当たりにして
家族殺害を決意したとみている。
男は過去に企業ファンド投資家として巨額の利益をあげ、
英紙に「勝ち組」として取り上げられたこともあったという。
急激な米経済の悪化を背景にした悲劇に衝撃が広がっている。
(平成20年12月のとどろきです。)

信じていたものに裏切られた懊悩(おうのう)は、
人を自殺や心中にまで走らせるのです。

●本当の幸福になりたければ

私たちは決して、苦しんだり悲しんだりするために
生まれてきたのではないし、生きているのでもありません。
幸福を求めて生きているのです。

では、裏切らないものを信じて、
私たちは生きているでしょうか。

たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、
私たちは最後、死なねばなりません。
いよいよ死ぬ時には、信じていた家族や、お金や財産、
名誉にも裏切られ、この肉体さえも焼いていかねばなりません。
蓮如上人はこう訓戒されます。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
                   (御文章)
“病にかかれば妻子が介抱してくれよう。
財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、
日頃、あて力にしている妻子も財宝も、
いざ死ぬ時には何ひとつ頼りになるものはない。

一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、
一体、どこへゆくのだろうか

やがて必ず裏切られるものを信じて生きているから、
苦しみ悩みが絶えないのだ、
本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない
正しい信心を獲なさいよと、親鸞聖人は教えているのです。

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正信偈の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。
正しいものは「一つしかない」ということです。
二つも三つもあるものではありません。
そのただ一つの正しい信心を、
親鸞聖人が明らかになされたのが、
この『正信偈』です。冒頭の、
「帰命無量寿仏如来
南無不可思議光」
(無量寿如来に親鸞、帰命いたしました。
不可思議光に親鸞、南無いたしました)
と言われている2行は、「正しい信心」を阿弥陀如来から賜って、
永遠に変わらぬ無上の幸せに救い摂られた聖人が、
その自身の実体験を、
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!」
と絶叫されているお言葉なのです。

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では、すべての人に「正信心」を獲得させ、
絶対不変の幸福に救いたもう弥陀のお力とは、
いかなるものなのか。

聖人が続けて『正信偈』に懇切に説き明かされているのが
「十二光」です。
「光」とは仏教で「仏さまのお力」を表し、
「光明」ともいわれます。
「十二光」とは、本師本仏の阿弥陀仏のお力を、
十二の特長に分けて教えられたもの。

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その中、5番目の「光炎王光」まで述べてきました。
今回は、次の「清浄光」についてお話しいたしましょう。

●清浄光

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「清浄光」とは、貪欲(欲の心)を照らしてくだされる、
弥陀のお力のことです。
「ヘソのない人がいても、欲のない人はない」
といわれるように、
私たちは、「あれが欲しい」「これも欲しい」
という欲の心一杯。
無ければ無いで欲しい。
有れば有るでもっと欲しいと、際限もなく求める心です。
食いたい、飲みたい、金が欲しい、男が欲しい、女が欲しい、
褒められたい、楽がしたい、眠たい。
満足を知らず、どれだけ手に入れても足りない。
欲深い人のことを、「あいつは汚い人だ」といわれるように、
欲は「汚い心」。
「汚い」というのは外見のことではなく、
欲の心が深いことをいうのです。

道警札幌中央署が25日、札幌市中央区の無職男(71)を
窃盗の疑いで現行犯逮捕した。
男は生活保護を受給しており、
犯行時、財布に約75万円の現金を持っていた。
調べに対し、「自分の金を使いたくなかった」と供述しているといい、
同署は生活費を浮かせて生活保護費を蓄えるために
万引きをしたとみている。
発表によると、男は同日午前11時50分ごろ、
同区内のスーパーでおにぎり、納豆巻き、洋菓子などの
食料品計14点(計約3000円相当)を盗んだ疑い。
男は着ていたジャンパーの中に次々と商品を入れ、
清算せずに店を出たため、気づいた警備員が追いかけて取り押さえた。
同署によると、持っていた現金は、
受給した生活保護費を少しずつためたものとみられ、
2つ折りの財布に入れてポケットの中に所持していた。

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75万円の現金を所持していた人が、3000円の万引き。
自分の金は、一円でも使いたくない。
こんな人のことを「欲深い、汚い人だ」と言いますが、
この人だけのことでしょうか。
自惚れているために分からないだけで、
すべて私たちは欲の塊なのです。

この汚い心を照らし出して、「お前はこんなに汚い心を持っているんだぞ」
と知らせてくだされる阿弥陀仏のお働きを、
清浄光」といわれているのです。

●欲深い私がどうして救われたのか

親鸞聖人は、弥陀の光明に照らし抜かれた自己の姿を、
こう告白されています。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、
名利の大山に迷惑して

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ああ、バカな親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、
大きな山ほどの名利の欲望に、
朝から晩まで振り回されて、
感謝もなければ懺悔もない。
なんと情けないことか

「愛欲」とは、男女の欲や、親子友人との愛情。
その愛したい愛されたい心の多いのを、
広い海に例えられています。
「沈没」とは、「浮かび瀬がなく、完全に沈みきっている」こと。
「愛欲の広い海におぼれ、沈みきっている親鸞だ」
と懺悔されているのです。
次の「名利」とは、「名誉欲」と「利益欲」のことで、
「名誉欲」とは、キレイな人と褒められたい、
能力を評価されたい、悪口言われたくない心。
「利益欲」とは、一円でも多く儲かりたい、
損したくない心。
財産が欲しい、他人の持たぬものを持ちたい。
これらの名誉欲・利益欲が大きな山ほどあって親鸞、
迷惑している」とおっしゃっています。
阿弥陀仏に救われ、ハッキリ照らされ知らされた自己を、
懺悔されているお言葉です。

それまでも、「愛欲、名誉欲、利益欲の深い自分だなあ」
とは思っていますが、
本当の「欲の心」というものがすべて知らされるのは、
弥陀の救いに値(あ)った時。

その汚い心を“汚い心”と照らして懺悔させ、
「こんな欲深い私が、どうして救われたんだろうか」
と喜びに転じてくださるのが、弥陀の「清浄光」の働きです。


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阿弥陀仏の救いは、だんだんではなく、即時に決する [阿弥陀仏]

憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば、)
自然即時入必定(自然に即の時に必定に入る)

(親鸞聖人の書かれた正信偈のご文です。 )

 

「弥陀仏」とは、本師本仏の「阿弥陀仏」のことです。
大宇宙にまします無数の仏方(十方諸仏)の師であり、
平たく言えば、一番偉い仏さまです。
「阿弥陀如来」とも「弥陀」とも言われます。
大宇宙最高の仏さまですから、
親鸞聖人は「無上仏」とも仰って、
広大なご威徳を讃仰なされています。
「本願」は「誓願」とも言われるように、
「誓い」であり「約束」のこと。
「弥陀仏の本願」とは、大宇宙の仏方の師である阿弥陀仏が、
「どんな人も われをたのめ 必ず絶対の幸福に救い摂る」
と誓われているお約束をいうのです。

『歎異抄』冒頭に、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
とある「弥陀の誓願」も、
この「阿弥陀仏の本願」のことです。

●阿弥陀仏は、なぜ本願を建てられたのか

私たちは毎日、何を求めて生きているのでしょうか。
“夢を実現するため”“まずは就職”“家族を養う”
“晩酌だけが明かりだ”“健康が一番”など
答えは十人十色ですが、
いずれも「幸福」を求めてのことでしょう。
少しでも不安を無くして明るく生きたい。
充実感が欲しい。
つまらない人生より楽しいほうがいい。
すべての人は、幸せになりたくて生きているのです。
これに異論を唱える人はないでしょう。
政治も経済も、科学も医学も、
芸術もスポーツも、法律も倫理も道徳も、
あらゆる人間の営みは、「どうすれば幸せになれるか」
の追求以外にありません。

ところが、現実はどうでしょう。
政権交代や内閣改造によって
私たちの人生の何が変わったでしょうか。
科学の進歩に比例して、
「幸せ感」もアップしているでしょうか。

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1950年代、日本でテレビ放送の始まった当初は、
一台20万という価格が
平均サラリーマンの年収に匹敵したため、
街頭テレビに多くの人が群がっていました。
テレビのある裕福な家庭には、
プロレス中継など人気番組に
近所中が寄り合い、歓声をあげていたそうです。
やがて量産され低価格になると爆発的に普及し
「一家に一台」、電気冷蔵庫・洗濯機と合わせて
“三種の神器(じんぎ)”と言われるようになりました。

放送開始から半世紀を経た今、
手元のパソコンや携帯電話、
また浴室や移動の車中でも
見ることができる、「一人に一台」の時代です。
画面は白黒からカラーへ、
ブラウン管から薄型液晶へ。
より精細な画質をとフルハイビジョンへ。
地デジ化の推進も、きれいな画像だけでなく、
データ通信によって視聴者が番組に参加できる、
通販を見ながらリモコン・ショッピングなど、
さまざまなメリットが訴えられています。
さらに現在、メーカー各社が鎬を削っているのが
“飛び出す映像”3D。
(平生23年の記事を載せています)
手で触った感覚まで再現しようとしているのですから、
驚きです。
そのうち、料理番組ではテレビから香りが漂い、
画面のゲストたちと一緒に試食できる時代が
来るかもしれません。
物が豊かになり、暮らしが快適になれば
「幸せ」になれる。
「便利」イコール「幸福」と信じて私たちは、
常に“ワンランク上の生活”を目指してきました。

では、それで真の満足を得られたでしょうか。
“世の中は 一つかなえば また二つ
    三つ四つ五つ 六つかしの世や”
と歌われるように、どこまでいっても満足できない、
何を手に入れても安心がない。
結局どこにもたどり着けないまま、
ゴールのない円周をグルグル回り続けているような感覚に
苛(さいな)まれてはいないでしょうか。

阿弥陀仏は、このように本当の安心も満足もなく、
苦から苦、闇から闇へとさまよい続けている私たちを
ご覧になられて、
「何のために生まれ、生きているのか、
分からないではないか。何としても助けたい。
人間に生まれてよかったと生命の大歓喜を与えてやりたい。
一人残らず、必ず本当の幸福に救ってみせる」
と、ただお一人立ち上がってくだされたのです。

この熱い誓いが「阿弥陀仏の本願」であり、
親鸞聖人は“苦海に人生を明るく渡す船”
に例えて、こう宣言されています。

生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
        (高僧和讃)

“苦しみの波の果てしない海に、
永らくさまよい続けてきた我らを、
弥陀大悲に願船だけが、
必ず乗せて渡してくださるのだ”

●まことなるかなや、弥陀の本願

次に「憶念」とは、「憶」も「念」も「おもう」ということです。
「念」は“明記不忘”とも言われ、
手帳にハッキリ記して忘れないように、
途切れることなく思い続けること。
弥陀の誓いに疑い晴れて、
大安心大満足に救い摂られた心が
途切れることなく続くのが「念」です。
この「念」から、縁にふれ折にふれ、
弥陀のご恩が時々思い出され喜ばれ、
合掌感泣させられるのが「憶」です。
例えると、「念」は地下水、
「憶」はその地下水から湧き出る井戸の水のようなもの、
といえるでしょう。
井戸から水が出るのは、地下水脈があってのこと。
地下水がなければ、どれだけ深く井戸を掘っても、
水は出てきません。
豊かな地下水があるからこそ、
所々に掘った井戸から、水が湧き出るのです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、
超世希有の正法」(教行信証)
“まことだった!本当だった!
絶対の幸福に救う弥陀の本願、ウソではなかった”
と救い摂られた人は、
必ず「どうしたらこのご恩に報いることができるのか」
という心がおきることを聖人は、
「憶念の心つねにして仏恩報ずるおもいあり」
と和讃されているのです。
無論、弥陀の本願に救われなければ「憶」も「念」も
ありませんから、
「憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば)」
とは、
「阿弥陀仏の誓いどおり、
絶対の幸福に救い摂られたならば」
と言われている一行です。

●「他力」の正しい意味は

続いて「自然」とは、「しぜん」と書いて、
仏教では「じねん」と読みます。
「他力」のことです。
世間では「他力」というと、他人の力や、
天地自然の力と思われています。
常識的に解釈して、
自分の力以外をすべて他力と思い、
太陽の働きや、雨や風や空気、その他自然の働きや、
自分以外の人間の力などすべてを
他力だと思っているのですが、
とんでもない他力間違いです。
なぜなら、もし太陽やその他の自然現象を
すべて「他力」としますと、
阿弥陀仏が、時には干ばつで人間を
苦しませることになります。
地震によって我々の生命を奪ったり、
台風で人命をおびやかしたり、
財産を失わせたりする、呪いニクムべき、
悪魔になることがあるということになります。
これらすべて他力、阿弥陀仏のお力とすることは、
大慈大悲の阿弥陀仏に対する
どんでもない濡れ衣であり、
大変な冒涜といわねばなりません。
勿論、自然の力や人々の協力の恵みに対して
感謝の気持ちを持つことは
結構なことではありますが、
これらは自然の力であり、
人間の力と言うべきもので、
絶対に他力といってはならないのです。

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「他力」の語源は仏教ですから、
仏教の意味に従わなければなりません。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「『他力』と言うは如来の本願力なり」
と仰っています。
私たちをこの世から
未来永遠の「絶対の幸福」に救い摂る、
阿弥陀如来の本願力のみを
「他力」といわれるのです。

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この弥陀のお力(他力)を、
『正信偈』のここでは「自然(じねん)」
と仰っているのであって、
決して山や川や天候、
大地・宇宙の運行のことではありません。
無論「自然食品」などという時の“
有機・無農薬”のことでないことも、
お分かりになるでしょう。
(ある新聞で実際、そんな解釈をしている記事に
引っくり返ってしまいました)
さらには、「自然に」を「いつとはなしに」「気がつかないうちに」
「なんとなく」という意味で理解し、
「弥陀に救われるのは、いつとはなしだ」
「救われても自覚がないことを
『自然に』といわれている」
などと嘯く(うそぶく)人も少なくないのですが、
これもまたとんでもない誤解であることは、
次の「即時」の意味を知れば鮮明になるでしょう。

●弥陀の救いはだんだんではない

「即の時」とは「一念」のことです。
「一念」とは、親鸞聖人が
「時剋の極促」と仰っているように、
アッともスッとも言う間もない瞬間、
何兆分の一秒より短い時間の極まりをいい、
弥陀の救いの極めて速いことです。
「必定(ひつじょう)」は、「
必ず仏になれる身」のことで、
五十二位あるさとりの中でも、
下から数えて五十一段目、
あと一段で仏という位をいいます。
「正定聚(しょうじょうじゅ)」ともいわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえることも、
繰り返し述べてきました。
今日あって明日どうなるか分からない、
薄氷を踏むような儚い幸せではなく、
地震・洪水・病気・事故、どんなことがあっても
絶対に裏切られない大安心大満足の身になったことを、
「必定(ひつじょう)に入(い)る」
と言われているのです。
その「絶対の幸福」に救われるのは、
「だんだん」でもなければ
「いつとはなしに」でもない、
本願に疑い晴れた一念で
救い摂られるのだよ
と、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「自然(じねん)に即の時に必定に入る」
“弥陀の本願力によって、
一念で絶対の幸福(必定)になる”
と朝晩の勤行(おつとめ)で教えられ、
同じく蓮如上人は「聖人一流の章」に、
「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
“弥陀に救い摂られた一念に、
絶対の幸福(正定聚)になるのである”
と教示されているのです。

まとめますと、
「憶念弥陀仏本願
自然即時入必定」
の二行は、
「阿弥陀仏に救い摂られたならば、
弥陀のお力によって、一念で絶対の幸福、
“いつ死んでも浄土で仏になれる身”になるのだ」

と教えられているお言葉であり、
早くその身になってもらいたい、
真剣に仏法を聞きぬけよと、
勧めておられるお言葉です。

では、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と
口に称える「念仏」とは何なのか。
厄除けか、何かのまじないか。
世間では、「念仏称えれば
救われると教えたのが親鸞聖人」と、
教科書にまで記述され、
それが常識になっているのですが、
聖人は「念仏」について、
どう教えられているのでしょうか。

「弥陀に救い摂られた感謝報恩である」
と言われ、あくまでもお礼であり、
称えて救われるものでは断じてないのです。


 


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