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釈迦の説かれた「業力不滅」 [因果の道理]


動画を観られるとよく分かると思います。

(真実の仏法を説いてくださっています)

 

また、真実の仏法は慈悲でいっぱいなので癒されますし、

 

生活の指針にもなりますので、役立ちます。

 

そういう意味でも見られるといいですよ。

 

なぜブッダは「死後の世界はある」と説いたか。カルマから読み解く



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(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

人知れず まいたタネも

   やがて花ひらく

 

        釈迦の説かれた

           「業力不滅」

 

●モラルの低下している世の中

 

最近世の中では、モラルが低下して、悪いことをしても、

誰も見ていなければかまわないと考える人が増えています。

匿名だからと、ネット上に他人の悪口を書いたり、

見つからなければ平気でスピード違反や

違法駐車をしている人もあります。

所詮は人相手で、「バレなければ何をしてもいい」のでしょうか?

また逆に、善いことをしても人が見ていなければ

何にもならないので、人が見ていないところでは、

善いことはしないほうがいいのでしょうか?

しかし、それでは余計苦しむことになりますよ、

と教えられているのが、仏教に説かれる「因果の道理」です。

 

●自業自得が納得できないのは

   2つのことを知らないから

 

因果の道理を端的にいうと

善いのも悪いのも、自分のまいたタネ(行い)が

自分の運命を決める、自業自得である」ということ。

大体のことは自己責任と了解していても、

それでも「こんなことは自業自得と思えない」と、

感じることも多いと思います。

それは2つのことを知らないからです。

その2つとは、まいたタネが生える時期と、生え方です。

お釈迦さまは、まいたタネが生える時期には前後があることを

順現業」「順次業」「順後業」と教えられています。

「順現業」とは、現在世でまいたタネの結果が現在世で現れるもの。
「順次業」とは、現在世のタネまきが次の生で現れるもの。

「順後業」とは、現在世でまいたタネの結果が、

ずっと後の生で現れるものをいいます。

仏教では、私たち一人一人に、悠久の過去と永遠の未来があり、

これを「三世」と教えられています。

「過去世」「現在世」「未来世」のことです。

「過去世」とは私たちが人間に生まれる以前の全ての過去のこと、

「現在世」とは、この世に生を受けてから死ぬまでのこと、

「未来世」とは、永遠の死後をいいます。

「三世」と聞くと、親、子、孫の3世代のことだと

思う人もありましょうが、仏教の「三世」は、

一人一人に過去・現在・未来の三世を貫く

生命があるということで、この三世を通じて変わらない真理が

「因果の道理」である、と説かれています。

私たちは過去世の記憶はありませんが、

たとえ覚えていなくても、「善因善果 悪因悪果 自因自果」は

寸分の狂いもありません。

遅い早いの違いはあっても、まいたタネは必ず生えるのです。

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●まいたタネの2とおりの生え方

 

もう一つお釈迦さまが教えられているのは、

まいたタネの生え方に2とおりあることです。

1つは「等流因等流果(とうるいんとうるか)」です。

これは、まいたタネと同じような生え方をするものをいいます。

例えば、「殴ったら、殴り返された」

「悪口言ったら、悪口を言われた」という生え方です。

もう1つは「異熟因異熟果(いじゅくいんいじゅくか)」です。

これは、まいたタネと異なった生え方をするもので、

例えば「悪口を言ったら、財布を落とした」「泥棒したら、

家が火事に遭った」という生え方です。

そして、「等流因等流果」より「異熟因異熟果」のほうが

はるかに多くあります。

ですから複雑なものほど、原因と結果の関係を知るには

深い反省が必要ですが、因果の道理に狂いはないのです。

では、なぜ行いが運命を生み出すのでしょうか。

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●1度やった行いは決して消えない

 

前回の記事でお話ししたように、仏教では、

行為のことを「業」といいます。

身体でやる行いが身業(しんごう)、

口で話す行いが口業(くごう)、

心でいろいろのことを思う行いが意業(いごう)です。

これらの心と口と身体の行いを「三業」といいます。

中でも仏教では、心を最も重く見ます。

口や身体を動かしているのは心だからです。

これらの三業は、いずれも目に見えない「業力」となって残り、

決してなくなりません。

これを「業力不滅」といいます。

その不滅の業力は全て、「阿頼耶識」という心に

蓄えられるのだと仏教では教えられます。

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●あなたの行いを蓄える秘密の蔵

 

阿頼耶識(あらやしき)」の、「アラヤ」とは

昔のインドの言葉で蔵のこと。

「識」は心のことですから、

阿頼耶識とは蔵のような心ということです。

肉体の命は、約80年ですが、この阿頼耶識は、

悠久の過去から永遠の未来へと流れていく

不滅の生命であり、私たちの本心です。

この永遠の生命の流れから見れば、約80年の人生は、

とうとうと流れる大河の水面にポツンと生じ、

やがてパッと消え去る水泡のようなものです。

不滅の業力を蓄える阿頼耶識こそ、肉体が滅びても、

滅びない永遠の生命なのです。

しかし阿頼耶識は、固定不変の霊魂ではありません。

変化しながら続いていきます。

これを「暴流(ぼうる)のごとし」と教えられています。

「暴流」とは滝のようなものです。

滝は遠くから見ると1枚の布のように見えますが、

実際は激しく流れていて、いっときとして同じ水ではありません。

阿頼耶識は私たちの造る業力をおさめて、

絶えず変化しながら続いていくのです。

この阿頼耶識に、私たちが日々造り続けている

業力が蓄えられ、やがて縁が来た時に、

未来の運命を生み出すのです。

縁とは、業力が結果になるのを助ける条件のようなものです。

 

●縁が来ると目に見えない力が

  目に見える運命を生み出す

 

目に見えない業力が、縁が来た時に運命を生み出すことを、

このような歌で分かりやすく教えられています。

 

年毎に

咲くや吉野の 山桜

木を割りてみよ 花のありかは

 

「吉野」とは、奈良県の吉野山です。

毎年春になると、山全体が桜で覆われる名所ですが、

冬に訪れると、枯れ木のような木々が立っているだけ。

一体どこに花びらを隠しているのだろうと

木の枝を刻んでみても、桜の花はどこにも見つかりません。

ところが木の中には、目に見えない精力が蓄えられていて、

春の陽気という縁に触れると、満開の花を現すのです。

同じように、業力も目には見えませんが、

縁が来た時に目に見える運命を生み出します。

その業力の強さは大象100頭に勝ると教えられています。

縁が来るのに早いか遅いかの違いはありますが、

誰も業力を止めることはできません。

善い行いは、目には見えませんが善業力となって

やがて必ず幸せな運命を生み出し、

悪い行いは、悪業力となって必ず悪い運命を引き起こすのです。

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●幸せを生み出す方法

 

ですから、バレなければ何をしてもいいということは

全くありません。

人が見ていなくても、悪いことをすれば悪業力となって

阿頼耶識に蓄えられ、やがて必ず不幸や災難を

引き起こします。

逆に、人が見ていなければ善いことをしても

何にもならないということもありません。

善い行いをすれば、目に見えない善業力となって、

縁が来ると必ず幸せな運命が花開きます。

正直者がバカを見ることは絶対にないのです。

出てこないのはまだ縁が来ていないだけです。

縁が来れば結果が現れますので、

今は思いどおりにならなくても腐らず、

できることから1歩ずつ、日々の努力を重ねていくことが

大事なのです。

 

●お釈迦さまが仏教を説かれた目的

 

お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、

阿弥陀仏の本願を説いて、生きている時に、

極楽往き間違いなしの絶対の幸福に救うことでした。

その絶対の幸福に導くために、因果の道理を説かれ、

善い行いをしなさいと勧められているのです。

最も大切なのは、仏法をよく聞くこと(聴聞)ですが、

日常、聞くご縁のない時は、教えのとおりに実行し、

光明輝く浄土へ向かって精進いたしましょう。


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