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浄土真宗でいわれる不来迎の教えとはどんなことでしょうか。 [Q&Aシリーズ]

浄土真宗でいわれる不来迎の

   教えとはどんなことでしょうか。

 

お聞きのとおり、浄土真宗の特色の一つが、

この不来迎の教えだということです。

不来迎ということをお話しする前に、

まず、仏教でいう来迎ということについて

説明しなければなりません。

来迎ということは、平生努めて念仏を称えている人が、

臨終になると、その人の枕元へ阿弥陀仏が観音・勢至の

二菩薩を従えて現れ、極楽浄土へ連れていってくだされると

いうことです。

これを信ずることを、来迎を信ずるというのです。

これに対して、不来迎というのは、

そんなことが全然問題にならなくなるということです。

来迎を信じている人たちは全くお気の毒な人たちです。

臨終の来迎を当てにしなくては往生の確信、安心が

持てないため、現在が不安で苦悩に満ちた生活を送っている

人々だからです。

浄土宗の人たちがよくすることですが、

臨終に、阿弥陀仏の木像の手に糸を引っかけ、

その糸の端を自分が握り締めて、

否応なしに極楽へ引っ張ってもらおうとする儀式さえあります。

これは、平生に阿弥陀仏の明らかな救いを

体験することのできなかった人たちの最後のもだえです。

それは真実の阿弥陀仏の本願を教える善知識に

会わなかったからでもあります。

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浄土真宗の道俗でも、「この世はどうにもなれない、

死んだらお助け、死んだら極楽」と喜んでいる者が多いのですが、

みんなこんな来迎を頼りにしている気の毒な人々です。

これらの人々は、今助かったという大慶喜も大満足もありませんから、

「死んだら極楽へ参れる」という、

未来を当てにする喜びしかできないのです。

ゆえに何とか間違いなく極楽へ往けるように信じ込もうとします。

が、それが信じ切れないので、

来迎をたのんでその不安をごまかそうとするのです。

ところが、その臨終来迎も信じられないので、

上述のような儀式までするようになったのです。

これらの人々は、死ぬまで不安と苦悩の連続で

終わっていくということですから、一大悲劇といわなければなりません。

 

●救われた

  信の一念から常来迎

 

親鸞聖人が不来迎だとおっしゃったのは、平生の時、

信楽開発(しんぎょうかいほつ)の一念に久遠の弥陀と名乗りを上げ、

曠劫流転の魂の解決をハッキリさせていただき、

苦悩渦巻く人生を光明の広海と転じさせていただき、

 

念仏者は無碍の一道なり

有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど

こころは浄土にあそぶなり

 

と何ものにも恐れず屈せず、何事にもうろたえぬたくましい

正定聚不退転の身に救われて、死んでよし生きてよし、

動くままが南無阿弥陀仏の大満足だもの、

臨終来迎などさらさら用事はないから、

不来迎とおっしゃったのです。

親鸞聖人は、来迎を平生の一念に明らかに体験なされたから、

臨終の来迎など問題になさらなかったのです。

浄土真宗の教えは救われた信の一念から仏凡一体ですから、

常来迎であり、不来迎です。

「されば聖人の仰せには、

『来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨の故に

正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、故に臨終まつことなし、

来迎たのむことなし』といえり」

               (御文章一帖目四通)

と蓮如上人の仰せのとおりであります。


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仏法を聞くって大事なの? [Q&Aシリーズ]

1.仏法は何のために聞くの?

仏法と聞くと葬式や法事を思い浮かべ、
死んでから用事のあるものと思っている人が
多いようですが、それは誤解です。
仏法の目的は「抜苦与楽」。
生きている今、私たちの苦しみを抜き、
幸せを与えることにほかなりません。
人生は、苦しみの花咲く木といわれます。
借金、離婚、病苦、肉親との別れ・・・、
一つの悩みを解決してやれやれと思う間もなく、
別の苦しみがやってくる。
それら苦しみの元を断ち切り、
人間に生まれた本当の喜び、
満足を与えてくださるのが仏法です。

では、そんな幸せにどうすればなれるのでしょうか。

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2.正しい教えを聞くことが大切

本当の幸せになる道は、「聴聞よりほかにない」
と、お釈迦さまは説かれています。

聴聞とは「聞く」ことですが、
落語や漫才を聞くのではありません。
仏法を聞かせていただくことです。
親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」
と教えられています。

昔は365日、朝昼晩と説法があった寺も少なくありません。
真宗の盛んな地域では、
「仏法聞けよ、仏法聞けよ」
と言われて育った人も多いでしょう。
もちろん、ただ聞けばよいのではありません。
正しい教えを正しく聞くことが大切です。

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3.どんな気持ちで聞けばよいか

また仏法は、居眠り半分、
あめ玉なめなめ聞ける教えではありません。

親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとい、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法聞き抜く人は、必ず不滅の幸せに輝くのだ

とおっしゃり、蓮如上人もまた、
火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは」
と、真剣な聞法を勧められています。

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4.命懸けで聞き聞きすると・・・

ある人が有名な布教使を訪ね、
「ご面倒ですが、後生の一大事、
一言お聞かせください」と言うと、
大喝一声、
後生ほどの一大事、一言や二言で聞かせられようか。
自力の仏法者は、無量永劫、
修行しても解決できぬと泣いているのに、
一日や二日聞いて、助からぬという横着な心だから
信じられぬのじゃ。
変わったことを聞くのではない。
同じことを命懸けて聞き聞きすると、
聞こえてくださるのじゃ
」と答えたといいます。
このような聞法の大切さから、
弊社でも毎月、「聞法のつどい」を開催しています。

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念仏称えれば、極楽に往生できるのですか? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
「一回でも念仏称えたら極楽へ往ける」
というのが親鸞聖人の教えですよね?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
親鸞聖人といえば、「なむあみだぶつ」を
思い浮かべる人も多いでしょう。
最も身近でしかも誤解されているのが、
この「なむあみだぶつ」かもしれません。
世間では、
「念仏さえ称えていれば、
だれでも極楽へ往けると教えられたのが親鸞聖人」
と思われていますが、
それは大変な間違いです。

親鸞聖人の教えを正確に伝えられた蓮如上人は、
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
極楽に往生すべきように思いはんべり。
それは覚束なきことなり
」  (御文章

と、何度もその誤りを正しておられます。
では、「なむあみだぶつ」とは何でしょうか。
この機会によく知っていただきたいと思います。
「南無阿弥陀仏」のことを、六字の御名号といいます。
名号とは、分かりやすく例えるならば、
阿弥陀仏という名医が、
私たちの重い心の病を見るに見かねて、
何とか助けてやりたいと作ってくだされたお薬です。

何のために生まれ、生きるのか。
死ねばどうなるのか、分からない。
未来への不安を抱えて生きているのが、
すべての人ではないでしょうか。

名号には、その暗い心をぶち破り、
大安心の明るい心にしてくださる
絶大なお力があるのです。

親鸞聖人は「功徳の大宝海」と言われ、
蓮如上人は、
『南無阿弥陀仏』と申す文字(もんじ)は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

            (御文章
南無阿弥陀仏という文字は、
たったの漢字六字だから、
そんなすごい働きがあると思えないだろう。
だがこの六字の名号には、想像を超えた、

私たちを絶対の幸福にする、
広大無辺なお力があるのだよ”
と、教えられています。

そんなものすごい働きがあると思えないのは、
猫に小判、豚に真珠で
私たちに値を知る知恵がないからです。

釈迦45年の一切経は、
いわば阿弥陀仏が精魂込めて完成された
「南無阿弥陀仏」という薬の効能書きです。

しかもお釈迦さま
私は生涯、名号の大功徳一つ説き続けたが、
説き尽くせなかった
とおっしゃって、お亡くなりになっています。
この六字の妙薬は、阿弥陀仏が、
私たちにのませて助けるために
作られたものですから、
私たちが受け取らなければ、
そのご苦労は水泡に帰してしまいます。

仏法を真剣に聞き抜いて、
この南無阿弥陀仏を頂いた時、
私たちの一切の苦しみは解決し、
“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
生命の歓喜を得るのだと
親鸞聖人は教えられました。
この南無阿弥陀仏の大功徳を
丸もらいしたことを、
「信心決定」とか「信心獲得」
といわれるのです。

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●念仏は何のため?

では、念仏とは何でしょうか?
南無阿弥陀仏の特効薬を頂いて(信心獲得)、
苦しみに沈んでいた人生が
明るく楽しい人生に大転換しますと、
その喜びのあまり阿弥陀仏に
お礼を言わずにいられなくなります。
そのお礼の言葉が、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
口に称える念仏なのです。
50年か100年の肉体の命を
延ばしてもらってさえ、
どんなに感謝せずにおれないか分かりません。
ましていわんや、無量寿の命を頂いて、
永遠の幸福に救われた幸せは
とても言葉になりません。

お礼の言葉は、日本人なら「ありがとう」ですが、
アメリカやイギリスの人なら「サンキュー」、
フランス人なら「メルシー」、
中国人なら「謝謝(シェシェ)と相手によって変わります。
阿弥陀仏に対しては、
「南無阿弥陀仏」と称えることがお礼なのです。

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人間死んだら無になるのか? [Q&Aシリーズ]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
「死んだらおしまい」とも言うように、
私は死んだら無になると思っています。
「死んだらどうなるか分からない心」は、
人生の中でほとんど重要性を持たない心だと
思いますが、いかがですか。
           (茨城県・60代男性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
日々生きることに精一杯で、死んだらどうなるか、
考えたこともないという人がほとんどでしょう。
また死ねば無になるだけ、
死んだ後のことなど考えてもしかたない、
と思う人もあるでしょう。

ところが親鸞聖人は「死ねばどうなるか」の答えを、
わずか9歳で仏門に入られたことが、
アニメ『世界の光・親鸞聖人』第1巻に描かれています。
4歳で父君を、8歳で母君を亡くされた
松若丸(親鸞聖人)は、野辺送りのあと、
伯父の藤原範綱卿(ふじわらのりつなきょう)と
夕焼け空を見ておられました。

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範綱 「とうとう一人になられたなあ」

松若丸は黙ってうなずき、
飛んでいく雁の群れを見ながら、
問いかけられます。

松若丸 「どこへ行くんでしょう」

範綱 「雁も、うちに帰るんだろう」

松若丸 「いいえ伯父さま。
    人は死ねばどこへ行くのでしょうか」


範綱 「ん?うーん、どこか遠い所、だろうなぁ」

松若丸 「どんな所でしょうか。遠い所、とは」

範綱 「どんな所かと言われてもなあ」

松若丸 「死ねばどうなるんだろう」

答えに窮した範綱卿は
「ともかく松若丸は藤原家の跡取りとして、
しっかりとやっていかなければ」
と話題をそらすのでした。

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養和元年(聖人9歳)。
範綱卿に手を引かれ、
青蓮院の石段を上っていかれる
松若丸の姿がありました。

範綱 「どうしても出家したいのか」

問う範綱に、松若丸はこう答えられます。

松若丸 はい。次は私が死んでいかなければならない
      と思うと、不安なんです。
      
何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです。
      どうか、お許しください

かくて聖人は、即日出家なされたのでした。

果たして死の問題は、
私たちの人生にほとんど影響のない
小さなことなのでしょうか。
こんな話があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・
抹香くさいことが、大嫌いな男がいた。
「坊主の顔を見るのがイヤだ。
オレが死んだら葬式など、
ムダなことは一切やるな。
遺体はどこかで焼いて、
空からパーッとばらまくか、
それも面倒なら、川かなんかへ流してくれ」
これがいつもの公言だった。

ところが、この世は老少不定。
不幸にも、その男より先に、
かわいがっていた一人息子が急死したのだ。

悲しみにうちひしがれたその男は、
遺体をきれいに拭いて着飾らせ、
大嫌いだった寺へ行き、
「住職さん。最愛の息子の供養に、
ひとつ盛大な葬式をしてやってください」
と頭を下げた。
葬式も済ませ、遺骨は寺の墓地に納めた。
その日は雪だった。
墓にやってきた男は、墓石に積もった雪を、
手できれいに払いのけ、
持参したミカンやお菓子を供えて手を合わせ、
「息子よ、さぞかし寒かろう。さあ、おあがり」
と、生きている者に話しかけるように言って、
いつまでも墓前を去ろうとしなかったという。

この人は、にわかに死後の世界を
認めるようになったわけではないでしょう。
ただ、そうせずにおれなかった。
悲しみに狂わんばかりの自分を、
盛大な葬式や墓参で、
支えずにおれなかったのです。
ここに私たちは、いかんともしがたい
感情の動物性を見るのです。

「死んだ後が有るか無いかは知識の問題、
死んだ後助かりたいかどうかは人間の問題である」

といわれます。

ふだんは「死んだら死んだ時さ」と言っている人も、
ある日、健康診断で黒い影が
見つかったらどうでしょう。

「念のため精密検査を」
と大病院を指定され、
「ご家族はおられますか」と聞かれたら。
もしかしたら死に直結する病ではなかろうか・・・。
医師の一挙手一投足に一喜一憂し、
今まで楽しんでいたゴルフや晩酌も、
一瞬で色あせ、
光を失ってしまうのではないでしょうか。

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ガンと10年闘って世を去った、
岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は
こう言っています。

「人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、
傷つきやすい、みかけの幸福であるかどうかは、
それを、死に直面した場合にたたせてみると、
はっきりいたします。(中略)
今まで、輝かしくみえたものが、
急に光を失って、
色あせたものになってしまいます。
お金では、命は、買えない。
社会的地位は、死後の問題に、
答えてはくれないのであります

              (『死を見つめる心』)
そして、大問題になるのは「死後どうなるか」だけだと、
次のように述べています。

「生命を断ち切られるということは、
もっとくわしく考えると、どういうことであるか。
それが、人間の肉体的生命の終わりであることは、
たしかである。
呼吸はとまり、心臓は停止する。(中略)
しかし、生命体としての人間を構成しているものは、
単に、生理的な肉体だけではない。
すくなくとも、生きている間は、
人間は、精神的な個と考えるのが常識である。
生きている現在においては、
自分というものの意識がある。
『この自分』というものがあるのである。
そこで問題は、『この自分』は、
死後どうなるかという点に集中してくる。
これが人間にとっての大問題となる」
(同)

これはただ、末期のガン患者に
限ったことではありません。
どんな生き方をしようと、
誰にでも死は確実に訪れます。
それは万人が直面しなければならない問題であり、
何人(なんびと)もこの問題から
逃げ切ることはできません。
病気が怖い、老いが怖い、
災害や原発が恐ろしいと騒ぐのも、
根底には死があるからでしょう。
死という核心に触れることを避け、
それらに衣を着せて
対面しようとしているにすぎません。
意識しようとしまいと、
人生の全体はこの死の不安に
覆われているのです。

そのままで本当に、
真の生の充実を味わうことができるでしょうか。


仏教に「生死一如」という言葉があります。
一如とは、紙の表と裏のように
切っても切り離せないこと。
生きている我々の100パーセントの行く先が
死ですから、
その未来が暗くして、今
を心から楽しめる道理がありません。

飛行機でいえば、機内で映画や音楽、
食事など空の旅を楽しめるのは、
「5時間後にはホノルル空港だ」
「あと8時間でロサンゼルスに到着する」
と、行く先がはっきりしているからこそです。
もし機長から、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょう。
「皆さん、当機はただ今、
順調に航行しておりますが、
降りるところがありません。
燃料はあと5時間ほどでございます。
その間どうぞ、空の旅をゆっくりとお楽しみください」
皆、不安で狼狽し、

何はさておき無事降りる場所はないかと、
必死に求めるのではないでしょうか。


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死後がハッキリしないのは、
行く先分からぬ飛行機の乗客と同じ。
これほどの大事は人生にありませんから、
仏教では、「生死の一大事」とも「後生の一大事」とも
いわれるのです。

この確実な未来を「往生一定」と
明らかにするのが仏法の目的です。
弥陀に救われ、いつ死んでも
無量光明土間違いなしとハッキリすれば、
この世から光明の広海に浮かぶ
素晴らしい人生となりますから、
そこまで聞いてください。
(無量光明土とは、阿弥陀仏の極楽浄土のこと)


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これも過去世の業なのか? [Q&Aシリーズ]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
仏教の因果の道理では、善も悪も自分に現れる運命は、
全て過去の自分の種まき(業)の結果であると聞きました。
それならば例えば、無免許少年の運転する車が、
登校中の児童の列を襲い、
10人が死傷するような事件があれば、
これも仏法では、本人の過去世の業の結果と
片付けられるのでしょうか。
このような交通事故や通り魔、無差別殺人などで、
子供の命が失われているのを見ると、
かわいそうでなりません。
それではあまりにムゴイのではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
あどけない子供たちが、いわれなき殺され方をすると、
やりきれぬ気持ちになるのは全く同感です。
いつも胸が痛みます。
ですが、
「これも仏法では、前世の業として片付けてよいのか」という、
ご不満に同調できません。
ご承知のように仏法は、釈尊(釈迦)一代の教えです。
その根幹は、三世十方を貫く因果の理法であることは
一切経を見れば明らかです。

因果の理法とは、
「まいたタネは、必ず生える」が、
「まかぬタネは、絶対に生えぬ」ということです。
しかも、因と果の関係は、
善因善果 悪因悪果 自因自果であることは、
いつでもどこでも変わらず、
現在世だけでなく、
過去世、未来世の三世を貫く道理だと
厳然と説き切っています。

それを『経』には、次のように説かれています。

「過去の因を知らんと欲すれば、
現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば、
現在の因を見よ」  (釈尊)
(過去のまいた因を知りたければ、
現在、現れている結果を見れば分かる。
未来の運命を知りたければ、
現在、まいている因を見れば分かる)

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「因」とは「行為」のことであり、
「運命」とは「結果」のことです。
現在世の結果は、
過去世にまいた因によって現れたものであり、
現在世にまいた因によって
未来世の結果(運命)は決まる

ということです。
これを三世因果といい、
仏教を信ずるとは三世因果を信ずることをいいます。

●因縁果の道理

ただここで、ぜひ知って頂かなければならないのは、
通常、因果の道理といいますが、
正しくは、因、縁、果の道理ということです。
仏教は、すべての結果は
因と縁の和合で現れると説かれています。

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一例をあげますと、「米」という結果の因はモミダネです。
温度や空気、土壌は縁です。
米は、モミダネの因だけでもできないし、
温度や湿度、空気や土壌の縁だけでもできません。
それらの因と縁とがそろって、
初めて「米」という結果が生まれるのです。

因果の理法というのは、
あくまでも縁を因にふくめての言い方であることを
忘れないでほしいのです。
かつて、東京の通り魔事件で数人が殺傷されました。
犠牲者には、母にひかれた乳母車の幼児も入っていたことに、
大きなショックを受けました。
「あんな幼児に、なんの罪があって・・・」
と、多くの人は嘆き、
「あれも幼児の過去世の業として、
片付けるのはムゴイ」と、
あなたも思われたのでしょう。
心情はよく分かります。
ですが、その幼児に全く関係のないことが、
幼児の身に起きるはずがありません。

事実、そこに居合わせたほかの多くの幼児に、
そんな結果が起きなかったのに、
なぜ、その幼児だけに、
そんなことが起きたのでしょう。
幼児の結果は、その時その場へ通り合わせたところに
原因があったのです。
それは、幼児自身の過去の業因にちがいありません。

そのような「因」に、通り魔という「縁」が加わって起きた、
悲しい「結果」なのです。
同じ時、同じ所を通っていても、
悲運に遭わなかった人はたくさんありました。

それは通り魔という悪い「縁」はあったのですが
「因」がなかったからです。

●悪縁は根絶すべき

当然、このような通り魔という悪縁は、
厳しく処罰されなければなりませんし、
一切の悪縁の根絶に、
私たちは全力を尽くさなければなりません。
「こんなことも、前世の業として片付けるのか。
ムゴイ。無慈悲だ。アキラメ主義だ」
と仏法を誤解されるのは、
因と縁とをゴッチャにしていられるところに
あるのではないでしょうか。
仏教は、このような反省と同時に、
無慈悲にツッパネルのでもなく、
アキラメよというのでもなく、
早く弥陀の絶対の救いに値って(あって)、
苦悩の人生を歓喜法悦の人生になって頂くために
説かれているということも、
ぜひ知って頂きたいと思います。


タグ:因果の道理
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阿弥陀仏の本願とは、どんなことですか? [Q&Aシリーズ]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
私は、これまで仏教を聞いたことがない者ですが、
病気になり、今死ぬとどうなるのかと思うと、
大変恐ろしく思います。
仏教では、阿弥陀仏の本願(救い)一つが説かれていると
聞きましたが、
阿弥陀仏の本願とは、どんなことでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
阿弥陀仏といわれる仏は、
釈尊(釈迦)が本師本仏と言われている
宇宙最尊の仏です。

原子物理学者でなければ、
原子の小さい世界は分からないように、
仏の境界(きょうがい)のことは、
仏智を諦得(たいとく)された
仏でなければ分かりません。
この地球上で、仏の悟りを得られた方は
釈尊のほかにありません。
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なしです。

●諸仏の王・阿弥陀仏

約2600年前、釈尊が35歳の12月8日に
仏の悟りを開かれて、
80歳の2月15日、涅槃の雲にかくれられるまでの、
45年間に説かれた一切経には、
大宇宙にまします多くの仏さまの名前が出ていますが、
その中で一番多いのが阿弥陀仏のお名前です。
「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」
と天台宗の荊渓(けいけい)でさえ、
驚嘆しているほどです。

「諸仏の中の王なり」
とか、
「最尊第一の仏」
「諸仏の中の極尊なり」
などと、十方諸仏の中の無上の仏であることが
説かれています。
大日や薬師や釈迦など大宇宙の仏方が、
本師本仏と仰ぐ仏が阿弥陀仏なのです。

蓮如上人は『御文章』に、

弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なり
」(御文章二帖)
阿弥陀如来とは、
大宇宙の無数の仏方の師であり先生である

と言われています。

●すべての人を
     必ず絶対の幸福に

その阿弥陀仏の本願とは、
どんなことかといいますと、
本願とは誓願ともいいまして、
お約束ということです。
では、阿弥陀仏は、
どんなお約束をなされているのかといいますと、
すべての人は、煩悩具足で苦しみ続けている。
有れば有るで苦しみ、無ければ無いで苦しむ。
所詮、苦より離れ切れない私たちを見て、
何とか絶対の幸福に助けてやりたいという、
大慈悲心を起こされたのです。
そして誓われたのが、
「どんな人も 我を信じよ
必ず 絶対の幸福に救う。
もし救うことができなければ
命を捨てる」
とまで断言されているお約束です。

こんな、とてつもない本願ですから、
親鸞聖人は『正信偈』に、

無上殊勝の願を建立し、
希有の大弘誓を超発せり
」(正信偈)
阿弥陀仏は、十方世界に類のない、
無上の大本願を建てられた

とおっしゃっているのです。
どんな人も、この弥陀の本願を信ずる一念に、
(本願を信ずるとは、弥陀の本願にツユチリほどの疑いがなくなり、
弥陀より南無阿弥陀仏をいただいて
救われたという意味です。)
お約束通りに絶対の幸福に救われ、
死ねば弥陀の浄土へ
往生することができるのです。

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タグ:阿弥陀仏
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なぜ人間に生まれてきたことを喜ばねばならないのか。 [Q&Aシリーズ]

(質問)親鸞聖人は
     なぜ、人間に生まれたことを
        喜べと言われたのか

よく「人間に生まれたことを喜べ」
と教えられますが、
喜ぶどころか産んだ親をうらむことさえあります。
こんなことではいけないと思いながらも、
正直なところ、本心から喜ぶことができません。
親鸞聖人は人間に生まれたことを、
なぜ、有り難いとおっしゃったのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
自殺するのは、
同じように生きる喜びのない人たちでしょう。
しかし、ほとんどの人は真面目に考えれば、
同じ気持ちではないでしょうか。
おっしゃる通り仏教では、
人間に生まれたことは、
大変有り難いことだから喜ばなければならないと
教えられています。

『雑阿含経』の中には、
有名な盲亀浮木の譬喩が説かれています。
ある時、釈尊(お釈迦さま)が、
「たとえば、大海の底に一匹の盲亀がいて、
百年に一度、海上に浮かぶ上がるのだ。
その海には、一本の浮木が流れていて、
浮木の真ん中に、一つの穴がある。
盲亀が百年に一度浮かび上がった際に、
その浮木の穴へ、ちょうど、
頭を突っ込むことがあるだろうか」
と尋ねられた。

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阿難という弟子が、
「そんなことは、毛頭、考えられません」
と答えると釈尊は、
「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。
だが、何億兆年よりも永い間には絶対にないとは、
誰も言い切れないであろう。
人間に生まれるということは、
この例えよりもありえない
有り難いことのなのだよ」
とおっしゃっています。

私たちは、日常、“有り難う”
と言いますが、有ることが稀である、
という言葉から出た言葉なのです。

『涅槃経』には、
人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし

(※三途とは、三悪道〈地獄・餓鬼・畜生〉のこと。
苦しみの激しい世界)
意訳:人間に生まれるものは、
爪の上の砂のように少なく、
三悪道に堕つる者は、大宇宙の砂の数ほど多い

と説かれています。


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このような、受け難い人身を受けたということは、
人間に生まれなければできない
大事な目的があるということなのです。
私たちは、その重大な使命を果たすために
人間に生まれてきたのです。

釈尊は、それについて、こう説かれています。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん
」   (釈尊)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法を聞くことができた。
何がなんでも今生で救われねば、
いずれの生で救われようか。
永遠のチャンスは今しかないのだ

「今生で、この身を度する」(いま救われる)とは、
どういうことでしょうか。
それは阿弥陀仏の本願を聞信し、
平生に絶対の幸福になることだと、
親鸞聖人は教えられています。
こんなチャンスは、幾億兆年にもないことであるとも
言われています。
聖人のおっしゃる通り、
弥陀の本願を聞き開き、
絶対の幸福になって、
人間に生まれた本当の有り難さが
分かるのです。
仏法を聞かない限り、
人間に生まれた本当の喜びは
分かるものではありません。
人間に生まれた生命の歓喜を知るまで、
仏法を聞いてください。


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弥陀はどう我々を救ってくださるのか!?(その道程) [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。) 

大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、
四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。

その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。

十八、十九、二十願がそれです。

十八願は、率直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、
王本願といいます。

ところが、うぬぼれ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、
絶対の幸福にまで導くことは大変で、
種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、そのために誓われたものです。

十九願には、
十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、
どうしたら平和な安楽な世界に生まれることができるのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと
奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、
その力で我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
臨終に諸仏菩薩に取り巻かれて迎えに行こう」
と、約束なされています。


因果の道理は宇宙の真理、
善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。

知っただけでは観念の遊戯に終わり、
実行しなければ善果は得られない、
と真面目に全力尽くしてやってみると、
悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて
泣かざるをえません。


二十願はそんな人に誓われた弥陀の約束です。
十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、
念仏を称え、その功徳の力で、
我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。

そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、
つとめればつとめるほど、
散乱麁動(さんらんきどう)の心ばかり見えてきて、
こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、
こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、
と不安な心が出てきます。

また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、
功徳にならぬように思えるので、
悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、
見えてくるのは悪ばかり。

励めば励むだけ、乱れる心はやまず、
悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、
こんな者でも死んだらお助け、
と安心して喜ぼうとしますが、
助かっていないから喜ばれるはずがありません。
法の尊さに感激した時は、
助かるようにも思いますが、悪性が現れると、
こんなことでは助からんのではなかろうかと、
堕ちるような気がする。

念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、
参ってみたり堕ちてみたり、
常に不乱動乱がやまないのです。


十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、
次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、
弥陀の狙いなのです。

後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福と言っても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。

親鸞聖人は、逆謗の屍(しかばね)と言われました

この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、
命を投げ出すとお約束なされているのが
弥陀の十八の誓願です。

こうまで聞かされても、聞き切らぬしぶとい私であったのかと
照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、
にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。

一切の助かる望みが切れた時と、
大慈悲心が徹底した時とは同時で、
まことなるかな、弥陀の本願、
己(おのれ)忘れて躍り上がり、
ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き上がるお念仏を
仏恩報尽の念仏というのです。


無辺の智慧と、無限の慈悲を体得しますから、
底の知れない懺悔、高さの知れない歓喜、
広さの知れない苦悩の晴れた味に、
遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。

この十八願に誓われた絶対の幸福、
無碍の一道に出るには、十九、
二十願の道程を通らなければならないことを発見し、
教導なされたのが親鸞聖人です。

その体験を三願転入というのです。


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この世で弥陀に救われるのか? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

(質問)
この世で阿弥陀仏に救われる(信心獲得)
というのは、いつとはなしに
ありがたくなることでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
いいえ。
「どの薬が効いたのやら、いつの間にか咳が止まって
風邪が治るように、仏法を聞いているいくと
だんだん疑いの心がとれて、
いつとはなしにありがたくなったのが信心だ」
と思っている人がありますが、
親鸞聖人は、「弥陀の救いは一念で完成する」
と教えられています。

一念とは、「時尅の極速」といわれ、
何億分の一秒より短い、時間の極まりをいいます。
例えば千年間真っ暗な部屋も、
光が来た一瞬で
闇が破れて明るくなるように、
弥陀の救いはあっという間もない瞬間に
完成するのです。

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(質問)
「いつとはなしに救われる」というのは
間違いなのですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
間違いです。
真宗の中には、
「例えば、重い米俵を背負っていたのに、
ネズミが米俵をかじっていたために、
その穴から米がじょろじょろ流れ出て、
いつとはなしに軽くなるように、
信心といっても、いつとはなしに苦が抜けるのだ」
などと説く人がありますが、
もしそれが本当なら、
「三世業障一時に罪消えて」(御文章)
とおっしゃった蓮如上人は大うそつきになります。
“三世の業障(後生暗い心)という
米俵に苦しんでいる人には、
その重荷を一念で弥陀に奪い取られて
躍り上がる時があるのだ”と、
上人は教えられているのです。

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(質問)
「弥陀に救われても、そんなにハッキリするものではない」
と言う人もいますが?

・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
とんでもない。
例えば腹痛でコロゲ回っていた人が、
名医の注射一本で、激痛がケロリと治まった時、
治ったかどうか本人に分からないなどという
バカげたことがあるでしょうか。

いわんや苦しみの元である「後生暗い心」が
一念で弥陀にぶち破られ、
「いつ死んでも浄土往生間違いなし」と、
大安心大満足の心に生かされながら、
ハッキリしないはずがありません。

ハッキリしていないのは、
救われていないからです。

救われたらだれよりも救われた本人がハッキリします。
同時に、ハッキリ救われたことを叫ばずにいられません。

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(質問)救われたら、本当にハッキリするのですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
親鸞聖人は、
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、
本願に帰す」
“私は29歳の春、弥陀に救われた”と、
ハッキリ『教行信証』に書いておられます。

聖人のご著書のすべては、
弥陀の本願のとおりに救われた、
ご自身の喜びの体験を告白されたものばかりです。
覚如上人も、
「私は今、弥陀に救われたことを喜んでいる」と、
『執持鈔』にハッキリおっしゃっています。

蓮如上人も、
「他力の信心ということをば今既に獲たり、
乃至今こそ明らかに知られたり」(御文章)
とハッキリ書かれているではありませんか。

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先祖のたたりは本当にあるのか!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。)


(質問)


世間では何か不幸や災難がおきると、
それは先祖のたたりだとか、
先祖の供養をしないからだとか言う人がありますが、
本当でしょうか。
親鸞聖人は、どう教えられているのでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
不幸や災難を先祖のたたりだとか、
供養をしないからだとかいうのは、
全くばかげた外道の迷信です。

この世の一切のことは、
因縁果の法則で運行されているのが実相ですから、
不幸や災難に遭うのも、その人その人の、
過去に蒔いた業因によって招いた結果にほかならぬと、
釈尊は教えておられます。
無論、親鸞聖人も、全く同じように教導されています。
まかぬタネは、絶対にはえないのです。


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自分に現れた結果は、すべて自分のまいたタネからなのです。
自因自果に、絶対、狂いはありません。
だから逆境に遭えば、過去にまいた恐ろしい悪業を知らされて
懺悔し、二度と再び、そんな悪因をまかぬように努力し、
順境に恵まれれば、どんな悪果を受けても当然な私なのに、
こんなに恵まれるのは、如来聖人のご加護と感謝して生きるのが、
正法(仏法)を信ずる者の生活態度です。


●本当の先祖供養とは?


次に、先祖の供養についてのことですが、
古来、人情の美風でもあり仏教でも大切なことだと
説かれていますが、
本当の先祖の供養の仕方を知らないために、
多くの迷信の温床になっているのは甚だ悲しい実状です。

立派な墓を造ったり、盛大な葬儀や法事を勤めたりすることが、
なによりの先祖の供養だと思っている人の、
いかに多いことでしょう。
しかし、私たちが本気で先祖の供養をしようとする時は、
今までの習慣にとらわれず、
まず考えなばならないことは、
先祖の喜ぶことは何かということです。
先祖の供養の仕方はそれによって決まるのです。

なぜなら、先祖の心に反する言動に、
いくら大金を投じ、いかに苦労をしても、
先祖の供養にはならないからです。
最も先祖が、私たちに望んでいることを知ろうとすれば、
亡き先祖に聞かなくても、私たちが、
子供や子孫に一番、何を願っているかを
考えれば明らかなことです。
それは、正しく生きよ、幸福になれよ、
ということに違いはないでしょう。

されば、私たちの先祖も、私たちが、
正しく幸福に生きることを最も喜ぶに違いありません。

ならば、私たちが真実の仏法を求め、
弥陀より金剛の信心を獲得して絶対の幸福になり、
たくましく生きることこそが、
先祖の最も喜ぶ最高の供養となるのです。


「ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、
六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、
神通方便をもってままず有縁を度すべきなり」
           (歎異抄第五章)
はやく、弥陀の本願を計ろう自力の心を捨てて、
浄土で仏のさとりを開けば、六道・四生の迷いの世界で、
どんな苦しみに沈んでいようとも、
仏の方便力で、縁の深い人々から救うことができよう


この親鸞聖人のお言葉は、私たちの先祖に対する
真の追善供養のあり方をお示しになっていることを
知らなければなりません。


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