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『正信偈』講話④ [正信偈]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)


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獲信見敬大慶喜 信を獲て見て敬い大(おおき)に慶喜すれば、

即横超截五悪趣 即ち横に五悪趣を超截す。

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「獲信」とは信心獲得のことを親鸞聖人が略せられ、

「獲信」と仰ったのです。

信心獲得とは阿弥陀仏の絶対の救いを体験して

無碍の一道に出たこと、一切の碍りがなくなった

世界でありますから、今日、絶対の幸福といいます。

信心獲得いたしますと阿弥陀仏を敬い、

心から拝見せずにおれなくなります。

これが「見敬」ということです。

この世でこんな喜びの身になれるとは全く知らなんだ、

これは全く阿弥陀仏の絶対のお力であったということが

ハッキリいたしますので、阿弥陀仏を心から敬って

礼拝せずにおれなくなるのです。

その心が「大慶喜」です。

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●広大難思の慶心

 

蓮如上人はこの喜びを、

「うれしさを昔はそでにつつみにけり

    こよいは身にも余りぬるかな」

と仰って、阿弥陀仏に救われる前は喜ぼうと思っても

袖に包むような小さな喜びしかなかった。

しかし、信心獲得してからは身に余る大きな喜びであったと

仰っています。

親鸞聖人は『教行信証』の中に、

「広大難思の慶心」と仰っています。

「その喜びは広かったぞ、大きかったぞ、

想像もできない喜びであった」

と、聖人獲信の喜びを告白なされたものです。

別のところでは、この喜びを、

「心も言葉も絶えた」と仰っています。

無明の闇が破れ、生死の大問題が解決できたのですから、

その喜びは、私たちの想像をはるかに超えたものです。

 

●『歎異抄』の問題点

 

親鸞・蓮如両聖人は、信心獲得すると大慶喜心が起きると

仰っているにもかかわらず、そんな喜びなんか凡夫に

起きるものではないと皆が思うようになった一つの原因は、

『歎異抄』第9章です。

この中に親鸞聖人と唯円との対話があります。

唯円が、

「私は念仏称えますが、踊躍歓喜の心が起きません。

これはどうしたことでしょうか」

と尋ねたのです。それに対して、聖人は、

「唯円、お前もそうか。実は親鸞もそのことについて

不審を持っていた。

踊躍歓喜という大きな喜びはない」

と答えられたと書いてあります。

説教する者は、ここを根拠に、

「聖人もお弟子の唯円も喜べないと仰っているではないか。

私たちが喜べるはずがあるか、喜べないのが当たり前、

こんな奴を死んだら阿弥陀さまが助けてくだされるのだ」

と話をし、こんな話を聞かされた者は、

喜べない自分の心とピタリときて

喜べないままのお助け、何と有り難いことが

『歎異抄』には書いてあるのか、

と『歎異抄』が大好きになるのです。

ここに『歎異抄』の問題点があり、蓮如上人は、

これを誰にでも読ませてはいけない、

当流大事の聖教と仰っています。

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これはカミソリのようなもので、カミソリは子供が持てば

大変危険なものですが、大人が使えば

大変便利なものであるように、読む人によって非常に危険な

内容の本にもなるし、信心獲得した人にとっては

味わいのある本になるということです。

 

●桁外れの喜び

 

それではこの九章は、信心獲得した人が読むと、

どのようになるのか。

親鸞聖人はこの問題の箇所の後に、

「唯円喜べないか、親鸞も踊躍歓喜の心はない。

そこで唯円、こんな喜ばなければならないことを

喜ばない者を、阿弥陀仏が助けてくだされたとは

何と不思議なご本願ではないか、

いよいよ喜ばずにおれないなあ」

と、聖人は喜んでおられるのです。

親鸞聖人の喜びは、喜ばない自分の心を知らされれば

知らされるだけ、こんな者がどうして救われたのか、

絶対の幸福の身になったのかと喜びが湧き上がってくるのです。

この広大難思の慶心、心も言葉も絶えた喜びは信心獲得しなければ

想像もできない喜びです。

信心獲得した人でなければ、この聖人の桁外れの喜びというものを

この『歎異抄』から読み取ることはできません。

私たちは阿弥陀仏に救われ大慶喜心が起きるところまで

求め抜かなければなりません。

 

●見仏得忍

 

信心獲得すれば阿弥陀仏を見て敬い、大慶喜の心が起きてきます。

阿弥陀仏を、私たちの肉眼で見るということではなく、

心眼で阿弥陀仏を見せていただくのです。

心眼とは私たちの心の眼ではなく

阿弥陀仏より賜った心の眼ということです。

阿弥陀仏を見たてまつった時に、

信心獲得の身の上になります。

『観無量寿経』の中には、韋提希夫人が阿弥陀仏を見た時に

救われた、見仏得忍と説かれています。

 

●同時即

 

阿弥陀仏に救われますと、「即応超截五悪趣」とありますように、

その時に横に五悪趣を超截することができます。

「即」には二通りの意味があります。

同時即と異時即で、同時即とは時を隔てず処(ところ)を隔てず

という意味です。

異時即とは、例えば船に乗ったら即ち岸に渡ることができる。

飛行機に乗ったら即ちアメリカに行ける、

といったように時間や場所のずれがある即ちです。

この『正信偈』の「即」は同時即です。

信心獲得したその時その場所を意味しています。

 

●五悪趣を超截する

 

「横」とは、他力を表します。

他力とは阿弥陀仏の本願力のみを示します。

「截(ぜつ)」はたち切るということで、

「五悪趣」とは五つの悪い世界、六道(六界)のことです。

大きくは三界、こまかく分けると二十五有界になります。

地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六界の

中の修羅界をぬいて五悪趣といいます。

地獄界とは苦しみの大変激しい世界で、

この世の溶鉱炉の火を地獄に持ってゆくと

霜か雪になってしまうといわれます。

餓鬼界は常に欲しい欲しいと満たされていない世界で、

食べ物があって近づき口にしようとすると

ボーッと青白い炎になってしまう恐ろしい世界です。

畜生界は淫欲まんまんとして常に不安が

つきまとっている世界です。

眠っている犬に足音を忍ばせ近づいていっても

どうしても気がつかれてしまいます。

それだけ神経をピリピリさせているということです。

人間界は常に善悪を問題にしている世界です。

天上界は天人の世界ですが、やはり天人の五衰があり

苦しみ迷いの世界です。

 

●現在の五悪趣

 

これらの世界は、死後にのみ存在するのではなく、

現在の私たちの心の中にうごめいています。

「私ほど業なものはいない」

と言って苦しみ悩んでいるのはこの世の地獄です。

名利を求め財を求め満たされないといっているのは

この世の餓鬼です。

不安におびえているのは心が畜生界に生まれているのです。

そして人間は善悪を問題にし、

善を欲し悪を恐れています。

また思いがけないお金が手に入ると心はたちまちに

天上界に上がります。

このように私たちの現在の心の中にこの五つの世界があり、

もちろん死後にもこの世界が続くのです。

 

●引業と満業

 

私たちが死にますと、次にどの世界に生まれるのかを、

業(行為)が決めます。

業不滅といい、私たちは身口意の三業によって

未来の運命を造っているのです。

世の中にいくら背の高い人がたくさんいても一番高い人は

ただ一人のように、たくさんの業があっても

その中で一番重い業は一つしかありません。

生涯に造った業の中で最も重い業が

私たちの死後生まれる世界を決定し、

これを引業といいます。

引業以外の一切の業を満業というのです。

この満業が死後生まれた世界のさまざまな運命を

引き起こすのです。

業の収まっているところを阿頼耶識といい、

あらゆる業が収まっていますから

蔵識とも業識ともいいます。

私たちは身口意の三業でろくな因(たね)まきを

しておりませんから、必ず三悪道に堕ちてゆかねばならない

一大事が惹起します。

死後生まれるのは結果で、これには必ず原因があります。

現在の私たちの心の中に五悪趣がうごめいているということです。

阿弥陀仏に救われた即時に、現在の私たちの心の中の

五悪趣を超截することができるのです。

因が解決されるのですから当然結果を引き起こしません。

阿弥陀仏に救われますと、現在から五悪趣を超截して

再び三悪道に迷うことのない身の上になるのです。

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『正信偈』講話③ [正信偈]

以下の動画を見られると真実の仏教がどういうことを教えられているのか

よくわかります。

菊谷講師の他の動画も観られると本当にその通りだなと

感動せずにはおれないと思います。


【仏教の原点】人は死んだらどこへ行くのか



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(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)


摂取心光常照護 摂取の心光は常に照護したまう

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これはおなじみの『正信偈』の一節である。

「摂取の心光は常に照護したまう」

と読むのだが、親鸞聖人が、すべての人間が阿弥陀仏に救われたら

どうなるのかを教えられたものである。

まず「摂取の心光」の心光とは阿弥陀仏の光明のことである。

光明とは仏の力、仏の念力を表す。

念力とは念ずる力のことであるが、

念力とは物を動かしたり、人を動かしたりする。

私たち人間にもある。

かつてテレビで日本中の話題をさらった番組に、

ユリ・ゲラーの「念力によるスプーン曲げ」があった。

あの不思議な超能力も実はこの念力の応用である。

今日、念力とは光と同じ作用をすることが

念写の実験により証明されている。

念写とは、念じたことが写真のフィルムに写る

現象のことであるが、これによって、釈尊が念力を

光明と言われた達見に驚かざるを得ない。

大願業力といわれる弥陀の光明とは、

一念で私たちを絶対の幸福に救い摂られる

素晴らしい念力なのである。

 

●遍照と摂取

 

この弥陀の光明を大別すると、遍照の光明と摂取の光明の

2つに分かれ、それぞれ働きが異なる。

遍照の光明とは、すべての人間を遍く照らし、

真実の仏法を聞かせようとしてくださっている

阿弥陀仏のご念力のことである。

邪教に迷っている人も、重罪で獄中にある人も、

例外ではない。

また、人間界ばかりでなく、地獄・餓鬼・畜生界、

それに修羅・天上界、六道輪廻のあらゆる衆生も照らして、

何とか人間界に押し出そうとしてくださっている。

この遍照の光明の縁に遇わぬ者は一人もいない。

このことから、

「私たちは弥陀の光明に包まれているのだから、

すでに助かっているのだ」

という者がいるが、これは誤りである。

遍照の光明は別名、調熟の光明ともいい、

私たちが信心決定するまで、心を調え、

宿善を熟してくださる光明であるから、

この遍照の光明に押し出されて仏法を求め、

次の摂取の光明に出遇った時、

信心決定、と助けていただくのである。

遍照の光明では助からず、摂取の光明を体験して

初めて救われるのである。

これを摂取の心光ともいう。

蓮如上人は、『御文章』に、

「この摂取の光明に遇いたてまつる時剋をさして、

信心の定まるとは申すなり」

           (三帖目一通)

とか、

「そのたのむ衆生を、光明を放ちて、

その光の中に摂め入れ置きたまうなり」

           (三帖目四通)

とか、

「即ち是れ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明の中に摂取して」

           (四帖目六通)

と説いておられる。

摂取とは摂取不捨ということ、摂め取って捨てたまわず、

の意である。

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●摂め取って捨てたまわぬ

       大慈悲心

 

例えば、ある親子が寝ていたところ、川が氾濫して、

洪水が押し寄せてきた。

電気は消え、親子ともども水に流されようとした。

その時、暗闇で父が、

「おい、しっかりワシの帯につかまっていろよ、

岸まで泳ぐからな」

と、子供に帯をつかまらせて泳いで岸についた。

ところが、子供は途中で、力尽きて手を離して死んでしまった。

この場合、子供は自ら力を出して帯にすがらねばならないから、

摂取不捨にならない。

子供をしっかり抱きかかえ、離れようとしても離さず、

何の力もいらない状態で岸まで連れてゆく。

「常に照護したまう」とは、常に人生という生死の苦海を、

阿弥陀仏に摂取不捨と抱きかかえられて

照らし護られているという、大安心・大満足の自覚があるぞ、

と親鸞聖人が叫ばれたお言葉である。

私たちは、この摂取の光明のご縁に遇うまで、

聞法精進しなければならないのである。

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摂取心光常照護 摂取の心光は常に照護したまう、

已能雖破無明闇 已に能く無明の闇を破すと雖も、

貪愛瞋憎之雲霧 貪愛・瞋憎の雲霧、

常覆真実信心天 常に真実信心の天を覆えり、

譬如日光覆雲霧 譬えば日光の雲霧に覆わるれども、

雲霧之下明無闇 雲霧の下明らかにして闇無きが如し

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●人生の目的は破闇明闇

 

「摂取の心光は常に照護したまう」

とは、無上仏のすごいお力によって親鸞は

絶対の幸福にさせていただいた、

誰でも同じようになれるんだ、

と教えられたお言葉です。

「已に能く無明の闇を破すと雖も」

の「已に」とは、過去のこと。

「無明の闇」とは、苦悩の根源です。

苦しみの原因がわからないと、

取り除いて幸福になることはできません。

なぜ苦しいのか。

金がないからだ、こんな人と結婚したからだ、

こんな子供を持ったからだ、といろいろ思いますが、

これらは根源ではない。

枝葉です。根源はたった一つ。

それを「無明」とつきとめられたのが、

釈尊の偉大な功績なのです。

無明とは、光がない、明かりがない、闇の心です。

どれだけ科学が進歩し便利になり、物が豊かになっても

幸せにはなれない。

科学も医学も、相対的な幸せしか与えてくれません。

我々の求める絶対の幸福は、

無明の闇を破らない限りなれないのです。

だから、全人類の目的は、無明の闇を破ることにあります。

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●無明の知らされ方

 

ところがほとんどの人は、無明をもっていることに

気づいていません。

ではどうすれば、無明が知らされるか。

親鸞聖人の教えを真剣に聴聞し、教えの通り実行してゆくと、

知らされてきます。

何をしても空しい、満足できない。

バク然とした不安が襲ってくる。

物質的には何の不満もないのに、

どうして心にポッカリ穴があいたように空しいのか。

このまま一生終わっていいんだろうか。

芥川龍之介が「ぼんやりした不安」と言って

自殺した心に通ずるものです。

親鸞聖人のみ教えをまじめに求めてゆきますと、

無明の心がさまざまに感じられてきます。

聞いても聞いてもわからない。

だからといって放っておけない。

念仏称えても味がない。

称えないと不安で、称えずにおれない。

ある時はこれでいいと安心するけれど、

またある時はこんなことではなあ、と不安になる。

若存若亡と曇鸞大師が仰った。

これが無明の闇です。

おかる同行は、

「夜明けに向こうたようでもない。

真っ暗がりのようでもない」

と言っております。

もう一歩突っ込むと、文字通り闇の心と知らされます。

後生とふみ出して、ハッキリしない心は、みな無明です。

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●学問ではわからぬ心

 

無明の闇は、学問だけではわかりません。

実地に真実の教えを求めてゆかないとわからないのです。

その無明の闇が破れたらハッキリします。

その体験を、信心決定、絶対の幸福、無碍の一道というのです。

曇鸞大師は破闇満願と教え、無明の闇が破れ、

人生究極の願いが満足させられる。

略して破満ともいいます。

「摂取心光常照護」と「破闇明闇」は同じことです。

 

●変わる心と変わらぬ心

 

「已に能く無明の闇を破すと雖も」

というのは、信心決定してもということ。

信心決定しても、変わるところと変わらんところがある。

どこが変わり、どこが変わらないのか。

「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり」

貪は貪欲、愛は愛欲、瞋は怒り、憎はニクシミ、

これらをみな煩悩といいます。

人間は煩悩のかたまり。

煩悩具足の凡夫とか、煩悩成就の凡夫、

『歎異抄』には煩悩熾盛の衆生とあります。

煩悩を油にたとえると、油のかたまりに火がついて、

燃えさかっておるのが、人間です。

親鸞聖人はこれらの煩悩を雲や霧にたとえられ、

常に覆いかぶさっていると仰るのです。

無碍の一道へ出ても、常に煩悩は変わらないのです。

 

●はかり難い絶対の境地

 

無上仏に救われたと聞くと、欲は少なくなり、

腹も立たんようになる、憎しみの心もなくなるのだろうな、

とみんな思っています。

しかし親鸞聖人は、「それはまちがいだ」と教えられています。

では、煩悩がなくならないままで、

どうして絶対の幸福になれるのだろうか、

という疑問がおこります。

そんなことがあり得るとは思えません。

しかし、信心決定したら、その通りだったなあと

ハッキリ知らされます。

『教行信証』の中に親鸞聖人は生々しくそれを書いておられます。

三かな文といわれて有名です。

「爰に愚禿釈の親鸞、慶ばしき哉や、

西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に遇い難くして

今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」

                (教行信証総序)

「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、

真証の証に近づくことを快まず。恥ずべし、傷むべし」

                (教行信証信巻)

「慶ばしき哉。心を弘誓之仏地に樹て、

念を難思之法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、

良に師教の恩厚を仰ぐ。

慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」

             (教行信証後序)

 

●真実開顕のご辛苦

 

『教行信証』は、親鸞聖人が90年の心血を注いで書かれた、

浄土真宗の根本聖典です。

「慶ばしき哉」と「悲しき哉」では、まるっきり反対。

どっちが本当なのか。

どちらも事実なのです。

悲しい親鸞と、慶ばしい親鸞とは、同時にあるんです。

同時に書けませんが、本当は、前後がないんです。

この真実をいかに伝えるか。

ここに、親鸞聖人の辛苦があるのです。

親鸞聖人は、「慶ばしき哉」の中に「悲しき哉」を

はさんでおられます。

人間の考えでは、時間によって変わられたように思うでしょうが、

同時なのです。

これが、絶対の境地であり、無碍の一道なのです。

『正信偈』に三かな文をあてはめると、

「摂取心光常照護」は総序の「慶ばしき哉や・・・」、

「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」

は「悲しき哉・・・」、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」は

「慶ばしき哉・・・」にあたるでしょう。

 

●懺悔の中に歓喜あり

 

はじめに総序のお言葉ですが、愚禿釈の親鸞とは、

愚かな親鸞は何とうれしいことか。

真実の仏法を教えてくださる方に導かれ、

信心決定させていただいた。

「遇うことを得たり」、「聞くことを得たり」は

聞即信のこと。

無上仏のお呼び声を聞かせていただいて、

絶対の幸福にさせていただいたー、というお叫びです。

こんな喜びの身になったら煩悩は少なくなったのかというと

「悲しき哉、愚禿鸞」と仰るのです。

何を悲しまれたのか。

愛欲の広さ、深さ、限りなき、まさに広い海であり、

沈没して、永久に浮かばれない、

愛欲から離れることが、瞬時もないと言われています。

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●聖人の自己告白

 

また、名利の大山に迷惑しておられます。

名は名誉欲、利は利益欲。

これらが大山ほどあって、苦しんでおられるのです。

無明の闇が破れて明るくなってハッキリ知らされた、

真実の自己を告白しておられるのです。

こんな親鸞が助かったのだから、みんな救われますよと、

素っ裸の姿をさらけ出されたのです。

これが地獄しかゆき場のない親鸞の姿なのだ、と。

「定聚の数に入ることを喜ばず」は、

絶対の幸福に救われたことを喜ぶ心がない、

という意味です。

親鸞聖人でさえ、喜ばれんと仰っているのに、

我々が喜ばれるはずがない。

喜ばれんのが当たり前と言う人があります。

喜ばれんのが当たり前と言うなら、

親鸞聖人の「慶しき哉」はどうなるでしょうか。

「慶しき哉」と「悲しき哉」の会通ができなくなってしまいます。

ノーベル賞をと貰った人でも、分からん世界なのです。

人間の智慧でわかるものなら、大したことはありません。

わかったら、「不可称不可説不可思議」とは言われません。

「いつつの不思議をとくなかに

仏法不思議にしくぞなき

仏法不思議ということは

弥陀の弘誓になづけたり」

という、不思議な世界があるのです。

華厳宗の学者鳳潭(ほうたん)が、

『教行信証』を「キチガイの書いた本だ」と

庭先に捨てたのも、この世界がわからなかったからでしょう。

喜ぶ心の微塵もない者が救われたとは、

何という不思議かいなーという喜びです。

 

●喜ばぬ心に懺悔

 

次に「真証の証に近づくことを快まず」と仰っています。

真証とは仏のさとりです。

正定聚になるのはこの世だけれども、

仏になるのは死んでからです。

信心決定した人は、日一日と極楽へ近づく。

だから楽しいはずなのに、少しも楽しむ心がない。

『歎異抄』では、

「苦悩の旧里は棄てがたく、いまだ生まれざる

安養の浄土は恋しからず候」と仰っています。

しかし、親鸞聖人は、

「喜べないのが当たり前」

と仰っているのではありません。

「恥ずべし、傷むべし」とあります。

こんな幸福にさせていただいて、

どうして喜ばないのか、懺悔しておられるのです。

このお気持ちがわからないのです。

 

●粉骨砕身の喜び

 

最後は、後序のお言葉。

「心を弘誓之仏地に樹てる」

とは、本願の大地にたてることです。

この世は無常ですから、幸福も砂上の楼閣のように

グラグラしています。

無常のものに基礎をおけば、くずれるに決まっています。

親、子供、恋人、妻、夫、金、地位。

すべては無常です。

弘誓の仏地は不変です。

だから、本願の大地に信念が立ったら、

くずれようがありません。

「念を難思之法海に流す」とは、常に念(おも)いが、

不可思議の仏法に流されてゆくことを、仰ったのです。

そして、深く無上仏の広大な慈愛を知らされ、

導いてくだされた善知識のご恩を仰がずにおれない。

恩徳讃と同じです。

「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」

この喜びどうしようか、じっとしておれない。

最高のご恩に、報いずにおれない。

身を粉にしても、骨を砕いてでもやるぞ、

という行動となって表れるのです。

行動にあらわれない喜びは、ウソです。

 

●信前信後の決定的相違

 

以上のように、絶対の悲しみと絶対の喜びとが同時にあるのが、

絶対の幸福です。

それを親鸞聖人は『正信偈』に、

「日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明らかにして闇無きが如し」とたとえられたのです。

雲や霧がいくらかかっても、その下に闇はない。

ここがちがう。

闇があるのは助かっていないから。

信心決定すると、煩悩は変わらないけれど、

無明の闇はなくなってしまうのです。

親鸞聖人は、『正信偈』のここで大変なことを

教えておられることを、知っていただきたいと思います。


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『正信偈』講話② [正信偈]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。

 

●すべて無上仏の独用(ひとりばたらき)

 

4歳で父君、8歳で母君と死別された親鸞聖人は、

無常を痛感され、9歳で仏門に入られた。

比叡山では、千日回峯行をしのぐ、大曼の行をも実践なされ、

ご修業は峻烈を極めた。

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29歳で親鸞聖人が救い摂られたのは、

20年間のご修行の結果である、と思っている人が多い。

だが、『正信偈』の冒頭に聖人は仰っている。

「帰命無量寿如来

 南無不可思議光」

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

帰命と南無は同義語で、「信順無疑」、平易に言えば、

「救われた」ことである。

無量寿如来も不可思議光もともに阿弥陀仏のこと。

「阿弥陀仏に救われた、助けられた」と繰り返されている。

すべては阿弥陀仏のお力であった、

と告白なされているのである。

ひとえに無上仏の独用(ひとりばたらき)で救われる。

その訳を次のお言葉でご教示なされているのである。

「法蔵菩薩因位時

 在世自在王仏所」

(法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所に在して)

法蔵菩薩とは阿弥陀仏の成仏前の御名である。

仏の位を果位(かい)といい、菩薩の位を因位(いんに)という。

仏教では、凡夫が仏になるまでに

52のさとりの階程があると教えられている。

最高位の52段目を仏覚といい、

菩薩とは仏覚を目指す人のことである。

法蔵菩薩の師は、世自在王仏であった。

「世自在王仏の所(みもと)に在して(ましまして)」

と仰っているのはそのことである。

ある時、法蔵菩薩が師仏に手をついて頼まれた。

「お願いがございます。苦悩に喘ぐ十方衆生を

私に助けさせていただきたいのです」

「法蔵よ、十方衆生はいかなる者か、知ってのことか」

「はい」

「大宇宙のあらゆる仏が、一度は助けようとしてみたが、

『とても助けられぬ』と見捨てたほどの悪人なのだぞ」

「よく存じております」

 

●十方衆生の実相

 

十方衆生とは、大宇宙のすべての人のことであるが、

世自在王仏と法蔵菩薩は、十方衆生を

いかなるものと見ておられたのか。

『大無量寿経』に、釈尊は人間の実相を

次のように道破なされている。

 

心常念悪 心は常に悪を念い

口常言悪 口は常に悪を言い 

身常行悪 身は常に悪を行い

曽無一善 曽て一善も無し

 

我々の心と口と身でやる行為は悪ばかり。

一つの善も無い、十悪・五逆・謗法の者と説かれている。

だから、後生必ず無間地獄に堕在する、

と断言なされる。

世自在王仏や法蔵菩薩の見られる「私」と、

私の見る「私」とに、大きな隔たりがあるのだ。

法鏡に照らし出された真実の自己を親鸞聖人は、

次のように告白なされている。

「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、

真証の証に近づくことを快(たの)しまず」

               (教行信証信巻)

「愚禿鸞」とは聖人ご自身のこと。

「何と情けない、愚かな親鸞か」

と懺悔なされている。

愛欲が大海の如く広がり、沈み切っている相を、

「愛欲の広海に沈没し」。

「名利の大山に迷惑して」

名利とは、人から褒められたい名誉欲と、

一円でも欲しい、という利益欲である。

それらが大きな山のようにあり、迷惑していると、

赤裸々に告白されている。

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「定聚の数に入ることを喜ばず」

阿弥陀仏に救われ、51段高とびさせていただくことが

「定聚の数に入る」ということ。

「親鸞そんな幸せ者になりながら少しもそれを喜ぶ心がない」

「真証の証(さとり)に近づくことを快(たのし)まず」

定聚の数に入った人が、死ぬと同時に浄土往生し、

弥陀同体のさとりを開くことが、「真証の証」である。

「日一日と、浄土へ近づいている親鸞なのにそれを喜ぶ心も、

楽しむ心もない。助かる縁手がかりのないのが、

この親鸞。

そんな親鸞を、『助けさせてください』と

手をついて頼まれた方が法蔵菩薩である」

 

●助くる弥陀が手を下げて

 

ところが自惚れて、我が身知らずの十方衆生は、

世自在王仏と法蔵菩薩との必死のやりとりを聞いても、

お伽噺としか思えない。

十方衆生を助けるとはいかに困難なことか、

世自在王仏は一つの譬えで示された。

「大海の水を升で汲み干し、海底の宝を獲る以上に

至難なことなのだ。

それでもそなたは為そうとするのか」

それでも法蔵菩薩は後に引かれなかった。

「私がやらねば、十方衆生は助かることはありません。

どうか、助けさせてください」

幾重にも伏して懇願される法蔵菩薩を、

ついに世自在王仏は許されたのだ。

躍り上がって喜ばれた法蔵菩薩。

かくて世自在王仏の前で誓われたのが、

阿弥陀仏の四十八願であり、中でも王本願と言われるのが

第十八願である。

「どんな人も

   必ず助ける

    絶対の幸福に」

無上殊勝の本願がここに成就せられたのである。

助けていただく我々が頭を下げて当然なのに、

助ける方が「助けさせてくれよ」と手を下げておられる。

「能く能くお慈悲を聞いてみりゃ、

助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、

ほんに今まで知らなんだ」

信心数え歌にも歌われていることである。

こんなことが他にあるだろうか。

お願いする心もない。

そこまで人間の実相を洞察されて建てられた願いは

どこにもない。

 

●法蔵の願心あればこそ

 

真実のカケラもない我々が仏道を進ませていただけるのは、

まことに法蔵菩薩の願心による。

「もう聞くまい」

と断念しても、なぜか法話会場へ足を運んでいる。

不思議なことである。

偏に法蔵菩薩の願心あればこそ、である。

「帰命無量寿如来

 南無不可思議光」

「20年間の修行も間に合わなかった。

長年の学問も一切役に立たなかった。

すべて、阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)であった」

知らされた真実を、親鸞聖人は叫ばずにおれなかったのである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

普放無量無辺光 あまねく無量・無辺光、

無礙無対光炎王 無礙・無対・光炎王、

清浄歓喜智慧光 清浄・歓喜・智慧光、

不断難思無称光 不断・難思・無称光、

超日月光照塵刹 超日月光を放ちて塵刹を照らす、

一切群生蒙光照 一切の群生、光照を蒙る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

世に「親の七光(ななひかり)」と言う。

著名人の跡取りが選挙に勝てば、

名選手の息子が人気を博せば、

「あれは親の七光だ」

と囁かれる。

もちろん、頭から光を出すはずはないが、

親の力を、光で表しているのである。

仏教では、阿弥陀仏の偉大なお力を「光」で表す。

 

親鸞聖人は『正信偈』に、阿弥陀仏の十二のお力を、

前の文章で教えられている。

『大無量寿経』に説かれた釈尊の教説を、

無我に相承なされたものである。

無量光から聞かせていただこう。

 

①無量光

 

阿弥陀仏のお力には限りがないことが、

無量光ということである。

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「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」

と親鸞聖人も仰せのように、縁さえくれば、

どんなことをするか分からないのが我々である。

そんな者と見抜いて、

「どんな者でも、必ず助ける」

と阿弥陀仏が誓われているのは、無量光の仏でなければ

できない誓いである。

それを、

「悪いことをしたから助からん」

「こんなことを思うから駄目なのでは」

などと思うのは、無量光を疑っている心である。

「願力無窮にましませば

 罪業深重もおもからず

 仏智無辺にましませば

 散乱放逸もすてられず」

       (正像末和讃)

無窮の願力だ。どんな極悪人でも救われる。

阿弥陀仏の無量光を教えられた親鸞聖人のお言葉である。

 

②無辺光

 

十方微塵世界(大宇宙)で阿弥陀仏のお力の届かない所はないから、無辺光と言われる。

どんな所で、何をしていても、無碍の一道へ出させようと、

常に働いてくださっているのが無辺光である。

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③無礙光

 

太陽の光も、レントゲン線も、障害があれば、

通らないが、阿弥陀仏の光明は、何物も遮ることはできない。

「私のような悪人は助からんのでなかろうか」

本願を疑う自力の心をも破ってくださるのは、

無礙光なるが故に、である。

 

④無対光

 

阿弥陀仏のお力は、他の何者とも比べることはできない。

「諸仏の光明の、及ぶこと能わざる所なり」

とあるように、三世諸仏(大宇宙のあらゆる仏方)からも

見捨てられた我々を助けることができるのは阿弥陀仏だけである。

 

⑤光炎王光

 

「人身受け難し、今已に受く」

人間に生まれたことを喜ぶべし、と釈尊は仰っている。

なぜか。

仏教では迷いの世界が六つあると教えられている。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六界である。

中でも苦しい地獄・餓鬼・畜生界に生まれる者は

大地の土の如くであるのに、人間に生まれる者は

爪の上の土の如し、と言われる。

生まれ難い人間界に生まれた有り難き、目的は何か。

迷いの打ち止めをさせていただけるのは、

人間界でなければできないからである。

人間界に生まれるのは、五戒を持つ(たもつ)功力による、

と『御文章』に教えられている。

殺生してはならぬ、嘘をついてはならない、など。

我々がそんな五戒を持ってきたとは、

とうてい思えない。

光炎王光の働きで人間界に生を受けられたのである。

 

⑥清浄光

 

貪欲を照らす働きである。

照らされたらどうなるか。

清九郎と言えば、大和国(奈良県)の妙好人である。

阿弥陀仏の救いを喜んでいた人である。

「清九郎には欲がないのか、試してみよう」

と、友人が、清九郎が参詣する寺の本堂に、

銭の詰まった財布を置き、清九郎の行動を、蔭で見た。

お念仏を称えながら、清九郎、本堂に入ると

財布が落ちている。

周囲をうかがい、誰もいないのを確かめるや、

財布を懐に出て行った。

友人らは騒いだ。

ところが、間もなく清九郎が引き返してきた。

彼は本堂の阿弥陀さまに向かって泣いている。

「こんな幸せな身にさせていただきながら、

汚い心が出てきました。

申し訳ありません。申し訳ありません」

財布を仏前に供えて、懺悔している。

「あそこが違うのか」

と、友人たちは感心したという。

救われても欲は変わらないが、

清浄光に照らされて懺悔となり、歓喜になる。

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⑦歓喜光

 

瞋恚(しんに・怒り)を照らす光である。

怒りはすべてを焼き尽くす恐ろしい心である。

「恐ろしい心」が照らされて懺悔となり、歓喜となる。

 

⑧智慧光

 

因果の道理を知る力を智慧というが、

それの分からぬ心が愚痴である。

自らの不幸を他人のせいにして恨み、

他人の幸福を妬み、嫉む。

そんな大馬鹿者を照らして「馬鹿だなあ」と

知らせてくださるのが智慧光である。

 

⑨不断光

 

途切れることのない阿弥陀仏のお力をいう。

「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」

不断光に照らされるから、阿弥陀仏のご恩を忘れがちな身を

思い出しがちにさせるのだ。

 

⑩難思光

 

十二光の働きは、心も言葉も絶えたもの。

 

⑪無称光

 

とても言葉に表せない。

 

⑫超日月光

 

太陽や月の光も超えた光である。

 

「三世諸仏に見捨てられたこの親鸞が、

救われたのはひとえに阿弥陀仏の十二光のお力であった」

と、親鸞聖人が無上仏の偉大なお力を讃嘆なされているのである。

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