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わがまま女を〝婦人の鑑〟に変えた釈迦の「七婦人」の教え [ブッダと仏弟子の物語]

   わがまま女を〝婦人の鑑〟に変えた

         釈迦の「七婦人」の教え

 

お釈迦さまの説かれた『玉耶経(ぎょくやきょう)』に

登場する玉耶姫は、後生、〝婦人の鑑〟といわれましたが、

初めは身勝手で、家族を大変困らせた女性でした。

 

どんなお釈迦さまのご教導で、

大変わりしたのでしょう。

 

「祇園精舎」の建立で有名な、

インドの給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)が、

一人息子に玉耶という美しい嫁を迎えた。

ところが美貌にうぬぼれ、〝嫁いでやった〟の意識が

強い玉耶は、家族の和を乱していた。

困り果てた長者が、〝何とか心がけがよくなるようお諭しを〟

とおすがりすると、同情されたお釈迦さまは早速、

大勢のお弟子と長者の屋敷へ赴かれる。

だが、ヘソを曲げた玉耶は、部屋に隠れて出てこない。

そこでお釈迦さまは、神通力で屋敷を全て透き通るガラスに

変えてしまわれた。

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玉耶姫は驚き、自ら飛び出してお釈迦さまの前にひざまずいた。

玉耶よ。いかほど容姿が美しくとも、

心の汚れている者は醜いのだ。

それよりも心の美しい女になって、

誰からも慕われることが大切とは思わぬか

と優しく諭され、彼女に「七婦人」を示された。

それが、次の7通りの婦人です。

 

①母の如し

②妹の如し

③善知識の如し

④婦の如し

⑤婢の如し

⑥怨家の如し

⑦奪命の如し

 

初めの「母の如し」とは、母親が子供を養育するように、

愛情豊かに夫と接する妻をいいます。

次の「妹の如し」は、妹が兄を尊敬し、

慕うように夫に仕える妻のこと。

「善知識の如し」とは、一切の人々を真実の幸福に導く

善知識(仏教指導者)のように、常に夫を善導し、

成功に至らしめる賢夫人をいいます。

「婦の如し」とは、時に夫婦ゲンカもするし、

仲良くもなる。夫と対等のフツウの妻です。

「婢の如し」は、召使のような妻。

自己主張をせず、何事も黙々と服従する女性を表します。

「怨家の如し」の「怨家」とは、

夫に恨みを持ち、〝こんな男と結婚したから・・・〟と、

恨み続ける妻のことです。

「奪命の如し」とは、日々、〝死んでくれ〟と夫を憎み、

ついには命を奪ってしまう恐ろしい妻をいいます。

 

じっと聞いていた玉耶は、「怨家」「奪命」の説明に、

〝心をのぞかれているのでは〟とギクリとした。

紛れもない。これは私のことだわ

教えの光で、これまでの悪態の数々が知らされ、

自堕落で身勝手な自分の姿が照らし出されたのである。

お釈迦さまは穏やかに、

玉耶よ、これが7種の婦人だが、

そなたは自分をどれだと思われるかな

お釈迦さま。私は・・・怨家と奪命を

こね合わせたような者でございます

即座に答える玉耶。

それはよい婦人かな?

いいえ、恐ろしい女です。私ほどの悪女はありません。

こんな私が救われるには、どうしたらよいのでしょう?

聞く心になった玉耶に、諄々とお釈迦さまは

仏法を説かれた。

やがて心から悔い改めた玉耶は、後世、婦人の鑑と

称賛される女性となり、一家和合の給孤独の家は

ますます繁栄したという。

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まず毒矢を抜け [ブッダと仏弟子の物語]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

         まず毒矢を抜け

 

その修行者が仏陀の元に来た時のことを、

阿難はよく覚えている。

目を険しくいからせた男は、真摯に求道の指針を仰ぐ弟子たちとは

雰囲気が違う。

無為な議論のために来たことが、誰の目にも明らかだった。

こんなことは今までもよくあったが、

釈尊(お釈迦さま)はいつも同じ姿勢を貫かれる。

かつて大樹の陰で瞑想されていた時、

近づいてきた男が、

「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、

葉の数を知っておられるか」

と問うたことがある。しずかに世尊は言い放たれた。

「知りたければ、そなた、数えてみよ」

戯論(けろん)に応ずることも、また戯論である。

本質と無関係な議論に、釈尊は一刻たりとも使われない。

生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからだ。

一方、相手の多くは腹を立て、悪口雑言を並べて去っていく。

仏の威徳に打たれ、恭順する者もあるが、

〝彼はどうだろう〟。阿難は冷静に見守った。

「世尊は私の知りたいことを少しも教えてくださいませんね。

満足のいくお答えが頂けないなら、私は出家をやめたいと

思っています」

入ってくるなり弟子は言った。

知りたいこととは、「宇宙に果てはあるのか」

「世界はいつまで続くのか」などの問いであった。

〝それを知るのがさとりへの第一歩だ〟とばかりに、

彼は胸を張る。

世尊は彼に問うた。

「そのようなことを教えるから、わが元で修行せよと、

そなたに約束しただろうか?」

〝いえ、そうでは・・・〟。

修行者は小声であわてて否定する。

「もし仏がその問題について説かないうちに、

そなたが命終えたらどうなる?」

仏陀の問いに、弟子の勢いは次第に萎えていく。

続けて釈尊は、例えで修行者を諭された。

「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。

一刻も早く抜かなければ命が危ない。

友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』

と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。

男か、女か。その者の名前は。何のために矢は射たのか。

矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、

この矢を抜いてはならん』と言い張った。

やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」

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阿難は修行者の様子を窺った。

男の愚かしさが自己に引き当てられたのか、

身じろぎもせずに、彼は聴き入っている。

阿難はその仏縁をただ念じた。

世尊のお言葉は続く。

無常は迅速である。今、こうしている間にも、老いや病、

そして死の苦しみが現実にあるではないか。

われはこの苦悩の根本原因と、その解決の道を説いているのだ。

人生の大事は何か。よくよく知らねばならない

仏教の深遠さに触れ、己が誤りを知らされたものか、

修行者の表情から、先ほどの怒気が消えていた。

穏やかなその顔を見て、阿難もようやく安堵する。

そして静かに長く、息を吐いた。


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こうまでしてくださらないと分からない私でした [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

「こうまでしてくださらないと

     分からない私でした」

       愛児を亡くしたキサーゴータミー

 

事実でも、話に聞くだけでは理解できない、

受け入れられないことが、世の中には多くあるでしょう。

そんな時、実際に体にかけて確かめることが、

非常に大切です。

そんなお釈迦さまのご教導を、今回はお聞きしましょう。

 

釈迦ご在世中、キサーゴータミーという麗しい女性がいた。

結婚して玉のような男の子を生んだ。

ところが命より大事に育てていたその子が、

突然の病で急死してしまう。

彼女は狂わんばかりに愛児の亡骸(なきがら)を

抱き締め、この子を生き返らせる人はないかと

村中を尋ね回った。

会う人見る人、その哀れさに涙を誘われたが、

死者を生き返らせる人などあろうはずがない。

だが今の彼女には、何を言っても聞く耳を持たないと

思ったある人が、

「舎衛城にましますお釈迦さまに聞かれるがよい」

と諭した。

早速、キサーゴータミーはお釈迦さまを訪ね、

泣く泣く事情を訴えて子供の蘇生を懇願した。

哀れむべきこの母親に、お釈迦さまは優しく、

こう告げられている。

あなたの気持ちはよく分かる。

いとしい子を生き返らせたいのなら、

私の言うとおりにすればよい。

これから町へ行き、今まで死人の出たことのない家から

ケシの実を一つかみもらってくるのだ。

すぐにも子供を生き返らせてあげよう

 

お釈迦さまの真意を知る由もないキサーゴータミーは、

それを聞くなり、町へ向かって一心に走った。

しかし、どの家を訪ねても、

〝昨年、父が死んだ〟

〝夫が今年亡くなった〟

〝先日、子供と死別した〟

という家ばかり。だが、彼女はなおも、

死人の出ない家を求めて駆けずり回った。

どの家にもケシの実はあったが、

死人を出さない家はどこにもなかった。

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●実行したから

    知らされた

 

やがて日も暮れ、夕闇が町を包む頃、

心身ともに疲れ果て、歩く力も尽きた彼女は、

トボトボとお釈迦さまの元へと戻っていた。

ゴータミーよ。ケシの実は得られたかな

世尊、死人のない家はどこにもありませんでした。

私の子供も死んだことがようやく知らされました

そうだよ、キサーゴータミー。

人は皆死ぬのだ。明らかなことだが、

分からない愚か者なのだよ

本当に馬鹿でした。こうまでしてくださらないと、

分からない私でございました。

こんな愚かな私でも、救われる道をお聞かせください

彼女は深く懺悔し、仏法に帰依したという。

 

相手の心に応じたこのようなお釈迦さまのご教導を、

誰が否定できるでしょうか。

〝話せば済むことを、なぜ、ムダな苦労をさせられたのか〟

といぶかる人もあるかもしれませんが、

実行させなければ分からぬ重い真実であるからでしょう。

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知恵ある者に怒りなし [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    知恵ある者に怒りなし

 

「そなたは祝日に、肉親や親類の人たちを招待し、

歓待することがあるか」

釈尊の静かな問いかけに、先刻から、辺り構わず

どなり散らしていた邪教徒の男は、

「そ、そりゃ、あるさ」

とかろうじて答えた。

〝やぶから棒に何を!?〟。若い彼は戸惑った。

問われた真意がつかめなかったのだ。

ここを訪れてから今まで、悪口雑言(あっこうぞうごん)を

浴びせ続けているが、釈迦は今までの相手とはまるで違う。

挑発に全く乗ってこないのだ。

〝これじゃ、のれんに腕押しじゃないか〟。彼は焦った。

釈尊は続けて尋ねる。

「親族がその時、そなたの出した食べ物を食べなかったらどうするか」

「食わなければ、残るだけさ」

ぶっきらぼうに、だが導かれるように、仏陀の問いに答えていく男。

釈迦の説法によって、仲間が次々と仏教徒になっていくのを見た彼は、

怒りに打ち震え、論破せんと一人、この精舎に乗り込んできた。

そんな男の素性を知ってか知らずか、釈尊は続けて問いを繰り出される。

「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受け取らなければ、

その罵詈雑言は、だれのものになるのか」

核心に触れたと思った男は、ムキになって反論した。

「いや、いくら受け取らなくとも、与えた以上与えたのだ」

「いや、そういうのは与えたといえない」

突っぱねられた男は、

訳が知りたくなる。

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立場は逆転した。 婆羅門の男は、自ら釈尊に問うようになった。

「それなら、どういうのを受け取ったといい、

どういうのを受け取らないというのか」

「ののしられた時、ののしり返し、怒りには怒りで報い、

打てば打ち返す。 闘いを挑めば闘い返す。

それらは与えたものを受け取ったというのだ。

しかし、その反対に、何とも思わないものは、

与えたといっても受け取ったのではないのだ」

さっきから感じていたことを言い表された気がして、

男は重ねて尋ねた。

「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」

釈尊は厳かに、偈(げ)で答えられた。

 

知恵ある者に怒りなし。

よし吹く風荒くとも、

心の中に波たたず。

怒りに怒りをもって報いるは、

げに愚か者のしわざなり

 

百雷に打たれたような衝撃が心に走った。

外道の若者は、仲間がなぜ仏陀に帰依したかが、ようやく分かった。

「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」

落涙平伏し、仏に帰順したのである。


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仏弟子・阿難のエコ感覚 [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

   一枚の布も無駄にせぬ心がけ

        仏弟子・阿難のエコ感覚

 

気を抜いて歩けばつまずきそうになる絨毯が、

廊下のはるか先まで続いている。

昼間だというのに、きらびやかな照明が明々(あかあか)と

灯り、

ぜいたくな調度が惜しげもなく置かれる城中。

かつて王族の一員であったから気後れするようなことはないが、

市中は経済が悪化して、今日の食をも事欠く人があふれている。

どうにも違和感を感じつつ阿難は

〝王さまも少し節約されては・・・〟。

心中、苦言をぶつけずにはいられなかった。

 

ともあれ今日は国王の催す法話会に招かれている。

挨拶の席では、後宮の侍女たちに説法してほしいと王から

直々に請われた。

そのせいか、いつもより緊張しているようだ。

阿難は、女性と接するのは得手でない。

だが、容貌が彼女たちの気に入るらしく、

これまで幾人もの女性に言い寄られたことがある。

常に親切を心がけ、だれにも分け隔てなく接しようとすることも、

時に好意と受け取られるようだ。

無道で熱烈な求愛に追い詰められたことがよくあったから、

つい警戒心が先に立つ。

お釈迦さまの御手を煩わせ、窮地を助けていただいたことも

一度や二度ではなかったのだ。

それでも中には、彼とのかかわりを縁に

仏道修行に目覚める者もあって、

それはそれで喜ばしいことだが・・・。

そんなことを考えながら、阿難は後宮に足を踏み入れた。

 

居並ぶ500人の女官たちを前に、阿難は説法を始めた。

〝善い行いは幸せを生み、放埒な振る舞いはやがて身を責める。

自身に現れる果報の一切は、

自身の行為によって生み出されたもの〟

と因果の道理を勧め、身を慎み、徳を求める素晴らしさを説くと、

静かに聞いていた宮廷の女性たちからは、

好もしい雰囲気が感じ取れた。

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話し終えると、すぐさま500枚もの豪奢な衣装が届けられた。

聞けば、つい先ほど王から与えられた着物で、

一枚が千金の値のする高価なもの。

阿難の説法に感銘を受けた侍女たちが、

我先にと善根を求めたのだ。

彼女らの尊志を、彼はありがたく受け取った。

 

次の日、食事の際に女たちが以前の服を

まとっているのを見た王は、

「昨日、皆に与えた新しい衣装はどうしたのじゃ?」

と尋ねると、すべて阿難に施したという。

仏弟子たちが決められた数しか着衣を持たぬのを知っていた王は、

500枚もの着物をどうするのか、

阿難を呼んで問いただした。

「確かに世尊は、私たちの衣服の数を決めておられますが、

衣類の施しを受けてはならない、ということではありません」

しかし、そんなにたくさんの衣装を布施されて、

どうするのだ?

王は重ねて問うた。

「法友の中には、破れたり古くなったりした衣しか

持たぬ者も多くありますので、彼らに分けたいと思います」

「で、彼らの古くなった服はどうする?」

「それぞれ、下着にいたします」

「今までの下着は?」

「寝る時の敷布に作り直します」

よどみなく阿難は答える。王はさらに尋ねた。

「ではそれまでの敷布はどうするのじゃ?」

「枕の布にいたします」

「その枕の布は何に?」

「足ふきに」

「使えなくなった足ふきは?」

「雑巾として使います」

「さすがに古びた雑巾は捨てるのじゃろうのう?」

「いいえ。細かく切って泥と合わせ、家を造る時、

壁や床に塗るのです。わが師・お釈迦さまは、

布1枚に至るまで仏法領のものだから、

決して粗末にしてはならぬと仰せです。

すべてはこの世に生まれ出た本懐を果たすに

大切なものだからです」

一枚の布も無駄にせぬ仏弟子たちの心がけと、

徹底した節約に、王は顔を紅潮させて感心し、

しきりに阿難を称賛したという

 

仏法領とは、私たちが生きる目的を果たすために

必要なもの一切をいう。

最も尊い目的に使うことで、そのものの真価が発揮される。

すべてを大切に、有効に生かす心がけを、

仏法は教えられているのである。


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続ける大切さ~最大の弱点はアキラメ [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    続ける大切さ

      最大の弱点はアキラメ

 

大切な夢を持ち、実現に向けて努力していても、

長続きせず〝ああ、なんて自分は意志が弱いんだ〟

と反省する人も多いでしょう。

信念を貫いて成功を手にしたいのに、

なぜ挫折してしまうのか。

「続ける大切さ」について、今月も考えてみましょう。

 

ある晩、ネズミが桶の中に落ちた。

跳び上がって出ようと、大いに努力したが、

桶が深くて無理だった。

そこで今度は、桶の側を食い破って出ようとかじり始めたが、

側の木は厚くて、硬くて食い破れそうもない。

慌てたネズミは、さらに場所を変えてかじるが、

なかなか穴は開かず、また次の場所へ移った。

明け方近く、さんざん報われぬ努力をしたネズミは疲れ果て、

むなしく死んでいった。

初めにかじり始めた箇所を、最後までかじり続けていれば、

桶の側の板に、通り抜ける穴ができたものを。

 

このネズミのように、幾度か失敗を重ねると信念が揺らいでしまい、

仕事を転々と変えていく人があります。

そんな人は、到底、成功できないと、

発明王・エジソンはこう言っています。

私たちの最大の弱点は諦めることにある

中途で断念してしまえば、その先には決して行けないからです。

大切なのは、目的を見据え、いかに努力を続けるか。

たとえ、思いどおりに事が進まなくても、

エジソンの言うように、

「失敗なんかしちゃいない。うまくいかない方法を見つけただけ」

「失敗すればするほど、我々は成功に近づいている」

と考えれば元気も出るし、事実、そのとおりなのですから、

挫折することは要りません。

 

●仏弟子

  シュリハンドクの20年

 

自分の力不足を自覚したら、善き師、友、環境を求めて努力し、

成功に向かうこともできます。

ある仏弟子の実例を聞きましょう。

 

お釈迦さまの十大弟子の一人シュリハンドクは、

自分の名前も覚えられぬ生来の馬鹿だった。

優秀な兄は愛想を尽かし、彼を家から追い出した。

門外で泣くハンドクに、

「なぜ、そんなに悲しむのか」。

釈尊(お釈迦さま)がお尋ねになると、

ハンドクは正直に一切を告白し、

どうして自分はこんな馬鹿に生まれたのかと、

さめざめと泣いた。

悲しむ必要はない。おまえは自分の愚かさを知っている。

世の中には賢いと思っている愚か者が多い。

愚かさを知ることは、最もさとりに近いのだ

お釈迦さまは優しく慰め、一本のほうきと

「塵を払わん、垢を除かん」の聖語を授けられた。

シュリハンドクは清掃しながら、必死に覚えようとしたが、

「塵を払わん」を覚えると、

「垢を除かん」を忘れ、

「垢を除かん」を覚えると、

「塵を払わん」を忘れた。

しかし彼は、それを20年続けた。

その間、一度だけ釈尊から褒められたことがある。

おまえは何年掃除しても上達しないが、

それに腐らずよく続けている。

上達も大切だが、根気と継続はもっと大事だ。

そこが他の弟子に見られぬ、そなたの殊勝な点だ

彼のひたむきな精進を、お釈迦さまは評価せられたのだ。

やがてシュリハンドクは、チリやホコリは、

あると思っている所ばかりにあるのではなく、

〝こんな所にあるものか〟と思っている所に

意外にあるものだと知った。そして、

「オレは愚かだと思っていたが、オレの気づかぬところに、

どれだけオレの愚かさがあるか分かったものではない」

と驚いた。

ついに彼に、阿羅漢のさとりが開けたのである。

 

生来、能力が劣っていたシュリハンドクも、

釈尊という明師に会い、最高無上の仏法に導かれ、

よく長期の努力精進に耐えて、さとりを開くことができたのです。


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初転法輪(しょてんぽうりん)-----ご布教の始まり [ブッダと仏弟子の物語]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
   初転法輪(しょてんぽうりん)

                 ご布教の始まり

 

「おい、大変だ。太子がこちらに向かってくるぞ。

あの堕落した悉達多(しっだるた)が・・・」

その声に、ほかの4人も瞑想を中断してその方角を眺めた。

遠く、ゆっくりと、人影が大きくなってくる。

紛れもなくそれは、彼らが仕えていた

釈迦族の太子・悉達多であった。

「一体、何をしに来たのだろう?」

仲間の一人の声に、ムキになって

橋陳如(きょうちんにょ)は返した。

「ともかく彼は苦行を棄てて堕落したのだ。

あんな者を相手にしてはならない」

5人の修行者は車座になり、修行のフリをしてかかわらぬように

示し合わせた。

彼らがこれほどまでに太子を避ける訳は、こうである。

 

数週間前まで、5人は太子と苦行をともにしていた。

もともと橋陳如たちは、太子の身の回りの世話を、

と父・浄飯王(じょうぼんのう)によって遣わされた臣下であった。

故郷のカピラ城を捨て、真理を求めて修行を始められた太子を、

父王は捨ておけなかったからである。

だが橋陳如らの来訪を、太子は拒絶された。

身の回りの世話などされては修行にならぬ、

というのが理由だった。

そこで彼らは、「ともに修行いたしますので、

どうかおそばにいさせてください」と申し出、

ようやく起居をともにすることを許された。

それは初めこそ王の命を守るための出家であったが、

5人はやがて、太子の気高き求道心に引かれ始める。

ことに橋陳如は、太子の際だった苦行を目の当たりにして、

心から真理を求めるようになっていった。

 

修行を始めてから、6年がたとうとしていたある日のこと。

太子はふと、何も言わずに近くを流れるニレゼン河へ向かって

歩き始めた。

あとを追った5人はわが目を疑った。

太子が河で沐浴(もくよく)し、黙々と身を清めているではないか。
のみならず、あろうことか、女から乳粥の布施を受けたのだ。

それは苦行の断念を意味している。

橋陳如たちは、口々に太子をののしった。

「彼は弱い心に負け、苦行を棄てた。

悉達多は堕落したんだ」

5人はすぐに太子から離れてその場を去り、

自分たちの修行を続けるため、

ここ波羅奈国(ばらなこく)の鹿野苑(ろくやおん)へと

やってきたのである。

 

その悉達多が、こちらへ向かってくる。

5人は気配を感じながらも、視線を向けぬよう努めた。

太子の様子が別れる前と異なっているのは

遠目にも分かっていた。

彼らは太子の変化を確かめたくなって、そわそわしだした。

互いに、さっき交わした約束などもう守っておれない気持ちになり、

続けざまに、その尊い姿を拝したのである。

5人の修行者は知った。

ーー悉達多は堕落などしていない。

太子は大覚を成就なされたのだ。

「せ・・・世尊!!」

一斉に叫びながら御許に駆け寄り、ある者は仏陀を迎え、

ある者は衣鉢をとり、ある者は座を設け、ある者は洗足水をもって

仏足を礼拝した。

仏陀の威徳に、皆、ぬかずいたのである。

「我は一切の知者となれり。一切の勝者になれり。

我ついに永遠の目的を成就せり。

我はそなたたちに無上の法を授けに来た。

ここに真理を説こうぞ。よく聞くがよい」

これが地球上における、仏陀の初めての説法である。

初転法輪といい、人々の荒れ果てた心の大地を、

平らかに耕す法輪を転ぜられた初の法えんであった。

釈尊、45年間のご布教が、ここに始まったのである。


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釈迦が教えられた「はたらく」真の意味 [ブッダと仏弟子の物語]

「私は心田を耕す労働者」

    釈迦が教えられた「はたらく」真の意味

 

昨今は「働く」意味が広く世に問われています。

人生の大半を働いて過ごしますから、

重要な問いですね。

これを仏教ではどう教えているのか。

お釈迦さま在世中のエピソードから聞きましょう。

 

ある日、お釈迦さまがお弟子たちを連れて

湖畔を通りかかられると、大勢の農民が仕事を終えて、

食事に取りかかっていた。

お釈迦さまが彼らの前に立たれると、

その中の頭(かしら)らしい一人の男が、

「よく、あなたたちは来なさるね。

どうです、そんなに大勢の働き盛りの若者たちを連れて、

ブラブラ乞食(こつじき)したり、

訳の分からぬ説法などして歩かないで、

ひとつ自分で田畑を耕して、米や野菜を生産したら。

私らは難しいことは言わないが、自分で働いて、

自分でちゃんと食っていますよ」

と、からかうように言った。

その時、お釈迦さまは従容(しょうよう)として

答えられている。

私もまた、田畑を耕し種をまき、

実りを刈り取っている労働者です

「ではあなたは、どこに田畑を持ち、どこに牛を持ち、

どこに種をまいておられるのか」

反問してくる農民に、お釈迦さまは、

私は、忍辱という牛と、精進という鋤を持って、

人々の心田を耕して真の幸福になる種をまいている」。

毅然と仰っている。

(忍辱・・・忍耐のこと、精進・・・努力のこと)

 

「働く」とは「はたをらくにする」ということで、

多くの人々を幸福にすること。

苦しみ悩みを解決する道を教え、

真の幸福に導くのが「はたらく」ことなのです。

米や野菜、自動車、電化製品などの生産に従事し、

物質的に人々を幸福にすることも大切ですが、

それのみが働くことではないでしょう。

大きな体や豊かな力を持つ力士やスポーツ選手が、

米や野菜の生産に従事せずとも、

多くの愛好者を楽しませ、

明日の労働への活力を与えているとして、

一般労働者よりも多くの報酬を受けています。

彼らが多くの人々を楽しませ、

「はたをらくにしている」からでしょう。

しかし、多くの人に喜びや活力を与えていても、

それは一時的なもので、永続性のある喜びではありません。

仏教では、一切の人の苦しみの根元を断ち切り、

永遠の幸福を与える無二の教法、阿弥陀仏の本願を伝えることが、

真に「はたをらくにする」ことであると示されています。

「はたらく」意味を自覚し、人々に真の楽を与えることが、

本当に「はたらく」ことなのだと、

お釈迦さまはこのエピソードで教えられているのです。

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仏弟子・アナリツの深い反省 [ブッダと仏弟子の物語]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています)
「今後、決して眠りません」

    仏弟子・アナリツの深い反省

 

誰にでも失敗や過ちはあるもの。

特に重いミスを犯した時に大切なのは、

深く反省し、向上することでしょう。

お釈迦さまのご説法中に居眠りしてしまった

仏弟子・アナリツは、心を改め、

後に「釈迦十大弟子」といわれるまでに生まれ変わりました。

どんなことがあったのでしょう。

 

こともあろうにお釈迦さまの説法中、

弟子のアナリツが居眠りを始めた。

説法後、呼ばれて釈迦は静かに言われる。

「何が目的で仏道を求めているのか」

「はい。生死の一大事の解決のためでございます」

「そなたは良家の出身ながら道心堅固、

どうして、居眠りなどしたのか」

釈迦の慈言に決然と、アナリツは誓った。

「今後、目がただれようとも眠りはいたしません。

どうか、お許しください」

 

その日から、彼の熱烈な修行は暁に及んでも、

決して眠ることはなかった。

続いた不眠で、目を患った彼に、

「琴の糸のように張るべき時は張り、

緩むべき時は緩めねばならぬ。

精進も度が過ぎると後悔する。

怠けると煩悩が起きる。中道を選ぶがよい」

のお釈迦さまのお諭しや、

「もう少し、眠れば治る」

の侍医の強い勧めもあったが、

彼は釈迦との誓いを貫き徹し、ついに両眼を失明した。

同時にしかし、深遠な心眼が開け、釈迦十大弟子の一人、

アナリツ尊者となっている。

(心眼が開ける・・・阿弥陀仏に救われて、生死の一大事を解決したということ)

まこと不惜身命である。

「決して眠らない」と決意し、失明するまで貫いた

アナリツの行動は、深い反省の大切さを教えています。

 

アナリツがある時、衣の綻びを繕おうとして、

針に糸を通そうとするがかなわない。

そこで彼は、周囲に呼びかけた。

「誰か、善を求めようと思う人は、

この針に糸を通してくだされ」

その時、

「ぜひ、私にさせてもらいたい」

と申し出られたのは、ほかならぬお釈迦さまだった。

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アナリツは、その声に驚いて、

「世尊、全ての善と徳を成就なされた方ではありませんか」。

おそれて言うと、釈迦は、

「仏のさとりを開けばとて、

小善をおろそかにしてよい道理がない。

世の中で、善を求めること私に優(すぐ)る者はない」

と答えられたという。


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