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救われてハッキリする自己の真実 [人間の実相]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

  救われてハッキリする自己の真実

 

悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに

虚仮の行とぞなづけたる (悲嘆述懐和讃)

 

弥陀に救われても悪は少しもやまない。

ヘビやサソリのような恐ろしいイヤらしい心で一杯だ。

こんな心に汚染されている善行だから、

雑毒の善、ウソ偽りの行といわれて当然だ

 

阿弥陀仏に救われて知らされた自己の実相を告白なされている

親鸞聖人のお言葉です。

 

〝少しもやまぬ〟と嘆かれた「悪性」とは、

たちの悪い本性のことで、欲や怒り、妬み、そねみなどの

煩悩をいいます。

 

「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませるもので、

全部で百八つあります。

その百八の煩悩の中で、特に私たちを苦しめるものに、

貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴の3つがあり、

猛毒のように恐ろしいので、「三毒の煩悩」ともいわれます。

 

●底なしの欲望

 

最初の「貪欲」とは、欲の心。

無ければ欲しい、有れば有るでもっと欲しい、

と際限なく求める心です。

願望を実現すれば満たされるように思いますが、

その満足感は一時的で、欲望はますます肥大し、

「もっと、もっと」と底無しに欲しがります。

テレビや冷蔵庫、エアコン、洗濯機など、

今やどの家庭にもある家電製品も、50年ほど前は、

それらを手に入れること自体が庶民の夢でした。

既にその夢は実現され、幸せな暮らしをしているはずの

私たちですが、今度は有るのが当たり前で満足感がなく、

欲しい物は尽きません。

「世の中は 一つかなえば また二つ

三つ四つ五つ 六つかしの世や」

と歌われるように、一つ願いがかなっても、

また次々と欲望が起きてきてキリがない。

この世は、満足ということがありません。

 

イソップ童話に、こんな話があります。

 

ある男が、金の卵を産むニワトリを手に入れた。

「俺は、何て幸運なんだろう。これで貧乏とはおさらばだ!」

と、大喜び。

しかし、贅沢に慣れてくると、欲しいものがどんどん増えてきて、

お金が足りない。次第に、一日一個しか産まないことが、

不満に思えてきた。男は、ニワトリをたたいて、

「さあ、二個でも三個でも続けて産むんだ!」

と責めるが、全く効果がない。とうとう、

「このニワトリの腹の中には、大きな金塊があるはずだ。

小出しにせずに、一度に取り出してやれ」

と言って、殺してしまったのである。

無論、ニワトリの体内には、一かけらの金もなかった。

一日一個の卵さえ手にすることができなくなった男は、

「ああ、全てを失ってしまった。欲を出さねばよかった」

と嘆いたが、後の祭りであった。

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このような欲の本質は「我利我利」で、〝自分さえよければ、

他人はどうなってもかまわない〟というのが本性だから

恐ろしいのです。

 

会社が経営不振で多額の借金を抱え、困り果てた経営者が、

小学4年の実の娘に生命保険を掛け、知人と共謀し、

交通事故に見せかけて殺害したという事件がありました。

こんな悪魔の所業も、我利我利の欲の心の仕業なのです。

 

朝から晩まで、底知れぬ欲に引きずり回され、

苛まれているのが私たちの実態です。

 

親鸞聖人が、主著『教行信証』に、

 

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して

何と情けない親鸞だなぁ。広い海のような愛欲に

沈み切って、名誉欲と利益欲に振り回されている

 

と仰っているのは、全身欲にまみれた己の実態を、

弥陀の光明に照らし出されての告白なのです。

 

●無謀に始まり、後悔に終わる ーーー瞋恚

 

その欲が妨げられると出てくるのが「瞋恚(しんに)」。

怒りの心です。

レストランで、注文した料理がなかなか来ないと、

「まだできないのか!」とイライラする。

夜中、近所の騒音で眠れないと、睡眠欲が邪魔され

「うるさいな!」と腹が立つ。

思うままにならない毎日、いらだち、頭にくる場面は

幾らでもあるでしょう。

しかし、怒りの炎は、こんな程度では済まされません。

別れ話のもつれから、怒りのあまり交際相手の女性を

刺し殺した。

17歳の高校生が、母親と祖母から勉強や生活態度のことで

注意され、カッとなって2人とも殺害した。

そのようなニュースが頻繁に耳に入ってきます。

人を殺せばどうなるか、誰でも分かっていることですが、

怒りの炎は、知識や教養の水ぐらいで消せるものではありません。

「怒りは無謀に始まり後悔に終わる」

怒りの炎でこれまで築き上げてきた立場も人間関係も

焼き尽くし、焼け野原に独り呆然と立ち尽くして、

〝何であんなことを言ってしまったんだろう〟

〝何であんなことをやってしまったんだろう〟と、

死ぬまで悔やみ続けなければなりません。

 

●他人の不幸を喜ぶ

 

次の「愚痴」とは、妬み、そねみ、恨み、

憎しみの心をいいます。

他人の幸福が面白くない。反対に、他人の不幸を喜ぶ。

そんな醜い心です。

一緒に夢を追いかけていた友人が、

先にチャンスをつかむ。

「よかったね。頑張って!」と応援する言葉とは裏腹に、

〝どうしてこの人が先なの?私だって努力してるのに!〟

という心が噴き上がる。

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高収入の男性と結婚し、退社した女性社員が、

半年もたたないうちに離婚。お気の毒と言いながら、

社内はそんな彼女のうわさ話で持ち切り。

あれこれ尾ひれまでつく始末。

「隣の貧乏雁(がん)の味」のことわざどおり、

他人の不幸が面白くてどうにも止まらない。

〝こんな時にこんなことを思うなんて〟と、

あまりの不謹慎さに、我ながらイヤになる心を

何とか抑えつけようとしても、愉快な心が出てくるのです。

 

●煩悩あるがままの弥陀の救い

 

親鸞聖人は、そんな心を弥陀の光明によってハッキリと

照らし出され、

「こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」

と告白されています。

「蛇」はヘビ、「蝎」はサソリのことです。

ヘビを見ると、気持ち悪くて背筋がゾクッとします。

サソリを見ると、恐怖に戦慄します。

「親鸞の心は、ヘビやサソリのような、醜い恐ろしい心だ」

と懺悔なされているお言葉なのです。

 

このような聖人のお言葉を聞くと、

「え?阿弥陀仏に救われたら、少しは欲も減って、

腹立つこともなくなって、人間が穏やかになるんじゃないの?」

と思われる方もありましょう。

それは、弥陀の救いを知れば、自ずと解消される疑問です。

 

阿弥陀仏は、

「どんな人も 煩悩あるがままで 必ず絶対の幸福に救う」

と誓われています。これを阿弥陀仏の本願といいます。

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〝煩悩あるがままで〟ということは、弥陀の救いにあい、

絶対の幸福になっても、欲や怒り、妬みそねみの煩悩は

少しも変わらない、ということです。

親鸞聖人は、煩悩は死ぬまで変わるものではないことを

次のように仰っています。

 

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、

欲もおおく、いかり腹立ち、そねみねたみ心多く間なくして、

臨終の一念に至るまで、止まらず、消えず、絶えず

                (一念多念証文)

 

人間(凡夫)とは、欲や怒り、腹立つ心、妬み、

そねみなどの塊であり、これらは死ぬまで、

静まりもしなければ減りもしない。

もちろん、断ち切れるものでは絶対ないことを

教えられた聖人のお言葉です。

このような人間の実相を「煩悩具足の凡夫」とか

煩悩熾盛(しじょう)の衆生」ともいわれます。

 

親鸞聖人は、9歳から29歳までの20年間、

煩悩をなくそうと比叡山で猛烈な仏道修行に

取り組まれましたが、

 

自力聖道の菩提心

こころもことばもおよばれず

常没流転の凡愚は

いかでか発起せしむべき   (正像末和讃)

 

どうにもならぬ煩悩に、泣く泣く下山されています。

そして、「煩悩具足の者を、そのまま助ける」という

阿弥陀仏の本願によって救い摂られたのです。

 

●弥陀に救われ 初めて知らされる姿

 

阿弥陀仏は、煩悩のあるがまま助けてくだされると聞いて、

「私も欲いっぱいで、すぐに腹を立てるし、愚痴ばかりだから、

この身このままで助かっているのだ」と思う人がありますが、

それは大変な誤解です。

 

「悪性さらにやめがたし」の聖人のお言葉は、

自己反省して仰ったものでもなければ、

〝私ほど悪い者はおりません〟と卑下されたものでも

ありません。

弥陀の摂取の光明に照破されて初めて知らされた

自己の真実を告白なされたお言葉なのです。

 

阿弥陀仏に救い摂られた人は誰でも、

昿劫流転してきた煩悩具足の自己がハッキリと知らされます。

これを「機の深信(きのじんしん)」といわれます。

「機」とは「自己」のこと、

「深信」とは「露チリほどの疑いもなく、

明らかに知らされたこと」です。

有名な『歎異抄』の「いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」も、

『正信偈』の「一生造悪」「極重悪人」も、

いずれも弥陀が見抜かれた自己の姿を信知させられ、

やまらぬ悪性を懺悔なされた聖人のお言葉です。

(信知・・・明らかに知ること)

 

煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、

清浄の心なし、濁悪邪見の故なり

             (尊号真像銘文)

本来、人間には邪悪の心しかなく、まことの心もなければ、

清らかな心も、まったくない

 

阿弥陀仏の救いにあわねば、決して知らされることのない

私たちの実相なのです。


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弥陀に救われた者は、無碍の一道なり! [歎異抄]

        波乱の人生が

         光明に輝く

      『歎異抄』の大宣言

 

                  念仏者は

                     無碍の一道なり

 

親鸞聖人は、何が起きるか分からぬ火宅無常の世で、

決して崩れることのない絶対の幸福(無碍の一道)に、

誰もが必ず救われると仰せです。

それが『歎異抄』第7章の

 

念仏者は無碍の一道なり。

そのいわれ如何とならば、

信心の行者には天神地祇も敬伏し、

魔界外道も障碍することなし

 

です。今回は、このお言葉について学びます。

 

この『歎異抄』のお言葉を、平易にいえばこのようになります。

阿弥陀仏の本願に救い摂られた念仏者は、

一切の碍(さわ)りが碍りにならぬ、

素晴らしい世界に生かされる。

それはどうしてかといえば、

他力の信心を得た行者には、天地の神々も敬って

頭を下げ、魔界外道も恐れ入ってしまうからだ

 

まず驚くのは、

「念仏者は無碍の一道なり」

の、親鸞聖人の宣言でしょう。

念仏者と聞くと〝南無阿弥陀仏〟と称えている

すべての人と思うかもしれませんが、口で同じく

南無阿弥陀仏と称えていても、その称え心はまちまちです。

〝念仏は善の一つ〟ぐらいに思っている人もあれば、

〝極楽往生できるずばぬけた善だ〟と信じて

称えている人もあるでしょう。

しかし、阿弥陀仏の本願に救われ絶対の幸福になった

〝うれしさ〟から、称えずにおれない念仏もあるのです。

聖人が言われるのは、まさにその念仏者であって、

そんな人は一切の碍りが碍りとならない「無碍の一道」だと

仰るのです。

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ところで、

「一切の碍りが碍りにならない」

とは、どういうことなのでしょう。

 

●「無碍の一道」って腹が立たないこと?

 

大きな地震や台風が、今年も大変な被害をもたらしました。

対策を講じる専門家は、災害と無縁と言い切れる場所は

どこにもないと警告を発しています。

たとえそんな災害に遭わずとも、会社や家庭で、

ちょっとした人の言動に腹を立てたり、

物事が思うようにいかず不安になったり、

人生は、心乱されることばかり。

特に腹が立った時は、つい、言ってはならぬ事を言い、

やってはならない事をやって、さらなる苦しみに陥ってしまう。

振り返れば私たちの日常は、内も外もこんな碍り、

苦しみだらけではないでしょうか。

ああ、どんな時でも平静を保ち、安らかな心でいたいものだ。

不安なく、心が明るくなれば、表情も穏やかで、

落ち着いて行動できるのに。

そのような「不動心」「平常心」に誰もがなりたいと思い、

それを教える本は、よく売れているようです。

 

「一切が碍りにならない無碍の一道」と聞くと、

どんな状況でも、心乱れず、プレッシャーにも強い人に

なるのだろうと思われるかもしれません。

しかし、「無碍の一道」とは、どんな不幸や災難に遭っても

腹も立たなければ悲しみもない、ひょうひょうと

さとり澄ました人間になることではないのです。

 

●ああ、時節到来したか・・・

 

こんな話があります。

トンチで有名な一休さんが、小僧だった頃。

和尚さんの外出中、兄弟子が和尚の大事にしていた

由緒ある茶碗を割ってしまった。

うろたえる兄弟子に代わり、一思案した一休、

帰ってきた和尚に、

「今日はずっと本堂で座禅しておりましたが、

いまだに解けぬ難問がございます」

「ほう、何じゃ、その難問とは」

「はい、人間は皆死なねばならぬのか、

それとも死なずにおれるのか、人の生死是如何(これいかん)、

ということでございます」

「一休、おまえはなかなかの利口者じゃが、まだ幼いな。

この際、よく知っておくんだぞ。

『生あるものは必ず死す』。お釈迦さまも提婆も、

どんな英雄豪傑も死は免れぬのじゃ」

(提婆・・・お釈迦さまの命を狙った者)

「そうでございましたか。これで一つの難問が解けました。

ありがとうございます」

「まだ分からんことがあるのか」

「はい。もう一つは、この世の物は必ず壊れるのか、

中には永久に壊れぬ物があるのか。

物の消滅是如何、ということでございます」

「やはり子供じゃのー。この世の一切は必ずいつか滅する。

これを是生滅法(ぜしょうめっぽう)とお釈迦さまは

教えられている。よく知っておきなさい」

「でも和尚様。特別に大事にしていても、

壊れるものでしょうか」

「そうじゃ、いかに大切にしていても壊れる時が来る。

これを〝時節到来〟というのじゃ」

「そうですか。これで今日の難問が解けました。

生まれた者は必ず死ぬ。形ある物は必ず壊れる。

さようでございますね。

それにしても、〝時節到来〟とは

何と恐ろしいことでございますねえ」

「恐ろしいものじゃ。

仏さまのお力でもどうすることも

できんのじゃからのう」

「してみると大事な人が死んだからと

泣いたり悲しんだりせず、

大事な物が壊れたからといって

怒ったりわめいたりせず、

〝時節到来〟と心乱さぬのが、

さとりでございますね」

「さようじゃ」

「ありがとうございました。

さとられた和尚様の弟子である私たちは、

何と幸せ者でございましょう」

「これこれ、おだてても何も出んぞ」

「いえ、和尚様が出されなくても、

こちらからお出しする物がございます。

実はこれ、かくのごとく〝時節到来〟いたしました」

澄ました顔で一休、割れた茶碗をヌーと突き出した。

驚いた和尚、叱るに叱れず一言、

「もう、時節到来したか・・・」

と言ったという。

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「無碍の一道」とは、和尚が言う、大事なものを失ったり、

壊れたりしても時節到来とアキラメて、

悲しみもなければ、心も乱れない人間になることではありません。

そんな人は欲もなければ怒りもない、

ウラミ・ソネミなどの煩悩が一切なくなったということでしょう。

 

親鸞聖人は、人間とは煩悩の塊、「煩悩具足の凡夫」だと

仰っています。

煩悩以外何もない。煩悩100パーセントのものが

人間ということです。

ですから煩悩がなくなれば、私という存在自体がなくなります。

煩悩は、減らしたり、なくせるものではありませんから、

無碍の一道に出ても不幸や災難に遭えば、

それまでと変わらず、怒ったり、泣いたり、

動揺したりもするのです。

 

●変わらぬままで大変わり

 

ナーンダ、じゃあ、どこが変わるの?と思うかもしれませんが、

無碍の一道に出れば、碍りだらけの世界のままで、

碍りとならない、煩悩は変わらぬままで

大変わりするということです。

ここは相当の学者でも間違えるところですから、

注意しなければなりません。

『歎異抄』を解釈した本がいろいろありますが、

「無碍の一道」は「すべての束縛から解放された自由な道に立つ」

「どんなことが起こっても、喜んで引き受けている」

「身も心もやわらかになって、何事も喜んで負けていける

生き方に転じられる」などと解釈されています。

しかしそれでは、先の和尚のように、煩悩がないかのごとく

ふるまう〝痩せガマン〟でしかない。

無碍の一道とは、そんな世界ではないのです。

 

親鸞聖人が「碍りとならぬ(無碍)」と仰る碍りとは、

〝往生浄土の碍り〟のことです。

いかなる災難やトラブルに見舞われ、

欲や怒りや愚痴の煩悩が激しく燃え盛ろうと、

必ず浄土へ往ける金剛心には、全く影響しないから、

無碍の一道といわれるのです。

それが、阿弥陀仏の本願に救われ、本願の誓いどおり、

絶対の幸福(無碍の一道)の身になったということです。

 

●大悲の願船に乗ずれば

 

親鸞聖人は、この「無碍の一道」の世界を何とか

私たちに伝えようと、弥陀の本願を船に例えて

大悲の願船」と教えられています。

 

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、

至徳の風静に、衆禍の波転ず    (教行信証行巻)

 

「大悲の願船に乗じて」とは、阿弥陀仏の本願に救われたこと。

本願のとおり絶対の幸福(無碍の一道)になったことを

「光明の広海に浮かんだ」

と言われています。

苦難・困難・災難の波が絶えない難度の海でもがいていた人生が、

大悲の願船に乗せていただくと、

光明輝く広い海に浮かぶのです。

 

大悲の願船は弥陀の浄土へ向かって進んでいる船。

だから乗船した一念に、来世、間違いなく弥陀の浄土へ

往けることが決定します。

親鸞聖人は、弥陀の浄土のことを、無量光明土とも仰っています。

死んだらどうなるか分からない、お先真っ暗だった人生が、

いつ死んでも、旅立つ先は無量光明土とハッキリいたします。

未来が無限に明るいから、現在が無限に輝く。

それを聖人は、「光明の広海に浮かんだ」

と仰るのです。

 

この大船は、阿弥陀仏の造られた船ですから、

どんな大波が来ようと転覆したり、

進路を変えられることはありません。

大波小波を蹴立て、浄土へ直行するのです。

この波に例えられたのは、私たちの欲や怒りの煩悩のこと。

船に乗る前も、乗った後も、煩悩の波は少しも変わりませんが、

船に乗ったら「往生一定」、弥陀の浄土へ必ず往ける身になる。

先ほど、欲や怒りや愚痴の煩悩がどんなに激しく燃え盛ろうと、

〝必ず浄土へ往ける金剛心〟には全く影響しないと書いたのは、

このことです。

 

しかし、こう思われる方もあるでしょう。

確かに船に乗れば、来世は極楽浄土と

ハッキリするかもしれないが、

浄土へ往くのは死んでから。

生きている間は、煩悩の波にもまれて、

相変わらず悩ましい日常のままではないのかと。

 

そうではありません。大悲の願船に乗じた人は、

至徳の風静に、衆禍の波転ず

親鸞聖人は仰っています。

至徳とは最高無上の幸せのこと。

衆禍とはもろもろの禍で、煩悩による苦しみ悩みのことです。

その大波は、船に乗じたあとも変わらずやってきますが、

それらが全て喜びに転じてしまうのです。

 

●苦悩がそのまま歓喜になる

 

そんなバカな?と思われるかもしれません。

誰にでも分かる説明は難しいですが、

親鸞聖人は、苦悩がそのまま歓喜となる不思議さを、

次のような例えで説かれています。

 

罪障功徳の体となる

氷と水のごとくにて

氷多きに水多し

さわり多きに徳多し

     (高僧和讃)

 

大悲の願船に乗ったなら、欲や怒りの煩悩(罪障)が、

幸せ喜ぶ菩提(功徳)となる。

大きな氷ほど解けた水が多いように、

煩悩の碍りあるままが、極善無上の幸せになるのだ。

シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、

煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯になる。

それを「衆禍の波転ず」と仰っています。

泳げない人には恐ろしい海の波も、

泳ぎの上手な人には高い波ほど面白い。

苦しめるはずの波が、逆に喜びになってしまうのです。

 

●無碍の大道を進まれた親鸞聖人

 

『歎異抄』第7章のお言葉に戻りましょう。

次の「信心の行者には天神地祇も敬伏し」

とは、念仏者を天地の神々までもが敬伏すると言われています。

しかしだからといって、阿弥陀仏に救われた念仏者を

すべての人が尊敬する、ということではありません。

念仏者の聖人が、90年の生涯、非難中傷の的であったことを

知れば明らかでしょう。

 

ではなぜ、天地の神々も敬伏すると言われたのか。

欲や怒りの煩悩があるままで、碍りとならぬ無碍の一道に

救い摂ってくださる弥陀の本願の不思議さと、

その本願を明らかにする念仏者の信念に、

「天神地祇も敬伏する」

と言われているのです。

「魔界外道も障碍することなし」

というのは、〝人間に生まれてよかった〟という

大生命の歓喜を得れば、どんなに嘲り笑われ、

攻撃されようと、弥陀の本願不思議を伝え切る念仏者の前進を、

何ものも妨げることはできない、ということです。

 

親鸞聖人のご一生は、苦難の連続でした。

波乱万丈という言葉は、聖人のためにあるといってよいほど、

権力者から、仏教界から、また真実の仏法を知らぬ一般大衆からも

総攻撃を受けられた。

だが、その中を弥陀の本願力に動かされて、

90歳まで力強く、たくましく生き抜かれたのです。

今月から連載する漫画「親鸞聖人」に、そのご一生が描かれます。

 

●弥陀の本願は「聞く一つ」

 

ではどうしたら、煩悩の碍りあるがままで、

阿弥陀仏の本願に救い摂られ、

無碍の一道に生かされるのでしょうか。

それについては、お釈迦さま親鸞聖人も一貫しています。

仏法(阿弥陀仏の本願)は聴聞に極まる

阿弥陀仏は、「聞く一つ」で無碍の一道に出させてみせると

お約束です。

 

たとい大千世界に

満てらん火をも過ぎ行きて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)

 

大宇宙(大千世界)が火の海になっても、

その中をかき分けるようにして聞きなさい。

真剣に本願を聞けば、必ず絶対の幸福(無碍の一道)になれる、

と親鸞聖人は仰せです。

苦労をいとわず聞法し、無碍の一道にハッキリ救われるまで、

聞き抜きましょう。

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なぜ、生きることは苦しいのでしょう [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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なぜ、生きることは苦しいのでしょう

 

親鸞聖人は、苦しみの絶えない私たちの人生を、

荒波の絶えない海に例えられ、「難度の海」(教行信証)と

仰っています。

難度とは、苦しみのことです。

なぜ、人生は「難度海」になるのか。

それは、「煩悩具足の凡夫が、火宅無常の世界に

生きているからだよ」と、聖人はいわれています。

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、

万(よろず)のこと皆もって空事・たわごと・真実(まこと)

あること無し」     (歎異抄)

 

「煩悩」とは、欲や怒り、妬み・そねみなど私たちを

煩わせ苦しめるもの。

一人一人に108あるといわれます。

「煩悩具足の凡夫」とは、そうした煩悩でできた私たち

人間のことです。

 

そんな私たちが住む世界を、「火宅無常の世界」と

教えられます。

「火宅」とは、火のついた家のこと。

もし、住んでいる家のひさしに火がついたとしたら、

どんな気持ちでしょうか。

テレビを見てのんびりしたり、おいしい食事を楽しんだり

しているわけにはいきません。

ボヤボヤしていたら、死んでしまう。

そんな不安なところが、私たちの住む世界と

教えられているのです。

なぜ不安なのかといえば、「無常」の世の中だからです。

あらゆるものに常がなく、続かない。

苦労して築き上げた家や財産、地位、名誉も、

早い遅いはあれ、いつか必ず私から離れていく時がくるのです。

 

財産も 名誉も一時の 稲光

あとに残るは ユメのタメ息

 

例えば、サラリーマンの人生を見てみましょう。

どれほどバリバリ仕事をこなし、飛ぶ鳥を落とす勢いの人も、

しばらくの間のこと。

たとえ大過なく過ごしても、やがて「定年」を迎えます。

 

●「定年」は「生前葬」!?

 

定年を迎えたサラリーマンの悲哀を描いた映画『終わった人』

(主演・館ひろし)が今年6月に公開され、

話題を呼びました。

(2018年12月の『とどろき』から載せています)

原作となった内舘牧子さんの同名小説は、

衝撃的な書き出しで始まります。

「定年って生前葬だな」

そして、こう続きます。

「俺は専務取締役室で、机の置き時計を見ながらそう思った。

あと20分で終業のチャイムが鳴る。

それと同時に、俺の40年にわたるサラリーマン生活が

終わる。63歳、定年だ。

明日からどうするのだろう。

何をして1日をつぶす、いや、過ごすのだろう」

会社生活で手に入れてきたものから切り離され、

言いようのない不安に直面する「定年」。

定年は「生前葬」という主人公の独白に、

共感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

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●命の切り売り

 

この秋、首都圏の劇場では、往年の名作『セールスマンの死』

が上演されています。

米国の劇作家、アーサー・ミラーの代表作で、

1949年にニューヨークで初演され、

ピュリッツァー賞を受賞。日本でも人気作となりました。

セールスマンの主人公、ウイリー・ローマンは、

住宅ローンの返済や、日用品の修理や買い直しで

生活は手一杯。

寄る年波には勝てず、業績が落ちるにつれて給料も下がり、

ある時、妻にこんなことを漏らします。

考えてみるとだね、一生働きつづけて

この家の支払いをすませ、やっと自分のものになると、

誰も住む者はいないんだな

ボロボロになるまで働いて、ウイリーは苦難の生涯を閉じます。

私たちも多くの場合、30年、40年の住宅ローンを組んで、

その返済のためにあくせくと働いています。

人によって、仕事で売るものは異なりますが、

共通するのは、「命」を売っているということでしょう。

今の日本人なら、生まれた時に80年の命を受け取り、

その後、この命を切り売りして、欲しいものを手に入れている

ということになります。

ウイリーの嘆きは、大方のサラリーマンの嘆きともいえましょう。

 

●「えっ、

   あと10年の人生?」

 

昨年刊行された『定年後ーー50歳からの生き方、終わり方』

(楠木新・著)という本には、次のようなエピソードが

紹介されています。

 

定年に近い5人の社員が居酒屋で話し合った。

60歳で定年退職するか、継続雇用を選ぶか。

それぞれの生活を思い描いて会話は盛り上がっていたが、

やがて、妻の希望から60歳以降も働くというAさんがこう言った。

「自分の親は60代後半で亡くなった。

それを考えると残りはあと10年だ」

その瞬間、皆が静まり返った。

それぞれの頭に浮かんだのは「えっ、あと10年?

残りの人生はそんなに短いのか」という共通した思いだった。

「妻が許さないから」「健康にいいから」といった理由で

とりあえず会社に残る選択が、残りの人生の短さに

見合ったものではないことを各自が感じ取ったのである。

定年退職にせよ、継続雇用にせよ、人生のたそがれどき、

悲哀に沈む道に至ることをどうにも否定できません。

災害や事故を逃れ、無事に定年を迎え花束で送られても、

しばらくすれば、全てのものから切り離される「終末」を

迎えます。

1年を振り返ると、「まさか、あの人が」というような有名人が

雨だれのように亡くなっています。

女優の樹木希林さん、漫画『ちびまる子ちゃん』の

作者・さくらももこさん、歌手の西条秀樹さん、

大横綱の輪島大士さんーー。

(2018年12月のとどろきです)

 

蓮如上人は、こうした私たちの人生を

次のように述懐されています。

 

それおもんみれば、人間はただ電光・朝露の夢・

幻の間の楽(たのしみ)ぞかし。

たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、

それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。

もし只今も無常の風きたりて誘いなば、

いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや

 

誰もが「素晴らしき人生」を願いますが、

現実には、苦難や災難、病気の難が次々を訪れます。

この様々な「難」を逃れるために、悪戦苦闘する人生。

たとえ、これらの難をうまく乗り越えられたとしても、

どうしても逃れられないのは死ぬことです。

私たち人間の死亡率は100パーセントという事実です。

 

●苦しみから「無碍の一道」へ

 

果たして、私たち煩悩具足の凡夫がこのような無常の世界で、

幸せになれることはあるのでしょうか?

一生涯、困難や災難にも遭わず、

病にならないことはありえません。

しかしもし、本当の幸せがあるとすれば、

それは、どんな幸福でしょうか。

いかなる災難や病気に遭ったとしても崩れることのない

幸せでなければならないでしょう。

それこそ、絶対の幸福といえるものです。

その「絶対の幸福」という世界があるぞ、

生きている時にその身になることができるのだよ、

と生涯、伝えていかれた方が親鸞聖人なのです。

親鸞聖人は、その「絶対の幸福」を

次のお言葉で教えられています。

 

念仏者は無碍の一道なり

 

無碍の「碍」とは、さわりのことです。

無碍の一道とは、どんな苦難・困難・災難も

さわりとならない世界のことです。

中でも、最大のさわりは、人生の終末に迎える「死」です。

真の幸せを知らなければ、死を迎えて人は何を思うでしょう。

「もっと金を儲けておけばよかった」

「もっと出世を」

「もっと家を大きくしておけば」

という人もあるでしょうか。ばかだった、

ばかだった、求めるものが間違っていた。

なぜ死に臨んでも、崩れないものを求めていなかったのか

と後悔することでしょう。

親鸞聖人は、たとえ死が来ても微動だにもしない「絶対の幸福」

の世界を「無碍の一道」と教えられているのです。

このお言葉は、唯円という親鸞聖人のお弟子が書き残した

『歎異抄』という書物の中に記されています。

 

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、

信心の行者には天神地祇(てんじんちぎ)も

敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も

障碍(しょうげ)することなし

 

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ

幸福者である。なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、

天地の神を敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることが

できなくなる

 

「バカな、あるはずないよ」

と一笑に付する人もあるかもしれません。

しかし、

「えー、そんな世界が本当にあるの?

あるなら知りたい」

と思われる幸せな方も少なくないでしょう。

では、「無碍の一道」とはどんな世界なのか、

どうしたら無碍の一道に雄飛することができるのでしょうか。

これについては、次回更新時に載せたいと思います。

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わがまま女を〝婦人の鑑〟に変えた釈迦の「七婦人」の教え [ブッダと仏弟子の物語]

   わがまま女を〝婦人の鑑〟に変えた

         釈迦の「七婦人」の教え

 

お釈迦さまの説かれた『玉耶経(ぎょくやきょう)』に

登場する玉耶姫は、後生、〝婦人の鑑〟といわれましたが、

初めは身勝手で、家族を大変困らせた女性でした。

 

どんなお釈迦さまのご教導で、

大変わりしたのでしょう。

 

「祇園精舎」の建立で有名な、

インドの給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)が、

一人息子に玉耶という美しい嫁を迎えた。

ところが美貌にうぬぼれ、〝嫁いでやった〟の意識が

強い玉耶は、家族の和を乱していた。

困り果てた長者が、〝何とか心がけがよくなるようお諭しを〟

とおすがりすると、同情されたお釈迦さまは早速、

大勢のお弟子と長者の屋敷へ赴かれる。

だが、ヘソを曲げた玉耶は、部屋に隠れて出てこない。

そこでお釈迦さまは、神通力で屋敷を全て透き通るガラスに

変えてしまわれた。

IMG_20221029_0001.jpg-5.jpg


玉耶姫は驚き、自ら飛び出してお釈迦さまの前にひざまずいた。

玉耶よ。いかほど容姿が美しくとも、

心の汚れている者は醜いのだ。

それよりも心の美しい女になって、

誰からも慕われることが大切とは思わぬか

と優しく諭され、彼女に「七婦人」を示された。

それが、次の7通りの婦人です。

 

①母の如し

②妹の如し

③善知識の如し

④婦の如し

⑤婢の如し

⑥怨家の如し

⑦奪命の如し

 

初めの「母の如し」とは、母親が子供を養育するように、

愛情豊かに夫と接する妻をいいます。

次の「妹の如し」は、妹が兄を尊敬し、

慕うように夫に仕える妻のこと。

「善知識の如し」とは、一切の人々を真実の幸福に導く

善知識(仏教指導者)のように、常に夫を善導し、

成功に至らしめる賢夫人をいいます。

「婦の如し」とは、時に夫婦ゲンカもするし、

仲良くもなる。夫と対等のフツウの妻です。

「婢の如し」は、召使のような妻。

自己主張をせず、何事も黙々と服従する女性を表します。

「怨家の如し」の「怨家」とは、

夫に恨みを持ち、〝こんな男と結婚したから・・・〟と、

恨み続ける妻のことです。

「奪命の如し」とは、日々、〝死んでくれ〟と夫を憎み、

ついには命を奪ってしまう恐ろしい妻をいいます。

 

じっと聞いていた玉耶は、「怨家」「奪命」の説明に、

〝心をのぞかれているのでは〟とギクリとした。

紛れもない。これは私のことだわ

教えの光で、これまでの悪態の数々が知らされ、

自堕落で身勝手な自分の姿が照らし出されたのである。

お釈迦さまは穏やかに、

玉耶よ、これが7種の婦人だが、

そなたは自分をどれだと思われるかな

お釈迦さま。私は・・・怨家と奪命を

こね合わせたような者でございます

即座に答える玉耶。

それはよい婦人かな?

いいえ、恐ろしい女です。私ほどの悪女はありません。

こんな私が救われるには、どうしたらよいのでしょう?

聞く心になった玉耶に、諄々とお釈迦さまは

仏法を説かれた。

やがて心から悔い改めた玉耶は、後世、婦人の鑑と

称賛される女性となり、一家和合の給孤独の家は

ますます繁栄したという。

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「いのち」って何だろう? [六道輪廻]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)    

    「いのち」って何だろう?

 

           仏教の生命観と

              人生の目的

 

IMG_20221027_0001.jpg-5.jpg

特集①では、私たちにとって

最も大切なものが「人生の目的」であることを

お話ししてきました。

では、仏教では「真の人生の目的」は

何であると教えられているのでしょうか。

 

結論から申しますと、

人生の目的は、後生の一大事を解決することである

と説かれています。蓮如上人はこれを、

 

誰の人も、はやく後生の一大事を

心にかけて・・・・」  (白骨の御文章)

 

われらが今度の一大事の後生、

御助け候えと・・・」  (領解文)

 

この阿弥陀如来をば、如何して

信じまいらせて、後生の一大事をば

助かるべきぞ・・・」  (御文章3帖目4通)

 

一心に阿弥陀如来、後生たすけたまえと・・・

            (御文章5帖目18通)

 

と至るところに教えられています。

 

(蓮如上人・・親鸞聖人の8代目の子孫。聖人の教えを全国に伝え、

       有名な『御文章』を書かれた方)

これはそのまま「親鸞聖人の教え」であり、仏説です。

「久しく沈めるわれら」のお言葉も、

この「後生の一大事」のことです。

ですから「後生の一大事」とはどんなことかを

正しく知らなければ、仏教も、親鸞聖人の教えも、

まったく分からないということです。

当然、人生の目的を達成することも

かなわないことになってしまいます。

そこで、この「後生の一大事」を知るために、

まず、私たちの「生命」を仏教ではどのように説かれているのか、

〝仏教の生命観〟からお話ししましょう。

 

●大河のごとき生命

 

一般的に「いのち」とか「生命」と言えば、

肉体のことだと誰もが思います。

生命工学や脳科学の扱う「生命」も、

遺伝子とかDNAなど物質的な領域を出ません。

鳩山首相が施政方針で、熱心に

「いのちを、守りたい。いのちを守りたいと、願うのです。

生まれてくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい」

(2010年5月のとどろきです)

と訴えていた「いのち」も、

「人間としての生命」のことでしょう。   

これが常識的な「生命観」です。

ところが仏教では、我々の生命というのは、

この世のわずか50年や100年の間だけのことではない、

果てしない過去から、永遠の未来へと流れている、

と教えられています。

それはちょうど、滔々と流れる大河のようなもので、

肉体は、その水面にポッと生じてパッと消える

泡のようなものだということです。

IMG_20221027_0002.jpg-5.jpg    

その果てしない生命の歴史を、親鸞聖人は、

「多生」「億劫(おっこう)」「昿劫(こうごう)」

「微塵劫(みじんこう)」、

歎異抄では「久遠劫より流転せる」と、

いろいろに表現されています。

「多生」とは、迷い苦しみの世界を、

生まれては死に生まれては死に繰り返してきたこと。

仏教では、その苦悩の絶えない六つの世界を「六界」

とか「六道」と教えられています。

列記してみましょう。

 

○地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。

○餓鬼界・・・餓鬼道ともいう。食べ物も飲み物も皆、

       炎となって食べられず飲まれもせず、

       飢えと渇きで苦しむ世界。

○畜生界・・・犬や猫、動物の世界。

       弱肉強食の境界(きょうがい)で、

       つねに不安におびえている世界。

○修羅界・・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

○人間界・・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。

○天上界・・・六道の中では楽しみの多い世界だが、

       迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある。

 

これらの世界を一人一人が、各自の業(行い)に応じて、

生まれたり死んだり、繰り返し経巡っていることを、

「多生」と言われているのです。

その生死生死を重ねてきた期間は、

100万年や200万年どころではなく、

「億劫(おっこう)」といわれています。

「劫」とは年数の単位で、一劫は「4億3千2百万年」のこと。

その億倍が「億劫」であり、「昿劫(こうごう)」の「昿」も

無限を表す言葉ですから、「億劫」も「昿劫」も、

気の遠くなるような長期間のことです。

また「微塵劫」とも言われています。

「微塵」とは、細かい沢山のチリのことで、

大学の教室など広い空間には、

目には見えませんがチリやホコリが浮いています。

カーテンの隙間から強い光線が射し込むと、

それがよく見えて、「こんなところで息を吸ってたのか」

とビックリするほど。

そのチリの数は、一体どれくらいあるでしょうか。

おそらく10億や20億どころではないでしょう。

その「細かい塵の数」×「劫」が「微塵劫」ですから、

もう無限といっていい。

「多生」「億劫」「昿劫」と同じく、永遠の魂の遍歴を

表された言葉です。

このように、私たちは無限の過去から今日まで

苦しみ迷い続けてきたことを聖人は、

「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれら」と言われ、

また、

「自ら流転輪廻を度(はか)るに、

微塵劫を超過すれども、仏願力帰し難く、

大信海に入り難し」(教行信証化土巻)

 

「生死輪転の家に還来する」(正信偈)

 

「昿劫多生のあいだにも

出離の強縁しらざりき」(高僧和讃)

 

「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里」

            (歎異抄)

 

とも仰っているのです。

このようなお言葉は枚挙にいとまがありませんが、

いずれも「きっとそうに違いない」とか

「果てしない過去から、苦しんできたそうな」

などの想像や憶測ではありません。

弥陀の光明に照破されてハッキリ知らされた自己を

告白されているのです。

 

●一瞬の人生に、

   意味はあるのか

 

それにしても、「昿劫」とか「久遠劫」というスパン(間隔)

で説かれる仏教の生命観は、とてつもないですね。

〝あの支払い、どうしようか〟とか

〝また上司に叱られた〟などという目の前のことで

あたふたしている私たちにとっては、

あまりにもスケールが大きすぎて、

なかなかピンときません。

そこで、分かりやすく比較して考えてみましょう。

地球が誕生して約46億年といわれます。

1億年を1メートルとして換算すれば、

地球の歴史は46メートルになります。

10万年が1ミリメートル、〝中国4千年の歴史〟といっても、

たったの0.04ミリです。

では、日本の平均寿命・80年は?

なんと0.00008ミリ!

長く生きてせいぜい100年の人生は、地球の年齢の46メートルに

比べたならば、針の先で突いた〝点〟にもならない。

医学の進歩は、その瞬間的な人生を、

少しでも長引かせる努力といえましょう。

たとえば臓器移植によって30年延命したということは、

0.00003ミリ延ばしたことになります。

IMG_20221027_0003.jpg-5.jpg

これは地球の年齢46億年と比較した場合ですが、

私たちの生命の歴史は、100億年や200億年どころではない。

「多生」「億劫」「久遠劫」ですから、

それに比べたならば、50年や100年はまさに一瞬。

アッという間に〝娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散りゆく〟

人生、と知らされるではありませんか。

シャボン玉より儚いこの一生を、

明治の哲学青年・藤村操は、「悠々たるかな天壌、

遼々たるかな古今」と嘆息し、

人生不可解」と言い残して華厳の滝に身を投げました。

どうせ呆気なく死んでいく命、なぜ生きねばならないのか。

煩わしい人間関係に耐え、病魔と闘い、

さまざまな苦難を乗り越えて、

それでも頑張って生きねばならない理由は、何なのか。

どうせ報われない苦労なら、生きる意味がないじゃないか。

「人生って、なんと不可解なのか」

の叫びは、ひとり藤村操だけのものではないでしょう。

そんな悩める私たちに、生きる目的は、あるのか、ないのか。

「あるから、早く達成せよ」

親鸞聖人は、断言されています。

これが、聖人90年の生涯かけたメッセージでした。

自らが29歳の御時に、真の人生の目的を成就され、

「人身受け難し、今すでに受く」

           (釈尊)

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟

と、ピンピン輝く生命の大歓喜を得られた聖人は、

「どうか皆さん、この親鸞と同じように、

本当の人生の目的を知り、達成してもらいたい。

この目的果たすまで、どんなに苦しくても乗り越えて、

生き抜きなさいよ」

と教え続けていかれたのです。

 

●いのちの目的

 

では、「人生の目的」とは何か。

「後生の一大事を解決することである」

と説かれているのが仏教であり、親鸞聖人です。

人間に生まれる前を過去世、生まれてから死ぬまでを現在世、

死んだ後を未来世とか「後生」と言われます。

自覚の有無にかかわらず、私たち一人一人に、

厳然としてこの過去・現在・未来の「三世」があることを、

因果の道理から詳しく教えられているのが仏教です。

そして、久遠劫の過去より今まで流転してきた私が、

死後も永遠の苦患に沈まねばならぬ大問題を、

仏教では「後生の一大事」と言われるのです。

お釈迦さまはこれを『大無量寿経』に、

従苦入苦(苦より苦に入り)

 従冥入冥(冥〈やみ〉より冥に入る)」

現在苦しみの世界から、死後の苦界に入っていく

と警鐘乱打され、親鸞聖人も、

若しまたこの廻(たび)疑網(ぎもう)を覆蔽(ふくへい)

せられなば更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん

                (教行信証総序)

と訴えられ、蓮如上人も、

この信心を獲得せずば、極楽には

往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり

              (御文章)

と教えておられます。

「この後生の一大事を、阿弥陀仏の本願によって

解決して頂き、未来永劫の幸福に救い摂られることこそが

人生の目的である。

いや本当は一生や二生の問題ではない、

昿劫多生の目的なのだ」

と、釈迦も親鸞聖人も、明言されているのです。

前章で、弥陀の大船に例えられているのは、

この阿弥陀仏の本願のことです。

IMG_20221027_0005.jpg-5.jpg

 

●思想が変われば、世界が変わる

 

戦争、殺人、自殺、暴力、虐待など、

耳をふさぎたくなるような悲しい事件が、

毎日報じられています。

350キロの上空を、国際宇宙ステーションが

周回しているその下で、相も変わらず国同士、

血で血を洗う争いを繰り広げています。

無線LANや液晶テレビが置いてある家の中で、

親が子を殺したり殺されたり、

ケータイやインターネットを介した犯罪や集団自殺も頻発し、

監視や摘発などの対策も間に合わず、

どうにも止められない状態です。

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不幸になりたくて生きている人は一人もいないのに、

どうして幸せになれないのでしょうか。

いろいろな議論はありますが、結局は、

「生きる意味があるのか」

「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」

必死に求めても知り得ぬ深い闇へのいらだちが、

生み出す悲劇と言えるのではないでしょうか。

 

なぜ人間に生まれたことが尊いのか。

人を殺してはいけないのか。

人命は地球より重いのか。

1分でも延命することに意味があるのか。

それは「後生の一大事を解決する」という

「多生億劫の目的」を果たすための〝いのち〟だからなのだと

親鸞聖人は確言され、ゆえに

「肌の色や国籍の違い、男女も貧富も、健常者・障害者も

関係なく、一人一人の命が、無限に重い値を持つのだよ、

だから自ら命を絶つことも、人の命を奪うことも、

あってはならないのだ。

 

生死の苦海ほとりなし

久しく沈めるわれらをば

弥陀弘誓の船のみぞ

乗せてからなずわたしける

 

早く弥陀大悲の願船に乗せていただき、

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と、

生命の大歓喜を味わえる身になってくれよ。

そこまで仏法を聞き抜けよ」。

先の見えぬ混迷した現代に、救助の大船の厳存と、

その方角を明示された親鸞聖人の大音声が、

鳴り響いているのです。

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寺院とは仏教を聞き、「抜苦与楽」の身になる「こころの診療所」 [お寺の役割とは]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

     「寺院」とは

         仏教を聞き

       「抜苦与楽」の身になる

         「こころの診療所」

 

●「苦」や「楽」にもいろいろある

 

前回の記事では「寺は本来、仏教を聞く場所である」

と学びました。

では、仏教は何のために聞くのでしょうか。

それが分かれば寺の存在意義もハッキリいたします。

仏教の目的は「抜苦与楽」といわれます。

「抜苦与楽」とは、人々の苦悩を抜き取り、

喜び、楽しみ、幸せを与えることです。

肉体の苦しみを抜いて、健康という喜びを与えるのは病院ですが、

私たちの心の苦しみを抜き取って、

本当の生きる喜びや幸せを与えるのが仏教なのです。

寺は私たちの心の病気を治す診療所だといえるでしょう。

ところで「抜苦与楽」といっても、

一般的な苦楽と、仏教の教える苦楽とは異なっています。

どう違うのでしょうか。

 

●甲乙つけがたい肉体の苦痛

 

私たちが「苦しみ」と聞いて想像するのはどんなものでしょう。

まず、加齢や病気などによる肉体の苦痛があります。

肉体の苦といっても、歯の痛み、頭痛、腹痛、膝や腰の痛みなど

いろいろで、つらい思いをしている人がたくさんありますから、

どの病院にも連日、患者が押し寄せています。

健康が当たり前だった頃には分からなかった体の不調。

永年、酷使した肉体が「あそこが痛い」「ここがツライ」

と悲鳴を上げる。

ひとたび病気になれば、誰もが昨日までの健康は

喜べなくなってしまいます。

世界的アーティストとして知られるアメリカの

レディー・ガガさんが「線維筋痛症」という病気で

活動を中止しました。

これは、原因不明の激痛が、慢性的に全身を襲う病だといいます。

日常生活もままならず、どんなに仕事や名声、

お金に恵まれていても、病一つで人生の輝きが奪われる。

どんな病気も当事者にとっては甲乙つけがたい苦しみだから、

「病」という字は「(やまいだれ)」に「丙」と書くのだそうです。

この肉体の苦しみを軽減し、痛みを取り除き、

健康の喜びを与えるのが、医学の役目であり、

医師や看護師は、そのことに連日、

多大な貢献をしているのです。

 

●さらに深い精神的な苦悩

 

しかし、この肉体の苦しみよりも、さらに深刻なのが、

心の苦しみ、精神的な苦痛でしょう。

人間関係はその苦しみの中でも、最も大きなものです。

近頃流行のアドラー心理学では、人間の苦しみの全ては、

人間関係から生じると言っています。

学校や職場、近所づきあいなど、あらゆる場面で私たちは、

他人と接しなければ生きられませんが、

人が集まれば、必ず好き嫌いの感情が生じます。

「あの人が好き」

「あいつは顔も見たくない」

親鸞聖人が、

愛憎違順することは 高峯岳山にことならず

自分に従う者は愛して近づけるが、反する者は憎んで遠ざける。

そんな心は高く大きく、高峯岳山、大きな山と変わらない

と仰るように、誰もがそういう好悪(こうお)に、

毎日振り回されているのではないでしょうか。

一度苦手と思うと、その人と会うのが心の負担になりますが、

なぜかそんな相手とは縁が深く、

何かと顔を合わさねばなりません。

仏教ではこれを「怨憎会苦(おんぞうえく)」といいます。

近親者はなおさらで、近いがゆえに関係がこじれ、

悲惨な結果を招くことも。

警察庁は、平成28年に摘発した

殺人事件(未遂も含む)770件のうち、

親族間が占める割合は55パーセントだと発表しています。

実に半数以上が、親類同士の惨劇なのです。

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平成22年、宮崎市で家族3人の殺人事件が起き、

妻と生後5ヶ月の息子、妻の母を殺害したとして

20代の男性が逮捕された。

動機を聞くと、彼は妻の母から日常的に

「結婚を機に転職したのが気に入らん」とか

「結納や結婚式がなかった」「おまえの実家は何もしてくれん」

など、執拗に責められていた。

妻も味方になってくれず、家には居場所も、

自由に使えるお金もない。

義母との衝突を避けるため彼は、毎晩仕事が終わったあと、

車中で過ごして夜遅くに帰宅。

翌日も早朝4時、5時から仕事に出掛けるなど、

疲れ果てていった。

事件の数日前、子供のことで話し合っていると、

いつも以上に激高した義母から何度も頭を殴られ、

心の糸がついに切れてしまう。

「この生活から抜け出したかった。

義母を殺害するしかないと思った」

追い詰められ、義母と妻子を手にかけてしまった。

死刑囚となった彼は、後にこう述懐している。

「自分はもともと視野が狭かったと思いますが、

〝あの時〟はいつも以上に視野狭窄になっていた。

全ての原因は自分にありました」

 

極端な例と思うかもしれませんが、私たちも、

何かに追い詰められると、苦しみのあまり、

いつ爆発してもおかしくない心理状態になるでしょう。

このような精神的苦しみを解決して悲劇を起こさぬよう、

相談機関では、日夜努力しています。

爆発しそうな時は、誰かに心のありのままを

思いっ切り吐き出すことで、スッキリすることもある。

何かで発散させなければ、生きていけないほど、

本人はつらいのです。

そこまで深刻にならないように、仕事に忙殺される日々に潤いを、

笑顔を、と家族で旅行やレジャーに出掛けたり、

たまには美味に舌鼓を打ち、温泉につかってのんびりしたり、

趣味に没頭したり、音楽や芸術でストレスを解消し、

スポーツに明日への活力を得たりしています。

しかし、ここで挙げたような苦悩は、

人間の根本的な苦しみではない、と仏教では教えられます。

木に例えれば「枝葉」の苦であり、

それを解決して得られる喜び、楽しみも、

苦しみの大木の枝を切り落とすようなもので、

一瞬楽になりますが、永続しません。

根や幹が残れば養分が他に行くだけで、

新たな苦悩の枝葉が再び現れるのです。

 

●苦しみの根本は「三世の業障」

 

では、苦しみの根本とはどんなものなのでしょう。

昨年から、各地で上映されているアニメーション映画

『なぜ生きるーー蓮如上人と吉崎炎上』には、

室町時代に活躍された蓮如上人が、

本願寺や吉崎御坊(福井県)で弥陀の本願を説かれ、

多くの聴衆が聞いている場面が、史実に基づいて描かれています。

この映画を見たブラジルの青年から、

こんな喜びの声が届きました。

 

「映画『なぜ生きる』を拝見し、どれだけ感動したか。

私は今、不思議な感覚でいます。

言葉にならない満足感が、私の心を覆っています。

私の目の前に、ものすごい映像が流れたのですが、

それだけではなかったのです。

毎日、大きな喜びを胸に真剣に聞法させていただき、

晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました。

その感動を一端なりとも他の人に伝えようと思いましたが、

とても表すことができません。

無始無終の苦しみの過去から、仏法を求めてきた〝浮浪者〟が、

今生で阿弥陀仏の本願真実を

聞かせていただくことができたのです。

〝我、十方に叫ぶ この世で一番の幸福者、否、

大宇宙一の最高の幸福者と〟

親鸞聖人の恩徳讃の御心のまま進ませていただきたいと思います」

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この青年は感想の中で「無始無終の苦しみ」と言っています。

無始無終とは、始めもなく終わりもないということ。

これはもちろん、私たちの肉体のことではありません。

仏教では、私たちの生命の実相は、

果てしない悠久の過去から永遠の未来に向かって、

とうとうと流れていると説かれています。

私たち一人一人に、人間に生まれる前の過去世、

今生きている現在世、死んだ後の未来世がある。

これを「三世」といい、去年から今年、来年に続くように、

私たちの生命は、過去世から現在世、そして未来世へと

永遠に続いていくのだと、お釈迦さまは説かれています。

この三世を貫いて私たちを苦しめる苦悩の根元を、

蓮如上人は、「過去・未来・現在の三世の業障

と仰っています。

肉体の苦しみや人間関係の悩みは死ねば終わりますが、

この「三世の業障」は遠い過去世から私を闇の中に

さまよわせてきた心の病ですから、

「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」

とも蓮如上人は言われています。

仏教で教える「抜苦与楽」の「苦」とはこのことであり、

この苦悩の根本治癒が、私たちが人間に生まれてきた

真の目的なのです。

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●生きている今、聞く一つで絶対の幸福に

 

では、どうすれば、この根本苦が抜き取られるのでしょう。

大宇宙のすべての仏が「本師本仏(師)」と仰ぐ阿弥陀仏は、

「どんな人でも 聞く一念に

絶対の幸福に救う」

と本願(お約束)を建てられています。

この阿弥陀仏の本願力によって、三世の業障が除かれ、

生命の歓喜を得て、永遠に変わらぬ絶対の幸福になれるのです。

蓮如上人はこのことを、

 

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、

正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

             (御文章5帖目6通)

 

と明示されています。

ここで、三世の業障が「一時に罪消えて」と言われる

「一時」とは「一念」のこと。親鸞聖人は、

「『一念』とは、時剋の極促を顕す」

と仰り、最も短い時間である、と教えられています。

そのアッという間もない一念の瞬間に、

弥陀の本願力によって「三世の業障」が消滅すると同時に、

「正定聚」「等正覚」に救い摂られるのです。

 

「正定聚」とか「等正覚」とは、どういうことでしょう。

「正定聚」とは「正しく(必ず)仏になることに定まった人々」

という意味。

「等正覚」とは「正覚〈仏覚〉と等しい位」ということです。

これは何を意味しているのでしょう。

仏教では「さとり」に52の位があると教えられています。

「さとりの52位」といい、

その最高位が「仏覚(仏のさとり)」です。

その最高のさとりを開かれた方を仏といいます。

「正定聚」「等正覚」はいずれも、その仏覚にあと1段という

51段目の位を表す言葉。

本来、さとりとは、大変な長期間、

修行しなければ到達できない境地ですが、

そんな修行のできない私たちは、弥陀の本願力によって

苦しみの根本が抜き取られた一念に、

51段高とびして「正定聚」「等正覚」になれるのです。

「正定聚」「等正覚」になった人は、

来世は必ず弥陀の極楽浄土に往って仏になれますから、

この身になったことを

「往生一定(浄土往生がハッキリ定まったこと)ともいわれます。

「往生」とは、一般には「死ぬ」「困る」と

誤解されている言葉ですが、本来は極楽浄土に往って、

仏に生まれることをいいます。

いつ、どんな死に方をしても、光明輝く浄土に生まれることが、

生きている今、ハッキリする。

「大宇宙一の幸せ者だ」と叫びたくなるほど

すごい幸せですから、現代の言葉で「絶対の幸福」というのです。

 

しかも、この絶対の幸福には、弥陀の本願を「聞く一つ」で

なれます。親鸞聖人は次のように教えられています。

 

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて

疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり

 

「聞」とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末を聞いて、

ツユチリほどの疑心もなくなったことをいうのである

 

「聞く」とは、どういうことか。

「衆生(すべての人)が、「仏願」弥陀の本願の「生起本末」に、

ツユチリほどの疑心もなくなったことだと仰っています。

「仏願の生起本末」とは、弥陀はどんな者のために

本願を建てられたのか。

どんな幸せに、どのように救うと誓われているのか、

ということです。

阿弥陀仏は「すべての人」を相手に本願を建てられました。

それは、1日として厳しい修行もしたことのない私のこと。

そんな私が弥陀の本願力によって、

平生の一念、必ず浄土往生できる身にさせていただけるのです。

〝絶対の幸福なんて、あるのかな〟

〝そんな結構なことに、本当になれるのだろうか〟

〝私でもなれるのかしら〟

素晴らしすぎる弥陀の本願を聞けば、皆、

こんな疑いが出てくるでしょう。

本願を「疑心あることなし」と聞いた一念、

これら一切の疑いが晴れわたって、

弥陀のお約束どおりの幸せになり、

〝弥陀の本願まことだった〟とハッキリするのです。

このように「本願」を「聞く一つ」で救われる教えは

ほかにありません。

親鸞聖人の教えが「本願の宗教」「聞の宗教」と

いわれるゆえんです。

大切なのは、よくよく真剣に弥陀の本願を聴聞すること。

本来の寺は、その聞法の場所として建立されたのですが、

今日はどうでしょうか。

衰退の根本理由は、本来の目的が

果たされていないからではないでしょうか。

とにかく、仏法が正しく説かれている場所を求めて、

「本願に疑心あることなし」となるまで聞くことが

肝要なのです。

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「お寺」って何? [お寺の役割とは]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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 かつて「お寺」は

        人々の中心だった

 

犬も歩けば棒に当たる。

町を歩けばコンビニエンスストア。

皆さんは、コンビニとお寺、どちらが多いと思われますか。

平成29年5月の調査では、全国のコンビニエンスストアは

5万5千店舗あるのに対して、仏教寺院はなんと、

7万7千ヵ寺余り(文化庁平成28年版『宗教年鑑』)。

食品・日用雑貨などの必需品がそろい、

銀行への入金・引き出し・公共料金の支払いまでできる

コンビニは、まさにその便利さから、現在も増え続けています。

ところが、そのコンビニよりお寺の方が約2万2千も多いのです。

昔は人口が少なかったにもかかわらず、

こんなにたくさんの寺院が建てられたのは、

それだけ必要とされていたからでしょう。

どんな役割がお寺にあったのでしょうか。

昔は寺子屋といわれ、僧侶が先生として子供たちに

読み書きそろばんなどを教えていたこともあります。

それだけ僧侶は町や村の人たちの信頼もあり、

学問、人徳を備えた人も多かった。

半世紀ほど前までは、村人が寺にやってきて、

悩み相談にのってもらう姿が多く見られました。

また、北海道や海外へ開拓移民として渡った人たちは、

苦しい日々に心の安らぎを求めて寺を建て、

布教使の派遣を本山に要請したことが記録に残っています。

仏の教えを聞き学び、それによって人々の心が安らぎ救われる、

それが本来の寺の役割でした。

 

●「読経」は何のため?

 

時は流れ、昭和40年代に寺に生まれたSさんは、

葬儀や法事ばかりを見て育ち、

お経を読むのが寺の仕事だと思っていた。

成長するにつれ、お経を読むのは何のためか、

どんな意味があるのだろうと思うようになった。

将来は寺院を継ぐ身だからと、

お経を学ぼうとしましたが、漢字ばかりで分からない、

説法や仏教の講義を聞いても理解できませんでした。

お釈迦さまが説かれたお経には、

何が教えられているのか。

祖父も父親も、時々来る布教使に尋ねても、

「お経は説明して簡単に分かるものではない、

若い時は分からなくて当然だ」

と言う。

説明して分からないなら、なぜ読経するのか。

モヤモヤは深まるばかりだったといいます。

「寺に生まれても、仏教が分からないのだから、

在家で育った人はなおさら分からないのではと思います。

寺の存在意義は、何かと思いました」

 

●「本堂の大柱にもたれ、

  夫と2人黙って

     座っていました」

 

また、本誌読者のNさんは、年を重ねるにつれ、

人生何をすべきなのかと夫と2人、大きな寺を訪ねました。

寺には、混沌とした人生に明かりをともす

教えがあるのではないか。

私たちが知らない仏の智恵を学びたいと、

出掛けたのです。

寺の門をくぐり、建物を見ただけでも慌ただしい日常から離れ、

心が落ち着きました。

しかし教えを説く人は1ヶ月後まで来ないから、

話は聞けないとのこと。

「がっかりしました。せめて本堂に入れてくださいと

お願いして仏壇に合掌したあと、

大きな柱にもたれ、伽藍をながめながら、

2人黙って座っていました。

 

●魚屋に魚がない?

 

魚屋という看板を掲げた店に魚が1匹もなかったら、

その店はどうなるでしょう。

お客さんは、落胆するばかりか、腹を立てて帰るでしょう。

結果、当然ながら店は倒産です。

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寺は、仏教という看板を掲げていますから、

仏教を知りたい人が来るところです。

その仏教には、荒波の絶えない人生の海を

明るく楽しく極楽浄土まで渡す大きな船の存在が

教えられています。

だから、仏教の看板を掲げながら、その大船の厳存が

ハッキリ教えられていなければ、人が来なくなるのは

当然すぎるほど当然。

(大船の意味は後ほど)

世の中が大変わりしたから、寺に来る人が少なくなったと

時代のせいにするのは間違っています。

戦後、雨後のタケノコのごとく次々現れた

新興宗教に集まったのは、多くの寺の門徒たちでした。

みんな生きることに苦しんでいるのです。

そのつらい人生を何とか明るく楽しく生きたいと

救いを求めているのです。

そのニーズに応じて教えを説き、

人々の心に生きる喜びを与えるのが、

寺の役割であったはず。

 

●「なぜ生きる」の答えを

     示された親鸞聖人

 

約800年前、親鸞聖人は、

更に親鸞珍らしき法をも弘めず、

釈迦の教法をわれも信じ、

人にも教え聞かしむるばかりなり

と仰り、

釈迦の教法(お釈迦さまの教え)で、

親鸞は本当の幸せになれた。だから、

皆さんにも同じ幸せになってもらいたい、

とお伝えしているだけなのですよ

と釈迦の説かれた仏教を90年の生涯、

教え続けられました。

その親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた方が、

室町時代の蓮如上人です。

昨年から、全国で大ヒットしている

『なぜ生きるーー蓮如上人と吉崎炎上』の中で、

蓮如上人はこう仰っています。

 

親鸞聖人の教えは唯一つ。なぜ生きる、

『なぜ生きる』の答えでした。

私たちは、何のために生まれてきたのか、

何のために生きているのか。

苦しくても、なぜ生きねばならぬのでしょうか。

誰しもが、知りたいことでしょう。

それに答えられたのが親鸞聖人なのです

 

やがて必ず死なねばならないのに、

なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。

おかしな話ではありませんか。

この私たちの、最も知りたい疑問に答えられたのが、

親鸞聖人なのですよ。

親鸞聖人はね、どんなに苦しくても、

生きねばならぬのは、私たちには、

とても大事な目的はあるからだと、

懇(ねんご)ろに教えられています

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「なぜ生きる」の答え・人生の目的とは、

どんなことがあっても、決して色あせたり、

崩れたりすることのない「絶対の幸福」になることだと

教えられました。

その絶対の幸福には、大宇宙の仏の師である

阿弥陀仏の本願(お約束)を聞く一つで、

「どんな人も、生きている今、なれるのだ」

と親鸞聖人は教示されています。

この阿弥陀仏の本願を、人生の海に苦しむ私たちを乗せて、

極楽浄土まで楽しく渡すために、

阿弥陀仏の造られた「大船」と仰ったのです。

どんなに時代が変わっても、変わらぬ仏教の救いがあるのです。

そのことを次回更新時に解説いたします。

 

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リポート

『とどろき』をテキストに法話会

  「なぜ生きる」求め 門徒が集う

 

消えていく寺が増える一方で、

寺の本来の姿を取り戻そうと、

『とどろき』などをテキストにした法話会を

開く寺が注目を集めています。

そこには、「なぜ生きる」の答えを求めて、

人々が仏法を聞きに集まるという

生き生きとした光景がありました。

 

「ありがたい仏教の

    お話が聞けてうれしい」

 

9月のお彼岸の日、関西地方のある寺院を訪ねると、

『とどろき』をテキストにした法話会が開かれ、

門徒さんら約50名が参詣されていました。

この日のテーマは、9月号の特集「彼岸 3つの謎を解く」

でした。

彼岸とは、阿弥陀仏の極楽浄土のこと、

その浄土に生まれるにはどうすればよいのかについて、

講師から理路整然とした話がありました。

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参詣者からは

「浄土に生まれるには、生きている時に

仏教を聞かなくてはならいことが分かりました」

                  (60代男性)

「『とどろき』の記事が参考になるので、

とても分かりやすくお聞きできました」

                  (70代女性)

「月刊誌がテキストなので、

毎月の法話が楽しみになりました」  (50代男性)

 

などの声が聞かれました。

また、寺の役割について

「最近は、お寺といえば、葬式や法事ばかりですが、

本当は、仏教の有り難いお話を聞く場所だったはずですよね。

昔のように、にぎやかなお寺になってほしいです」

                  (70代女性)

という感想もありました。

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この寺の住職は、寺の現状を次のように語っていました。

「親鸞聖人の教えを知らないと、

人間として生まれてきたことにならないのです。

あまりにもったいない。ところが今は、

寺でも仏教が聞けなくなっています。

これには僧侶の勉強不足があると思います。

それで寺から人々が離れていって、

慌てますが、自業自得なのです。

京都の寺も観光寺院になっています」

さらに、本来の寺の在り方について

「今日は、彼岸のお話でしたが、

人間として生まれた目的は『彼岸』にあります。

まず、そのことをよく知っている先生から

聞かなければなりません。 

その先生が、親鸞聖人です。

ですから、寺では、親鸞聖人の教えを聞くことが大事なのです。

それが聴聞です。

教えがきちんと相続されていれば、

どんな山奥の寺でも、廃れていくということはないのです

とも話しておられました。

 

「本当の幸せになるための

  寺参りなんですね」

 

関東地方でも、『とどろき』をテキストに

彼岸の法話がなされた寺の住職の声を聞きました。

「毎年、彼岸の法話をしますが、

先祖供養のためだと思って来られる方が多いです。

そうではない、自分が本当の幸せになるために、

教えを聞くのが寺参りなんですよ、

と『とどろき』を開いて話をしています。

人間は、自分の思いに合わないと、

仏教がなかなか心に入りません。

お釈迦さまや親鸞聖人の教えを、

正しく聞くことはまことに難しいものだと、

つくづく思います。

よくよく聞きなさいよ、『仏法は聴聞に極まる』と

教えられるお言葉が身にしみます」

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生きている今、「心の長者」になれる! [南無阿弥陀仏]

       生きている今、

         「心の長者」に

 

         「南無阿弥陀仏」の宝と

           一つになる幸せ

 

●どうしたら「心の長者」になれるのか?

 

お釈迦さまが、3人の長者の中で、いちばん幸せだと

教えられたのは「心の長者」だと前回の記事で学びましたが、

次に聞きたいのは、それはどんな幸福なのか、

そしてどうしたら、「心の長者」絶対の幸福になれるのか

ということでしょう。

そのことについて、お釈迦さまは次のように教えられています。

 

人々よ、心の頭(こうべ)を垂れて、わが言葉を聞くがよい。

人は、苦をいとい、幸せを求めている。

だが、金は得ても、財を築いても、常に苦しみ、悩んでいる。

王や貴族とて、皆同じである。それはなぜか。

苦しみの原因を正しく知らないからである。

金や名誉で苦しみはなくならぬ。無ければないで苦しみ、

有ればあるで苦しむ。有無同然である。

毎日を不安に過ごしている。

例えば、子供のない時は、ないことで苦しみ、

子供を欲しがる。

しかし、子供があればあったで、その子のために苦しむ。

この苦しみの原因は、どこにあるのか。

それは、己(おのれ)の暗い心にある。

熱病の者は、どんな山海の珍味も味わえないように、

心の暗い人は、どんな幸福も、味わえないのだ

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●暗い心が晴れた時、心の長者になれる

 

お釈迦さまは、王や貴族のように、

どんなお金や財産に恵まれても(家の長者)、

健康で生活できていたとしても(身の長者)、

心の底から、「人間に生まれてきてよかった!」

と生まれてきたことに感謝できないのは、

自分自身の中にある、暗い心が原因であると教えられました。

その暗い心とは、

「生きてきてよかったと思えても一時的で、

ちょっとイヤなことがあると、

生まれたことに感謝できなくなる心」

「生活に不自由はないのに、一人になって、ぼんやりしていると、

どことなくむなしくなってくる心」

「好きなことに、いろいろチャレンジしてみても、

心から満足できない」

と、いろいろな形をとって、私たちの心に影を差す心のことです。

仏教では、この心を、「無明の闇」といわれ、

すべての人の心の底に横たわっていると教えられています。

そして、その心のせいで、どんな幸せに囲まれていても、

真の安心満足を味わうことができないのだよと、

肉体の熱病に例えて、次のように教えられました。

 

熱病の者は、どんな山海の珍味も味わえないように、

心の暗い人は、どんな幸福も、味わえないのだ

この心の病の症状を、有っても無くても喜べない「有無同然」と

経典に説かれているのですが、身に覚えがある人ばかりでは

ないでしょうか。

とりたてて不満はないけれど、一日中、

決まった仕事や家事などに追われ、

〝ああ私、何やってんだろう?〟と思うことがあります。

宅配弁当のコマーシャルで主婦が、

「朝作って、すぐ昼作って、夜のメニュー考えて・・・」

と言っているのを聞いて、

「ホント、一日中食事の準備しているみたい」

と共感する人もあるでしょう。

永年の習慣とはいえ、毎度の食事準備は手間がかかります。

ニンジン一つ細かく切るのも一苦労。

そうして作った料理も食べるのはアッという間。

新婚当時は、「君の作ったものは、みんなおいしいね」

と言ってくれたのに今は、まずい時だけ文句を言う。

食器や鍋を洗うのは面倒くさいけど、誰も手伝ってくれない。

やれやれ終わったと思っていたら、

すぐ次の食事の準備が始まります。

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ある裕福な家の奥さんが、夕方、いつものように

フロ掃除をしていた。

ふと顔を上げて、窓からいつもの夕日を見た時、

突然、止めどもなく涙が頬を伝って流れ落ちた。

このまま老いて、人生終わってしまうのかと思ったら、

いても立ってもおれなくなり、

荷物をまとめて家出したといいます。

たとえ、裕福な環境に住まいし、身体が健やかでも、

ぼんやりと込み上げてくるむなしい心は、

無明の闇の影のようなものです。

 

その無明の闇を、ズバリ、心の病に例えて、

蓮如上人は、『御文章』に「無明業障の恐ろしき病」とも

言われています。

この無明の闇がなくなった時、「有ってよし、無くてよし」

の絶対の幸福(心の長者)になれるのです。

ちょうどそれは、40度の高熱が下がって、病が全快すれば、

梅干し一つで白ご飯を食べていても、

おいしく味わえるようなものです。

 

●暗い心が晴れるのは、平生の一念

 

では、その暗い心が晴れわたり、大安心になるのは、

いつのことでしょうか。

「風邪が治る時のように、いつとはなしに、

だんだんと明るくなってくるのだろう」

「死んでからでしょ?」

こんな誤解が、浄土真宗では特に多いようです。

しかしお釈迦さまも、親鸞聖人も蓮如上人も、

苦しみの元である無明の闇は、

仏法を聞いた、平生の一念で破れる、

と説かれています。

 

親鸞聖人の曾孫(ひまご)、覚如上人が、「無明の闇」を

「自力の迷情」と言い換えて、流麗な筆致で教えられた

次のお言葉を、説明いたしましょう。

 

この娑婆生死の五蘊所成(ごうんしょじょう)の

肉体未だにやぶれずといえども、

生死流転の本源をつなぐ自力迷情、

共発金剛心(ぐうほつこんごうしん)の一念にやぶれて

               (改邪鈔)

 

「娑婆」とは、昔のインドの言葉で、

「堪忍土」と訳され、私たちの住まいしている世界のこと。

「ならぬ堪忍、するが堪忍」と、思いどおりにならず、

怒りを爆発させたいけれども、

ぐっとこらえていかねばならないのが、人の世です。

平凡な生活をしていても、一日に何度も、

ムカッとすることが起きてきます。

最近、高速道路上での運転手同士のトラブルで死亡事故が起き、

「ロード・レイジ」という言葉がよく知られるようになりました。

他の車に割り込まれたり、追い越されたり、

前者のノロノロ運転にいただったドライバーが、

激高し、あおり運転をしたり、進路妨害をしたりすることですが、

ふだんは穏やかな人でも、ハンドルを握ると、

人が変わったようになって、イライラをつのらせることがある。

あおられたほうも、心は穏やかでありません。

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都会の通勤電車に乗れば、肩が触れた、カバンが当たった、

足を踏みつけたと、文句を言われた人もあるでしょう。

人間が集まれば、欲と欲、怒りと怒りがぶつかり合って、

どちらかが我慢せねばならなくなってくる。

そんな忍耐を重ねて、生活していかなければならないこの世界を、

「娑婆」といわれるのです。

その人間界に生まれ、死んでいく私たちの肉体を、

ここで「五蘊所成(ごうんしょじょう)の肉身」

と言われています。

「五蘊所成」とは、「5つのものででき上がっている」

ということです。

それが「未だやぶれず」とは、肉体がまだ元気な時、

「生きている時に」ということです。

次に、苦しみの根元である「無明の闇」を、

ここでは「自力の迷情」と言われ、

それは、「生死流転の本源をつなぐもの」だと説かれています。

「生死流転」とは、生まれ変わり、死に変わりしながら、

果てしなく苦しみ続けてきた、

私たちの遠い過去の姿を言われたものです。

前回、11月号のこのコーナーでも紹介しましたように、

蓮如上人が「過去・未来・現在の三世の業障」

と仰ったのと同じく、三世にわたって、

私たちを苦しめ続けてきた苦悩の根元が、

ほかならぬ「自力の迷情」であり、

それが、生きている一念に「破れる」「なくなる」と

説かれているのです。

「無明の闇」とは、この世だけの苦しみの元ではなく、

実は、私たちを、三世にわたって迷わせ、

苦しめてきた根元であるということが分かります。

その無明の闇がぶち破れ、本当の幸せに救われるのは、

生きている平生のことですから、

これを「平生業成」の教えといわれます。

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●「生命」と「肉体」とは、大河と泡沫

 

「三世」とか「生死流転」と教えられるように、

肉体が滅んでも、私たちの生命は絶えることなく

流れていくと仏教では教えられています。

「袖触れ合うも多生の縁」ということわざがありますが、

この世、電車で隣同士に座り、袖と袖が触れ合った人同士は、

実は、遠い過去世から、深い関係にあった人同士なのだよと

教えられているのです。

過去世の因縁がなければ、この世で、同じ時に、

同じ場所の、しかも隣同士で座るということが

起きるはずがないというのが、仏教の教えです。

例えるならば、私たちの生命は、滔々(とうとう)と流れる

大河のようなもの。

その大河の表面に、ぱっと泡が現れて、しばらく流れ、

またぱっと消えていく、そんな泡沫のようなものが、

私たちの肉体なのです。

お金が儲かった、財産があるから大丈夫、健康だと言っても、

それは全て、この泡の流れている間の出来事です。

医学が私たちの肉体の命を延ばすのも、この泡を、

少しでも消えないようにと苦心している努力にほかなりません。

しかし仏教は、滔々たる永遠の生命の救いを

教えられているのです。

「心の長者」というのは、

「心が豊かになる」「心が明るくなる」と、一応はいえますが、

この肉体ある間の心のことだけではありません。

過去・現在・未来の三世を貫いて流れていく、

私たちの永遠の生命が救われて、

明るく輝いた人のことを言われているのです。

「家の長者」「身の長者」とは比較にならない

「永遠の生命の歓喜」のことだと分かれば、

「あいつと比べれば自分は恵まれているな」

「言われてみれば、感謝しなければならないな」という、

相対的な喜びとは、次元が違う、心の「長者(お金持ち)」

と言われるのも、うなずけるでしょう。

 

●「南無阿弥陀仏」は大宇宙の宝

 

では、どうしたら、苦しみの根元である無明の闇を

破っていただくことができるのでしょうか。

お釈迦さまも親鸞聖人も、「南無阿弥陀仏の名号にこそ、

無明の闇を破る力がある」と教えられています。

 

無碍光如来の名号と

かの光明智相とは

無明長夜の闇を破し

衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

 

南無阿弥陀仏の六字を、「名号」とも「無碍光如来の名号」とも

いわれます。

その南無阿弥陀仏には、私たちを、

長い間苦しめてきた「無明の闇」を破って、

人間に生まれてきてよかったという、

絶対の幸福の身にする働きがあるからです。

仏法を聞くのは、この南無阿弥陀仏を獲得して、

無明の闇を破っていただき、絶対の幸福になるためなのです。

そんな、すごい働きが「南無阿弥陀仏」にありますから、

蓮如上人

『南無阿弥陀仏』と申す文字は、

その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字の名号の中には、

無上甚深の功徳利益の広大なること、

更にその極まりなきものなり

         (御文章5帖13通)

と絶賛されています。

たった6つの文字にしか思えないかもしれないが、

それは、猫に小判、豚に真珠で、

南無阿弥陀仏の功徳を知る知恵が私たちにないからなのだ。

大宇宙に「南無阿弥陀仏」以上の宝はないから、

早く、この「南無阿弥陀仏」に宝を頂いて、

大宇宙一の長者になれよ、と勧められているのが、

親鸞聖人の教えなのです。

 

では、どうしたら、南無阿弥陀仏の名号を

頂くことができるのか?

紙面がありませんので、詳しい説明は改めますが、

仏法は聴聞に極まる

聞く一つで頂くことができるとお釈迦さまも、

親鸞聖人も教示されています。

早く、仏法を聞き開き、南無阿弥陀仏の宝を頂いて、

大宇宙一の心の長者にならせていただきましょう。

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お釈迦さまが説かれた「絶対の幸福」 [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

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●12月8日は、

  お釈迦さまが「仏」になられた日

 

12月8日は、釈迦成道(仏のさとりを開かれた)の日として

知られています。

今から2600年前、インドでお釈迦さまが、

35歳の12月8日に仏のさとりを開かれてから、

80歳でお亡くなりになるまでの45年間、

私たちに教えてくだされたのは、

「どんな人も本当の幸福になる道」でした。

仏教を聞けば、あなたも心に最高の宝を獲て、

世界で最も幸せな「心の長者」になれるのだよ、

とお釈迦さまは、教導されているのです。

今日でも「長者番付」などと使われるように、

お金や物に恵まれた人を「長者」といいますが、

「そんな長者に3とおりある」

とお釈迦さまは教えられています。

1つには「家の長者」、2つに「身の長者」、

3つめは「心の長者」といいます。

それぞれどのようなことなのでしょうか。

 

①家の長者

   財やお金に恵まれた人

 

家の長者とは、家や財産、お金や物に恵まれ、

豊かな暮らしをしている、いわゆる、

私たちが「長者」と聞いて思い浮かべる人のことです。

戦後の焼け野原から今の日本を築くため、

私たちの先輩たちは、大変な苦労をしてきました。

かつて子供の憧れは、「巨人・大鵬・卵焼き」の3つでした。

野球は「巨人」、力士なら「大鵬」、そして、最後は

「卵焼き」。

今や豊富に売られる「卵」は、どこのスーパーでも

1パック200円ほど。しかし当時は高価で、

なかなか子供の口には入らなかったのです。

1950年代、「三種の神器」といわれた白黒テレビ、洗濯機、

冷蔵庫。

それが60年代には、カラーテレビ、クーラー、自動車が

「三種の神器」となった。

豊かになると、持てる物も変わってきます。

今日では、子供から大人までほとんどの人が

スマホを持ち、テレビは大きく薄型、高画質。

洗濯機はボタン一つで乾燥まで。

車は一人1台という家庭もあり、私たち日本人は、

世界でも有数の「家の長者」といえましょう。

懸命に働いて、こんな便利で恵まれた社会を作り上げてくれた

先人たちに、心から感謝せずにおれませんね。

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「はたらく」とは「傍(はた・周囲の人々)を楽にする」

ことだから、本来「人の幸せのために努力する」こと。

そんな、「自利利他(自分以外の人を幸せにするままが、

自分が恵まれること)」に生きる人こそ、

「家の長者」となれるのでしょう。

 

②身の長者

  健康で元気な人

 

どんな病気であっても、その苦しみは

「甲乙つけ難い」から、「病」は、病だれに「丙」と

書くともいわれます。

健康は、失った時、そのありがたさがしみじみと知らされるもの。

お釈迦さまは、2番目に「身の長者」を挙げて、

健康という宝に恵まれた人は、大変に幸せなのだよと

教えられています。

イスに座ってのデスクワークは、毎時22分、

寿命を縮めるとする研究結果が報告され、

最近は立って会議やパソコンに向かい、

仕事のあとに公園でウオーキングしたり、

ジムに通って体力作り。

コラーゲン、コンドロイチン、オルニチン、グルコサミン、

などさまざまなサプリメントを服用する人も増えています。

自分が運動し、身体によい物を食べなければ、

健康は手に入りません。

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いつも穏やかに、明るく過ごすことが、

体にもいい影響を及ぼすことは、

一般にもよく知られています。

仏教で説かれる「和顔愛語(わげんあいご・和やかな笑顔と、

相手を気遣う優しい言葉)」を心がける人は、

他人に幸せを振りまく人だから、

必ず幸せが巡ってくるのだよとお釈迦さまは、

教えられています。

「因果の道理(自分の行為が、自分の運命を生み出す)」

に従って生きる人こそ、「身の長者」と恵まれましょう。

 

③心の長者

  生命の歓喜を獲た人

 

最後にお釈迦さまは、「家の長者」、「身の長者」も

素晴らしいが、いちばんよいのは心に最高の宝を獲た、

「心の長者」だと教えられます。

「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、

この身になるための人生だったのか」

と生命の歓喜、永遠の魂の喜びを獲た人だからです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「無常の世」にあって、

    「真実の幸福」を

       求められたお釈迦さま

 

世に3種の長者ありと説かれ、中でも「心の長者」を

勧められたお釈迦さまは、約2600年前、インドのカピラ城主・

浄飯王(じょうぼんのう)とマーヤー夫人の元、

4月8日に太子として誕生され、悉達多(しったるた)と

名づけられた。

幼少から文武ともに優秀で、健康にも恵まれ、

まさに「家の長者」「身の長者」の代表のような方であった。

ところが、そんな太子が成長するにつれ、

深刻な物思いにふけられるようになっていく。

 

心配した王は、何とか明るい太子にしてやりたいと、

19歳で国一番の美女といわれたヤショダラ姫と結婚させ、

さらに、春夏秋冬の季節ごとに御殿を造らせ、

500人の美女をはべらせたが、太子の暗い表情は、

一向に変わらなかった。

心配する両親にも太子は、一向にその悩みを

打ち明けようとされない。

ところがある日、意を決した太子は、夫王に手を突いて、

〝城を出て、まことの幸福を求めさせてください〟

と頼まれた。驚いた浄飯王、

「一体、何が不足でそんなことを言うのか。

おまえの望みは何でもかなえてやろう」。

それでは父上、申しましょう。私の願いは3つです

「3つの願いとは何か」

不審そうに浄飯王が聞くと、悉達多太子は、

キッパリとこう答えられた。

私の願いの1つは、いつまでも今の若さで年老いないことです。

望みの2つは、いつも達者で病気で苦しむことのないことです。

3つめの願いは、死なない身になることです

それを聞いた浄飯王は、

「そんなことになれるものか。無茶なことを言うものではない」

と、あきれ返って立ち去ったといわれます。

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「健康、財産、地位、名誉、妻子、才能などに恵まれていても、

やがて全てに見捨てられる時が来る、

どんな幸福も続かないではないか・・・」

この現実を深く知られた太子は、

心からの安心も満足もできなかったのでしょう。

 

「この無常の世にあって、どうしたら本当の幸福に

なることができるのか」

そんな思いを日々深めておられた太子が、

ついに夜中ひそかに城を抜け出し、

山奥深く入られたのは、29歳2月8日のことでありました。

そして私たちの想像もできない厳しい修行を、

6年間なされ、35歳の12月8日、

ついに仏覚を成就なされたのです。

以来、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、

仏として、すべての人に、早く「心の長者」になれよ、

と勧めていかれた教えが、仏教です。

 

●お釈迦さまの説かれた

    「心の長者」とは

 

仏教書で最大のベストセラー『歎異抄』。

『歎異抄』は読めば読むほど「真実のにおいがする」

と書いた有名な歴史小説家・司馬遼太郎も、

その妙なる香りを感じ取ったのでしょう。

親鸞聖人の言葉が流れるような名文で記され、

中でも重要な第1章には、お釈迦さまの説かれた

「心の長者」とは、「摂取不捨の利益(りやく)」を獲た人だと、

示されています。

仏教で「利益(りやく)」とは、幸せのこと。

「摂取不捨」とは、ガチッと摂(おさ)め取られて、

捨てられないことですから、「心の長者」になった人は、

永遠に色あせることのない「絶対の幸福」になるのだ、

と言われているのです。

 

今年もあっという間に12月。

平成30年をはるか先に感じた方もあったでしょうが、

もう目の前です。

(2017年12月のとどろきから載せています)

ちょうどそのように私たちの人生も、

振り返ってみれば「一炊の夢」のごときはかないもの。

「夢」という字の「くさかんむり」は十を2つ書いて20代の青年期。

その下の「四」が40代で壮年期。

暮れゆく「夕」は老年期を表すそうです。

 

俳聖・松尾芭蕉は、岩手県平泉を訪ねたおり、

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

と詠みました。

栄耀を誇った奥州藤原氏が、一たび頼朝と義経・弁慶の

争乱に巻き込まれるや、一身を懸けて駆け抜け争い、

築き上げて守らんとしたが、彼らの100年の栄華は、

たちまち滅んでしまった。

今や茫々(ぼうぼう)たる夏の野に、

芭蕉は夢の浮世を見たのでありましょう。

 

どんな栄耀栄華も、「ほんのささやかな、一瞬の幸せ」。

そんなシャボン玉のように、フワフワ浮いてパチンと消える

幸せではなく、永遠不滅の幸福をお釈迦さまは求められたのです。

 

この80~100年の肉体とは比較にならぬ永遠の生命が、

どんな財宝も及ばぬ最高の宝を獲れば、

「心の長者」と生かされ、

「ああ、私は大宇宙で最高の幸福者だ」と喜べる

「絶対の幸福」になれるのです。

 

そんな「絶対の幸福」とはどんな幸福なのか、

どうしたらなれるとお釈迦さまは教えられているのか、

次回更新時に載せたいと思います。

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まず毒矢を抜け [ブッダと仏弟子の物語]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

         まず毒矢を抜け

 

その修行者が仏陀の元に来た時のことを、

阿難はよく覚えている。

目を険しくいからせた男は、真摯に求道の指針を仰ぐ弟子たちとは

雰囲気が違う。

無為な議論のために来たことが、誰の目にも明らかだった。

こんなことは今までもよくあったが、

釈尊(お釈迦さま)はいつも同じ姿勢を貫かれる。

かつて大樹の陰で瞑想されていた時、

近づいてきた男が、

「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、

葉の数を知っておられるか」

と問うたことがある。しずかに世尊は言い放たれた。

「知りたければ、そなた、数えてみよ」

戯論(けろん)に応ずることも、また戯論である。

本質と無関係な議論に、釈尊は一刻たりとも使われない。

生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからだ。

一方、相手の多くは腹を立て、悪口雑言を並べて去っていく。

仏の威徳に打たれ、恭順する者もあるが、

〝彼はどうだろう〟。阿難は冷静に見守った。

「世尊は私の知りたいことを少しも教えてくださいませんね。

満足のいくお答えが頂けないなら、私は出家をやめたいと

思っています」

入ってくるなり弟子は言った。

知りたいこととは、「宇宙に果てはあるのか」

「世界はいつまで続くのか」などの問いであった。

〝それを知るのがさとりへの第一歩だ〟とばかりに、

彼は胸を張る。

世尊は彼に問うた。

「そのようなことを教えるから、わが元で修行せよと、

そなたに約束しただろうか?」

〝いえ、そうでは・・・〟。

修行者は小声であわてて否定する。

「もし仏がその問題について説かないうちに、

そなたが命終えたらどうなる?」

仏陀の問いに、弟子の勢いは次第に萎えていく。

続けて釈尊は、例えで修行者を諭された。

「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。

一刻も早く抜かなければ命が危ない。

友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』

と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。

男か、女か。その者の名前は。何のために矢は射たのか。

矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、

この矢を抜いてはならん』と言い張った。

やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」

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阿難は修行者の様子を窺った。

男の愚かしさが自己に引き当てられたのか、

身じろぎもせずに、彼は聴き入っている。

阿難はその仏縁をただ念じた。

世尊のお言葉は続く。

無常は迅速である。今、こうしている間にも、老いや病、

そして死の苦しみが現実にあるではないか。

われはこの苦悩の根本原因と、その解決の道を説いているのだ。

人生の大事は何か。よくよく知らねばならない

仏教の深遠さに触れ、己が誤りを知らされたものか、

修行者の表情から、先ほどの怒気が消えていた。

穏やかなその顔を見て、阿難もようやく安堵する。

そして静かに長く、息を吐いた。


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