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往生極楽の道 [歎異抄]

   明るい未来を願う

     すべての人への

        メッセージ

         往生極楽の道

 

親鸞聖人のご金言がしたためられている古典『歎異抄』には、

人生を苦しみに染める元凶

「死んだらどうなるか分からない心(後生暗い心)」が

どうしたら晴れるか、その方法が説かれています。

それが『歎異抄』第2章に出てくる「往生極楽の道」です。

今回は、この親鸞聖人のお言葉について、解説しましょう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私たちの日常とは、例えるなら「滝つぼ」へ向かう

船の中の出来事だと、特集第1部でお話ししました。

船内だけ見れば、平穏に見えるかもしれませんが、

ヘリコプターから見下ろせば、船に一大事が迫っていることは

明らかでしょう。

船旅に興じる人たちは、その行き先を見ることはできませんから、

船内で飲めや歌えの大騒ぎをしています。

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同じように人は皆、勝った負けた、損した得したと

目の色を変え、互いに争って生きています。

こんな話しがあります。

「得」という字を分解すれば

「人々よ、日に一寸ずつ儲けてゆけ」

と書いてある。

欲深ばあさん、それ聞いて、

「これは面白い、よいこと知った。

一日一寸でも一年たてば、大したものが得られるぞ」。

それから隣の田んぼを、ちょっとずつ削り取ることを

日課とする。

だんだん広がるわが田を眺め、得意然(とくいぜん)と

喜ぶばあさんだった。

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ところが間もなく、交通事故で、息子が身体障害者となり、

ばあさんは脳卒中で寝たきりに。

一寸ずつ儲けた田んぼを売り払い、死んでいったという。

私たちは、どこへ向かっているのか、

よくよく考えてみなければならないでしょう。

 

今から30年前に上映された、

『TOMORROW 朝』という映画があります。

舞台は、原爆が投下された昭和20年8月9日の前日の長崎。

婚礼を挙げる男女をはじめ、出産を控えた女性、

恋人から赤紙が来たと告げられる少女、

出征する兵士と家族写真を撮影する人々、

写真館の主人らの、ありふれた日常風景が描かれています。

いつものように朝起きて、ご飯を食べ、学校や職場に行く。

悲劇の前日も、そんなフツウの1日でした。

写真館の現像室で、結婚式の集合写真が印画紙に浮き出る。

それから間もなく、原爆が炸裂し、

あるはずだったそれぞれの未来は霧のように消えた。

淡々と描かれる人々の日常の幸せが、悲しみに染まります。

 

しかし、こうした〝悲劇〟は、

原爆に遭った人たちだけのことでしょうか?

考えてみれば、未来に死という〝滝つぼ〟のあることを知らず、

遅かれ早かれ無防備のまま突っ込んでいく私たちの日常と、

少しも変わりません。

「皆死ぬんだから、死なんか怖くない」

と言う人もありますが、

健康長寿のためのテレビ番組や本が人気を集め、

環境問題に感心を示すのも、死を遠ざけたい心の表れでしょう。

しかし後生の不安は、強がりやごまかし、

考え方を変えたくらいで払拭できるものではありません。

 

このままでは恐れと後悔で終わってしまう。

ところが親鸞聖人は、そんな人生が、一念の瞬間に

ガラリと明るく大変わりすると説かれているのです。

「そんなバカな、ありえない」

と思われるかもしれませんが、親鸞聖人のお言葉は、

常に揺るぎのない力に満ちています。

それが記された『歎異抄』第2章の一節を確認してみましょう。

 

おのおの十余ヵ国の境を越えて、身命を顧みずして

訪ね来たらしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を

問い聞かんがためなり

あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から

身命を顧みず、この親鸞を訪ねて来られたのは、

往生極楽の道、ただ一つを問いただすためであろう

 

親鸞聖人がこう仰った背景について、

簡単に説明しておきましょう。

関東で20年間、ご布教なされた親鸞聖人は、

還暦(60歳)を過ぎて、故郷の京都へ帰られました。

ところがその後、関東では聖人の教えを惑乱させる

種々の事件が続発しました。

信仰が大きく動揺した人たちは居ても立ってもいられず、

「聖人に、直にお聞きしたい」

と、京行きを決意したのです。

当時、数十日はかかったといわれる関東から京都への旅は、

箱根山や大井川などの難所も多く、また、盗賊・山賊も

うろついて、生きて帰る保証はありません。

まさに身命を顧みぬ旅路でした。

その同胞らと対面されるや、聖人はこう直言されています。

「そなたたちが、命を懸けて聞きに来られた目的は

往生極楽の道、ただ一つであろう」

このお言葉から、親鸞聖人の教えは

「往生極楽の道」であることが分かります。

では「往生極楽の道」とは何でしょうか。

それは、「必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる」と

誓われる阿弥陀仏の本願のことです。

 

●阿弥陀仏の本願とは

 

約2600年前、インドに現れられたお釈迦さまが、

80年の生涯懸けて説かれた教えが仏教です。

今日、一切経と呼ばれる7千余巻もの膨大なお経に

書き残されています。

親鸞聖人はこの一切経を何度も読み破られ、

こう仰っています。

 

如来、世に興出したまう所以は、

唯、弥陀の本願海を説かんとなり  (正信偈)

釈迦如来が一切経を説かれたのは、

「弥陀の本願海〈阿弥陀仏の本願〉ただ一つを教えるためだった」

 

ではお釈迦さまが、私たちに伝えようとされた

「阿弥陀仏の本願」とは何でしょうか。

地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですが、

大宇宙には数え切れない仏さまがまします。

それらの仏方の先生、最高の仏さまが阿弥陀仏です。

お経には、

最尊第一の阿弥陀如来

諸仏の中の王なり

と説かれています。

 

「本願」とは誓願ともいわれ、お約束のことです。

滝つぼに向かって流され、不安の中で生きている私たちを、

「必ず弥陀の浄土に生まれる往生一定の幸せにしてみせる」

と約束されているのが阿弥陀仏の本願です。

「往生」とは、阿弥陀仏の浄土へ往って仏に生まれること。

「一定」とは、ハッキリすることです。

ですから「往生一定」とは、死ねば弥陀の浄土へ往って

仏に生まれられるとハッキリする、ということです。

この阿弥陀仏の本願のとおりに救われ、

来世は浄土に間違いなしとハッキリすれば、

後生(死後)の心配は一切なくなりますから、

〝生きてよし、死んでよし〟の絶対の幸福になれるのです。

弥陀の浄土は「無量光明土」ともいわれる、

限りなく明るい世界。

不安な人生が、無量光明土に近づく人生にガラリと

大変わりしますから、現在が無限に

明るく楽しい毎日になるのです。

これを「平生業成」といいます。

「平生」とは、生きている今。

「業」とは絶対の幸福、「成」は完成する、達成する、

ということですから、平生ただ今、

絶対の幸福に生かされるのです。

 

●この世と来世の2度の救い

 

阿弥陀仏の救いは、「この世だけ救う」のでも、

「この世はどうにもならんが、死んだら助ける」のでもありません。

この世(現世)も死後(当来)も2回救われる「現当二益」と

親鸞聖人は仰っています。

阿弥陀仏の本願は、

「平生に絶対の幸福(正定聚)に救い摂り、

来世は必ず弥陀の浄土に往生させる」

お約束であることを明らかにされたのが、

聖人一代のご布教でした。

親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた室町時代の蓮如上人も、

これを『御文章』に問答形式で分かりやすく教えられています。

「阿弥陀仏の救いは1度でしょうか、2度でしょうか」

の問いを出し、

「この世は、あの弥勒菩薩と同格の正定聚(絶対の幸福)に

救われる。仏のさとり(滅度)は、

死後、浄土で得られることである。

だから阿弥陀仏の救いは、2度あることを知るべきである」

と答えられています。

 

では、その阿弥陀仏の本願に、この世も死後も救われるには

どうしたらよいのでしょうか。

それについてお釈迦さまも親鸞聖人も、

仏法は聴聞に極まる」。

阿弥陀仏の本願に救われるには、「聞く一つ」と

明言されています。

 

●真剣な聞法

 

死んだらどうなるか?

後生の問題は、50年や100年どころではありません。

未来永劫、苦患に沈むか、往生極楽の楽果を受けるかの一大事だと、

仏教では教えられています。

それを親鸞聖人から、常々お聞きしていた関東の人々は、

「往生一定に救う」弥陀の本願(極楽往生の道)への疑いを

晴らしたいと、

命を懸けて聖人の御元にはせ参じました。

自分の乗った船が、真っすぐ滝つぼに向かっていると

知らされたなら、どうして放っておけるでしょう。

この一大事の解決を求め、真剣に仏法(弥陀の本願)を

聞く人が、必ず現れてきます。

時代や社会がどう変化しようと、眼前に迫る滝つぼは

変わりません。人は、やがてこの一大事に驚き、

「往生一定の大安心になりたい」と、

真剣に本願を聞き求めずにおれなくなるのです。

親鸞聖人は、その聞法の覚悟を、

 

たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

 

大火をくぐり抜ける覚悟で聞法する人は、

必ず阿弥陀仏より現当二益(この世も未来も助かる)の

幸せを頂くのだよ、と仰せです。

来世は必ず「浄土に往生できる」と明らかになり、

心から安心して生き抜く人生を送りましょう。

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浄土真宗でいわれる不来迎の教えとはどんなことでしょうか。 [Q&Aシリーズ]

浄土真宗でいわれる不来迎の

   教えとはどんなことでしょうか。

 

お聞きのとおり、浄土真宗の特色の一つが、

この不来迎の教えだということです。

不来迎ということをお話しする前に、

まず、仏教でいう来迎ということについて

説明しなければなりません。

来迎ということは、平生努めて念仏を称えている人が、

臨終になると、その人の枕元へ阿弥陀仏が観音・勢至の

二菩薩を従えて現れ、極楽浄土へ連れていってくだされると

いうことです。

これを信ずることを、来迎を信ずるというのです。

これに対して、不来迎というのは、

そんなことが全然問題にならなくなるということです。

来迎を信じている人たちは全くお気の毒な人たちです。

臨終の来迎を当てにしなくては往生の確信、安心が

持てないため、現在が不安で苦悩に満ちた生活を送っている

人々だからです。

浄土宗の人たちがよくすることですが、

臨終に、阿弥陀仏の木像の手に糸を引っかけ、

その糸の端を自分が握り締めて、

否応なしに極楽へ引っ張ってもらおうとする儀式さえあります。

これは、平生に阿弥陀仏の明らかな救いを

体験することのできなかった人たちの最後のもだえです。

それは真実の阿弥陀仏の本願を教える善知識に

会わなかったからでもあります。

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浄土真宗の道俗でも、「この世はどうにもなれない、

死んだらお助け、死んだら極楽」と喜んでいる者が多いのですが、

みんなこんな来迎を頼りにしている気の毒な人々です。

これらの人々は、今助かったという大慶喜も大満足もありませんから、

「死んだら極楽へ参れる」という、

未来を当てにする喜びしかできないのです。

ゆえに何とか間違いなく極楽へ往けるように信じ込もうとします。

が、それが信じ切れないので、

来迎をたのんでその不安をごまかそうとするのです。

ところが、その臨終来迎も信じられないので、

上述のような儀式までするようになったのです。

これらの人々は、死ぬまで不安と苦悩の連続で

終わっていくということですから、一大悲劇といわなければなりません。

 

●救われた

  信の一念から常来迎

 

親鸞聖人が不来迎だとおっしゃったのは、平生の時、

信楽開発(しんぎょうかいほつ)の一念に久遠の弥陀と名乗りを上げ、

曠劫流転の魂の解決をハッキリさせていただき、

苦悩渦巻く人生を光明の広海と転じさせていただき、

 

念仏者は無碍の一道なり

有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど

こころは浄土にあそぶなり

 

と何ものにも恐れず屈せず、何事にもうろたえぬたくましい

正定聚不退転の身に救われて、死んでよし生きてよし、

動くままが南無阿弥陀仏の大満足だもの、

臨終来迎などさらさら用事はないから、

不来迎とおっしゃったのです。

親鸞聖人は、来迎を平生の一念に明らかに体験なされたから、

臨終の来迎など問題になさらなかったのです。

浄土真宗の教えは救われた信の一念から仏凡一体ですから、

常来迎であり、不来迎です。

「されば聖人の仰せには、

『来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨の故に

正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、故に臨終まつことなし、

来迎たのむことなし』といえり」

               (御文章一帖目四通)

と蓮如上人の仰せのとおりであります。


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知恵ある者に怒りなし [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    知恵ある者に怒りなし

 

「そなたは祝日に、肉親や親類の人たちを招待し、

歓待することがあるか」

釈尊の静かな問いかけに、先刻から、辺り構わず

どなり散らしていた邪教徒の男は、

「そ、そりゃ、あるさ」

とかろうじて答えた。

〝やぶから棒に何を!?〟。若い彼は戸惑った。

問われた真意がつかめなかったのだ。

ここを訪れてから今まで、悪口雑言(あっこうぞうごん)を

浴びせ続けているが、釈迦は今までの相手とはまるで違う。

挑発に全く乗ってこないのだ。

〝これじゃ、のれんに腕押しじゃないか〟。彼は焦った。

釈尊は続けて尋ねる。

「親族がその時、そなたの出した食べ物を食べなかったらどうするか」

「食わなければ、残るだけさ」

ぶっきらぼうに、だが導かれるように、仏陀の問いに答えていく男。

釈迦の説法によって、仲間が次々と仏教徒になっていくのを見た彼は、

怒りに打ち震え、論破せんと一人、この精舎に乗り込んできた。

そんな男の素性を知ってか知らずか、釈尊は続けて問いを繰り出される。

「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受け取らなければ、

その罵詈雑言は、だれのものになるのか」

核心に触れたと思った男は、ムキになって反論した。

「いや、いくら受け取らなくとも、与えた以上与えたのだ」

「いや、そういうのは与えたといえない」

突っぱねられた男は、

訳が知りたくなる。

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立場は逆転した。 婆羅門の男は、自ら釈尊に問うようになった。

「それなら、どういうのを受け取ったといい、

どういうのを受け取らないというのか」

「ののしられた時、ののしり返し、怒りには怒りで報い、

打てば打ち返す。 闘いを挑めば闘い返す。

それらは与えたものを受け取ったというのだ。

しかし、その反対に、何とも思わないものは、

与えたといっても受け取ったのではないのだ」

さっきから感じていたことを言い表された気がして、

男は重ねて尋ねた。

「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」

釈尊は厳かに、偈(げ)で答えられた。

 

知恵ある者に怒りなし。

よし吹く風荒くとも、

心の中に波たたず。

怒りに怒りをもって報いるは、

げに愚か者のしわざなり

 

百雷に打たれたような衝撃が心に走った。

外道の若者は、仲間がなぜ仏陀に帰依したかが、ようやく分かった。

「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」

落涙平伏し、仏に帰順したのである。


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仏弟子・阿難のエコ感覚 [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

   一枚の布も無駄にせぬ心がけ

        仏弟子・阿難のエコ感覚

 

気を抜いて歩けばつまずきそうになる絨毯が、

廊下のはるか先まで続いている。

昼間だというのに、きらびやかな照明が明々(あかあか)と

灯り、

ぜいたくな調度が惜しげもなく置かれる城中。

かつて王族の一員であったから気後れするようなことはないが、

市中は経済が悪化して、今日の食をも事欠く人があふれている。

どうにも違和感を感じつつ阿難は

〝王さまも少し節約されては・・・〟。

心中、苦言をぶつけずにはいられなかった。

 

ともあれ今日は国王の催す法話会に招かれている。

挨拶の席では、後宮の侍女たちに説法してほしいと王から

直々に請われた。

そのせいか、いつもより緊張しているようだ。

阿難は、女性と接するのは得手でない。

だが、容貌が彼女たちの気に入るらしく、

これまで幾人もの女性に言い寄られたことがある。

常に親切を心がけ、だれにも分け隔てなく接しようとすることも、

時に好意と受け取られるようだ。

無道で熱烈な求愛に追い詰められたことがよくあったから、

つい警戒心が先に立つ。

お釈迦さまの御手を煩わせ、窮地を助けていただいたことも

一度や二度ではなかったのだ。

それでも中には、彼とのかかわりを縁に

仏道修行に目覚める者もあって、

それはそれで喜ばしいことだが・・・。

そんなことを考えながら、阿難は後宮に足を踏み入れた。

 

居並ぶ500人の女官たちを前に、阿難は説法を始めた。

〝善い行いは幸せを生み、放埒な振る舞いはやがて身を責める。

自身に現れる果報の一切は、

自身の行為によって生み出されたもの〟

と因果の道理を勧め、身を慎み、徳を求める素晴らしさを説くと、

静かに聞いていた宮廷の女性たちからは、

好もしい雰囲気が感じ取れた。

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話し終えると、すぐさま500枚もの豪奢な衣装が届けられた。

聞けば、つい先ほど王から与えられた着物で、

一枚が千金の値のする高価なもの。

阿難の説法に感銘を受けた侍女たちが、

我先にと善根を求めたのだ。

彼女らの尊志を、彼はありがたく受け取った。

 

次の日、食事の際に女たちが以前の服を

まとっているのを見た王は、

「昨日、皆に与えた新しい衣装はどうしたのじゃ?」

と尋ねると、すべて阿難に施したという。

仏弟子たちが決められた数しか着衣を持たぬのを知っていた王は、

500枚もの着物をどうするのか、

阿難を呼んで問いただした。

「確かに世尊は、私たちの衣服の数を決めておられますが、

衣類の施しを受けてはならない、ということではありません」

しかし、そんなにたくさんの衣装を布施されて、

どうするのだ?

王は重ねて問うた。

「法友の中には、破れたり古くなったりした衣しか

持たぬ者も多くありますので、彼らに分けたいと思います」

「で、彼らの古くなった服はどうする?」

「それぞれ、下着にいたします」

「今までの下着は?」

「寝る時の敷布に作り直します」

よどみなく阿難は答える。王はさらに尋ねた。

「ではそれまでの敷布はどうするのじゃ?」

「枕の布にいたします」

「その枕の布は何に?」

「足ふきに」

「使えなくなった足ふきは?」

「雑巾として使います」

「さすがに古びた雑巾は捨てるのじゃろうのう?」

「いいえ。細かく切って泥と合わせ、家を造る時、

壁や床に塗るのです。わが師・お釈迦さまは、

布1枚に至るまで仏法領のものだから、

決して粗末にしてはならぬと仰せです。

すべてはこの世に生まれ出た本懐を果たすに

大切なものだからです」

一枚の布も無駄にせぬ仏弟子たちの心がけと、

徹底した節約に、王は顔を紅潮させて感心し、

しきりに阿難を称賛したという

 

仏法領とは、私たちが生きる目的を果たすために

必要なもの一切をいう。

最も尊い目的に使うことで、そのものの真価が発揮される。

すべてを大切に、有効に生かす心がけを、

仏法は教えられているのである。


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