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弥陀に救われた者は、無碍の一道なり! [歎異抄]

        波乱の人生が

         光明に輝く

      『歎異抄』の大宣言

 

                  念仏者は

                     無碍の一道なり

 

親鸞聖人は、何が起きるか分からぬ火宅無常の世で、

決して崩れることのない絶対の幸福(無碍の一道)に、

誰もが必ず救われると仰せです。

それが『歎異抄』第7章の

 

念仏者は無碍の一道なり。

そのいわれ如何とならば、

信心の行者には天神地祇も敬伏し、

魔界外道も障碍することなし

 

です。今回は、このお言葉について学びます。

 

この『歎異抄』のお言葉を、平易にいえばこのようになります。

阿弥陀仏の本願に救い摂られた念仏者は、

一切の碍(さわ)りが碍りにならぬ、

素晴らしい世界に生かされる。

それはどうしてかといえば、

他力の信心を得た行者には、天地の神々も敬って

頭を下げ、魔界外道も恐れ入ってしまうからだ

 

まず驚くのは、

「念仏者は無碍の一道なり」

の、親鸞聖人の宣言でしょう。

念仏者と聞くと〝南無阿弥陀仏〟と称えている

すべての人と思うかもしれませんが、口で同じく

南無阿弥陀仏と称えていても、その称え心はまちまちです。

〝念仏は善の一つ〟ぐらいに思っている人もあれば、

〝極楽往生できるずばぬけた善だ〟と信じて

称えている人もあるでしょう。

しかし、阿弥陀仏の本願に救われ絶対の幸福になった

〝うれしさ〟から、称えずにおれない念仏もあるのです。

聖人が言われるのは、まさにその念仏者であって、

そんな人は一切の碍りが碍りとならない「無碍の一道」だと

仰るのです。

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ところで、

「一切の碍りが碍りにならない」

とは、どういうことなのでしょう。

 

●「無碍の一道」って腹が立たないこと?

 

大きな地震や台風が、今年も大変な被害をもたらしました。

対策を講じる専門家は、災害と無縁と言い切れる場所は

どこにもないと警告を発しています。

たとえそんな災害に遭わずとも、会社や家庭で、

ちょっとした人の言動に腹を立てたり、

物事が思うようにいかず不安になったり、

人生は、心乱されることばかり。

特に腹が立った時は、つい、言ってはならぬ事を言い、

やってはならない事をやって、さらなる苦しみに陥ってしまう。

振り返れば私たちの日常は、内も外もこんな碍り、

苦しみだらけではないでしょうか。

ああ、どんな時でも平静を保ち、安らかな心でいたいものだ。

不安なく、心が明るくなれば、表情も穏やかで、

落ち着いて行動できるのに。

そのような「不動心」「平常心」に誰もがなりたいと思い、

それを教える本は、よく売れているようです。

 

「一切が碍りにならない無碍の一道」と聞くと、

どんな状況でも、心乱れず、プレッシャーにも強い人に

なるのだろうと思われるかもしれません。

しかし、「無碍の一道」とは、どんな不幸や災難に遭っても

腹も立たなければ悲しみもない、ひょうひょうと

さとり澄ました人間になることではないのです。

 

●ああ、時節到来したか・・・

 

こんな話があります。

トンチで有名な一休さんが、小僧だった頃。

和尚さんの外出中、兄弟子が和尚の大事にしていた

由緒ある茶碗を割ってしまった。

うろたえる兄弟子に代わり、一思案した一休、

帰ってきた和尚に、

「今日はずっと本堂で座禅しておりましたが、

いまだに解けぬ難問がございます」

「ほう、何じゃ、その難問とは」

「はい、人間は皆死なねばならぬのか、

それとも死なずにおれるのか、人の生死是如何(これいかん)、

ということでございます」

「一休、おまえはなかなかの利口者じゃが、まだ幼いな。

この際、よく知っておくんだぞ。

『生あるものは必ず死す』。お釈迦さまも提婆も、

どんな英雄豪傑も死は免れぬのじゃ」

(提婆・・・お釈迦さまの命を狙った者)

「そうでございましたか。これで一つの難問が解けました。

ありがとうございます」

「まだ分からんことがあるのか」

「はい。もう一つは、この世の物は必ず壊れるのか、

中には永久に壊れぬ物があるのか。

物の消滅是如何、ということでございます」

「やはり子供じゃのー。この世の一切は必ずいつか滅する。

これを是生滅法(ぜしょうめっぽう)とお釈迦さまは

教えられている。よく知っておきなさい」

「でも和尚様。特別に大事にしていても、

壊れるものでしょうか」

「そうじゃ、いかに大切にしていても壊れる時が来る。

これを〝時節到来〟というのじゃ」

「そうですか。これで今日の難問が解けました。

生まれた者は必ず死ぬ。形ある物は必ず壊れる。

さようでございますね。

それにしても、〝時節到来〟とは

何と恐ろしいことでございますねえ」

「恐ろしいものじゃ。

仏さまのお力でもどうすることも

できんのじゃからのう」

「してみると大事な人が死んだからと

泣いたり悲しんだりせず、

大事な物が壊れたからといって

怒ったりわめいたりせず、

〝時節到来〟と心乱さぬのが、

さとりでございますね」

「さようじゃ」

「ありがとうございました。

さとられた和尚様の弟子である私たちは、

何と幸せ者でございましょう」

「これこれ、おだてても何も出んぞ」

「いえ、和尚様が出されなくても、

こちらからお出しする物がございます。

実はこれ、かくのごとく〝時節到来〟いたしました」

澄ました顔で一休、割れた茶碗をヌーと突き出した。

驚いた和尚、叱るに叱れず一言、

「もう、時節到来したか・・・」

と言ったという。

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「無碍の一道」とは、和尚が言う、大事なものを失ったり、

壊れたりしても時節到来とアキラメて、

悲しみもなければ、心も乱れない人間になることではありません。

そんな人は欲もなければ怒りもない、

ウラミ・ソネミなどの煩悩が一切なくなったということでしょう。

 

親鸞聖人は、人間とは煩悩の塊、「煩悩具足の凡夫」だと

仰っています。

煩悩以外何もない。煩悩100パーセントのものが

人間ということです。

ですから煩悩がなくなれば、私という存在自体がなくなります。

煩悩は、減らしたり、なくせるものではありませんから、

無碍の一道に出ても不幸や災難に遭えば、

それまでと変わらず、怒ったり、泣いたり、

動揺したりもするのです。

 

●変わらぬままで大変わり

 

ナーンダ、じゃあ、どこが変わるの?と思うかもしれませんが、

無碍の一道に出れば、碍りだらけの世界のままで、

碍りとならない、煩悩は変わらぬままで

大変わりするということです。

ここは相当の学者でも間違えるところですから、

注意しなければなりません。

『歎異抄』を解釈した本がいろいろありますが、

「無碍の一道」は「すべての束縛から解放された自由な道に立つ」

「どんなことが起こっても、喜んで引き受けている」

「身も心もやわらかになって、何事も喜んで負けていける

生き方に転じられる」などと解釈されています。

しかしそれでは、先の和尚のように、煩悩がないかのごとく

ふるまう〝痩せガマン〟でしかない。

無碍の一道とは、そんな世界ではないのです。

 

親鸞聖人が「碍りとならぬ(無碍)」と仰る碍りとは、

〝往生浄土の碍り〟のことです。

いかなる災難やトラブルに見舞われ、

欲や怒りや愚痴の煩悩が激しく燃え盛ろうと、

必ず浄土へ往ける金剛心には、全く影響しないから、

無碍の一道といわれるのです。

それが、阿弥陀仏の本願に救われ、本願の誓いどおり、

絶対の幸福(無碍の一道)の身になったということです。

 

●大悲の願船に乗ずれば

 

親鸞聖人は、この「無碍の一道」の世界を何とか

私たちに伝えようと、弥陀の本願を船に例えて

大悲の願船」と教えられています。

 

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、

至徳の風静に、衆禍の波転ず    (教行信証行巻)

 

「大悲の願船に乗じて」とは、阿弥陀仏の本願に救われたこと。

本願のとおり絶対の幸福(無碍の一道)になったことを

「光明の広海に浮かんだ」

と言われています。

苦難・困難・災難の波が絶えない難度の海でもがいていた人生が、

大悲の願船に乗せていただくと、

光明輝く広い海に浮かぶのです。

 

大悲の願船は弥陀の浄土へ向かって進んでいる船。

だから乗船した一念に、来世、間違いなく弥陀の浄土へ

往けることが決定します。

親鸞聖人は、弥陀の浄土のことを、無量光明土とも仰っています。

死んだらどうなるか分からない、お先真っ暗だった人生が、

いつ死んでも、旅立つ先は無量光明土とハッキリいたします。

未来が無限に明るいから、現在が無限に輝く。

それを聖人は、「光明の広海に浮かんだ」

と仰るのです。

 

この大船は、阿弥陀仏の造られた船ですから、

どんな大波が来ようと転覆したり、

進路を変えられることはありません。

大波小波を蹴立て、浄土へ直行するのです。

この波に例えられたのは、私たちの欲や怒りの煩悩のこと。

船に乗る前も、乗った後も、煩悩の波は少しも変わりませんが、

船に乗ったら「往生一定」、弥陀の浄土へ必ず往ける身になる。

先ほど、欲や怒りや愚痴の煩悩がどんなに激しく燃え盛ろうと、

〝必ず浄土へ往ける金剛心〟には全く影響しないと書いたのは、

このことです。

 

しかし、こう思われる方もあるでしょう。

確かに船に乗れば、来世は極楽浄土と

ハッキリするかもしれないが、

浄土へ往くのは死んでから。

生きている間は、煩悩の波にもまれて、

相変わらず悩ましい日常のままではないのかと。

 

そうではありません。大悲の願船に乗じた人は、

至徳の風静に、衆禍の波転ず

親鸞聖人は仰っています。

至徳とは最高無上の幸せのこと。

衆禍とはもろもろの禍で、煩悩による苦しみ悩みのことです。

その大波は、船に乗じたあとも変わらずやってきますが、

それらが全て喜びに転じてしまうのです。

 

●苦悩がそのまま歓喜になる

 

そんなバカな?と思われるかもしれません。

誰にでも分かる説明は難しいですが、

親鸞聖人は、苦悩がそのまま歓喜となる不思議さを、

次のような例えで説かれています。

 

罪障功徳の体となる

氷と水のごとくにて

氷多きに水多し

さわり多きに徳多し

     (高僧和讃)

 

大悲の願船に乗ったなら、欲や怒りの煩悩(罪障)が、

幸せ喜ぶ菩提(功徳)となる。

大きな氷ほど解けた水が多いように、

煩悩の碍りあるままが、極善無上の幸せになるのだ。

シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、

煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯になる。

それを「衆禍の波転ず」と仰っています。

泳げない人には恐ろしい海の波も、

泳ぎの上手な人には高い波ほど面白い。

苦しめるはずの波が、逆に喜びになってしまうのです。

 

●無碍の大道を進まれた親鸞聖人

 

『歎異抄』第7章のお言葉に戻りましょう。

次の「信心の行者には天神地祇も敬伏し」

とは、念仏者を天地の神々までもが敬伏すると言われています。

しかしだからといって、阿弥陀仏に救われた念仏者を

すべての人が尊敬する、ということではありません。

念仏者の聖人が、90年の生涯、非難中傷の的であったことを

知れば明らかでしょう。

 

ではなぜ、天地の神々も敬伏すると言われたのか。

欲や怒りの煩悩があるままで、碍りとならぬ無碍の一道に

救い摂ってくださる弥陀の本願の不思議さと、

その本願を明らかにする念仏者の信念に、

「天神地祇も敬伏する」

と言われているのです。

「魔界外道も障碍することなし」

というのは、〝人間に生まれてよかった〟という

大生命の歓喜を得れば、どんなに嘲り笑われ、

攻撃されようと、弥陀の本願不思議を伝え切る念仏者の前進を、

何ものも妨げることはできない、ということです。

 

親鸞聖人のご一生は、苦難の連続でした。

波乱万丈という言葉は、聖人のためにあるといってよいほど、

権力者から、仏教界から、また真実の仏法を知らぬ一般大衆からも

総攻撃を受けられた。

だが、その中を弥陀の本願力に動かされて、

90歳まで力強く、たくましく生き抜かれたのです。

今月から連載する漫画「親鸞聖人」に、そのご一生が描かれます。

 

●弥陀の本願は「聞く一つ」

 

ではどうしたら、煩悩の碍りあるがままで、

阿弥陀仏の本願に救い摂られ、

無碍の一道に生かされるのでしょうか。

それについては、お釈迦さま親鸞聖人も一貫しています。

仏法(阿弥陀仏の本願)は聴聞に極まる

阿弥陀仏は、「聞く一つ」で無碍の一道に出させてみせると

お約束です。

 

たとい大千世界に

満てらん火をも過ぎ行きて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)

 

大宇宙(大千世界)が火の海になっても、

その中をかき分けるようにして聞きなさい。

真剣に本願を聞けば、必ず絶対の幸福(無碍の一道)になれる、

と親鸞聖人は仰せです。

苦労をいとわず聞法し、無碍の一道にハッキリ救われるまで、

聞き抜きましょう。

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なぜ、生きることは苦しいのでしょう [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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なぜ、生きることは苦しいのでしょう

 

親鸞聖人は、苦しみの絶えない私たちの人生を、

荒波の絶えない海に例えられ、「難度の海」(教行信証)と

仰っています。

難度とは、苦しみのことです。

なぜ、人生は「難度海」になるのか。

それは、「煩悩具足の凡夫が、火宅無常の世界に

生きているからだよ」と、聖人はいわれています。

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、

万(よろず)のこと皆もって空事・たわごと・真実(まこと)

あること無し」     (歎異抄)

 

「煩悩」とは、欲や怒り、妬み・そねみなど私たちを

煩わせ苦しめるもの。

一人一人に108あるといわれます。

「煩悩具足の凡夫」とは、そうした煩悩でできた私たち

人間のことです。

 

そんな私たちが住む世界を、「火宅無常の世界」と

教えられます。

「火宅」とは、火のついた家のこと。

もし、住んでいる家のひさしに火がついたとしたら、

どんな気持ちでしょうか。

テレビを見てのんびりしたり、おいしい食事を楽しんだり

しているわけにはいきません。

ボヤボヤしていたら、死んでしまう。

そんな不安なところが、私たちの住む世界と

教えられているのです。

なぜ不安なのかといえば、「無常」の世の中だからです。

あらゆるものに常がなく、続かない。

苦労して築き上げた家や財産、地位、名誉も、

早い遅いはあれ、いつか必ず私から離れていく時がくるのです。

 

財産も 名誉も一時の 稲光

あとに残るは ユメのタメ息

 

例えば、サラリーマンの人生を見てみましょう。

どれほどバリバリ仕事をこなし、飛ぶ鳥を落とす勢いの人も、

しばらくの間のこと。

たとえ大過なく過ごしても、やがて「定年」を迎えます。

 

●「定年」は「生前葬」!?

 

定年を迎えたサラリーマンの悲哀を描いた映画『終わった人』

(主演・館ひろし)が今年6月に公開され、

話題を呼びました。

(2018年12月の『とどろき』から載せています)

原作となった内舘牧子さんの同名小説は、

衝撃的な書き出しで始まります。

「定年って生前葬だな」

そして、こう続きます。

「俺は専務取締役室で、机の置き時計を見ながらそう思った。

あと20分で終業のチャイムが鳴る。

それと同時に、俺の40年にわたるサラリーマン生活が

終わる。63歳、定年だ。

明日からどうするのだろう。

何をして1日をつぶす、いや、過ごすのだろう」

会社生活で手に入れてきたものから切り離され、

言いようのない不安に直面する「定年」。

定年は「生前葬」という主人公の独白に、

共感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

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●命の切り売り

 

この秋、首都圏の劇場では、往年の名作『セールスマンの死』

が上演されています。

米国の劇作家、アーサー・ミラーの代表作で、

1949年にニューヨークで初演され、

ピュリッツァー賞を受賞。日本でも人気作となりました。

セールスマンの主人公、ウイリー・ローマンは、

住宅ローンの返済や、日用品の修理や買い直しで

生活は手一杯。

寄る年波には勝てず、業績が落ちるにつれて給料も下がり、

ある時、妻にこんなことを漏らします。

考えてみるとだね、一生働きつづけて

この家の支払いをすませ、やっと自分のものになると、

誰も住む者はいないんだな

ボロボロになるまで働いて、ウイリーは苦難の生涯を閉じます。

私たちも多くの場合、30年、40年の住宅ローンを組んで、

その返済のためにあくせくと働いています。

人によって、仕事で売るものは異なりますが、

共通するのは、「命」を売っているということでしょう。

今の日本人なら、生まれた時に80年の命を受け取り、

その後、この命を切り売りして、欲しいものを手に入れている

ということになります。

ウイリーの嘆きは、大方のサラリーマンの嘆きともいえましょう。

 

●「えっ、

   あと10年の人生?」

 

昨年刊行された『定年後ーー50歳からの生き方、終わり方』

(楠木新・著)という本には、次のようなエピソードが

紹介されています。

 

定年に近い5人の社員が居酒屋で話し合った。

60歳で定年退職するか、継続雇用を選ぶか。

それぞれの生活を思い描いて会話は盛り上がっていたが、

やがて、妻の希望から60歳以降も働くというAさんがこう言った。

「自分の親は60代後半で亡くなった。

それを考えると残りはあと10年だ」

その瞬間、皆が静まり返った。

それぞれの頭に浮かんだのは「えっ、あと10年?

残りの人生はそんなに短いのか」という共通した思いだった。

「妻が許さないから」「健康にいいから」といった理由で

とりあえず会社に残る選択が、残りの人生の短さに

見合ったものではないことを各自が感じ取ったのである。

定年退職にせよ、継続雇用にせよ、人生のたそがれどき、

悲哀に沈む道に至ることをどうにも否定できません。

災害や事故を逃れ、無事に定年を迎え花束で送られても、

しばらくすれば、全てのものから切り離される「終末」を

迎えます。

1年を振り返ると、「まさか、あの人が」というような有名人が

雨だれのように亡くなっています。

女優の樹木希林さん、漫画『ちびまる子ちゃん』の

作者・さくらももこさん、歌手の西条秀樹さん、

大横綱の輪島大士さんーー。

(2018年12月のとどろきです)

 

蓮如上人は、こうした私たちの人生を

次のように述懐されています。

 

それおもんみれば、人間はただ電光・朝露の夢・

幻の間の楽(たのしみ)ぞかし。

たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、

それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。

もし只今も無常の風きたりて誘いなば、

いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや

 

誰もが「素晴らしき人生」を願いますが、

現実には、苦難や災難、病気の難が次々を訪れます。

この様々な「難」を逃れるために、悪戦苦闘する人生。

たとえ、これらの難をうまく乗り越えられたとしても、

どうしても逃れられないのは死ぬことです。

私たち人間の死亡率は100パーセントという事実です。

 

●苦しみから「無碍の一道」へ

 

果たして、私たち煩悩具足の凡夫がこのような無常の世界で、

幸せになれることはあるのでしょうか?

一生涯、困難や災難にも遭わず、

病にならないことはありえません。

しかしもし、本当の幸せがあるとすれば、

それは、どんな幸福でしょうか。

いかなる災難や病気に遭ったとしても崩れることのない

幸せでなければならないでしょう。

それこそ、絶対の幸福といえるものです。

その「絶対の幸福」という世界があるぞ、

生きている時にその身になることができるのだよ、

と生涯、伝えていかれた方が親鸞聖人なのです。

親鸞聖人は、その「絶対の幸福」を

次のお言葉で教えられています。

 

念仏者は無碍の一道なり

 

無碍の「碍」とは、さわりのことです。

無碍の一道とは、どんな苦難・困難・災難も

さわりとならない世界のことです。

中でも、最大のさわりは、人生の終末に迎える「死」です。

真の幸せを知らなければ、死を迎えて人は何を思うでしょう。

「もっと金を儲けておけばよかった」

「もっと出世を」

「もっと家を大きくしておけば」

という人もあるでしょうか。ばかだった、

ばかだった、求めるものが間違っていた。

なぜ死に臨んでも、崩れないものを求めていなかったのか

と後悔することでしょう。

親鸞聖人は、たとえ死が来ても微動だにもしない「絶対の幸福」

の世界を「無碍の一道」と教えられているのです。

このお言葉は、唯円という親鸞聖人のお弟子が書き残した

『歎異抄』という書物の中に記されています。

 

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、

信心の行者には天神地祇(てんじんちぎ)も

敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も

障碍(しょうげ)することなし

 

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ

幸福者である。なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、

天地の神を敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることが

できなくなる

 

「バカな、あるはずないよ」

と一笑に付する人もあるかもしれません。

しかし、

「えー、そんな世界が本当にあるの?

あるなら知りたい」

と思われる幸せな方も少なくないでしょう。

では、「無碍の一道」とはどんな世界なのか、

どうしたら無碍の一道に雄飛することができるのでしょうか。

これについては、次回更新時に載せたいと思います。

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