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ご恩に生かされた輝く人生 [恩徳讃]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
    ご恩に生かされた輝く人生

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

      (親鸞聖人・恩徳讃

阿弥陀如来の洪恩は、

身を粉にしても報いきれない。

その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、

骨を砕いても済みませぬ

 

●ご恩・感謝は忘れがち、不平・不満は思いがち

 

今月も親鸞聖人の「恩徳讃」についてお話いたします。

阿弥陀如来と師主知識への報恩の情にあふれる「恩徳讃」

しかし、私たちは〝ご恩・感謝は忘れがち、

不平・不満は思いがち〟になってはいないでしょうか。

中国に、「井戸水を飲む時、掘った人のことを忘れるな」

ということわざがあります。

掘る時は協力しないくせに、水が出たら我先に使い、

不都合が出れば文句をいう。

そんな人間は不幸であり、掘ってくれた人に

感謝しながら飲む人は幸せです。

今日なら水道水。

蛇口をひねれば水が出ますが、

そうなるまでには数々の手間暇がかかっています。

貯水池を造り、家庭まで届ける水道管を

張り巡らさねばならなかったのです。

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何事もそう。スーッと車で通り抜けるトンネルも、

もともとは険しい山を歩いて越えねばならなかった。

その山を貫通させるにはどれだけの時間と労力が

かかったことでしょうか。

高度成長期、関西地域は電力不足で停電が頻発していた。

そこで建設されたのが今日なお日本一の高さを誇る

黒部ダム(富山県)。

工事は困難を極め、殉職者は171名に及んだ。

電球はついて当然と思いがちですが、

決して当たり前ではないのです。

春は、入学、入社の季節。

慣れないことが多く大変だと思いますが、

そんな時、まぶたを閉じ、静かに創業者の苦労を

想像してみるのもいいでしょう。

教えてもらったことを実行するのも難しいのに、

ゼロから学校や会社を作り上げることは、

いかに困難な事業であっただろうか、と。

このような心で改めて周りを見渡せば、

当たり前のことは一つもなく、

していただいていることばかりです。

なのに、やったことに恩を着せ、

受けたご恩は当然と流してしまう。

そんな人には、喜びもなければ感謝もありません。

最も不幸な人でしょう。

 

●私たちが仏法を聞けるのは、どなたのおかげ?

 

今日、仏教を老若男女ともに聞かせていただけるのも

決して当たり前ではありません。

昔、仏教といえば山に入って修行ができる

屈強な男性のためのものでした。

比叡山は女人禁制、年配の方や身体が不自由な人に

厳しい修行は務まりません。

つまり、日本で広まっていた仏教は、

大衆や女性のための教えではなかったのです。

ところが親鸞聖人は、世界で初めて僧侶の身で

公然と「肉食妻帯」を断行なされ、男も女も、

ありのままで平等に救われる阿弥陀仏の救いこそが

真実の仏教だと身をもって明らかにしてくださいました。

当時、肉食妻帯は僧侶には固く禁じられていたから、

親鸞聖人は、「色坊主」「破壊坊主」「仏教の怨敵」

「仏教を破壊する悪魔」と罵詈雑言(ばりぞうごん)の数々を浴び、

石を投げられ、槍を突きつけられ、八方総攻撃を受けられました。

それでもなお「みなみな仏縁あれかし」と念じられ、

生涯、信念を貫いてくだされたからこそ、

今日、老若男女ひとしく弥陀の本願を聞かせていただけるのです。

「とどろき仏教教室」に参加されている方から

こんな話しを聞かせてもらいました。

その女性Nさんの夫は、真言宗の僧侶。

勉強会の内容が素晴らしいので、

食事中そっと主人にこう告げました。

「実はね、私、最近、親鸞さんのお話聞いているの」

するとご主人、

「なんだ、結婚した堕落坊主の話を聞いているのか」。

そう言って鶏肉を頬張った。

「妻の目の前でそんなこと言うなんて、

わが身知らずもここまでくるとねえ」

と私に話してくれたNさんは、抑えきれずに笑ったあと、

正面から私を見て、

「今でさえそんなことを言われるのですから、

親鸞さまは本当に大変だったのでしょうね」

と目を潤ませました。

死刑、流刑も覚悟され、すべての人が煩悩あるままで、

この世から絶対の幸福になれると伝え続けられた

親鸞聖人のご恩を決して忘れてはなりません。

ご恩をありがたく感謝する者は成功し、

ご恩を当然と受け流す者は信用を失い、

ご恩を仇で返す者は身を滅ぼすのです。

 

●本光房了顕の決死報恩

 

報恩講に歌われる「如来大悲の恩徳」の「如来」とは、

すべての仏さまの先生である阿弥陀如来のことです。

その阿弥陀如来のお力で「浄土往生間違いなし」と

絶対の幸福に救われた人は、必ず知恩報徳の益に生かされると

親鸞聖人は教えられています。

それは、阿弥陀仏の大恩や、師主知識の洪恩、

有情非情のご恩、有形無形の恵みを知らされ、

報恩に前進せずにはおれない幸せです。

(有情・・・人間や鳥獣など、心を持つ生き物

非情・・・山や川、草木や石など、心を持たないもの

有形無形・・・森羅万象)

釈迦・弥陀の大慈悲によって絶対の幸福(往生一定)になれた。

この広大無辺のご恩に、いかに報じたらよいかと、

聖人90年の生涯は、如来大悲の恩徳に捧げられた

不惜身命の正法宣布であったことは広く知られています。

(不惜身命・・・命懸けのこと

正法宣布・・・広く仏法を伝えること)

 

この知恩報徳を地で行った先哲は多くありますが、

今も感動を与え続けるのは、蓮如上人のお弟子、本光房了顕

殉教でしょう。

時は文明6年、所は蓮如上人北陸布教の拠点、吉崎御坊(福井県)。

この御坊には北陸、近畿、東海はもちろん、

遠くは関東、東北からも親鸞学徒が陸続と群参し

門前市を成す大繁盛でした。

 

ことに加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、

彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣いたし、

群衆せしむる由、その聞えかくれなし。

これ末代の不思議なり、唯事とも覚えはんべらず

                (御文章一帖目七通)

 

わずか2年余りで、参詣者の宿泊所や民家が200軒余りも立ち並び、

虎や狼がすむといわれた寂れた北陸の一漁村が、

見る間に、一大仏法都市に変貌しました。

その繁栄もまた、外道諸宗の者たちの、

妬みやそねみの元となったのです。

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時、まさに乱世。

吉崎御坊焼き討ちのうわさが、しきりに流れていた

文明6年3月28日、吉崎には春の訪れを思わせる強い風が

吹いていた。

その日の夕刻、南大門辺りから、不審な火の手が揚がる。

放火の疑いが強かった。

折からの季節風にあおられて、炎はたちまち9つの宿舎を

なめ尽くし、今やまさに、大本堂に襲いかかる猛火となっていた。

不慮の火災に吉崎御坊は大混乱となった。

その時、蓮如上人は、吉崎御坊の居室で、

親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻を拝読されていたが、

「火事だ」の声を聞かれるや、避難の指示を次々になされる。

しかし、強風で火の回りは速い。

吉崎御坊は、たちまち紅蓮の炎に包まれ、

蓮如上人のお部屋にも、刻一刻と猛火は迫っていた。

それでもようやく屋外に抜け出られた蓮如上人

振り返ると、大本堂が火柱になって揺れている。

その時だ。

「ああ・・・しまった!」

突如、蓮如上人がダダダッと燃え上がる吉崎御坊へ向かって、

走り出された。

驚いたお弟子の法敬房が上人の衣の袖に取りすがる。

「上人さま、どうなされたのですか」

「放せ、法敬、放してくれ。蓮如、一生の不覚じゃ」

「なりませぬ。上人さま、気をお静めくださいませ」

「証の巻じゃ。法敬、わしは『教行信証』の経櫃(きょうひつ)

ばかりに気を取られ、机の上に、証の巻を置き忘れてきたのじゃ」

(経櫃・・・お聖教を入れる箱)

「え、上人さま、何と・・・」

臓腑をえぐる上人の叫びに、法敬房搾り出すように、

「し、しかし、この猛火ではとても・・・」。

その時、蓮如上人の前に、一人のお弟子がひざまずく。

「上人さま。この本光房。一命に代えても、

『教行信証』証の巻、お護りいたします。お任せくださいませ!」

言い終わるや、脱兎のごとく火の中に突進した。

返し切れぬ阿弥陀如来と師主知識の恩徳に、

いつも感泣していた本光房了顕であった。
(本光房了顕はすでに阿弥陀仏に救われていたということ)

火の粉かき分け猛火をかいくぐり、かいくぐって、

やっとの思いで蓮如上人のお部屋へたどり着いて見れば

親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻は、

いまだ焼けずに机の上にあった。

「あら、有り難や、これぞ如来聖人のご加護・・・」

踊る心を抑えて証の巻を押し頂き、脱出せんと振り向いた時、

雨のごとくに火の粉が降り注ぐ。

辺りはすでに、猛火に包まれ、逃れる所は、もうなかった。

「ああ、わが命、果てるはもとより覚悟のうえ。

されど・・・このご本典だけはお護り申し上げねば・・・

この本光房、お師匠さまとの誓いが立たぬ。

・・・一体どうすれば・・・」

(ご本典・・・『教行信証』のこと)

その時、肩の傷口から流れ落ちる血潮に本光房は気づいた。

「血・・・。そうだ、血だ。血によって、お護り申し上げるのだ。

もったいないが我が腹に、籠もらせたまえ」

滴り落ちる鮮血に一条の光を見た本光房、

その場にどかっと座り込む。

お師匠さま!多生にもお会いできぬお師匠さまに

会わせていただいた本光房、本当に幸せ者でございました。

やがて散りゆく露の命、護法のためなら本望でございます。

お先にお浄土へ・・・失礼いたします・・・。

南無阿弥陀仏・・・

高々念仏称えつつ、腰の懐刀スルリと抜いて、

気合いもろとも腹十文字にかき切り、内蔵深くお聖教を押し込み、

どっとうつぶせになった。

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重く息苦しい夜であった。

必死の消火活動で、明け方、ようやく猛火は収まったが、

至る所にまだチョロチョロとした火と、

きな臭い煙が充満していた。

この有り様では、とても本光房が生きているとは思えない。

どれでも何とか無事であってくれと一縷の望みをかけながら、

煙くゆる焼け跡へ散らばり、「本光房よ!」「了顕!」と、

皆が声を限りに呼び続ける。

だが、あちらこちらにブツブツと余塵(よじん)のはじける

音がするばかり。

その時、

「本光房だ!了顕がここに・・・」

と一人が叫んだ。蓮如上人やお弟子たちが駆けつけると、

果たしてそこに変わり果てた了顕の姿があった。

 

本光房の遺体に優しく手をかけ、蓮如上人がいたわられると、

何かを訴えるように右手で腹を指さしている。

本光房の体を起こした法敬房が驚いた。

「しょ、上人さま。ここのお聖教が・・・」

なんと腹わたえぐって、その中へ、しかと『教行信証』証の巻が

護られている。

おお、本光房、けなげであった・・・

よくぞここまで・・・そなたこそ本光房、まことの仏法者だ。

そなたの選んだ決死の報恩、われら親鸞学徒の鑑じゃ。

永久に全人類の明闇を晴らす、灯炬(とうこ)になるであろう

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あたかも、生ける人に語りかけるような蓮如上人が、

涙ながらに血に染まったお聖教を高々と捧げられると、

一同、感極まって声を合わせ南無阿弥陀仏を唱和した。

かくて吉崎御坊は焼失したが、全人類の根本聖典、

親鸞聖人直筆の『教行信証』六巻は、護り抜かれた。

この時の証の巻は、『血染めの聖教』とも

『腹籠もりのお聖教』とも呼ばれ、今に厳存している。

蓮如上人の元には、本光房了顕のような、

真実を知り真実に生かされた、多くの若き親鸞学徒が参集し、

人類永遠の救済に、立ち上がっていたのである。

 

昿劫多生も値(あ)い難き、弥陀の弘誓に摂取され、

大生命の歓喜を得れば、老若男女賢愚を問わず、

生きる世界は皆同じ、祖師聖人の恩徳讃。

如来大悲の洪恩と、師主知識の大恩は、

身を粉にしても足りませぬ、骨砕きても済まぬぞと、

如来広大の恩徳に、微塵の報謝も果たしえぬ、

極悪最下に感泣し、突き進まずにはおれぬのです。

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

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初転法輪(しょてんぽうりん)-----ご布教の始まり [ブッダと仏弟子の物語]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
   初転法輪(しょてんぽうりん)

                 ご布教の始まり

 

「おい、大変だ。太子がこちらに向かってくるぞ。

あの堕落した悉達多(しっだるた)が・・・」

その声に、ほかの4人も瞑想を中断してその方角を眺めた。

遠く、ゆっくりと、人影が大きくなってくる。

紛れもなくそれは、彼らが仕えていた

釈迦族の太子・悉達多であった。

「一体、何をしに来たのだろう?」

仲間の一人の声に、ムキになって

橋陳如(きょうちんにょ)は返した。

「ともかく彼は苦行を棄てて堕落したのだ。

あんな者を相手にしてはならない」

5人の修行者は車座になり、修行のフリをしてかかわらぬように

示し合わせた。

彼らがこれほどまでに太子を避ける訳は、こうである。

 

数週間前まで、5人は太子と苦行をともにしていた。

もともと橋陳如たちは、太子の身の回りの世話を、

と父・浄飯王(じょうぼんのう)によって遣わされた臣下であった。

故郷のカピラ城を捨て、真理を求めて修行を始められた太子を、

父王は捨ておけなかったからである。

だが橋陳如らの来訪を、太子は拒絶された。

身の回りの世話などされては修行にならぬ、

というのが理由だった。

そこで彼らは、「ともに修行いたしますので、

どうかおそばにいさせてください」と申し出、

ようやく起居をともにすることを許された。

それは初めこそ王の命を守るための出家であったが、

5人はやがて、太子の気高き求道心に引かれ始める。

ことに橋陳如は、太子の際だった苦行を目の当たりにして、

心から真理を求めるようになっていった。

 

修行を始めてから、6年がたとうとしていたある日のこと。

太子はふと、何も言わずに近くを流れるニレゼン河へ向かって

歩き始めた。

あとを追った5人はわが目を疑った。

太子が河で沐浴(もくよく)し、黙々と身を清めているではないか。
のみならず、あろうことか、女から乳粥の布施を受けたのだ。

それは苦行の断念を意味している。

橋陳如たちは、口々に太子をののしった。

「彼は弱い心に負け、苦行を棄てた。

悉達多は堕落したんだ」

5人はすぐに太子から離れてその場を去り、

自分たちの修行を続けるため、

ここ波羅奈国(ばらなこく)の鹿野苑(ろくやおん)へと

やってきたのである。

 

その悉達多が、こちらへ向かってくる。

5人は気配を感じながらも、視線を向けぬよう努めた。

太子の様子が別れる前と異なっているのは

遠目にも分かっていた。

彼らは太子の変化を確かめたくなって、そわそわしだした。

互いに、さっき交わした約束などもう守っておれない気持ちになり、

続けざまに、その尊い姿を拝したのである。

5人の修行者は知った。

ーー悉達多は堕落などしていない。

太子は大覚を成就なされたのだ。

「せ・・・世尊!!」

一斉に叫びながら御許に駆け寄り、ある者は仏陀を迎え、

ある者は衣鉢をとり、ある者は座を設け、ある者は洗足水をもって

仏足を礼拝した。

仏陀の威徳に、皆、ぬかずいたのである。

「我は一切の知者となれり。一切の勝者になれり。

我ついに永遠の目的を成就せり。

我はそなたたちに無上の法を授けに来た。

ここに真理を説こうぞ。よく聞くがよい」

これが地球上における、仏陀の初めての説法である。

初転法輪といい、人々の荒れ果てた心の大地を、

平らかに耕す法輪を転ぜられた初の法えんであった。

釈尊、45年間のご布教が、ここに始まったのである。


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