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絶対の幸福にする無限のお力

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
      絶対の幸福にする無限のお力

 

本願の名号は正定の業なり

阿弥陀仏の本願によって創られた名号には、

すべての人を絶対の幸福に救うお働きがある

 

親鸞聖人の教えはただ一つ、「なぜ生きる」の答えでありました。

私たちは何のために生まれてきたのか、

何のために生きているのか、

苦しくともなぜ生きねばならぬのか。

誰もが知りたいこの難問に、

ハッキリ答えられたのが親鸞聖人です。

その親鸞聖人90年の教えを一言で表された言葉が

平生業成」です。

 

「平生」とは、生きている〝今〟のこと。

 

「業」とは、人生の大事業。

〝大事業〟と聞くと、秀吉の天下統一、

ナポレオンやチンギス・ハンのやったこと、

オリンピックの開催などを思い浮かべる人が多いかもしれません。

オリンピック事業の経費が何千億円、

来場者数が一千万人などと聞くと

「大事業だなぁ」と思えますが、

一万年もたてば、そこでオリンピックがあったことは

誰が知るでしょう。

恐竜展で巨大生物の化石を見ると、

「こんな生物が地球上をのさぼり歩いていたのか」

と驚かされます。そんな恐竜たちが一億五千万年もの間、

地上に君臨していたというのですから、

年表に載る数千年の歴史的事業も、何億年の時の流れを

前にしては、一瞬の夢の戯れにすぎません。

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親鸞聖人が「人生の大事業」と言われるのは、

時を経れば夢幻のごとく消え去ってしまうものではない。

たとえ何万年、何億年たとうとも変わらぬ、重い、

万人共通の「大事業」を言われているのです。

「そんな大事業が、私にあるのか」

という万人の問いに、親鸞聖人は

「ある。それは絶対の幸福になることだ」

と断言されています。

 

●やがて死ぬのになぜ生きる

 

生きる目的は幸福だとパスカルも言うように、

古今東西、人類は幸せを求めて生きています。

学生のねじり鉢巻きの受験勉強も、

惚れた異性にプロポーズしたり、

ストレスに耐えて働くのも、幸せを求めているのは、

皆共通しています。

政治も、経済も、医学も、科学も、人間の営み一切は、

「幸福」の二字に向かっています。

 

ところが、有為転変は世の習い、私たちが追い求める喜びは、

やがて苦しみ悲しみに変質し、崩壊、

烏有(うゆう)に帰することさえある。

(烏有に帰する・・・無くなってしまう)


「今年初め、主人を亡くしました。

心にぽっかり穴が開いた感じがします。

幸せだった分、悲しみが大きいです。

今からどうやって生きていけばいいのか。

今マンションで独り暮らしとなり、夜が来るのがさみしいです。

頑張れ、頑張れと言われても、

もういいや、と思うこともあります」

「ローンで家を買ったが、2年前に離婚。

借金を全て背負わされ、妻は子供を連れて出て行った。

この先、どう生きていけばいいのか途方に暮れている。

週末は独りぼっちで誰も話す相手がいない」

瓢箪の川流れのように、今日あって明日なき幸福は、

薄氷を踏むように不安がつきまとう。

たとえしばらく続いても、有限の時の終わりに、

全てが朽ち果てる。

 

蓮如上人はそれを、こう警鐘乱打されています。

 

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ

              (御文章一帖目十一通)

病にかかれば妻子が介抱してくれよう。

財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、

あて力にしていても、次の世に旅立つ時は、

妻も子供も、連れになってはくれない。

この世のもの何一つ、持ってはいけないのだ。

死出の山路は、ただ一人。

丸裸で一体、どこへ行くのだろうか

 

若さと美貌を誇れども続かず、一家団らんも今しばし、

やがて全てに見放され、この世を去る時が、

どんな人にも訪れます。

そんな結末が百パーセント確定していながら、

なぜ苦しくても生きねばならぬのでしょうか。

これほど、切実な命題は他にない。

最も解明を急がねばならぬ〝大事業〟に違いありません。

 

終活で、延命治療や死に場所、遺言書や財産分与、

葬儀や墓をどうするか、といったことばかりが問題にされますが、

死に直面しても変わらぬ絶対の幸福になるという〝大事業〟を

成し遂げることこそ、真の〝終活〟でありましょう。

 

「平生業成」の「成」とは、「完成」「達成」のこと。

生きている平生に、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と、

往生一定の絶対の幸福に成り、多生の目的を達成することです。

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●なぜ絶対の幸福になれるのか

 

こんなすごい絶対の幸福があると聞けば、

「何が起きても崩れない絶対の幸福?

本当にそんな幸福になれるのか?」

と思われるでしょう。

 

このような私たちの不審にズバリ答えられたのが、

冒頭の親鸞聖人のお言葉です。

 

本願の名号は正定の業なり正信偈

 

最初の「本願」とは、「阿弥陀仏の本願」のことです。

仏教を説かれたお釈迦さまは、

「私(釈迦)が仏教を説く目的は、

阿弥陀仏の本願一つを伝えるためである」

と仰せです。

世間では「釈迦如来も阿弥陀如来も、結局同じ仏のことだ」

と言う人がありますが、もし釈迦も弥陀も同じ仏であれば、

お釈迦さまが、

「私(釈迦)は、阿弥陀如来という仏さまの本願を伝えるために

仏教を説いているんだよ」

と仰っているのはおかしなことになります。

お釈迦さまと、阿弥陀仏とは、全く異なる仏です。

その違いを知らないと、仏教も親鸞聖人のみ教えも

絶対に分かりません。

 

お釈迦さまは『大無量寿経』に、

 

我(釈迦)無量寿仏(阿弥陀仏)の

光明威神の巍々(ぎぎ)として

殊玅(しゅみょう)なるを説かんに、

昼夜一劫すとも、なお未だ尽くすこと能(あた)わず

 

と、弥陀のお力の素晴らしさは、釈迦の大雄弁をもってしても

説き尽くせないことを説示されています。

 

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のあらゆる諸仏がことごとく、

弥陀の偉大なるお力を褒めたたえていることを、

同じく『大無量寿経』に、次のように説かれています。

 

我(釈迦)今その光明を称するのみにあらず、

一切の諸仏・声門・縁覚・諸菩薩衆も、

ことごとく嘆誉したまうこと、またまたかくの如し

                 (大無量寿経

 

なぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称賛し、礼拝されるのか。

その理由を釈迦は『般舟経』に明らかにされています。

 

三世諸仏 念弥陀三昧 成等正覚

(三世の諸仏は、弥陀三昧を念じて、等正覚に成る)

              (般舟経

 

すべての仏(三世諸仏)は、

阿弥陀仏のお力によって(念弥陀三昧)、

仏(等正覚)になったのです。

これは一切の諸仏(大日如来や薬師如来をはじめ釈迦も)は、

最後は阿弥陀仏のお力によって仏になったということですから、

あらゆる仏が、阿弥陀仏を本師本仏(師の仏)とあがめるのは

当然のことなのです。

 

その弥陀がなされているお約束を『正信偈』に

親鸞聖人は「本願」といわれています。

大宇宙の仏方にもそれぞれ本願がありますが、

「本願」といえば「阿弥陀仏の本願」のことになるのは、

弥陀の本願が他の仏の本願にズバ抜けて、

尊く素晴らしいからです。

 

では、いかなるお約束を、弥陀はなされているのでしょうか。

 

どんな人をも、

平生に絶対の幸福に救い、

必ず極楽浄土に生まれさせる

 

これが弥陀の、命を懸けたお誓いです。

「どんな人をも」と相手を選ばず助けることができるのは、

大宇宙広しといえども阿弥陀仏だけです。

ここに、阿弥陀仏が大宇宙の諸仏の本師本仏たる

ゆえんがあるのです。

 

●南無阿弥陀仏は真実の宝

 

次の「名号」とは、阿弥陀仏が、自らの約束を果たされるために、

兆載永劫のご修行をなされて完成してくだされた

「南無阿弥陀仏」の六字のことです。

これを親鸞聖人は『正信偈』に、

「本願の名号」

〝阿弥陀仏の本願によって創られた南無阿弥陀仏の名号〟

と言われているのです。

 

他の仏にはとても創ることのできない威神功徳の名号だから、

すべての仏さまが「南無阿弥陀仏」の偉大なるお力を

絶賛されるのです。

親鸞聖人は

「不可称不可説不可思議の功徳」と仰り、

この「南無阿弥陀仏」をまた蓮如上人は

「真実の宝」と言われています。

 

当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏(御一代記聞書)

 

この世に〝宝〟といわれるものはたくさんあります。

高価な宝石や金塊を〝宝〟という人もあれば、

大事に育てている盆栽を〝宝〟にしている人もある。

子供にとっては、お菓子のおまけや、河原で拾った小石も〝宝物〟。愛する夫から昔もらったラブレターを大事にしている

奥さんもあるでしょう。

〝宝〟とは、その人に喜びや満足を与えてくれるものといえます。

 

ところが、その大事な〝宝〟も、いつまでも私に幸福感を

与えてくれるものではありません。

実家の押し入れから、小学時代に集めた牛乳瓶のフタが

たくさん出てきた。

当時は大事な〝宝〟だったが、大人になった今は懐かしい

思い出こそあれ、処分の対象でしかない。

恋人からの指輪も、破局を迎えた途端、

「質屋にでも売ろうかな」に変わる。

先祖代々の家宝の壺も、大災害で一瞬のうちに瓦礫と化す。

85ページの蓮如上人のお言葉にあるように、

たとえどんなに大事にしている宝も、

いよいよ死んでいく時は、

全てこの世に置いていかねばなりません。

私たちが人間に生まれてきたのは、

そんな宝を獲得するためではないのです。

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お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も、

「人間に生まれてきた目的は、真実の宝(南無阿弥陀仏)を

獲得(ぎゃくとく)する一つ」と仰せです。

 

「真実」とは、いつでもどこでも変わらないもの。

三世十方を貫き、万人に、変わらぬ無上の喜びを与える宝が

「南無阿弥陀仏」だから、「真実の宝」といわれるのです。

 

そんな真実の宝である南無阿弥陀仏を

弥陀が創られた目的はただ一つ、

私たちに与えて、「信楽(絶対の幸福)」にするためです。

十方衆生(すべての人)を信楽(しんぎょう)に救い、

浄土に往生させることこそが、

弥陀の究極の目的なのです。

 

だからこそ、釈迦仏は弥陀如来の弟子として、

私たちに南無阿弥陀仏の大功徳を受け取らせるために

仏教を説かれたのであり、一切の仏教書も

それ以外に目的はないのだよと、

蓮如上人は次のように明かされています。

 

一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を

信ぜしめんがためなり       (御文章5帖)

 

私たちは、無上宝珠の名号(南無阿弥陀仏)を、

阿弥陀仏から賜った一念に、絶対の幸福に救われます。

これを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

同時に、「絶対の幸福なんてあるのだろうか?」

「そんな幸福になれるんだろうか?」の疑いは、

ツユチリほどもなくなるのです。

絶対他力の弥陀の救いは極めてハッキリいたしますから、

「阿弥陀仏のはたらきをしっかり受け止める」

というような自分の力で受け止めなければならぬものでも

全くありません。    

 

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を弥陀より賜り、

絶対の幸福になられた時、こう仰っています。

 

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法

              (教行信証総序)

(ああ、阿弥陀仏の本願、まことだった、本当だった)

 

このように私たちが絶対の幸福に救われるのは、

全く南無阿弥陀仏の御名号のお働きによることを

教えられているのが『正信偈』の「本願名号正定業」の

お言葉です。


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