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お釈迦さまが説かれた「絶対の幸福」 [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

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●12月8日は、

  お釈迦さまが「仏」になられた日

 

12月8日は、釈迦成道(仏のさとりを開かれた)の日として

知られています。

今から2600年前、インドでお釈迦さまが、

35歳の12月8日に仏のさとりを開かれてから、

80歳でお亡くなりになるまでの45年間、

私たちに教えてくだされたのは、

「どんな人も本当の幸福になる道」でした。

仏教を聞けば、あなたも心に最高の宝を獲て、

世界で最も幸せな「心の長者」になれるのだよ、

とお釈迦さまは、教導されているのです。

今日でも「長者番付」などと使われるように、

お金や物に恵まれた人を「長者」といいますが、

「そんな長者に3とおりある」

とお釈迦さまは教えられています。

1つには「家の長者」、2つに「身の長者」、

3つめは「心の長者」といいます。

それぞれどのようなことなのでしょうか。

 

①家の長者

   財やお金に恵まれた人

 

家の長者とは、家や財産、お金や物に恵まれ、

豊かな暮らしをしている、いわゆる、

私たちが「長者」と聞いて思い浮かべる人のことです。

戦後の焼け野原から今の日本を築くため、

私たちの先輩たちは、大変な苦労をしてきました。

かつて子供の憧れは、「巨人・大鵬・卵焼き」の3つでした。

野球は「巨人」、力士なら「大鵬」、そして、最後は

「卵焼き」。

今や豊富に売られる「卵」は、どこのスーパーでも

1パック200円ほど。しかし当時は高価で、

なかなか子供の口には入らなかったのです。

1950年代、「三種の神器」といわれた白黒テレビ、洗濯機、

冷蔵庫。

それが60年代には、カラーテレビ、クーラー、自動車が

「三種の神器」となった。

豊かになると、持てる物も変わってきます。

今日では、子供から大人までほとんどの人が

スマホを持ち、テレビは大きく薄型、高画質。

洗濯機はボタン一つで乾燥まで。

車は一人1台という家庭もあり、私たち日本人は、

世界でも有数の「家の長者」といえましょう。

懸命に働いて、こんな便利で恵まれた社会を作り上げてくれた

先人たちに、心から感謝せずにおれませんね。

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「はたらく」とは「傍(はた・周囲の人々)を楽にする」

ことだから、本来「人の幸せのために努力する」こと。

そんな、「自利利他(自分以外の人を幸せにするままが、

自分が恵まれること)」に生きる人こそ、

「家の長者」となれるのでしょう。

 

②身の長者

  健康で元気な人

 

どんな病気であっても、その苦しみは

「甲乙つけ難い」から、「病」は、病だれに「丙」と

書くともいわれます。

健康は、失った時、そのありがたさがしみじみと知らされるもの。

お釈迦さまは、2番目に「身の長者」を挙げて、

健康という宝に恵まれた人は、大変に幸せなのだよと

教えられています。

イスに座ってのデスクワークは、毎時22分、

寿命を縮めるとする研究結果が報告され、

最近は立って会議やパソコンに向かい、

仕事のあとに公園でウオーキングしたり、

ジムに通って体力作り。

コラーゲン、コンドロイチン、オルニチン、グルコサミン、

などさまざまなサプリメントを服用する人も増えています。

自分が運動し、身体によい物を食べなければ、

健康は手に入りません。

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いつも穏やかに、明るく過ごすことが、

体にもいい影響を及ぼすことは、

一般にもよく知られています。

仏教で説かれる「和顔愛語(わげんあいご・和やかな笑顔と、

相手を気遣う優しい言葉)」を心がける人は、

他人に幸せを振りまく人だから、

必ず幸せが巡ってくるのだよとお釈迦さまは、

教えられています。

「因果の道理(自分の行為が、自分の運命を生み出す)」

に従って生きる人こそ、「身の長者」と恵まれましょう。

 

③心の長者

  生命の歓喜を獲た人

 

最後にお釈迦さまは、「家の長者」、「身の長者」も

素晴らしいが、いちばんよいのは心に最高の宝を獲た、

「心の長者」だと教えられます。

「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、

この身になるための人生だったのか」

と生命の歓喜、永遠の魂の喜びを獲た人だからです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「無常の世」にあって、

    「真実の幸福」を

       求められたお釈迦さま

 

世に3種の長者ありと説かれ、中でも「心の長者」を

勧められたお釈迦さまは、約2600年前、インドのカピラ城主・

浄飯王(じょうぼんのう)とマーヤー夫人の元、

4月8日に太子として誕生され、悉達多(しったるた)と

名づけられた。

幼少から文武ともに優秀で、健康にも恵まれ、

まさに「家の長者」「身の長者」の代表のような方であった。

ところが、そんな太子が成長するにつれ、

深刻な物思いにふけられるようになっていく。

 

心配した王は、何とか明るい太子にしてやりたいと、

19歳で国一番の美女といわれたヤショダラ姫と結婚させ、

さらに、春夏秋冬の季節ごとに御殿を造らせ、

500人の美女をはべらせたが、太子の暗い表情は、

一向に変わらなかった。

心配する両親にも太子は、一向にその悩みを

打ち明けようとされない。

ところがある日、意を決した太子は、夫王に手を突いて、

〝城を出て、まことの幸福を求めさせてください〟

と頼まれた。驚いた浄飯王、

「一体、何が不足でそんなことを言うのか。

おまえの望みは何でもかなえてやろう」。

それでは父上、申しましょう。私の願いは3つです

「3つの願いとは何か」

不審そうに浄飯王が聞くと、悉達多太子は、

キッパリとこう答えられた。

私の願いの1つは、いつまでも今の若さで年老いないことです。

望みの2つは、いつも達者で病気で苦しむことのないことです。

3つめの願いは、死なない身になることです

それを聞いた浄飯王は、

「そんなことになれるものか。無茶なことを言うものではない」

と、あきれ返って立ち去ったといわれます。

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「健康、財産、地位、名誉、妻子、才能などに恵まれていても、

やがて全てに見捨てられる時が来る、

どんな幸福も続かないではないか・・・」

この現実を深く知られた太子は、

心からの安心も満足もできなかったのでしょう。

 

「この無常の世にあって、どうしたら本当の幸福に

なることができるのか」

そんな思いを日々深めておられた太子が、

ついに夜中ひそかに城を抜け出し、

山奥深く入られたのは、29歳2月8日のことでありました。

そして私たちの想像もできない厳しい修行を、

6年間なされ、35歳の12月8日、

ついに仏覚を成就なされたのです。

以来、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、

仏として、すべての人に、早く「心の長者」になれよ、

と勧めていかれた教えが、仏教です。

 

●お釈迦さまの説かれた

    「心の長者」とは

 

仏教書で最大のベストセラー『歎異抄』。

『歎異抄』は読めば読むほど「真実のにおいがする」

と書いた有名な歴史小説家・司馬遼太郎も、

その妙なる香りを感じ取ったのでしょう。

親鸞聖人の言葉が流れるような名文で記され、

中でも重要な第1章には、お釈迦さまの説かれた

「心の長者」とは、「摂取不捨の利益(りやく)」を獲た人だと、

示されています。

仏教で「利益(りやく)」とは、幸せのこと。

「摂取不捨」とは、ガチッと摂(おさ)め取られて、

捨てられないことですから、「心の長者」になった人は、

永遠に色あせることのない「絶対の幸福」になるのだ、

と言われているのです。

 

今年もあっという間に12月。

平成30年をはるか先に感じた方もあったでしょうが、

もう目の前です。

(2017年12月のとどろきから載せています)

ちょうどそのように私たちの人生も、

振り返ってみれば「一炊の夢」のごときはかないもの。

「夢」という字の「くさかんむり」は十を2つ書いて20代の青年期。

その下の「四」が40代で壮年期。

暮れゆく「夕」は老年期を表すそうです。

 

俳聖・松尾芭蕉は、岩手県平泉を訪ねたおり、

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

と詠みました。

栄耀を誇った奥州藤原氏が、一たび頼朝と義経・弁慶の

争乱に巻き込まれるや、一身を懸けて駆け抜け争い、

築き上げて守らんとしたが、彼らの100年の栄華は、

たちまち滅んでしまった。

今や茫々(ぼうぼう)たる夏の野に、

芭蕉は夢の浮世を見たのでありましょう。

 

どんな栄耀栄華も、「ほんのささやかな、一瞬の幸せ」。

そんなシャボン玉のように、フワフワ浮いてパチンと消える

幸せではなく、永遠不滅の幸福をお釈迦さまは求められたのです。

 

この80~100年の肉体とは比較にならぬ永遠の生命が、

どんな財宝も及ばぬ最高の宝を獲れば、

「心の長者」と生かされ、

「ああ、私は大宇宙で最高の幸福者だ」と喜べる

「絶対の幸福」になれるのです。

 

そんな「絶対の幸福」とはどんな幸福なのか、

どうしたらなれるとお釈迦さまは教えられているのか、

次回更新時に載せたいと思います。

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まず毒矢を抜け [ブッダと仏弟子の物語]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

         まず毒矢を抜け

 

その修行者が仏陀の元に来た時のことを、

阿難はよく覚えている。

目を険しくいからせた男は、真摯に求道の指針を仰ぐ弟子たちとは

雰囲気が違う。

無為な議論のために来たことが、誰の目にも明らかだった。

こんなことは今までもよくあったが、

釈尊(お釈迦さま)はいつも同じ姿勢を貫かれる。

かつて大樹の陰で瞑想されていた時、

近づいてきた男が、

「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、

葉の数を知っておられるか」

と問うたことがある。しずかに世尊は言い放たれた。

「知りたければ、そなた、数えてみよ」

戯論(けろん)に応ずることも、また戯論である。

本質と無関係な議論に、釈尊は一刻たりとも使われない。

生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからだ。

一方、相手の多くは腹を立て、悪口雑言を並べて去っていく。

仏の威徳に打たれ、恭順する者もあるが、

〝彼はどうだろう〟。阿難は冷静に見守った。

「世尊は私の知りたいことを少しも教えてくださいませんね。

満足のいくお答えが頂けないなら、私は出家をやめたいと

思っています」

入ってくるなり弟子は言った。

知りたいこととは、「宇宙に果てはあるのか」

「世界はいつまで続くのか」などの問いであった。

〝それを知るのがさとりへの第一歩だ〟とばかりに、

彼は胸を張る。

世尊は彼に問うた。

「そのようなことを教えるから、わが元で修行せよと、

そなたに約束しただろうか?」

〝いえ、そうでは・・・〟。

修行者は小声であわてて否定する。

「もし仏がその問題について説かないうちに、

そなたが命終えたらどうなる?」

仏陀の問いに、弟子の勢いは次第に萎えていく。

続けて釈尊は、例えで修行者を諭された。

「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。

一刻も早く抜かなければ命が危ない。

友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』

と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。

男か、女か。その者の名前は。何のために矢は射たのか。

矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、

この矢を抜いてはならん』と言い張った。

やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」

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阿難は修行者の様子を窺った。

男の愚かしさが自己に引き当てられたのか、

身じろぎもせずに、彼は聴き入っている。

阿難はその仏縁をただ念じた。

世尊のお言葉は続く。

無常は迅速である。今、こうしている間にも、老いや病、

そして死の苦しみが現実にあるではないか。

われはこの苦悩の根本原因と、その解決の道を説いているのだ。

人生の大事は何か。よくよく知らねばならない

仏教の深遠さに触れ、己が誤りを知らされたものか、

修行者の表情から、先ほどの怒気が消えていた。

穏やかなその顔を見て、阿難もようやく安堵する。

そして静かに長く、息を吐いた。


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