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生きている今、「心の長者」になれる! [南無阿弥陀仏]

       生きている今、

         「心の長者」に

 

         「南無阿弥陀仏」の宝と

           一つになる幸せ

 

●どうしたら「心の長者」になれるのか?

 

お釈迦さまが、3人の長者の中で、いちばん幸せだと

教えられたのは「心の長者」だと前回の記事で学びましたが、

次に聞きたいのは、それはどんな幸福なのか、

そしてどうしたら、「心の長者」絶対の幸福になれるのか

ということでしょう。

そのことについて、お釈迦さまは次のように教えられています。

 

人々よ、心の頭(こうべ)を垂れて、わが言葉を聞くがよい。

人は、苦をいとい、幸せを求めている。

だが、金は得ても、財を築いても、常に苦しみ、悩んでいる。

王や貴族とて、皆同じである。それはなぜか。

苦しみの原因を正しく知らないからである。

金や名誉で苦しみはなくならぬ。無ければないで苦しみ、

有ればあるで苦しむ。有無同然である。

毎日を不安に過ごしている。

例えば、子供のない時は、ないことで苦しみ、

子供を欲しがる。

しかし、子供があればあったで、その子のために苦しむ。

この苦しみの原因は、どこにあるのか。

それは、己(おのれ)の暗い心にある。

熱病の者は、どんな山海の珍味も味わえないように、

心の暗い人は、どんな幸福も、味わえないのだ

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●暗い心が晴れた時、心の長者になれる

 

お釈迦さまは、王や貴族のように、

どんなお金や財産に恵まれても(家の長者)、

健康で生活できていたとしても(身の長者)、

心の底から、「人間に生まれてきてよかった!」

と生まれてきたことに感謝できないのは、

自分自身の中にある、暗い心が原因であると教えられました。

その暗い心とは、

「生きてきてよかったと思えても一時的で、

ちょっとイヤなことがあると、

生まれたことに感謝できなくなる心」

「生活に不自由はないのに、一人になって、ぼんやりしていると、

どことなくむなしくなってくる心」

「好きなことに、いろいろチャレンジしてみても、

心から満足できない」

と、いろいろな形をとって、私たちの心に影を差す心のことです。

仏教では、この心を、「無明の闇」といわれ、

すべての人の心の底に横たわっていると教えられています。

そして、その心のせいで、どんな幸せに囲まれていても、

真の安心満足を味わうことができないのだよと、

肉体の熱病に例えて、次のように教えられました。

 

熱病の者は、どんな山海の珍味も味わえないように、

心の暗い人は、どんな幸福も、味わえないのだ

この心の病の症状を、有っても無くても喜べない「有無同然」と

経典に説かれているのですが、身に覚えがある人ばかりでは

ないでしょうか。

とりたてて不満はないけれど、一日中、

決まった仕事や家事などに追われ、

〝ああ私、何やってんだろう?〟と思うことがあります。

宅配弁当のコマーシャルで主婦が、

「朝作って、すぐ昼作って、夜のメニュー考えて・・・」

と言っているのを聞いて、

「ホント、一日中食事の準備しているみたい」

と共感する人もあるでしょう。

永年の習慣とはいえ、毎度の食事準備は手間がかかります。

ニンジン一つ細かく切るのも一苦労。

そうして作った料理も食べるのはアッという間。

新婚当時は、「君の作ったものは、みんなおいしいね」

と言ってくれたのに今は、まずい時だけ文句を言う。

食器や鍋を洗うのは面倒くさいけど、誰も手伝ってくれない。

やれやれ終わったと思っていたら、

すぐ次の食事の準備が始まります。

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ある裕福な家の奥さんが、夕方、いつものように

フロ掃除をしていた。

ふと顔を上げて、窓からいつもの夕日を見た時、

突然、止めどもなく涙が頬を伝って流れ落ちた。

このまま老いて、人生終わってしまうのかと思ったら、

いても立ってもおれなくなり、

荷物をまとめて家出したといいます。

たとえ、裕福な環境に住まいし、身体が健やかでも、

ぼんやりと込み上げてくるむなしい心は、

無明の闇の影のようなものです。

 

その無明の闇を、ズバリ、心の病に例えて、

蓮如上人は、『御文章』に「無明業障の恐ろしき病」とも

言われています。

この無明の闇がなくなった時、「有ってよし、無くてよし」

の絶対の幸福(心の長者)になれるのです。

ちょうどそれは、40度の高熱が下がって、病が全快すれば、

梅干し一つで白ご飯を食べていても、

おいしく味わえるようなものです。

 

●暗い心が晴れるのは、平生の一念

 

では、その暗い心が晴れわたり、大安心になるのは、

いつのことでしょうか。

「風邪が治る時のように、いつとはなしに、

だんだんと明るくなってくるのだろう」

「死んでからでしょ?」

こんな誤解が、浄土真宗では特に多いようです。

しかしお釈迦さまも、親鸞聖人も蓮如上人も、

苦しみの元である無明の闇は、

仏法を聞いた、平生の一念で破れる、

と説かれています。

 

親鸞聖人の曾孫(ひまご)、覚如上人が、「無明の闇」を

「自力の迷情」と言い換えて、流麗な筆致で教えられた

次のお言葉を、説明いたしましょう。

 

この娑婆生死の五蘊所成(ごうんしょじょう)の

肉体未だにやぶれずといえども、

生死流転の本源をつなぐ自力迷情、

共発金剛心(ぐうほつこんごうしん)の一念にやぶれて

               (改邪鈔)

 

「娑婆」とは、昔のインドの言葉で、

「堪忍土」と訳され、私たちの住まいしている世界のこと。

「ならぬ堪忍、するが堪忍」と、思いどおりにならず、

怒りを爆発させたいけれども、

ぐっとこらえていかねばならないのが、人の世です。

平凡な生活をしていても、一日に何度も、

ムカッとすることが起きてきます。

最近、高速道路上での運転手同士のトラブルで死亡事故が起き、

「ロード・レイジ」という言葉がよく知られるようになりました。

他の車に割り込まれたり、追い越されたり、

前者のノロノロ運転にいただったドライバーが、

激高し、あおり運転をしたり、進路妨害をしたりすることですが、

ふだんは穏やかな人でも、ハンドルを握ると、

人が変わったようになって、イライラをつのらせることがある。

あおられたほうも、心は穏やかでありません。

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都会の通勤電車に乗れば、肩が触れた、カバンが当たった、

足を踏みつけたと、文句を言われた人もあるでしょう。

人間が集まれば、欲と欲、怒りと怒りがぶつかり合って、

どちらかが我慢せねばならなくなってくる。

そんな忍耐を重ねて、生活していかなければならないこの世界を、

「娑婆」といわれるのです。

その人間界に生まれ、死んでいく私たちの肉体を、

ここで「五蘊所成(ごうんしょじょう)の肉身」

と言われています。

「五蘊所成」とは、「5つのものででき上がっている」

ということです。

それが「未だやぶれず」とは、肉体がまだ元気な時、

「生きている時に」ということです。

次に、苦しみの根元である「無明の闇」を、

ここでは「自力の迷情」と言われ、

それは、「生死流転の本源をつなぐもの」だと説かれています。

「生死流転」とは、生まれ変わり、死に変わりしながら、

果てしなく苦しみ続けてきた、

私たちの遠い過去の姿を言われたものです。

前回、11月号のこのコーナーでも紹介しましたように、

蓮如上人が「過去・未来・現在の三世の業障」

と仰ったのと同じく、三世にわたって、

私たちを苦しめ続けてきた苦悩の根元が、

ほかならぬ「自力の迷情」であり、

それが、生きている一念に「破れる」「なくなる」と

説かれているのです。

「無明の闇」とは、この世だけの苦しみの元ではなく、

実は、私たちを、三世にわたって迷わせ、

苦しめてきた根元であるということが分かります。

その無明の闇がぶち破れ、本当の幸せに救われるのは、

生きている平生のことですから、

これを「平生業成」の教えといわれます。

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●「生命」と「肉体」とは、大河と泡沫

 

「三世」とか「生死流転」と教えられるように、

肉体が滅んでも、私たちの生命は絶えることなく

流れていくと仏教では教えられています。

「袖触れ合うも多生の縁」ということわざがありますが、

この世、電車で隣同士に座り、袖と袖が触れ合った人同士は、

実は、遠い過去世から、深い関係にあった人同士なのだよと

教えられているのです。

過去世の因縁がなければ、この世で、同じ時に、

同じ場所の、しかも隣同士で座るということが

起きるはずがないというのが、仏教の教えです。

例えるならば、私たちの生命は、滔々(とうとう)と流れる

大河のようなもの。

その大河の表面に、ぱっと泡が現れて、しばらく流れ、

またぱっと消えていく、そんな泡沫のようなものが、

私たちの肉体なのです。

お金が儲かった、財産があるから大丈夫、健康だと言っても、

それは全て、この泡の流れている間の出来事です。

医学が私たちの肉体の命を延ばすのも、この泡を、

少しでも消えないようにと苦心している努力にほかなりません。

しかし仏教は、滔々たる永遠の生命の救いを

教えられているのです。

「心の長者」というのは、

「心が豊かになる」「心が明るくなる」と、一応はいえますが、

この肉体ある間の心のことだけではありません。

過去・現在・未来の三世を貫いて流れていく、

私たちの永遠の生命が救われて、

明るく輝いた人のことを言われているのです。

「家の長者」「身の長者」とは比較にならない

「永遠の生命の歓喜」のことだと分かれば、

「あいつと比べれば自分は恵まれているな」

「言われてみれば、感謝しなければならないな」という、

相対的な喜びとは、次元が違う、心の「長者(お金持ち)」

と言われるのも、うなずけるでしょう。

 

●「南無阿弥陀仏」は大宇宙の宝

 

では、どうしたら、苦しみの根元である無明の闇を

破っていただくことができるのでしょうか。

お釈迦さまも親鸞聖人も、「南無阿弥陀仏の名号にこそ、

無明の闇を破る力がある」と教えられています。

 

無碍光如来の名号と

かの光明智相とは

無明長夜の闇を破し

衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

 

南無阿弥陀仏の六字を、「名号」とも「無碍光如来の名号」とも

いわれます。

その南無阿弥陀仏には、私たちを、

長い間苦しめてきた「無明の闇」を破って、

人間に生まれてきてよかったという、

絶対の幸福の身にする働きがあるからです。

仏法を聞くのは、この南無阿弥陀仏を獲得して、

無明の闇を破っていただき、絶対の幸福になるためなのです。

そんな、すごい働きが「南無阿弥陀仏」にありますから、

蓮如上人

『南無阿弥陀仏』と申す文字は、

その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字の名号の中には、

無上甚深の功徳利益の広大なること、

更にその極まりなきものなり

         (御文章5帖13通)

と絶賛されています。

たった6つの文字にしか思えないかもしれないが、

それは、猫に小判、豚に真珠で、

南無阿弥陀仏の功徳を知る知恵が私たちにないからなのだ。

大宇宙に「南無阿弥陀仏」以上の宝はないから、

早く、この「南無阿弥陀仏」に宝を頂いて、

大宇宙一の長者になれよ、と勧められているのが、

親鸞聖人の教えなのです。

 

では、どうしたら、南無阿弥陀仏の名号を

頂くことができるのか?

紙面がありませんので、詳しい説明は改めますが、

仏法は聴聞に極まる

聞く一つで頂くことができるとお釈迦さまも、

親鸞聖人も教示されています。

早く、仏法を聞き開き、南無阿弥陀仏の宝を頂いて、

大宇宙一の心の長者にならせていただきましょう。

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