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『正信偈』講話⑤ [正信偈]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)

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一切善悪凡夫人 一切善悪の凡夫人。

聞信如来弘誓願 如来の弘誓願を聞信すれば、

仏言広大勝解者 仏は広大勝解の者と言い、

是人名分陀利華 是の人を分陀利華と名づく。

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おなじみの親鸞聖人の『正信偈』の一節ですが、

阿弥陀仏に救われた人は十方の諸仏から言葉を尽くして

称賛されることを教えておられます。

まず「一切善悪凡夫人」ということですが、

一切とはすべての、凡夫人とは人間、ということです。

凡夫について親鸞聖人は、

凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、

欲も多く、瞋(いか)り、腹立ち、そねみ、

ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、

止まらず消えず絶えず

          (一念多念証文)

と仰っています。

欲、怒り、愚痴、これらの煩悩に目鼻をつけたようなのが

我々人間であり、それを凡夫といいます。

その煩悩で限りなく悪を造るからすべての人間は悪人ばかりです。

ところが、その凡夫の中に善悪があると教えられているのですが、

親鸞聖人が善人だと仰ったのは自己の善悪が分からず、

自分を善人と自惚れている人、

悪人とは自己の罪悪に気づいている人ですから

一切善悪凡夫人で、すべての人々という意味になります。

聞信如来弘誓願」とは、阿弥陀如来の本願を聞いて

救い摂られるならば、ということです。

本願に救い摂られることを信心決定といいます。

信心決定しますと、仏は広大勝解者と言い、

是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名(なづ)くのです。

信心決定した人を、十方の諸仏方はまず広大勝解者とほめられます。

広大勝解者とは、釈尊の一切経を何回も読破した

大学者ということです。

仏教では一切経を読んだことのないような人は学者とは言いません。問題外です。

ある人が、信心決定した人に、

「あなたは一切経、何回読みましたか」

と尋ねますと、その人は、

「数えられない程ですよ」

と答えました。

すると、

「法然上人でさえ、5回しか読んでおられないのに」

と、不思議がりました。

 

●一切経を読破

 

一切経も他の聖教も、つまるところ南無阿弥陀仏の

六字を解説したものであります。

蓮如上人はそれを、『御文章』五帖目九通に、

一切の聖教というもただ南無阿弥陀仏の六字を

信ぜしめんが為なり

と教えておられます。

南無阿弥陀仏の大功徳を解説したものが一切経だから、

阿弥陀仏に救われて、その六字の大功徳をいただいてしまえば

すべて分かる。

あとは念仏の一声一声が一切経を読み破っていることになるのです。一切経を数え切れないほど読んでいるとはそのことです。

また一切経を一巻ずつ読んでいても、

六字の大功徳をいただかなければ読んだとはいえません。

一切経を読みながら読んでいない学者が多いのです。

次に、

是の人を分陀利華と名づく

と仰っていますが、分陀利華とは白蓮華のことです。

純白でシミ一つない綺麗な蓮の華のことです。

シミ一つないとは心の中に何の不安もない大安心を表すのです。

広大勝解者とほめられて大満足、

分陀利華で不安一つない大安心ですから、

阿弥陀仏に救われれば大安心大満足の身になれるのです。

親鸞聖人は、諸仏が信心決定した人に対するほめ言葉を

ここで二つ挙げられましたが、

善導大師はさらに詳しく教えておられます。

あげてみますと、

無上人・・・最高に素晴らしい人

最勝人・・・最も勝れた人

妙好人・・・妙なる好ましい人

勝友・・・釈尊の勝れた友人

親友・・・釈尊の親しい友人

希有人・・・まれにしかいない人

などです。

このような言葉で諸仏からほめられるという

素晴らしい身になるのです。

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●仏にほめられる身になれ

 

仏教では迷っている者にほめられることを恥と思え、

迷っている者に謗られることを喜べと教えられます。

ですから、親鸞聖人は生涯世間中から、非難、誹謗され、

その聖人をほめたのは弟子と信者の人だけでした。

迷っている連中が人をほめるのは、

みなその人の都合でほめます。

だから、禅僧一休は、

今日ほめて明日悪く言う人の口

  泣くも笑うもウソの世の中

と歌いました。まことにその通りです。

真実の仏法は迷っている連中に都合のよい事など

一言も説きません。

だから、親鸞聖人が生涯世間中から謗られたのでありますが、

しかし無量の諸仏からほめられる身になっておられる

聖人にとって、それらは物の数ではなかったのです。

仏にほめられる身になるのが、仏教を求める目的なのであります。

 

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印度西天之論家 印度西天の論家、

中夏日域之高僧 中夏・日域の高僧

顕大聖興世正意 大聖興世の正意を顕し、

明如来本誓応機 如来の本誓、機に応ずることを明す。

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親鸞聖人は、『正信偈』の冒頭で阿弥陀仏に救われた体験を

告白なされています。

救われますと、阿弥陀仏のことを自分に教えてくださった方々を

思わずにおれません。

ここで親鸞聖人は阿弥陀仏のことを伝えてくだされた方々の

ご恩を喜んでおられます。

昔は井戸から水を引き上げておりましたが、

次にポンプとなり今日は水道が設置され蛇口をひねるだけで

水は出てきます。

昔と比べると大変便利になり、ありがたいことと感謝せずに

おれないのですが、それには水がまんまんと湛えられている

貯水池があるからです。

中国のことわざに、「水を飲む時に井戸を掘った人のことを思え」

というのがあるそうです。

貯水池を感謝すると同時に、いくら貯水池がありましても、

そこから私たちの家まで水道管が敷設されていなければ

水は出ないのですから、水道管のありがたさを

思わずにおれません。

親鸞聖人が今ここで教えられるのは、

貯水池から私たちの家までどのようにして水が流れてきたのか、

水道管とその水の流れを明らかにしようとなさっているのです。

貯水池とは阿弥陀仏の本願海、その水を私の家(私の胸)にまで

誰がどのようにして伝えてくださったのかということです。

親鸞聖人は阿弥陀仏に救い摂られた明らかな体験に基づいて、

それらのことを教えられた方のご恩を讃仰して

『正信偈』に書いておられます。

それらを総括して、

印度西天の論家、中夏・日域の高僧、

大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、

機に応ずることを明す

印度のことを西天ともいい、印度西天でインドの国のことです。

論家とは、『○○論』という論を書かれた菩薩のことです。

インドにはたくさんの菩薩方がおられますが、

親鸞聖人にとって特に忘れることのできないお方として、

龍樹菩薩と天親菩薩をあげておられます。

中夏とは中国のことで同じく三人の仏法者、

曇鸞大師、道綽禅師、善導大師をあげられ、

そのご恩を述べておられます。

日域とは日本のことで、源信僧都、源空上人をあげられ、

以上の方々を七高僧と尊敬なさっています。

これらの方々は大聖興世の正意を顕らかにされたお方であると

親鸞聖人は仰っています。

大聖とは釈尊のことです。

大聖興世の正意とは釈尊の出世本懐ということで、

親鸞聖人は七高僧のご教導を仰がれて、

阿弥陀仏の本願これ一つであったと断言なされたのが、

如来所以興出世

 唯説弥陀本願海」   (正信偈)

です。

 

●釈尊出世の本懐経

 

如来の本誓、機に応ずることを明す

とは、阿弥陀仏の本願が我々の根機に相応していることを

明らかにされたということです。

我々の機に応ずるか否かは、中国、日本で釈尊出世の本懐経を

明らかにする上で、大変多く法論なされております。

仏教を聞く目的は後生の一大事の解決であると

知らされた者にとって、後生の一大事の解決できる出世本懐経は

どれであるかは大切な問題です。

釈尊出世の本懐経はどれかということで色々な宗派に

別れているのですが、『華厳経』を出世本懐経としているのが

華厳宗であり、『大日経』を出世本懐経としているのが、

真言宗であります。

ところが釈尊出世の本懐経として今日なお法論なされ

問題になるのが、『大無量寿経』と『法華経』であります。

数多くの法論の中で『法華経』が勝利を収めたことは一度もなく、

常に『大無量寿経』が勝利を収めています。

代表的法論の大原問答をはじめ、その記録をみてみましても、

結論は同じく法で相打ち、機の方で『大無量寿経』が

勝利を収めています。

説かれている教え(法)ではともに優劣はないのですが、

その教えの通り実行できるか否か(機)が

問題になってくるのです。

『法華経』に説かれてあることは、

誰も実行できない方便のお経であります。

与奪の論法で、法では『法華経』も『大無量寿経』と

遜色がないほど素晴らしいと認めながら、

我々の機に合わないから出世本懐経ではないと

先ほど与えたもの総てを奪い取って、

『大無量寿経』こそが真実のお経であることが

明らかになっております。

釈尊は誰も実行できないような教えをなぜ説かれたのでしょうか。

自分はやろうと思えば何でもできると自惚れている心が

自力の本性であり、親鸞聖人が自力をタノム心と仰っています。

自力無功と知らせるために方便の教えが必要であり、

全身全霊かけて実行してはじめてできない己が知らされ、

『大無量寿経』のみが法も機も無上であることが

知らされるのです。

親鸞聖人はここで、釈尊出世の本懐を明らかにしてくだされた

七高僧のご恩を讃嘆しておられるのです。

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