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全ての仏さまが総がかりで阿弥陀仏の救いがあることを知らせている!! [経典]

 もし我々が池で溺れている犬を見たらどう思いますか?


何とかして救ってあげたいと思いますよね。


まして慈悲の塊である仏さま、


死ねば地獄しか行き場のない我々を見過ごすことはできない、


何とかして助けてあげたい、


阿弥陀仏の救いがあることを知らせねばと


浄土から、無数にある人間の存在する惑星に、


お釈迦さまと同じように説法されに来られるのです。


どんなすごい救いがあっても、それを教える者がいなければ


誰も助かりませんよね。


浄土から人間界にお出ましになるのも当然なことだと分かると思います。


そんな諸仏方が、


われらが師の仏、阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。


我々が保証するから早く信じなさいよ」


と保証人になって、


「阿弥陀仏の本願」が真実であることを叫ばれておられます。


それが説かれているのが『仏説阿弥陀経』です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(ここからは真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』から載せています)


お盆の法要や葬儀でなじみ深い『仏説阿弥陀経』は、
釈迦一代の結びの経といわれ、
大宇宙の仏の本師本仏である阿弥陀仏のことばかりが
説かれています。

今回は『仏説阿弥陀経』について学びましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●お釈迦さまが自ら語りだされたお経


約2600年前、インドに現れられたお釈迦さま(釈尊)が、
35歳で仏という無上のさとりを開かれてから、
80歳で涅槃に入られる(亡くなる)までの45年間、
説かれた教えを仏教といいます。
その教えは、7000余巻という膨大な数のお経に書き残されています。
これを「一切経」といいます。
お経の名前には必ず「仏説」とありますように、
仏である釈尊の説かれたものだけをお経といいます。
『仏説阿弥陀経』もその一つ。
この『阿弥陀経』の大きな特徴は「無問自答」といわれることです。
お釈迦さまのご説法は、
お弟子などの質問に答えられる形で始まりますが、
この『阿弥陀経』だけは例外で、
問わず語りに釈迦自ら語り始められたのです。

本師本仏の阿弥陀仏の本願を説くことこそが、
弟子であるお釈迦さまの出世本懐(この世に生まれた目的)であったのですから、
その目的を果たす喜びのあまり、
釈迦は自ら説かずにいられなかったのでしょう。

その『阿弥陀経』の冒頭には、こう説かれています。


一時、仏、舎衛国の衹樹給孤独園に在して、
大比丘衆千二百五十人と倶なりき

(ある時、釈尊は、千二百五十人の優れたお弟子とともに、
舎衛国の衹樹給孤独園におられました。


「舎衛国の衹樹給孤独園」とは、
中インドのコーサラ国の首都・舎衛城にあった大寺院のことで、
一般に「衹園精舎」と呼ばれています。
ここで『阿弥陀経』をはじめ、多くの経典が説かれていました。


爾時(そのとき)、仏、長老舎利弗に告げたまわく、
是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、
名けて極楽と曰う。
其の土(くに)に仏有(ましま)す。
阿弥陀と号す、今現に在して説法したまう

その時、釈尊は弟子の舎利弗にこう告げられました。
これより西方、十万億の仏土を過ぎて極楽という世界がある。
その世界には阿弥陀仏といわれる偉大な仏さまがましまして、
今現に説法をしていらっしゃるのだ、と


お釈迦さまは、宇宙には、この地球のようなものが数限りなくあり、
それぞれに仏さまがまします、と教えられています。

仏教では宇宙について
「地球のような世界が千個集まって小千世界、
小千世界が千個集まって中千世界、
中千世界千個で三千大千世界を形成している。
それらがまた無数に集まったのを、十方微塵世界という」
と説かれています。
これは、今日の天文学でいう宇宙観と大変似ており、
それが二千六百年もの古に釈迦によってすでに教えられていたことに
驚かずにおれません。

この宇宙観に基づいて、
「十万億の仏土を過ぎて、極楽という世界がある。
そこにまします仏を、阿弥陀仏といわれる」
と釈迦は説かれているのです。


●阿弥陀仏と釈迦仏の関係


阿弥陀仏とは、どんな仏さまなのでしょう。


彼(か)の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障礙する所無し、
是(こ)の故に号して阿弥陀と為す

彼の仏の寿命及び其の人民も
無量無辺阿僧衹劫なり、故に阿弥陀と名く


『阿弥陀経』には、このように阿弥陀仏は
「光明無量、寿命無量」の仏さまであると説かれています。
「光明」とは、阿弥陀仏の智慧、お力のこと。
「無量」とは無限、計り知れないことですから、
空間的無辺を表します。
阿弥陀仏の光明は大宇宙どこでも届かぬ所がない。
何ものも妨げにならない
のだ、ということです。
「寿命」とは慈悲のこと。
阿弥陀仏の命は限りがないとは、時間的無限であり、
私たちを未来永遠に救ってくださる、
限りないお慈悲の仏さまである
ということです。

仏と聞けば、
「釈迦も、阿弥陀仏も同じ仏だろう」
と思っている人が少なくありません。

しかし、それは大変な間違いです。
釈迦と阿弥陀仏は違う仏さまであり、
その違いを知らないと、仏教は全く分かりませんから、
よく知っていただきたいと思います。

お釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏という無上のさとりを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれますが、そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と教えてくだされたのが、阿弥陀仏といわれる仏さまなのです。

お二方の関係について、お釈迦さまが詳しく教えられていることを、
蓮如上人も『御文章』にこう端的に仰っています。


ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり
         (二帖目八通)


お釈迦さまは、地球上では唯一の仏であり、
最も尊い方ですが、大宇宙には地球のようなものが無数にあり、
それらの世界には無量の仏がまします。

その仏方を総称して「十方の諸仏」といいます。
『阿弥陀経』では、大宇宙を東西南北上下の六方と表し、
それぞれの方角に、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏など、たくさんの仏さまがましますと、
名前を挙げて説かれています。
阿弥陀仏がそれらの仏方の本師本仏であるとは、
十方諸仏の師であり先生である
、ということです。
諸仏は阿弥陀仏の弟子なのです。
地球で唯一の仏・釈尊も諸仏の一人ですから、
弥陀のお弟子です。


●釈迦出世の大目的


弟子の使命とは、何でしょう?
師の御心を正確に、一人でも多く伝える以外にありません。
ゆえに弟子の釈迦が説かれた仏教は、
師である阿弥陀仏の御心一つを教えられているのです。

そのことを親鸞聖人は『正信偈』に、こう明言されています。


如来所以興出世
 唯説弥陀本願海

(如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)


「如来」とは釈迦如来。
「釈迦が世に興出したもう所以は」とは、
「釈迦が、この地球上に現れて、仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、ただ一つのことを説かれるためであった、
ということ。
七千余巻のお経、45年間の教法と聞きますと、
「お釈迦さまはいろいろなことを、
教えていかれたのだろう」
と思いますが、そうではない。

たった一つのことなのだと、親鸞聖人は断言されています。
一切経を99パーセント読んでも、こんな断言はできません。
残りの1パーセントに何が書かれているか分からないからです。
一切経を何度も読破されての、親鸞聖人の確言なのです。
私たちは釈尊が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、
仏教全てを聞いたことになり、仏教の全てを知ったことになる。

ゆえに釈尊のただ一つ説かれたことほどの大事はなく、
それこそが「弥陀の本願」であると、親鸞聖人は仰っています。


●阿弥陀仏の本願


弥陀の本願とは、阿弥陀仏の本当に願っていられる御心のことで、
それはあまりにも広大で深いので、
海に例えられ「本願海」と言われています。
釈尊45年間の教えは、この弥陀の本願以外になかったのです。
しかも弥陀の本願一つ説かれているのは、
地球のお釈迦さまだけではありません。

大宇宙のあらゆる仏方も同様で、
それぞれの国土で、本師本仏の弥陀の本願一つを説くことを
出世本懐(世に現れた目的)とされているのです。

だから『阿弥陀経』には、
「われらが師の仏、
阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。
我々が保証するから早く信じなさいよ」
という諸仏の言葉が説かれています。


舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、
東方にも亦、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、
各其の国に於て、広長の舌相を出してあまねく三千大千世界に覆いて、
誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の
『称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経』を信ずべしと


舎利弗よ、この釈迦が今、弥陀の本願によってつくられた
南無阿弥陀仏の功徳の不可思議なることを説いているように、
東の方にもまた、あしゅくび仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏
・妙音仏、このようなガンジス河の砂の数ほどの無数の仏方が、
おのおのその国において、大雄弁をもって、
三千大千世界の至るところで、
“全ての人々よ、まさにこの不可思議な弥陀の本願を信ずる以外に
救われる道はないのだ”
と真実の説法をしておられるのだ


これは東方のみならず、南方、北方、上方、下方の六方にまします仏方が皆、
弥陀の本願まことを保証しておられることが続いて説かれています。
これが有名な「六方諸仏の証誠」です。

先述しましたが、東西南北の四方に上方・下方を加えて
説かれる釈尊の宇宙観は、今日、明らかになっている宇宙の構造を、
まるでご存知だったかのようです。
仏さまの深い智慧の一端が知られるでしょう。
また、その大宇宙にたくさんの仏がましますことも、
「仏々想念」とか「唯仏与仏の知見」といわれる仏智の働きによって
仏さま同士が互いに通じておられるから、分かられたことです。


●すべての仏さまが
    たたえるのはなぜか?


その大宇宙のすべての仏方が、
「偉大な仏だ、尊い仏だ、われらの師匠である」
と褒めたたえ、手を合わせて拝まれるのが阿弥陀仏です。

十方の諸仏方が一仏残らず褒めたたえておられるとは、
いかにすごいことでしょうか。
人間ならば、どんな立派な方でも、万人に褒められることはないでしょう。
「過去にも、今にも、未来にも
 皆にて謗る人もなく
 皆にて褒むる人もなし」
       (法句経)
ところが仏の世界にはあるのです。
阿弥陀仏こそは、大宇宙のすべての仏方が異口同音に
褒めたたえられる最も偉大な仏さまなのです。
それは、他の仏にない、ズバ抜けて優れたお力を
持っておられるからです。


舎利弗、彼の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障碍する所無し、
是の故に号して阿弥陀と為す

舎利弗よ、彼の仏の光明<智慧・お力>は無限であり、
大宇宙の全ての世界を照らして、妨げるものは何一つない。
無限のお力を持たれた阿弥陀仏なのである


「光明」とは、仏の智慧を表す、とはすでに述べました。
阿弥陀仏が、諸仏に優れているのは、
実にこの無量の光明であると、親鸞聖人は讃嘆なされています。


仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ

     (浄土和讃)
*大応供(だいおうぐ)・・・「応供」とは供養を受けるにふさわしい方、仏のこと。大応供とは最もすぐれた仏のことで阿弥陀仏のこと


阿弥陀仏の光明は最第一にして、
諸仏の光明は遠く及ばない。
阿弥陀仏を光炎王仏とお呼びするのだ。
その光明は三塗の黒闇<無明の闇>を破るお力があるから、
大応供の阿弥陀仏を帰命しなさい


最第一のお力を持たれた本師本仏の阿弥陀仏。
その光明は「三塗の黒闇(無明の闇)」をひらく(破る)ことができる
ズバ抜けたお力、智慧です。
そこで諸仏方は光炎王仏とか大応供ともお呼びし、
異口同音に褒めたたえずにおれないのです。

大宇宙広しといえども、我々の三塗の黒闇(無明の闇)を破るお力は、
阿弥陀仏の光明以外
ありませんから、
一切の諸仏が称賛するのです。

では、三塗の黒闇(無明の闇)とは何なのでしょうか。
これは、「死んだらどうなるか分からない心」
「本当に浄土往生できるのだろうか、という不安な心」をいいます。
死に直面すると、黒いというか、暗いというか、
真っ暗がりの闇の心になりますので、
親鸞聖人は「黒闇」と仰っているのです。

先のお盆の項でも書きましたが、
死は万人の確実な未来ですが、死ねばどうなるか分からぬまま、
私たちは日々を生きています。
飛行機でいえば、どこへ向かって飛んでいるのか、
降りる場所もハッキリせぬまま、飛んでいるのです。
その不安をごまかそうと機内でどれだけ楽しもうとしても、
心底からの安心も満足も味わえない。
この暗い心を無明の闇といい、
全ての人の苦悩の根元であると教えられます。
そこで、阿弥陀仏は、この無明の闇をぶち破ってみせる、
と誓われ、兆載永劫という気の遠くなる長期間、
大変なご苦労をなされてつくられた「南無阿弥陀仏」の六字の御名号を、
平生の一念に私たちに与えて、救ってくださるのです。

『阿弥陀経』に六方(十方)諸仏の「称讃不可思議功徳」とあるのは、
阿弥陀仏のつくられた、その「南無阿弥陀仏」の不可思議な功徳を、
すべての仏方が褒めたたえている、ということなのです。
その諸仏称讃の名号(南無阿弥陀仏)を、
私たちが受け取った一念に救われることを、


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と説かれています。
この弥陀の本願のとおりに南無阿弥陀仏を信受し、
救われたならば、無明の闇が破られ、後生明るい心になります。

いつ死んでも弥陀の浄土、限りなく明るい無量光明土に
生まれることがハッキリいたしますから、
これを「往生一定」というのです。

「往生」とは、この世終わると同時に、
弥陀の浄土に往って、弥陀同体の仏に生まれることです。
それがはっきり定まったのが「一定」。
最高に素晴らしいところに往けることが、
ただ今、決定いたします。
生きてよし、死んでよし、いつでもどこでも大安心大満足の絶対の幸福で、
この世を生き抜くことができるのです。


全ての人よ、一日も片時も急いで、
弥陀の本願を信じ、この無上の幸福に救われてもらいたい」
大宇宙の諸仏方が保証人になって、
阿弥陀仏の本願が真実であることを証明されているのが
『仏説阿弥陀経』なのです。


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真実の経は、大無量寿経なり [経典]

お釈迦さまが、弥陀の浄土から地球にお出ましになられたのは、
我々人間はどう生きれば幸せになれるのか、
そんなことを教えるために現れたのでは
ありません。
この世のものは無常ですから、
どれだけ手に入れても、何にすがってみても、
やがて手放さなければならず、苦しむばかりです。
例えば、ペットに猫や犬を飼っていたとします。
可愛がれば可愛がるほど、
死んだときには、苦しみます。
それが子供であれば、なおさらでしょう。
同じようにお金や、財や、名誉や、地位もみな、
執着すればするほど、
手放さなければならないときには、
より苦しみます。
臨終にはすべて一切のものを
失わなければならないから、
生木を引き裂かれる苦しみになるのは当然です。
我々の知っているこの世の幸せなど、
どれも我々を裏切るものであり、
本当に幸福にするものは何もないのです。
我々を本当に幸福できるものは、
死に際しても崩れるものであってはならないし、
我々の元から離れてしまうものであってはならないのです。
「そんなものあるの!?」
と無常の世界で生きている我々は思うのですが、
それがあるから、それ一つを教えに来られたのが、
お釈迦さまなのです。
それは、阿弥陀仏が創られた「南無阿弥陀仏」です。
それを流転輪廻している我々の本当の心である阿頼耶識が受け取り、
一体化(仏凡一体)すれば、この世は絶対の幸福に、
死ねば極楽に往生し仏となることができ

1000年後も一万年後も、
いやそれどころではなく、未来永遠に幸福に生きることができるのです。
夢物語をお釈迦さまは教えられたのではありません。
(地上に出て1週間しか生きないセミが春や秋を
理解できないのと同じことなのです。
無量寿の仏さまからすれば我々はセミのようなもの。)
阿弥陀仏に救われ、迷いから目を覚まさないと
「後生の一大事」が引き起ります。
(後生の一大事とは、お釈迦さまは「必堕無間」と言われ、
死ねば気の遠くなるような長年月、苦しみのたうち回らなければならない苦界に堕ちること)
人間界に生まれた時にできた頭でいくら考えても、
六道輪廻して、迷いの世界を、
生まれ変わり、死に変わりして、
今まで延々と苦しみ続けたことは分かりませんが、
生命は始まりがなく、終わりがないのです。
三度の飯が美味しくいただける生きているうちに、
阿弥陀仏に救われれば、
迷い(夢)の世界である六道から出離することができ、
生死生死を繰り返すことのない未来永遠の大生命を得ることができるのです。
「南無阿弥陀仏」をどうしたら受け取れるのか、
それを教えることが、お釈迦さまの仕事だったのです。

(ガンジス河の砂の数ほどおられる諸仏方は、阿弥陀仏の救いがあることを知らせるために、
大宇宙にある人間の存在している無数の惑星と弥陀の浄土を往復され、
説法されている。
お釈迦さまは8000回往復されたと経典にある。
全ての仏さまが総出で、我々の後生の一大事の解決のために力を尽くしてくだされている。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ここからは真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

天親菩薩造論説(天親菩薩は論を造りて説かく、)
帰命無碍光如来(「無碍光如来に帰命したてまつる」と)
依修多羅顕真実(修多羅に依りて真実を顕わし)
光闡横超大誓願(横超の大誓願を光闡する)
                    (親鸞聖人・正信偈)

七高僧のお一人、天親菩薩の偉大な功績を
讃えておられる親鸞聖人のお言葉です。
大意はこうです。
「釈迦の滅後、九百年後にインドに現れられた
天親菩薩は、『浄土論』を著された。
冒頭に、
『天親は、ひとえに阿弥陀如来のお力によって、
絶対の幸福に救われました』
と告白され、
その弥陀の真実の救いを一切経によって
明らかにされているのである」
天親菩薩は、生涯に多くの書を著され
「千部の論主」といわれていますが、
中でも有名な主著が『浄土論』。
仏教で「論」といえば、
天親菩薩の『浄土論』のことを指すほど有名です。
これは、お釈迦さまの説かれた
『大無量寿経』の注釈書であります。

では、『大無量寿経』とはどんなお経なのでしょうか。
お釈迦さまの教導を頂きましょう。

釈迦が仏教を説かれた目的は、何か

世界文化史の大家、H・G・ウェルズは、
世界の偉人のトップに釈尊(お釈迦さまのこと)を挙げ、
「私は公平にどの点からみても、
世界で最大の偉人は仏陀釈迦牟尼仏である」
と言っています。

ドイツのハイラー教授も、
「仏陀釈迦は世界の最も偉大な宗教家であり、
世界の光である」
と絶賛しています。

このように世界の三大聖人、二大聖人といわれても
トップに挙げられるお釈迦さまは、
インドのカピラ城主、浄飯王(じょうぼんのう)の長男として
生まれ、仏のさとりを開かれるまでは、
シッタルタ太子と呼ばれていました。
生まれながらにして社会的に最高の地位、名誉、
財産を持ち、親の溺愛を受けて
思うままの生活が約束された人でした。
19歳の時には国内一の麗人といわれた
ヤショダラ姫と結婚し、
翌年、男子ラーゴーラをもうけています。

さらに春夏秋冬の四季の御殿に住まわされ、
500人の美女と戯れ栄耀栄華を尽くした方です。
私たちが日々、その中の一つでも得ることができればと、
必死に求めているものすべてを、
シッタルタ太子はすでに持っておられました。
ところがその太子が、
なお満足できない魂の叫びに驚き
29歳の2月8日、突如、
城を出て一切の名誉、地位、財産も
妻子も捨てて入山学道の人になられたのです。

「すべてのものは常住しないのだ。
いずれの日にか衰え、滅ぶのだ。
歓楽尽きて哀情多し。
快楽のカゲには無常の響きが聞こえる。
美女の奏でる弦歌(げんか)は、
欲をもって私を惑わす。
ああ、人生は苦悩に満ちている。
猛き(たけき)火、浮かべる雲のごとく、
幻や水泡のごときもの。
若きを愛すれど、
やがて老と病と死のために壊れるのだ」

人生の実相を洞察なされた太子は、
常住不変の絶対の幸福とは何か。
いずこにあるのか。

それこそ万人の求める究極のものではないか
勤苦(ごんく)6年、
35歳の12月8日、ついに大悟徹底、
仏陀となられたのです。

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かくて80歳2月15日、
ご入滅になるまでの45年間の
布教活動が開始されました。
この45年間の釈尊の説法のすべての記録が、
一切経といわれるものです。
ゆえに一切経は7000余巻という膨大な数に上り、
数の多いことから「八万四千の法門」ともいわれます。

その多くの経典を、「このお経が釈迦の真意だろう」
「この経文の意味はこうだ」と、
各々の理解や信仰で解釈するものですから、
諸宗派に分かれているのです。

色々なことを説かれたのが仏教だ、
と思う人があるのもうなずけます。
しかし、釈迦が仏教を説かれた目的(釈迦出世の本懐)は
ただ一つ、
「阿弥陀如来の本願」であったのだと、
釈迦ご自身が明示されています。

その明証は幾つもありますが、
いよいよ阿弥陀如来の本願を説かんとされた時、
釈尊は五徳現瑞(ごとくげんずい)されて、
弟子たちを驚嘆させられています。

「五徳現瑞」とは、
釈尊が『大無量寿経』を説かれる直前に、
今までにないお姿を種々に現されて、
「阿弥陀如来の本願」こそ出世の本懐であることを
身をもって示されたことです。

あまりの尊い変わられように、
最も長くお使えした弟子の阿難も驚いて、
「世尊、一体どうなされたのですか」
とお尋ねせずにおれなかったほどでした。

その問いに釈尊は大変喜ばれ、
『大無量寿経』の巻頭にこう明言されています。

如来、世に出興する所以は道教を光闡し、
群萌を拯い(すくい)恵むに
真実の利を以ってせんと欲してなり

                (大無量寿経)

私がこの世に現れた目的は、
一切の人々を阿弥陀如来の真実の救いに
値(あ)わせるためである
」 


これは、釈尊がこの世に生まれた目的を、
「全ての人に弥陀の本願を説き聞かせ、
絶対の幸福に導くためであった」
と自ら宣言されたお言葉です。

巻頭のこの経文だけでも『大無量寿経』が
真実の経であることは明らかですが、
さらに巻末にも釈尊は、次のように仰っています。

当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、
特に此の経を留めて止住すること百歳せん。

               (大無量寿経)

やがて『法華経』など一切の経典がなくなる時が来ても、
この『大無量寿経』だけは永遠に残り、
すべての人を絶対の幸福に導くであろう

特に此の経を留める(特留此経・とくるしきょう)とは、
「特に『大無量寿経』だけは残る」ということで、
ここから『大無量寿経』を「特留此経」ともいわれて、
真実の経である根拠とされています。

「百歳せん」とは「永遠に」の意。
「百」は無限を表す満数(まんすう)で、
文字通りの「百年」でないのは仏教の常識となっています。
(「百年」ならば「一百歳」といわれます)

「他の一切のお経が滅んでも、
このお経だけは永遠に残る」
と説かれているのは、一切経多しといえども
『大無量寿経』だけです。

ですから、この巻末のご文も、
永遠不滅の真実経は『大無量寿経』のみだと
釈尊自ら告白なされているお言葉であり、

だからこそ、この経を説き終わられた時、
釈尊は、
「如来所応作者(にょらいしょおうさくしゃ)
皆已作之(かいいさくし)」
“これで如来としてなすべきことは、
みなこれをなせり”
と慶喜なされた、といわれるのも当然でありましょう。

真実の経は『大無量寿経』なり
        親鸞聖人の断言

天親菩薩は、これらの仏意を受けられて、
釈迦出世の本懐経である『大無量寿経』を解釈して
浄土論』を著され、弥陀の救いを弘宣されました。

そのご苦労を、親鸞聖人は朝晩の『正信偈』に讃えられ、

天親菩薩造論説(天親菩薩は論を造りて説かく、)
帰命無碍光如来(「無碍光如来に帰命したてまつる」と)
依修多羅顕真実(修多羅に依りて真実を顕わし)
光闡横超大誓願(横超の大誓願を光闡する)

「天親菩薩が『浄土論』に『大無量寿経』を解釈され、
弥陀の本願を明らかにして下されたのである。
そのおかげで親鸞、弥陀の救いに値うことができたのだ。
天親菩薩の深きご恩を忘れることはできない、
なんとしてもお返しせずにおれない」
と、合掌感泣されています。
そして、聖人ご自身も主著『教行信証』の初めに、

それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり
             (教行信証教巻)

「真実の教は、『大無量寿経』である」
と仰り、『正信偈』には、

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

“釈迦如来が、この世に現れて仏教を
説かれた目的は、
ただ阿弥陀如来の本願ひとつを説かれるためであったのだ”
と断言され、弥陀の真実の救いを明らかにされているのです。

一切の滅びる中に、不滅の光とは

地震、台風、落雷、火災、殺人、
傷害、窃盗、病気や事故、
肉親との死別、事業の失敗、リストラなど・・・。
いつ何が起きるか分からない泡沫(うたかた)の世に、
私たちは生きています。
盛者必衰、会者定離、
物盛んなれば則ち(すなわち)衰う、
今は得意の絶頂でも、必ず崩落がやって来ます。
出会いの喜びがあれば、
さよならの悲しみが待っています。
ひとつの悩みを乗り越えても、
裏切りの尽きない不安な世界ですから、
火のついた家に喩えて聖人は、
「火宅無常の世界」と言われています。

たとえ災害にも遭わず病にかからずとも、
いざ死の巌頭に立てば、どうでしょう。
財も名誉も一時の閃光、
かの太閤の栄華でさえもユメのまたユメ、
天下人の威光は微塵もありません。
不滅の光はどこに見られましょう。

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煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もってそらごと・たわごと
・真実(まこと)あることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておわします 
                (歎異抄)

火宅のような不安な世界に住む、
煩悩にまみれた人間の総ては、
そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。
ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。
みな人よ、限りなき生命の歓喜(絶対の幸福)を獲て、
ただ念仏するほか、人と生まれし本懐はないのだよ」

(念仏とは、阿弥陀仏に救っていただいたことへのお礼の言葉。
「ありがとうございました」に当たる言葉。)

この世の一切は滅びゆく。
不滅の光は「阿弥陀如来の本願」のみですから、
親鸞聖人は「弥陀の本願まこと」を
一人でも多く伝えることに、
90年の生涯を捧げられたのです。

それは釈迦・七高僧方のご恩徳を深く感じられ、
そのご教導に順われて(したがわれて)の
ご布教であったのです。                


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諸仏方はどれほど先生の阿弥陀仏を尊敬されているのか!(阿弥陀経) [経典]

大宇宙には、人間が存在する惑星は、

地球以外に、塵のごとく無数にあると説かれています。

地球にお釈迦さまが現れたように、

他の星々にも同じように仏さまが現れていますので、

ガンジス川の砂の数ほどの無数の仏さまがおられると

言われます。

その諸仏方がどれほど先生の阿弥陀仏を尊敬されているか、

阿弥陀経には説かれています。

またなぜそれほどまでに、阿弥陀仏を大絶賛なされているのか、

この記事で分かると思います。

今回はその阿弥陀経に関してです。

(下線部が阿弥陀経のお言葉です。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(ここからは真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。)

お盆の法要や葬儀でなじみ深い
仏説阿弥陀経』は、
釈迦一代の結びの経といわれ、
大宇宙の仏の本師本仏である
阿弥陀仏のことばかりが説かれています。

 

●お釈迦さまが自ら語りだされたお経

約2600年前、インドに現れられたお釈迦さま(釈尊)が、
35歳で仏という無上のさとりを開かれてから、
80歳で涅槃に入られる(亡くなる)までの45年間、
説かれた教えを仏教といいます。
その教えは、7000余巻という膨大な数のお経に
書き残されています。
これを「一切経」といいます。

お経の名前には必ず「仏説」とありますように、
仏である釈尊の説かれたものだけをお経といいます。
『仏説阿弥陀経』もその一つ。
この『阿弥陀経』の大きな特徴は「無問自説」といわれることです。
お釈迦さまのご説法は、
お弟子などの質問に答えられる形で始まりますが、

この『阿弥陀経』だけは例外で、
問わず語りに釈迦自ら語り始められたのです。

本師本仏の阿弥陀仏の本願を説くことこそが、
弟子であるお釈迦さまの出世本懐(この世に生まれてきた目的)
であったのですから、
その目的を果たす喜びのあまり、
釈迦は自ら説かずにいられなかったのでしょう。

その『阿弥陀経』の冒頭には、こう説かれています。

一時、仏、舎衛国(しゃえこく)の
祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)
に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき(ともなりき)」

(ある時、釈尊は、千二百五十人の優れたお弟子とともに、
舎衛国<しゃえこく>の祇樹給孤独園におられました)

「舎衛国の祇樹給孤独園」とは、
中インドのコーサラ国の首都・舎衛城にあった大寺院のことで、
一般に「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」と呼ばれています。
ここで『阿弥陀経』をはじめ、多くの経典が説かれました。

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その時、仏、長老舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、
是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、
名けて(なづけて)極楽と曰う(いう)。
其の土に仏有す(まします)、
阿弥陀と号す、今現に在して説法したまう

(その時、釈尊は弟子の舎利弗にこう告げられました。
これより西方、十万億の仏土を過ぎて極楽という世界がある。
その世界には阿弥陀仏といわれる偉大な仏さまがましまして、
今現に説法していらっしゃるのだ、
と)

お釈迦さまは、宇宙には、
この地球のようなものが数限りなくあり、
それぞれに仏さまがまします、と教えられています。

仏教では宇宙について
地球のような世界が千個集まって小千世界、
小千世界が千個集まって中千世界、
中千世界千個で三千大世界を形成している。
それらがまた無数に集まったのを、十方微塵世界
という」
と説かれています。

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これは、今日の天文学でいう宇宙観と大変似ており、
それが2600年もの古(いにしえ)に
釈迦によってすでに教えられていたことに
驚かずにおれません。
この宇宙観に基づいて、
「十億万の仏土を過ぎて、極楽という世界がある。
そこにまします仏を、阿弥陀仏といわれる」
と釈迦は説かれているのです。

●阿弥陀仏と釈迦仏の関係

阿弥陀仏とは、どんな仏さまなのでしょう。

彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに
障碍する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す

彼の仏の寿命及び其の人民も
無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)なり

故に阿弥陀と名く(なづく)

『阿弥陀経』には、このように阿弥陀仏は
「光明無量、寿命無量」の仏さまであると説かれています。
「光明」とは、阿弥陀仏の智慧、お力のこと。
「無量」とは無限、計り知れないことですから、
空間的無辺を表します。

阿弥陀仏の光明は大宇宙どこでも届かぬ所がない。
何ものも妨げにならないのだ
、ということです。
「寿命」とは慈悲のこと。
阿弥陀仏の命は限りがないとは、時間的無限であり、
私たちを未来永遠に救ってくださる

限りないお慈悲の仏さまであるということです。

仏と聞けば、
「釈迦も、阿弥陀仏も同じ仏だろう」
と思っている人が少なくありません。
しかし、それは大変な間違いです。
釈迦と阿弥陀仏は違う仏さまであり、
その違いを知らないと、仏さまは全く分かりませんから、
よく知っていただきたいと思います。

釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏という無上のさとりを開かれた方
ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれますが、
そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と教えてくだされたのが、
阿弥陀仏といわれる仏さまなのです。

お二方の関係について、
お釈迦さまが詳しく教えられていることを、
蓮如上人も『御文章』にこう端的に仰っています。

「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
           (二帖目八通)

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏であり、
最も尊い方ですが、
大宇宙には地球のようなものが無数にあり、
それらの世界には無量の仏がまします。
その仏方を総称して「十方の諸仏」といいます。

『阿弥陀経』では、大宇宙を東西南北上下の六方と表し、
それぞれの方角に、阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、
須弥相仏(しゅみそうぶつ)、
大須弥仏(だいしゅみぶつ)、須弥光仏(しゅみこうぶつ)、
妙音仏(みょうおんぶつ)など、
たくさんの仏さまがましますと、
名前を挙げて説かれています。

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阿弥陀仏がそれら仏方の本師本仏であるとは、
十方(六方)諸仏の師であり先生である
、ということです。
諸仏は阿弥陀仏の弟子なのです。
地球で唯一の仏・釈尊も諸仏の一人ですから、
弥陀のお弟子です。

●釈迦出世の大目的

弟子の使命とは何でしょう?
師の御心を正確に、一人でも多く伝える以外にありません。

ゆえに弟子の釈迦が説かれた仏教は、
師である阿弥陀仏の御心一つを教えられているのです。

そのことを親鸞聖人は『正信偈』に、
こう明言されています。

「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海」
如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり

「如来」とは釈迦如来。
「釈迦が世に興出したもう所以は」とは、
「釈迦が、この地球上に現れて、仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、
ただ一つのことを説かれるためであった、ということ。

7000余巻のお経、
45年間の教法と聞きますと、
「お釈迦さまはいろいろなことを、
教えていかれたのだろう」
と思いますが、そうではない。
たった一つのことなのだと、
親鸞聖人は断言されています。

一切経を99パーセント読んでも、
こんな断言はできません。
残りの1パーセントに何が書かれてあるか分からないからです。
一切経を何度も読破されての、親鸞聖人の確言なのです。

私たちは釈尊が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、
仏教全てを聞いたことになり、仏教の全てを知ったことになる。
ゆえに釈尊のただ一つ説かれたことほどの大事はなく、
それこそが「弥陀の本願」であると、
親鸞聖人は仰っています。

●阿弥陀仏の本願

弥陀の本願とは、
阿弥陀仏の本当に願っていられる御心のことで、
それはあまりにも広大で深いので、
海に例えられ「本願海」と言われています。
釈尊45年間の教えは、
この弥陀の本願以外なかったのです。

しかも弥陀の本願一つ説かれているのは、
地球のお釈迦さまだけではありません。

大宇宙のあらゆる仏方も同様で、
それぞれの国土で、
本師本仏の弥陀の本願一つを説くことを
出世本懐(世に現れた目的)とされているのです。

だから『阿弥陀経』には、
われらが師の仏、
阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。
我々が保証するから早く信じなさいよ

という諸仏の言葉が説かれています。

舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、
東方にも亦、阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、
須弥相仏(しゅみそうぶつ)、
大須弥仏(だいしゅみぶつ)、須弥光仏(しゅみこうぶつ)、
妙音仏(みょうおんぶつ)など、
是(かく)の如き等の恒河沙数(ごうがしゃしゅう)の
諸仏有して(ましまして)、
各其の国(おのおのそのくに)に於いて、
広長の舌相を出して(いだして)あまねく三千大千世界に覆いて、
誠実(まこと)の言(ことば)を説きたもう、
汝等衆生(なんじらしゅじょう)、当に(まさに)是の
『称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経』を信ずべしと

(舎利弗よ、この釈迦が今、弥陀の本願によってつくられた
南無阿弥陀仏の功徳の不可思議なることを説いているように、
東の方にもまた、阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、
須弥相仏(しゅみそうぶつ)、
大須弥仏(だいしゅみぶつ)、須弥光仏(しゅみこうぶつ)、
妙音仏(みょうおんぶつ)、
このようなガンジス河の砂の数ほどの
無数の仏方が、
おのおのその国において、大雄弁をもって、
三千大千世界の至る所で

全ての人々よ、
まさにこの不可思議な弥陀の本願を
信ずる以外に救われる道はないのだ

と真実の説法をしておられるのだ

これは東方のみならず、南方、西方、北方、上方、下方の
六方にまします仏方が皆、
弥陀の本願まことを保証しておられることが
続いて説かれています。

これが有名な「六方諸仏の証誠(しょうじょう)」です。

先述しましたが、東西南北の四方に上方・下方を加えて
説かれる釈尊の宇宙観は、
今日、明らかになっている宇宙の構造を、
まるでご存じだったかのようです。
仏さまの深い智慧の一端が知られるでしょう。

また、その大宇宙にたくさんの仏がましますことも、
「仏々相念(ぶつぶつそうねん)」とか
「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の知見」といわれる
仏智の働きによって仏さま同士が互いに通じておられるから、
分かられたことです。

●すべての仏さまが
     たたえるのはなぜか?

その大宇宙のすべての仏方が、
「偉大な仏だ、尊い仏だ、われらの師匠である」
と褒めたたえ、
手を合わせて拝まれるのが阿弥陀仏です。

十方の諸仏方が一仏残らず褒めたたえておられるとは、
いかにすごいことでしょうか。
人間ならば、どんな立派な方でも、
万人に褒められることはないでしょう。

「過去にも、今にも、未来にも
皆にて謗る人もなく
皆にて褒むる人もなし」 (法句経)
と釈尊が仰せの通りです。

ところが仏の世界にはあるのです。
阿弥陀仏こそは、大宇宙のすべての仏方が
異口同音に褒めたたえられる最も偉大な仏さまなのです。
それは、他にない、ズバ抜けて優れたお力を
持っておられるからです。

舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに
障碍(しょうげ)する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す

(舎利弗よ、彼の仏の光明〈智慧・お力〉は無限であり、
大宇宙の全ての世界を照らして、妨げるものは何一つない。
無限のお力を持たれた阿弥陀仏なのである)

「光明」とは、仏の智慧を表す、とはすでに述べました。
阿弥陀仏が、諸仏に優れているのは、
実にこの無量の光明であると、
親鸞聖人は讃歎なされています。

「仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三途の黒闇(さんずのこくあん)ひらくなり
大応供(だいおうぐ)を帰命せよ」
(浄土和讃)

(阿弥陀仏の光明は最第一にして、
諸仏の光明は遠く及ばない。

その光明は三途の黒闇〈無明の闇〉を
破るお力があるから

大応供の阿弥陀仏を帰命しなさい)


最第一のお力を持たれた本師本仏の阿弥陀仏。
その光明は
「三途の黒闇(無明の闇)をひらく(破る)ことができる
ズバ抜けたお力、智慧です。

そこで諸仏方は光炎王仏とか大応供ともお呼びし、
異口同音に褒めたたえずにおれないのです。

大宇宙広しといえども、
我々の三途の黒闇(無明の闇)を破るお力は、
阿弥陀仏の光明以外にありませんから、
一切の諸仏が称讃するのです。

では、三途の黒闇(無明の闇)とは何なのでしょうか。
これは、「死んだらどうなるか分からない心」
「本当に浄土往生できるのだろうか、
暗いというか、真っ暗がりの闇の心になりますので、
親鸞聖人は「黒闇」と仰っているのです。

死は万人の確実な未来ですが、
死ねばどうなるか分からぬまま、私たちは日々生きています。
飛行機でいえば、どこへ向かって飛んでいるのか、
降りる場所もハッキリせぬまま、飛んでいるのです。
その不安をごまかそうと機内でどれだけ楽しもうとしても、
心底からの安心も満足も味わえない。
この暗い心を無明の闇といい、
全ての人の苦悩の根元であると教えられます。

そこで、阿弥陀仏は、この無明の闇をぶち破ってみせる、
と誓われ、兆載永劫という気の遠くなる長期間、
大変なご苦労をなされてつくられた
「南無阿弥陀仏」の六字の御名号を、
平生の一念に私たちに与えて、
救ってくださるのです。

『阿弥陀経』に六方(十方)諸仏の
「称讃不可思議功徳」とあるのは、
阿弥陀仏のつくられた、
その「南無阿弥陀仏」の不可思議な功徳を、
すべての仏方が褒めたたえている
、ということなのです。
その諸仏称讃の名号(南無阿弥陀仏)を、
私たちが受け取った一念に救われることを、

聞其名号(其の名号を聞きて)
信心歓喜(信心歓喜せんこと)
乃至一念(乃至一念せん)
          (大無量寿経)
と説かれています。

この弥陀の本願のとおりに南無阿弥陀仏を信受し、
救われたならば、
無明の闇が破られ、後生明るい心になります。
いつ死んでも弥陀の浄土、
限りなく明るい無量光明土に生まれることが
ハッキリいたしますから、
これを「往生一定」というのです。
「往生」とは、この世終わると同時に、
弥陀の浄土に往って、
弥陀同体の仏に生まれることです。
それがはっきり定まったのが「一定」。
最高に素晴らしいところに往けることが、ただ今、
決定いたします。
生きてよし、死んでよし、
いつでもどこでも大安心、
大満足の絶対の幸福で、
この世を生き抜くことができるのです。

「全ての人よ、一日も片時も急いで、
弥陀の本願を信じ、
この無上の幸福に救われてもらいたい」
大宇宙の諸仏方が保証人になって、
阿弥陀仏の本願が真実であることを証明されたのが
『仏説阿弥陀経』なのです。


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釈迦の目的は、阿弥陀仏の本願一つを説くためだった! [経典]

釈迦如来が、この地球上に現れられて仏教を説かれた目的は、
唯、「阿弥陀仏の本願」一つを説かれるためであったのだ。

と、親鸞聖人は次の2行で断言なされています。

如来所以興出世(如来、世に興出したまう所以は、)
唯説弥陀本願海(唯、弥陀の本願海を説かんとなり)

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お釈迦さまが、最高無上の仏覚を開かれたのは35歳です。
それから80歳でお亡くなりになられるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、仏教と言われます。
そのみ教えのすべては、7000冊余りの一切経に書き残されています。
今日、世界の光と仰がれている親鸞聖人は、
その一切経を何度も読み破られて、こう明言されています。

それ真実の教を顕(あらわ)さば、
すなわち『大無量寿経』これなり   (教行信証)

「真実の教」とは「出世の本懐経」のこと。
「釈迦がこの世に生まれ出られたのは、これ一つを説くためであった」
という経典のことですから、これは、
「釈迦出世の本懐経は『大無量寿経』である
と断定されているお言葉です。
その『大無量寿経』には「阿弥陀仏の本願」が説かれていますから、
『正信偈』の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
と、全く同じことを言われていることがお分かりでしょう。
では、この真実の経『大無量寿経』を説かれるために、
お釈迦さまはどのようなご苦労をなされたのでしょうか。

●7つの代表的なお経

7千余巻の一切経の中でも、代表的なお経が7つあります。

○華厳経
○阿含経
○方等経
○般若経
○法華経
○大無量寿経
○涅槃経

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初めの『華厳経』は、お釈迦さまが仏のさとりを開かれて
最初のご説法であり、その特徴は「難解」であることです。
あまりにも難しく、誰も理解できないために、
聴衆は皆「如聾如唖(にょろうにょあ)」になった、と言われています。
「如聾如唖」とは、「耳が聞こえず、しゃべれない人のようになった」、
俗な言葉で言うと、“あっけに取られてポカーンとしてしまった”
ということです。
なぜ大衆がそんな状態になったのかというと、
お釈迦さまが“自内証”を語られたからです。
「自内証を語る」とは、自らさとられた「仏覚」の高遠な境地を、
そのまま説かれた、ということです。

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さとりには全部で五十二の位があり、
その最高無上のさとりが「仏覚」です。

さとりの位が一つ違うと、
人間と虫けらほど境界(きょうがい)が違うと言われます。

例えば私たち人間がハエに、携帯電話の使い方をこんこんと説明しても、
ハエにはとても理解できないでしょう。
生きている世界が、全く異なるからです。
いや、同じ人間同士でさえも、気持ちのスレ違いや言葉の聞き違いで、
意志の疎通が図れず困ることが多々あるのです。


ましてや、お釈迦さまが得られた「仏覚」は、
凡夫とは五十二段もかけ離れた境地。
その深遠な境地。
その深遠な心境をそのままぶちまけられた聴衆は、
訳が全く分からず、「如聾如唖になった」と言われるのも、
うなずけるでしょう。

しかしこれには、ちょっと考えると腑に落ちない点もあります。
「話」をする目的は、相手に何かを分かってもらうことだからです。
知らせたいことがあって、それを伝える手段として言葉を使い、
「話」をするのです。
話したのに何も分かってもらえなければ、
話した方も聞く方も、時間と労力の無駄になってしまいます。
誰でもそう思うのに、ましてや大雄弁家のお釈迦さまは、
そのようなことを自覚されていないはずがありません。
事実「広長の舌相」と言われるように、
どんな事でも誰でもが納得できるよう、
巧みなたとえ話で鮮やかに説かれていることは、
読者の皆さんならよくご存じでしょう。
そのお釈迦さまがなぜ、誰も分からず「如聾如唖」になるような
難解な話を、あえてなされたのでしょうか。
それには、大切な理由があります。

●「聞いてやる」では、仏法は聞けぬ

それは、仏法を聞く受け心を作られるためでした。
その時、聞きに来ていた者たちの心は、「聞いてやろう」
「間違っていたらオレが正してやる」という、
自惚れ一杯であったのです。
中には「言葉尻をとらえて揚げ足を取り、恥をかかせてやろう」
などともくろんでいる者までいる始末。
そんな気持ちで、とても聞ける仏法ではありません。
ちょうど、下を向いているお椀にどれだけ水を注いでも、
一滴も溜まらないのと同じです。


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そこでまず、下向きの心の器を上に向けて、
法水を受け止められるように、
お釈迦さまはあえてこのような難しい説法をなされたのです。

それは高邁(こうまい)な仏の境地を
そのまま説かれた自内証の発露でしたから、
よく聞き得たのは文殊と普賢(ふげん)の二菩薩のみで、
ほかに理解する者は誰もおらず、皆「如聾余唖」。
しかし分からないなりにも、何か尊い、深いことを
説かれているに違いないことだけは感じ取っていたのでしょう。
ご説法中に眠りこけたり、途中で座を離れたりする者もまた、
誰もいなかった、と言われます。

ここで、二人だけうなずいて聞いていたという文殊と普賢について、
こんなエピソードを紹介しましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

釈尊の智恵と慈悲をあらわす脇士は、文殊菩薩と普賢菩薩である。
過去世二人がともに絵師であった時、国王が一枚の肖像画を渡し、
それを壁画にせよと命じる。
しかも二人同時に完成せよという無理な注文までつけた。

実行の普賢は早速大きな壁に描き始めたが、
智恵の文殊はなぜか反対側の壁を熱心に磨いているだけだった。
“完成した”という報告を受け、王様が来てみると、
普賢は見事に描きあげていたが、文殊は何も描いていない。
訝る(いぶかる)王が文殊に質すと、
“この位置でごらんください”と言う。
不審な顔した王がその位置に立ってみると、
普賢の描いた王様の肖像がはっきり映っているではないか。
“同時に完成せよ”と言われたので、
普賢の描き始めから終わるまで一挙手一投足がみな壁に映っているので、
同時に完成したという。
これが文殊の知恵である。

さすが釈尊の脇士といわれる二人ですね。

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●『大無量寿経』を説かれるまで

『華厳経』の次に説かれたのは『阿含経』です。
内容は一言で「因果の道理」、すなわち
“蒔かぬタネは生えぬ。蒔いたタネは必ず生える。
刈り取らねばならぬ一切のものは自分の蒔いたものばかり”
という、誰でも理解できるお話でした。

学校教育に準えて(なぞらえて)言えば、
「幼稚園」のようなもの。
“この前はえらく難しい話をされるなあと思っていたのに、
今度は誰が聞いても分かる易しい話をなさる。
お釈迦さまはなんとスケールの大きい偉い方だ”と、
大衆はますます仏法を聞かずにおれなくなりました。

次の『方等経』は「小学校」に当たります。
小学校に入れるのは「中学校」に進ませるため。
その中学に相当するのが『般若経』。
そして、よく知られている『法華経』は、いわば「高校」の教育です。
が、ここで終わりではありません。
高校の次には「大学」があります。
その最高学府に当たる経典が、「阿弥陀仏の本願」を説かれた
『大無量寿経』なのです。
この『大無量寿経』こそが唯一真実の教であり、
他の一切経はすべて方便なのだと、親鸞聖人は主著『教行信証』に、
「それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
とズバリ言い切られるのです。

(※方便とは、真実まで導くために絶対必要な手段という意味。)

最後に説かれた『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「破邪顕正(はじゃけんしょう)せざる者は仏弟子にあらず、
仏法中の仇(あだ)なり」と説かれています。


「破邪顕正」とは、“邪を破り、正を顕らかにする”こと。
ここで、明らかにすべき「正」とは「阿弥陀仏の本願」であり、
破るべき「邪」とは、その「弥陀の本願」をねじ曲げるもの一切を
いいます。
すなわちお釈迦さまは、「阿弥陀仏の本願」を自他ともに
正しく徹底しなさいよと、ご遺言なされているのです。


九歳で出家された親鸞聖人は、天台宗・比叡山で
『法華経』の修行に打ち込まれましたが、
暗い魂の解決はならず、泣く泣く山を下りられたのは
二十九歳の御時でした。

その聖人が、やがて明師・法然上人に巡り会われ、
「阿弥陀仏の本願」によって救い摂られたのです。
そして、

釈迦出世の本懐は「弥陀の本願」一つであった、
『法華経』などの教えでは誰も助からないから捨てよ、
本師本仏の阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよと、
釈迦のご教導のとおり、「破邪顕正」に突き進まれているお言葉が、
「如来所以興出世 
唯説弥陀本願海」
の二行なのです。


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