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釈迦の目的は、阿弥陀仏の本願一つを説くためだった! [経典]

釈迦如来が、この地球上に現れられて仏教を説かれた目的は、
唯、「阿弥陀仏の本願」一つを説かれるためであったのだ。

と、親鸞聖人は次の2行で断言なされています。

如来所以興出世(如来、世に興出したまう所以は、)
唯説弥陀本願海(唯、弥陀の本願海を説かんとなり)

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お釈迦さまが、最高無上の仏覚を開かれたのは35歳です。
それから80歳でお亡くなりになられるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、仏教と言われます。
そのみ教えのすべては、7000冊余りの一切経に書き残されています。
今日、世界の光と仰がれている親鸞聖人は、
その一切経を何度も読み破られて、こう明言されています。

それ真実の教を顕(あらわ)さば、
すなわち『大無量寿経』これなり   (教行信証)

「真実の教」とは「出世の本懐経」のこと。
「釈迦がこの世に生まれ出られたのは、これ一つを説くためであった」
という経典のことですから、これは、
「釈迦出世の本懐経は『大無量寿経』である
と断定されているお言葉です。
その『大無量寿経』には「阿弥陀仏の本願」が説かれていますから、
『正信偈』の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
と、全く同じことを言われていることがお分かりでしょう。
では、この真実の経『大無量寿経』を説かれるために、
お釈迦さまはどのようなご苦労をなされたのでしょうか。

●7つの代表的なお経

7千余巻の一切経の中でも、代表的なお経が7つあります。

○華厳経
○阿含経
○方等経
○般若経
○法華経
○大無量寿経
○涅槃経

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初めの『華厳経』は、お釈迦さまが仏のさとりを開かれて
最初のご説法であり、その特徴は「難解」であることです。
あまりにも難しく、誰も理解できないために、
聴衆は皆「如聾如唖(にょろうにょあ)」になった、と言われています。
「如聾如唖」とは、「耳が聞こえず、しゃべれない人のようになった」、
俗な言葉で言うと、“あっけに取られてポカーンとしてしまった”
ということです。
なぜ大衆がそんな状態になったのかというと、
お釈迦さまが“自内証”を語られたからです。
「自内証を語る」とは、自らさとられた「仏覚」の高遠な境地を、
そのまま説かれた、ということです。

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さとりには全部で五十二の位があり、
その最高無上のさとりが「仏覚」です。

さとりの位が一つ違うと、
人間と虫けらほど境界(きょうがい)が違うと言われます。

例えば私たち人間がハエに、携帯電話の使い方をこんこんと説明しても、
ハエにはとても理解できないでしょう。
生きている世界が、全く異なるからです。
いや、同じ人間同士でさえも、気持ちのスレ違いや言葉の聞き違いで、
意志の疎通が図れず困ることが多々あるのです。


ましてや、お釈迦さまが得られた「仏覚」は、
凡夫とは五十二段もかけ離れた境地。
その深遠な境地。
その深遠な心境をそのままぶちまけられた聴衆は、
訳が全く分からず、「如聾如唖になった」と言われるのも、
うなずけるでしょう。

しかしこれには、ちょっと考えると腑に落ちない点もあります。
「話」をする目的は、相手に何かを分かってもらうことだからです。
知らせたいことがあって、それを伝える手段として言葉を使い、
「話」をするのです。
話したのに何も分かってもらえなければ、
話した方も聞く方も、時間と労力の無駄になってしまいます。
誰でもそう思うのに、ましてや大雄弁家のお釈迦さまは、
そのようなことを自覚されていないはずがありません。
事実「広長の舌相」と言われるように、
どんな事でも誰でもが納得できるよう、
巧みなたとえ話で鮮やかに説かれていることは、
読者の皆さんならよくご存じでしょう。
そのお釈迦さまがなぜ、誰も分からず「如聾如唖」になるような
難解な話を、あえてなされたのでしょうか。
それには、大切な理由があります。

●「聞いてやる」では、仏法は聞けぬ

それは、仏法を聞く受け心を作られるためでした。
その時、聞きに来ていた者たちの心は、「聞いてやろう」
「間違っていたらオレが正してやる」という、
自惚れ一杯であったのです。
中には「言葉尻をとらえて揚げ足を取り、恥をかかせてやろう」
などともくろんでいる者までいる始末。
そんな気持ちで、とても聞ける仏法ではありません。
ちょうど、下を向いているお椀にどれだけ水を注いでも、
一滴も溜まらないのと同じです。


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そこでまず、下向きの心の器を上に向けて、
法水を受け止められるように、
お釈迦さまはあえてこのような難しい説法をなされたのです。

それは高邁(こうまい)な仏の境地を
そのまま説かれた自内証の発露でしたから、
よく聞き得たのは文殊と普賢(ふげん)の二菩薩のみで、
ほかに理解する者は誰もおらず、皆「如聾余唖」。
しかし分からないなりにも、何か尊い、深いことを
説かれているに違いないことだけは感じ取っていたのでしょう。
ご説法中に眠りこけたり、途中で座を離れたりする者もまた、
誰もいなかった、と言われます。

ここで、二人だけうなずいて聞いていたという文殊と普賢について、
こんなエピソードを紹介しましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

釈尊の智恵と慈悲をあらわす脇士は、文殊菩薩と普賢菩薩である。
過去世二人がともに絵師であった時、国王が一枚の肖像画を渡し、
それを壁画にせよと命じる。
しかも二人同時に完成せよという無理な注文までつけた。

実行の普賢は早速大きな壁に描き始めたが、
智恵の文殊はなぜか反対側の壁を熱心に磨いているだけだった。
“完成した”という報告を受け、王様が来てみると、
普賢は見事に描きあげていたが、文殊は何も描いていない。
訝る(いぶかる)王が文殊に質すと、
“この位置でごらんください”と言う。
不審な顔した王がその位置に立ってみると、
普賢の描いた王様の肖像がはっきり映っているではないか。
“同時に完成せよ”と言われたので、
普賢の描き始めから終わるまで一挙手一投足がみな壁に映っているので、
同時に完成したという。
これが文殊の知恵である。

さすが釈尊の脇士といわれる二人ですね。

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●『大無量寿経』を説かれるまで

『華厳経』の次に説かれたのは『阿含経』です。
内容は一言で「因果の道理」、すなわち
“蒔かぬタネは生えぬ。蒔いたタネは必ず生える。
刈り取らねばならぬ一切のものは自分の蒔いたものばかり”
という、誰でも理解できるお話でした。

学校教育に準えて(なぞらえて)言えば、
「幼稚園」のようなもの。
“この前はえらく難しい話をされるなあと思っていたのに、
今度は誰が聞いても分かる易しい話をなさる。
お釈迦さまはなんとスケールの大きい偉い方だ”と、
大衆はますます仏法を聞かずにおれなくなりました。

次の『方等経』は「小学校」に当たります。
小学校に入れるのは「中学校」に進ませるため。
その中学に相当するのが『般若経』。
そして、よく知られている『法華経』は、いわば「高校」の教育です。
が、ここで終わりではありません。
高校の次には「大学」があります。
その最高学府に当たる経典が、「阿弥陀仏の本願」を説かれた
『大無量寿経』なのです。
この『大無量寿経』こそが唯一真実の教であり、
他の一切経はすべて方便なのだと、親鸞聖人は主著『教行信証』に、
「それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
とズバリ言い切られるのです。

(※方便とは、真実まで導くために絶対必要な手段という意味。)

最後に説かれた『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「破邪顕正(はじゃけんしょう)せざる者は仏弟子にあらず、
仏法中の仇(あだ)なり」と説かれています。


「破邪顕正」とは、“邪を破り、正を顕らかにする”こと。
ここで、明らかにすべき「正」とは「阿弥陀仏の本願」であり、
破るべき「邪」とは、その「弥陀の本願」をねじ曲げるもの一切を
いいます。
すなわちお釈迦さまは、「阿弥陀仏の本願」を自他ともに
正しく徹底しなさいよと、ご遺言なされているのです。


九歳で出家された親鸞聖人は、天台宗・比叡山で
『法華経』の修行に打ち込まれましたが、
暗い魂の解決はならず、泣く泣く山を下りられたのは
二十九歳の御時でした。

その聖人が、やがて明師・法然上人に巡り会われ、
「阿弥陀仏の本願」によって救い摂られたのです。
そして、

釈迦出世の本懐は「弥陀の本願」一つであった、
『法華経』などの教えでは誰も助からないから捨てよ、
本師本仏の阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよと、
釈迦のご教導のとおり、「破邪顕正」に突き進まれているお言葉が、
「如来所以興出世 
唯説弥陀本願海」
の二行なのです。


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