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『正信偈』講話⑦ [正信偈]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講話から続きを載せたいと思います。)

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道綽決聖道難証 道綽は聖道の証し難きことを決し、

唯明浄土可通入 唯浄土の通入す可きことを明す。

万善自力貶勤修 万善の自力、勤修を貶し、

円満徳号勧専称 円満の徳号、専称を勧む。

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親鸞聖人の尊敬しておられるお一人が道綽禅師である。

道綽禅師のお手柄は仏教を二つに分けられた点にある。

一切経に精通され、釈尊の教えに聖道仏教と浄土仏教の

あることをハッキリ教えられた。

しかも、聖道仏教では助からない、浄土仏教だけが

救われる教えだから信じなさい、と断言なされている。

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それが、「聖道の証し難きことを決し、唯、

浄土の通入すべきことを明かす」である。

「道綽禅師ならでは教えきれない」と、

親鸞聖人は、褒めたたえておられる。

 

●厳しいがハッキリする廃立

 

言葉遣いにもいろいろある。

AとBがあった場合、

「Bもよい」は、どちらも傷つかない穏やかな言い方で、

反顕法とか穏顕と言われる。

「Bはダメ、Aがよい」という言い方を比較法とか廃立と言い、

厳しいがハッキリする。

後生の一大事を教える仏教は、厳しくなければならぬので、

親鸞聖人は、常に廃立で教えられている。

それが親鸞聖人の三重廃立である。

『教行信証』には、

一、内外廃立(他の宗教を捨て、仏教のみを信じよ)

二、聖浄廃立(聖道仏教を捨て、浄土仏教を信じよ)

三、真仮廃立(浄土他流を捨て、真宗を信じよ)

と説かれている。

人は何のために生き、働くのか。

政治、経済、科学などは何のために存在するのか。

「人生の目的は、後生の一大事の解決ひとつ」と、

仏教は教えている。

一日生きれば一日死に近づき、

全人類は後生に向かって進んでいる。

後生がハッキリしなければ、降りるところのない飛行機に

乗っているようなもので、不安なのは当然である。

科学が進歩しても、後生、未来が明るくならない限り、

不安はなくならない。

「癌が手術で助かった」

「飛行機事故にあったが、一命とりとめた」

と言っているが、死が少し先に延びただけで、

本当に助かったとは言えない。

10年、20年、寿命が延びたとしてもアッと言う間のこと。

後生の一大事を解決しない限り、

滝壺に近づく遊覧船上の人生で、危険この上もない。

いつ死んでも極楽浄土間違いなしの身に救われ、

現在、絶対の幸福、無碍の一道の世界に出てこそ、

真に助かったと言える。

全人類を無碍の一道に導くのが仏教の狙いである。

道綽禅師が、

「聖道仏教では助からない」

と断言されるのは、この後生の一大事が聖道仏教では

解決できないからである。

浄土仏教だけが解決できる、と峻別された道綽禅師を

親鸞聖人は褒めたたえていられるのもその故である。

 

●真実と方便

 

聖道仏教(禅宗、天台宗、真言宗など)の本質は自力である。

廃悪修善によって、救われようとする自力の仏教である。

浄土仏教(浄土真宗、浄土宗など)では、

阿弥陀仏の願力不思議によらなければ、

後生の一大事の解決はできないと教え、

他力の仏教といわれる。

後生の一大事を引き起こす無明(後生暗い心)は、

阿弥陀仏しか破れないから、弥陀一仏に向け、

と釈尊は教えられた。

一向専念無量寿仏」が、その釈尊のご金言である。

では、なぜ釈尊は、聖道仏教を説かれたのか。

浄土仏教は真実、聖道仏教は、方便である。

「マコトのないのが凡夫のマコト、

マコトのあるのが仏のマコト」である。

真実のカケラも持ち合わせていない人間を、

真実に導くには絶対に方便が必要である。

「後生の一大事の解決には無明を破らなければならない」

と言っても、自惚れ強い我々は、その無明が分からない。

阿弥陀仏のお力によらねば、どんな知恵ある人でも

知られないのが、無明である。

親鸞聖人は比叡山で20年間、真剣に聖道仏教(廃悪修善)を

励まれ、真実微塵もない己の姿に驚かれた。

一切凡小、一切時の中に、貪愛の心、常に能く善心を汚し、

瞋憎の心、常に能く法財を焼く。

急作急修して、頭燃を灸(はら)うが如くすれども、

衆(すべ)て雑毒雑修の善と名け、亦虚仮諂偽の行と名く。

真実の業と名けざるなり。

此の虚仮雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、

此れ必ず不可なり

            (教行信証)

「頭髪に火がついたのを揉み消す真剣さで

廃悪修善を行ったが、真実の善はできなかった。

後生の解決はできない」と悲泣なされている。

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高層ビルの建築には足場が必要である。

対岸に渡るには筏が必要である。

方便はウソということではない。

真実に導くために必要なものを方便というのだ。

無明を知らせるには、罪悪を見つめて進まねばならぬ。

煩悩が邪魔になり、それに苦しむ。

真実が分かってはじめて、方便が分かる。

真実が分からぬ者は、方便も方便と分からない。

道綽禅師も真実を知られなかった時は、

聖道仏教に迷っておられた。

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●仏教の究極の目的

 

万善の自力、勤修を貶し

万善の自力とは「諸行万行」ともいい、

仏教で教えられるすべての善である。

釈尊は六つに分けられ、「六度万行」とも教えられている。

布施(親切)・持戒(言行一致)・忍辱(忍耐)

・精進(努力)・禅定(反省)・智慧(修養)である。

廃悪修善をやる聖道仏教を、道綽禅師はけなされた。

けなされた善を行う必要はない、勧めるのも間違いだと

思っている者が多い。

浄土真宗が悪人製造の教えと非難される原因がここにある。

因果の道理は仏教の根幹、大宇宙の真理で、

善い因をまかねば善果はこない。

道綽禅師は、なぜ万善を励むのをけなされたのか。

善を嫌い、悪の好きな我々は道綽禅師のこのお言葉を

自分の都合のよいように解釈しがちである。

我々の善でむくわれるのは相対の幸福でしかない。

自力の善で無明を晴らし、後生の一大事を

解決することはできない。

仏教の目的は名誉、地位、財産などの相対の幸福ではない、

後生の一大事を解決して、絶対の幸福になるところにある。

相対の幸福が仏教の目的であれば、

諸善をけなされるはずがない。

万善の自力、勤修を貶し」はカミソリのようなお言葉で、

真実の分からぬ者は大怪我をする。

「後生の一大事の解決をして、絶対の幸福になることこそが

仏教の目的である」ことを鮮明にされた道綽禅師のお言葉である。

円満の徳号、専称を勧む

円満とは完全無欠、絶対。

徳号は、南無阿弥陀仏のご名号である。

六字のご名号に阿弥陀仏の造られた万善が収まっており、

円満の徳号といわれる。

ご名号の万善と我々の善との区別がつかないために、

「念仏さえ称えておれば善果がくるのだ」

と聞き誤っている人が多い。

念仏をどれだけ称えても、大学には合格できない。

人生の成功もない。

諸善も、念仏も、聴聞も全部、間に合わなかったと

切り落とされたとき、自力が廃る。

その時、南無阿弥陀仏のご名号が徹到し、

絶対の幸福に救われ、円満の徳号があったと知らされる。

無碍の一道に出させていただいたら、称えずにおられない。

道綽禅師はその念仏を勧めてゆかれたのである。

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