SSブログ

親鸞聖人90年の願い「信心獲得せよ」 [親鸞聖人]

死に直面すると眼前に開けるものは、無底の暗黒のみであり、
魂は真っ暗な未来に泣くのである。
今まで命にかえて、大事に愛し求めてきた一切のものから見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに、
驚き悲しむのである。
「私は何を今までしてきたのか。何のために苦労してきたのか。
馬鹿だった、馬鹿だった」
握りこぶしで自分の頭を叩かずにおれないのが、
弥陀の本願に救われないままに臨終を迎える人々の終末の相です。
皆さんは、まだ間に合います。
一人でも多くの方が、無常の世界で無常のものを求めていても、
悲惨な最期にならざるをえないことに気がつくことを祈るばかりです。

動画を観られると仏教がよく理解できると思います。


この世に生まれてきた目的は

「信心獲得すること」と説かれた親鸞聖人




死別の悲しみ.をいやす方法【仏教の教え】
死後の世界なんかどうでもいいのか【仏教の教え】



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

  親鸞聖人90年の願い

     「信心獲得せよ」

 

「鎌倉(時代)は一人の親鸞を

 生んだだけでも偉大だった」

歴史小説家・司馬遼太郎氏の言葉です。

右翼の評論家から左翼の思想家まで、

親鸞聖人称賛の声は枚挙にいとまがありません。

なぜ聖人は、かくも多くの人を魅了するのか。

800年の時を超え、

世界の光と称賛されるのでしょうか。

 

親鸞聖人の生涯が、ただ一つの願いで

貫かれていることを知らねば、

聖人ご生誕の意義を理解することはできません。

聖人のお言葉から聞かせていただきましょう。

 


親鸞聖人90年、唯一の願い

 

親鸞聖人の教えを正確に多くの人に伝えていかれた蓮如上人は、

こう明言されています。

聖人一流の御勧化の趣は、

信心をもって本とせられ候

「聖人一流の御勧化の趣は」

とは、90年のご生涯、親鸞聖人が教えられたことは、

ということです。

「信心をもって本とせられ候」

それは唯、信心一つであったと喝破なされています。

聖人が生涯、教え徹していかれた信心とは何なのか。

皆さんからよく聞かれる質問に答えながら

詳しく解説していきましょう。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

信心ならば、どの宗教でも言っていること。

珍しくもないでしょう?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


言葉にすれば同じですが、親鸞聖人が生涯教えていかれた

「信心」は、世にいう信心とは全く異なります。

その違いをよく知らねばなりません。

では、どこが違うのでしょうか。

〝親鸞聖人が明らかにされた信心には、

「獲得」ということがある〟

ここが決定的な違いです。

「優勝旗を獲得する」「恋人を獲得する」というように、

普通「かくとく」と読みますが、

仏教では「ぎゃくとく」と読みます。

意味は同じで、今までなかったものが、

わがものになったということです。

だから真宗では、「信心する」とか、「信心せよ」

とは一切言わずに、常に、「信心をとれ」「信を獲よ」と

教えられます。

蓮如上人は繰り返し、「ただ信をとれ」「信をえぬは徒事なり」

とか、「信心獲得すというは・・・」と、おっしゃています。

では何が、自分のものとなるのでしょう。

それは「名号」です。

名号とは、「南無阿弥陀仏」のことですから、

信心を獲得するとは、南無阿弥陀仏の六字の名号を

丸もらいすることなのです。

IMG_20221125_0001.jpg-5.jpg

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

南無阿弥陀仏ってよく聞くけど、

 何のことですか?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


仏教を説かれたお釈迦さまは、

若し広説せば、百千万劫にも窮め尽くすこと能わじ」 

              (大無量寿経)

と言われ、南無阿弥陀仏の功徳は、

何億年かかっても説き尽くせないと、おっしゃっています。

功徳とは、力、はたらきということです。

それほどの力のある南無阿弥陀仏ですから、

釈尊は経典の至るところに、言葉を尽くして

褒めたたえておられます。

その一つが次のお言葉です。

 

 大宇宙の仏方が褒めたたえる「南無阿弥陀仏」

 

十方恒沙の諸仏如来、皆共に、無量寿仏の

威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう

           (大無量寿経)

「十方」とは、東西南北上下の六方に、

その間の四方を加えて十方。

仏教で大宇宙をいいます。

「恒沙」は、インドのガンジス川の砂のこと。

仏も如来も同じ意味ですから、「諸仏如来」とは

たくさんの仏方ということです。

ですから「十方恒沙の諸仏如来」とは、

大宇宙にましますガンジス川の砂の数ほどの

仏方ということになります。

この大宇宙に、地球のようなものが無数に存在することは

今日常識です。

地球に釈迦が現れたように、大宇宙には数限りない仏が

おられると仏教では説かれているのです。

世界有数の大河・ガンジス川の砂の数となれば

想像もできません。

「皆共に」は、一人残らず。

「無量寿仏」とは、本師本仏の阿弥陀仏のことで、

本師本仏とは、あらゆる仏が師匠と仰ぐ、

最高最尊の仏さまをいいます。

「威神功徳」とは、南無阿弥陀仏の名号のこと。

本師本仏の阿弥陀仏が、成就完成なされましたので、

「無量寿仏の威神功徳」といわれています。

 

大宇宙にまします数限りもない仏方が、

異口同音に、「弥陀のつくられた南無阿弥陀仏には、

想像もできない功徳があるぞ」と、

絶賛しておられるのです。

果たして、こんなことが私たち人間世界にありうるでしょうか。

過去にも、今にも、未来にも、皆にて謗る人もなく、

皆にて褒むる人もなし」  (発句経)

お釈迦さまはおっしゃっています。

どんな偉人でも、すべての人に褒められる人はありません。

みんなが称賛すると、何かしら気にくわない、

というへそ曲がりが必ずいる。

逆に、〝たで食う虫も好き好き〟で、

どんな悪党でも好意を持つ人があるものです。

事実、世界の三大聖人のトップに挙げられる大聖釈尊(お釈迦さま)でさえ、

当時、三分の一は帰依しましたが、

三分の一は反抗し、三分の一は釈尊のお名前さえ

知らなかったと伝えられます。

ところが、大宇宙の仏さまが一仏の例外もなく称賛する、

となったら、だれもが驚くでしょう。

それが、南無阿弥陀仏の大功徳なのです。

しかも仏方は、不可思議の功徳と、たたえられています。

不可思議とは想像もできない力のことです。

私たち人間が想像できないのなら無理もありませんが、

仏智を体得している仏方が想像もできないと

いわれるのですから大変なお力です。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、「南無阿弥陀仏」には

 どんな働きがあるのですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回は、詳しくは解説できませんが、

一言でいうと、「すべての人を大満足の身に救い摂り、

未来永遠の幸福に生かし切る力」だと釈尊は説かれています。

そんなすごい、最高無上の功徳がおさまっていますから、

蓮如上人は、

当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏、

これ一念の信心なり」   (御一代記聞書)

と教えられています。

 

●名号の宝を頂いたのが信心獲得

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんなにすごい力があるとは

 思えないのですが・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


蓮如上人は、

〝南無阿弥陀仏〟と申す文字は、その数わずかに

六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字も名号の中には、無上甚深の功徳利益の

広大なること、更にその極まりなきものなり

               (御文章5帖)

とおっしゃっています。

「南無阿弥陀仏は文字にするとたったの六字だから、

それほど功徳があるとは思えないだろう」と、

上人は私たちの心をえぐり出されています。

特に、科学的な考え方からすれば、分析もしたくなり、

六字のどこにそんな大功徳があるのだろうかと

思われるのも無理はありません。

しかし、この六字の中には、広大無辺な最高無上の

功徳があるのだよと、ねんごろに諭されています。

そう思えないのは、猫に小判、豚に真珠で、

私たちにそれを知る知恵がないだけなのです。

こんな話があります。


ある人が科学者に向かって、

「世の中で何がいちばん尊いといっても、

母親の涙ほど尊い有り難いものはない」と言った。

それを聞いた科学者は早速家へ帰り、

親に刺激の食物を与えて無理に涙を出させ、

それを試験管に受けて分析したところ

塩分と水分のほか、何ら高価な要素の含有を

認めることができなかった。

彼は大変失望したといいます。

イギリスの19世紀の大科学者ファラデー博士は、

いつも学生に向かって、こう教えていました。

母親の涙も科学的に分析すれば

少量の塩分と水分とにすぎない。

しかし、その涙の中には化学も分析しえない深い愛情が

こもっていることを知らねばならない

IMG_20221125_0002.jpg-5.jpg

 

名号は阿弥陀仏の仏心(大慈悲心)の象徴であり、

顕現ですから、いくら分析してもその尊さはわかりません。

説くことも想像することもできない弥陀の大慈悲を、

私たちに受け取りやすい姿になされたものですから、

私たちは六字の御名号を通して、

阿弥陀仏の仏心を頂かなければなりません。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

南無阿弥陀仏を受け取るとは

 どういうことですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

南無阿弥陀仏の大功徳が、私たちの心中に与えられ、

私の心(凡心)と、南無阿弥陀仏(仏心)が

一つになったことをいいます。

これを信心獲得(しんじんぎゃくとく)といいます。

蓮如上人は、

仏心と凡心と一つになるところをさして、

信心獲得の行者とはいうなり」(御文章2帖)

と、おっしゃっています。

南無阿弥陀仏を受け取り、信心獲得したことを

仏凡一体ともいいます。

ちょうど炭に火がつくと、どこまでが炭で、

どこまでが火か分けられないように、

私たちの心中に仏心が徹底すると、

〝私離れて仏なし。仏離れて私なし〟となるのです。

IMG_20221125_0003.jpg-5.jpg

 

その不思議な体験を、お軽という

江戸時代の妙好人(阿弥陀仏に救われた人)は、

「頭叩いても南無阿弥陀仏

 手を叩いても南無阿弥陀仏

 足を叩いても南無阿弥陀仏

 お尻叩いても南無阿弥陀仏

 座った姿も南無阿弥陀仏なら

 立った姿も南無阿弥陀仏

 歩く姿も南無阿弥陀仏

 本願や行者、行者や本願」

と表現しています。

 

「名号、信心、念仏」は、浄土真宗の3本柱

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

名号と信心は分かりましたが、

南無阿弥陀仏と称える

「念仏」とはどんな関係ですか?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここで名号、信心、念仏。この3つの関係を

詳しく説明しましょう。

南無阿弥陀仏の名号を頂いた時が信心。

お礼に称えるのが念仏です。

念仏とは、口で「南無阿弥陀仏」と称えることです。

これらを例えると、名号はご馳走、

信心はご馳走を頂いて満腹になったこと、

念仏は「ごちそうさま」というお礼の言葉に当たります。

名号を薬に例えるなら、薬が医者の手元にある間は名号、

薬をのんで、病気の全快した時が信心。

念仏は「ありがとうございました」というお礼の言葉になります。

隣にどんな美人がいても、結婚するまでは、

関係ない。

結婚するまでは隣の娘さんといい、

一緒になれば嫁と変わるように、「娘」は名号であり、

「嫁」となったのが信心です。

ゆえに信心獲得したかどうかが、肝心なのです。

名号、信心、念仏は、その名は異なれど、

いずれも体は「南無阿弥陀仏」。

ちょうど「娘」が結婚すると「嫁」になり、

子供が生まれると「母」と呼び名が変わりますが、

同じ女性であるのと一緒です。

しかし、娘は、嫁となってから母となるのですから、

信心獲得せずに、心からのお礼の念仏を

称えることはできません。

名号、信心、念仏。この3つの関係をよくよく知ってください。

IMG_20221125_0004.jpg-5.jpg

 

他力の信心は決しておぼろではない

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

阿弥陀さまが、救いの法(南無阿弥陀仏)を先手で

成就してくだされているのだから、

私たちの往生(極楽に往って仏に生まれる)は、

すでに決定しているのではないですか?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


釈尊は名号の大功徳は、十劫の昔に阿弥陀仏のお手元に

完成していると説かれています。

(一劫とは仏教で、4億3200万年のこと)

そこで浄土真宗の中には、質問のような誤解をしている人が

少なくありません。

ちょうど、大学の合格発表で、番号を見る前から

合否はすでに決まっていたようなものだ。

分かったから合格したのではなく、

合格したことを知らせてもらっただけである。

つまらない心配をする、はるか以前に、

救いの法はすでに先手で成就され、

私に届いている。

ただ私たちは、それを知らないままだった。

それを知らせてくださったのが、お釈迦さまであり、

親鸞聖人だったのだ、と。

 

これは本当でしょうか。

もし、〝救いの法はすでに先手で成就されているから、

私たちの往生は決まっている〟

とするならば、次の蓮如上人のご教導に

反することになってしまいます。

 

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、

無間地獄に堕在すべきものなり

           (御文章2帖)

 

〝往生は決まっている〟どころか、信心獲得しなければ

後生は地獄だぞと、手に汗握って勧化しておられます。

今までなかったものを頂くから獲得というのです。

すでに届いているものに気づくことならば

獲得とはいいません。

蓮如上人が「信心獲得」と言われているのは、

断じて「先手で成就されている救いの法に気づくこと」

ではないとお分かりでしょう。

 

同様の聞き誤りは、蓮如上人の時代にも大変多かったと見えて、

『御文章(御文)』には、繰り返しこのように戒められています。

 

十劫正覚の初より、我等が往生を、

弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、

すなわち信心のすがたなり」といえり。

これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし。

               (御文章2帖)

 

それ弥陀如来は、すでに十劫正覚の初より、

我等が往生を定めたまえる事を、今に忘れず疑わざるが、

すなわち信心なり」とばかり心得て、

弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくば、

報土往生すべからず。     (御文章3帖)

 

阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を成就された時に、

私たちの往生は決まっているのだ。

そのことに気づいたのが、信心獲得だと言う者がいる。

〝これは、断じて他力の信心ではない。

絶対に極楽には往けませんよ〟

と、相手の顔色を見ずに一刀両断なされています。

生涯、「信心獲得せよ」と教え続けられた聖人の願いに背く、

間違った考えだからです。

名号の宝は十劫の昔に完成していても、

それを私が受け取らねば、阿弥陀仏のご苦労は

水泡に帰してしまいます。

どんなにご馳走を用意されていても、私が食べなければ

施主の気持ちは無駄になってしまうのと同じです。

救いの法(南無阿弥陀仏)はすでに成就されていても、

それを私が受け取らなければ、救われることはないのです。

 

その名号を獲得した時を、信の一念といい、

親鸞聖人は「時剋の極促」とおっしゃっています。

何億分の一秒より短い、時間の極まりです。

あっという間もない瞬間に、大宇宙の宝を

ただもらいさせられますから、真(まこと)に手の舞い、

足の踏むところを知らぬ大歓喜がおきるのです。

その時こそ、「今こそ明らかに知られたり」

と驚きがたつのであって、真実の信心は、

断じてボンヤリしたものではありません。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうすれば、名号を頂けるのですか?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


名号は、聞く一つで頂けますから釈尊は、

「その名号を聞きて、信心歓喜す」

と『大無量寿経』に明らかにしておられます。

だから、

仏法は聴聞に極まる」と教えられ、

善知識方(正しい仏教の先生)は常に、

真剣な聞法を勧められるのです。

命をかけて聞法する者には、阿弥陀仏のお力で、

必ず信心獲得できる時があるのです。

 

不思議だなあ、

 どうしてこんな悪性が救い摂られたのか

 

南無阿弥陀仏と一体になった不可思議の世界を聖人は、

このように宣言なされています。

 

五濁悪世の衆生の

選択本願信ずれば

不可称不可説不可思議の

功徳は行者の身にみてり」  (高僧和讃)

 

〝不思議だなぁ、どうしてこんな悪性が無条件で

救い摂られたのか。

なぜ愉快なのか。恵まれるのか。生かされるのか。

どう考えても分からない。

仏法不思議の世界に出れば、だれもが体一杯、

生きる歓喜と満足で満ちあふれるのである〟

親鸞は、弥陀の誓願に救い摂られたことがうれしい。

絶対の幸福に合掌せずにおれない。

今日の一日が尊い。今の一息はもっとありがたい。

吸う息吐く息が不思議だ。よろこばぬ心が見えるほど感激だ。

焼けもせず、流されも、盗まれもしない、

いつも満ちている無上の幸せを、

「不可称・不可説・不可思議の、功徳は親鸞の身にみてり」

と、誇り高くうたいあげられています。

 

たとえ名号の素晴らしさを説く人はあっても、

獲得しなければ幸せにはなりませんよと、

聖人ほど、懇切丁寧に徹底して教えてくだされた方は

ありませんでした。

 

90年のご生涯、時空を超えて、すべての人の信心獲得を願い、

勧めていかれた方が世界の光・親鸞聖人なのです。

聖人のお勧めどおり、「信心獲得」の身になることこそ、

もっとも聖人が喜ばれ、そのご恩に報いる

真の降誕会となるのです。

(2005年5月のとどろきです)

nice!(57)  コメント(0) 
共通テーマ:資格・学び

nice! 57

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。