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「聞く一つ」で阿弥陀仏に救われる! [阿弥陀仏の本願]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

 

         未来の一大事を

            解決できれば

         人生を底抜けに

            楽しめる

 

     「聞く一つ」で

       なれる幸せ

 

●お盆に思い出す懐かしい人たち

 

お盆といえば、一般には、親戚が集まって墓参りする日。

(2018年8月のとどろきです)

親兄弟や愛児、恋人など、大切な人との悲しい別れを

経験した人は、故人を懐かしく思い出します。

つい最近までともに語らっていたのに、

今は亡き人々をしみじみと思い返すと、

「あの人はどこへ旅立ったのだろう。

満足して亡くなったんだろうか」

「自分はどうすれば、後悔のない人生になるのか」

と考えさせられます。

人生の最後、どんな心境になるかは、

それまでどう生きたかによって変わるからです。

ある人は、優れた経営者でした。

全盛期にはテレビに出演したり、ベストセラーを執筆したり、

押しも押されぬ輝かしい日々でした。

ところがガンが見つかり、もう手遅れと分かると

急に元気をなくしてしまった。

しきりに言っていたのは、

「死にたくない、死にたくない」

ということでした。

一度は入院したものの、快復の見込みがないので

すぐに自宅療養を選びました。

人生最後の夏、昼過ぎに友人が見舞いに行くと、

「こんな真夜中になんだ?失礼な人だ」

とつぶやいていたそうです。

そしてその数時間後に亡くなりました。

死の直前、昼間なのに真っ暗な中で

その経営者は何を思っていたのでしょうか?

 

またある女性は、80を過ぎてガンにかかり、

骨と皮ばかりに痩せてしまった。

仏法熱心な人でしたが、今は病院で全身をチューブにつながれ、

延命治療を受けています。

ところが、最期に18歳の孫娘が見舞いに来て、

「おばあちゃん、大丈夫?」

と手を取ると、

大丈夫じゃないのはおまえや!

わしは、一息切れたら明るい世界へ行くから心配は要らん。

でも、おまえは今のまま死んだらお先真っ暗やぞ!

頼むから仏法を聞いてくれ

と驚くような力で握り返してきたといいます。

 

最後、同じようにガンにかかって死に直面した人でも、

絶望して真っ暗になる人もあれば、

限りなく明るい心で他人を心配する人もあります。

そこには一体どんな違いがあるのでしょうか?

 

●人生の最後が真っ暗になってしまう理由

 

まず、人生の最後、元気をなくしてしまった経営者が、

お先真っ暗になってしまったのはなぜでしょうか?

もうすぐ死ななければならないのに、

死んだらどうなるか分からない。

これを飛行機で例えるなら、燃料が切れたというのに、

降りる所が分からないようなものです。

太平洋の上空1万メートルを飛行中、機長から、

「皆様、当機はもう燃料がありませんので、

これ以上飛び続けることはできません。

しかしこの辺りは、見たところ着陸できる所は

どこにもございません」

と言われたらどうでしょう。

「それでは皆さん、墜落するまで映画を見て

最後の旅をお楽しみください。

お食事も全部出しますから、好きなだけお召し上がりください」

と出血大サービスしてもらっても、

機内映画を見る気も起きないし、

機内食を食べるどころではないでしょう。

人生をこのように飛んでいる飛行機に例えるなら、

機内食や映画はお金や財産、地位、名誉などに当たります。

巻頭特集で説明した相対の幸福のことです。

(ブログでは載せていません)

これら相対の幸福は、死に直面すると、

全てがひび割れ、光を失ってしまうのです。

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●すべての人に同じ未来が近づいている

 

それは、死を目前にした人だけのことではありません。

人は皆、やがて死んでいくことに変わりがないからです。

降りる所が分からない飛行機は、燃料がまだ残っていても、

結局墜落することに変わりない。

燃料は刻々と減っていき、しかも残量がどれだけかは

全く分からないから、安全な着陸場所が見つからない限り、

常にお先真っ暗です。

それと同じように、どんな人でも死は100パーセント確実で、

私たちも毎日死に近づいています。

その100パーセントの未来がどうなるか分からなければ、

人生は全く安心できません。

現在が明るいか暗いかは、

未来が明るいか暗いかによって変わる。

1週間のうちでいちばん心が明るいのは金曜日の夜でしょう。

明日から土日で、好きなことができるからです。

逆にいちばん暗いのは、日曜日の夜。

〝サザエさん症候群〟ともいわれ、

番組が終わると急に心が憂鬱になる。

また明日から学校や会社に行かなければならないからです。

未来が明るければ、現在も明るくなる。

未来が暗ければ、現在も暗くなる。

死ぬのは避けられない以上、死んだらどうなるか

分からない真っ暗なままでは、現在を明るく

生きることはできないのです。

私たちにとって、死んだらどうなるか分からないこと以上の

大問題はありません。

こんな一大事はありませんから、仏教ではこれを

「生死の一大事」とか「後生の一大事」といわれます。

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●なぜ、お金や財産では幸せになれないの?

 

どんなにお金や財産、地位、名誉などの相対の幸福に

恵まれても、心からの安心も満足もないのは、

この後生の一大事があるからなのです。

ほとんどの人は気がついていませんが、人生が底知れない

不安に覆われているのは、根本に一大事があるからです。

逆に、この一大事さえ解決できれば、どんな人も、

人生を底抜けに楽しめるようになります。

飛行機でいえば、いつ燃料が切れても

100パーセント安全に降りられる大空港を

見つけたようなもの。

そうなれば、今、心の底から安心して機内食や映画を楽しめる。

大安心・大満足の絶対の幸福になれるのです。

この後生の一大事を解決し、絶対の幸福になる道を

開示されたのが、実にお釈迦さまの説かれた仏教なのです。

 

●仏教に説かれる後生の解決の道

 

約2600年前、インドに誕生されたゴータマ・シッタルタが、

35歳で仏のさとりを開いてブッダとなられ、

80歳でお亡くなりになるまで何を説かれたか。

それはこの後生の一大事の解決一つです。

その教えは、一切経と呼ばれる七千余巻の膨大なお経に

書き残されています。

これら一切経を何度も読み破られた親鸞聖人は、

このように教えられています。

 

如来、世に興出したまう所以は、

唯、弥陀の本願海を説かんがためなり (正信偈)

 

この「如来」とは釈迦如来のことですから、

「如来、世に興出したまう所以は」とは、お釈迦さまが

地球上に現れて、一切経を説かれた目的は、ということです。

それは「唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」。

すなわち阿弥陀仏の本願ただ一つであったということです。

「7000冊以上のお経があるのだから、お釈迦さまは

いろいろなことを説かれたのだろう」と思う人が

ありますが、そうではなかった。

釈迦が一生涯教えられたのは、阿弥陀仏の本願一つだったのです。

阿弥陀仏とは、どんな仏さまでしょうか。

地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですが、

大宇宙には数え切れないほどの仏さまがまします。

それらの仏方の先生に当たる最高の仏さまが

阿弥陀仏であり、お経には「最尊第一の阿弥陀如来

諸仏の王なり」と説かれています。

ですから大日如来も薬師如来もお釈迦さまも皆、

阿弥陀仏のお弟子なのです。

仏教で弟子の使命は、先生の御心を伝えること一つ。

地球に現れたお釈迦さまが、生涯、師である阿弥陀仏の

本当に願われている御心、本願一つを伝えられたのは、

当然のことなのです。

 

●阿弥陀仏が私たちとなされたお約束とは?

 

本願とは、誓願ともいわれ、お約束のこと。

降りる場所のない飛行機のように、底知れない不安を

抱えて生きているのが私たちです。

阿弥陀仏はそんな私たちをごらんになって、

何とか助けてやりたいと大慈悲心を起こされ、

「すべての人を、必ず弥陀の浄土に生まれられる

往生一定の身に救う」

とお約束なされているのです。

それが阿弥陀仏の本願です

「往生」とは、浄土へ往って仏に生まれること。

「一定」とは、一つに定まると書くように、

ハッキリすることです。

ですから「往生一定」とは、いつ死んでも浄土へ往って

仏に生まれられるとハッキリする、ということです。

弥陀の本願に救われ、来世は浄土往生間違いないと

ハッキリすれば、後生の不安は全くなくなりますから、

生きてよし、死んでよし、今が絶対の幸福に生かされます。

弥陀の浄土は「無量光明土」ともいわれ、

限りなく明るい世界ですから、現在が底抜けに

明るい人生になるのです。

これを「平生業成」といいます。

「平生」とは、生きている時。

「業」とは、絶対の幸福、「成」とは、完成する、

達成するということですから、生きている平生に、

絶対の幸福になれるということです。

 

●生きている時、絶対の幸福になれる

 

親鸞聖人は、29歳の時、阿弥陀仏の本願に救われて

往生一定の絶対の幸福の身になられ、

こう言われています。

ああ・・・何たる不思議。親鸞は今、

阿弥陀仏の本願のとおり往生一定の身に救われた。

これは全く阿弥陀仏のお力によってであった。

深く感謝せずにおれない。もしまた今生も救われなければ、

未来永劫、苦しみ続けていたであろう。

危ないところだったなあ。

何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、

知らせねばならぬ。こんな広大無辺の世界のあることを

原文は次のとおりです。

 

噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、

真実の浄信は億劫にも獲がたし。

遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を

逕歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ    (教行信証)

 

そして90歳までたくましく生き抜かれ、

「平生業成」の阿弥陀仏の本願を最も鮮明にされました。

その親鸞聖人90年の教えが「浄土真宗」です。

 

「親鸞、死んだら浄土へ往くぞ」

 

親鸞聖人は、90年のご生涯の最後にこう仰っています。

 

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、

和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

              (御臨末の書)

 

「我が歳きわまりて」とは「いよいよ親鸞、

この世の最後となった」ということです。

普通、いよいよ死なねばならぬとなったら、

お先真っ暗ですが、親鸞聖人は違う。

「安養浄土に還帰す」と仰っています。

「安養浄土」は阿弥陀仏の浄土のことですから

「親鸞、死ねば阿弥陀仏の浄土へ往くぞ」と

明言されているのです。

では、浄土へ往ってのんびりされるのかというと、

そうではありません。

「和歌の浦曲の片男波の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」

和歌の浦の海岸の波が寄せては返し、また寄せては返す。

無限に往復運動を繰り返しているように、親鸞、一旦は

浄土へ往くけれど、すぐに皆さんの所へ戻ってくるぞ、

弥陀の本願まことを苦悩の群生海に伝えずにおれないのだ

と言われているのです。

 

●遺骨を粗末にすると成仏できない?

 

ですから親鸞聖人は、常日頃から

親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし

とビックリすることを言われていました。

私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ

ということです。

世間では、遺体遺棄事件や戦没者の遺骨収集などで、

遺体や遺骨が見つからないと、

「これでは死んだ人も浮かばれない」と言い、

見つかると「これでやっと浮かばれる」などと言います。

遺体や遺骨と、その人の後生の幸せとが関係あるように

信じられているからでしょう。

また、遺体や遺骨に向かってお経を読めば、

故人が幸せな所へ行けるようにもいわれています。

 

しかし親鸞聖人は、そうではない。

平生元気な時に仏法を聞き、「往生一定」の身に

ならせていただくことが肝心なのだよと、

このショッキングな言葉で教えられているのです。

平生、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、往生一定の身になれば、

命終われば直ちに弥陀の浄土ですから、

死んだ肉体に用事はありません。

「わしは一息切れたら明るい世界へ行くから大丈夫」と

断言した冒頭の女性も、浄土真宗の盛んな地域の人でした。

平生に弥陀の本願を聞きひらき、往生一定の身になっていれば、

自分の後生には何の心配もないから、まだ親鸞聖人の教えを

知らない孫娘を心配していたのでしょう。

どんなにお金や財産、地位、名誉があっても、

後生暗い心を抱えていては、心から人生を慶ぶことはできません。

しかし、後生の一大事を解決し、今死んでも

浄土往生間違いなしの大安心になれば、

底抜けに明るく楽しい人生が開かれます。

 

●どうすれば明るく楽しい人生になれるの?

 

では、どうすれば後生の一大事を解決し、

絶対の幸福になれるのでしょう。

仏法は「聴聞に極まる」といわれ、聞く一つで救われます。

何を聞くのか。それは阿弥陀仏の本願です。

他には修行も学問も、座禅も瞑想も必要ありません。

ただ、阿弥陀仏の本願を聞く一つで、

往生一定の身に必ずなれます。

だから早く、その身になりなさいと

親鸞聖人は教えられているのです。


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