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弥陀に救われれば、もう捨てられない幸せ者になれる! [阿弥陀仏の本願]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

     「その幸せ、

          つかんだら離すなよ」

        ではない

           

             つかまれて

              捨てられない幸せ者に

 

        摂取不捨の利益

 

人工知能が人に取って代わる時代がやってきても、

「人間に生まれてよかった!」と生きる意味を知り、

命いっぱい喜べる真実の幸せがあると、

お釈迦さまも親鸞聖人も教えられました。

700年前の古典『歎異抄』には冒頭から、

その親鸞聖人の歓喜が記されています。

 

弥陀の誓願不思議に助けまいらせて

往生をば遂ぐるなりと信じて

「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、

すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

             (歎異抄第1章)

古今を問わず万人が希求する「摂取不捨の利益」とは、

どんな幸せでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ライフワークとして小説『親鸞』を書いた、

作家の丹羽文雄氏は、その「あとがき」に

次のように述べています。  

 

今日多くの人が、親鸞に興味をよせている。

(中略)今日の人は、何かを求めている。ある統計によると、

今日の日本の状態に日本人の7割が満足しているという。

しかし、心の問題となると、答えは逆になる。

何かを求めている。飢えている。私もそのひとりであった。

(中略)

この10年来、私は親鸞を知りたいと思いつづけて来た。(中略)

親鸞の罪の意識、その絶望、その懺悔(さんげ)は、

750年後の今日の私たちの胸にも強烈にひびく。

同時にあの讃歎は、絶望と懺悔にいりまじって、

『運命』の交響楽のように力強く、しかもなまなましく

私たちの胸の中に鳴りわたる。しかもそのことばは、

いままで誰からも聞かされたことのない声で語られているのだ。

いまにして私は、親鸞を宗祖とする浄土真宗の末寺に

生まれたことを、しみじみありがたいと思う。

親鸞のようなひとにめぐり会えたことは、

一介の文学者としても、人間としても、

生涯のよろこびである」       (『親鸞』)

 

このように言葉を尽くして親鸞聖人を絶賛しています。

そう言わしめた親鸞聖人の魅力とは何でしょうか。

 

丹羽氏が愛読していたという『歎異抄』は、

親鸞聖人の肉声が聞こえてくるような書です。

著者は高弟の一人・唯円房といわれ、聖人の言葉を、

たぐいまれな名文で書き記した『歎異抄』は、

日本で最も多くの人に読まれている仏教書といわれています。

『歎異抄』全18章が収まる第1章の冒頭を読んでみましょう。

 

弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば

遂ぐるなりと信じて「念仏申さん」と

思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に

あずけしめたまうなり

(弥陀の誓願不思議に助けていただいて、往生できると

明らかになり、念仏称えようと思い立ったその時、

摂取不捨の幸福にしていただくのである)

 

ここに出てくる「摂取不捨の利益」の意味が分かれば

丹羽氏だけでなく誰もが驚くことを、

親鸞聖人は仰っているのです。

 

●「摂取不捨の利益」とは

 

「摂取不捨」とは文字どおり、摂め取って捨てないことです。

「利益(りやく)」とは幸福のことですから、

〝ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸せ〟を

「摂取不捨の利益」といい、現代の言葉にすれば

「絶対の幸福」ともいえるでしょう。

 

人は皆、幸福を求めて生きています。

幼少の頃から不幸続きの娘が、良縁に恵まれようやく結婚した。

面倒を見てきた近所のおばさんが、娘の手を握ってこう言った。

「サッちゃん、この幸せ、絶対に離したらアカンで」


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皆、幸せをつかみ取るのに懸命です。

お金が欲しい。事業で成功したい。人の上に立ちたい。

家が欲しい。子供の成長を見たい・・・と、

夢や希望をこの手にしっかり握り締めるまでは、

と頑張って生きています。

そして夢をかなえたら、今度はそれを手離さぬよう、

必死に守り、維持しようと努めます。

しかし、いくらしがみついていても、思わぬ所でつまずき、

失い、「捨てられる」のが世の常。

倒産寸前の日産のCEOに就任し、奇跡のV字回復を遂げて

一躍〝時の人〟となり、

帝国と揶揄される独裁体制を敷いたカルロス・ゴーン氏も、

不祥事発覚で会社から捨てられました。

人気アイドルグループのタレントが、女子高生に不謹慎行為を

告発され芸能界から捨てられ、財務省事務次官がセクハラで

霞ヶ関から捨てられる。

横綱に昇り詰めながら、暴力事件で相撲界から捨てられ、

スポーツ協会の会長や理事長が、パワハラでその地位を

追われています。

たとえ真面目にやっていても、事故や病気、家庭の事情で、

いつ幸せな状態から転落するやもしれない。

何を手に入れても私たちの喜びは、長続きしないのです。

 

ある雑誌に〝大金持ちが大豪邸を売りに出す時〟

という特集がありました。

ある人は、城のような家に住むのが夢で、

プール付きの豪邸を建設。

設計図を決めているときは至福でしたが、いざ入居すると、

掃除や維持管理が大変で、「3日目にはもう嫌になりました」。

さらに東日本大震災で、広いリビングで不気味に揺れる

巨大なシャンデリアの下にいた時、

「私にはそもそもこんな豪邸は必要なかった」と

夢から覚めた心地だったといいます。

「私はもう豪華さに飽きたんです」としみじみ語る富豪もいます。

自分の心が喜べなくなったら「幸せに捨てられた」

といえるでしょう。

「幸福」と聞いて思い浮かべる私たちの幸福とは、

必死にしがみついても、やがて必ず捨てられるものなのです。

いつ捨てられるか分からない不安が常に付きまといますから、

本当の幸福とはいえません。

 

●阿弥陀仏が誓われた幸福

 

美しく咲いた花も、散る時が来る。

蓮如上人はこのように仰っています。

 

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ   (御文章1帖目11通)

 

今まで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、

いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りになるものはない。

全てから見放されて、一人でこの世を去らねばならない。

丸裸でいったい、どこへゆくのだろうか

 

こんな悲劇に向かうすべての人に、

摂取不捨の利益(絶対の幸福)を

明らかに示しているのが仏教です。

薄氷を踏むような人生に、ガチッと摂め取られて

絶対に捨てられない幸せ、何が起きても変わらない安心、

満足が欲しい。

そんなすべての人の願いをかなえる幸福が「摂取不捨の利益」

ですから、これこそ、すべての人が心の底から

求めている幸せでしょう。

この「摂取不捨の利益」は、阿弥陀仏という仏さまが、

すべての人と約束されている幸福です。

この阿弥陀仏のお約束のことを、阿弥陀仏の本願といいます。

この摂取不捨の利益を与えてくださる、

阿弥陀仏の本願一つを教えられたのが仏教だと、

親鸞聖人は断言されています。

蓮如上人は、

阿弥陀という三字をば、おさめ・たすけ・すくうと

訓(よ)める謂(いわれ)あるが故なり

と仰って、

「おさめ」(摂)

「たすけ」(取)

「すくう」(不捨)、

阿弥陀の3字には、摂取不捨の意味があると説かれています。

 

●逃げても逃がさぬ網の中

 

しかし阿弥陀仏が本願に、

「生死の巌頭(がんとう)にも変わらぬ絶対の幸福に救う」

と誓われていても、私たちは

「そんな幸せ、誰も見聞きしたこともない。

人間が絶対の幸福になどなれるものか」

と信じようともしません。想像すらできない。

だから弥陀の摂取不捨の誓願を疑い、背を向け、

それよりもこの肉体で味わえる金や名声、恋人の喜びなど、

続かない幸福ばかりを求めて逃げ回っている。

「摂取不捨」とは、そのように逃げ惑う者を、阿弥陀仏が

どこまでも追いかけて救う意味だと、親鸞聖人は仰っています。

やがて必ず捨てられる幸福しか知らず、

果てしない過去から迷い続けてきた私たちを、

阿弥陀仏はあわれみ悲しみ、

「見捨てぬはせぬぞ。必ず救う」

と追いかけ、逃げ場のなくなるまで追い詰め、

そして絶対の幸福に救い摂ってくださるのです。

「去る者は追わず、来る者は拒まず」

そんな冷たい心では、誰も助かりません。

阿弥陀仏の願心は、仏に背を向けて逃げ回る者を、

「逃してなるか、おまえを絶対の幸福に救えなかったら

正覚(仏の命)を捨てる」

と命懸けで摂取してくださる、まことの大慈悲心なのです。

 

前述の丹羽文雄氏は、浄土真宗の寺に生まれましたが、

教団組織に反発し、作家活動をするために寺を出ます。

しかしやがて、阿弥陀仏の摂取不捨の御心を知るや、

「自分の親鸞観が如何に浅薄なものであったかを知った」

                (丹羽文雄『親鸞紀行』)

と〝坐りなおすほどの衝撃〟を語っています。

「ここに辿りつくまでに私は、生家の寺をとび出し、

宗教はじゃまだと思い上がり、さんざん道草をくってきたが、

『疑謗を縁とせよ』と、親鸞はとうの昔に私のような

小ざかしさを見透かしていたのである。

俗な言葉でいえばぐうの音も出ないというのが実感である」

                  (『親鸞』)

 

●この世も来世も救われる

 

また本誌の読者からもこのような感想が寄せられています。

 

「同世代の人と話すと、金融詐欺に遭い、

二度とだまされたくないとの思いから

経済や金融の勉強を始めた人、

株で大損してコリゴリしている人、

会社で信頼していた上司から嫌がらせを受けて

精神的に追い詰められている人など、皆、

信じていたものに裏切られ、苦悩していることが

分かります。

たとえしばらく続いても、最後、死んでいく時には、

何一つ持って行けない。一体、何のための人生なのかと

問わずにおれません。

そんな私たちに、『摂取不捨の利益を与える』と

約束なされている弥陀の誓願こそ、人生の目的、

多生の目的と知らされました」

             (愛知県・40代男性)

「『絶対に捨てることはないよ』と誓われている

弥陀の本願よりほかに、人生懸けて求むべきものはないと

知らされます。にもかかわらず、はかない幸福を追いかけ回し、

弥陀の本願から逃げ回っているのが、私たちの実相です。

そんな者を追いかけ、追い詰めて助けてくださるのが『摂取』の

お働きとお聞きし、そんな本願でなければ、誰一人救われない、

と知らされました」    (新潟県・30代女性)

 

この弥陀の本願を親鸞聖人は、船に例えて「大悲の願船」と

言われています。

苦しみの波の絶えない生死の苦海で溺れ苦しむ私たちが、

この船に乗せられた時が、摂取不捨の利益にあずかった時です。

この船は極楽浄土へ向かって進む船ですから、

乗せられると同時に、浄土往生できるとハッキリします。

『歎異抄』1章冒頭の

「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて、往生をば遂ぐるなりと

信じて」は、

「弥陀の本願の大船に乗せていただいて、往生できると

明らかになり」

という聖人の断言なのです。往生一定といいます。

もちろんそれは、死んでからではなく、現在ただ今のことです。

弥陀の本願の救いとは、この世(現世)も、来世(当世)も

救われる現当二益(げんとうにやく)なのです。

 

●聞く一つで、摂取不捨の幸福に

 

しかし、そんな幸福が本当にあるのでしょうか。

親鸞聖人は、阿弥陀仏のお約束どおり、

摂取不捨の幸福になられた時、

 

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ   (教行信証総序)

 

摂取不捨の幸福に助けてみせると誓われた阿弥陀仏の本願

(摂取不捨の真言)まことであった、本当だった、

と歓喜なされています。

では、どうすれば親鸞聖人と同じように、

弥陀の本願まことを知らされるのでしょうか。

聖人は続けて、

聞思して遅慮することなかれ

と仰っています。

「聞思する」とは聴聞することです。

 

仏法は聴聞に極まる

 

「聞く一つ」で弥陀の本願に救われますから、親鸞聖人は、

真剣な聴聞を勧められています。

「遅慮することなかれ」とは、弥陀の本願にウソはない、

必ず摂取不捨の幸福になれるから、聞法のご縁があれば、

迷わず聞きに行きなさい。

二の足踏んではいけませんよ、ということです。

蓮如上人も同じく、

 

至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり。

水よく石を穿つ。

「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん」

といえる古き詞あり。

いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、

御慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり   (御一代記聞書)

 

とお勧めです。軟らか水であっても、ポタポタと同じ所に

続けて落ち続ければ、どんな硬い石にも穴を開けることができる。

どんなに聞かぬ心であっても、不断に聞法する人は、

阿弥陀仏のお力によって、必ずまことの本願(お約束)だった

と疑い晴れる時が来る、そこまで聞きなさいよとの仰せです。

必ず絶対の幸福(往生一定)になれる時があります。

あきらめず、ひたすら弥陀の本願を聞かせていただきましょう。

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