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「いろは歌」に隠された絶対の幸福への道 [無常]


まず最初に動画を観られるとよく分かると思います。
(真実の仏法を説いてくださっています)
また、真実の仏法は慈悲でいっぱいなので癒されますし、
生活の指針にもなるので役立ちますよ。
そういう意味でも見られるといいですよ。
「いろはにほへと」いろは歌に秘められた仏教をわかりやすく解説
以下は記事の内容とはあまり関係ありませんが、
いくつか紹介しておきます。
「すべての人は例外なく孤独だ」と説くブッダ
とんでもない成功をもたらす実にシンプルな秘訣【仏教の教え】
現状よりも「今から」が大事。向上心を高める仏教。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

文豪・芥川龍之介は

『侏儒の言葉』の中に、

〝いろは短歌には、

人生における必要なことは

全て教えられている〟

と書き残しています。

「人生に必要なこと」って何でしょう。

今月はこの「いろは歌」47文字に秘められた

人生に必要な「幸福のカギ」を解説します。

 

     「いろは歌」に

           隠された

                       絶対の幸福への道

 

●「いろは歌」には

 「人生に大切なこと」が

      教えられている

 

昔の寺子屋で、読み書きを教える時に

使われた「いろは歌」は、平仮名47文字を、

重なることなく並べて歌にしたというものです。

古くから伝わるこの「いろは歌」に、

実は仏教の深い教えが込められていることは、

案外知られていません。

 

いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす

 

漢字を当ててみると、ぼんやりと意味が

浮かび上がってきますね。

 

色は匂えど 散りぬるを

わが世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔いもせず

 

「色」とは、桜の花のことですから、

爛漫と咲き誇る桜花も、あっという間に、

1枚も残らず散ってしまうことを、

一句目で詠われています。

二句目では、桜の花と同じように、

この世のどんな成功者も、一体、誰が、

いつまでも変わらずにその栄光を

保ち続けられるだろうか、と世の無常を

訴えています。

三句目と四句目は、その無常の世を

悲しみ嘆く私たちが、生きている時に、

その苦しみを解決し、迷いの夢から覚めて

絶対の幸福になれるという、仏の教えが

示されているといわれます。

 

このいろは歌の元になったという、

お経の言葉が、次の漢字16字です。

 

諸行無常(しょぎょうむじょう)

是生滅法(ぜしょうめっぽう)

生滅滅已(しょうめつめつい)

寂滅為楽(じゃくめついらく)

 

この言葉は、お釈迦さまが、雪山童子(せっせんどうじ)という

修行者であった時に、命と引き替えにしてさとられた真理と

伝えられています。

かつて国語の教科書にも、「修行者と羅刹(らせつ)」という

題名で掲載されていた、次の有名なエピソードです。

 (お釈迦さまは、大宇宙に無数にある人間の住む惑星と弥陀の浄土を

何度も何度も往復し、その度に、ご苦労なされて仏のさとりを開かれる。

そしてすべての人が無上の幸福になれる「阿弥陀仏の本願」をお説きくだされる。

雪山童子とは、過去世のお釈迦さま。 by minsuke)

●修行者と羅刹

 

雪山(せっせん)で一人、真の幸福を求めて、

苦行に打ち込む修行者がいた。

すると、風に乗ってどこからか、尊い言葉が聞こえてきた。

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諸行無常 是生滅法

咲いた花もたちまち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。

無常は全てのものの免れぬ運命である

そのさとりの言葉を聞いた修行者は、

喉の渇きにあえいでいる時に、清らかな水を得たように、

大きな喜びを感じた。

しかし、辺りを見回して声の主を探すが、

人影は見えない。

今のはさとりの半偈(はんげ・真理の半分)。

残りの真理の言葉を聞きたいと、探し回った揚げ句、

突如、崖の上に恐ろしい鬼の姿をした羅刹を見た。

「大士よ。今、尊い言葉を発せられたのは、

あなた様ではありませんか。

残りの半偈を聞かせていただき、どうか、

私にさとりを開かせてください」

すると羅刹は、

「わしは何も知らない。ただ、あまりに空腹で、

うわごとのように何か言ったかもしれぬ。

しかし、もう腹が減って、何も言う力がないのだ」

とつれない言葉を吐いた。

「では、あなた様のために食べ物を用意いたしますから、

教えてください」

重ねて懇願すると、羅刹は驚くべき無理難題を言い放つ。

「それはとてもおまえに用意できるものではない。

私は、生きた人間の血のしたたる肉しか食わないのだ」

意外にも修行者は少しも驚かず、

「分かりました。では、残りの言葉を聞かせていただければ、

私のこの肉体を、あなたに差し上げましょう」

と真剣な面持ちで答え、羅刹に敬礼して教えを乞うた。

羅刹は、おもむろに口を開いた。

恐ろしい形相から、どうしてこんな声が出るのかと思われるほど、

それは美しい声であった。

 

生滅滅已 寂滅為楽

 

修行者は、その意味をさとって心に大きな喜びを得た。

後の世の人のために、そのさとりの言葉を石や木に刻みつけ、

やがて、するすると近くの木に登ると、

そのてっぺんから羅刹に向かって、ひらりと身を投げた。

真っ赤な口を開いた羅刹は、刹那に端厳な帝釈天と姿を変え、

修行者を受け止めると、恭しく地上に降ろして合掌した。

「善いかな善いかな、その覚悟あってこそ、

あなたはさとりを得ることができたのです」

妙華(みょうか)が舞い降り、

修行者の菩提心を祝福したのである。

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お釈迦さまは、このお言葉で、

一体、何をさとられたのでしょうか。

仏教で、さとりといわれるのは、大宇宙の真理をさとること。

真理といっても、数学的真理、科学的真理などもありますが、

仏教が説く真理とは、「すべての人が本当の幸せになる真理」

のことです。

この16文字には、どうしたら、私たちが本当の幸福に

なれるのか、その道が教えられているのです。

 

では、その真理を明らかにしましょう。

 

●「無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり」

 

まず、「諸行無常」の「諸行」とは全てのもの、

「無常」とは、常がなく、変わり続けていることです。

この世のどんなものも、変化している。

私たちが、どんなに大事にしているものも、

愛する人も、形あるものは必ず壊れていく定めにあります。

これが、生じたものは必ず滅する、

万古不変の真理であることを、

是生滅法(これ生滅の法なり)」

と教えられているのです。

 

「そんなこと考えていたら、暗くなるだけ」

「悲観的なことばかり聞かされるから、

仏教は嫌い」

と敬遠する人もあるかもしれません。

 

しかし、例えば私たちは、健康診断を受けるでしょう。

悪いところが見つかったらイヤだから、

後回しにしたい気持ちにもなりますが、

検査を受けて初めて、不調の原因がはっきりし、

治療方法を明確にすることができます。

健康を取り戻すには、肉体の状態をありのままに

知ることが大切なのです。

地震で家が倒壊しないだろうかと心配な人も、

耐震性の検査を受けて、補強工事を行えば、安心できます。

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いろは歌は、まず、最初の二行で、

古今東西変わらぬ、諸行無常の現実を明らかにし、

それから、不変の絶対の幸福になれる道を示しているのです。

これを、仏教では、

 

無常を観ずるは菩提心の一なり

 

と教えられています。

観ずるとは、ありのままに見つめること、

菩提心とは、変わらない本当の幸せ、絶対の幸福のことです。

無常を無常と見つめることが、絶対の幸福への第一歩なのです。

 

逆に、無常の現実には目を塞いで、

幸せだけを求めたらどうなるでしょうか?

それでは、幸せのまっただ中に、思わぬ落とし穴に

はまり込んでしまうよと仏教では警告されています。

 

●大きな幸せのあとに

   悲しみがやってくる

 

春の新入社員を見ていると、初めて社会に出て、

仕事の厳しさや素晴らしさを学んだ当時を思い出し、

心が洗われる気持ちにさせられます。

経験を積めば積むほど、上司や部下、いろいろな仕事相手との

信頼関係が深まって、やりがいも出てくるもの。

責任ある立場に立てばなおさら、

多くの人から慕われるようになるでしょう。

ところが、いつまでも仕事を続けるわけにはいきません。

若手を伸ばすため、引き際を考える年齢になると、

それらの仕事仲間と別れねばならないという、

寂しさが心の中を吹き抜けていきます。

ある会社の重役が、毎年1000通以上の年賀状を受け取っていたが、

引退した途端、数えるほどになってしまい、

大変なショックを受けた。

多くの人から慕われていた人ほど、寂しさは深まるのでしょう。

会社のために、後継のためにも、それでいいんだと、

自分を納得させようとしても、割り切れないわびしさ。

仕事に没頭した人ほど、心の中にポッカリと開いた穴が

大きくなるのは、なんと皮肉なことでしょうか。

 

子供が結婚して自分から去ったあと、

うつ病になる女性が多く、

「空の巣症候群」と名づけられています。

別離がそれだけつらいのは、

おなかを痛めた子は命だからでしょう。

「山高ければ谷深し」といわれるように、

目に入れても痛くない、かわいい子であればあるだけ、

別れの寂しさは耐え難いものです。

大きな幸せを味わったあとには、

悲しみが必ずやってくる。

会者定離

会う者は、離れるに定まれり

とも説かれるように、

出会いの喜びには、

必ず、別れの悲しみが付きまとう。

「なぜ私は苦しまねばならないのか?」

それは、私が幸せだったからなのです。

 

「愛とは巨大な矛盾であります。

それなくしては生きられず、しかもそれによって傷つく」

古今の哲学者たちも、この世の幸せの実態を

嘆かずにいられません。

 

●悲しみの涙の一滴一滴が、

    感謝の涙に変わる

 

「いろは歌」の後半には、こんな悲しみに満ちた世界を

「有為の奥山」と言われ、その悲しみを、「今日越えて」と、

生きている時に、乗り越えることができると

説かれています。

前半の「諸行無常 是生滅法」の真理は、

この本当の幸せに導くために説かれているのですが、

そのことを知らない人にとっては、

仏教は暗くて嫌だと思われるのでしょう。

「生きている時に、ハッキリと絶対の幸福になれる」

これが、親鸞聖人の教えの一枚看板といわれる「平生業成」です。

「平生」とは、死後ではない、生きている現在のこと。

「業」とは変わらない絶対の幸福。

「成」とは、達成できるということです。

その教えのとおりに、絶対の幸福になった時、

「憂きことも 悲しきことも ご方便」

(大切なものを失った悲しみは、

この永遠の幸せに導くための

ご方便〈手段方法〉であった)

と知らされるのです。

 

お釈迦さまの時代にも、別れの悲しみを、

仏教によって乗り越え、本当の幸せに導かれた、

一人の女性のエピソードが残されています。

 

●お釈迦さまと

   キサーゴータミー

 

お釈迦さまのおられたインドに、

キサーゴータミーという麗しい女性がいた。

しかし、命より大切に育ててきたわが子が、

病で急死した。

狂わんばかりに愛児の亡骸を抱き締め、

この子を生き返らせる人はないかと尋ね回った彼女は、

幸いにもお釈迦さまに巡り会う。

泣く泣く、子供の蘇生を願う母親に釈迦は、

こう言われた。

あなたの気持ちはよく分かる。

いとしい子を生き返らせたいのなら、

今まで死人の出たことのない家から、

ケシの実を一つかみもらってきなさい。

すぐにも子供を生き返らせてあげよう

それを聞くなり彼女は、町に向かって走った。

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しかし、どの家を訪ねても、

「昨年、父が死んだ」「先日、子供に死別した」という家ばかり。

ケシの実はどの家にもあったが、

死人を出さない家はどこにもなかった。

夕闇が町を包む頃、駆けずり回った彼女は、

もはや歩く力も尽き果てて、

トボトボとお釈迦さまの元へ戻っていった。

お釈迦さま、死人のない家はどこにもありませんでした。

私の子供も死んだことがようやく知らされました

そうだよキサーゴータミー。人は皆死ぬのだ。

明らかなことだが、分からない愚か者なのだよ

本当にバカでした。こうまでしてくださらないと、

分からない私でございました。

こんな愚かな私でも、救われる道を聞かせてください

彼女は深く懺悔し、仏教を聞き求めて幸福になったといわれます。

 

夢の世を

あだにはかなき 身と知れと

教えて還る 子は知識なり

 

知識とは、仏教の先生のことです。

もしあの子が、この世の無常を、

身をもって教えてくれなければ、

無常を無常と知らず、

真実の幸せを求めようともしなかったであろう。

そう考えれば、わが子は、私を真実の幸福に

導いてくだされた師であったのだと、

ゴータミーは感涙にむせんだに違いありません。

 

親鸞聖人も、4歳でお父様、8歳でお母様を亡くされ、

その別離の悲しみを縁に、仏道を求められ、

29歳の時に、絶対の幸福に救い摂られました。

喪失の淵に悲しみ、途方に暮れる人も、

その涙の一滴一滴が、感謝の涙に変わる時が来る。

だから、くじけず生き抜いて、

絶対の幸福を教えた仏教を聞き求めましょうと、

温かいエールを送っているのが、

「いろは歌」に込められた仏教精神なのです。

 

 

まとめ


●「いろは歌」には、

「諸行無常」の現実と、

生きている時に、

「絶対の幸福」になれる

「平生業成」の教え

示されています。

 

●諸行無常が仏教で説かれるのは、

いたずらに暗く沈ませるためではなく、

真の幸福に導くためですから、

「無常を観ずるは菩提心の一なり」

と教えられます。

 

幸せであればあるだけ、

喪失の悲しみ、怒りが大きくなってしまうのが、

私たちの求めている幸せです。

 

●大事なものを失って悲嘆に

暮れることがあっても、

それを縁に仏教を聞けば、

絶対の幸福に救われ、

流した涙の一滴一滴が、

喜びと感謝の涙に変わります。


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いつ何が起きるか分からないこの世で永遠に変わらない幸せになれる! [無常]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    いつ何が起きるか

     分からないこの世で

    永遠に変わらない

     幸せになれる

 

            『歎異抄』に込められた

              渾身のメッセージ

 

はかない無常の幸せばかりの中で、

色あせることなき「常住不変の幸せ」(変わらない幸せ)を説き明かされた

仏教の言葉を前々回の記事

「『いろは歌』に隠された絶対の幸福への道」で

お話ししました。

普段、私たちが見ようとしない諸行無常の現実を、

たじろがずに直視し、その無常の世に絶対の幸福があることを、

高らかに宣言されたのが、お釈迦さまです。

 

先月の『歎異抄』特集には多くの反響が寄せられました。

『歎異抄』が、時代を超えて、多くの日本人の心を打つ理由は

幾つもありますが、一つには、現実から決して逃げない、

仏教のたくましい精神が根底に流れているからではないでしょうか。

『歎異抄』の言の葉には、「真実のにおいがする」と

作家・司馬遼太郎は述べています。

都合の悪いことは、目を背けたり、美化するのが世の常、

しかし『歎異抄』にはそんなごまかしが一切ないことを

感じ取ったのでしょう。

太平洋戦争の末期、学徒出陣の号令で、

戦地に赴いた多くの青年が、『歎異抄』を肌身離さず

読みふけったといわれます。

死と隣り合わせの戦場で、塹壕に息を潜め、生の意味を

問う若者には、どんな美辞麗句も魂の支えにはならなかった。

彼らが求めたのは、生死の不安を乗り越える

真実の言葉だったに違いありません。

 

『歎異抄』の渾身のメッセージに耳を傾けてみましょう。

 

火宅無常の世界は、万(よろず)のこと皆もって

そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、

ただ念仏のみぞまことにておわします

            (『歎異抄』後序)

 

●「火宅無常の世界」って何?

 

火宅無常の世界とは、私たちが生きている、この世のこと。

「この世の全ては、そらごとであり、たわごとであり、

まことは一つもない」

という親鸞聖人の断定に、まず驚かされます。

政治・経済・科学・医学、毎日ニュースで取り上げられ、

新聞やネットで論じられていること、

朝から晩まで私たちが幸せ求めて

必死に取り組んでいることを、

「そらごと」「たわごと」「まことがない」なんて、

とんでもない!

反社会的、反道徳的な暴言だと憤慨する人もあるでしょう。

人間のあらゆる営みを否定するような、

衝撃的なこの発言は、何を意味しているのでしょうか。

 

なぜこの世を、「火宅無常の世界」と親鸞聖人は仰ったのか。

「『いろは歌』に隠された絶対の幸福への道」でも詳説した、

「どんな幸せも続かない」という、

「諸行無常」の仏説(釈迦の教え)を、

親鸞聖人は、「火宅無常の世界」と言われているのです。

「火宅」とは、ひさしに火のついた家。

そんな家に住まいをしていたら、何をしていても、

心からの安心満足はない。

「一刻も早く、消し止めなければ」と、

いても立ってもいられない心になります。

家が全焼した人だけが苦しむのではありません。

今は燃えていなくても、これから燃え落ちることが

ハッキリしているから、不安に襲われるのです。

同じように、病気で苦しんでいる人、災害に泣いている人、

伴侶に死別して悲嘆の人、そんな「無常」がわが身に

襲いかかってきてから、苦しむのではありません。

今は縁がないだけで、やがて、必ず無常に直面することは、

すべての人の避けられない運命なのです。

 

それは臨終になればすべての人が直面する大事なのだと、

天下人・秀吉も、こう詠んでいます。

おごらざる者も また久しからず

露とおち 露と消えにし 我が身かな

難波のことも 夢のまた夢

 

彼の辞世には、太閤の威厳はみじんも見られません。

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散る桜 残る桜も 散る桜

 

戦場に赴いた兵士が口ずさんだ句です。

過酷な運命に直面して、先に死ぬか、後で死ぬか、

咲いた花なら散るのが定め。俺は皆より少し早く散るだけだ、

と自らを納得させようとしたのでしょうか。

 

「笑う人 後から転ぶ 雪の道」

 

テレビや新聞で報道される、想定外の喪失に直面した人だけが、

悲しみに沈むのではありません。

見ている人も、やがて必ずぶち当たる、幸せ崩壊の現実です。

持てる者も、持たざる者も、賢愚美醜を問わず、

人間すべてに平等にやってくるのが、

「諸行無常」の真実なのです。

 

●満開の桜が、どうして喜べないの

 

私たちは、このことにうすうす気づいていますから、

幸せのまっただ中にあってでも、

それを心から楽しめないのではないでしょうか。

 

若かったあの頃 何も怖くなかった

ただ貴方のやさしさが 怖かった」(神田川)

 

何も怖くない、好きな人と一緒にいる絶頂の幸せに感じる怖さ。

愛する夫に抱かれて、「私、怖いくらい幸せよ」と

新妻がささやく。

 

人は、山の頂に登ることはできても、

そこに長く住むことはできないことを予感しているのでしょう。

「この世のどんな幸せも続かない。やがて消えてしまうのだよ」

と仰ったのが、

「火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・

真実あることなし」

のお言葉なのです。

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では、どうしたらこの不安を解決して、

絶対の幸福になれるのか。

親鸞聖人が、その道を示されたのが、次のお言葉です。

 

●「ただ念仏のみぞまこと」って、ホント?

 

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

『歎異抄』を読むと、まず目にするのが、

頻出する「念仏」の2文字。

念仏とは、「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」と

口に称えることだろう。

そんな念仏を称えることが「まこと」とはどういうことだろうか?

と分からなくなります。

この念仏の意味こそが、

『歎異抄』理解のカギといっていいでしょう。

 

親鸞聖人がここで、「念仏のみぞまこと」と言われているのは、

「本願のみぞまこと」を、言い換えられた言葉です。

本願とは、釈迦が生涯懸けて、これ一つ明らかにされた

「阿弥陀仏の本願」のことですから、

その本願が分からなければ、『歎異抄』は正しく読めません。

阿弥陀仏の本願とは、何でしょうか?

阿弥陀仏とは、釈迦の師であり、

大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします仏方の

「本師本仏」(先生・指導者)だと、

お釈迦さま自身が経典に説かれています。

「本願」とは、誓願ともいい、「誓い」「約束」のこと。

阿弥陀仏が、すべての人を相手に、

「必ず、絶対の幸福に救い摂る」と誓われたお約束を、

「阿弥陀仏の本願」といわれるのです。

 

では、阿弥陀仏が救うと誓われた「絶対の幸福」とは

どんな幸せなのでしょうか。

 

阿弥陀仏のお心は、弟子であるお釈迦さまに

お尋ねするしかありません。

釈迦が、師である阿弥陀仏の本願(御心)を解説されたお言葉が、

本願成就文」といわれるものです。

このお釈迦さまの解説によらなければ、

私たちは「本願」を正しく知ることができず、

救われませんから、親鸞聖人は、この本願成就文を、

「一実円満の真教・真宗これなり」(『教行信証』信巻)

と断言されています。

大宇宙に2つとない、唯一の真実(一実)であり、

完全無欠の教え(円満)であり、真実の教えであり、

浄土真宗はこれ以外にない、とまで断言されている、

最も重要な釈迦の教えなのです。

 

その本願成就文には、弥陀の本願の救いを

即得往生 住不退転」と解説されています。

この「不退転に住する」幸せこそが絶対の幸福なのです。

 

●不退転とは、絶対に崩れない幸せ

 

政治家などが、よく「不退転の決意で取り組みます」

と使うように「退くことがない、何事にも屈せぬさま」

を表す言葉になっていますが、

「不退転」は釈迦の本願成就文から出た、

絶対の幸福を表す仏語と知る方は少ないでしょう。

この「不退転」とは、「正定聚(しょうじょうじゅ)不退転」

のことで、

「正しく浄土へ往って、仏になることに定まった人たち(聚)」

の仲間入りをしたことです。

それは、決して崩れない絶対の幸せですから、

「不退転」と言われるのです。

 

蓮如上人は有名な『御文章』に、

その世界を「往生一定」とか「往生治定(おうじょうじじょう)」

と教えられています。

「往生」とは、「立ち往生」とか「にわか雨に遭って往生した」

などと言われるように「死んだこと」や「困ったこと」を

世間では言いますが、仏教本来の意味は、

浄土へ「往って」、仏に「生まれる」こと。

「一定」「治定」とは、「疑いなくハッキリしたこと」ですから、

「往生一定」とは、「いつ死んでも浄土往生間違いなし」と

ハッキリした大安心大満足の世界をいうのです。

今幸せでも、未来、苦しみに転落するかも、

となれば、不安から逃れることはできません。

しかし、お釈迦さまが教えられた「不退転」の世界とは、

この世は絶対の幸福、来世は浄土往生という、

この世から未来永遠の幸せに生かされた世界なのです。

 

幸せの絶頂から、やがて転がり落ちる「有頂天」では、

「いつどうなるか分からない」不安が、足下から、

背後から迫ってきて、心から安心できません。

一切の滅びる中に、滅びざる「まこと」の世界が、

本願に誓われた「不退転」の世界です。

 

『歎異抄』は、「火宅無常」の不安におののく私たちが、

渇望してやまない幸せは、「ただ念仏のみぞまこと」の

世界であることを伝えんとした書だったのです。

 

では、どうしたら、その世界に出させていただけるのでしょうか。

親鸞聖人が、唯一の真実の教えを仰った、

釈迦の「本願成就文」には、「聞其名号」と教えられ、

「聞く一つ」で、不退転の身・絶対の幸福に救われると

明言されています。

この釈迦の教えに基づいて、親鸞聖人も蓮如上人も、

仏法は聴聞に極まる」と説かれているのです。

 

「えーっ、ただ聞いているだけでいいの?」と

思った方もあるかもしれませんが、「真剣に」聞きなさいよと

教えられた親鸞聖人のお言葉を、最後にお示ししましょう。

 

たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり

                (浄土和讃)

たとい、大宇宙が火の海になろうとも、

そのなか仏法を聞き抜く人は、

必ず不滅の幸せ(不退)に輝くのだ

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