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いつ何が起きるか分からないこの世で永遠に変わらない幸せになれる! [無常]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    いつ何が起きるか

     分からないこの世で

    永遠に変わらない

     幸せになれる

 

            『歎異抄』に込められた

              渾身のメッセージ

 

はかない無常の幸せばかりの中で、

色あせることなき「常住不変の幸せ」(変わらない幸せ)を説き明かされた

仏教の言葉を前々回の記事

「『いろは歌』に隠された絶対の幸福への道」で

お話ししました。

普段、私たちが見ようとしない諸行無常の現実を、

たじろがずに直視し、その無常の世に絶対の幸福があることを、

高らかに宣言されたのが、お釈迦さまです。

 

先月の『歎異抄』特集には多くの反響が寄せられました。

『歎異抄』が、時代を超えて、多くの日本人の心を打つ理由は

幾つもありますが、一つには、現実から決して逃げない、

仏教のたくましい精神が根底に流れているからではないでしょうか。

『歎異抄』の言の葉には、「真実のにおいがする」と

作家・司馬遼太郎は述べています。

都合の悪いことは、目を背けたり、美化するのが世の常、

しかし『歎異抄』にはそんなごまかしが一切ないことを

感じ取ったのでしょう。

太平洋戦争の末期、学徒出陣の号令で、

戦地に赴いた多くの青年が、『歎異抄』を肌身離さず

読みふけったといわれます。

死と隣り合わせの戦場で、塹壕に息を潜め、生の意味を

問う若者には、どんな美辞麗句も魂の支えにはならなかった。

彼らが求めたのは、生死の不安を乗り越える

真実の言葉だったに違いありません。

 

『歎異抄』の渾身のメッセージに耳を傾けてみましょう。

 

火宅無常の世界は、万(よろず)のこと皆もって

そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、

ただ念仏のみぞまことにておわします

            (『歎異抄』後序)

 

●「火宅無常の世界」って何?

 

火宅無常の世界とは、私たちが生きている、この世のこと。

「この世の全ては、そらごとであり、たわごとであり、

まことは一つもない」

という親鸞聖人の断定に、まず驚かされます。

政治・経済・科学・医学、毎日ニュースで取り上げられ、

新聞やネットで論じられていること、

朝から晩まで私たちが幸せ求めて

必死に取り組んでいることを、

「そらごと」「たわごと」「まことがない」なんて、

とんでもない!

反社会的、反道徳的な暴言だと憤慨する人もあるでしょう。

人間のあらゆる営みを否定するような、

衝撃的なこの発言は、何を意味しているのでしょうか。

 

なぜこの世を、「火宅無常の世界」と親鸞聖人は仰ったのか。

「『いろは歌』に隠された絶対の幸福への道」でも詳説した、

「どんな幸せも続かない」という、

「諸行無常」の仏説(釈迦の教え)を、

親鸞聖人は、「火宅無常の世界」と言われているのです。

「火宅」とは、ひさしに火のついた家。

そんな家に住まいをしていたら、何をしていても、

心からの安心満足はない。

「一刻も早く、消し止めなければ」と、

いても立ってもいられない心になります。

家が全焼した人だけが苦しむのではありません。

今は燃えていなくても、これから燃え落ちることが

ハッキリしているから、不安に襲われるのです。

同じように、病気で苦しんでいる人、災害に泣いている人、

伴侶に死別して悲嘆の人、そんな「無常」がわが身に

襲いかかってきてから、苦しむのではありません。

今は縁がないだけで、やがて、必ず無常に直面することは、

すべての人の避けられない運命なのです。

 

それは臨終になればすべての人が直面する大事なのだと、

天下人・秀吉も、こう詠んでいます。

おごらざる者も また久しからず

露とおち 露と消えにし 我が身かな

難波のことも 夢のまた夢

 

彼の辞世には、太閤の威厳はみじんも見られません。

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散る桜 残る桜も 散る桜

 

戦場に赴いた兵士が口ずさんだ句です。

過酷な運命に直面して、先に死ぬか、後で死ぬか、

咲いた花なら散るのが定め。俺は皆より少し早く散るだけだ、

と自らを納得させようとしたのでしょうか。

 

「笑う人 後から転ぶ 雪の道」

 

テレビや新聞で報道される、想定外の喪失に直面した人だけが、

悲しみに沈むのではありません。

見ている人も、やがて必ずぶち当たる、幸せ崩壊の現実です。

持てる者も、持たざる者も、賢愚美醜を問わず、

人間すべてに平等にやってくるのが、

「諸行無常」の真実なのです。

 

●満開の桜が、どうして喜べないの

 

私たちは、このことにうすうす気づいていますから、

幸せのまっただ中にあってでも、

それを心から楽しめないのではないでしょうか。

 

若かったあの頃 何も怖くなかった

ただ貴方のやさしさが 怖かった」(神田川)

 

何も怖くない、好きな人と一緒にいる絶頂の幸せに感じる怖さ。

愛する夫に抱かれて、「私、怖いくらい幸せよ」と

新妻がささやく。

 

人は、山の頂に登ることはできても、

そこに長く住むことはできないことを予感しているのでしょう。

「この世のどんな幸せも続かない。やがて消えてしまうのだよ」

と仰ったのが、

「火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・

真実あることなし」

のお言葉なのです。

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では、どうしたらこの不安を解決して、

絶対の幸福になれるのか。

親鸞聖人が、その道を示されたのが、次のお言葉です。

 

●「ただ念仏のみぞまこと」って、ホント?

 

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

『歎異抄』を読むと、まず目にするのが、

頻出する「念仏」の2文字。

念仏とは、「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」と

口に称えることだろう。

そんな念仏を称えることが「まこと」とはどういうことだろうか?

と分からなくなります。

この念仏の意味こそが、

『歎異抄』理解のカギといっていいでしょう。

 

親鸞聖人がここで、「念仏のみぞまこと」と言われているのは、

「本願のみぞまこと」を、言い換えられた言葉です。

本願とは、釈迦が生涯懸けて、これ一つ明らかにされた

「阿弥陀仏の本願」のことですから、

その本願が分からなければ、『歎異抄』は正しく読めません。

阿弥陀仏の本願とは、何でしょうか?

阿弥陀仏とは、釈迦の師であり、

大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします仏方の

「本師本仏」(先生・指導者)だと、

お釈迦さま自身が経典に説かれています。

「本願」とは、誓願ともいい、「誓い」「約束」のこと。

阿弥陀仏が、すべての人を相手に、

「必ず、絶対の幸福に救い摂る」と誓われたお約束を、

「阿弥陀仏の本願」といわれるのです。

 

では、阿弥陀仏が救うと誓われた「絶対の幸福」とは

どんな幸せなのでしょうか。

 

阿弥陀仏のお心は、弟子であるお釈迦さまに

お尋ねするしかありません。

釈迦が、師である阿弥陀仏の本願(御心)を解説されたお言葉が、

本願成就文」といわれるものです。

このお釈迦さまの解説によらなければ、

私たちは「本願」を正しく知ることができず、

救われませんから、親鸞聖人は、この本願成就文を、

「一実円満の真教・真宗これなり」(『教行信証』信巻)

と断言されています。

大宇宙に2つとない、唯一の真実(一実)であり、

完全無欠の教え(円満)であり、真実の教えであり、

浄土真宗はこれ以外にない、とまで断言されている、

最も重要な釈迦の教えなのです。

 

その本願成就文には、弥陀の本願の救いを

即得往生 住不退転」と解説されています。

この「不退転に住する」幸せこそが絶対の幸福なのです。

 

●不退転とは、絶対に崩れない幸せ

 

政治家などが、よく「不退転の決意で取り組みます」

と使うように「退くことがない、何事にも屈せぬさま」

を表す言葉になっていますが、

「不退転」は釈迦の本願成就文から出た、

絶対の幸福を表す仏語と知る方は少ないでしょう。

この「不退転」とは、「正定聚(しょうじょうじゅ)不退転」

のことで、

「正しく浄土へ往って、仏になることに定まった人たち(聚)」

の仲間入りをしたことです。

それは、決して崩れない絶対の幸せですから、

「不退転」と言われるのです。

 

蓮如上人は有名な『御文章』に、

その世界を「往生一定」とか「往生治定(おうじょうじじょう)」

と教えられています。

「往生」とは、「立ち往生」とか「にわか雨に遭って往生した」

などと言われるように「死んだこと」や「困ったこと」を

世間では言いますが、仏教本来の意味は、

浄土へ「往って」、仏に「生まれる」こと。

「一定」「治定」とは、「疑いなくハッキリしたこと」ですから、

「往生一定」とは、「いつ死んでも浄土往生間違いなし」と

ハッキリした大安心大満足の世界をいうのです。

今幸せでも、未来、苦しみに転落するかも、

となれば、不安から逃れることはできません。

しかし、お釈迦さまが教えられた「不退転」の世界とは、

この世は絶対の幸福、来世は浄土往生という、

この世から未来永遠の幸せに生かされた世界なのです。

 

幸せの絶頂から、やがて転がり落ちる「有頂天」では、

「いつどうなるか分からない」不安が、足下から、

背後から迫ってきて、心から安心できません。

一切の滅びる中に、滅びざる「まこと」の世界が、

本願に誓われた「不退転」の世界です。

 

『歎異抄』は、「火宅無常」の不安におののく私たちが、

渇望してやまない幸せは、「ただ念仏のみぞまこと」の

世界であることを伝えんとした書だったのです。

 

では、どうしたら、その世界に出させていただけるのでしょうか。

親鸞聖人が、唯一の真実の教えを仰った、

釈迦の「本願成就文」には、「聞其名号」と教えられ、

「聞く一つ」で、不退転の身・絶対の幸福に救われると

明言されています。

この釈迦の教えに基づいて、親鸞聖人も蓮如上人も、

仏法は聴聞に極まる」と説かれているのです。

 

「えーっ、ただ聞いているだけでいいの?」と

思った方もあるかもしれませんが、「真剣に」聞きなさいよと

教えられた親鸞聖人のお言葉を、最後にお示ししましょう。

 

たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり

                (浄土和讃)

たとい、大宇宙が火の海になろうとも、

そのなか仏法を聞き抜く人は、

必ず不滅の幸せ(不退)に輝くのだ

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