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まず毒矢を抜け [ブッダと仏弟子の物語]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

         まず毒矢を抜け

 

その修行者が仏陀の元に来た時のことを、

阿難はよく覚えている。

目を険しくいからせた男は、真摯に求道の指針を仰ぐ弟子たちとは

雰囲気が違う。

無為な議論のために来たことが、誰の目にも明らかだった。

こんなことは今までもよくあったが、

釈尊(お釈迦さま)はいつも同じ姿勢を貫かれる。

かつて大樹の陰で瞑想されていた時、

近づいてきた男が、

「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、

葉の数を知っておられるか」

と問うたことがある。しずかに世尊は言い放たれた。

「知りたければ、そなた、数えてみよ」

戯論(けろん)に応ずることも、また戯論である。

本質と無関係な議論に、釈尊は一刻たりとも使われない。

生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからだ。

一方、相手の多くは腹を立て、悪口雑言を並べて去っていく。

仏の威徳に打たれ、恭順する者もあるが、

〝彼はどうだろう〟。阿難は冷静に見守った。

「世尊は私の知りたいことを少しも教えてくださいませんね。

満足のいくお答えが頂けないなら、私は出家をやめたいと

思っています」

入ってくるなり弟子は言った。

知りたいこととは、「宇宙に果てはあるのか」

「世界はいつまで続くのか」などの問いであった。

〝それを知るのがさとりへの第一歩だ〟とばかりに、

彼は胸を張る。

世尊は彼に問うた。

「そのようなことを教えるから、わが元で修行せよと、

そなたに約束しただろうか?」

〝いえ、そうでは・・・〟。

修行者は小声であわてて否定する。

「もし仏がその問題について説かないうちに、

そなたが命終えたらどうなる?」

仏陀の問いに、弟子の勢いは次第に萎えていく。

続けて釈尊は、例えで修行者を諭された。

「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。

一刻も早く抜かなければ命が危ない。

友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』

と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。

男か、女か。その者の名前は。何のために矢は射たのか。

矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、

この矢を抜いてはならん』と言い張った。

やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」

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阿難は修行者の様子を窺った。

男の愚かしさが自己に引き当てられたのか、

身じろぎもせずに、彼は聴き入っている。

阿難はその仏縁をただ念じた。

世尊のお言葉は続く。

無常は迅速である。今、こうしている間にも、老いや病、

そして死の苦しみが現実にあるではないか。

われはこの苦悩の根本原因と、その解決の道を説いているのだ。

人生の大事は何か。よくよく知らねばならない

仏教の深遠さに触れ、己が誤りを知らされたものか、

修行者の表情から、先ほどの怒気が消えていた。

穏やかなその顔を見て、阿難もようやく安堵する。

そして静かに長く、息を吐いた。


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