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『正信偈』講話⑧ [正信偈]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。
 

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源信広開一代経  源信広く一代の教を開きて、

偏帰安養歓一切  偏に安養に帰して一切を勧む。

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平安時代の高僧、源信僧都は、大和国(奈良県)の生まれ。

七歳にして父君を失うという無常に遭われたが、

遺言は、「我が亡き後は出家し、立派な僧となってもらいたい」

というものであった。

まもなく仏縁が結ばれた。

源信の村に托鉢僧が回って来たのである。

 

●十三歳で出家

 

その僧が川辺で食事をとり、川水で弁当箱を洗い始めたとき、

近くで遊んでいた子供が来て、

「お坊さん、そんな汚い水で洗っても、きれいにならないよ」

と、忠告した。

子供が生意気な、と思ったが、怒るのも大人げないと思った僧、

「坊や、仏教では浄穢不二(じょうえふに)といい、

きれい、きたないなどと言うのは、迷いじゃ」

と諭そうとした。ところが、

「浄穢不二なら、なぜ弁当箱洗うの」

との即妙な切り返しに、僧は、相手が並の子供でないと知った。

そこで母親を訪ね、子供の出家を懇請した。

かくして源信は、比叡山に登り、天台僧良源(慈慧ともいう)に

師事して十三歳で出家、源信の名を与えられたのである。

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●母の撤骨の慈愛

 

才智抜群の源信は、日夜の修行により、十五歳にして、

村上天皇に説法を招請された。

少しも臆せず、『阿弥陀経』の意訳『称讃浄土教』を

講じ終わられたとき、天皇の感嘆のあまり、「僧都」の位を贈り、

七重の御衣等の宝物を与えるほどであった。

源信の成功に比叡山も沸きに沸き、いつしか源信自身も

有頂天になっていた。

一部始終を手紙に認(したた)め、天皇よりの褒美とともに

郷里の母君に送ったところ、返信は衝撃的であった。

母君は悲しみを歌に託している。

   後の世を

  渡す橋とぞ思いしに

     世渡る僧と

  なるぞ悲しき

「そなたには、みなさんを浄土へ橋渡しするまことの僧に

なってほしいと願っていたのに、名声や地位を喜びとする

世渡る僧になってしまったことが、限りなく悲しい」

 IMG_20240205_0007.jpg-1.jpg

源信は、撤骨の慈愛ともいうべき、母君の戒めに翻然と感じ、

以後、ひたすら後生の一大事の解決に取り組まれ、

一切経を読破されること五回に及んだと言われる。

ついに四十歳を過ぎられたこと、阿弥陀仏の本願に巡り遇って

救われ、ただちに郷里にもどり、臨終の母君にも真実を伝えられた。

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●浄土仏教の夜明け

 

やがて『往生要集』六巻を著され、ここに、日本浄土仏教の

夜明けが到来したのである。

 

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極重悪人唯称仏  極重の悪人は唯仏を称すべし

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『正信偈』のこの一行は親鸞聖人が、私たちが阿弥陀仏に

救われるのはどのような時かを教えられたものである。

 

●法鏡に映る自己

 

自己が極重悪人だと本心から知らされたときが

阿弥陀仏の救いにあずかるときである。

仏教はすべての人間は極重悪人だと教える。

仏教を知らない者はみな自分は善人だと自惚れている。

しかし、真実の仏教という鏡の前に立つならば、

鏡に近づけば近づくほど、自己の醜い姿が分かるように、

自己の罪悪がハッキリと知らされる。

自己の罪悪が知らされれば知らされるほど

求道は真剣になってくる。

さらに求めてゆくと、善導大師が三定死といわれたギリギリの

境地に立たされる。

 

●地獄一定の極重悪人

 

最後に、

「娑婆中の人が助かっても我が身一人は絶対助からん、

自分の本心は金輪際仏法を聞かないものであった」

と知らされる。

それが、本当に自己の姿が極重の悪人だと知らされた時である。

親鸞聖人はその体験を、

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

と、告白された。

そのとき、地獄に堕つる。

地獄の釜の底で、

「そのまま助けるぞ」

という阿弥陀仏のジカの呼び声が本心に届き、

往生一定の大安心・大満足の身に救い摂られるのである。

信心決定するのである。

その身になった人はただ念仏を称えよ、と教えられたのが、

極重の悪人は唯仏(ただぶつ)を称すべし」である。

その念仏は、信心決定した者がご恩報謝の心で称える

他力の念仏である。

仏教で極重悪人とは、自己の本心は金輪際仏法を

聞かないものであった、と知らされた人であり、

善人とは、自己が極重悪人であることを知らず、

真剣に求めれば必ず助かると自惚れている人のことである。

 

●口先だけの極重悪人

 

ところが真宗の道俗の中には、この極重悪人の真意を知らず、

この一行を根拠として、

「自分のような悪人でも唯念仏さえ称えれば助かる」

と、主張する者がいる。

これは大変な誤りである。

彼らの誤りの原因は何か。

ある家に泥棒が入った。

その泥棒を柔道何段というその家の主人が

たちまち捕らえて、頭をボカボカッとなぐった。

すると開きなおった泥棒、盗んだ品物を全部かえして、

「確かに盗んだのは悪かった。

しかし、こうやってすべて盗んだ物を返したから、

さっきなぐられた分はこちらから返させてもらうぞ」

と言ったという。

悪かった、と言っても口先だけで、

この泥棒には心からの懺悔はない。

「自分のような悪人でも念仏さえ称えれば助かる」

と言っている真宗の道俗は、この泥棒のように、

口先だけで極重悪人と言っているので、

心の底は善人だと自惚れているのだ。

ある嫁が、

「お母さんかと思ったらお母さんだったの」

と奇妙なことを言った。

姑が、

「留守番たのむよ」

と言って外出したので、さっそく鬼のいぬ間の洗濯、

と押し入れから布団を取り出して昼寝しようとした。

すると、玄関で戸の音がした。

「しまった、お母さんが戻ってきた」

と思った嫁が、

「見つかったら大変」

と思ってあわてて布団を押し入れにしまった。

ところが、押し入れに顔を突っ込んで尻だけ出している所へ、

「花子、何しているの」

と声がした。万事休す!

振り返ってみると、里の実の母が訪ねてきたのだった。

「なんだ、お母さんかと思ったらお母さんだったの」

と言った。

義理のお母さんかと思ったら、本当のお母さんだったのである。

信前の者がいう「極重悪人」と信後の人の「極重悪人」とは

言葉は同じでも、その心に天地の差があるのである。

 

●真実の仏法に近づけ

 

本心から極重の悪人だと知らされた者でなければ、

いくら念仏を称えても助からないのである。

真実の自己の姿が分かるまで真剣に仏法を聴聞しなければならない。

 

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還来生死輪転家 生死輪転の家に還来することは、

決以疑情為所止 決するに疑情を以て所止と為す

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これは『正信偈』の終わりの一節である。

 

●生死とは苦悩

 

まず、「生死」とは、仏教では苦しみ悩みのことをいう。

死は、人間にとって最大の悲劇であり、

苦悩の最たるものだからである。

輪転」は、輪廻とも仏教でいい、

車の輪がクルクルと果てしなくまわるようにキリがない、

際限のないことをいう。

」というのは、私たちが朝出て必ず帰ってくるところで、

橋の下の乞食といえども橋を家としているから、

人間にとって離れ切ることのできないものが家である。

還来することは」とは、必ず還ってくる、の意である。

 

●人生は苦海

 

釈尊は、

「人生は苦なり」

と叫ばれ、あの徳川家康も、

「人に一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」

と述懐し、『放浪記』を書いた林芙美子さんも、

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

とうたい、人生は苦海であると人間の実相を教えている。

生死輪転の家に還来する」とは、

ちょうど私たち人間が家から離れ切ることができないように、

苦しみ悩みから解放されず、果てしなく苦悩を

受け続けているのはなぜなのかということである。

科学や芸術に力を注ぐのも、全人類が苦悩と闘い、

本当の満足を得ようとしている姿である。

科学は異常な発達を遂げたが、自殺者は年々増加し、

苦悩の根源は依然として明らかにされてはいない。

 IMG_20240205_0005.jpg-1.jpg

●苦悩の根源

 

ところが、親鸞聖人はこの『正信偈』の一節で

ズバリ全人類の苦悩の根源を明らかにしておられるのである。

「決するに」とは、2つも3つもない、

これひとつとの意味である。

所止を為す」とは、止まっているのはということであるから、

苦悩から離れ切れず、本当の幸福が得られないのは

疑情ひとつが邪魔をしているからなのだと

教えられておられるのである。

それでは親鸞聖人が全人類の苦悩の根源だと教えられた

疑情とは何か。

疑情とは阿弥陀如来の本願を疑う心である。

阿弥陀如来の本願、お約束は、

「すべての人々を必ず絶対の幸福に助ける」

という誓いだが絶対の幸福とは今死ぬといっても

変わらない幸福をいう。

全人類が、このお約束を聞くと

必ず疑いの心がおきてくるのである。

なぜなら、我々は、絶対の幸福にいまだかつて、

なったこともないし、死が来ても壊れない幸福など、

とても信じられないからである。

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●一念で晴れる疑情

 

だからこの誓いを聞くと、

「本当に助かるのだろうか」

「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」

「私だけ除かれているのではなかろうか」

「ああは仰有れど」

「どうもスッキリしない」

という心となってあらわれてくる。

これが疑情である。

この疑いの心は、阿弥陀如来に救われると

きれいになくなるものであり、

ツユチリ程の疑いもなくなってしまうのである。

苦悩の根源である弥陀の本願を疑う心が、

あっという一念で晴れわたった時に絶対の幸福になれるのである。

その喜びを親鸞聖人は、

弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば

ひとえに親鸞一人がためなり

とか、

心は浄土に遊ぶなり

と告白しておられるのである。

私たちは疑い晴れるまで聞かなければならないのである。


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速入寂静無為楽  「速に寂静無為の楽に入ることは、
必以信心為能入  必ず信心を以て能入と為す」といえり。
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寂静無為の楽(みやこ)」とは阿弥陀仏の浄土、
速入」とは、速かに入ることである。
必ず信心を以て能入と為す」とは、
必ず信心が必要であり、その信心を阿弥陀仏から
獲得した人だけが能(よ)く入ることができるのだ、
との意味である。
ゆえに親鸞聖人は、我々が阿弥陀仏の浄土に速かに
往生するためには、必ず信心獲得しなければならない、
と教えておられるのである。
 
●真宗同行の誤り
 
よく浄土真宗の同行の中に、
「阿弥陀仏は大慈悲心を持たれた仏だから、
私たちが何もしなくても地獄へ堕とされるようなことはない。
この身、このまま、無条件でみな極楽に救い摂ってくださる」
と言う者がいる。
そして、念仏を称えて、寺参りをしておれば猫も杓子も
死んだら極楽、死んだら仏、と思っているのである。
世間の人々が「仏」を死人の代名詞のように使っているのは、
浄土真宗の道俗のそのような間違いに起因するのであろう。
ただで、無条件で救われるというのは大変な間違いである。
親鸞聖人は、
「必ず信心を必要とする」
と仰有っておられるのだ。
他力の信心を獲得しない限り、阿弥陀仏の浄土へ
往生することはできない。
列車なら切符なしで乗り込んでしまう客もいる。
いわゆる「ただ乗り」である。
だが、浄土へはそれはできないのだ。
必ず信心を以て能入と為す
と教えられた方が親鸞聖人である。


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