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死後も存続する、我々の本当の心は阿頼耶識である。(八識とは!?) [阿頼耶識(我々の本当の心)]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 


いつからか人生に「旬」という言葉を使うようになり、
人気や実力が充実し、注目されている人物を「旬の人」と言っています。
この一語に美や強さ、瑞々しさや明るさなど、
陽性で前向きなメッセージが込められているからでしょう。
ただそれは一過性で、長く保つのは至難のこと。
人気ミュージシャンの椎名林檎さんは、
以前に発表した『旬』という曲で、
次のように歌っています。

「生きているうちはずっと旬だと
そう裏付けて
充たして いまを
感じて覚えて何時もより
生きて、生きて、活きて居よう」

いい時期はすぐに過ぎ去ってしまう。
その上で「生きているうちはずっと旬でいたい」
と歌っているのでしょう。


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画面に映る女性はどうしても20代にしか見えないが、
実際の年齢は50歳近く。
近ごろテレビでよく目にする光景です。
年齢と外見にギャップのある、そんな人々を集めて紹介し、
人気を集めている番組があります。
年齢に抗(あらが)って若さを保とうとする
「アンチ・エイジング」の考えから、
健康や美容に懸命に努めているようです。

20歳も若く見せるのは難しいが“少しでも”と、
筋力トレーニングやウォーキング、肌や毛髪のケアに気を配る人も
多いはず。
肉体の若さは美しさ、強さに通じる。
それを「旬」と認識し、少しでも長引かせる努力をしているのでしょう。
華やかな世界で活躍するタレントや芸能人、スポーツ選手に限らず、
家庭では妻や夫、子や父母をいたわり、
大変だがやりがいのある仕事に精を出しながら、
少しでも明るく、笑って暮らせれば、と夢や希望を胸に抱いている姿を
「旬」だと思う人もあるでしょう。



●仏教で教えるいろいろの「心」

いずれの営みも、心の喜びを求めてのことですが、
一口に心といっても、いろいろあると、
仏教では「八識」が教えられています。

それは次の八つです。


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このうち前の5つを前五識といい、私たちは毎日、
これらを気持ちよく満たそうとしています。

例えば、絶景や美しい絵画、かわいい子供や動物を見て
眼識」を楽しませ、
川のせせらぎや鳥の鳴き声、美しい調べを好んで「耳識」を養っています。
テレビや新聞などから耳目に飛び込んでくる日々のニュースは、
見たくも聞きたくもないことが多いので、
少しでもそれを和らげ、目や耳の保養に、と心地よいものを欲しています。
香をたいたり、香水を使って「鼻識」の快を求める。
そうして時々、おいしいものに舌鼓を打ち(舌識)、
肌触りのいい衣類や人肌のぬくもりを求めるのは「身識」でしょう。
このように五感を刺激し、日々、楽しませてくれるものを
私たちは追求しています。



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タグ:八識
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私とは、何ものか [阿頼耶識(我々の本当の心)]

私といっても肉体以外になく、死んで消滅すれば、
私も無くなると思っていましたが、
肉親を亡くした時、「無」になったとはとても思えませんでした。
一体、「私」とは何なのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答)
医学の進歩はめざましく、
さまざまな人工臓器の移植が実現されつつあります。
やがて心臓の患者は、障害のある心臓をあれこれ治療することは止めて、
新品の人工心臓に取りかえて元気になるでしょう。
胃腸の悪い人も、手足が動かなくなれば、
これまた新品の手足と取りかえます。
もちろん濁った血液は、清浄な血液と入れかえもできるといった具合に、
ちょうど機械の部品が故障すると、
新品に替えたり補強されたりするように、
私たちの肉体もなるかもしれません。
将来は、人体組織のすべてが交換自由になるでしょう。
さて、そのようになった場合、一体、
生来の私というものは、どうなるのか、
ということが問題になります。
肉体の全てが替わってしまった時でも、
私という根源的主体性というものには、
全然影響が及ばないのでしょうか。

●肉体は別人、
    でも私は私?

肉体は別人であっても、
意識は依然として私であるという面白いことがおきます。
肉体のすべてが変わっても、
私そのものは変わらないとすれば、
その私とは一体、何者でしょうか。
これは決して、これからの医学を仮定しての問題ではありません。
すでに、私たちの肉体は約六十兆の細胞からできていることは
周知のことです。
しかもその細胞は、絶えず新陳代謝して、
おおよそ7年間で全部入れ替わるといわれています。
されば、7年前の私と7年後の私とは物質的に全く別人ということです。
ですが、実際は別人の感じはなく、
やはり同一人であることに間違いないのです。
してみれば、7年前の自分と今の自分との間には、
物質以外に何か一貫して変わらないものがあると
思わなければなりません。
これを統一的主体といわれます。
「いくら年をとっても、気だけは若い感じがする」と、
年配者は言います。
統一的主体としての自己が、
肉体の老化とは関係なくあまり変わらないからでしょう。
これを仏教では、
永遠に亡びざる生命の流れである阿頼耶識と説かれています。

これが明らかにならなければ、
私が行方不明になります。
この永遠の生命の実相が説かれているのが仏法ですから、
本当の私と対面するところまで聞きましょう。


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人生その時その時、楽しめれば、それでいいのか!? [阿頼耶識(我々の本当の心)]

なぜ我々は、科学が進歩しても、物が豊かになっても、
幸せになれないのか書かれています。
 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●幸福は足し算できるか

人は皆、幸せを求めて生きています。
これに異論を唱える人はないでしょう。
しかも、いつか崩れる幸せではなく、
永遠に崩れない絶対の幸福こそ、
全ての人が求めている人生の目的だと、
仏教では教えられています。

こう聞くと、「そんな難しいこと考えなくても、
今、楽しいことをやればいい。
それがその時その時の、生きる目的。
そうやって楽しい時間を積み重ねていけば、
人生の幸福も最大になるはずだ」と言う人があります。

もしそのとおりなら、大変結構な話ですね。
果たして私たちの幸福感は、
都合よく足し算できるのでしょうか。

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●楽しみの実態を考えてみよう

私たちが「楽しい」と感じるのは、
どんな時か、ちょっと想像してみましょう。
例えば、ワールドカップ・サッカーを観戦する。
世界遺産を巡る旅に出る。
落語や音楽を聞く。
おいしい物を食べる。
真夏の夜飲むキンキンに冷えたビールがたまらない。
こういった「欲望を満たす気持ちよさ」は、
確かに強烈な幸福感ですが、
その快楽は何日続くでしょう。
すぐ消える宿命は、免れません。

心の仕組みを詳細に説く仏教では、
これらを一括して、「前五識」の楽しみと教えられます。

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●「前五識」の楽しみって何?
仏教で、私たちの心を八つに分けて教えたものを
「八識」といい、
そのうち初めの五つ「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識」
を前五識といわれます。

識とは心のことです。
眼識とは色や形を見分ける心。
スポーツ観戦や世界遺産巡りは、目の楽しみでしょう。
しかし「虹を15分も眺める人はない」の格言どおり、
美しい風景も見続ければ飽きます。
耳識は音を聞き分ける心。
落語や音楽は耳の楽しみですが、
同じものを聞き続けたらやはり飽きがきます。
鼻識は匂いをかぎ分ける心。
コーヒー工場の隣に住む人がこう言っていた。
「いい香りも毎日だと何とも思わなくなる」

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●快楽の行き着く先

舌識とは甘い、辛い、酸っぱいなど味を分ける心です。
どんな美味しい料理も、一ヶ月食べ続けたら
見たくなくなるに違いありません。
身識とは、寒い、暖かい、痛い、快いなどを感ずる心。
かゆい所をかく気持ちよさは格別ですが、
かゆみが消えてもなお、かき続けたら、
今度は痛みに変わるでしょう。
考えてみれば、私たちの味わう喜びの大半は、
この前五識の楽しみではないでしょうか。

肉体とともに滅ぶこれらの快楽を幾ら求めても、
足し算どころか、すぐ色あせ苦痛に変わる。

ところが仏教には、決して色あせることのない幸せが
教えられているのです。

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臨終には三段階ある [阿頼耶識(我々の本当の心)]

三位の臨終 

釈尊(釈迦)は我々に八つの心があると教えられた。
八識と言う。

眼識・・・眼の心
耳識・・・耳の心
鼻識・・・鼻の心
舌識・・・舌の心
身識・・・身の心。体が触れたものを判断する。
意識・・・思考、記憶などの心
末那識(まなしき)・・・悪の根源の心
阿頼耶識(あらやしき)・・・我々の本心。後生へ流転していく。

ここから、仏教では人間の臨終に3段階あると教えている
これを三位(さんみ)の臨終と言う。

第一段階は心明了位の臨終
    眼、耳、鼻、舌、身の心が死ぬ

第一段階を、心明了位の臨終と言う。
眼、耳、鼻、舌、身識、これら前五識が、
まず、死を迎える。
しかし意識はまだ生きている。

母親の臨終に例えれば、
「ハハキトク」の電報を受けた。
東京に嫁いでいる娘が、懸命に実家に駆けつけ、
枕元で、「おかあさん」と大声で呼ぶ。
だが心明了位の臨終にある母親は、
耳識(にしき)が臨終を迎えているから、
耳元で叫ぶ娘の声も、遠くで誰かがかすかに
叫んでいるようにしか聞こえない。
「誰の声だったかな、聞いた覚えのある声だが・・・」
と思うが、はっきりしないのだ。
眼識も臨終だからカーッと目を見開いても、
娘の顔はボーッとカスミがかかったようで
ハッキリしない。

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目が死ぬ、耳が死ぬ、鼻が、舌が、身が死んでゆく。
もう見ることも発声も、体も動かせない。
このように前五識がまず死んでいく。

第二段階は身体愛法位の臨終

次が、第二段階、身体愛法位の臨終である。
これは意識の臨終だ。

それまでハッキリしていた意識が死ぬときである。
この時、三つの執着により、苦しむ。
これを三愛という。
いろいろなものに対する執着心から、
大変な三つの苦しみが生ずる。

では、三愛とは。
1.境界愛
自分の愛し続けてきた、
妻子や家財等などに対する執着である。
それらと別れることは大変辛い。

蓮如上人は仰る。
「まことに死せんときは、
かねてたのみおきつる妻子も財宝も
我が身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、
ただ一人こそ、ゆきなんずれ。」
        (御文章一帖十一通)

人間、死に際しては、
それまで命がけに求めてきた財も宝も何一つ持っていけない。
守り続けた妻子も、唯一人、連れては行けない。
全く独生独死、独去独来、
独り死んでゆかねばならないのだ。

突然の火事で家屋や家財などを失えば、
悲嘆にくれるあろう。
しかし、土地はまだ残っている。
銀行に預金があり、家族も無事となれば、
再起も可能だ。
臨終は、それら一切を一時に失ってしまうのだ。
生木を引き裂かれる苦しみになるのは当然だ。

2.自体愛
自分の身体ともいよいよ別れていかなければならない
苦しみ。

3.当生愛
死後どうなるか分からず、
暗黒の世界に堕ちていく不安、
後生に対する恐れ。

身体愛法位の臨終では、これらの苦痛に攻められ、
七転八倒する思いなのだが、
心明了位の臨終が過ぎてしまっているから、
手足も動かず、声も出せない。
だから、外見から見れば、安らかな臨終に見える。
表面上、静かに息を引き取ったように見えるので、
「うちのお婆さんは、
眠るかのように死んで行かれたから、
きっと極楽往生間違いなしですよ」などと言う。

外見だけで判断してそう言う人が多いが、
実に無責任極まる発言で、
本人はキリキリ舞いして苦しんでいても
それが表現できないだけと知るべきだ。

火の車、臨終に現れる
      自分の業が産み出したもの

仏教では、人間の臨終に、
「火車来現」があると教えている。

火の車、現れ来たる、というのだが、
この火の車とは、自己の業(行い)が産み出したものだ。
故に、
「火の車 造る大工は
なけれども、おのが造りて 
おのが乗りゆく」
と詠まれている。
火の車を造る大工が地獄にいるのではない。
自分の業、が産み出したものに、
自分が乗ってゆくのだ。

ところが、火車来現も外部に伝える手段がない。
しかし例外的に、
心明了位の臨終が終わりきらないうちに、
火車来現に出会う人がいる。
体が動き、声を発することのできる時に、
火の車を体験するとなると、
臨終の様相は一層、悲惨になる。

ボルテールの最後

有名なのは、フランスのボルテール。
臨終に部屋の一角を指さし
「奈落の底が見えてきた。
悪魔がワシを連れにやってきた。
オレをかくまってくれ。
オレをかくまってくれ。」
と絶叫している。
十八世紀のフランスを代表する啓蒙思想家であったボルテールに、
仏教の教説を知る機会はなく、
火車来現など、知る由もなかった。
知っていようと、知らずにいようと、
現れるものは現れる。
奈落の底とは地獄の意であり、
「悪魔が・・・」というのは、まさに、
鬼が、火の車を引いて迫ってくる相を彷彿とさせる。

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M氏の体験

平生の現代にも火車来現を叫んで死んだ叔父の姿を通して
仏法を求めるようになった人がいる。
岐阜県在住のM氏である。
M氏の家庭は、熱心な真宗門徒で、
M氏が幼少のころから父親、祖父が真剣に聞法していた。
M氏は成長するにつけ、仏法よりも、
立身出世、金儲けを生き甲斐とし、
働きバチのような日々を送っていた。
M氏の叔父に大の仏法嫌いがいた。
その人は、M氏の家族を誹謗(ひぼう)しつづけた。
「仏や、阿弥陀仏など、いない。
地獄や火の車など、お伽噺(おとぎばなし)だ。
この忙しいときに、M一家は、富山、滋賀まで仏法を聞きに行く。
何のために行くのだ。
仏法など聞いていても生きてゆけんぞ。
仏法などクソ喰らえだ」
口汚く謗法罪を造り続けたその叔父が、
ガンで病床につき、急速に悪化した。
夜中に電話を受け、もう命が危ないと言う。
M氏と父親、祖父が病院に駆けつけた。

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断末魔の叫び
病室に入るなり、M氏の目は、
ベッドの上の叔父の異様な姿に釘付けになった。
叔父は、やせ細った両足を交互にふり上げ、
目は振り子のように、何か恐ろしい物を見ている必死の形相で
「火が来た。火が来た。熱い。熱い。
オレを隠してくれ。オレを隠してくれ」
と絶叫していたのである。
M氏は三十分以上もそのような断末魔の叔父を為す術もなく
見つめるだけだった。
手で虚空をつかみながら、
あらん限りの声で「火が来た」
と叫び続ける叔父の姿に、
「仏語に虚妄なし」
仏説のまことを知らされたと、M氏は言う。
声が枯れ、何とも言えない恐怖の形相で
息をひきとった叔父の姿は、余りにも強烈であった。
それ以来、仏法を求めずにおれなくなったと言う。

臨終の心相を釈尊は『大無量寿経』に説いておられる。
大命、将に終わらんとして、
悔懼(けく)交々(こもごも)至る

人生の最後には、生涯への後悔と、
未来への恐れが、交互に迫り苦しむ。

しかし、必死に叫ぼうとしても、
叫ぶ力がないのが、身体愛法位の臨終だ。

第三段階は心不明了位の臨終

身体愛法位の臨終で意識が死に、
次に心不明了位の臨終に進む。
これは、阿頼耶識が次の世界に転生する。
これがまさに死の瞬間だ。

阿頼耶識が転生する迷いの世界は6つあり、
六道という。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界である。
釈尊は、大無量寿経に「必堕無間」と教えている。
我々人間は、悪因悪果で、死後必ず無間地獄に堕ち、
八万劫中、大苦悩を受けてのた打ち回るということだ。
これを後生の一大事という。

(1劫とは、4億3千200万年のこと、
八万劫とは、その八万倍の長さ)

上の心と下の心
    聞法により知らされる

さて、心理学者は、学問の積み重ねで、
我々の心の解明を目指すが、
仏法者は、聞法により、自己の本心を知らされる。
八識は、大別すれば、
意識と阿頼耶識の二つの心に分けられる。
前五識は意識に従属し、
末那識は、阿頼耶識に支配されるからである。
仏法を聞くことを聴聞というが、
聴聞を重ねていくと、
我々に二つの心があることが感じられてくる。
上の心と、下の心、である。

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上の心は、我々が、普通、「心」と言っているものであり、
仏教用語で言えば「意識」である。
下の心とは、意識のはるか底に潜む心であり、
意識をもコントロールしている我々の本心、
「阿頼耶識」である。

そんな心の存在を現代人は知らない。
今日の心理学は、意識の下に潜在意識があり、
その更に下に深層心理があると教えている。
潜在意識すら、なかなか分からないので、
深層心理となれば、一層、難しい。
釈尊が2600年昔に説かれた我々の本心「阿頼耶識」を、
現代の心理学者はようやくつきとめ「深層心理」と名付けて
必死の研究を重ねているのだ。
ここでも仏教の深遠さが知らされる。

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「聴聞」の「聴」とは、上の心、意識が、
善知識の法話を聞くことをいう。
いわば人間の声を「聴く」のである。
真宗は「きくひとつで助かる教え」と言われるが、
この「聴く」ではない。
上の心でいくら仏法を聴いていても、
いよいよ臨終となれば、意識は肉体とともに亡んでしまうのだ。
本心、阿頼耶識が聞かなければ救われないのだ。

下の心が聞くことを「聞(もん)」と言う。
「聴(ちょう)」は千座、万座、何回でもできるが、
「聞(もん)」とは阿弥陀仏の直のお呼び声を
心のドン底に聞くこと
だが、
その時、心が大転換するから「廻心(えしん)」という。
廻心の体験は、ある人で、一生涯にただ一度だ。
「一向専修の人においては、
廻心ということは、ただ一度あるべし」
        (親鸞聖人)
心のドン底の本心に聞かせるためには、
まず、その存在自体を知らねばならない。
それには、上の心で「聴」を重ねていくことだ。
下の心は、丁度、毛布を何百枚もかぶって
昼寝しているような状態。
「聴」を重ねることによって毛布は一枚、
また一枚とはがされていく。

我々の本心
     下の心の素顔

やがて、下の心がみえてくる。
みえてくる顔を表現すれば、テレーッ、キョロン、
キョトン、ポカン、ボーッという状態で、
上の心が真剣に聴いている時でも、
朝寝坊が目を覚ましたようなボーッとした顔だ。

「お前、そのまま今晩死んだら、地獄へ堕ちるぞ」
と言われても、皿一枚割ったほどの驚きもない。
「救われたら極楽だぞ」と言っても、
千円札一枚もらったほどにも喜ばない。
「無常の世の中ではないか。
今晩死んだらどうするのだ」
と無常観を迫られても、
「まだまだ死なん」とはねつける。
「生き物を殺して食べ、心中眺めれば、
美しい女性を思い浮かべ、浅ましいことを
思い続けているではないか。
憎む相手を心で斬り殺しているではないか。
罪悪の塊が、お前の正体だ。」と言われても
「殺して食べて何が悪い」と反発する。
地獄ときいても驚かず、極楽ときいても喜ばない。
仏法に向かえば、何の反応もなく、
死体にお灸をする如くである。
ウンともスンとも言わない。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰った。
逆は親殺しを意味する五逆罪、
謗は、仏法を誹謗する謗法罪。
我々の本心は、自分に都合悪ければ、
大恩ある親でも「死んでくれたらいい」
と心で殺してしまう、五逆罪を造る。
仏法に向かえば、
「地獄も極楽もあるか、火の車など、お伽噺(おとぎばなし)だ」
と法謗の大罪を犯す。
まさに逆謗の屍である。

仏法に向かえば屍だが、
世間ごとなら徹夜をも厭わない。
飲みたい、食いたい、寝たい、楽したい、
金儲けの話なら、一晩中でも起きている。
そんな本心が、腹底にあるのだ。


仏法が有り難い、
というのは上の心が感情的に喜んでいるのだ。
下の心は少しも有り難いと思っていない。

寺は照る照る
 道々曇る
   家に帰れば雨風だ

寺で有り難い話を聴いて、
涙を流して喜んでいる。
ところが、家路へ向かえば、
そんな喜びはだんだん薄れ、
到着して、憎い嫁の顔みたら、
「あいつめ、こいつめ」と怒りの煩悩一杯で、
喜ぶ心など、どこかへ飛んでしまう。
それを「家に帰れば雨風」という。
そんな繰り返しで、漠然と寺参りしているうちに、
たちまち老齢、たちまち棺桶だ。
聴とはきけても「聞」が難しい。

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遇い難き法とは知れど
    この法を
      極難信と知るはまれなり

善知識に遇うことも
教うることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
      (親鸞聖人)

よく「聞く」ことが難しいのだ。
しかし、必ず、「聞く」ことがあるのだ。

雨だれの説法

昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行に励んでいた。
三年経ってもいっこうに魂の解決がつかず、
「私のような者に、求め切れる道ではない。今はこれまで」
と、永遠のおいとまを願い出た。
師僧は思いとどまるよう説得したが、
明詮の決意は堅く、
慰留をあきらめ、これを許した。
しかし、苦楽をともにした法友と別れるのは、
さすがに辛い。
明詮は泣きながら寺を出た。

ところがそのとき、
にわかに大雨が降ってきたので、
やむなく山門の下に腰をおろし、
雨の晴れるのを待っていた。
何気なく、山門の屋根から落ちる
雨滴を見ていた明詮は、
雨だれの下の石に
大きな穴があいているのに気がついた。
「こんな堅い石に、どうして穴があいたのだろう」
まぎれもない、それは雨滴の仕業ではないか。
「この軟らかい水滴が、堅い石に穴をあけたのか。
何と言うことだ。
私は二年や三年の修行でへこたれて、断念したが、
この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。
たとえ水のような力のない自分でも、
根気よく求めていけば、
必ず魂の解決ができるに違いない」
奮然として、その場を立った明詮は、
水から受けた大説法を師匠に話し、
深く前非をわびて努力精進し、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったのである。

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屍を生まれさせる
     阿弥陀仏の本願力

我々の本心は確かに「屍(しかばね)」。
この世もジゴク、未来も地獄の罪悪の固まりだ。

しかし真剣に仏法を求めれば必ず救われる。
なぜならば、阿弥陀仏の、
「若不生者 不取正覚」のお約束があるから。

「もし生まれずは、正覚を取らじ」と、
仏の命である正覚を担保に、
阿弥陀仏が、屍を生まれさせる、
と誓っておられる。

その本願がまことだから、屍の心が、
大安心、大満足の絶対の幸福に生まれる時があるのだ。

阿弥陀仏の「そのまま助けるぞーっ!」のお呼び声に、
「ハイ」と返事をするときが聴聞の「聞」と聞いた時である。

「こうにも聞こえにゃ、聞かぬがましか」
と聞かん心に泣いて求めた、
山口県六連島(むつれじま)のおかる同行も、

たった一声聞いたのが
その一声が千人力
四の五の言ったは昔のことよ、
そのまま来いの勅命に
いかなるおかるも
頭が下がる

と、本心に弥陀の勅命が届いたと喜びを述べている。

心のドン底、阿頼耶識が救われた体験を信心決定といい、
いつ死んでも浄土往生まちがいない身となれるのだ。

ここに、全人類の救われるただ一筋の道がある。

<カット 太田寿>


タグ:八識 臨終

臨終はどうなる!? [阿頼耶識(我々の本当の心)]



死は万人の確実な未来だが、

誰もまじめに考えようとはしません。

考えたくないことだからでしょう。

知人、友人、肉親などの突然の死にあって、

否応なしに考えさせられるときは、

身の震えるような不安と恐怖を覚えますが、

それはあくまでも一過性で、あとはケロッとして、

「どう生きるか」で埋め尽くされます。

自分の死を100パーセント確実な未来と容認しても、

まだまだと先送りしますね。

眺めている他人の死と眼前に迫った自己の死は動物園で見ている虎と、

山中で出くわした虎ほどの違いがあると言われます。

体が震えるような、不安や恐怖といっても、

所詮は想像している死であり、

襲われる恐れのないおりの中の虎を

見ているにすぎないのです。

山中で突然出会った猛虎ではないのです。


ところが「末期ガンです、あと長くて1ヶ月です。」

と死の宣告をされたらどうでしょう。

大問題になるのは、「死後どうなるか」だけだと、

ガンと10年闘ってこの世を去った岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は

言っています。


我々が死を恐れるのは、突き詰めれば死後の世界を恐れているのです。

それを解決しない限り、本当の幸福にはなれません。

仏教は哲学のような観念の遊戯ではなく、実際にそれを解決できる教えなのです。

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