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さすがの一休も蓮如上人には勝てなかった! [極楽に往生するには]

 

動画を観られるとよく分かると思います。

また、真実の仏法は慈悲でいっぱいなので癒されますし、

生活の指針にもなりますので、役立ちます。

 そういう意味でも見られるといいですよ。

「一休さんが浄土真宗に改宗したのは本当か」

https://www.youtube.com/watch?v=ll3tK5TezKQ&t=38s

 

「弱い人間のままで幸せになる方法を説かれたブッダ」

 https://www.youtube.com/watch?v=BZfrW5dIz88

 

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(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています) 

 

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(蓮如上人)


あわれあわれ、存命のうちに、
みなみな信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり

                     (蓮如上人)
哀れだ、不憫だ、死後では間に合わぬ、
生きている間に仏法を聞き求め、
みな一人残らず、信心決定してもらいたい

蓮如上人、最晩年に書かれたお手紙の一節です。

蓮如上人は、親鸞聖人のみ教えを
自分の考えを一切入れず、
一器の水を一器に移すかのごとく、
正確に全国に広められた高僧です。
親鸞聖人、蓮如上人のお二方のお叫びは、
みな一人残らず信心決定してもらいたい、
これ以外にはありませんでした。

信心決定とは、仏法を聞き求め、
平生のうちに阿弥陀仏の本願に救われ、
無碍の一道に出ることです。

無碍とは、一切の碍り(さわり)が、
碍りにならない世界をいいます。
死も碍りとならない不変不壊(ふへんふえ)の
絶対の幸福のことです。

名声、地位、権力、世の栄耀栄華も、
死の巖頭(がんとう)に立てば
三文の価値もない。
一切の喜びはくずれてしまう。

ところが、弥陀の本願に救われた喜びだけは、
死も碍りにならず、金剛不壊なのです。

信心決定せよ、無碍の一道に出よ、絶対の幸福になれ、
親鸞・蓮如両聖人に一貫したご教示です。

なぜ、それほどに。理由があるのです。

この信心を獲得せずは、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

                   (蓮如上人・御文章)
信心決定せずに死ねば、弥陀の浄土に往生はできず、
必ず、無間地獄に堕つるのだ。

これを後生の一大事といいます。
一大事の解決には弥陀の本願に救われるしかないから、
「一日も片時も急いで信心決定せよ」と説かれているのです。

真宗道俗の中には、これに反発して、
「阿弥陀仏は大慈大悲の仏、
我々を地獄に堕とされるはずがない。
信心決定した人だけを浄土に救うなどと、差別されない。
平等の慈悲を持っておられるはずだ。」
と猫も杓子も、みな死んだら極楽、
死んだら仏と思っている人が多い。

阿弥陀仏の慈悲は平等でありながら、
何故に救いに前後ができるのか。
その疑問を蓮如上人に投げかけたのが、
禅僧一休でありました。

蓮如上人にかなわぬ一休のトンチ

テレビで人気の「一休さん」
どんな難題も、しばらく座禅して
頭をポクポク叩いているうちにトンチが浮かび、
相手を負かしてしまう。
ところが、一休さんのトンチも、
蓮如上人にはかないませんでした。
同時代の二人は、大の仲良しでもありました。


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雀の生死

ある時、一羽の雀を握った一休が、尋ねました。
「おい蓮如、この雀、生きているか、死んでいるか」
「死」と答えれば、そのまま逃がし、「生」と答えれば、
ヒネリ殺すつもりなのです。
どちらに答えても負けです。
蓮如上人は、答える代わりに
近くの階段を二・三歩登られました。
「その質問に答える前に、当方の問いに答えよ。
私はこの階段をこれから、登るか、おりるか、どちらと思う。」
やはり答えれば、必ず負けます。
一休は、一本取られたのです。

 

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材木の上に立つ

蓮如上人が山科本願寺を建立しておられた時、
奇妙な坊主が、材木の上に立ち、
頭の上に草を載せて、ニヤニヤしている。
作業の邪魔と感じた大工が蓮如上人に申し上げた。

「それは一休だろう。
お茶を一杯持って行けば、退散する。」
蓮如上人のご指示通りにしたら、
「さすが蓮如」とお茶をガブッと飲み、引き上げた。

大工が訳を尋ねれば、蓮如上人、解説される。
「何の事はない。
木の上に人が立ち、頭に草を載せている『茶』という字を
分解してみれば分かる。(画像を見てください。)
一休は『お茶を一杯くれ』と言っていたのだ」


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七曲りの松

京都に、「七曲りの松」があった。
「この松をまっすぐに見た者には金一貫文与える。
大徳寺住職・一休」
という立て札が立った。
金一貫文は、今日なら百万円である。
以後、松の周囲は人だかりで、
何とか一貫文をかせごうと、
人々は、松の木をまっすぐ見ようと努力した。
だが、一向に見ることができない。
ついには梯子をかけ、上から見るものまで現れる。
「一休さんがウソを言われるはずがない。
どこからか見えるのであろう。」

蓮如上人が通りかかられた。
「また一休さんの悪戯か。
よし、私はまっすぐに見たから一貫文もらって来よう。」
と、一休のところへ。
「真っ直ぐに見たから、一貫文もらいたい。」
「蓮如か、お前は駄目だ。立て札の裏を見て来たか。」
裏には、「但し、本願寺の蓮如だけは除く」とあった。
一休は蓮如上人には
すぐ見破られてしまうことが分かっていたのだ。

蓮如上人は再び、七曲がりの松の所に戻られた。
「どうでした、一貫文、もらえましたか」
「いや、一休が堪忍してくれと、謝ったから、許してやった。」
「一体、どこから、真っ直ぐに見られたのですか」
「この松を『曲がった松じゃなー』と見るのが、
まっすぐに見るということだ。
曲がりくねった松を真っ直ぐに見ようとしているから、
見ることができない。
曲がった松は、曲がった松と見るのが、
本当に、まっすぐ見るということだ。」

仏教の正見(しょうけん)を教えられたとき、
「さすがは蓮如上人」と人々は感服しました。


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●『御文章』を攻撃

連敗の一休、蓮如上人を一敗地に、
まみれさせようと『御文章』のあら探しを始めた。
やがて、「ここはどう考えても矛盾だ」との攻撃点を見つけ、
蓮如上人に一首送った。

阿弥陀には
まことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生 のみ助ける

              一休

「阿弥陀仏は平等の慈悲を持った仏と言うが、
『御文章』には『たのむ衆生は助けるが、
たのまぬ衆生は助けない』とある。
そんな差別をされる阿弥陀仏は、
まことの慈悲のない仏ではないか。
たのむ者もたのまん者も、みな助けてこそ、
まことの慈悲というものだろう。」

一休の言い分は、信心決定した人だけ助け、
それ以外は地獄に堕つるというのはおかしいという
真宗道俗と同じです。

この仏をたのまずは、
女人の身の仏になるということあるべからずなり

                     (五帖七通)

南無とたのむ衆生を阿弥陀仏の助けまします道理なり
                     (五帖九通)

これらの御文を、矛盾と感じたのでしょう。
一休の意地悪な心底は先刻ご承知の蓮如上人は、
歌には歌で答えられました。

阿弥陀には
へだつる心なけれども
蓋ある水に
月は宿らじ 

           蓮如上人

月は地上の如何なる水にも月影を宿す。
海、湖、川、池、汚れたドブ、草の露、更には肥溜めにすら、
自らの姿を映す。
だが、例外がある。
蓋のある水には月は宿らないのだ。
月が差別しているのではなく、
茶碗に蓋があるのが問題なのだ。
月が差別しているのではなく、
蓋がいけないのだ。

またしても一休、見事に切り返されてしまいました。


(お碗の中の水に月が映っている。)
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全人類苦悩の真因
      弥陀の本願を疑う心

阿弥陀仏は、今すぐにも助けたい一杯であるが、
我々が心に蓋をしてしまっているため、
阿弥陀仏の大慈悲心が頂けず、救われない。
蓋とは、阿弥陀仏の本願を疑う心、疑情(ぎじょう)です。
雑行雑修自力の心とも言います。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止」
(生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す)
                     正信偈

人生に苦悩が絶えず、一時幸福になっても、
再び、苦の人生に還ってきてしまうのは、
一体、何が原因なのか。

それは、疑情一つが、全人類の苦悩の真因なのだ。

普通、自分が苦しいのは、お金、財産、名誉、地位に
恵まれないからと考える人が多いです。
そうした迷見を釈尊は、「有無同然」と否定されました。

「有無同じく然り」、それらのものは、無くても苦、有っても苦、で、
苦しい点から言えば、同じなのだと、仰せられています。

ノーベル文学賞に輝いた川端康成氏の自殺は、
仏説を実証しています。

名誉、地位、財産、すべてを手中にしながらの、
ガス管自殺は、持てる者、
なお人生苦の渦中にあった事を雄弁に物語っているのです。

遠くは、戦国の世を統一し徳川三百年の礎を築いた
家康の遺訓にもうかがえます。
人の一生は重荷を背負うて遠き路を行くが如し
天下人の背になお、耐え難い重荷があり、
生涯が苦悩の連続であったと述懐しているのです。

財物や名声の欠乏が、苦の真因ではありません。
疑情こそ、全人類苦悩の根源と、
親鸞聖人は喝破なされたのです。

本当に助かるのだろうか? 
         疑情こそ、心の蓋
   阿弥陀仏の本願を疑う心とは


阿弥陀仏は、いかなる諸神、諸菩薩、諸仏よりも尊い、
最高無上の如来です。
阿弥陀仏が、諸仏の王、本師本仏と敬われる所以は、
建立された本願にあります。
本願は誓願とも言い、今日なら「お約束」です。

「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて・・・」
親鸞聖人は『歎異抄』の第一章に、
本願に摂取された二十九歳の時の体験を
披瀝(ひれき)しておられますが、
本願とは、如何なるお約束か。

どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に


平易に言えば、そうなります。

この本願を聞くと、
「本当に助かるのだろうか?」
「この世から、絶対の幸福に本当になれるのか?」
と、本願に対する疑いがおきてきます。

蓮如上人は、この疑いが、ツユチリ程あっても、
救われないと、仰っています。
疑情こそ、まさに蓋であり、これが破られない限り、
全人類は永久に苦しみ続けていかなければならないのです。

真宗道俗は、本願を疑っていながら、
気づかない人が多いのです。

 

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●「ひょっとしたら・・・」で信心が崩壊したお婆さん

昔、金沢に若年の頃から、
熱心に聞法していたお婆さんがいました。
六十歳も過ぎたある夜半、ふと目が醒めて
「今死んだらどうなる」と無常を感じたのです。
次の瞬間、心中に「ひょっとしたら、
地獄に堕ちるのではなかろうか?」
と後生の心配が生じてきました。
「ひょっとしたら・・・」が、ツユチリ程あっても助からん疑情です。
お婆さんはすっかり助かったつもりでいたのに、
ツユチリ程の疑いがあると知らされ、
信心が崩壊しました。

居ても立ってもいられない。
「このまま死ねば地獄、なんとかしなければ」
との思いで、京都へ旅立ちました。

京都である有名な布教使を訪ね、
胸底の不安を告白しました。

布教使、「お婆さん、私の質問に答えてみなさい」
「はい、何でしょうか」
「お婆さん、そのままじゃぞ」
「えっ、このままですか」
「ちがう、そのままじゃ」
「だから、このままですか、と聞いているんです。」
「ちがう」
「どこが違うのですか、さっぱり、分かりません」
「お婆さん、私が『そのままじゃ』と言ったとき、
なぜ『ハイ』と一言返事をせん。
『このままですか』の『か?』が、
疑いじゃということがわからんか」
「そうですか。『か?』がいけなかったのですね。
もう一度、お願いします」

もう正体ばれてしまっているのに、再度の挑戦。
「お婆さん、そのままじゃ」
「ハイ」と返事をして、あとは無言の行だ。
しばらく時間が経過したとき、
「本当に、こうやって、『ハイ』と言っておれば、
よいのでしょうね?」
と言ってしまった。
「ほら、また出た。その『ね?』が、疑いじゃ」

「どうしたら助かるのか」
「どう聞いたらよいのか」
「どうなったら」
これみな疑いであり、自力の計らいともいいます。
「一切の計らいを捨てよ」と聞かされて、
「計らうまい、計らうまい」と思っている、
それもまた計らいなのです。

●「自力は捨てもの」
        合点はたやすいが・・・

疑情ある間は、天皇、大統領といえども迷いの衆生です。
疑情は「雑行雑修自力の心」とも言い、
「雑行雑修自力の心を捨てて、
一心に弥陀に帰命」しなければ、
救われないのです。

自力は捨てもの、間に合わぬものと
合点するのはたやすいのですが、
実地の体験は、難中の難である。

後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わないか。
実際、全力を尽くして始めて出来ることか、できないことか、
可能か、不可能か、ハッキリ知らされます。


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例えて言えば、クラスで力自慢の小学一年の男子を連れて、
母親が、瀬戸物店へ買い物に行きました。
大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、
荷物を持って店を出ました。
瀬戸物は量の割に重いものです。
それを見て子どもが、
「お母さん、僕、それ持ってあげる、僕、力強いんだよ、
昨日もクラスの相撲で一番だった」と自分の力を誇示します。

やらせてみる

とてもとても子供の力で間に合うような品物ではないことは、
百も千も承知しています。
こんな重い物が、あんたなんかに持てますか、
落としたらどうするの」
頭から叱りつける母親は、余り、利口とは言われません。

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「そうお、坊や、そんなに強くなったの。
お母さん、うれしいわ、それじゃ、持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、
一度持たせてみせます。

落としたら大変だから、母親は密かに下に手を回します。
子供は誉められて持ったのだから男の意地だ、何とか持とうと
渾身の力で力んではみますが、とてもかなわぬ重荷と知らされ、
力尽きて、
「お母さん、やっぱり僕の力じゃ無理だ、早く取って!!
落とすよ、早く、早く」  
と、母親にまかせます。
子供は母親が荷物を下から支えていることを知らないから、
驚いて心から素直に母親にまかせるのです。

自力の心が廃った時、
     他力不思議に摂取される

後生の一大事の解決を目指し、真剣な聞法を重ねて行くと、
最後に、知ったもの、覚えたものも、学問も修養も、
すべて間に合わず、地獄は一定すみかぞかし、
と無間のドン底にたたき落とされた時、
自力間に合わなかったと、
雑行雑修自力の心が廃ると同時に、
他力不思議に摂取されるのです。

信心歓喜踊躍(ゆやく)とおどり上がり、
阿弥陀さま、こうまでして下さらねば、
聞かないしぶとい私でございました。

どうしてこのご恩に報いようかと泣くより他にないのです。
これを弥陀たのむ一念といいます。

まさに心の蓋たる疑情が破られて、
阿弥陀仏の大慈悲が徹底する時なのです。

当流は、たのむ一念のところ肝要なり」 
              (御一代記聞書)

あながちにもろもろの聖教をよみ、
物を知りたいというとも、
一念の信心のいわれを知らざる人は、
いたずらごとなり

(御文章)

共に弥陀たのむ一念こそ、
真宗の肝要であることをご教示なされた、
蓮如上人のお言葉です。

                    (カット 太田 寿)

 


 


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親鸞聖人90年の願い「信心獲得せよ」 [親鸞聖人]

死に直面すると眼前に開けるものは、無底の暗黒のみであり、
魂は真っ暗な未来に泣くのである。
今まで命にかえて、大事に愛し求めてきた一切のものから見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに、
驚き悲しむのである。
「私は何を今までしてきたのか。何のために苦労してきたのか。
馬鹿だった、馬鹿だった」
握りこぶしで自分の頭を叩かずにおれないのが、
弥陀の本願に救われないままに臨終を迎える人々の終末の相です。
皆さんは、まだ間に合います。
一人でも多くの方が、無常の世界で無常のものを求めていても、
悲惨な最期にならざるをえないことに気がつくことを祈るばかりです。

動画を観られると仏教がよく理解できると思います。


この世に生まれてきた目的は

「信心獲得すること」と説かれた親鸞聖人




死別の悲しみ.をいやす方法【仏教の教え】
死後の世界なんかどうでもいいのか【仏教の教え】



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(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

  親鸞聖人90年の願い

     「信心獲得せよ」

 

「鎌倉(時代)は一人の親鸞を

 生んだだけでも偉大だった」

歴史小説家・司馬遼太郎氏の言葉です。

右翼の評論家から左翼の思想家まで、

親鸞聖人称賛の声は枚挙にいとまがありません。

なぜ聖人は、かくも多くの人を魅了するのか。

800年の時を超え、

世界の光と称賛されるのでしょうか。

 

親鸞聖人の生涯が、ただ一つの願いで

貫かれていることを知らねば、

聖人ご生誕の意義を理解することはできません。

聖人のお言葉から聞かせていただきましょう。

 


親鸞聖人90年、唯一の願い

 

親鸞聖人の教えを正確に多くの人に伝えていかれた蓮如上人は、

こう明言されています。

聖人一流の御勧化の趣は、

信心をもって本とせられ候

「聖人一流の御勧化の趣は」

とは、90年のご生涯、親鸞聖人が教えられたことは、

ということです。

「信心をもって本とせられ候」

それは唯、信心一つであったと喝破なされています。

聖人が生涯、教え徹していかれた信心とは何なのか。

皆さんからよく聞かれる質問に答えながら

詳しく解説していきましょう。


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信心ならば、どの宗教でも言っていること。

珍しくもないでしょう?

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言葉にすれば同じですが、親鸞聖人が生涯教えていかれた

「信心」は、世にいう信心とは全く異なります。

その違いをよく知らねばなりません。

では、どこが違うのでしょうか。

〝親鸞聖人が明らかにされた信心には、

「獲得」ということがある〟

ここが決定的な違いです。

「優勝旗を獲得する」「恋人を獲得する」というように、

普通「かくとく」と読みますが、

仏教では「ぎゃくとく」と読みます。

意味は同じで、今までなかったものが、

わがものになったということです。

だから真宗では、「信心する」とか、「信心せよ」

とは一切言わずに、常に、「信心をとれ」「信を獲よ」と

教えられます。

蓮如上人は繰り返し、「ただ信をとれ」「信をえぬは徒事なり」

とか、「信心獲得すというは・・・」と、おっしゃています。

では何が、自分のものとなるのでしょう。

それは「名号」です。

名号とは、「南無阿弥陀仏」のことですから、

信心を獲得するとは、南無阿弥陀仏の六字の名号を

丸もらいすることなのです。

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南無阿弥陀仏ってよく聞くけど、

 何のことですか?

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仏教を説かれたお釈迦さまは、

若し広説せば、百千万劫にも窮め尽くすこと能わじ」 

              (大無量寿経)

と言われ、南無阿弥陀仏の功徳は、

何億年かかっても説き尽くせないと、おっしゃっています。

功徳とは、力、はたらきということです。

それほどの力のある南無阿弥陀仏ですから、

釈尊は経典の至るところに、言葉を尽くして

褒めたたえておられます。

その一つが次のお言葉です。

 

 大宇宙の仏方が褒めたたえる「南無阿弥陀仏」

 

十方恒沙の諸仏如来、皆共に、無量寿仏の

威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう

           (大無量寿経)

「十方」とは、東西南北上下の六方に、

その間の四方を加えて十方。

仏教で大宇宙をいいます。

「恒沙」は、インドのガンジス川の砂のこと。

仏も如来も同じ意味ですから、「諸仏如来」とは

たくさんの仏方ということです。

ですから「十方恒沙の諸仏如来」とは、

大宇宙にましますガンジス川の砂の数ほどの

仏方ということになります。

この大宇宙に、地球のようなものが無数に存在することは

今日常識です。

地球に釈迦が現れたように、大宇宙には数限りない仏が

おられると仏教では説かれているのです。

世界有数の大河・ガンジス川の砂の数となれば

想像もできません。

「皆共に」は、一人残らず。

「無量寿仏」とは、本師本仏の阿弥陀仏のことで、

本師本仏とは、あらゆる仏が師匠と仰ぐ、

最高最尊の仏さまをいいます。

「威神功徳」とは、南無阿弥陀仏の名号のこと。

本師本仏の阿弥陀仏が、成就完成なされましたので、

「無量寿仏の威神功徳」といわれています。

 

大宇宙にまします数限りもない仏方が、

異口同音に、「弥陀のつくられた南無阿弥陀仏には、

想像もできない功徳があるぞ」と、

絶賛しておられるのです。

果たして、こんなことが私たち人間世界にありうるでしょうか。

過去にも、今にも、未来にも、皆にて謗る人もなく、

皆にて褒むる人もなし」  (発句経)

お釈迦さまはおっしゃっています。

どんな偉人でも、すべての人に褒められる人はありません。

みんなが称賛すると、何かしら気にくわない、

というへそ曲がりが必ずいる。

逆に、〝たで食う虫も好き好き〟で、

どんな悪党でも好意を持つ人があるものです。

事実、世界の三大聖人のトップに挙げられる大聖釈尊(お釈迦さま)でさえ、

当時、三分の一は帰依しましたが、

三分の一は反抗し、三分の一は釈尊のお名前さえ

知らなかったと伝えられます。

ところが、大宇宙の仏さまが一仏の例外もなく称賛する、

となったら、だれもが驚くでしょう。

それが、南無阿弥陀仏の大功徳なのです。

しかも仏方は、不可思議の功徳と、たたえられています。

不可思議とは想像もできない力のことです。

私たち人間が想像できないのなら無理もありませんが、

仏智を体得している仏方が想像もできないと

いわれるのですから大変なお力です。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、「南無阿弥陀仏」には

 どんな働きがあるのですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回は、詳しくは解説できませんが、

一言でいうと、「すべての人を大満足の身に救い摂り、

未来永遠の幸福に生かし切る力」だと釈尊は説かれています。

そんなすごい、最高無上の功徳がおさまっていますから、

蓮如上人は、

当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏、

これ一念の信心なり」   (御一代記聞書)

と教えられています。

 

●名号の宝を頂いたのが信心獲得

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんなにすごい力があるとは

 思えないのですが・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


蓮如上人は、

〝南無阿弥陀仏〟と申す文字は、その数わずかに

六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字も名号の中には、無上甚深の功徳利益の

広大なること、更にその極まりなきものなり

               (御文章5帖)

とおっしゃっています。

「南無阿弥陀仏は文字にするとたったの六字だから、

それほど功徳があるとは思えないだろう」と、

上人は私たちの心をえぐり出されています。

特に、科学的な考え方からすれば、分析もしたくなり、

六字のどこにそんな大功徳があるのだろうかと

思われるのも無理はありません。

しかし、この六字の中には、広大無辺な最高無上の

功徳があるのだよと、ねんごろに諭されています。

そう思えないのは、猫に小判、豚に真珠で、

私たちにそれを知る知恵がないだけなのです。

こんな話があります。


ある人が科学者に向かって、

「世の中で何がいちばん尊いといっても、

母親の涙ほど尊い有り難いものはない」と言った。

それを聞いた科学者は早速家へ帰り、

親に刺激の食物を与えて無理に涙を出させ、

それを試験管に受けて分析したところ

塩分と水分のほか、何ら高価な要素の含有を

認めることができなかった。

彼は大変失望したといいます。

イギリスの19世紀の大科学者ファラデー博士は、

いつも学生に向かって、こう教えていました。

母親の涙も科学的に分析すれば

少量の塩分と水分とにすぎない。

しかし、その涙の中には化学も分析しえない深い愛情が

こもっていることを知らねばならない

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名号は阿弥陀仏の仏心(大慈悲心)の象徴であり、

顕現ですから、いくら分析してもその尊さはわかりません。

説くことも想像することもできない弥陀の大慈悲を、

私たちに受け取りやすい姿になされたものですから、

私たちは六字の御名号を通して、

阿弥陀仏の仏心を頂かなければなりません。

 

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南無阿弥陀仏を受け取るとは

 どういうことですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

南無阿弥陀仏の大功徳が、私たちの心中に与えられ、

私の心(凡心)と、南無阿弥陀仏(仏心)が

一つになったことをいいます。

これを信心獲得(しんじんぎゃくとく)といいます。

蓮如上人は、

仏心と凡心と一つになるところをさして、

信心獲得の行者とはいうなり」(御文章2帖)

と、おっしゃっています。

南無阿弥陀仏を受け取り、信心獲得したことを

仏凡一体ともいいます。

ちょうど炭に火がつくと、どこまでが炭で、

どこまでが火か分けられないように、

私たちの心中に仏心が徹底すると、

〝私離れて仏なし。仏離れて私なし〟となるのです。

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その不思議な体験を、お軽という

江戸時代の妙好人(阿弥陀仏に救われた人)は、

「頭叩いても南無阿弥陀仏

 手を叩いても南無阿弥陀仏

 足を叩いても南無阿弥陀仏

 お尻叩いても南無阿弥陀仏

 座った姿も南無阿弥陀仏なら

 立った姿も南無阿弥陀仏

 歩く姿も南無阿弥陀仏

 本願や行者、行者や本願」

と表現しています。

 

「名号、信心、念仏」は、浄土真宗の3本柱

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

名号と信心は分かりましたが、

南無阿弥陀仏と称える

「念仏」とはどんな関係ですか?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここで名号、信心、念仏。この3つの関係を

詳しく説明しましょう。

南無阿弥陀仏の名号を頂いた時が信心。

お礼に称えるのが念仏です。

念仏とは、口で「南無阿弥陀仏」と称えることです。

これらを例えると、名号はご馳走、

信心はご馳走を頂いて満腹になったこと、

念仏は「ごちそうさま」というお礼の言葉に当たります。

名号を薬に例えるなら、薬が医者の手元にある間は名号、

薬をのんで、病気の全快した時が信心。

念仏は「ありがとうございました」というお礼の言葉になります。

隣にどんな美人がいても、結婚するまでは、

関係ない。

結婚するまでは隣の娘さんといい、

一緒になれば嫁と変わるように、「娘」は名号であり、

「嫁」となったのが信心です。

ゆえに信心獲得したかどうかが、肝心なのです。

名号、信心、念仏は、その名は異なれど、

いずれも体は「南無阿弥陀仏」。

ちょうど「娘」が結婚すると「嫁」になり、

子供が生まれると「母」と呼び名が変わりますが、

同じ女性であるのと一緒です。

しかし、娘は、嫁となってから母となるのですから、

信心獲得せずに、心からのお礼の念仏を

称えることはできません。

名号、信心、念仏。この3つの関係をよくよく知ってください。

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他力の信心は決しておぼろではない

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

阿弥陀さまが、救いの法(南無阿弥陀仏)を先手で

成就してくだされているのだから、

私たちの往生(極楽に往って仏に生まれる)は、

すでに決定しているのではないですか?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


釈尊は名号の大功徳は、十劫の昔に阿弥陀仏のお手元に

完成していると説かれています。

(一劫とは仏教で、4億3200万年のこと)

そこで浄土真宗の中には、質問のような誤解をしている人が

少なくありません。

ちょうど、大学の合格発表で、番号を見る前から

合否はすでに決まっていたようなものだ。

分かったから合格したのではなく、

合格したことを知らせてもらっただけである。

つまらない心配をする、はるか以前に、

救いの法はすでに先手で成就され、

私に届いている。

ただ私たちは、それを知らないままだった。

それを知らせてくださったのが、お釈迦さまであり、

親鸞聖人だったのだ、と。

 

これは本当でしょうか。

もし、〝救いの法はすでに先手で成就されているから、

私たちの往生は決まっている〟

とするならば、次の蓮如上人のご教導に

反することになってしまいます。

 

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、

無間地獄に堕在すべきものなり

           (御文章2帖)

 

〝往生は決まっている〟どころか、信心獲得しなければ

後生は地獄だぞと、手に汗握って勧化しておられます。

今までなかったものを頂くから獲得というのです。

すでに届いているものに気づくことならば

獲得とはいいません。

蓮如上人が「信心獲得」と言われているのは、

断じて「先手で成就されている救いの法に気づくこと」

ではないとお分かりでしょう。

 

同様の聞き誤りは、蓮如上人の時代にも大変多かったと見えて、

『御文章(御文)』には、繰り返しこのように戒められています。

 

十劫正覚の初より、我等が往生を、

弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、

すなわち信心のすがたなり」といえり。

これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし。

               (御文章2帖)

 

それ弥陀如来は、すでに十劫正覚の初より、

我等が往生を定めたまえる事を、今に忘れず疑わざるが、

すなわち信心なり」とばかり心得て、

弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくば、

報土往生すべからず。     (御文章3帖)

 

阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を成就された時に、

私たちの往生は決まっているのだ。

そのことに気づいたのが、信心獲得だと言う者がいる。

〝これは、断じて他力の信心ではない。

絶対に極楽には往けませんよ〟

と、相手の顔色を見ずに一刀両断なされています。

生涯、「信心獲得せよ」と教え続けられた聖人の願いに背く、

間違った考えだからです。

名号の宝は十劫の昔に完成していても、

それを私が受け取らねば、阿弥陀仏のご苦労は

水泡に帰してしまいます。

どんなにご馳走を用意されていても、私が食べなければ

施主の気持ちは無駄になってしまうのと同じです。

救いの法(南無阿弥陀仏)はすでに成就されていても、

それを私が受け取らなければ、救われることはないのです。

 

その名号を獲得した時を、信の一念といい、

親鸞聖人は「時剋の極促」とおっしゃっています。

何億分の一秒より短い、時間の極まりです。

あっという間もない瞬間に、大宇宙の宝を

ただもらいさせられますから、真(まこと)に手の舞い、

足の踏むところを知らぬ大歓喜がおきるのです。

その時こそ、「今こそ明らかに知られたり」

と驚きがたつのであって、真実の信心は、

断じてボンヤリしたものではありません。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうすれば、名号を頂けるのですか?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


名号は、聞く一つで頂けますから釈尊は、

「その名号を聞きて、信心歓喜す」

と『大無量寿経』に明らかにしておられます。

だから、

仏法は聴聞に極まる」と教えられ、

善知識方(正しい仏教の先生)は常に、

真剣な聞法を勧められるのです。

命をかけて聞法する者には、阿弥陀仏のお力で、

必ず信心獲得できる時があるのです。

 

不思議だなあ、

 どうしてこんな悪性が救い摂られたのか

 

南無阿弥陀仏と一体になった不可思議の世界を聖人は、

このように宣言なされています。

 

五濁悪世の衆生の

選択本願信ずれば

不可称不可説不可思議の

功徳は行者の身にみてり」  (高僧和讃)

 

〝不思議だなぁ、どうしてこんな悪性が無条件で

救い摂られたのか。

なぜ愉快なのか。恵まれるのか。生かされるのか。

どう考えても分からない。

仏法不思議の世界に出れば、だれもが体一杯、

生きる歓喜と満足で満ちあふれるのである〟

親鸞は、弥陀の誓願に救い摂られたことがうれしい。

絶対の幸福に合掌せずにおれない。

今日の一日が尊い。今の一息はもっとありがたい。

吸う息吐く息が不思議だ。よろこばぬ心が見えるほど感激だ。

焼けもせず、流されも、盗まれもしない、

いつも満ちている無上の幸せを、

「不可称・不可説・不可思議の、功徳は親鸞の身にみてり」

と、誇り高くうたいあげられています。

 

たとえ名号の素晴らしさを説く人はあっても、

獲得しなければ幸せにはなりませんよと、

聖人ほど、懇切丁寧に徹底して教えてくだされた方は

ありませんでした。

 

90年のご生涯、時空を超えて、すべての人の信心獲得を願い、

勧めていかれた方が世界の光・親鸞聖人なのです。

聖人のお勧めどおり、「信心獲得」の身になることこそ、

もっとも聖人が喜ばれ、そのご恩に報いる

真の降誕会となるのです。

(2005年5月のとどろきです)

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【仏教の教え】どうしたら絶対の幸福になれるのか


 

仏教の宇宙観がおもしろい。万物創造の謎


 

 

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死を四つの角度から解説 ブッダが説いた死の解決の道


 

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法華経と大無量寿経の関係で一気に仏教が分かる!【宇宙一わかる仏教のお話】


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仏教で一番大事なことは、「一向専念無量寿」! [一向専念無量寿仏]

生きるためとはいえ殺生ばかりして、
心では悪のし放題の、
我々の後生(死後)は一大事です。
大苦悩の世界で想像できない長年月、
苦しみ続けなくてはならないと教えられています。
そんな我々を哀れに思われて、
ガンジス河の砂の数ほどおられる諸仏方は、
何とか助けてあげたいと思われたのですが、
我々の罪があまりにも重く、
とても救うことができるものではないと
あきらめてしまいました。
その中、阿弥陀仏だけが我一人助けんと立ち上がってくださり、
何億年、何兆年、それよりももっと長い、想像もできない長期間、
全身全霊、常に我々を助けたい一心で、
ご修行なされて、「南無阿弥陀仏」を完成されました。
それを我々が生きているうちに受け取れば、
後生の一大事が解決できます。
この世は、絶対の幸福に、死ねば仏の世界に生まれさせて
いただけるのです。
我々を苦しめている無常の世界から出離できて、
未来永遠の大生命を賜ることができるのです。
そんな無上の幸福にできるのは、阿弥陀仏しかいません。
だから、お釈迦さまは、阿弥陀仏一仏に向け、
弥陀以外の仏に向くな、菩薩、諸神は捨てよと
言われているのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(ここからは真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


(正信偈のお言葉)

五濁悪時群生海 五濁悪時の群生海、

応信如来如実言 応に如来如実の言を信ずべし

 

如来所以興出世

 唯説弥陀本願海

(如来、世に興出したまう所以は、

 唯、弥陀の本願海を説かんとなり)

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これは七千余巻の一切経を余すところなく読み破られた

親鸞聖人が、〝釈迦如来が、地球上に現れられて仏教を

教えられたのは、唯、「弥陀の本願」一つを

説かれるためであったのだ

と断言されているお言葉です。

次に、

五濁悪時群生海

 応信如来如実言

(五濁悪時の群生海

 応に如来如実の言を信ずべし)

とは、どんなことをおっしゃっているか、

お話いたしましょう。

 

●五濁悪時は、いつのこと?

 

まず、「五濁悪時」と言われているのは、

「いろいろと汚れ、悪に染まっている世界」

のことです。これは、歴史上のある一時代のことでもなければ、

ハリー・ポッターなどファンタジーに出てくる

架空の世界でもありません。

私たちの生きている現実社会、この娑婆世界のことです。

古今東西、いつでもどこでも、「五濁悪時」なのです。

親が子を殺し、子供が親をあやめる。

遊ぶ金欲しさに、虫けらのようにタクシー運転手を刺し殺し、

高校生がホームレスを面白半分に殴り殺す。

「ムシャクシャするから」と、駅のホームで赤の他人を

線路に突き落とす。

恋愛関係のもつれから、女性を山中の屎尿(しにょう)

処理タンクで窒息させる。

〝クリーンな政治〟を掲げて当選した人が、贈収賄で捕まる。

警察官が万引きし、消防士が放火する。

教師が淫行で逮捕され、清純派アイドルだった女優が

覚醒剤に染まる。

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人命の尊重を訴えていた識者が、あっさり首を吊る。

ノーベル賞受賞者を筆頭に優秀な頭脳が生み出した金融工学が、

世界経済を破綻の恐怖に陥れる。

人道の正義を振りかざす一国の大統領が、他国に軍事介入して

民間人を平気で虐殺する。

法治国家で人治がまかり通り、冤罪事件ででっち上げられる。

「なぜオレだけがこんな目に」

「世の中いったいどうなってんだ」

「まさかこんなことになるとは・・・」

深い業をもった私たち人間の生み出す世界は、

かかる矛盾と不条理にあふれ、毎日報じられる悲喜劇は、

まさに『歎異抄』の、

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって

空事・たわごと・真実あること無し

 

の実証でしょう。形こそ違えど、これらは太古の昔から

現代まで連綿と、この地上で織り成されてきた人間ドラマです。

このように、罪悪にまみれ、悲哀と苦悩充満する人の世を

「五濁悪時」と言われ、そこに生きる私たちすべてを、

「五濁悪時の群生海」

と、親鸞聖人は言われているのです。

「群生海」とは、その数の多いことから「生きている群れ」

と言われた言葉で、この中に入らない人は一人もいません。

日本人もアメリカ人も中国人も、男も女も老いも若きもすべて。

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その全人類に向かって、

〝どうか皆人よ、「如来如実の言(ことば)」を信じなさいよ〟

と訴えておられる聖人のお言葉が、

五濁悪時の群生海、

 応に如来如実の言(みこと)を信ずべし

の2行なのです。

では、「如来如実の言」とは、何のことか。

これが分からなければ、聖人が朝晩、私たちに「信ずべし」

と勧めておられるのに、順(したが)うこともできず、

聖人の御心にかなうこともできません。

それどころか、悲しませる結果となってしまいます。

それではあまりにも申し訳なく、勿体ないではありませんか。

「如来如実の言」とはどんなことか、よく知っていただきたいと

思います。

 

●「如来如実の言」=「一向専念無量寿仏」

 

ここで「如来」と言われているのは、仏教を説かれた

「釈迦如来」のことであり、「如実」とは

「真実」ということですから、

「如来如実の言」とは、

「釈迦如来の、真実のお言葉」

ということです。

それは『大無量寿経』という唯一真実の経に説かれている、

「一向専念無量寿仏」

の八字のこと。

これは「無量寿仏に一向専念せよ」ということで、

無量寿仏とは本師本仏の「阿弥陀仏」のことですから、

「阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ」

と言われている、釈迦のご金言です。

これが仏教の結論です。

一切経に使われている何百万字も、すべてこの八字に

おさまってしまいます。そのことを親鸞聖人は、

 

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり (御伝鈔)

 

『一向専念無量寿仏』の教えは、仏教で最も大事な教えである

と喝破され、この「一向専念無量寿仏」の釈迦の教えを

「如来如実の言」とおっしゃっているのですが、

もう少し詳しく申しましょう。

「弥陀一仏に向きなさい」

ということは、

「他の一切の諸仏・菩薩・諸神に向くな、礼拝するな、捨てよ」

ということです。

蓮如上人は、有名な『御文章』に、

「一心一向というは、阿弥陀仏に於て、二仏をならべざる意なり」

「心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、

更に余の方へ心をふらず」など、繰り返されています。

「二仏をならべる」とか「余の方へ心をふる」とは、

「「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や諸神を信ずる」ことですから、

いずれのご文も、釈迦の教えのとおり、

「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や諸神にかかわるな、

手を合わせるな、礼拝するな、弥陀一仏を信じよ」

と訴えられているお言葉です。

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●なぜ、「弥陀一仏」なのか

 

では、どうしてお釈迦さまは、

「弥陀一仏だけを信じよ」

と言われるのでしょうか。

それは、大宇宙広しといえども、私たちの「後生の一大事」を

救う力のある仏は、阿弥陀仏一仏だけだからです。

親鸞聖人は90年の生涯、この釈迦の教えに順い、

 

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり (御伝鈔)

 

〝我々が未来永遠、救われるか、どうか、の一大事は、

「一向専念無量寿仏」になるか、否かで決するのである〟

と明言されて、

「一向専念無量寿仏」

を叫び続けていかれました。『正信偈』の

「五濁悪時群生海

 応信如来如実言」、

この二行も、

「すべての人よ、どうか早く『一向専念無量寿仏』の

釈迦の教えに順い、『後生の一大事』の解決を果たしてくれよ」

と、熱烈に勧められているお言葉です。

蓮如上人もまた、

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、

阿弥陀仏を深くたのみまいらせよ」   (白骨の章)

とか、

阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、

極楽に往生する道、二つも三つもあるべからざるものなり

                   (御文章)

その外には何れの法を信ずというとも、

後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」(御文章)

 

と、「一向専念無量寿仏」の真実を開顕することに生涯、

徹し抜かれたのでした。

 

阿弥陀仏は、誓われています。

〝すべての人は極悪人である。

我を信じよ、必ず助ける〟

いかなる罪悪深重の者をも、極楽往生一定の身に

必ずしてみせる、と仰せです。

この弥陀の本願以外、釈迦も親鸞聖人も蓮如上人も、

教えられたことは何もありませんでした。

『一向専念無量寿仏』の他に、我々の助かる道は

絶対ないのだから、五濁悪時のすべての人よ、

弥陀一仏を信じなさい

朝晩の勤行で私たちは、その聖人のみ声を

聞かせていただいているのです。

直ちに随順いたしましょう。

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「聞く一つ」で阿弥陀仏に救われる! [阿弥陀仏の本願]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

 

         未来の一大事を

            解決できれば

         人生を底抜けに

            楽しめる

 

     「聞く一つ」で

       なれる幸せ

 

●お盆に思い出す懐かしい人たち

 

お盆といえば、一般には、親戚が集まって墓参りする日。

(2018年8月のとどろきです)

親兄弟や愛児、恋人など、大切な人との悲しい別れを

経験した人は、故人を懐かしく思い出します。

つい最近までともに語らっていたのに、

今は亡き人々をしみじみと思い返すと、

「あの人はどこへ旅立ったのだろう。

満足して亡くなったんだろうか」

「自分はどうすれば、後悔のない人生になるのか」

と考えさせられます。

人生の最後、どんな心境になるかは、

それまでどう生きたかによって変わるからです。

ある人は、優れた経営者でした。

全盛期にはテレビに出演したり、ベストセラーを執筆したり、

押しも押されぬ輝かしい日々でした。

ところがガンが見つかり、もう手遅れと分かると

急に元気をなくしてしまった。

しきりに言っていたのは、

「死にたくない、死にたくない」

ということでした。

一度は入院したものの、快復の見込みがないので

すぐに自宅療養を選びました。

人生最後の夏、昼過ぎに友人が見舞いに行くと、

「こんな真夜中になんだ?失礼な人だ」

とつぶやいていたそうです。

そしてその数時間後に亡くなりました。

死の直前、昼間なのに真っ暗な中で

その経営者は何を思っていたのでしょうか?

 

またある女性は、80を過ぎてガンにかかり、

骨と皮ばかりに痩せてしまった。

仏法熱心な人でしたが、今は病院で全身をチューブにつながれ、

延命治療を受けています。

ところが、最期に18歳の孫娘が見舞いに来て、

「おばあちゃん、大丈夫?」

と手を取ると、

大丈夫じゃないのはおまえや!

わしは、一息切れたら明るい世界へ行くから心配は要らん。

でも、おまえは今のまま死んだらお先真っ暗やぞ!

頼むから仏法を聞いてくれ

と驚くような力で握り返してきたといいます。

 

最後、同じようにガンにかかって死に直面した人でも、

絶望して真っ暗になる人もあれば、

限りなく明るい心で他人を心配する人もあります。

そこには一体どんな違いがあるのでしょうか?

 

●人生の最後が真っ暗になってしまう理由

 

まず、人生の最後、元気をなくしてしまった経営者が、

お先真っ暗になってしまったのはなぜでしょうか?

もうすぐ死ななければならないのに、

死んだらどうなるか分からない。

これを飛行機で例えるなら、燃料が切れたというのに、

降りる所が分からないようなものです。

太平洋の上空1万メートルを飛行中、機長から、

「皆様、当機はもう燃料がありませんので、

これ以上飛び続けることはできません。

しかしこの辺りは、見たところ着陸できる所は

どこにもございません」

と言われたらどうでしょう。

「それでは皆さん、墜落するまで映画を見て

最後の旅をお楽しみください。

お食事も全部出しますから、好きなだけお召し上がりください」

と出血大サービスしてもらっても、

機内映画を見る気も起きないし、

機内食を食べるどころではないでしょう。

人生をこのように飛んでいる飛行機に例えるなら、

機内食や映画はお金や財産、地位、名誉などに当たります。

巻頭特集で説明した相対の幸福のことです。

(ブログでは載せていません)

これら相対の幸福は、死に直面すると、

全てがひび割れ、光を失ってしまうのです。

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●すべての人に同じ未来が近づいている

 

それは、死を目前にした人だけのことではありません。

人は皆、やがて死んでいくことに変わりがないからです。

降りる所が分からない飛行機は、燃料がまだ残っていても、

結局墜落することに変わりない。

燃料は刻々と減っていき、しかも残量がどれだけかは

全く分からないから、安全な着陸場所が見つからない限り、

常にお先真っ暗です。

それと同じように、どんな人でも死は100パーセント確実で、

私たちも毎日死に近づいています。

その100パーセントの未来がどうなるか分からなければ、

人生は全く安心できません。

現在が明るいか暗いかは、

未来が明るいか暗いかによって変わる。

1週間のうちでいちばん心が明るいのは金曜日の夜でしょう。

明日から土日で、好きなことができるからです。

逆にいちばん暗いのは、日曜日の夜。

〝サザエさん症候群〟ともいわれ、

番組が終わると急に心が憂鬱になる。

また明日から学校や会社に行かなければならないからです。

未来が明るければ、現在も明るくなる。

未来が暗ければ、現在も暗くなる。

死ぬのは避けられない以上、死んだらどうなるか

分からない真っ暗なままでは、現在を明るく

生きることはできないのです。

私たちにとって、死んだらどうなるか分からないこと以上の

大問題はありません。

こんな一大事はありませんから、仏教ではこれを

「生死の一大事」とか「後生の一大事」といわれます。

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●なぜ、お金や財産では幸せになれないの?

 

どんなにお金や財産、地位、名誉などの相対の幸福に

恵まれても、心からの安心も満足もないのは、

この後生の一大事があるからなのです。

ほとんどの人は気がついていませんが、人生が底知れない

不安に覆われているのは、根本に一大事があるからです。

逆に、この一大事さえ解決できれば、どんな人も、

人生を底抜けに楽しめるようになります。

飛行機でいえば、いつ燃料が切れても

100パーセント安全に降りられる大空港を

見つけたようなもの。

そうなれば、今、心の底から安心して機内食や映画を楽しめる。

大安心・大満足の絶対の幸福になれるのです。

この後生の一大事を解決し、絶対の幸福になる道を

開示されたのが、実にお釈迦さまの説かれた仏教なのです。

 

●仏教に説かれる後生の解決の道

 

約2600年前、インドに誕生されたゴータマ・シッタルタが、

35歳で仏のさとりを開いてブッダとなられ、

80歳でお亡くなりになるまで何を説かれたか。

それはこの後生の一大事の解決一つです。

その教えは、一切経と呼ばれる七千余巻の膨大なお経に

書き残されています。

これら一切経を何度も読み破られた親鸞聖人は、

このように教えられています。

 

如来、世に興出したまう所以は、

唯、弥陀の本願海を説かんがためなり (正信偈)

 

この「如来」とは釈迦如来のことですから、

「如来、世に興出したまう所以は」とは、お釈迦さまが

地球上に現れて、一切経を説かれた目的は、ということです。

それは「唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」。

すなわち阿弥陀仏の本願ただ一つであったということです。

「7000冊以上のお経があるのだから、お釈迦さまは

いろいろなことを説かれたのだろう」と思う人が

ありますが、そうではなかった。

釈迦が一生涯教えられたのは、阿弥陀仏の本願一つだったのです。

阿弥陀仏とは、どんな仏さまでしょうか。

地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですが、

大宇宙には数え切れないほどの仏さまがまします。

それらの仏方の先生に当たる最高の仏さまが

阿弥陀仏であり、お経には「最尊第一の阿弥陀如来

諸仏の王なり」と説かれています。

ですから大日如来も薬師如来もお釈迦さまも皆、

阿弥陀仏のお弟子なのです。

仏教で弟子の使命は、先生の御心を伝えること一つ。

地球に現れたお釈迦さまが、生涯、師である阿弥陀仏の

本当に願われている御心、本願一つを伝えられたのは、

当然のことなのです。

 

●阿弥陀仏が私たちとなされたお約束とは?

 

本願とは、誓願ともいわれ、お約束のこと。

降りる場所のない飛行機のように、底知れない不安を

抱えて生きているのが私たちです。

阿弥陀仏はそんな私たちをごらんになって、

何とか助けてやりたいと大慈悲心を起こされ、

「すべての人を、必ず弥陀の浄土に生まれられる

往生一定の身に救う」

とお約束なされているのです。

それが阿弥陀仏の本願です

「往生」とは、浄土へ往って仏に生まれること。

「一定」とは、一つに定まると書くように、

ハッキリすることです。

ですから「往生一定」とは、いつ死んでも浄土へ往って

仏に生まれられるとハッキリする、ということです。

弥陀の本願に救われ、来世は浄土往生間違いないと

ハッキリすれば、後生の不安は全くなくなりますから、

生きてよし、死んでよし、今が絶対の幸福に生かされます。

弥陀の浄土は「無量光明土」ともいわれ、

限りなく明るい世界ですから、現在が底抜けに

明るい人生になるのです。

これを「平生業成」といいます。

「平生」とは、生きている時。

「業」とは、絶対の幸福、「成」とは、完成する、

達成するということですから、生きている平生に、

絶対の幸福になれるということです。

 

●生きている時、絶対の幸福になれる

 

親鸞聖人は、29歳の時、阿弥陀仏の本願に救われて

往生一定の絶対の幸福の身になられ、

こう言われています。

ああ・・・何たる不思議。親鸞は今、

阿弥陀仏の本願のとおり往生一定の身に救われた。

これは全く阿弥陀仏のお力によってであった。

深く感謝せずにおれない。もしまた今生も救われなければ、

未来永劫、苦しみ続けていたであろう。

危ないところだったなあ。

何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、

知らせねばならぬ。こんな広大無辺の世界のあることを

原文は次のとおりです。

 

噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、

真実の浄信は億劫にも獲がたし。

遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を

逕歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ    (教行信証)

 

そして90歳までたくましく生き抜かれ、

「平生業成」の阿弥陀仏の本願を最も鮮明にされました。

その親鸞聖人90年の教えが「浄土真宗」です。

 

「親鸞、死んだら浄土へ往くぞ」

 

親鸞聖人は、90年のご生涯の最後にこう仰っています。

 

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、

和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

              (御臨末の書)

 

「我が歳きわまりて」とは「いよいよ親鸞、

この世の最後となった」ということです。

普通、いよいよ死なねばならぬとなったら、

お先真っ暗ですが、親鸞聖人は違う。

「安養浄土に還帰す」と仰っています。

「安養浄土」は阿弥陀仏の浄土のことですから

「親鸞、死ねば阿弥陀仏の浄土へ往くぞ」と

明言されているのです。

では、浄土へ往ってのんびりされるのかというと、

そうではありません。

「和歌の浦曲の片男波の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」

和歌の浦の海岸の波が寄せては返し、また寄せては返す。

無限に往復運動を繰り返しているように、親鸞、一旦は

浄土へ往くけれど、すぐに皆さんの所へ戻ってくるぞ、

弥陀の本願まことを苦悩の群生海に伝えずにおれないのだ

と言われているのです。

 

●遺骨を粗末にすると成仏できない?

 

ですから親鸞聖人は、常日頃から

親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし

とビックリすることを言われていました。

私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ

ということです。

世間では、遺体遺棄事件や戦没者の遺骨収集などで、

遺体や遺骨が見つからないと、

「これでは死んだ人も浮かばれない」と言い、

見つかると「これでやっと浮かばれる」などと言います。

遺体や遺骨と、その人の後生の幸せとが関係あるように

信じられているからでしょう。

また、遺体や遺骨に向かってお経を読めば、

故人が幸せな所へ行けるようにもいわれています。

 

しかし親鸞聖人は、そうではない。

平生元気な時に仏法を聞き、「往生一定」の身に

ならせていただくことが肝心なのだよと、

このショッキングな言葉で教えられているのです。

平生、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、往生一定の身になれば、

命終われば直ちに弥陀の浄土ですから、

死んだ肉体に用事はありません。

「わしは一息切れたら明るい世界へ行くから大丈夫」と

断言した冒頭の女性も、浄土真宗の盛んな地域の人でした。

平生に弥陀の本願を聞きひらき、往生一定の身になっていれば、

自分の後生には何の心配もないから、まだ親鸞聖人の教えを

知らない孫娘を心配していたのでしょう。

どんなにお金や財産、地位、名誉があっても、

後生暗い心を抱えていては、心から人生を慶ぶことはできません。

しかし、後生の一大事を解決し、今死んでも

浄土往生間違いなしの大安心になれば、

底抜けに明るく楽しい人生が開かれます。

 

●どうすれば明るく楽しい人生になれるの?

 

では、どうすれば後生の一大事を解決し、

絶対の幸福になれるのでしょう。

仏法は「聴聞に極まる」といわれ、聞く一つで救われます。

何を聞くのか。それは阿弥陀仏の本願です。

他には修行も学問も、座禅も瞑想も必要ありません。

ただ、阿弥陀仏の本願を聞く一つで、

往生一定の身に必ずなれます。

だから早く、その身になりなさいと

親鸞聖人は教えられているのです。


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弥陀に救われれば、もう捨てられない幸せ者になれる! [阿弥陀仏の本願]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

     「その幸せ、

          つかんだら離すなよ」

        ではない

           

             つかまれて

              捨てられない幸せ者に

 

        摂取不捨の利益

 

人工知能が人に取って代わる時代がやってきても、

「人間に生まれてよかった!」と生きる意味を知り、

命いっぱい喜べる真実の幸せがあると、

お釈迦さまも親鸞聖人も教えられました。

700年前の古典『歎異抄』には冒頭から、

その親鸞聖人の歓喜が記されています。

 

弥陀の誓願不思議に助けまいらせて

往生をば遂ぐるなりと信じて

「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、

すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

             (歎異抄第1章)

古今を問わず万人が希求する「摂取不捨の利益」とは、

どんな幸せでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ライフワークとして小説『親鸞』を書いた、

作家の丹羽文雄氏は、その「あとがき」に

次のように述べています。  

 

今日多くの人が、親鸞に興味をよせている。

(中略)今日の人は、何かを求めている。ある統計によると、

今日の日本の状態に日本人の7割が満足しているという。

しかし、心の問題となると、答えは逆になる。

何かを求めている。飢えている。私もそのひとりであった。

(中略)

この10年来、私は親鸞を知りたいと思いつづけて来た。(中略)

親鸞の罪の意識、その絶望、その懺悔(さんげ)は、

750年後の今日の私たちの胸にも強烈にひびく。

同時にあの讃歎は、絶望と懺悔にいりまじって、

『運命』の交響楽のように力強く、しかもなまなましく

私たちの胸の中に鳴りわたる。しかもそのことばは、

いままで誰からも聞かされたことのない声で語られているのだ。

いまにして私は、親鸞を宗祖とする浄土真宗の末寺に

生まれたことを、しみじみありがたいと思う。

親鸞のようなひとにめぐり会えたことは、

一介の文学者としても、人間としても、

生涯のよろこびである」       (『親鸞』)

 

このように言葉を尽くして親鸞聖人を絶賛しています。

そう言わしめた親鸞聖人の魅力とは何でしょうか。

 

丹羽氏が愛読していたという『歎異抄』は、

親鸞聖人の肉声が聞こえてくるような書です。

著者は高弟の一人・唯円房といわれ、聖人の言葉を、

たぐいまれな名文で書き記した『歎異抄』は、

日本で最も多くの人に読まれている仏教書といわれています。

『歎異抄』全18章が収まる第1章の冒頭を読んでみましょう。

 

弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば

遂ぐるなりと信じて「念仏申さん」と

思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に

あずけしめたまうなり

(弥陀の誓願不思議に助けていただいて、往生できると

明らかになり、念仏称えようと思い立ったその時、

摂取不捨の幸福にしていただくのである)

 

ここに出てくる「摂取不捨の利益」の意味が分かれば

丹羽氏だけでなく誰もが驚くことを、

親鸞聖人は仰っているのです。

 

●「摂取不捨の利益」とは

 

「摂取不捨」とは文字どおり、摂め取って捨てないことです。

「利益(りやく)」とは幸福のことですから、

〝ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸せ〟を

「摂取不捨の利益」といい、現代の言葉にすれば

「絶対の幸福」ともいえるでしょう。

 

人は皆、幸福を求めて生きています。

幼少の頃から不幸続きの娘が、良縁に恵まれようやく結婚した。

面倒を見てきた近所のおばさんが、娘の手を握ってこう言った。

「サッちゃん、この幸せ、絶対に離したらアカンで」


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皆、幸せをつかみ取るのに懸命です。

お金が欲しい。事業で成功したい。人の上に立ちたい。

家が欲しい。子供の成長を見たい・・・と、

夢や希望をこの手にしっかり握り締めるまでは、

と頑張って生きています。

そして夢をかなえたら、今度はそれを手離さぬよう、

必死に守り、維持しようと努めます。

しかし、いくらしがみついていても、思わぬ所でつまずき、

失い、「捨てられる」のが世の常。

倒産寸前の日産のCEOに就任し、奇跡のV字回復を遂げて

一躍〝時の人〟となり、

帝国と揶揄される独裁体制を敷いたカルロス・ゴーン氏も、

不祥事発覚で会社から捨てられました。

人気アイドルグループのタレントが、女子高生に不謹慎行為を

告発され芸能界から捨てられ、財務省事務次官がセクハラで

霞ヶ関から捨てられる。

横綱に昇り詰めながら、暴力事件で相撲界から捨てられ、

スポーツ協会の会長や理事長が、パワハラでその地位を

追われています。

たとえ真面目にやっていても、事故や病気、家庭の事情で、

いつ幸せな状態から転落するやもしれない。

何を手に入れても私たちの喜びは、長続きしないのです。

 

ある雑誌に〝大金持ちが大豪邸を売りに出す時〟

という特集がありました。

ある人は、城のような家に住むのが夢で、

プール付きの豪邸を建設。

設計図を決めているときは至福でしたが、いざ入居すると、

掃除や維持管理が大変で、「3日目にはもう嫌になりました」。

さらに東日本大震災で、広いリビングで不気味に揺れる

巨大なシャンデリアの下にいた時、

「私にはそもそもこんな豪邸は必要なかった」と

夢から覚めた心地だったといいます。

「私はもう豪華さに飽きたんです」としみじみ語る富豪もいます。

自分の心が喜べなくなったら「幸せに捨てられた」

といえるでしょう。

「幸福」と聞いて思い浮かべる私たちの幸福とは、

必死にしがみついても、やがて必ず捨てられるものなのです。

いつ捨てられるか分からない不安が常に付きまといますから、

本当の幸福とはいえません。

 

●阿弥陀仏が誓われた幸福

 

美しく咲いた花も、散る時が来る。

蓮如上人はこのように仰っています。

 

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ   (御文章1帖目11通)

 

今まで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、

いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りになるものはない。

全てから見放されて、一人でこの世を去らねばならない。

丸裸でいったい、どこへゆくのだろうか

 

こんな悲劇に向かうすべての人に、

摂取不捨の利益(絶対の幸福)を

明らかに示しているのが仏教です。

薄氷を踏むような人生に、ガチッと摂め取られて

絶対に捨てられない幸せ、何が起きても変わらない安心、

満足が欲しい。

そんなすべての人の願いをかなえる幸福が「摂取不捨の利益」

ですから、これこそ、すべての人が心の底から

求めている幸せでしょう。

この「摂取不捨の利益」は、阿弥陀仏という仏さまが、

すべての人と約束されている幸福です。

この阿弥陀仏のお約束のことを、阿弥陀仏の本願といいます。

この摂取不捨の利益を与えてくださる、

阿弥陀仏の本願一つを教えられたのが仏教だと、

親鸞聖人は断言されています。

蓮如上人は、

阿弥陀という三字をば、おさめ・たすけ・すくうと

訓(よ)める謂(いわれ)あるが故なり

と仰って、

「おさめ」(摂)

「たすけ」(取)

「すくう」(不捨)、

阿弥陀の3字には、摂取不捨の意味があると説かれています。

 

●逃げても逃がさぬ網の中

 

しかし阿弥陀仏が本願に、

「生死の巌頭(がんとう)にも変わらぬ絶対の幸福に救う」

と誓われていても、私たちは

「そんな幸せ、誰も見聞きしたこともない。

人間が絶対の幸福になどなれるものか」

と信じようともしません。想像すらできない。

だから弥陀の摂取不捨の誓願を疑い、背を向け、

それよりもこの肉体で味わえる金や名声、恋人の喜びなど、

続かない幸福ばかりを求めて逃げ回っている。

「摂取不捨」とは、そのように逃げ惑う者を、阿弥陀仏が

どこまでも追いかけて救う意味だと、親鸞聖人は仰っています。

やがて必ず捨てられる幸福しか知らず、

果てしない過去から迷い続けてきた私たちを、

阿弥陀仏はあわれみ悲しみ、

「見捨てぬはせぬぞ。必ず救う」

と追いかけ、逃げ場のなくなるまで追い詰め、

そして絶対の幸福に救い摂ってくださるのです。

「去る者は追わず、来る者は拒まず」

そんな冷たい心では、誰も助かりません。

阿弥陀仏の願心は、仏に背を向けて逃げ回る者を、

「逃してなるか、おまえを絶対の幸福に救えなかったら

正覚(仏の命)を捨てる」

と命懸けで摂取してくださる、まことの大慈悲心なのです。

 

前述の丹羽文雄氏は、浄土真宗の寺に生まれましたが、

教団組織に反発し、作家活動をするために寺を出ます。

しかしやがて、阿弥陀仏の摂取不捨の御心を知るや、

「自分の親鸞観が如何に浅薄なものであったかを知った」

                (丹羽文雄『親鸞紀行』)

と〝坐りなおすほどの衝撃〟を語っています。

「ここに辿りつくまでに私は、生家の寺をとび出し、

宗教はじゃまだと思い上がり、さんざん道草をくってきたが、

『疑謗を縁とせよ』と、親鸞はとうの昔に私のような

小ざかしさを見透かしていたのである。

俗な言葉でいえばぐうの音も出ないというのが実感である」

                  (『親鸞』)

 

●この世も来世も救われる

 

また本誌の読者からもこのような感想が寄せられています。

 

「同世代の人と話すと、金融詐欺に遭い、

二度とだまされたくないとの思いから

経済や金融の勉強を始めた人、

株で大損してコリゴリしている人、

会社で信頼していた上司から嫌がらせを受けて

精神的に追い詰められている人など、皆、

信じていたものに裏切られ、苦悩していることが

分かります。

たとえしばらく続いても、最後、死んでいく時には、

何一つ持って行けない。一体、何のための人生なのかと

問わずにおれません。

そんな私たちに、『摂取不捨の利益を与える』と

約束なされている弥陀の誓願こそ、人生の目的、

多生の目的と知らされました」

             (愛知県・40代男性)

「『絶対に捨てることはないよ』と誓われている

弥陀の本願よりほかに、人生懸けて求むべきものはないと

知らされます。にもかかわらず、はかない幸福を追いかけ回し、

弥陀の本願から逃げ回っているのが、私たちの実相です。

そんな者を追いかけ、追い詰めて助けてくださるのが『摂取』の

お働きとお聞きし、そんな本願でなければ、誰一人救われない、

と知らされました」    (新潟県・30代女性)

 

この弥陀の本願を親鸞聖人は、船に例えて「大悲の願船」と

言われています。

苦しみの波の絶えない生死の苦海で溺れ苦しむ私たちが、

この船に乗せられた時が、摂取不捨の利益にあずかった時です。

この船は極楽浄土へ向かって進む船ですから、

乗せられると同時に、浄土往生できるとハッキリします。

『歎異抄』1章冒頭の

「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて、往生をば遂ぐるなりと

信じて」は、

「弥陀の本願の大船に乗せていただいて、往生できると

明らかになり」

という聖人の断言なのです。往生一定といいます。

もちろんそれは、死んでからではなく、現在ただ今のことです。

弥陀の本願の救いとは、この世(現世)も、来世(当世)も

救われる現当二益(げんとうにやく)なのです。

 

●聞く一つで、摂取不捨の幸福に

 

しかし、そんな幸福が本当にあるのでしょうか。

親鸞聖人は、阿弥陀仏のお約束どおり、

摂取不捨の幸福になられた時、

 

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ   (教行信証総序)

 

摂取不捨の幸福に助けてみせると誓われた阿弥陀仏の本願

(摂取不捨の真言)まことであった、本当だった、

と歓喜なされています。

では、どうすれば親鸞聖人と同じように、

弥陀の本願まことを知らされるのでしょうか。

聖人は続けて、

聞思して遅慮することなかれ

と仰っています。

「聞思する」とは聴聞することです。

 

仏法は聴聞に極まる

 

「聞く一つ」で弥陀の本願に救われますから、親鸞聖人は、

真剣な聴聞を勧められています。

「遅慮することなかれ」とは、弥陀の本願にウソはない、

必ず摂取不捨の幸福になれるから、聞法のご縁があれば、

迷わず聞きに行きなさい。

二の足踏んではいけませんよ、ということです。

蓮如上人も同じく、

 

至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり。

水よく石を穿つ。

「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん」

といえる古き詞あり。

いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、

御慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり   (御一代記聞書)

 

とお勧めです。軟らか水であっても、ポタポタと同じ所に

続けて落ち続ければ、どんな硬い石にも穴を開けることができる。

どんなに聞かぬ心であっても、不断に聞法する人は、

阿弥陀仏のお力によって、必ずまことの本願(お約束)だった

と疑い晴れる時が来る、そこまで聞きなさいよとの仰せです。

必ず絶対の幸福(往生一定)になれる時があります。

あきらめず、ひたすら弥陀の本願を聞かせていただきましょう。

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「他力本願」とは誰でも「金剛心」にする阿弥陀仏のお約束 [阿弥陀仏の本願]

     「他力本願」とは

          誰でも「金剛心」にする

                     阿弥陀仏のお約束

 

   いかなる人の

   どんな言葉にも動ぜず

   感謝と喜びに転ずる幸せ

 

「他力」は自分以外の人の力ではなく、

阿弥陀仏のお力のみをいい、「他力本願」とは、

阿弥陀仏の本願のお力のことだと、巻頭特集で学びました。

(ブログには載せていません)

阿弥陀仏は、お釈迦さまが私たちに紹介された仏さまです。

今日、最も広く知られている仏さまといっていいでしょう。

阿弥陀仏は、大宇宙あまたの仏方の先生であり、

王さまの仏であることが、7000余巻の経典の至るところに

書かれています。

 

阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり(大阿弥陀経)

(阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王さまだ)

 

諸仏光明の王、光明の中の最極尊なり(平等覚経)

(諸仏の中で阿弥陀仏のお力は、最高無上である)

 

天台宗の荊渓(けいけい)という学者は、

諸経に讃ずるところ多く弥陀に在り

と、どのお経を読んでも、お釈迦さまは阿弥陀仏のことばかり

褒めたたえておられると驚嘆しています。

親鸞聖人は、この釈迦の教法をそのまま私たちに

教えられたお方ですから、

 

仏光照曜最第一

光炎王仏となづけたり  (浄土和讃)

阿弥陀仏の偉大さは、諸仏と比較にならない別格だ

 

と仰っています。

これを蓮如上人もまた、

 

ここに弥陀如来と申すは、

三世十方の諸仏の本師・本仏なり (御文章2帖目8通)

 

と、教えられています。

2600年前に活躍されたお釈迦さまは、今日、世界の偉人の

トップに挙げられていますが、そのお釈迦さまが80歳で

お亡くなりになられるまで教えられたことは、

「阿弥陀仏の本願一つ」だと、親鸞聖人は明示されました。

 

如来所以興出世 

唯説弥陀本願海  (正信偈)

釈迦如来がこの世に生まれられたのは、

唯一つ、弥陀の本願海を説くためであった

 

釈迦一代の教えとは何か。大宇宙の仏方の師である

阿弥陀仏の本願、唯一つであったのです。

この阿弥陀仏の本願を「他力本願」といいます。

「本願」とは、本当の願い。大宇宙最尊の阿弥陀仏は、

苦しみ悩みから離れられないすべての人を、

哀れみ悲しみ、何とか本当の幸せに救ってやりたいと

願われ、誓いを建てられました。

それが阿弥陀仏の本願(お約束)です。

大宇宙にあまたの仏がましましても、すべての人を相手に、

絶対の幸福に助けるという、こんなとてつもない誓い(願)を

建てられる仏はありません。

だから『正信偈』には、

 

建立無上殊勝願 無上殊勝の願を建立し

超発希有大弘誓 稀有の大弘誓を超発せり。

 

阿弥陀仏は、殊に勝れた無上の願いを建てられ、

大宇宙に二つとない偉大な誓い(お約束)をなされた

と重ねて絶賛されています。

 

●仏さまの願いと私たちの願い

 

どんな人も、つらいことや、苦しみ悩みを厭い、

幸せになりたいと願っています。

政治・経済・科学・医学・法律など、

私たちの全ての営みは、幸せになりたいと願ってのことです。

しかし、あらゆる分野で著しい進歩を遂げたといわれる

20世紀において、戦争のない日は一日もありませんでした。

世界50カ国を巻き込んだ世界大戦の反省もむなしく、

今日もなお争いは絶えません。

家庭内戦争は日常茶飯事。職場や、学校、

レジャーランドでさえも、人が集まるところには

争いが起こります。

世界の人々が平和を願い、安心・満足したいと願っていますが、

なせかなわぬのでしょうか。

自分の思ったとおりにしたいというのが、私たちの願いです。

書店に行くと、

「なぜ子供は親の思うように育たないか」

「妻が(夫が)、私の話を聞かなくなった」

「相談できる人が欲しい」

「うまくいかないと悩む」

などの本や見出しが目に入ります。

それぞれが相手を、自分の思いどおりにしたいと

願っているのです。

こんな歌があります。

 

世の中は 一つかなえばまた二つ

   三つ四つ五つ 六つかしの世や

 

一つ自分の思いどおりになると、もっと願望をかなえたい、

もっと満足したい、安心したいと、際限がありません。

また、思いどおりにならないと、邪魔したと思われる相手に

腹が立ちます。

車中で、秘書への暴力・怒号が明るみに出た

議員さんがありました。

思いどおり動かぬ秘書へのイライラを思う存分ぶつけて、

スッキリしたかったのか。

ぶつけられた側は、忍耐の限界を超え、暴露してしまった。

親が子供に、夫が妻に、妻が夫に、上司が部下に、

怒りをぶつけると、結局、双方ジゴクで苦しみます。

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あるテレビの街頭インタビューで、

「他人の不幸を喜ぶのは、男性・女性のどちらだと思いますか?」

という質問に、

「それは、男性でしょ」と男性は答え、

「女性ですよ!」と女性は答えていました。

人間は皆、他人の幸せを妬み、不幸を願う愚痴の心が

うごめいていると、お釈迦さまは教えられています。

 

このように私たちの願いは、順境の時は、

もっともっとと欲が膨れ上がり、逆境になれば、

怒り・恨みを晴らそうと思う。

どちらにしても幸福ではなさそうです。

たとえ願いが満たされても、この世は50年乃至100年、

長いようで短い夢・幻の一生です。

やがて必ず私たちは、生涯かけて手にした全てを手離し、

たった独りで後生(来世)へと旅立っていかねばなりません。

 

幸せ求めて放浪しながら、苦しみから離れ切れない私たちを、

「必ず絶対の幸福にしてみせる」

と阿弥陀仏は誓われました。

それが阿弥陀仏の本願です。

そして、その本願には、すべての人を

絶対の幸福にするお力があります。

これを本願力とも、他力ともいいます。

どんなお力なのでしょうか。

親鸞聖人は、

 

無明長夜の闇を破し

衆生の志願を満てたまう  (高僧和讃)

 

と道破されています。

本願力とは、遠い過去から私たちを苦しめてきた無明の闇を

破り、どんな人をも大安心・大満足の絶対の幸福にする

お力だと教えられているのです。

ただ今絶対の幸福に救われた人は、いつ死んでも無量光明土へ

往って仏に生まれられます。

無量光明土とは、限りなく明るい世界で、

阿弥陀仏の極楽浄土のこと。

一息切れる(死ぬ)と同時に、その無量光明土へ往って

仏に生まれられる(往生一定)となれば、現在ただ今から、

生きてよし、死んでよし。

行く先のハッキリしない不安な人生が、

明るい無量光明土へ向かう人生に大変わりします。

それは全く、本師本仏の阿弥陀仏の、

命を懸けて誓われた熱い願いによる、

その願いを果たすお力を他力というのです。

仏語に虚妄なし

無上の仏さまのお言葉にウソ偽りはありません。

親鸞聖人は29歳の時に、この弥陀の本願のとおりに救われて、

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)

と表明されています。

摂取不捨の真言も、超世希有の正法も、

阿弥陀仏の本願(お約束)のことですから、

阿弥陀仏のお約束まことだった、まことだったと

歓喜踊躍されたのです。

 

●弱そうで強いもの 強そうで弱いもの

 

「他力」と聞くと、弱いイメージですが、

弱そうで強いのは舌、強そうで弱いのは歯です。

何でもバリバリ噛む歯は、一見、硬くて強そうですが、

年を取ると欠けたりポロッと抜けたり、

案外もろいものです。

一方、舌は柔らかく弱そうですが、幾つになっても

舌抜けばあさんの話は聞こえてきません。

年を取れば取るほど、いよいよおしゃべりに大活躍するのが

舌です。

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巻頭特集で紹介した石山戦争で、千軍万馬の信長軍は

どう見ても強そうです。

農民、町民が中心の本願寺は何だか弱そうです。

しかし、なぜ本願寺は信長軍に屈しなかったのでしょうか。

信長の軍隊は、戦で勝って領土を拡大したい、

出世したいという願いで生きていた。

しかし、死ねば何もかもおしまいです。

そういう、強そうでもろい人生観の者たちの集まりでした。

ところが本願寺は、生きては絶対の幸福、

死しては無量光明土の身に救うという弥陀の本願に生きている。

ここに他力本願の、底知れぬ強さがあるのです。

 

行者正受金剛心 (正信偈)

(弥陀に救われた人(行者)は、正しく金剛心を受ける)

 

阿弥陀仏の本願に救われ、絶対の幸福になると、

〝金剛心を獲る〟と親鸞聖人は教えられました。

金剛とはダイヤモンド。この世でいちばん硬く強いものです。

皆、「折れない心」になりたいと願っていますが、

弥陀の本願に救われたなら、正しく金剛心になれます。

金剛心とは、どんな心でしょうか。

 

如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変らざる心を

金剛心という    (後世物語聞書)

 

「如何なる人」とは、例えばテレビによく出てくる

智者や学者などです。

私たちは権威に弱く、有名な知識人や学者に否定されると

自分が間違っているのでは、と動揺しますが、

そんな人たちに、「この世で救われることなんてあるものか、

絶対の幸福なんて妄想だ」と一斉に攻撃されても、

全く変わらない心が金剛心です。

「かわいそうになあ、知識や学問では、

この喜びは到底分からないだろう」と、

金剛心の人は、そしりも非難も、他力本願に生かされた

身の幸を深く知らされる勝縁となり、

感謝と喜びに転ずるのです。

 

親鸞聖人波乱の90年の生涯から、その金剛心のすごさが

鮮やかに知らされます。

常に非難攻撃のまっただ中にありながら、命の危険を顧みず、

唯、弥陀の本願の布教に徹せられました。

百獣の王・ライオンのごとく、大地を踏み締め進む象のごとく、

親鸞聖人の威風堂々の信念に引かれる人は、

昔も今も少なくありません。

自分の弟子や信者が、親鸞聖人を慕うようになった山伏弁円は、

嫉妬に狂い聖人殺害を企てました。

しかし白昼、剣をかざす弁円の前に、

数珠一連で立たれた聖人の偉大な信念に、

弁円はくずおれ、聖人のお弟子・明法房と新生したのです。

命を狙われても屈せられない親鸞聖人、

その聖人の教えのままに生き抜かれた蓮如上人、

信長も恐れさせた親鸞学徒の先人たちの姿は、

人の言葉くらいでは微動だにしない、

少しも変わらざる金剛心の証でしょう。

『歎異抄』第7章には、

 

天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし

(本願他力に生かされ金剛心を獲た人には、

天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も

妨げることができなくなる)

 

と聖人は仰っています。

 

ではどうすれば、いつ死んでも無量光明土へ往く身となり、

生きてよし・死んでよし、何ものにも恐れぬ

スゴイ金剛心になれるのでしょうか。

阿弥陀仏は、本願聞く一つで絶対の幸福(往生一定)に

救うと誓われています。

その阿弥陀仏のお約束どおりに、往生一定の身になられた

聖人は「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ」

〝弥陀の本願まことだから、迷いなく聞法一筋に

進みなさいよ。逡巡しては大損失ですよ〟

と生涯、本願他力、弥陀の本願をたたえ、伝え続けられたのです。

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弥陀に救われれば、一味平等の絶対の幸福に生かされる! [救われるとどうなる]

        広がる一味平等の世界

 

凡・聖・逆・謗斉(ひと)しく廻入すれば

衆水の海に入りて一味なるがごとし (正信偈)

 

(阿弥陀仏の本願に救われたならば、
凡夫も聖者も、五逆の罪人も謗法の極悪人も、
皆、一味平等の絶対の幸福に生かされる。
それは大小清濁、さまざまな川の水が
海に流れ込めば、海水と一味になるようなものである。)
 
時代や場所にかかわらず、阿弥陀仏の本願に救い摂られた人は
誰でも、等しく絶対の幸福になれることを宣言された親鸞聖人の
『正信偈』のお言葉です。
 
親鸞聖人の著作は、ご自身が本願に救い摂られた歓喜(自信)と、
「すべての人よ、早く弥陀の本願に救われて、親鸞と同じ
無上の幸せになってもらいたい」という
教人信の御心であふれています。
(自信教人信・・・中国の善導大師のお言葉。自ら阿弥陀仏に救われ、人々に阿弥陀仏の救いを伝えること)
 
『正信偈』の最後も、
「道俗自衆共同心(どうぞくじしゅうぐどうしん)」
(皆人よ、どうか親鸞と同じ心〈絶対の幸福〉に
なってもらいたい)と結んでおられます。
 
ところが、どんな人も平等一味に助ける弥陀の救いを
知らない人は、
「あのように喜べるのは親鸞聖人のような特別に優れた方だけで、
私のような凡人は、とても絶対の幸福になれるはずがない」
と思ってしまいます。
実は、その心こそ阿弥陀仏の本願の誤解だから、
聖人は一味平等の弥陀の救いを徹底して
明らかにしていかれたのです。
 
●親鸞聖人と法友との大論争
 
かつて親鸞聖人が、法然上人のお弟子であった時、
この問題について法友と大きな論争をなされたことがありました。
これを「信心同異の諍論」といわれます。
 
親鸞聖人は29歳の御時、法然上人と出会われ、
阿弥陀仏の本願を聞かれるようになりました。
そして、弥陀の本願によって絶対の幸福に救い摂られ、
すぐに法然上人のお弟子となられたのです。
この論争は、お弟子となって5年後の聖人34歳の時でした。
 
相手は、法然門下の高弟といわれた聖信房、勢観房、
念仏房ら3人。
そうそうたる弟子の面前で聖人が、
「御師法然上人のご信心も、この親鸞の信心も、
少しも異なったところはございません。
全く同じでございます」と、
何の遠慮もなく言い切られたことから始まった。
親鸞聖人の「信心は同じ」の宣言は、聖信房や勢観房らにとって、
まさに青天の霹靂。
「何ということを親鸞!お師匠さまを冒涜するにもほどがある。
聞き捨てならんぞ」
尊敬する師を侮辱する発言と受け取った3人は激高し、
厳しく親鸞聖人をとがめる。
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当時、法然上人は「知恵第一」「勢至菩薩の化身」と
尊崇されていた。
とりわけその名をとどろかせたのは文治2年(1186年)、
京都の大原で行われた大論争である。
増大する法然上人の帰依者に、天台宗や真言宗などの
各宗も黙視できず、宗派を代表する全国の仏教学者300余人が
結託し、法然上人に論争を挑んだのである。
論議は一日一夜に及んだが、ついに法然上人に軍配が挙がった。
法然上人の理路整然たる話に納得し、
高徳に打たれた満座の聴衆は、
声高に念仏を称え、その声は三日三晩、大原の山に響いたという。
世に「大原問答」「大原談義」といわれている。
そんな日本一の大学者・法然上人と同じ信心になれるとは、
3人は夢にも考えられなかったから、
親鸞聖人を激しく非難したのだ。
「親鸞、そなたお師匠さまをどんなお方か知ってのうえか。
どうして信心が同じだなどと言えるのか。
弟子として言うまじき言葉だ。うぬぼれもいいかげんにしろ」
親鸞聖人は穏やかに、だが断固として言い切られた。
「どうか皆さん、お聞き違いなさらないでください。
私は、知恵や学問が、お師匠さまと同じだと
言っているのではありません。
ただ信心が、同じだと言っているのです」
しかし3人は、全く納得できない。平行線をたどり、
とうとう法然上人のご裁断を仰ぐことになった。
 
親鸞聖人も、聖信房、勢観房、念仏房ら3人も、
同じく法然上人を師と仰ぎ、その優れた知恵と高徳に
深く敬服していたにもかかわらず、なぜ対立したのか。
いぶかる人も多いに違いありません。
この論争の焦点は、法然上人の信心と弟子の信心が、
同じになれるかどうかの一点でした。
勢観房らの主張は、
「知恵第一、勢至菩薩の化身と崇敬されるお師匠さまと
我々が同じ信心になれるはずがない」
というものでした。
それに対して親鸞聖人は、「私は法然上人と同じ信心です」と
言われたので、真っ向からぶつかったのです。
 
●師・法然さまのご裁断
 
法然上人は、改めて両方の言い分を確認されてから、
静かにこう話された。
 
信心が異なるというのは、自力の信心であるからだ
 
勢観房らに雷にうたれたような衝撃が走った。
顔色を失い、ガックリうなだれる。
「異なるのは、自力の信心か・・・」
常々、法然上人から、自力では阿弥陀仏の浄土へは
往けないことを聞かされていた3人は、自分たちの信心が
自力の信心と知らされて愕然としたのは当然だろう。
 
ここで、法然上人の仰る「自力の信心」とは何か。
その前に、まず「信心」ということについて、
明らかにしておかねばなりません。
一口に「信心」といっても、いろいろあります。
漢字を見れば、〝心〟で何かを〝信〟じているのが
「信心」です。私たちは何かを信じなければ、
一日たりとも生きてはいけません。
明日ありと信じて生きている〝命の信心〟、
子供を頼りにしている〝子供信心〟、
金や財産をあて力にして生きている〝金信心〟や
〝財産信心〟も多いでしょう。
病院の薬の成分を確かめもせず、ポーンと口に放り込むのは
医師を信じてのこと。
床屋でカミソリを首筋に当てられながら平気で居眠りできるのも、
「めったなことはない」と理容師を信じているからでしょう。
このように、広くいえば生きること自体が信ずることですから
無信心の人は一人もいないのです。
何をどう信じるかは一人一人異なりますから、
このような信心に同じ信心は毛頭ありえません。
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また世間一般で「信心」といえば、
特定の仏や菩薩や神などを信じていることをいいます。
「何を信心していますか」
「もっと深く信心しなさい」
「信心が足らないとゴリヤクはないよ」
などと会話される信心です。
これらの信心も各人各様ですから同一の信心はありえません。
 
しかし、今ここで親鸞聖人と勢観房らの論争の的となっている
信心は、先に述べたような信心とは全く異なる、
世にも不思議な信心です。
それは真実の仏法・阿弥陀仏の本願を聞いて初めて生ずる、
自力の信心」「他力の信心」といわれる信心のことなのです。
弥陀の本願を聞いて、初めて現れる信心ですから、
本願を聞かないことには、これらの信心は理解できません。
阿弥陀仏の本願とは、本師本仏の阿弥陀仏が、
命を懸けて、すべての人とお約束なされている次のような
お誓いです。
 
どんな人も、聞く一念に絶対の幸福に救い、
必ず極楽浄土に往生させる
 
この弥陀の本願を聞いた人が、自分の知恵や学問で
「絶対の幸福など、本当にあるのだろうか。
どう聞いたら、どう信じたらよかろうか」
などと本願を疑い、計らっている信心を「自力の信心」
といわれるのです。
 
●自力の信心は一人一人違うもの
 
法然上人は、次のように仰っています。
自力の信心は、知恵や学問や経験や才能で作り上げるもの。
その知恵や学問や経験や才能は、一人一人異なるから、
自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ
人間の知恵や学問、才能や経験は一人一人異なり、
千差万別ですから、その異なる知恵や学問で本願を計らう
自力の信心は、一人一人違って当然です。
 
昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、
同宿して争っている。
「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」
と、高山の男は言う。
「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。
この目でいつも見ていることだ」
と、一歩も引かないのは大島の男。
そこへ宿屋の主人がやってきて、
「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。
太陽は屋根から出て屋根へ入るもの。
毎日見とりますから間違いない」
と笑ったという。
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同じ時計の音でも、金回りのいい人には、
「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」
と聞こえるそうだが、借金に追われている者には、
「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」
と時計までもが催促するという。
一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、
各人各別の知恵や才能、経験で固めた自力の信心は、
異なるのが特徴なのです。
 
●他力の信心は万人共通
 
続いて法然上人は「他力の信心」は万人共通と明かされます。
 
他力の信心は、阿弥陀如来からともに賜る信心だから、
誰が受け取っても、皆同じ信心になるのである。
それゆえに、阿弥陀如来から賜った私の信心も、
親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。
全く同じになるのだよ
「他力の信心」は、知恵や才能や経験などと関係なく、
男も女も、老いも若きも、賢い人も愚かな人も、
富める人も貧しい人も、平等に阿弥陀仏から頂く信心だから、
万人が同一になれるのです。
同じテレビ局の放送は、受信するテレビの大小、新旧、
製造会社の違いにかかわらず、内容は全く変わらないのに
例えられるでしょう。
最後に法然上人は、
この法然が賢くて作った信心ではないのだ。
法然と異なる信心の者は、私の往く極楽浄土へは往けませんよ。
心しておきなさい
と諭され、くれぐれも弥陀より賜る他力の信心を
間違ってくれるなよ、と念じられました。
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●弥陀から直に賜る信心
 
このように法友と激しい論争をなされてまで
鮮明にしてくだされた一味平等の他力信心を、
冒頭の『正信偈』のお言葉で親鸞聖人は教えられているのです。
 
凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、
衆水の海に入りて一味なるが如し
 
「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば」とは、
凡夫も聖者も、五逆、謗法の大罪人も、
同じように他力の信心を獲得すれば、ということ。
「衆水」とは、あらゆる河川の水です。
万川には、大小、清濁、いろいろあるでしょう。
しかし、ひとたび大海へ流れ込めば、
海水の一味に溶け込むように、
健常者・障害者・人種や職業、貧富、才能の有無など関係なく、
同じ無碍の世界へ共生できるのだよ、と仰っているのです。
「他力の信心」は、阿弥陀仏から直に賜る信心ですから、
「他力廻向の信心」といわれ、その信心を獲たことを
「信心獲得」といわれるのです。
知識(仏教の先生)から、「それが信心獲得だ」と
認知されるように思っているのは大変な誤解で、
そのようなことはお釈迦さまはじめ、七高僧、親鸞聖人、
覚如上人、蓮如上人も一切、なされていません。
「Aさんは、40歳7ヶ月で獲信した」
「Bさんは、5年6ヶ月で獲信した」
「CさんとDさんはまだだ」
といった記録が善知識方の書かれたものに一切ないのは、
信心の認可などなされなかったからです。
他力の信心は、人間が与えたり、
「それでよい」と認可するものではないのです。
また、他力の信心は「これで信心獲得できたのだろうか」と
他人に確認しなければならないものではありません。
明信仏智で、獲信した本人がハッキリ知らされることだからです。
(明信仏智・・・阿弥陀仏の本願がハッキリ知らされること)
 
「他力の信心ということをば、今既に獲たり。(乃至)
弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明らかに知られたり」
                 (御文章2帖目13通)
阿弥陀仏から他力の信心を頂けば、時代を超え国境を越えて、
万人が親鸞聖人と同じ大安心・大満足の信心を
味わわせていただくことができます。
私たちも親鸞聖人と同じ、時空を超える絶対の幸福の身に
生かされるまで、真剣に弥陀の本願を聞かせていただきましょう。

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蓮如上人、「なぜ生きる」の答えを全国津々浦々に! [蓮如上人]

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蓮如上人(れんにょしょうにん)は今から600年前、

室町時代にお生まれになりました。

当時の浄土真宗は衰微の極みにあり、

「人跡たえて、参詣の人一人もみえさせたまわず。

さびさびと・・・」(本福寺由来記)

と三間四面の小さな本願寺本堂に、

閑古鳥が鳴いている有り様でした。

このあまりに寂れた現状に、蓮如上人は、

15歳で真宗再興を固く決意なされ、

一代で浄土真宗を日本一の教団となされたのです。

今日「真宗中興の祖」といわれています。

 

トンチで有名な禅僧・一休とは同時代で親交が深く、

あの一休さんが、蓮如上人には一目も二目も置いていました。

二人のさまざまなエピソードが伝えられています。

例えば、上人が47歳で勤修された、親鸞聖人200回忌法要の時に、

一休は門前でこんな歌を残しています。

「襟まきの あたたかそうな 黒坊主

こいつが法は 天下一なり」

墨染めの衣を召された聖人の御影を

「襟まきの、あたたかそうな黒坊主」とは

一休らしい表現ですが、彼が親鸞聖人を尊敬し、

聖人の教えを天下第一と認めていたことが分かります。

 

●ご門徒に手紙で説法

 

蓮如上人といえば、「御文章」が有名です。

ご門徒に出されたお手紙のことで

「御文(おふみ)」ともいわれ、

人は何のために生まれ、生きているのか、

「なぜ生きる」の大問題を明らかにされた親鸞聖人のみ教えを、

分かりやすく、平易な文章で記されています。

昔から、

「親鸞聖人の教えを知りたければ、『御文章』のとおりに

説く人から聞きなさい」

と言われるほどです。

蓮如上人は生涯に、数百通の「御文」を書かれたといわれ、

現存するものだけでも200通を超えています。

中でも特に親しまれ、短い中に親鸞聖人の教えが

全て凝縮されているのが「聖人一流章」です。

 

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●常に親鸞聖人の教えばかりを

 

蓮如上人は、まず、

「親鸞聖人が一生涯教えられたことは」

(聖人一流の御勧化の趣は)

と書き出されています。

ご自身の考えではなく、「親鸞聖人の教えばかり」を

常に説かれています。

『御文章』はこの御心で貫かれ、

 

それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の

一義の意(こころ)というは・・・」。(2帖目10通)

抑(そもそも)、親鸞聖人の一流に於ては、

平生業成の儀にして・・・」(1帖目4通)

抑、親鸞聖人の勧めたまうところの一義の意は・・・

                (3帖目7通)

 

枚挙にいとまありませんが、いずれも

「親鸞聖人はこう教えられた」

「親鸞聖人の教えはこうだ」

と仰っています。どこにも

「この蓮如は」

の主張は見られません。このように85年の生涯、

蓮如上人の布教姿勢は一貫して変わりませんでした。

 

それに対し、〝私は、ああだった、こうなった〟と、

自分が救われた具体的な体験を語る人がありますが、

そんな体験談は各人各様、その人だけのもので、

古今東西変わらぬ普遍的な「教え」ではありません。

三世十方を貫く「法」とはいえないものです。

そんな体験談を語る人は、親鸞学徒の鏡(手本)と

仰がれる蓮如上人の布教精神に全く反しているのです。


 

●信心が肝要

    冒頭に核心をズバリ

 

では、蓮如上人が私見を交えず伝えられた親鸞聖人の教えとは、

どんな教えなのでしょう。次に、

 

聖人一流の御勧化の趣は、

 信心をもって本とせられ候

(親鸞聖人のみ教えは、

 信心一つで救われる教えである)

 

とズバリ核心を明らかにされています。

親鸞聖人といえば

〝お念仏を称えたら誰でも極楽に往ける〟

と教えた方と思う人が多いでしょう。

ところが、親鸞聖人は

「浄土往生の真(まこと)の因は、ただ信心一つである」

と仰っていますから、蓮如上人も

「弥陀の救いは信心一つ」

と教えられているのです。

浄土真宗の布教使の中には、

〝念仏さえ称えれば、必ず救うと誓われたのが阿弥陀仏だ〟

と言う人があります。

だから、ただ口に念仏を称えていれば

極楽に往生一定できるように誤解している人が

非常に多いのです。

しかし蓮如上人は、「信心一つで浄土へ往ける」と鮮明に説かれ、

これを知る者こそが親鸞学徒であり、

これを知らないのは他宗であると、

 

祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり。

これを知らざるをもって他門とし、

これを知れるをもって真宗のしるしとす

           (御文章2帖目3通)

とまで仰っています。

では「信心一つが肝要」と仰る、その「信心」とは

いかなるものでしょうか。

親鸞聖人の教えられた「信心」は、

一般にいう〝私の心で何かを信ずる〟信心とは

全く違います。こう教えられています。

 

信心といえる二字をば、『まことのこころ』と

訓(よ)めるなり

             (御文章1帖目15通)

この信心をば、まことのこころとよむうえは、

凡夫の迷信にあらず、まったく仏心なり。

この仏心を凡夫にさずけたまうとき、

信心といわるるなり」   (歎異抄)

 

親鸞聖人の説かれる「信心」は「まことの心」であり、

まことなき人間(凡夫)の迷心ではない。

「全く仏心なり」と明示されています。

仏心とは、本師本仏の阿弥陀仏の御心、

すなわち「南無阿弥陀仏」のことです。

この仏心(南無阿弥陀仏)を阿弥陀さまが私たちに

授けられたのが「信心」である、と教えられています。

私たちが弥陀より「信心」を賜るのですから

「信心獲得」といいます。

 

蓮如上人は、同じ『御文章』1帖目15通に、

また名号をもって、何の心得も無くして、

ただ称えては助からざるなり

と、ここでも〝南無阿弥陀仏とただ称えるだけでは

助かりませんよ〟と先の誤解を正されているのです。

 

●「なぜ生きる」の答え

 

本師本仏の阿弥陀仏は、

「すべての人を、生きている平生に、

絶対の幸福、往生一定に救う」

と誓われ、そのお約束を果たすために、

大宇宙の万善万行の結晶であると名号(南無阿弥陀仏)を

創られました。

ですから南無阿弥陀仏には、すべての人を絶対の幸福にする

凄い働きがあります。

その大功徳を親鸞聖人は、

「功徳の大宝海」

とたたえられています。この南無阿弥陀仏を頂けば、

どんな人も、この世で絶対の幸福に救われ、

いつ死んでも往生間違いなしの大安心になれる。

それが私たちの「なぜ生きる」の答えだ、

と親鸞聖人は明らかになされています。

それはひとえに弥陀の不可思議なお力によるのだよ、と

 

不可思議の願力として、仏の方より往生は

治定せしめたまう

 

と教えられているのです。

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この大宇宙最高の宝である南無阿弥陀仏を獲得して、

私たちは無上の幸福に救われるのですから、

根本に尊ぶべき本尊は「南無阿弥陀仏」の御名号であると

親鸞聖人も蓮如上人も一貫して教えられ、生涯、

御名号以外には本尊となされませんでした。

これは歴史上の事実です。

ところが果たして現今の浄土真宗で、両聖人のご教示どおり

「南無阿弥陀仏」を本尊にしているところが、

どれだけあるでしょうか。

 

●大功徳を賜るのは「一念」

 

次に蓮如上人は「聖人一流章」に、

 

その位を『一念発起・入正定之聚

(いちねんぽっき・にゅうしょうじょうしじゅ)』とも釈し

 

と仰っています。「一念」とは、「時剋の極促」ともいい、

一秒よりずっと短い時間の極まりをいいます。

弥陀より南無阿弥陀仏(名号)を賜るのは「一念」と

教えられているのです。

その一念に「正定聚に入る」。

「正定聚」とは、正しく仏になると定まった位のこと。

これこそが絶対の幸福です。

平生の一念に正定聚の身になれば、来世は無量光明土に

往って仏に生まれることがハッキリいたします。

この親鸞聖人の教えを「平生業成」というのです。

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●「信心一つで助かる」

 ではお念仏は?

 

「聖人一流章」の最後には、

 

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたいし

御恩報尽の念仏と、心得べきなり

 

と仰っています。信心獲得してからの念仏は、

いつ死んでも浄土往生間違いない身にしてくだされた

阿弥陀仏へのお礼の念仏だと教導されています。

もちろんこれは、信心獲得するまで念仏称える必要はないとか、

称えないほうがいいということではありません。

弥陀の救いを求めて真剣に聞法していけば、阿弥陀仏が、

今も私に南無阿弥陀仏を与えて助けようと

全力尽くされていることが知らされて、

尊いお念仏を称えずにおれなくなってくるのは

当然のことです。

しかし、先にも書いたとおり、念仏さえ称えていれば、

死んだら極楽浄土できる、というのは全くの誤解ですから

気をつけてください。

また、かなりの学者でも

「そうやったなと気がついたら、ありがとうございますと

言えばいい、それが念仏」

と言う人がありますが、〝そうやったなあと気がつく〟のは

信心ではないのです。

そんなことなら「信心獲得」とは言われません。

弥陀のお手元にある南無阿弥陀仏(名号)を一念で賜り、

私が南無阿弥陀仏と一体(仏凡一体)になったことを

「信心獲得」といい、この弥陀廻向の信心が、

浄土に往生する正しい因であることはすでに述べました。

信心獲得してからの念仏は、お礼ですから、これを

 

信心正因 称名報恩

 

といわれます。信心一つで助かる(信心正因)、

称名念仏はお礼(称名報恩)という浄土真宗の教えの骨格を、

蓮如上人はここで明らかにされているのです。

 

このように、短い「聖人一流章」の中に

親鸞聖人の深いみ教えが余すところなく

凝縮されていることがお分かりでしょう。

こうした「御文章」を蓮如上人のお弟子や門徒の人々が

何通も書き写し、各地で多くの人々に読み聞かせたことで、

親鸞聖人の教えが日本中に弘く浸透していったのです。

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●最もお喜びに

     なることは

 

一器の水を一器に移すがごとく、親鸞聖人のみ教えを

正確に伝えることに生涯を懸けられた蓮如上人は、

ご遺言でも信心一つの救いを教示されています。

 

あわれあわれ、存命の中(うち)に

皆々信心決定(しんじんけつじょう)あれかしと

朝夕(ちょうせき)思いはんべり

            (御文章4帖目15通)

不憫だなあ、命のある平生に、

みなみな信心決定してもらいたい。

終日、思いつづけているのはそのことひとつである

 

ではどうすれば、「信心決定(信心獲得)」の身に

救われるのでしょうか。経典に、

 

聞其名号」(大無量寿経)

 

その名号を聞いて〟助かると明らかに教示されています。

これを蓮如上人は

「仏法は聴聞に極まる」

と仰り、次のような例えで教えられています。

 

至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、

水よく石を穿つ。

『心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん』

といえる古き詞あり。

いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、

御慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり」   (御一代記聞書)

 

古来「初志を貫徹すれば、成就できぬことはない」

と聞く。堅い石でも長期間、一カ所に継続して水滴が落ちれば、

軟らかい水で穴が開くように、たゆまぬ聞法こそが大切である。

どんなにしぶとく疑い深くとも、聴聞に身も心も打ち込めば、

広大な弥陀のお慈悲だから、必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聴聞に極まるのである

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苦しくとも「なぜ生きる」。

平生に絶対の幸福になるためだよ、続けて真剣に聴聞すれば、

「苦悩の衆生を見捨てはしないぞ。何としても助けてみせる」

という阿弥陀仏の広大なお慈悲によって、必ず南無阿弥陀仏の

大功徳を頂けるのだからね、と仰っています。

一日も片時も急いで信心獲得して人生の醍醐味を満喫し、

御恩報謝の念仏を称える身にさせていただくことが、

親鸞聖人、蓮如上人の最もお喜びになることなのです。

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弥陀の本願に救われるには!(聴と聞の違い) [阿弥陀仏の本願]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


誠なるかなや、

摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ

       (親鸞聖人・教行信証)

まことだった!本当だった。

弥陀の誓いにウソはなかった。

みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。

早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

 

今月も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

親鸞聖人が「誠だった!」といわれている「摂取不捨の真言」も

「超世希有の正法」も、「阿弥陀仏の本願」のこと。

それは、十方諸仏の本師本仏である阿弥陀仏の

〝どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う〟

という命懸けのお約束です。

その弥陀の願いに背を向けて、欲のままに逃げ回っている

私たちをどこまでも追いかけ、〝無上の幸せに救わずばおかぬ〟

という弥陀の真実のお言葉ですから、

親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われ、

世を超えた二つとない真実の誓い、「超世希有の正法」とも

称されます。

では、弥陀のお約束どおりに救われるには、

どうすればよいのでしょうか。

 

●仏法は聴聞に極まる

 

阿弥陀仏のお約束は、

聞其名号 信心歓喜

とありますように、聞いて信ずる者を助けるという

お約束ですから、聞くということが阿弥陀仏の救いに

最も大切なことなのです。

ゆえに蓮如上人は、

 

仏法は聴聞に極まる (御一代記聞書)

仏法は聞く一つで救われる

 

と教えられています。

聴聞といいますのは、「聴」もきく、

「聞」もきくということですが、

仏法では、聴というきき方と、聞というきき方を

厳然と区別されていることを、

よく知らなければなりません。

まず、聴というきき方は、ただ耳できいて

合点しているきき方をいいます。

2+2は4、4+4は8というように、

きいて納得しているきき方をいいます。

弥陀の救いにあうには、まず、

阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、

よく納得することが大事です。

阿弥陀仏の本願の生起本末とは、弥陀は、

どんな者のために本願を建てられたのか。

どのようにして本願を建てられたのか。

その結果は、どうなったのか、ということです。

納得できなかったら納得できるまで、

重ねて聞かねばなりません。

仏教は因果の道理を根幹として説かれていますから、

どんな人でも、聞けば必ず納得できる教えなのです。

教えを重ねて聞いて正しく理解し納得することが、

第一に大切なことです。

これが聴聞の聴です。

まず教えをよく聴いて納得することから聞法は始まるのです。

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●「上の心」と「下の心」

 

重ねて仏教を聴いていきますと、

私たちには2つの心があることが知らされてきます。

「2つの心?私の心は1つしかありませんよ」

と思われるかもしれません。

2つの心とはどういうことでしょうか。

 

あるところに、喧嘩が絶えない菓子屋の若夫婦がいた。

今日も、つまらぬことで始まった口争いが怒号となり、

亭主は「殺してやる」と叫び、女房は、「殺すなら殺せ」

と激高している。

そこを通りかかった寺の和尚、また始まったかと仲裁に入った。

「どうしたんだい、大きな声を張り上げて。

通りがかりの人に恥ずかしいとは思わんか。

やめなされ、やめなされ」

すると、亭主、

「捨てておいてください。今度という今度は勘弁ならん。

今日こそ、かかあをたたき殺してやる」

と目を釣り上げ、わめきたてる。

女房も女房で、

「和尚さん、ほっといてください。

さあ、殺せるものなら殺してみろ」

と、かみつかんばかりに逆上し切っている。

こうなっては手のつけようがない。

思案に余った和尚、

「じゃ、お互い気の済むまで喧嘩するがよい。

これほど止めても聞き入れぬならしかたがない。

殺すとも殺されるとも勝手にしたらよかろう」

と言い捨てた。

いつの間にか店先に近所の子供たちが集まって、

派手な夫婦喧嘩を見物している。

すると和尚、店先に並べてあった菓子を取り上げて、

「さぁさぁ、よいか、おまえたちのこの菓子をみんなやるから、

持っていけ」

と投げ与えた。

菓子屋の夫婦が驚く。

「和尚さん、そんな無断で店の物をやっては困ります。

明日から私たち、商売できなくなるじゃありませんか」

「なに、私たちの商売?なんと訳の分からぬ話じゃ。

おまえさんらは殺すとか殺されるとか言っていたじゃないか。

人を殺せば刑務所へ行く身じゃ、

してみればおまえさんたちに用のない菓子。

今のうちに子供たちを喜ばせておいたほうがよかろうと

思ってな、施しているところじゃ」

と和尚が言うと、

「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」

と言ったという。

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感情は激怒している時も、その下に湖底のように

静まり返っている心があります。

特に真剣に仏法を聴聞していきますと、

ハッキリと2つの心があることが分かってきます。

「なるほど、なるほど」とうなずいてきいている心と、

腹底に感じられる、少しも仏法をきこうとしない心です。

「上の心」と「下の心」といわれることもあります。

一例をあげましょう。

「あなたは、生まれたからには必ず死なねばならないと思うか」

と質問されたら、誰でも「イエス」と答えるでしょう。

「生ある者は必ず死に帰す」

これは誰も否定できない厳粛な事実だからです。

では、

「今日死ぬと思えるか」

と尋ねられたらどうでしょうか。答えは「ノー」でしょう。

この「今日は死なない」と思い込んでいる心は、

明日になっても「今日は死なん」と思う心であり、

明後日、そのまた翌日になっても

「今日は死なん」と思い続ける心です。

「いつまでも 死なぬつもりの 顔ばかり」

最後まで死ぬまいと思っている、つまりは永遠に

死なないと思っているのが私の本心なのです。

2つの矛盾した心があるとお分かりになるでしょう。

 

●「聞」ときく

 

聴聞の「聴」は、上の心がきいて合点、理解することです。

しかし、どんなに理解や合点しても、

知った覚えたであって弥陀の救いではありません。

それを蓮如上人は、こう言われています。

 

聴聞ということは、なにと意(こころ)得られて候やらん。

ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。

そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、

信得(しんえ)候わぬはきかぬにてあるべく候。

信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり

               (一宗意得之事)

聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。

ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、

それは聴聞とはいえないのである。

たとえ千座万座きいても、信心を獲得しなければ

聞いたことにはならない。信を獲なければ、弥陀の浄土へは

往けないからである

 

いくら耳で千回万回の説法をきいても、

それは合点や理解だけの聴のきき方です。

では聴聞の「聞」とは、どんなきき方か、

親鸞聖人は、次のように教えられています。

 

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて

疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり

                (教行信証信巻)

聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、

ツユチリほどの疑心もなくなったのを、

聞というのである

 

弥陀の五劫思惟の本願は、私ひとりのためでありましたと、

弥陀の本願の生起・本末に疑心が晴れ(信)、

大安心大満足になったのを、聞といわれるのです。

 

●合点するだけでは意味がないのか

 

こうきくと、次のような疑問を抱く人があります。

「では、『聴』というきき方は、何にもならないのか」

とんでもない。それは因果の道理を破壊する誤りです。

まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。

これが因果の道理です。

自業自得といわれるように、自分の行い(業)によって、

自分の結果(運命)が得られるのです。

1回きけば、それ相応の結果が生じる。

10回きけば、それだけの果報が得られる。

ボーッと聞くのと、真剣にきくのと、

結果が同じであるはずがありません。

家で気楽に学ぶ人と、外へ出て苦労してきく人とでは

結果は違います。

近くの会場でしかきかない人と、遠くまで足を運んできく人、

時間があればきくという人と、

忙しい中を時間つくってきく人とでは、

得る結果は絶対に同じではありません。

ですから、「聴いているだけでは何にもならない」

という考えは大間違いなのです。

一歩踏み出し、聞法の場へ足を運ぶことは、

尊い仏縁がなければありえないことです。

そこには、阿弥陀仏の強い後押しが必ず働いています。

聞く気のない私に「聞いてくれよ」の阿弥陀仏の絶大なる

願心がかかっていてくださるのです。

聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」(教行信証)

弥陀の本願に対する一切の疑心が消滅し(信)、

大安心大満足になるまで聞き抜きましょう。

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