弥陀の本願に救われるには!(聴と聞の違い) [阿弥陀仏の本願]
(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
(親鸞聖人・教行信証)
まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい
今月も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「誠だった!」といわれている「摂取不捨の真言」も
「超世希有の正法」も、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏である阿弥陀仏の
〝どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う〟
という命懸けのお約束です。
その弥陀の願いに背を向けて、欲のままに逃げ回っている
私たちをどこまでも追いかけ、〝無上の幸せに救わずばおかぬ〟
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われ、
世を超えた二つとない真実の誓い、「超世希有の正法」とも
称されます。
では、弥陀のお約束どおりに救われるには、
どうすればよいのでしょうか。
●仏法は聴聞に極まる
阿弥陀仏のお約束は、
「聞其名号 信心歓喜」
とありますように、聞いて信ずる者を助けるという
お約束ですから、聞くということが阿弥陀仏の救いに
最も大切なことなのです。
ゆえに蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる (御一代記聞書)
(仏法は聞く一つで救われる)
と教えられています。
聴聞といいますのは、「聴」もきく、
「聞」もきくということですが、
仏法では、聴というきき方と、聞というきき方を
厳然と区別されていることを、
よく知らなければなりません。
まず、聴というきき方は、ただ耳できいて
合点しているきき方をいいます。
2+2は4、4+4は8というように、
きいて納得しているきき方をいいます。
弥陀の救いにあうには、まず、
阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、
よく納得することが大事です。
阿弥陀仏の本願の生起本末とは、弥陀は、
どんな者のために本願を建てられたのか。
どのようにして本願を建てられたのか。
その結果は、どうなったのか、ということです。
納得できなかったら納得できるまで、
重ねて聞かねばなりません。
仏教は因果の道理を根幹として説かれていますから、
どんな人でも、聞けば必ず納得できる教えなのです。
教えを重ねて聞いて正しく理解し納得することが、
第一に大切なことです。
これが聴聞の聴です。
まず教えをよく聴いて納得することから聞法は始まるのです。
●「上の心」と「下の心」
重ねて仏教を聴いていきますと、
私たちには2つの心があることが知らされてきます。
「2つの心?私の心は1つしかありませんよ」
と思われるかもしれません。
2つの心とはどういうことでしょうか。
あるところに、喧嘩が絶えない菓子屋の若夫婦がいた。
今日も、つまらぬことで始まった口争いが怒号となり、
亭主は「殺してやる」と叫び、女房は、「殺すなら殺せ」
と激高している。
そこを通りかかった寺の和尚、また始まったかと仲裁に入った。
「どうしたんだい、大きな声を張り上げて。
通りがかりの人に恥ずかしいとは思わんか。
やめなされ、やめなされ」
すると、亭主、
「捨てておいてください。今度という今度は勘弁ならん。
今日こそ、かかあをたたき殺してやる」
と目を釣り上げ、わめきたてる。
女房も女房で、
「和尚さん、ほっといてください。
さあ、殺せるものなら殺してみろ」
と、かみつかんばかりに逆上し切っている。
こうなっては手のつけようがない。
思案に余った和尚、
「じゃ、お互い気の済むまで喧嘩するがよい。
これほど止めても聞き入れぬならしかたがない。
殺すとも殺されるとも勝手にしたらよかろう」
と言い捨てた。
いつの間にか店先に近所の子供たちが集まって、
派手な夫婦喧嘩を見物している。
すると和尚、店先に並べてあった菓子を取り上げて、
「さぁさぁ、よいか、おまえたちのこの菓子をみんなやるから、
持っていけ」
と投げ与えた。
菓子屋の夫婦が驚く。
「和尚さん、そんな無断で店の物をやっては困ります。
明日から私たち、商売できなくなるじゃありませんか」
「なに、私たちの商売?なんと訳の分からぬ話じゃ。
おまえさんらは殺すとか殺されるとか言っていたじゃないか。
人を殺せば刑務所へ行く身じゃ、
してみればおまえさんたちに用のない菓子。
今のうちに子供たちを喜ばせておいたほうがよかろうと
思ってな、施しているところじゃ」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったという。
感情は激怒している時も、その下に湖底のように
静まり返っている心があります。
特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリと2つの心があることが分かってきます。
「なるほど、なるほど」とうなずいてきいている心と、
腹底に感じられる、少しも仏法をきこうとしない心です。
「上の心」と「下の心」といわれることもあります。
一例をあげましょう。
「あなたは、生まれたからには必ず死なねばならないと思うか」
と質問されたら、誰でも「イエス」と答えるでしょう。
「生ある者は必ず死に帰す」
これは誰も否定できない厳粛な事実だからです。
では、
「今日死ぬと思えるか」
と尋ねられたらどうでしょうか。答えは「ノー」でしょう。
この「今日は死なない」と思い込んでいる心は、
明日になっても「今日は死なん」と思う心であり、
明後日、そのまた翌日になっても
「今日は死なん」と思い続ける心です。
「いつまでも 死なぬつもりの 顔ばかり」
最後まで死ぬまいと思っている、つまりは永遠に
死なないと思っているのが私の本心なのです。
2つの矛盾した心があるとお分かりになるでしょう。
●「聞」ときく
聴聞の「聴」は、上の心がきいて合点、理解することです。
しかし、どんなに理解や合点しても、
知った覚えたであって弥陀の救いではありません。
それを蓮如上人は、こう言われています。
聴聞ということは、なにと意(こころ)得られて候やらん。
ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。
そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、
信得(しんえ)候わぬはきかぬにてあるべく候。
信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり
(一宗意得之事)
(聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。
ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、
それは聴聞とはいえないのである。
たとえ千座万座きいても、信心を獲得しなければ
聞いたことにはならない。信を獲なければ、弥陀の浄土へは
往けないからである)
いくら耳で千回万回の説法をきいても、
それは合点や理解だけの聴のきき方です。
では聴聞の「聞」とは、どんなきき方か、
親鸞聖人は、次のように教えられています。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり
(教行信証信巻)
(聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、
ツユチリほどの疑心もなくなったのを、
聞というのである)
弥陀の五劫思惟の本願は、私ひとりのためでありましたと、
弥陀の本願の生起・本末に疑心が晴れ(信)、
大安心大満足になったのを、聞といわれるのです。
●合点するだけでは意味がないのか
こうきくと、次のような疑問を抱く人があります。
「では、『聴』というきき方は、何にもならないのか」
とんでもない。それは因果の道理を破壊する誤りです。
まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。
これが因果の道理です。
自業自得といわれるように、自分の行い(業)によって、
自分の結果(運命)が得られるのです。
1回きけば、それ相応の結果が生じる。
10回きけば、それだけの果報が得られる。
ボーッと聞くのと、真剣にきくのと、
結果が同じであるはずがありません。
家で気楽に学ぶ人と、外へ出て苦労してきく人とでは
結果は違います。
近くの会場でしかきかない人と、遠くまで足を運んできく人、
時間があればきくという人と、
忙しい中を時間つくってきく人とでは、
得る結果は絶対に同じではありません。
ですから、「聴いているだけでは何にもならない」
という考えは大間違いなのです。
一歩踏み出し、聞法の場へ足を運ぶことは、
尊い仏縁がなければありえないことです。
そこには、阿弥陀仏の強い後押しが必ず働いています。
聞く気のない私に「聞いてくれよ」の阿弥陀仏の絶大なる
願心がかかっていてくださるのです。
「聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」(教行信証)
弥陀の本願に対する一切の疑心が消滅し(信)、
大安心大満足になるまで聞き抜きましょう。
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