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蓮如上人、「なぜ生きる」の答えを全国津々浦々に! [蓮如上人]

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蓮如上人(れんにょしょうにん)は今から600年前、

室町時代にお生まれになりました。

当時の浄土真宗は衰微の極みにあり、

「人跡たえて、参詣の人一人もみえさせたまわず。

さびさびと・・・」(本福寺由来記)

と三間四面の小さな本願寺本堂に、

閑古鳥が鳴いている有り様でした。

このあまりに寂れた現状に、蓮如上人は、

15歳で真宗再興を固く決意なされ、

一代で浄土真宗を日本一の教団となされたのです。

今日「真宗中興の祖」といわれています。

 

トンチで有名な禅僧・一休とは同時代で親交が深く、

あの一休さんが、蓮如上人には一目も二目も置いていました。

二人のさまざまなエピソードが伝えられています。

例えば、上人が47歳で勤修された、親鸞聖人200回忌法要の時に、

一休は門前でこんな歌を残しています。

「襟まきの あたたかそうな 黒坊主

こいつが法は 天下一なり」

墨染めの衣を召された聖人の御影を

「襟まきの、あたたかそうな黒坊主」とは

一休らしい表現ですが、彼が親鸞聖人を尊敬し、

聖人の教えを天下第一と認めていたことが分かります。

 

●ご門徒に手紙で説法

 

蓮如上人といえば、「御文章」が有名です。

ご門徒に出されたお手紙のことで

「御文(おふみ)」ともいわれ、

人は何のために生まれ、生きているのか、

「なぜ生きる」の大問題を明らかにされた親鸞聖人のみ教えを、

分かりやすく、平易な文章で記されています。

昔から、

「親鸞聖人の教えを知りたければ、『御文章』のとおりに

説く人から聞きなさい」

と言われるほどです。

蓮如上人は生涯に、数百通の「御文」を書かれたといわれ、

現存するものだけでも200通を超えています。

中でも特に親しまれ、短い中に親鸞聖人の教えが

全て凝縮されているのが「聖人一流章」です。

 

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●常に親鸞聖人の教えばかりを

 

蓮如上人は、まず、

「親鸞聖人が一生涯教えられたことは」

(聖人一流の御勧化の趣は)

と書き出されています。

ご自身の考えではなく、「親鸞聖人の教えばかり」を

常に説かれています。

『御文章』はこの御心で貫かれ、

 

それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の

一義の意(こころ)というは・・・」。(2帖目10通)

抑(そもそも)、親鸞聖人の一流に於ては、

平生業成の儀にして・・・」(1帖目4通)

抑、親鸞聖人の勧めたまうところの一義の意は・・・

                (3帖目7通)

 

枚挙にいとまありませんが、いずれも

「親鸞聖人はこう教えられた」

「親鸞聖人の教えはこうだ」

と仰っています。どこにも

「この蓮如は」

の主張は見られません。このように85年の生涯、

蓮如上人の布教姿勢は一貫して変わりませんでした。

 

それに対し、〝私は、ああだった、こうなった〟と、

自分が救われた具体的な体験を語る人がありますが、

そんな体験談は各人各様、その人だけのもので、

古今東西変わらぬ普遍的な「教え」ではありません。

三世十方を貫く「法」とはいえないものです。

そんな体験談を語る人は、親鸞学徒の鏡(手本)と

仰がれる蓮如上人の布教精神に全く反しているのです。


 

●信心が肝要

    冒頭に核心をズバリ

 

では、蓮如上人が私見を交えず伝えられた親鸞聖人の教えとは、

どんな教えなのでしょう。次に、

 

聖人一流の御勧化の趣は、

 信心をもって本とせられ候

(親鸞聖人のみ教えは、

 信心一つで救われる教えである)

 

とズバリ核心を明らかにされています。

親鸞聖人といえば

〝お念仏を称えたら誰でも極楽に往ける〟

と教えた方と思う人が多いでしょう。

ところが、親鸞聖人は

「浄土往生の真(まこと)の因は、ただ信心一つである」

と仰っていますから、蓮如上人も

「弥陀の救いは信心一つ」

と教えられているのです。

浄土真宗の布教使の中には、

〝念仏さえ称えれば、必ず救うと誓われたのが阿弥陀仏だ〟

と言う人があります。

だから、ただ口に念仏を称えていれば

極楽に往生一定できるように誤解している人が

非常に多いのです。

しかし蓮如上人は、「信心一つで浄土へ往ける」と鮮明に説かれ、

これを知る者こそが親鸞学徒であり、

これを知らないのは他宗であると、

 

祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり。

これを知らざるをもって他門とし、

これを知れるをもって真宗のしるしとす

           (御文章2帖目3通)

とまで仰っています。

では「信心一つが肝要」と仰る、その「信心」とは

いかなるものでしょうか。

親鸞聖人の教えられた「信心」は、

一般にいう〝私の心で何かを信ずる〟信心とは

全く違います。こう教えられています。

 

信心といえる二字をば、『まことのこころ』と

訓(よ)めるなり

             (御文章1帖目15通)

この信心をば、まことのこころとよむうえは、

凡夫の迷信にあらず、まったく仏心なり。

この仏心を凡夫にさずけたまうとき、

信心といわるるなり」   (歎異抄)

 

親鸞聖人の説かれる「信心」は「まことの心」であり、

まことなき人間(凡夫)の迷心ではない。

「全く仏心なり」と明示されています。

仏心とは、本師本仏の阿弥陀仏の御心、

すなわち「南無阿弥陀仏」のことです。

この仏心(南無阿弥陀仏)を阿弥陀さまが私たちに

授けられたのが「信心」である、と教えられています。

私たちが弥陀より「信心」を賜るのですから

「信心獲得」といいます。

 

蓮如上人は、同じ『御文章』1帖目15通に、

また名号をもって、何の心得も無くして、

ただ称えては助からざるなり

と、ここでも〝南無阿弥陀仏とただ称えるだけでは

助かりませんよ〟と先の誤解を正されているのです。

 

●「なぜ生きる」の答え

 

本師本仏の阿弥陀仏は、

「すべての人を、生きている平生に、

絶対の幸福、往生一定に救う」

と誓われ、そのお約束を果たすために、

大宇宙の万善万行の結晶であると名号(南無阿弥陀仏)を

創られました。

ですから南無阿弥陀仏には、すべての人を絶対の幸福にする

凄い働きがあります。

その大功徳を親鸞聖人は、

「功徳の大宝海」

とたたえられています。この南無阿弥陀仏を頂けば、

どんな人も、この世で絶対の幸福に救われ、

いつ死んでも往生間違いなしの大安心になれる。

それが私たちの「なぜ生きる」の答えだ、

と親鸞聖人は明らかになされています。

それはひとえに弥陀の不可思議なお力によるのだよ、と

 

不可思議の願力として、仏の方より往生は

治定せしめたまう

 

と教えられているのです。

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この大宇宙最高の宝である南無阿弥陀仏を獲得して、

私たちは無上の幸福に救われるのですから、

根本に尊ぶべき本尊は「南無阿弥陀仏」の御名号であると

親鸞聖人も蓮如上人も一貫して教えられ、生涯、

御名号以外には本尊となされませんでした。

これは歴史上の事実です。

ところが果たして現今の浄土真宗で、両聖人のご教示どおり

「南無阿弥陀仏」を本尊にしているところが、

どれだけあるでしょうか。

 

●大功徳を賜るのは「一念」

 

次に蓮如上人は「聖人一流章」に、

 

その位を『一念発起・入正定之聚

(いちねんぽっき・にゅうしょうじょうしじゅ)』とも釈し

 

と仰っています。「一念」とは、「時剋の極促」ともいい、

一秒よりずっと短い時間の極まりをいいます。

弥陀より南無阿弥陀仏(名号)を賜るのは「一念」と

教えられているのです。

その一念に「正定聚に入る」。

「正定聚」とは、正しく仏になると定まった位のこと。

これこそが絶対の幸福です。

平生の一念に正定聚の身になれば、来世は無量光明土に

往って仏に生まれることがハッキリいたします。

この親鸞聖人の教えを「平生業成」というのです。

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●「信心一つで助かる」

 ではお念仏は?

 

「聖人一流章」の最後には、

 

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたいし

御恩報尽の念仏と、心得べきなり

 

と仰っています。信心獲得してからの念仏は、

いつ死んでも浄土往生間違いない身にしてくだされた

阿弥陀仏へのお礼の念仏だと教導されています。

もちろんこれは、信心獲得するまで念仏称える必要はないとか、

称えないほうがいいということではありません。

弥陀の救いを求めて真剣に聞法していけば、阿弥陀仏が、

今も私に南無阿弥陀仏を与えて助けようと

全力尽くされていることが知らされて、

尊いお念仏を称えずにおれなくなってくるのは

当然のことです。

しかし、先にも書いたとおり、念仏さえ称えていれば、

死んだら極楽浄土できる、というのは全くの誤解ですから

気をつけてください。

また、かなりの学者でも

「そうやったなと気がついたら、ありがとうございますと

言えばいい、それが念仏」

と言う人がありますが、〝そうやったなあと気がつく〟のは

信心ではないのです。

そんなことなら「信心獲得」とは言われません。

弥陀のお手元にある南無阿弥陀仏(名号)を一念で賜り、

私が南無阿弥陀仏と一体(仏凡一体)になったことを

「信心獲得」といい、この弥陀廻向の信心が、

浄土に往生する正しい因であることはすでに述べました。

信心獲得してからの念仏は、お礼ですから、これを

 

信心正因 称名報恩

 

といわれます。信心一つで助かる(信心正因)、

称名念仏はお礼(称名報恩)という浄土真宗の教えの骨格を、

蓮如上人はここで明らかにされているのです。

 

このように、短い「聖人一流章」の中に

親鸞聖人の深いみ教えが余すところなく

凝縮されていることがお分かりでしょう。

こうした「御文章」を蓮如上人のお弟子や門徒の人々が

何通も書き写し、各地で多くの人々に読み聞かせたことで、

親鸞聖人の教えが日本中に弘く浸透していったのです。

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●最もお喜びに

     なることは

 

一器の水を一器に移すがごとく、親鸞聖人のみ教えを

正確に伝えることに生涯を懸けられた蓮如上人は、

ご遺言でも信心一つの救いを教示されています。

 

あわれあわれ、存命の中(うち)に

皆々信心決定(しんじんけつじょう)あれかしと

朝夕(ちょうせき)思いはんべり

            (御文章4帖目15通)

不憫だなあ、命のある平生に、

みなみな信心決定してもらいたい。

終日、思いつづけているのはそのことひとつである

 

ではどうすれば、「信心決定(信心獲得)」の身に

救われるのでしょうか。経典に、

 

聞其名号」(大無量寿経)

 

その名号を聞いて〟助かると明らかに教示されています。

これを蓮如上人は

「仏法は聴聞に極まる」

と仰り、次のような例えで教えられています。

 

至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、

水よく石を穿つ。

『心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん』

といえる古き詞あり。

いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、

御慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり」   (御一代記聞書)

 

古来「初志を貫徹すれば、成就できぬことはない」

と聞く。堅い石でも長期間、一カ所に継続して水滴が落ちれば、

軟らかい水で穴が開くように、たゆまぬ聞法こそが大切である。

どんなにしぶとく疑い深くとも、聴聞に身も心も打ち込めば、

広大な弥陀のお慈悲だから、必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聴聞に極まるのである

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苦しくとも「なぜ生きる」。

平生に絶対の幸福になるためだよ、続けて真剣に聴聞すれば、

「苦悩の衆生を見捨てはしないぞ。何としても助けてみせる」

という阿弥陀仏の広大なお慈悲によって、必ず南無阿弥陀仏の

大功徳を頂けるのだからね、と仰っています。

一日も片時も急いで信心獲得して人生の醍醐味を満喫し、

御恩報謝の念仏を称える身にさせていただくことが、

親鸞聖人、蓮如上人の最もお喜びになることなのです。

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