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晩年の聖人(最終回) [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

      親鸞聖人の旅      

        晩年の聖人(最終回)

 

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関東からの道すがら、多くの人を勧化されながら、

親鸞聖人は、懐かしき京都へお帰りになった。

無実の罪で越後へ流刑に遭われてより、

約25年ぶりのことである。

90歳で、浄土へ還帰されるまでの30年間、

聖人は、どのように過ごされたのか。

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●ご帰洛後のお住まい

 

京都に着かれた聖人は、何回も住まいを変えておられる。

「聖人故郷に帰りて往事をおもうに、

年々歳々(ねんねんせいせい)夢のごとし幻のごとし。

長安洛陽の棲(すみか)も跡をとどむるに懶(ものう)しとて、

扶風馮翊(ふふふよく)ところどころに移住したまいき」

                (御伝鈔)

「或時は岡崎、または二条冷泉富小路にましまし、

或時は、吉水、一条、柳原、三条坊門、

富小路等所々に移て住みたまう」

            (正統伝)

このうち平太郎と面会された場所が、

上京区の一条坊勝福寺である。

現在の西本願寺前の堀川通を北へ進み、

中立売通を西に曲がってすぐだ。

しかし、本堂の屋根は高層ビルの谷間に埋もれているから

見つけにくい。

民家と変わらない大きさである。

門前には、「親鸞聖人御草庵平太郎御化導之地」と

石柱が立っていた。

平太郎だけでなく、聖人のみ教えを求め、

命懸けで関東から訪ねてくるお弟子が多数あった。

狭いながらも、信心の花咲くお住まいであったに違いない。

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●道珍の霊夢

 

西本願寺正面の細い通りへ入ると、

念珠店が立ち並んでいる。

そのまま東へ進むと、突き当たりが紫雲殿金宝寺である。

ここは、勝福寺より小さく、表札を見なければ寺とは気づかない。

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金宝寺はもと、天台宗の寺だった。

ところが、57代目の住職・道珍が親鸞聖人のお弟子になり、

真宗に改宗したのである。

その経緯を、当寺の『紫雲殿由縁起』は次のように記している。

道珍は、高僧が来訪される霊夢を3回も見た。

そこへ間もなく、親鸞聖人が訪れられたのである。

紛れもなく夢でお会いした高僧なので、

道珍は大変驚き、心から敬服した。

ご説法を聴聞して、たちまちお弟子となったのである。

時に、聖人67歳、道珍33歳であった。

道珍は、聖人のために新しく一室を作り、

安聖閣と名づけた。

道珍がしきりに滞在を願うので、約5年間、

聖人は金宝寺にお住まいになったという。

ここにも、関東の門弟が多数来訪した記録がある。

片道一ヶ月以上かけて、聞法にはせ参じる苦労は

いかばかりであったか。

後生に一大事があればこそである。

また、『紫雲殿由縁起』には、道珍が聖人に襟巻きを

進上したところ大変喜ばれた、と記されている。

 

●報恩講の大根焚き

 

京名物の一つ、了徳寺の大根焚きは、

親鸞聖人報恩講の行事である。

了徳寺は京都市の西、右京区鳴滝町にある。

山門をくぐると、すぐに大きなかまどが目に飛び込んでくる。

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報恩講には、早朝から大鍋で3500本の大根が煮込まれ、

参詣者にふるまわれるという。

どんないわれがあるのか。

略縁起には、次のように記されている。

聖人80歳の11月、ご布教の途中、鳴滝村を通られた。

寒風吹きすざぶ中で働いている6人の農民を見られ、

一生涯、自然と闘い、体を酷使して働くのは何のためか。

弥陀の救いにあえなければ、あまりにも哀れではないか・・・

と近寄られ、阿弥陀仏の本願を説かれた。

初めて聞く真実の仏法に大変感激した農民たちは、

聖人にお礼をしたいと思ったが、

貧しさゆえ、何も持ち合わせていない。

そこで、自分たちの畑で取れた大根を塩炊きにして

召し上がっていただいたところ、

聖人は大変お喜びになったという。

親鸞聖人は、阿弥陀仏一仏を信じていきなさいと、

なべの炭を集められ、ススキの穂で御名号を書き与えられた。

以来、聖人をしのんで大根を炊き、

聞法の勝縁とする行事が750年以上も続いている。

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●著作に励まれる聖人

 

晩年の聖人は著作に専念しておられる。

52歳ごろに書かれた『教行信証』6巻は、

お亡くなりになられるまで何回も推敲・加筆されている。

いわば、生涯かけて著された大著である。

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このほか、主なご著書とお書きになられた年代を挙げてみよう。

 

76歳 

 浄土和讃

 高僧和讃

78歳

 唯信鈔文意

83歳 

 浄土文類聚鈔

 愚禿鈔

84歳

 往相廻向還相廻向文類

 入出二門偈頌

85歳 

 浄土三経往生文類

 一念多念証文

 正像末和讃

86歳

 尊号真像銘文

88歳

 弥陀如来名号徳

 

このほかにも、親鸞聖人が書写・編集されたり、

加点されたお聖教は、全部で20冊以上知られている。

しかも、そのほとんどが76歳以降に書かれている。

ご高齢になられるほど、執筆に力を込められていることが

分かる。「体の自由が利かなくなった分、

筆を執って真実叫ぶぞ」と、聖人の並々ならぬ

気迫が伝わってくるようだ。

 

●聖人のご往生

 

親鸞聖人は、弘長2年11月下旬に病床につかれた。

あまり世間事を口にされず、ただ阿弥陀仏の大恩ばかり述べられ、

念仏のお声が絶えなかったという。

11月28日、午の刻(正午)、聖人は90年の生涯を終えられ、

弥陀の浄土に還帰なされた。

臨終には、弟子の顕智と専信、

肉親は、第5子の益方(ますかた)さまと

第7子の覚信尼さまのみが、わずかに臨んだ。

一切の妥協を排し、独りわが道を行かれた聖人にふさわしい、

ご臨終であった。

聖人は、ご自身の肉体の後始末に非情な考えを持っておられた。

『改邪鈔』に、こう記されている。

親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし

私が死んだら賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ、

とおっしゃっているのだ。

これは、肉体の葬式に力を入れず、早く、魂の葬式、

すなわち後生の一大事の解決(信心決定)に力を入れよ、

と教えられたお言葉です。

親鸞聖人は信心決定した時をもって、魂の臨終であり、

葬式であると教えられた。

覚如上人も、

平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、

そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし

とおっしゃっているように、信心決定した人は、

もう葬式は終わっているのである。

だから、セミの抜け殻のような肉体の葬式など、

もはや問題ではないのだ。

「つまらんことに力を入れて、大事な信心決定を

忘れてはなりませんぞ」と最後まで真実を

叫び続けていかれた聖人のお言葉である。

このご精神を体したうえで、聖人のご遺体は、

鳥辺山に付された。

『御伝鈔』には、

「洛陽東山の西の麓・鳥辺山の南のほとり、

延仁寺に葬したてまつる。

遺骨を拾いて、同じき山の麓・鳥辺山の北の辺(ほとり)、

大谷にこれを納め畢(おわ)りぬ」

と記録されている。

 

●聖人のご遺言

 

「ご臨末の御書」は、親鸞聖人のご遺言として有名である。

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、

和歌の浦曲(うらわ)の片男波の、寄せかけ寄せかけ

帰らんに同じ。一人居て喜ばは二人と思うべし、

二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人が親鸞なり。

我なくも法(のり)は尽きまじ和歌の浦

あおくさ人のあらんかぎりは

弘長2年11月 愚禿 親鸞満90歳」

29歳で阿弥陀仏の本願に救い摂られてより、

90歳でお亡くなりになるまでの、聖人のご生涯は、

まさに波乱万丈であった。

真実の仏法を明らかにされんがための肉食妻帯の断行は、

破壊堕落の罵声を呼び、一向専念無量寿仏の高調は、

権力者の弾圧を招いた。

35歳の越後流刑は、その激しさを如実に物語っている。

流罪の地でも、無為に時を過ごされる聖人ではなかった。

「辺鄙(へんぴ)の郡類を化せん」と、命懸けの布教を

敢行されたことは、種々の伝承に明らかである。

関東の布教には、聖人をねたんだ弁円が、

剣を振りかざして迫ってきた。

邪険な日野左衛門に一夜の宿も断られ、

凍てつく雪の中で休まれたこともあった。

今に残る伝承は、聖人のご苦労の、

ほんの一端を表すにすぎない。

まさに、報い切れない仏恩に苦しまれ、

「身を粉にしても・・・」と、

布教に命を懸けられたご一生であった。

その尽きぬ思いが、「御臨末の御書」に表されている。

「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、

和歌の浦曲(うらわ)の片男波の、寄せかけ寄せかけ

帰らんに同じ」

「和歌の浦曲の片男波」とは、

現在の和歌山県和歌浦、片男波海岸である。

万葉の昔から美しい海の代名詞になっている。IMG_20221202_0008.jpg-5.jpg

親鸞聖人は、「命が尽きた私は、一度は浄土に

還(かえ)るけれども、海の波のように、

すぐに戻ってくるであろう。

すべての人が弥陀の本願に救われ切るまで

ジッとしてはおれないのだ」とおっしゃっている。

一人居て喜ばは二人と思うべし、

二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人が親鸞なり

一人の人は二人と思いなさい。

二人の人は三人と思いなさい。

目に見えなくても、私は常にあなたのそばにいますよ。

悲しい時はともに悲しみ、うれしい時はともに喜びましょう。

阿弥陀仏の本願に救われ、人生の目的を達成するまで、

くじけず求め抜きなさいよと、

全人類に呼びかけておられるのである。

真実のカケラもない私たちが、どうして聞法の場に足が向くのか。

そこには、目に見えない親鸞聖人が常に、

手を引いたり押したりしてくださっていることが知らされる。

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東海道の出会い(親鸞聖人の旅) [親鸞聖人の旅]

                           親鸞聖人の旅

      東海道の出会い

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箱根の山を越えられた親鸞聖人は、東海道を経て、

懐かしき京の都へ向かわれた。

その道中に、数々のドラマが残されている。

かつての法友・熊谷蓮生房(くまがいれんしょうぼう)に

顕正された人々との出会い、

親鸞聖人に法論を挑んできた僧侶たち、

参詣者の胸から胸へ拡大していく法輪・・・。

その出会いは、やがて、蓮如上人を危機からお救いする

源流となり発展していくのである。

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●福井長者の仏縁

 

駿河国(静岡県)で、親鸞聖人を心待ちにしている

夫婦があった。

彼らは、聖人の法友・熊谷蓮生房と縁があった人たちである。

25年以上も前のことであるが、

どんな出会いだったのだろうか・・・。

蓮生房が、京都から関東へ向かった時のこと。

小夜ノ中山(さよのなかやま)の峠で盗賊に襲われた。

腕に自信はあったが、なぜか「失って惜しい物は何もない」

と無抵抗を示した。賊は路銀や衣類、すべてを奪っていった。

さて、どうするか。身ぐるみはがされた蓮生房は、

大胆にも藤枝の宿で一番の富豪・福井憲順の屋敷の前に立って叫んだ。

「私は、武蔵国の蓮生房と申す者。

先ほど盗賊に路銀を全部与えてしもうた。

再度、京都に上る時にお返しするから、

銭をお貸し下さらんか」

素っ裸の見知らぬ男の借用にだれが耳を貸そうか。

憲順は、当然、断った。

すると蓮生房

「わしは無一文だが、この世で最も素晴らしい宝を持っている。

それを抵当にお預けするから、借金をお願いしたい。

大事なものゆえ、貴殿の腹の中にお預かりいただきたい。

さあ、口をお開けくだされ・・・」。

蓮生房は合掌し、南無阿弥陀仏と念仏を称えた。

すると蓮生房の口より、まばゆい金色の阿弥陀如来の化仏が現れ、

憲順の口の中に移った。

これは有り難い奇瑞(きずい)、と喜んだ憲順は、

蓮生房に路銀を貸しただけでなく、法衣を贈り、

温かくもてなしたという。

蓮生房が抵当に入れた「この世で最も素晴らしい宝」とは、

阿弥陀如来の本願である。

蓮生房は憲順に説法したのだ。

感激した憲順が蓮生房に心を開いたのだろう。

色も形も無い真実の教えをどう表すか。

すべての人を絶対の幸福に助けずばおかぬの、

阿弥陀仏の本願は、資産家の憲順には、まさに

「金色の阿弥陀如来像」を得たような喜びだったのだろう。

翌春、蓮生房は、約束どおりお金を返しに来た。

彼は、福井憲順に、

後生の一大事をゆめゆめ忘れてはなりませんぞ。

善知識の教えを受けて、往生を願いなさい

と言い残して京都へ帰っていった。

憲順は、尊い教えだなと思いながらも、

自ら急いで求めようという気持ちになれず、

長い年月が過ぎてしまった。

ところが、親鸞聖人が関東から京都へ

お帰りになるという話が伝わってきた。

これを縁に、かつて聞いた後生の一大事が思い起こされてきた。

老齢の身、「今死んだら・・・」と思うと、

不安はつのるばかりである。

道中で、夫婦そろって聖人をお待ちし、

自宅で法話をお願いした。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の御名号の偉大な力を

懇ろに諭されたという。

夫婦はこれを聴聞し、宿善開発し、

たちどころに信心受得す

          (二十四輩順拝図絵)

(信心受得とは、阿弥陀仏に救われたということです)

福井長者夫婦は、聖人のお弟子になり、名を蓮順、蓮心と改め、

全財産を投じて自宅を聞法道場に改造した。

これが藤枝市本町に残る蓮生寺(れんしょうじ)である。

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●三河の柳堂でご説法

 

親鸞聖人が、京都に向かって関東をたたれたことは、

当時、ビッグニュースとして東海道を駆け抜けたのではないか。

聖人がお通りになることを知った三河国(愛知県)碧海郡の

領主・安藤信平は、「この機会にぜひ、高名な聖人に

お会いしたい」と城内の柳堂にお招きし、法話をお願いした。

ここでのご説法は、17日間に及んだ。

初めて聴聞する真実の仏法であったが、

安藤信平は、即座に決心した。

これこそ、生涯懸けて悔いなき道だ。

人生の目的をハッキリ知らされたぞ!

城主の位を弟に譲り、聖人のお弟子になって、

名を念信房と改めた。

柳堂は、現在、妙源寺の境内にある。

JR西岡崎駅の裏手、広い水田地帯の中に建っている。

山門をくぐった正面が柳堂。茅葺きの古い建物だ。

「親鸞聖人説法旧趾」と大きな石碑が立っている。

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●三河門徒の気概

 

聖人の、柳堂でのご説法中にハプニングが起きた。

参詣者の多さをねたんだ天台宗の僧侶3人が、

聖人を論破しようと乗り込んできたのである。

地元の上宮寺、勝鬘寺、本証寺の住職であった。

聖人は、ことごとく彼らの非難を打ち砕かれ、

釈尊の出世本懐は、阿弥陀仏の本願一つであることを

明らかにされた。

誤りを知らされた3人は、そろって聖人のお弟子になり、

寺ごと浄土真宗に改宗している。

これを三河三ヵ寺といい、強信な三河門徒を

形成していくのである。

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三河は、蓮如上人の時代に真宗一色に塗り変えられた。

その中心が、上宮寺であった。

上宮寺の末寺は三河64ヵ寺、尾張41ヵ寺あったというから、

絶大な勢力を振るっていたことが分かる。

寛正6年(1465年)、比叡山延暦寺の僧兵が、

蓮如上人のお命を狙って本願寺を襲撃した。

この時、上宮寺の住職・佐々木如光は三河の門徒を引き連れて

はせ参じ、比叡山との交渉を一手に引き受けている。

比叡山は金を要求した。如光は、「金で済むなら、

三河から取り寄せよう」と悪僧たちに宣言。

一晩で、山門に金を山と積ませ、比叡山を黙らせた。

事件解決後、蓮如上人は三河を巡教されて、

上宮寺にしばらく滞在されている。

これから約100年後のこと。

織田信長が桶狭間で今川義元を破って以来、

家康は今川の拘束から離れ、着々と三河の支配を固めていた。

永禄6年(1563年)、家康の家臣が上宮寺から兵糧として

米を略奪した。これを機に、家康の苛酷な支配に対する

信宗門徒の不満が爆発。一向一揆が起きた。

三河三ヵ寺を中心とする信宗門徒は一万余の勢力に及び、

半年にわたって家康を苦しめた。

一時は、岡崎城に攻め込むほどの勢いであったという。

窮地に追い込まれた家康は、勝算なしと判断し、

和議をもって臨んだ。

その条件は、

①寺・道場・門徒は元のままとする

②真宗側についた武士の領地は没収しない

③一揆の首謀者は殺さない

であった。真宗側にとって有利なものである。

ところが、一揆の勢力が各地へ引き揚げたと同時に、

腹黒い家康は約束を破って、寺院をことごとく破壊し、

真宗禁止令を出したのである。

卑劣な弾圧であった。

三河に真宗寺院が復活したのは、それから20年後のことであった。

 

●河野九門徒と瀬部七ヵ寺


真実は、一人の胸から胸へと確実に広まっていく。

三河の柳堂で親鸞聖人のご説法を聴聞した人の中に、

尾張国羽栗郡本庄郷の人がいた。

「こんな素晴らしいみ教え、私の故郷にもお伝えください」

との願いに、聖人は快く応えられ、帰洛の途中に立ち寄られた。

現在の、岐阜県羽島郡笠松町円城寺の辺りだといわれている。

この地の参詣者の中で、新たに9人が聖人のお弟子になっている。

親鸞聖人は一人一人に直筆の御名号を書き与えられた。

彼らは、それぞれ一寺を建立し、聖人のみ教えを伝えたので

「河野九門徒」と呼ばれている。

さらに京へ向かって歩みを進められたが、

木曽川の氾濫で、しばらく、現在の愛知県一宮市瀬部に

滞在された。

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その間も地元の人々にご説法なされ、

7人がお弟子になっている。

その中には、武士も商人もいた。

彼らも、それぞれ聞法道場を築き親鸞聖人のみ教えを伝えた。

これを「瀬部七ヵ寺」という。

聖人のご出発にあたり、この7人のお弟子は、

木曽川の激流へ入って瀬踏みをし、無事、聖人を対岸へ

ご案内したと伝えられている。

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湘南海岸の御勧堂(おすすめどう) [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)                   

            親鸞聖人の旅

湘南海岸の御勧堂(おすすめどう)

 

関東ご布教の最南端はどこか。

神奈川県の相模湾に面した国府津(こうず)に、

親鸞聖人が説法されたご旧跡「御勧堂」がある。

56歳のころから、しばしば教化の御足を延ばされたという。

この地で、仏縁を結んだ了源房は、

日本三大仇討ちとして有名な曽我兄弟の子供であった。

親鸞聖人のお手紙にも「平塚の入道」として登場する。

どんなドラマがあったのか。

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●聞法の勧め

 

海が美しい。湘南海岸を走るバイパスは眺めがいい。

パーキングエリアは若者であふれていた。

親鸞聖人は、稲田から徒歩で5、6日もかかる道のりを苦にされず、

この海岸へ布教に通われたのだ。

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近くの漁民を集めて説法された草庵は「御勧堂」と呼ばれている。

親鸞聖人が、いかに聞法を強く勧めておられたかを

表しているようだ。

聖人は、ご和讃に、

たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

とおっしゃっている。これは、

たとえ、大宇宙が火の海になっても、

その中をかき分けて聞こうという心で聞きなさい。

さすれば必ず、信心決定できて

永遠に絶対の幸福を獲られる

と教えられたものだ。

村人は、このお言葉に従い、どんなに忙しくても

お互いに参詣を勧め合っていたに違いない。

御勧堂は、どこにあるのか。

小田原から東へ5キロ、海岸に沿って車を走らせる。

地図ではJR国府津駅の近くなのに、

なかなか分からない。

やっと見つけた「御勧堂」の石碑は、駅前の魚屋の角にあった。

細い路地の突き当たりに、荒れ果てたブロック造りの小屋・・・。

「これが御勧堂?」

しかし、そばには確かに「親鸞聖人御草庵之旧跡」と

書かれているのだ。

この土地に、もはや聖人を慕う人はいないのだろうか。


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近くの人も、

「40年ほど前は立派なお堂だったんですがね」

と残念がっていた。

60歳過ぎ、親鸞聖人が関東へお帰りになるため、

この地を通られた。

すると大勢の人が集まり、あまりにも別れを惜しむので、

聖人はしばらく御勧堂に滞在され、最後の説法をされたという。


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●平塚入道の往生

 

国府津の御勧堂で、親鸞聖人のお弟子になった人の中に、

了源房」がいる。

『末灯鈔』の中にも「平塚の入道」として登場する人物である。

彼は、どのようにして真実に巡り遇ったのだろうか。

了源の祖父・河津祐泰は、領地争いで、工藤祐経(すけつね)に殺された。

この時、30歳の若さであったという。

妻は、2人の子供、十郎、五郎を連れて曽我祐信と再婚。

兄弟は仇討ち一つを目指して成長していった。

建久4年5月、源頼朝は富士の裾野で巻き狩り

(四方を取り巻いて獲物を追い込む狩り)を実施した。

工藤祐経も側近として同行している。

曽我兄弟は、好機到来と、28日の深夜、工藤の陣屋に斬り込み、

仇討ちを遂げた。

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「曽我の十郎、五郎、父の敵・工藤祐経を討ち取ったり。

この上は頼朝公に仇討ちに至る事情を訴えん」

と、一直線に頼朝の本営に向かった。

しかし、十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられ、翌日、

打ち首になった。十郎22歳、五郎20歳であった。

この仇討ちは、たぐいまれな義挙といわれ、

曽我兄弟は武士の鑑と、うたわれた。

「日本三大仇討ち」といえば、曽我兄弟の富士の夜襲、

赤穂浪士の吉良邸討ち入り、荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘、

と相場が決まっている。

さて、了源房の父は、討ち死にした曽我十郎である。

この時、いまだ母の胎内にあり、父の死後出生した。

成人して21歳の時、和田義盛の乱に軍功を立て、

将軍に仕官して、相模国平塚の郷を与えられた。

ここに晴れて家名を再興し、河津信之と名乗った。

しかし、一族の宿願を果たした了源の心は晴れなかった。

祖父は30歳で殺され、父は22歳で討ち死にした。

わが一族は皆非業の死を遂げている。

どんな悪業の報いなのか。たとえ今、自分が絶えた家を興し、

再び父祖の名をあらわしたとしても、結局、

この世のことは夢幻ではないか。

武門に身を置いてはかえって罪を重ね、

後生に大変な苦しみを受けることは明らかだ。

今こそ真実の幸福をえたい

了源房は、髪をおろして出家した。

ちょうどその時、国府津の御勧堂で親鸞聖人が

説法しておられるという話を聞き、急ぎ参詣した。

聖人は、了源に阿弥陀仏の本願を説かれ、

次のようにおっしゃった。

どんな人でも、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば、

過去世からの永い迷いを離れ、清浄安楽の仏土に往生できる。

そなたの親族がいかなる業報を受けていようと、

そなたが往生を遂げて仏となれば、思うままに教化を施し、

同じく浄土へ導くことができるだろう

了源は随喜の涙に暮れ、聖人のお弟子になった。

以来、自信教人信に努め、60歳で亡くなっている。


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●甲斐の閑善房(かんぜんぼう)

 

御勧堂で仏縁を結んだもう一人のお弟子を紹介しよう。

甲斐国(山梨県)に、小笠原長顕(ながあき)という武士がいた。

彼は、世の無常を強く感じ、真の知識を探し求めていた。

しかし、甲斐国に善知識はましまさず、

長顕はむなしく年月を送っていた。

ある時、親鸞聖人が相模国(神奈川県)国府津で、

阿弥陀仏の本願を説かれているという話が伝わってきた。

彼は直ちに故郷を振り捨て、聖人の元へ急いだ。

聖人は長顕の求道心の深さを感じられ、真実の信心を

懇ろに諭された。

長顕はその場で、聖人のお弟子となり、閑善房と名を改めた。

これより閑善房は聖人のおそばを離れず求道に励み、

ご帰洛の時もお供をしている。

東海諸国を経て尾張国に入られた時のことである。

親鸞聖人は大浦の真言宗の寺にしばらく滞在され、

地元の人々に説法された。(現在の岐阜県羽島市正木町大浦)

短期間であったが、非常に大きな反響があったことが

次の記述で分かる。

遠近の道俗市のごとく群集し、

隣里(りんり)の男女山のごとくに参詣し

各(おのおの)聞法随喜せずという事なし

            (二十四輩順拝図絵)

いよいよ、親鸞聖人が京都へ向け出発される時、

地元の人々は、聖人に願い出た。

「どうか、お弟子の方をお一人、

当地にお残し願えませんか。

続けて阿弥陀仏の本願を聞き求めたいのでございます」

この大役を聖人は、閑善房に命じられた。

彼はよく師の仰せと、羽島の人々の要望に応え、

聖人のみ教え徹底に生涯を懸けたという。

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関東の二十四輩・信願房へのお諭し [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

                     親鸞聖人の旅

関東の二十四輩・信願房へのお諭し

 

親鸞聖人の熱烈な布教により、他宗の僧が、

寺ごと真宗に変わった例が多く見られる。

栃木県宇都宮市の観専寺もそうであり、

開基・信願房(しんがんぼう)は二十四輩の

一人になっている。

信願房への、聖人晩年のお諭しを通し、

真の報恩とは何かを考えてみよう。

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●天台宗から改宗

 

観専寺を開いた信願房は、元の名を稲木次郎義清といい、

常陸稲木の領主であった。

地位や財力に恵まれた生活を送っていた義清を

突然の不幸が襲った。

最愛の一子が病で亡くなったのである。

ああ、あまりにもむごい・・・。

あの子は、どこへ行ったのか・・・。

幼い子供にさえ死は容赦しない。

まして、自分が今日まで生きてこられたのが不思議だ

無常を強く感じた義清は、後生の一大事の解決目指して

出家し、宇都宮に寺を建てた。

天台宗の修行に励んだのである。

どれだけ精進しても心が晴れない義清を救ったのは、

親鸞聖人との出会いであった。

しかも、聖人のほうから飛び込んでこられた。

高田に新たな拠点を築かれ、

布教戦線を拡大しておられた聖人は、

観専寺で一夜の宿を請われたのである。

聖人は、住職を、夜を徹して顕正なされた。

比叡山での自らの体験を踏まえ、自力の修行では

決して救われないことを明らかにされたのである。

初めて真実の教えを知らされた義清は、

直ちに聖人のお弟子になり、「信願房」と生まれ変わった。


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観専寺では、翌日から、里人を集めて

親鸞聖人のご法話が開かれている。

後生の一大事は、阿弥陀仏の本願によらなければ

絶対に解決する道はありません。

阿弥陀仏は、どんな人をも、必ず助けると

誓っておられるのです

と静かに説かれるや、

「老若男女の念仏に帰すること、

草木の風になびく如く、たちまちに聖人の御名は

四方にひびきわたった」

と寺伝に記されている。


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●真の報恩

 

親鸞聖人が、京都へ帰られてから10数年後、

信願房は、師の聖人を慕って上洛している。

聖人のお住まいを訪ね、懐かしさとうれしさが

胸にあふれ、いつまでも帰国を忘れているかのようだった。

親鸞聖人は、信願房にこう諭されている。

仏恩、師の恩を報ずるということは、

自信教人信にしくものはない

「自信教人信」とは、善導大師のお言葉、

「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」

の一節である。

自分が信心決定することは大変難しいことだ。

人を信心決定まで導くことはさらに難しいことだ。

だからこそ、阿弥陀仏の本願を伝えることが、

いちばんの御恩報謝になるのだ

と教えられているのである。

(信心決定<しんじんけつじょう>とは、阿弥陀仏に救われること)

親鸞聖人も、広大無辺な絶対の幸福に

救ってくださった阿弥陀仏のご恩、

救われるまで導いてくださった善知識のご恩に

報いる道は、一人でも多くの人に阿弥陀仏の大悲を

伝える以外にない、と言い切っておられる。


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信願房は、直ちに関東へ帰り、親鸞聖人のみ教えの

徹底に生涯をかけた。

常陸、河内、三河に聞法道場を築き、今日に至るまで、

信願寺、勝福寺、弘誓寺、慈願寺などがその流れをくんでいる。

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●文章伝道のさきがけ

 

親鸞聖人が京都へ帰られたあと、

聖人と関東の門弟を結んでいたのが、書状であった。

関東から、信心や教学についての疑問が手紙で寄せられる。

親鸞聖人は、一つ一つ分かりやすく返事を書いておられる。

しかも、手紙の最後は、

「この文をもて人々にも見せ参らせさせ給うべく候」とか、

「かように申し候様を、人々にも申され候べし」

と書き添えておられる。

聖人からお手紙を頂いた関東のお弟子は、

親鸞聖人のじかのご説法として、

門徒に読み聞かせたに違いない。

現在、親鸞聖人の書状は46通知られているが、

そのうち、30通が、写本、版本である。

聖人の一通のお手紙が、次々に書き写され、印刷されて、

10万以上の人たちに伝わったのであろう。

お弟子が親鸞聖人のお手紙を携えて、

文字を読めない農民や漁民の元を訪れ、

繰り返し繰り返し読み聞かせている姿が

目に浮かぶようだ。

これはまさに、文章伝達のさきがけである。

この方法をさらに徹底されたのが、

蓮如上人の『御文章』といえる。

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二十四輩の筆頭・性信房 [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

                      親鸞聖人の旅

二十四輩の筆頭・性信房(しょうしんぼう)

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親鸞聖人には、「関東の二十四輩」といわれるお弟子があった。

その筆頭に挙げられるのが、性信房である。

「性信房が、関東にいてくれると、

わが身を二つ持っているように心強い」

とまでおっしゃっている。

親鸞聖人と性信房の関係をたどってみよう。

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●手のつけられない悪党

 

性信房は、常陸の生まれであるが、

怪力無双の荒くれ者で、悪五郎と呼ばれ、

恐れられていた。

〝心性は狼のごとし。礼法は知らず、

従順の心なし〟 

        (二十四輩順拝図会)

とある。

悪事の限りを尽くす悪五郎に、

人生の転機が訪れたのは18歳の春であった。

武者修行を志し、諸国を遍歴している途中、

たまたま京都の吉水草庵の前を通りかかった。

門前市をなし、老若男女が喜々として中へ入っていく。

「ものすごい人だなあ。一体、何があるのだろう」

悪五郎も、興味半分で入ってみた。

そこでは、法然上人のご説法が行われていたのである。

人は皆、自分のことぐらい分かると思っている。

ところが、自分の目で自分の眉を見ることができないように、

近すぎると、かえって分からないものだ。

仏さまは、見聞知のお方である。

だれも見ていない所でやった行いも見ておられる。

陰で人の悪口を言っていることも皆聞いておられる。

心の中で、人に言えない恐ろしいことを思っていることも皆、

知っておられる。

かかる仏さまの眼(まなこ)に、我々の姿は、

どのように映っているであろうか

『大無量寿経』には、

心常念悪(心常に悪を念じ)

口常言悪(口常に悪を言い)

身常行悪(身常に悪を行じ)

曽無一善(曽て一善無し)

と説かれている。

心と口と体で、悪を造り続けているのが

人間の真実の姿だと、釈尊は断言されている

縁側で聴聞していた悪五郎の耳に、

法然上人のお言葉は、強い衝撃として入っていった。

「まるで、自分のことを言われているようだ。

いや、自分でさえ分からない自分の姿まで見透かされている」

初めて聞く仏法であったが、悪五郎は、恐ろしいほど、

その奥深さを感じた。

阿弥陀仏は、すべての人間を、極重の悪人と見抜かれ、

そんな者を、必ず絶対の幸福に助けてみせると

誓っておられる・・・

法然上人は、阿弥陀仏の本願を詳しく説かれた。

ああ、オレは人生を懸けて悔いのない

み教えに遇うことができた

ご説法のあと、悪五郎は、感涙にむせびながら、

法然上人の前へ出ていた。

私は、これまで、悪を悪とも感じず、人を悩ませ、

悪逆の限りを尽くしてきました。

かかる悪人にも、阿弥陀仏がお慈悲を

かけてくだされていたとは・・・。

どうか、私をお弟子の端にお加えくださり、

お導きください

髻(もとどり)を切って、懇願するのであった。

この時、法然上人は、親鸞聖人におっしゃった。

感心な若者だ。しかし、老年のわれに従っても、

後幾らも随身できないだろう。そなたの元で、

よく育ててやりなさい

かくて、悪五郎は「性信房」と名を改め、

親鸞聖人のお弟子になった。

聖人34歳、悪五郎18歳の年であったという。

翌年、権力者の弾圧により、法然上人は土佐へ、

親鸞聖人は越後へ流刑に遭われた。

承元の法難である。

性信房は、親鸞聖人のおそばを離れず、

出身地の関東へ向かった。

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●横曽根門徒の形成

 

越後から関東へ入られた聖人は、常陸(ひたち)の稲田を拠点に、

各地をくまなく布教された。

建保2年、性信房とともに下総(茨城県南部)へ赴かれた時、

横曽根に荒れ果てた寺院を見つけられた。

この無住寺院を譲り受け、聞法道場に改造されたのが

報恩寺である。(茨城県海道氏豊岡町)

建保2年といえば、聖人42歳。関東へ来られて間もなくである。

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下総(しもうさ)に聖人を慕う人がいたとは思えない。

全くの新天地へ、布教開発(かいほつ)に乗り込まれたのだ。

そのご苦労の一端が、一本の松に託され、

今日に伝わっている。

報恩寺の近くの道路わきに、石垣で囲んだ土盛りがある。

その中に、細く体をくねらせた松がそびえている。

恐らく、親木が枯れたあと、同じ根から出てきた松だろう。

そばには、「親鸞聖人舟繋之松(ふなつなぎのまつ)」

と刻まれた石碑が立てられている。

親鸞聖人が、舟をつながれた松・・・。

周りは広々とした田園なのに、なぜ、舟を?

当時、この辺りは、利根川の氾濫原で、広大な沼地であった。

親鸞聖人は、その中を、舟を駆使され、布教されていたのだ。

陸地を歩くより、余程早く目的地に着ける。

いかに、時間を惜しまれ、精力的に活動しておられたかが分かる。

横曽根の報恩寺は、性信房に任された。

やがて、「横曽根門徒」といわれる関東で最大の門徒組織が

形成されていく。

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報恩寺は、江戸時代に焼失し、寺は東京・上野に移された。

現在の水海道市(みつかいどうし)の報恩寺には、

性信房に関する資料は残されていないという。

 

●箱根の別れ

 

親鸞聖人は、60歳過ぎに、懐かしい京都へ

お帰りになることになった。

性信房もお供をして、箱根山に至った時のことである。

親鸞聖人は、関東のほうを眺められ、性信房に、

諭すようにおっしゃった。

「関東にあって20年、私は、弥陀の本願を伝えてきた。

初めは非難攻撃していた者も、今は本願を信じ、

ありがたいことである。

しかし、今後、どんな妨げが起きて、

仏法を曲げられていくか分からない。

それ一つが気にかかる。性信房よ。関東にとどまって、

弥陀の本願を徹底してもらいたい。

それが何よりありがたい」

突然の仰せに当惑する性信房に、

親鸞聖人は次のようなお歌を示された。

病む子をば あずけて帰る旅の空

心はここに 残りこそすれ

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関東の門弟を、わが子のように思っておられる聖人の

御心に打たれた性信房は、謹んでこの大任をお受けし、

涙ながらに引き返していった。

この時、親鸞聖人は性信房へ、

ご愛用の笈(おい・大切な物を入れて背負う箱)を

与えられたことから、以来、この地は

「笈の平(おいのたいら)」と呼ばれるようになった。

現在、〝親鸞聖人御旧跡 性信御房訣別之地〟と刻まれた

大きな石碑が置かれている。

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数年後、性信房は、関東の情勢を報告するために上洛している。

「東国において真宗日々盛んになり、

信心決定の同胞が多く現れています」

性信房の言葉を聞かれた聖人は、

〝それぞ、わが生涯のよろこび、何事かこれにしかん〟

御喜悦限りなし、と『二十四輩順拝図絵』は伝えている。

「一日も早く、阿弥陀仏に救われて、信心決定してほしい」

親鸞聖人は、生涯、これ一つを念じていかれたのである。

 

●箱根での不思議

 

笈の平を過ぎ、元箱根へ向かう。

坂を下りていくと南北に細長い芦ノ湖が見えてくる。

険しい山の頂にあるこの湖も、今までは何艘もの遊覧船が

行き来する観光地である。

その芦ノ湖畔の箱根神社に、親鸞聖人の銅像があるというので

行ってみた。

ちょうど社殿の裏の杉林の中にある。

野ざらしでおそれ多いが、神道の地にも聖人を

慕う人がいるのだろうか・・・・。

箱根神社は、昔、箱根権現と呼ばれていた。

親鸞聖人と箱根権現の関係は、

『御伝鈔』に次のように記されている。

親鸞聖人は、夕暮れになって、

険しい箱根の山道に差しかかられた。

もうどこにも旅人の姿はない。

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夜も深まり、やがて暁近く月落ちるころ、

ようやく人家らしきものを見つけ、ホッとなさる。

訪ねた家から、身なりを整えた一人の老人が、

恭しく出迎えて、こう言った。

私が今、少しまどろんでいますと、

夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、

もうすぐ私の尊敬する客人が、この道を通られる。

必ず丁重に誠を尽くして、ご接待申し上げるように・・・と、

お言いつけになりました。

そのお告げが、終わるか終わらないうちに、

貴僧が訪ねられました。

権現さままでが尊敬なさる貴僧は、決して、

ただ人ではありませぬ。

権現さまのお告げは明らかです

老人は感涙にむせびつつ、丁寧に迎え入れ、

さまざまのご馳走で、心から聖人を歓待した。

親鸞聖人は、ここで3日間、教化されたという。

以来、神官皆聖人を尊敬し、箱根権現の社殿に、

親鸞聖人の御真影が安置されるようになった。

それは明治時代まで続いたという。

神仏分離の法令以後、親鸞聖人のお姿は宝物殿に移されている。

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●嘉念房の布教

 

箱根を越えられる親鸞聖人の前に一人の男がひざまずいた。

私は都から流罪に遭って、

この山で配所の月を眺めている者です。

失礼ですが、どのような修行を積まれた

大徳であらせられますか

何の修行も積んでいません。

ただ、阿弥陀仏の本願をお伝えしている者です

聞いた流人は涙を流して喜び、

常日ごろ、後生の一大事が心にかかりながら、

いたずらに月日を送っていましたが、

今ここに善知識に巡り会えたことを喜ばずにおれません。

どうか、流人のあばら屋にお立ち寄りくださり、

わが、暗い心をお救いくださいませ

親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ足を運ばれ、

どんな人をも、必ず、絶対の幸福に助けたもう阿弥陀仏の本願を、

懇ろに説かれた。

この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、

嘉念房(かねんぼう)と名乗った。

嘉念房は赦免のあと、京都に親鸞聖人を訪ね、

常におそばにあってお仕えしたという。

弘長2年、親鸞聖人が浄土往生の人となられたあと、

嘉念房は、美濃国を巡教し、白鳥郷に草庵を結んで親鸞聖人の

み教えの徹底に全力を尽くしていた。

ある日、一人の男が来て、

「私は、ここより北に当たる飛騨国白川郷に住む者ですが、

これまで、仏法というものを聞いたことも

見たこともありませんでした。

どうか私の国にも真実をお伝えください」

と願い出た。

嘉念房は、これぞわが使命と翌日にも出発しようとしていた。

しかし、白鳥郷の人々は、

「せっかく念仏繁盛のこの地を後に、

山深い飛騨国に入ることはやめてください」

と言ったが、嘉念房は、

「そんな所にこそ、真実を弘めなければならぬ・・・。

きっと、師の聖人もお喜びになるであろう」

と決意を述べ、布教に旅立ったという

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肉親の無常に導かれた門弟たち [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

                        親鸞聖人の旅

 

    肉親の無常に導かれた門弟たち

 

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無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり

といわれるように、親や子の死が縁となって、

聖人のお弟子になった人たちも多い。

一人息子を亡くした鳥喰(とりばみ)の唯円(ゆいえん)、

2人の愛児を失った源海房(げんかいぼう)、

父の死が縁となった念信房の、真実の出遇いを見てみよう。

併せて、恋いに破れた半狂乱の女性が、

聖人のお導きで生まれ変わった伝説の地を訪ねてみた。

 

●愛児を失った鳥喰の唯円

 

武蔵国猶山(ゆうやま)の城主・橋本綱宗は、

十六万五千石の大名であった。

家は栄え、愛する妻子とともに幸せな家庭を築いていた。

綱宗の、何よりの楽しみは、一人息子・清千代丸の成長である。

自分の生き甲斐と、将来の望みのすべてをわが子にかけていた。

ところが、建保3年2月5日、清千代丸が病に襲われ、

わずか8歳にしてこの世を去ったのである。

突然の出来事であった。

綱宗は、あどけない子供の笑顔を、いつまでも忘れられない。

この世に、当てになるものは何一つない。

8歳の子供さえ、無常の風に誘われるのだ。

オレはよく43歳まで生き延びてきたものだ。

今死んだら、どこへ行くのか・・・

激しい無常を感じた綱宗は、城を弟に譲り、修行者となった。

善知識を求めて諸国遍歴の旅に出たのである。

同年3月1日、常陸国の那珂郡鳥喰村を通った時のことである

(現在の、茨城県那珂郡那珂町豊喰)。

とある空き家で一夜を過ごした綱宗は、不思議な夢を見た。

仏さまが現れ、

是より西に当たり稲田といえる処に、名僧知識下られて

仏法弘通盛んなる程に、明日は急ぎて参詣致すべし

と告げられたという。

翌日、綱宗は霊夢に従って稲田へ向かった。

するとどうだろう。門前市をなし、多くの人たちが、

親鸞聖人のご説法を聴聞している最中であった。

綱宗も群衆に交じって、聞法に身を沈めた。

綱宗の心に、聖人のお言葉はしみ入るように響いてくる。

後生に一大事があることと、その解決は、

阿弥陀仏の本願以外には絶対ないと知らされ、

その日のうちに、聖人のお弟子となり、

唯円房の名を賜っている。

二十四輩の二十四番である。(聖人43歳)

(綱宗は『歎異抄』の作者ではないかといわれる

「河和田の唯円」とは別人である。

区別して、綱宗を「鳥喰の唯円」という)

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●恋に破れた鬼女伝説

 

JR水戸駅から北へ20キロ。

水郡線・谷河原駅の近くに、鳥喰の唯円が開いた西光寺がある。

田園に囲まれた静かな所だ。(常陸太田市谷河原町)

本堂へ入ると、仏壇の横に、動物の角らしき物が、

丁重に置いてある。大きさは、大人の親指ほど。

相当年数がたっているらしく、小さな虫食いの穴がいっぱいある。

「なぜ、こんな所に角が・・・」

寺で尋ねると、そこには、悲しい恋の伝説が秘められていた。

昔、「おため」という18歳の美しい娘がいた。

貧しい農家に生まれたが、篠田民部という豪族の家に雇われ、

働いていた。

その家には六郎という屈強の若者がいた。

六郎は、毎日まめまめしく働くおための姿を見て、

恋心を抱くようになった。

おためも、若くてたくましい六郎に思いを寄せていた。

いつしか2人の間には身分の違いを超えて

ひそかな愛が育っていったのである。

しかし、楽しい恋の日々は長くは続かなかった。

六郎は、親の説得に負けてしまい、

近所に住む富豪の娘と結婚し、

おためは、民部の家から追い出されてしまった。

引き裂かれた、おための恋慕の情はますます燃え盛り、

いつしか、激しい憎悪の炎へと転じていったのである。

「どうせ、一緒になれないのなら、呪い殺してやる」

藁人形に釘を打ち、毎夜毎夜、恐ろしい形相で祈るのであった。

ある夜、彼女の様子を垣間見た村人が、

「おための頭に角が生え、鬼になったぞ!」

と驚いて告げたという。

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村人は、何とか元の優しい娘に戻すことはできないかと、

親鸞聖人に救いを求めた。

哀れに思われた聖人は、早速おために会いに行かれた。

狂乱状態の彼女を、どう導かれたかは伝えられていないが、

何日間もご説法なされている。

冷静さを取り戻したおためは、命を懸けた恋さえ

続かない現実と、自分の思いどおりにならないと

恋する相手をも殺してしまう恐ろしい自己のすがたを

知らされ、戦慄せざるをえなかった。

しかし、「どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に」と

誓われた阿弥陀仏の本願を知らされ、熱心な仏法者に

生まれ変わったという。

恐ろしい角は、おためだけが持っているのではない。

私たちの心の中には、常に、うらみ、ねたみ、そねみ、

怒りの角が生えていないだろうか。

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●父の急死に

   驚いた念信房

 

JR水戸駅から、車で北へ約1時間半。

トンネルを幾つも越えた奥深い山村に、

念信房が開いた照願寺がある(那珂郡美和村鷲子)。

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親鸞聖人は、6度も、この地へ足を運ばれている。

稲田の草庵からではかなりの距離だ。

真実を聞き求める人が一人でもあれば、

どんな山奥でもご布教に歩かれるお姿がしのばれる。

安貞2年の春、聖人(56歳)は、はるばる念信房の草庵を

訪ねられ、ご説法なされた。

ちょうど、桜のつぼみが膨らみ始めるころであったが、

聖人がお越しになると、一夜にして満開となった。

これを見た人々は、

「浄土真宗が末代まで栄えるあかしに違いない」

と喜んだという。

稲田へ帰られる聖人は、この桜の花を何度も振り返って

眺められたことから、「見返りの桜」と呼ばれている。

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念信房は、この地にあった高沢城の城主・高沢氏信であった。

知勇兼備の武人といわれていたが、

いつかは散る命、死んだらどうなるのか

と深く悩んでいた。

そんな時、父親が突然亡くなったのである。

父は、臨終間際に、

「稲田の親鸞聖人を訪ねよ」

と言い残した。

「今度は自分の番だ」

と強く感じた氏信は、遺言に従って稲田へはせ参じた。

親鸞聖人は、後生の一大事をズバリ説き切られる。

真実に衝撃を受けた氏信は、城主の位をなげうって、

聖人のお弟子になったのである。

31歳の決断であった。(二十四輩十七番)

 

●2人の子供を同時に

 亡くした源海房

 

武蔵国の領主・安藤隆光には、7歳の月寿と5歳の花寿という

2人の男の子があった。

寵愛限りなかったが、ある年、ふとした病で、

2人の子供を同じ日に亡くしてしまった。

一度に2人の愛児を失った隆光の嘆きは、

他人には想像できない。

涙尽き、ともに死のうとまで思っていたある夜、

夢の中に、尊い僧が現れ、次のように告げたという。

汝、未来永劫、悪道に堕ちるのは必定である。

今、観音、勢至菩薩が、かりに、そなたの愛児と生まれて、

世の無常を目の当たりに示してくだされた。

これひとえに汝ら夫婦を菩提の道に入れしめんがためである。

今幸いに、末代不思議の善知識あり。

親鸞聖人と名づく。汝、速やかに行きて、仏法を聴聞せよ

隆光は、大いに喜び、急ぎ、親鸞聖人の元へはせ参じ、

聞法に励んだ。

この時、隆光34歳、聖人のお弟子となり、

源海房と生まれ変わったのである。

私たちも、肉親の死を、一時の悲しみに終わらせず、

「次は自分の番」と受け止め、聞法の勝縁にしたい。

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人生に悩んだ門弟たち(関東の二十四輩) [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

        親鸞聖人の旅

 

人生に悩んだ門弟たち

    (関東の二十四輩)

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親鸞聖人には、関東の二十四輩をはじめとして、

多くのお弟子があった。

彼らは、どのようにして真実を求めるようになったのだろうか。

剣の道に励んでいた善念房(ぜんねんぼう)、

比叡山で修行していた唯誓房(ゆいせいぼう)、

有名な歌人だった慈善房(じぜんぼう)、

城主だった唯信房4人のドラマにスポットを当ててみよう。

いずれも、本当の人生の目的を探し求めていた人たちである。

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●剣の道を捨てた善念房

 

18歳の青年、三浦義重は、人生の目的に悩んでいた。

「武士の家に生まれ、当然のごとく、剣の道に励んでいるが、

このまま一生を終わっていいのだろうか・・・」

ある日、常陸(茨城)の名勝・桜川のほとりを通りかかった時、

一人の僧形の旅人が、土手にたたずんでいるのが見えた。

「今日の桜川は、いつもより水かさが多い。

川を渡れずに困っておられるのだな」

と感じた義重は、

「私の背中にお乗りください」

と、屈強な体を差し出した。

この旅人こそ、親鸞聖人だったのである。

義重は胸まで水につかりながらも、無事、

聖人を対岸へお渡しできた。

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聖人は、青年の気負いのない誠実さに

感謝の言葉をかけられるが、

義重の表情は、どことなく暗い。

「何か、お悩みを?」

はい。人は何のために生きるのか、悩んでいます。

私は、親の言いつけに従い剣の道を求めていますが、

強くなる目的は一体何なのか

結局、人を殺し、領地を奪うためとしか思えません。

父は、私の13歳の時に討ち死にしました。

思えば、はかない一生。

私もいつ命を落とすかしれません。

人生懸けて悔いのない目的を知りたいのです

義重は胸のうちを聖人に打ち明けた。

あなたの言うとおり、欲や怒りや愚痴のために

命を落とすのは、愚かなこと。

人間には、なさねばならない重大な使命があります。

それ一つを教えたのが仏教です

親鸞聖人は、後生の一大事を解決して、

絶対の幸福に救われることこそ、人生の目的であると、

じゅんじゅんと教えられた。

この方が。この方こそ、本当の人生の師だ

と確信した義重は、すべてを投げ捨てて、

聖人のお弟子となった。

二十四輩の十二番「善念房」である。

建保4年8月13日、暑い夏の日であったと記されている(聖人44歳)

思いがけない出会いが、人生を大きく変える。

真実を知らされ、喜びに燃える義重は、

目をみはる勢いで聞法に励んだ。

晩年、伊勢地方(三重県)の布教に力を尽くし、

85歳で亡くなっている。

義重が開いた善重寺は、JR水戸駅から車で5分ほどの、

水戸市酒門(さかど)町にある。

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●合戦の功名を捨てた唯誓房(ゆいせいぼう)

 

善重寺から、約500メートル西に、聖人のお弟子「唯誓房」が

開いた安楽寺がある。

唯誓房は、源氏の勇将・佐々木四郎高綱の四男で、

もとの名を沢田四郎高信といった。

高信は、父とともに源平の合戦に参陣し、

若武者ぶりを発揮した。

しかし、手柄を立てながらも、心には大きな悩みがあった。

合戦は武士の晴れ舞台。しかし、現実には、

功名を争っての殺し合いでしかない。

命を懸けて名誉を追い求め、一体、何が残ったのか。

多くの人間を殺した自分は、死んだらどこへ行くのか

高信は、武士を捨てた。「諦乗(たいじょう)」と名を改め、

比叡山に登り、後生の一大事の解決目指して、

修行に没頭したのである。

しかし、打ち込めば打ち込むほど、

救われない自己の魂が見えてくる。

天台宗では助からないとさとった高信は、

真っ暗な心を抱えて比叡山を下りた。

このままでは、後生は一大事だ。

どこかに魂の解決をしてくださる善知識はおられぬか

と、雲水の旅に出たのであった。

全国を流浪し、常陸国大戸郷(おおどのごう)の

天台宗浄土院に身を寄せていた時のことである

(現在の東茨城郡茨城町大戸)。

「稲田の親鸞聖人が、生死出ずべき道を説いておられる」

という話が伝わってきた。

早速、稲田を訪ねた高信は、草庵を埋め尽くす参詣者が、

老いも若きも、真剣に聞法している姿に驚いた。

親鸞聖人は、

仏法を聞く目的は、後生の一大事の解決以外にはない。

この一大事の解決は、阿弥陀仏の本願によらなければ

絶対にできない。

阿弥陀仏は、どんな人をも、必ず絶対の幸福に救い摂ると

誓っておられる

と力強く断言される。

高信は、

長い間探し求めた善知識に、今、お会いできたぞ

と全身で叫ばずにおれなかった。

比叡山を下りて4年目のことである(承久2年、聖人48歳)

さらに驚いたことには、戦場でともに戦った父・高綱も、

数年早く、聖人のお弟子になっていたのである。

阿弥陀仏の不思議なご念力で実現した親子の再会であった。

 

●文学の名声を捨てた慈善房

 

後鳥羽上皇の家臣・橘重義は、優れた歌人として有名であった。

しかし、いくら文学で名声を得ても、心には満たされないものを

感じていた。

重義が、所用で関東に向かい、常陸国の村田郷の太子堂で

一夜を明かした時のことである。

夢の中に、聖徳太子が現れ、

これより西南に高僧ましまして説法したもう。

これ弥陀如来の化身なり。汝、早く行きて要法を聴聞せよ

と告げられたという。

驚いた重義は、稲田の草庵に親鸞聖人を訪ねた。

地位や名誉は、いつまでも続く幸せではない。

阿弥陀仏によって、大安心、大満足の絶対の幸福に救われてこそ、

永遠に変わらない幸せになれるのです

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を説法なされた。

重義は、それまでの地位も名誉も投げ捨てて、

直ちに聖人のお弟子になっている(建保3年、聖人43歳)。

慈善房と生まれ変わった重義は、霊夢を見た太子堂のほとりに

聞法道場(常弘寺)を建て、親鸞聖人のみ教えを

伝えることに生涯をかけた(二十四輩二十番)。

常弘寺は、水戸駅から、国道118号線を北へ

20キロほど進んだ所にある。(那珂郡大宮町石沢)。

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●城主の位を捨てた唯信房

 

親鸞聖人は、稲田から鹿島方面へと、

よくご布教に歩かれた。

そのコースの途中、霞ヶ浦の北岸に幡谷村があった

(現在の東茨城郡小川町幡谷)

建保4年8月13日の夜のこと。

この村の城主・幡谷次郎信勝の夢に、観音菩薩が現れ、

汝、城主の位は高くとも、七珍万法(しっちんまんぽう)は

久しくとどまらず。ただいま城下に休んでおられる親鸞聖人の

ご教化を被らずば、永劫に生死を出ずることあるべからず。

直ちに行きてみ教えを賜れと告げたという。

おまえは今、城主という地位や財産に

満足しているかもしれぬが、

いつまでも続く幸せではないぞという観音の言葉が、

深く胸に刺さった。

不思議な霊夢に驚いた信勝は、夜が更けていたにもかかわらず、

一人で城外に出てみた。

するとどうだろう。

霊夢のとおり、親鸞聖人が三日月を眺められながら、

しばしお休みになっているではないか。

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信勝は、聖人にお目にかかって、事の次第をお話しした。

親鸞聖人は、

今まで何度も、この城下を往復しています。

そのたびに、いつかお会いして、親しくお話ししたいと

思っていました。ようやく縁が熟したのですね

とお喜びになった。信勝は胸をときめかせながら、

聖人を城内へご案内し、夜の明けるまで、

阿弥陀仏の本願を聴聞させていただいた。

信勝は、

善知識まします今、真剣に求めなかったら、

未来永遠、苦しみから逃れることはできないぞ

という、観音菩薩の言葉をかみしめずにおれなかった。

すなわち、城主の位をなげうって、聖人のお弟子となり、

唯信房」と生まれ変わった(二十四輩二十三番)。

唯信房は、親鸞聖人のみ教えの伝道に燃えた。

北は福島県から、南は島根県に至るまで、

教化の跡が残されている。

水戸市緑町の信願寺は、唯信房が開いた寺である。

関東には、人生の目的を知らされた人々の

熱烈な聞法の逸話が、数多く残されている。

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