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二十四輩の筆頭・性信房 [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

                      親鸞聖人の旅

二十四輩の筆頭・性信房(しょうしんぼう)

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親鸞聖人には、「関東の二十四輩」といわれるお弟子があった。

その筆頭に挙げられるのが、性信房である。

「性信房が、関東にいてくれると、

わが身を二つ持っているように心強い」

とまでおっしゃっている。

親鸞聖人と性信房の関係をたどってみよう。

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●手のつけられない悪党

 

性信房は、常陸の生まれであるが、

怪力無双の荒くれ者で、悪五郎と呼ばれ、

恐れられていた。

〝心性は狼のごとし。礼法は知らず、

従順の心なし〟 

        (二十四輩順拝図会)

とある。

悪事の限りを尽くす悪五郎に、

人生の転機が訪れたのは18歳の春であった。

武者修行を志し、諸国を遍歴している途中、

たまたま京都の吉水草庵の前を通りかかった。

門前市をなし、老若男女が喜々として中へ入っていく。

「ものすごい人だなあ。一体、何があるのだろう」

悪五郎も、興味半分で入ってみた。

そこでは、法然上人のご説法が行われていたのである。

人は皆、自分のことぐらい分かると思っている。

ところが、自分の目で自分の眉を見ることができないように、

近すぎると、かえって分からないものだ。

仏さまは、見聞知のお方である。

だれも見ていない所でやった行いも見ておられる。

陰で人の悪口を言っていることも皆聞いておられる。

心の中で、人に言えない恐ろしいことを思っていることも皆、

知っておられる。

かかる仏さまの眼(まなこ)に、我々の姿は、

どのように映っているであろうか

『大無量寿経』には、

心常念悪(心常に悪を念じ)

口常言悪(口常に悪を言い)

身常行悪(身常に悪を行じ)

曽無一善(曽て一善無し)

と説かれている。

心と口と体で、悪を造り続けているのが

人間の真実の姿だと、釈尊は断言されている

縁側で聴聞していた悪五郎の耳に、

法然上人のお言葉は、強い衝撃として入っていった。

「まるで、自分のことを言われているようだ。

いや、自分でさえ分からない自分の姿まで見透かされている」

初めて聞く仏法であったが、悪五郎は、恐ろしいほど、

その奥深さを感じた。

阿弥陀仏は、すべての人間を、極重の悪人と見抜かれ、

そんな者を、必ず絶対の幸福に助けてみせると

誓っておられる・・・

法然上人は、阿弥陀仏の本願を詳しく説かれた。

ああ、オレは人生を懸けて悔いのない

み教えに遇うことができた

ご説法のあと、悪五郎は、感涙にむせびながら、

法然上人の前へ出ていた。

私は、これまで、悪を悪とも感じず、人を悩ませ、

悪逆の限りを尽くしてきました。

かかる悪人にも、阿弥陀仏がお慈悲を

かけてくだされていたとは・・・。

どうか、私をお弟子の端にお加えくださり、

お導きください

髻(もとどり)を切って、懇願するのであった。

この時、法然上人は、親鸞聖人におっしゃった。

感心な若者だ。しかし、老年のわれに従っても、

後幾らも随身できないだろう。そなたの元で、

よく育ててやりなさい

かくて、悪五郎は「性信房」と名を改め、

親鸞聖人のお弟子になった。

聖人34歳、悪五郎18歳の年であったという。

翌年、権力者の弾圧により、法然上人は土佐へ、

親鸞聖人は越後へ流刑に遭われた。

承元の法難である。

性信房は、親鸞聖人のおそばを離れず、

出身地の関東へ向かった。

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●横曽根門徒の形成

 

越後から関東へ入られた聖人は、常陸(ひたち)の稲田を拠点に、

各地をくまなく布教された。

建保2年、性信房とともに下総(茨城県南部)へ赴かれた時、

横曽根に荒れ果てた寺院を見つけられた。

この無住寺院を譲り受け、聞法道場に改造されたのが

報恩寺である。(茨城県海道氏豊岡町)

建保2年といえば、聖人42歳。関東へ来られて間もなくである。

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下総(しもうさ)に聖人を慕う人がいたとは思えない。

全くの新天地へ、布教開発(かいほつ)に乗り込まれたのだ。

そのご苦労の一端が、一本の松に託され、

今日に伝わっている。

報恩寺の近くの道路わきに、石垣で囲んだ土盛りがある。

その中に、細く体をくねらせた松がそびえている。

恐らく、親木が枯れたあと、同じ根から出てきた松だろう。

そばには、「親鸞聖人舟繋之松(ふなつなぎのまつ)」

と刻まれた石碑が立てられている。

親鸞聖人が、舟をつながれた松・・・。

周りは広々とした田園なのに、なぜ、舟を?

当時、この辺りは、利根川の氾濫原で、広大な沼地であった。

親鸞聖人は、その中を、舟を駆使され、布教されていたのだ。

陸地を歩くより、余程早く目的地に着ける。

いかに、時間を惜しまれ、精力的に活動しておられたかが分かる。

横曽根の報恩寺は、性信房に任された。

やがて、「横曽根門徒」といわれる関東で最大の門徒組織が

形成されていく。

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報恩寺は、江戸時代に焼失し、寺は東京・上野に移された。

現在の水海道市(みつかいどうし)の報恩寺には、

性信房に関する資料は残されていないという。

 

●箱根の別れ

 

親鸞聖人は、60歳過ぎに、懐かしい京都へ

お帰りになることになった。

性信房もお供をして、箱根山に至った時のことである。

親鸞聖人は、関東のほうを眺められ、性信房に、

諭すようにおっしゃった。

「関東にあって20年、私は、弥陀の本願を伝えてきた。

初めは非難攻撃していた者も、今は本願を信じ、

ありがたいことである。

しかし、今後、どんな妨げが起きて、

仏法を曲げられていくか分からない。

それ一つが気にかかる。性信房よ。関東にとどまって、

弥陀の本願を徹底してもらいたい。

それが何よりありがたい」

突然の仰せに当惑する性信房に、

親鸞聖人は次のようなお歌を示された。

病む子をば あずけて帰る旅の空

心はここに 残りこそすれ

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関東の門弟を、わが子のように思っておられる聖人の

御心に打たれた性信房は、謹んでこの大任をお受けし、

涙ながらに引き返していった。

この時、親鸞聖人は性信房へ、

ご愛用の笈(おい・大切な物を入れて背負う箱)を

与えられたことから、以来、この地は

「笈の平(おいのたいら)」と呼ばれるようになった。

現在、〝親鸞聖人御旧跡 性信御房訣別之地〟と刻まれた

大きな石碑が置かれている。

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数年後、性信房は、関東の情勢を報告するために上洛している。

「東国において真宗日々盛んになり、

信心決定の同胞が多く現れています」

性信房の言葉を聞かれた聖人は、

〝それぞ、わが生涯のよろこび、何事かこれにしかん〟

御喜悦限りなし、と『二十四輩順拝図絵』は伝えている。

「一日も早く、阿弥陀仏に救われて、信心決定してほしい」

親鸞聖人は、生涯、これ一つを念じていかれたのである。

 

●箱根での不思議

 

笈の平を過ぎ、元箱根へ向かう。

坂を下りていくと南北に細長い芦ノ湖が見えてくる。

険しい山の頂にあるこの湖も、今までは何艘もの遊覧船が

行き来する観光地である。

その芦ノ湖畔の箱根神社に、親鸞聖人の銅像があるというので

行ってみた。

ちょうど社殿の裏の杉林の中にある。

野ざらしでおそれ多いが、神道の地にも聖人を

慕う人がいるのだろうか・・・・。

箱根神社は、昔、箱根権現と呼ばれていた。

親鸞聖人と箱根権現の関係は、

『御伝鈔』に次のように記されている。

親鸞聖人は、夕暮れになって、

険しい箱根の山道に差しかかられた。

もうどこにも旅人の姿はない。

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夜も深まり、やがて暁近く月落ちるころ、

ようやく人家らしきものを見つけ、ホッとなさる。

訪ねた家から、身なりを整えた一人の老人が、

恭しく出迎えて、こう言った。

私が今、少しまどろんでいますと、

夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、

もうすぐ私の尊敬する客人が、この道を通られる。

必ず丁重に誠を尽くして、ご接待申し上げるように・・・と、

お言いつけになりました。

そのお告げが、終わるか終わらないうちに、

貴僧が訪ねられました。

権現さままでが尊敬なさる貴僧は、決して、

ただ人ではありませぬ。

権現さまのお告げは明らかです

老人は感涙にむせびつつ、丁寧に迎え入れ、

さまざまのご馳走で、心から聖人を歓待した。

親鸞聖人は、ここで3日間、教化されたという。

以来、神官皆聖人を尊敬し、箱根権現の社殿に、

親鸞聖人の御真影が安置されるようになった。

それは明治時代まで続いたという。

神仏分離の法令以後、親鸞聖人のお姿は宝物殿に移されている。

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●嘉念房の布教

 

箱根を越えられる親鸞聖人の前に一人の男がひざまずいた。

私は都から流罪に遭って、

この山で配所の月を眺めている者です。

失礼ですが、どのような修行を積まれた

大徳であらせられますか

何の修行も積んでいません。

ただ、阿弥陀仏の本願をお伝えしている者です

聞いた流人は涙を流して喜び、

常日ごろ、後生の一大事が心にかかりながら、

いたずらに月日を送っていましたが、

今ここに善知識に巡り会えたことを喜ばずにおれません。

どうか、流人のあばら屋にお立ち寄りくださり、

わが、暗い心をお救いくださいませ

親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ足を運ばれ、

どんな人をも、必ず、絶対の幸福に助けたもう阿弥陀仏の本願を、

懇ろに説かれた。

この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、

嘉念房(かねんぼう)と名乗った。

嘉念房は赦免のあと、京都に親鸞聖人を訪ね、

常におそばにあってお仕えしたという。

弘長2年、親鸞聖人が浄土往生の人となられたあと、

嘉念房は、美濃国を巡教し、白鳥郷に草庵を結んで親鸞聖人の

み教えの徹底に全力を尽くしていた。

ある日、一人の男が来て、

「私は、ここより北に当たる飛騨国白川郷に住む者ですが、

これまで、仏法というものを聞いたことも

見たこともありませんでした。

どうか私の国にも真実をお伝えください」

と願い出た。

嘉念房は、これぞわが使命と翌日にも出発しようとしていた。

しかし、白鳥郷の人々は、

「せっかく念仏繁盛のこの地を後に、

山深い飛騨国に入ることはやめてください」

と言ったが、嘉念房は、

「そんな所にこそ、真実を弘めなければならぬ・・・。

きっと、師の聖人もお喜びになるであろう」

と決意を述べ、布教に旅立ったという

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