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弥陀の救いは「破闇満願」 [南無阿弥陀仏]


誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

        (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことであると、
繰り返し述べてきました。
大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束
で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
どんな人も 必ず絶対の幸福(往生一定)に救う
という誓いです。
善人も悪人も、老若男女問わず、
絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
この阿弥陀仏の救いを表した仏語が「破闇満願」です。
「破闇」とは、闇を破ること。
闇とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」であり、
「疑情」といわれます。

この「疑情」こそが、苦悩の根元であると親鸞聖人は
『正信偈』に、こう教えられています。

還来生死輪転家  生死輪転の家に還来することは、
決以疑情為所止  決するに疑情を以て所止と為す

「生死輪転」とは、「流転輪廻」ともいわれ、
安心、満足というゴールのない円周を、
際限もなく回り続け苦しんでいるさま。

私たちは家を離れて生きられないように、
苦しみから離れ切れず、迷い続けているので、
「生死輪転の家」といわれているのです。

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「還来」は、生死輪転(際限ない苦悩)の家を
行ったり来たりすることですから、
「終わりなき苦しみ」を表しています。
「生死輪転の家に還来することは」
とは、一言で、
「人生を苦に染める元凶は何か」
ということであり、親鸞聖人は、
次のように一言で答えておられます。
「決するに、疑情を以て所止と為す」
「決するに」とは、「これ一つ」という強い言葉。
「疑情ひとつ」が苦悩の根元であるとの断言であります。

●苦悩の根元、疑情とは?

「苦悩の根元は、これひとつ」と断定される「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」です。

命懸けであなたを助けようと力尽くされている阿弥陀仏に、
「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」
「阿弥陀仏は本当に私を救ってくださるのか」
「欲を起こしたり、腹立つ心を減らさないと、
助けてもらえないのだろう」
と、疑っている心が、疑情です。
この心一つが流転の元凶であり、
「無明業障という恐ろしい病」
とも言われます。

無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病
           (御文章二帖目十三通)

誰もが幸せを求めながら、
なぜ、心から生きる喜びが味わえないのか。
何をどれだけ手に入れても本当の幸福になれないのは、
「無明業障」という心の病にかかっているからだと、
蓮如上人は明らかにされています。

「心の病」といっても、
心療内科などで診断されるものではありません。
治療する精神科医も、自覚なしにかかっている病です。
この病気にかかっていない人は一人もありませんが、
これは、仏教をよくよく聞かなければ毛頭分かりません。

●無明業障の病が恐ろしい二つの理由

無明業障の病が「恐ろしい」といわれる理由が二つあります。
○三世を迷わす苦悩の根元だから。
○自覚症状がないから。

一つ目の理由からお話しましょう。
この病は、「無始よりこのかた」と言われますように、
始めのない始め、過去無量劫からの魂の病です。
それは未来永劫にわたる大問題でもあります。
ですから蓮如上人は「無明業障の病」を『御文章』に、
「三世の業障」とも言われています。

闇=疑情=無明業障の恐ろしき病=三世の業障

「三世の業障」とは、三世を通し、私を苦しめているもの。
「三世」とは、過去世・未来世のことで、私たち一人一人に、
人間として生まれる前の過去世、今生きている現在世、
死んだ後の未来世あるのだよと、
仏教では教えられます。
年でいえば、去年なしに今年はないし、
今年なしの来年もありえない。

去年の今頃何があったのか、たとえ忘れてしまっても、
なかったのではない。
必ず、過去があって現在があり、未来へと続くのです。
おととい食べた物さえすっかり忘れている私たちは、
人間に生まれる前の過去世など知る由もありませんが、
釈尊は厳然と三世の実在を説かれています。
肉体の苦しみなら、せいぜい百年ほどですが、
「三世の業障」は、生まれる前から現在も、
そして死んだ後も苦しめる、全人類の永遠の生命の病なのです。
この「三世の業障・無明業障の恐ろしき病」を
治せる方はおられるのでしょうか。
蓮如上人は、こう仰せです。

ありがたの弥陀の光明や。
この光明の縁に値いたてまつらずは、
無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病の
癒る(なおる)ということは、
更に以てあるべからあるものなり。

          (御文章二帖目十三通)

阿弥陀仏のお力(光明)によらなければ、
無明業障の恐ろしき病が治ることは絶対にないと教えられます。
無明業障の病を治せる方は、
大医王であられる阿弥陀仏しかましまさぬのです。

阿弥陀仏は、私たちを無明業障の病から
何とかして助けようとして、
南無阿弥陀仏という大妙薬をつくられました。

すべての人は、阿弥陀仏のつくられた、
この南無阿弥陀仏の妙薬を賜った一念で全快し、
絶対の幸福に救われます。

一念とは、一秒よりも短い時で、
時剋の極促をいいます。
蓮如上人は、
阿弥陀仏から、南無阿弥陀仏の大功徳を与えていただいた一念に、
過去、現在、未来の三世を通して苦しめる
無明業障の恐ろしき病は全快し、
同時に、絶対の幸福(正定聚・等正覚)に救われるのだ

と、こう教えておられます。

この大功徳(南無阿弥陀仏)を、
一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向(与える)しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位(絶対の幸福)また等正覚の位なんどに
定まるものなり

                (御文章五帖目六通)

「南無阿弥陀仏」には、私たちの苦悩の根元を、
一念で断ち切るものすごい力がある。

その大功徳は人間の想像を絶すると蓮如上人は、
こう説かれています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

             (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、
「たった六字の南無阿弥陀仏に、そんなに功徳や、
効能があるとは誰も思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六字だけでは心もとなく思えてしまう。
そんな迷いの心をお見通しの上で、こう続けられます。
だが、南無阿弥陀仏の六字には、
最高無上、甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、底を見れば深さが知れぬ。
名号六字の大功徳は広大無辺で極まりがない

偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
猫に小判、豚に真珠で、
私たちに名号の値を知る知恵がないからです。
正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の万善万徳がおさまっていることは明らか。

ですから、お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何憶年かかっても説き尽くせない」と言われ

親鸞聖人は、『正信偈』に「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海(大きな宝の海)」と言われています。
そんなすごい大功徳だからこそ、
三世にわたる苦悩の根元を一念で解決できる。
無明業障の恐ろしき病(三世の業障)を治す特効薬、
それが「南無阿弥陀仏」なのです。

●ハッキリする救い

この特効薬は、阿弥陀仏が与えてくださいますから、
「我等衆生に廻向しまします」と言われています。
「廻向」とは、「与える」という意味です。
南無阿弥陀仏の大妙薬を頂いた一念、
病は全快し、同時に正定聚(絶対の幸福)の身になります。
正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことです。
いつ死んでも極楽往生に往って、
仏に生まれることがハッキリしますので、
往生一定とか往生治定ともいわれます。

阿弥陀仏の願いは、
私たちを正定聚(絶対の幸福)にすること以外にありませんから、
正定聚になった時、阿弥陀仏の願いが私たちの身の上に満たされます。
これを「満願」といいます。

○闇を破る(破闇)
=疑情を晴らす=無明業障の病(三世の業障)を全快させる
○願いを満たす(満願)
=正定聚(等正覚)にする=往生一定(往生治定)にする

このように「疑情を晴らし正定聚にしてみせる」
という弥陀の願いが、私たち(衆生)の身の上に満たされたことを、
「破闇満願」というのです。

私たちは苦しむために生まれてきたのでもなければ、
生きているのでもない。
「なぜ生きる」の答えは「破闇満願の身になるため」
一つです。

私たちは、そのために生き、働いています。
政治も経済も科学も医学も全ては、このためにあるのです。

苦しみの根元「疑情」を一念で晴らし、
この世から未来永遠に変わらぬ幸福を与える教えが仏教なのです。

●自覚症状なき病

無明業障の病が「恐ろしい」といわれるもう一つの理由は、
自覚症状がないからです。

肉体でも、自覚症状がない病は恐ろしいもの。
例えば、高血圧には自覚症状がほとんどなく、
放置する人が少なくありません。
しかし、長く続くと、負担のかかる血管や臓器に
さまざまな合併症を起し、命に危険を及ぼします。
「ガン」も、自覚症状がないことが多くあります。
特に肝臓は痛点がなく「沈黙の臓器」と呼ばれ、
気づいた時には手遅れというケースをしばしば耳にします。
早期発見・早期治療がなされれば治る病も、
自覚症状がないと手遅れになります。
同じように無明業障の病も(疑情)も自覚がありません。
まだまだ死なない、何とかしたら何とかなれると
思っている間は無明の病も分からず、
医者も薬も問題になりません。

「無明業障の病を治してくださる方は、
大宇宙に弥陀一仏のみ」「その特効薬が南無阿弥陀仏ですよ」
と勧める言葉も耳に入らない。

仏教の結論・一向専念無量寿仏
(「阿弥陀仏一仏を信じよ」という釈迦の金言)
も自分とは関係ないと思っているのです。

それがいよいよ心の臨終になると分かってきます。
念々に迫る無常に驚き、地獄一定の罪悪が知らされてくると、
後生の一大事助かりたい、という心があらわになり、
弥陀一仏に向くのです。

そして、南無阿弥陀仏を賜った一念に、
疑情(本願を疑っている心)がぶち破られ、
無明業障の恐ろしき病が全快、
この病を治せる方は、弥陀よりほかになかった、
薬は、「南無阿弥陀仏」以外になかったと明らかに知らされて、
「誠なるかなや、弥陀の本願」とハッキリするのです。

●どうすれば破闇満願の身になれるか

では、どうすれば破闇満願の身になれるのでしょうか。
親鸞聖人
聞思して遅慮することなかれ」。
仏教を聴聞(聞思)しなさいとご教示くださいます。
蓮如上人も、こう指南されています。

陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は
早く開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
かように宿善も遅速あり。
されば已・今・当の往生あり。
弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、
遅く開くる人もあり。
兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞するべきなり
                 (御一代記聞書)

陽の当たるところの花は速く咲き、
日陰の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、
弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。
聞法を怠れば日陰の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明に遇っても、
救われるのが速い人と遅い人があるのは、
人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、
ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

一日も早く、破闇満願の身となり、
生命の大歓喜がわき上がるまで、聞法精進いたしましょう。


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仏法を聞くって大事なの? [Q&Aシリーズ]

1.仏法は何のために聞くの?

仏法と聞くと葬式や法事を思い浮かべ、
死んでから用事のあるものと思っている人が
多いようですが、それは誤解です。
仏法の目的は「抜苦与楽」。
生きている今、私たちの苦しみを抜き、
幸せを与えることにほかなりません。
人生は、苦しみの花咲く木といわれます。
借金、離婚、病苦、肉親との別れ・・・、
一つの悩みを解決してやれやれと思う間もなく、
別の苦しみがやってくる。
それら苦しみの元を断ち切り、
人間に生まれた本当の喜び、
満足を与えてくださるのが仏法です。

では、そんな幸せにどうすればなれるのでしょうか。

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2.正しい教えを聞くことが大切

本当の幸せになる道は、「聴聞よりほかにない」
と、お釈迦さまは説かれています。

聴聞とは「聞く」ことですが、
落語や漫才を聞くのではありません。
仏法を聞かせていただくことです。
親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」
と教えられています。

昔は365日、朝昼晩と説法があった寺も少なくありません。
真宗の盛んな地域では、
「仏法聞けよ、仏法聞けよ」
と言われて育った人も多いでしょう。
もちろん、ただ聞けばよいのではありません。
正しい教えを正しく聞くことが大切です。

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3.どんな気持ちで聞けばよいか

また仏法は、居眠り半分、
あめ玉なめなめ聞ける教えではありません。

親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとい、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法聞き抜く人は、必ず不滅の幸せに輝くのだ

とおっしゃり、蓮如上人もまた、
火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは」
と、真剣な聞法を勧められています。

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4.命懸けで聞き聞きすると・・・

ある人が有名な布教使を訪ね、
「ご面倒ですが、後生の一大事、
一言お聞かせください」と言うと、
大喝一声、
後生ほどの一大事、一言や二言で聞かせられようか。
自力の仏法者は、無量永劫、
修行しても解決できぬと泣いているのに、
一日や二日聞いて、助からぬという横着な心だから
信じられぬのじゃ。
変わったことを聞くのではない。
同じことを命懸けて聞き聞きすると、
聞こえてくださるのじゃ
」と答えたといいます。
このような聞法の大切さから、
弊社でも毎月、「聞法のつどい」を開催しています。

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生まれて来たのは、極楽へ渡す弥陀の大船に乗るため! [親鸞聖人]

親が子を虐待し、子が親を殺める。
自殺幇助で稼ぐ者やら、
遊ぶ金欲しさに簡単に強盗殺人を犯す少年。
目を覆うような事件が、報道されない日はありません。


「いのちは尊い」
と、どれだけ連呼されても、
「私なんかガラクタ」
としか感じられないのは、
「なぜ、尊いのか」
分からないからでしょう。


深い闇にさまよう私たちに、
生命の尊厳を明示された方が、
世界の光といわれる親鸞聖人です。


「生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」


今回は、このお言葉に、
真のいのちの輝きをお聞きしましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生死の苦海ほとりなし


     ーーー空と水しか見えない海に
            放り出されたら、どうしますか?


初めに「生死の苦海」と言われているのは、
私たちの人生のことです。
人の一生は、苦しみの波の絶えない海に、
おぼれ沈んでいるようなものだと、
親鸞聖人は「生死の苦海」と言われています。
「生死」とは仏教で苦しみのこと、
「ほとりなし」とは、果てしないことですから、
「生死の苦海ほとりなし」
とは、人生は苦しみの連続である、と言われているお言葉です。

この世にオギャッと生まれたのは、例えれば、
太平洋の真ん中に放り出されたようなもの。
見えるのは水と空だけとしたら、どうするでしょう。

泳がねば沈んでしまいますから、泳ぎますが、
では、どこへ向かってでしょうか。
島も陸もない。船も見えないのに。

やみくもに泳げば泳ぐほど、陸地や船の方角と反対に進み、
努力が無駄になることもあります。

泳ぐ前に、まずハッキリさせるべきなのは、島がどこにあるのか。
陸地はどこか。船のある方角でしょう。

そこへ向かって泳いでこそ、泳ぐことに意味があり、
「ここまで泳いできてよかった」
と、泳いだ苦労が報われる時が来るのです。

生きる時に一番の大事は、どこへ向かって生きるのか。
「人生の目的」です。

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生きるために、生きるのか


「生きるために生きるのだ」
という言葉に、勇気づけられる人もあるでしょう。
「あなたは生きている、それだけで意味があるんだよ」
と言われれば、救われた気になります。
しかし本当に、それでいいでしょうか。
「何のために勉強しているのですか」
と聞かれて、
「希望の大学に合格するためです」
という答えなら理解できますが、
「勉強するために勉強しています」
では、意味不明です。
「なぜダンス教室に通っているの」
と尋ねて、
「あのステキな先生と踊れるから」
ならわかりますが、
「通うために、通っている」
では、トートロジー(同意語反復)で、
何も言っていないのと同じです。
「生きるために生きる」のは、ちょっと考えれば、
言葉の意味からもおかしいと、誰でも分かるでしょう。
「泳ぐために泳ぐ」

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「とにかく一生懸命泳げばいい」
では、やがて体力尽きて溺死するだけであるように、
生きる方角を知らず
「生きるために生きる」ようなもの。
死ぬほどつらいことはない、と言うように、
私たちが最も恐れ嫌う「死」に向かって生きるのは、
「苦しむために生きる」ことになってしまします。
それでいいと、どうして言えるでしょうか。

ところが、地球上に今、70億人の人がいても、
「まず生きることが大切なんだ」
と、誰も「人生の目的」を問題にせず、知ろうともしていません。
「自殺はダメだ」
と声高に叫んでいる識者も、
「なぜですか」
の素朴な疑問に、納得できる答えを示してはくれません。

それどころか、著名人の自死を賛美する始末。
不可解というほかありませんが、
「人生の目的なんか、考えても分からない」
と、アキラメているのではないでしょうか。


●目的と手段は違う


「いや、私の人生には目的がある。そこに向かって生きている」
という人もあります。
仕事、恋愛、お金、地位、名声、家庭、健康、旅行、趣味・・・などを、
それぞれ「人生の目的」と思ってのことでしょう。
確かにこれらは、それなりの喜びや満足を
与えてくれるに違いありません。
ドキドキ、ワクワク、興奮を味わえることもありますが、
どれだけ続くでしょう。
「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜、
不変の満足が得られるでしょうか。
死ぬまで求めても、「求まった」と達成した喜びの、
ないものばかりではないでしょうか。


世界中で、自殺者が絶えません。
ノーベル賞受賞の優秀な人たちも、生涯、
豊かな生活が保証された人も、それでも自ら命を絶つ。
色々な事情があるでしょうが、間違いなくいえるのは、
「幸せではなかったから」でしょう。
ノーベル賞も、人生究極の目的とはいえないようです。
金や財産、地位や名誉、趣味や健康、
これらは「生きる目的」ではなく、
生きるための「手段」。
この「目的」と「手段」の違いを知らず、
混同しているところに、
まことの幸せになれぬ根本原因があるのだと、
親鸞聖人は明言されています。

例えば、お金は使うためにある。
儲けて増やすこと自体が、目的では決してありません。
問題は、お金をどんな目的に使うか、です。
ところが、この平凡な真理に気づかない人が意外に多い。
目的と手段を履き違え、「金を使う」のではなく、
「金に使われる」奴隷になる人が少なくありません。
詐欺も偽装も収賄も、
そのために起きる事件とは言えないでしょうか。


では「生きる目的」と「手段」を、なぜ混同してしまうのでしょう。
真の「人生の目的」を知らないからだと、
親鸞聖人はおっしゃっているのです。


生きる実態は


「生きる」とは、こういうことだと、一休はいいます。

「人生は
食て寝て起きて糞たれて
子は親となる
  子は親となる」

社長だ、教授だ、ニートだ、といっても、
立って半畳、寝て一畳。
基本的にやっていることは、布団の上げ下げであり、
台所とトイレの往復です。
毎日同じことの繰り返しで、代わり映えのしない日常が、
どこまでも続いていく。

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そのうち、どこで覚えたやら子を生み親となり、
やがてその子もまた親となる。
これが「生きる」実態だ、の指摘は、
とても否定できません。
しかも、いつまでも生きておれるのではないと、
一休はまた、

「世の中の
娘が嫁と 花咲いて
嬶としぼんで
 婆と散りゆく」

とも、人生の裸形(らぎょう)を露出します。

女性で一番良い時が、娘時代。
だから娘と言う字は、女偏に良いと書く。
娘が結婚して家に入ると、嫁になる。
嫁さんが、子供を生みますと嬶という。
「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、
新婚当時はおしとやかでも、
お母さんになると鼻が高くなりますので、
女偏に鼻と書く。
嬶の次はお婆さん。
額に波が寄ってきますので、女の上に波と書くのだそうです。
これが女性の一生ですが、男性でも呼び名が違うだけで、
すべて同じコースをたどります。
何十億の人がいても、例外なし。
いつまでも娘ではいられませんし、
お婆さんが娘に戻ることはできませんね。
「この間まで自分は娘だと思っていたのに、
もう息子が嫁をもらって孫ができた。
いやぁ、月日のたつのは早いなぁ」
と言っているように、女は、娘から嫁、嫁から嬶、お婆さんへと、
どんどんどんどん進んでいく。

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一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、
そうしてみんな死んでいくからです。
その間、歓楽哀情、悲喜こもごもでしょうが、
作家の林芙美子さんは、

「花の命は短くて
苦しきことのみ多かりき」

と歌っています。

医学によって、たとえ10年、20年、寿命が延びたとしても、
あっという間。
一秒に地球を7周り半進む光の速さでも、
百何十億年かかる、という大宇宙の生命に比べれば、
人生80年といっても瞬きする間もありません。
花のように儚い命、一体、何のために生まれてきたのでしょうか。
それが分からぬままの人生の結末では、
悲しすぎます。

これほどの問題が、ほかにあるでしょうか。
地球温暖化、核の拡散、原油価格の高騰、
医療崩壊、鳥インフルエンザ・・・
早急に対処すべき事柄が山のようにあっても、
根底にあるのは「死」の不安です。
あらゆる人間によって、死ぬこと以上の大問題はないから、
これを仏教で「生死の一大事」といわれるのです。

死後は、
  どうなっている?

さて、死んだその先は有るのか、無いのか、
どうなっているのでしょうか。

現代人の多くは、「死んだ後は何も無くなる」と言い、
それを「科学的態度」だと自負しています。
では、わが子や親が死んでも、
「一個体としての生命化学反応が、
止まっただけ」
と割り切れるでしょうか。

「燃焼したら骨と皮。成分のほとんどはカルシウムである」
などと、火葬場で冷静に分析していられるはずがない。

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物質でない何かが、どこかに残っているとしか思えないから、
「千の風になった」と思いたいし、
「冥福」を祈らずにおれないのです。
「冥福」とは「冥土の幸福」のことで、
「冥土」は死後のこと。
故人に向かって
「静かにお眠りください」
「安らかに成仏してください」
と、「死後の幸せ」を願うことを「冥福」を祈るという。
「慰霊」も同じで、死者の霊を慰める行為です。
これらは、死んだ後が有り、
しかも、苦しいのではなかろうかと思うからこそ、
せずにいられないのです。

では、私が死んだらどうなるのか。
死後はあるのか、無いのか、有るとしたら、
どんな状態であるのか。
いずれでも、ハッキリすれば安心できるのですが、
ただ、ぼんやりしています。
この「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」を、
仏教で「無明の闇」といわれ、この
「死後に暗い心」こそが、
人間の苦しみの根元なのだと、
親鸞聖人は断言されているのです。

●「死んだら死んだ時」か?

こんな大きな問題なのに、その「死」を誰も見ようとしない。
避けているのは、どうしたことでしょう。

「未来のことより、今が大事だからさ」
とまことしやかに答える人が、
しっかり「老後」のために貯蓄する。
「年金はどうなる」「介護はどうする」
というのも、老後の問題。
やがて行く道だから、準備せずにいられないのでしょう。
若くして死ぬ人には、老後はありませんが、
死ぬのは百パーセント確実。

とすると、「有るやら無いやら分からない老後」のことは
心配して準備しているのに、
「百パーセント確実な死」は誰も問題にしていない、
ということになります。

火災保険でも、火事には滅多に遭わないが、
それでも、もしもの時のために加入する。
「万が一」の火災になら真剣に対処しているのに、
「万が万」訪れる「死」は想定外に押しやっているのは、
おかしくないでしょうか。

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日頃は“論理一貫性”を重んじながら、です。
「そんなこと考えたって、どうなるもんじゃないよ」
「死んだら死んだ時だ」
と、アキラメてるのでしょう。
何のためにこの世に来たか、死んでどこへ行くのか、
来し方行く末も分からず、悩み絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」
と言われ、それはこの世の50年や100年の間だけではなく、
果てしない過去からさまよい続けてきたことを、
「久しく沈めるわれら」
とおっしゃっているのです。


弥陀の本願まこと
      親鸞聖人の証言

「生死の苦海ほとりなし
ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」

そんな古今東西の全人類を、
「弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」
と、次に宣言されています。

「弥陀弘誓」とは、
「阿弥陀仏の本願」のこと。
「阿弥陀仏」とは、大宇宙に無数にまします
仏方(三世十方の諸仏)の先生であり、
指導者の仏さまなのだと、蓮如上人は、
「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」
             (御文章)
と教えられています。
「本願」とは、誓願ともいわれ、
分かりやすくいうと約束のことですから、
「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束のことです。
その内容を、一言で申しますと、

「どんな人をも
    必ず助ける
       絶対の幸福に」

というものです。
私たちの知っている幸せは、
海に浮かぶ丸太ん棒や板切れのように、
やがてひっくり返って必ず裏切る、
金や財、地位名誉などの「相対の幸福」です。
だから不安から離れられない私たちを、
永遠に崩れない「絶対の幸福」に救い摂ってみせる、
という凄い約束
ですから、
親鸞聖人はその「阿弥陀仏の本願」を、
苦海を楽しく渡す船に例えて「弥陀弘誓の船」と言われたのです。

しかも、全く阿弥陀仏のお力によって、
乗せていただく船だから、「乗って」でなく
「乗せて」と言われ、「かならずわたしける」とは、
苦悩の根元である無明の闇をぶち破り、
“いつ死んでも浄土往き間違いない”
大安心の身に救い摂ってくだされるのだ、
ということです。
乗船には時間はかかりません。
何十億分の一秒よりも短い「一念」。
その一念で、弥陀弘誓の船に乗せられた体験を親鸞聖人は、

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
             (教行信証)
“弥陀の本願まことだった。絶対の幸福、本当だった”

と証言され、有名な『歎異抄』の冒頭には、

「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
往生をば遂ぐるなり』と信じて
『念仏申さん』と思いたつ心の発(おこ)るとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり」
と仰せられています。
「摂取不捨の利益」とは、
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”のこと。
生きてよし、死んでよし、こんなもの凄い世界があるぞ、
このための人生だから命は無限に尊いのだ、
早くこの弥陀の大船に乗ってまことの幸せになってくれよ、
と今も聖人は叫び続けておられるのです。


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