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湘南海岸の御勧堂(おすすめどう) [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)                   

            親鸞聖人の旅

湘南海岸の御勧堂(おすすめどう)

 

関東ご布教の最南端はどこか。

神奈川県の相模湾に面した国府津(こうず)に、

親鸞聖人が説法されたご旧跡「御勧堂」がある。

56歳のころから、しばしば教化の御足を延ばされたという。

この地で、仏縁を結んだ了源房は、

日本三大仇討ちとして有名な曽我兄弟の子供であった。

親鸞聖人のお手紙にも「平塚の入道」として登場する。

どんなドラマがあったのか。

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●聞法の勧め

 

海が美しい。湘南海岸を走るバイパスは眺めがいい。

パーキングエリアは若者であふれていた。

親鸞聖人は、稲田から徒歩で5、6日もかかる道のりを苦にされず、

この海岸へ布教に通われたのだ。

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近くの漁民を集めて説法された草庵は「御勧堂」と呼ばれている。

親鸞聖人が、いかに聞法を強く勧めておられたかを

表しているようだ。

聖人は、ご和讃に、

たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

とおっしゃっている。これは、

たとえ、大宇宙が火の海になっても、

その中をかき分けて聞こうという心で聞きなさい。

さすれば必ず、信心決定できて

永遠に絶対の幸福を獲られる

と教えられたものだ。

村人は、このお言葉に従い、どんなに忙しくても

お互いに参詣を勧め合っていたに違いない。

御勧堂は、どこにあるのか。

小田原から東へ5キロ、海岸に沿って車を走らせる。

地図ではJR国府津駅の近くなのに、

なかなか分からない。

やっと見つけた「御勧堂」の石碑は、駅前の魚屋の角にあった。

細い路地の突き当たりに、荒れ果てたブロック造りの小屋・・・。

「これが御勧堂?」

しかし、そばには確かに「親鸞聖人御草庵之旧跡」と

書かれているのだ。

この土地に、もはや聖人を慕う人はいないのだろうか。


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近くの人も、

「40年ほど前は立派なお堂だったんですがね」

と残念がっていた。

60歳過ぎ、親鸞聖人が関東へお帰りになるため、

この地を通られた。

すると大勢の人が集まり、あまりにも別れを惜しむので、

聖人はしばらく御勧堂に滞在され、最後の説法をされたという。


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●平塚入道の往生

 

国府津の御勧堂で、親鸞聖人のお弟子になった人の中に、

了源房」がいる。

『末灯鈔』の中にも「平塚の入道」として登場する人物である。

彼は、どのようにして真実に巡り遇ったのだろうか。

了源の祖父・河津祐泰は、領地争いで、工藤祐経(すけつね)に殺された。

この時、30歳の若さであったという。

妻は、2人の子供、十郎、五郎を連れて曽我祐信と再婚。

兄弟は仇討ち一つを目指して成長していった。

建久4年5月、源頼朝は富士の裾野で巻き狩り

(四方を取り巻いて獲物を追い込む狩り)を実施した。

工藤祐経も側近として同行している。

曽我兄弟は、好機到来と、28日の深夜、工藤の陣屋に斬り込み、

仇討ちを遂げた。

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「曽我の十郎、五郎、父の敵・工藤祐経を討ち取ったり。

この上は頼朝公に仇討ちに至る事情を訴えん」

と、一直線に頼朝の本営に向かった。

しかし、十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられ、翌日、

打ち首になった。十郎22歳、五郎20歳であった。

この仇討ちは、たぐいまれな義挙といわれ、

曽我兄弟は武士の鑑と、うたわれた。

「日本三大仇討ち」といえば、曽我兄弟の富士の夜襲、

赤穂浪士の吉良邸討ち入り、荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘、

と相場が決まっている。

さて、了源房の父は、討ち死にした曽我十郎である。

この時、いまだ母の胎内にあり、父の死後出生した。

成人して21歳の時、和田義盛の乱に軍功を立て、

将軍に仕官して、相模国平塚の郷を与えられた。

ここに晴れて家名を再興し、河津信之と名乗った。

しかし、一族の宿願を果たした了源の心は晴れなかった。

祖父は30歳で殺され、父は22歳で討ち死にした。

わが一族は皆非業の死を遂げている。

どんな悪業の報いなのか。たとえ今、自分が絶えた家を興し、

再び父祖の名をあらわしたとしても、結局、

この世のことは夢幻ではないか。

武門に身を置いてはかえって罪を重ね、

後生に大変な苦しみを受けることは明らかだ。

今こそ真実の幸福をえたい

了源房は、髪をおろして出家した。

ちょうどその時、国府津の御勧堂で親鸞聖人が

説法しておられるという話を聞き、急ぎ参詣した。

聖人は、了源に阿弥陀仏の本願を説かれ、

次のようにおっしゃった。

どんな人でも、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば、

過去世からの永い迷いを離れ、清浄安楽の仏土に往生できる。

そなたの親族がいかなる業報を受けていようと、

そなたが往生を遂げて仏となれば、思うままに教化を施し、

同じく浄土へ導くことができるだろう

了源は随喜の涙に暮れ、聖人のお弟子になった。

以来、自信教人信に努め、60歳で亡くなっている。


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●甲斐の閑善房(かんぜんぼう)

 

御勧堂で仏縁を結んだもう一人のお弟子を紹介しよう。

甲斐国(山梨県)に、小笠原長顕(ながあき)という武士がいた。

彼は、世の無常を強く感じ、真の知識を探し求めていた。

しかし、甲斐国に善知識はましまさず、

長顕はむなしく年月を送っていた。

ある時、親鸞聖人が相模国(神奈川県)国府津で、

阿弥陀仏の本願を説かれているという話が伝わってきた。

彼は直ちに故郷を振り捨て、聖人の元へ急いだ。

聖人は長顕の求道心の深さを感じられ、真実の信心を

懇ろに諭された。

長顕はその場で、聖人のお弟子となり、閑善房と名を改めた。

これより閑善房は聖人のおそばを離れず求道に励み、

ご帰洛の時もお供をしている。

東海諸国を経て尾張国に入られた時のことである。

親鸞聖人は大浦の真言宗の寺にしばらく滞在され、

地元の人々に説法された。(現在の岐阜県羽島市正木町大浦)

短期間であったが、非常に大きな反響があったことが

次の記述で分かる。

遠近の道俗市のごとく群集し、

隣里(りんり)の男女山のごとくに参詣し

各(おのおの)聞法随喜せずという事なし

            (二十四輩順拝図絵)

いよいよ、親鸞聖人が京都へ向け出発される時、

地元の人々は、聖人に願い出た。

「どうか、お弟子の方をお一人、

当地にお残し願えませんか。

続けて阿弥陀仏の本願を聞き求めたいのでございます」

この大役を聖人は、閑善房に命じられた。

彼はよく師の仰せと、羽島の人々の要望に応え、

聖人のみ教え徹底に生涯を懸けたという。

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関東の二十四輩・信願房へのお諭し [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

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関東の二十四輩・信願房へのお諭し

 

親鸞聖人の熱烈な布教により、他宗の僧が、

寺ごと真宗に変わった例が多く見られる。

栃木県宇都宮市の観専寺もそうであり、

開基・信願房(しんがんぼう)は二十四輩の

一人になっている。

信願房への、聖人晩年のお諭しを通し、

真の報恩とは何かを考えてみよう。

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●天台宗から改宗

 

観専寺を開いた信願房は、元の名を稲木次郎義清といい、

常陸稲木の領主であった。

地位や財力に恵まれた生活を送っていた義清を

突然の不幸が襲った。

最愛の一子が病で亡くなったのである。

ああ、あまりにもむごい・・・。

あの子は、どこへ行ったのか・・・。

幼い子供にさえ死は容赦しない。

まして、自分が今日まで生きてこられたのが不思議だ

無常を強く感じた義清は、後生の一大事の解決目指して

出家し、宇都宮に寺を建てた。

天台宗の修行に励んだのである。

どれだけ精進しても心が晴れない義清を救ったのは、

親鸞聖人との出会いであった。

しかも、聖人のほうから飛び込んでこられた。

高田に新たな拠点を築かれ、

布教戦線を拡大しておられた聖人は、

観専寺で一夜の宿を請われたのである。

聖人は、住職を、夜を徹して顕正なされた。

比叡山での自らの体験を踏まえ、自力の修行では

決して救われないことを明らかにされたのである。

初めて真実の教えを知らされた義清は、

直ちに聖人のお弟子になり、「信願房」と生まれ変わった。


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観専寺では、翌日から、里人を集めて

親鸞聖人のご法話が開かれている。

後生の一大事は、阿弥陀仏の本願によらなければ

絶対に解決する道はありません。

阿弥陀仏は、どんな人をも、必ず助けると

誓っておられるのです

と静かに説かれるや、

「老若男女の念仏に帰すること、

草木の風になびく如く、たちまちに聖人の御名は

四方にひびきわたった」

と寺伝に記されている。


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●真の報恩

 

親鸞聖人が、京都へ帰られてから10数年後、

信願房は、師の聖人を慕って上洛している。

聖人のお住まいを訪ね、懐かしさとうれしさが

胸にあふれ、いつまでも帰国を忘れているかのようだった。

親鸞聖人は、信願房にこう諭されている。

仏恩、師の恩を報ずるということは、

自信教人信にしくものはない

「自信教人信」とは、善導大師のお言葉、

「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」

の一節である。

自分が信心決定することは大変難しいことだ。

人を信心決定まで導くことはさらに難しいことだ。

だからこそ、阿弥陀仏の本願を伝えることが、

いちばんの御恩報謝になるのだ

と教えられているのである。

(信心決定<しんじんけつじょう>とは、阿弥陀仏に救われること)

親鸞聖人も、広大無辺な絶対の幸福に

救ってくださった阿弥陀仏のご恩、

救われるまで導いてくださった善知識のご恩に

報いる道は、一人でも多くの人に阿弥陀仏の大悲を

伝える以外にない、と言い切っておられる。


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信願房は、直ちに関東へ帰り、親鸞聖人のみ教えの

徹底に生涯をかけた。

常陸、河内、三河に聞法道場を築き、今日に至るまで、

信願寺、勝福寺、弘誓寺、慈願寺などがその流れをくんでいる。

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●文章伝道のさきがけ

 

親鸞聖人が京都へ帰られたあと、

聖人と関東の門弟を結んでいたのが、書状であった。

関東から、信心や教学についての疑問が手紙で寄せられる。

親鸞聖人は、一つ一つ分かりやすく返事を書いておられる。

しかも、手紙の最後は、

「この文をもて人々にも見せ参らせさせ給うべく候」とか、

「かように申し候様を、人々にも申され候べし」

と書き添えておられる。

聖人からお手紙を頂いた関東のお弟子は、

親鸞聖人のじかのご説法として、

門徒に読み聞かせたに違いない。

現在、親鸞聖人の書状は46通知られているが、

そのうち、30通が、写本、版本である。

聖人の一通のお手紙が、次々に書き写され、印刷されて、

10万以上の人たちに伝わったのであろう。

お弟子が親鸞聖人のお手紙を携えて、

文字を読めない農民や漁民の元を訪れ、

繰り返し繰り返し読み聞かせている姿が

目に浮かぶようだ。

これはまさに、文章伝達のさきがけである。

この方法をさらに徹底されたのが、

蓮如上人の『御文章』といえる。

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二十四輩の筆頭・性信房 [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

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二十四輩の筆頭・性信房(しょうしんぼう)

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親鸞聖人には、「関東の二十四輩」といわれるお弟子があった。

その筆頭に挙げられるのが、性信房である。

「性信房が、関東にいてくれると、

わが身を二つ持っているように心強い」

とまでおっしゃっている。

親鸞聖人と性信房の関係をたどってみよう。

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●手のつけられない悪党

 

性信房は、常陸の生まれであるが、

怪力無双の荒くれ者で、悪五郎と呼ばれ、

恐れられていた。

〝心性は狼のごとし。礼法は知らず、

従順の心なし〟 

        (二十四輩順拝図会)

とある。

悪事の限りを尽くす悪五郎に、

人生の転機が訪れたのは18歳の春であった。

武者修行を志し、諸国を遍歴している途中、

たまたま京都の吉水草庵の前を通りかかった。

門前市をなし、老若男女が喜々として中へ入っていく。

「ものすごい人だなあ。一体、何があるのだろう」

悪五郎も、興味半分で入ってみた。

そこでは、法然上人のご説法が行われていたのである。

人は皆、自分のことぐらい分かると思っている。

ところが、自分の目で自分の眉を見ることができないように、

近すぎると、かえって分からないものだ。

仏さまは、見聞知のお方である。

だれも見ていない所でやった行いも見ておられる。

陰で人の悪口を言っていることも皆聞いておられる。

心の中で、人に言えない恐ろしいことを思っていることも皆、

知っておられる。

かかる仏さまの眼(まなこ)に、我々の姿は、

どのように映っているであろうか

『大無量寿経』には、

心常念悪(心常に悪を念じ)

口常言悪(口常に悪を言い)

身常行悪(身常に悪を行じ)

曽無一善(曽て一善無し)

と説かれている。

心と口と体で、悪を造り続けているのが

人間の真実の姿だと、釈尊は断言されている

縁側で聴聞していた悪五郎の耳に、

法然上人のお言葉は、強い衝撃として入っていった。

「まるで、自分のことを言われているようだ。

いや、自分でさえ分からない自分の姿まで見透かされている」

初めて聞く仏法であったが、悪五郎は、恐ろしいほど、

その奥深さを感じた。

阿弥陀仏は、すべての人間を、極重の悪人と見抜かれ、

そんな者を、必ず絶対の幸福に助けてみせると

誓っておられる・・・

法然上人は、阿弥陀仏の本願を詳しく説かれた。

ああ、オレは人生を懸けて悔いのない

み教えに遇うことができた

ご説法のあと、悪五郎は、感涙にむせびながら、

法然上人の前へ出ていた。

私は、これまで、悪を悪とも感じず、人を悩ませ、

悪逆の限りを尽くしてきました。

かかる悪人にも、阿弥陀仏がお慈悲を

かけてくだされていたとは・・・。

どうか、私をお弟子の端にお加えくださり、

お導きください

髻(もとどり)を切って、懇願するのであった。

この時、法然上人は、親鸞聖人におっしゃった。

感心な若者だ。しかし、老年のわれに従っても、

後幾らも随身できないだろう。そなたの元で、

よく育ててやりなさい

かくて、悪五郎は「性信房」と名を改め、

親鸞聖人のお弟子になった。

聖人34歳、悪五郎18歳の年であったという。

翌年、権力者の弾圧により、法然上人は土佐へ、

親鸞聖人は越後へ流刑に遭われた。

承元の法難である。

性信房は、親鸞聖人のおそばを離れず、

出身地の関東へ向かった。

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●横曽根門徒の形成

 

越後から関東へ入られた聖人は、常陸(ひたち)の稲田を拠点に、

各地をくまなく布教された。

建保2年、性信房とともに下総(茨城県南部)へ赴かれた時、

横曽根に荒れ果てた寺院を見つけられた。

この無住寺院を譲り受け、聞法道場に改造されたのが

報恩寺である。(茨城県海道氏豊岡町)

建保2年といえば、聖人42歳。関東へ来られて間もなくである。

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下総(しもうさ)に聖人を慕う人がいたとは思えない。

全くの新天地へ、布教開発(かいほつ)に乗り込まれたのだ。

そのご苦労の一端が、一本の松に託され、

今日に伝わっている。

報恩寺の近くの道路わきに、石垣で囲んだ土盛りがある。

その中に、細く体をくねらせた松がそびえている。

恐らく、親木が枯れたあと、同じ根から出てきた松だろう。

そばには、「親鸞聖人舟繋之松(ふなつなぎのまつ)」

と刻まれた石碑が立てられている。

親鸞聖人が、舟をつながれた松・・・。

周りは広々とした田園なのに、なぜ、舟を?

当時、この辺りは、利根川の氾濫原で、広大な沼地であった。

親鸞聖人は、その中を、舟を駆使され、布教されていたのだ。

陸地を歩くより、余程早く目的地に着ける。

いかに、時間を惜しまれ、精力的に活動しておられたかが分かる。

横曽根の報恩寺は、性信房に任された。

やがて、「横曽根門徒」といわれる関東で最大の門徒組織が

形成されていく。

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報恩寺は、江戸時代に焼失し、寺は東京・上野に移された。

現在の水海道市(みつかいどうし)の報恩寺には、

性信房に関する資料は残されていないという。

 

●箱根の別れ

 

親鸞聖人は、60歳過ぎに、懐かしい京都へ

お帰りになることになった。

性信房もお供をして、箱根山に至った時のことである。

親鸞聖人は、関東のほうを眺められ、性信房に、

諭すようにおっしゃった。

「関東にあって20年、私は、弥陀の本願を伝えてきた。

初めは非難攻撃していた者も、今は本願を信じ、

ありがたいことである。

しかし、今後、どんな妨げが起きて、

仏法を曲げられていくか分からない。

それ一つが気にかかる。性信房よ。関東にとどまって、

弥陀の本願を徹底してもらいたい。

それが何よりありがたい」

突然の仰せに当惑する性信房に、

親鸞聖人は次のようなお歌を示された。

病む子をば あずけて帰る旅の空

心はここに 残りこそすれ

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関東の門弟を、わが子のように思っておられる聖人の

御心に打たれた性信房は、謹んでこの大任をお受けし、

涙ながらに引き返していった。

この時、親鸞聖人は性信房へ、

ご愛用の笈(おい・大切な物を入れて背負う箱)を

与えられたことから、以来、この地は

「笈の平(おいのたいら)」と呼ばれるようになった。

現在、〝親鸞聖人御旧跡 性信御房訣別之地〟と刻まれた

大きな石碑が置かれている。

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数年後、性信房は、関東の情勢を報告するために上洛している。

「東国において真宗日々盛んになり、

信心決定の同胞が多く現れています」

性信房の言葉を聞かれた聖人は、

〝それぞ、わが生涯のよろこび、何事かこれにしかん〟

御喜悦限りなし、と『二十四輩順拝図絵』は伝えている。

「一日も早く、阿弥陀仏に救われて、信心決定してほしい」

親鸞聖人は、生涯、これ一つを念じていかれたのである。

 

●箱根での不思議

 

笈の平を過ぎ、元箱根へ向かう。

坂を下りていくと南北に細長い芦ノ湖が見えてくる。

険しい山の頂にあるこの湖も、今までは何艘もの遊覧船が

行き来する観光地である。

その芦ノ湖畔の箱根神社に、親鸞聖人の銅像があるというので

行ってみた。

ちょうど社殿の裏の杉林の中にある。

野ざらしでおそれ多いが、神道の地にも聖人を

慕う人がいるのだろうか・・・・。

箱根神社は、昔、箱根権現と呼ばれていた。

親鸞聖人と箱根権現の関係は、

『御伝鈔』に次のように記されている。

親鸞聖人は、夕暮れになって、

険しい箱根の山道に差しかかられた。

もうどこにも旅人の姿はない。

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夜も深まり、やがて暁近く月落ちるころ、

ようやく人家らしきものを見つけ、ホッとなさる。

訪ねた家から、身なりを整えた一人の老人が、

恭しく出迎えて、こう言った。

私が今、少しまどろんでいますと、

夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、

もうすぐ私の尊敬する客人が、この道を通られる。

必ず丁重に誠を尽くして、ご接待申し上げるように・・・と、

お言いつけになりました。

そのお告げが、終わるか終わらないうちに、

貴僧が訪ねられました。

権現さままでが尊敬なさる貴僧は、決して、

ただ人ではありませぬ。

権現さまのお告げは明らかです

老人は感涙にむせびつつ、丁寧に迎え入れ、

さまざまのご馳走で、心から聖人を歓待した。

親鸞聖人は、ここで3日間、教化されたという。

以来、神官皆聖人を尊敬し、箱根権現の社殿に、

親鸞聖人の御真影が安置されるようになった。

それは明治時代まで続いたという。

神仏分離の法令以後、親鸞聖人のお姿は宝物殿に移されている。

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●嘉念房の布教

 

箱根を越えられる親鸞聖人の前に一人の男がひざまずいた。

私は都から流罪に遭って、

この山で配所の月を眺めている者です。

失礼ですが、どのような修行を積まれた

大徳であらせられますか

何の修行も積んでいません。

ただ、阿弥陀仏の本願をお伝えしている者です

聞いた流人は涙を流して喜び、

常日ごろ、後生の一大事が心にかかりながら、

いたずらに月日を送っていましたが、

今ここに善知識に巡り会えたことを喜ばずにおれません。

どうか、流人のあばら屋にお立ち寄りくださり、

わが、暗い心をお救いくださいませ

親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ足を運ばれ、

どんな人をも、必ず、絶対の幸福に助けたもう阿弥陀仏の本願を、

懇ろに説かれた。

この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、

嘉念房(かねんぼう)と名乗った。

嘉念房は赦免のあと、京都に親鸞聖人を訪ね、

常におそばにあってお仕えしたという。

弘長2年、親鸞聖人が浄土往生の人となられたあと、

嘉念房は、美濃国を巡教し、白鳥郷に草庵を結んで親鸞聖人の

み教えの徹底に全力を尽くしていた。

ある日、一人の男が来て、

「私は、ここより北に当たる飛騨国白川郷に住む者ですが、

これまで、仏法というものを聞いたことも

見たこともありませんでした。

どうか私の国にも真実をお伝えください」

と願い出た。

嘉念房は、これぞわが使命と翌日にも出発しようとしていた。

しかし、白鳥郷の人々は、

「せっかく念仏繁盛のこの地を後に、

山深い飛騨国に入ることはやめてください」

と言ったが、嘉念房は、

「そんな所にこそ、真実を弘めなければならぬ・・・。

きっと、師の聖人もお喜びになるであろう」

と決意を述べ、布教に旅立ったという

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肉親の無常に導かれた門弟たち [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

                        親鸞聖人の旅

 

    肉親の無常に導かれた門弟たち

 

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無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり

といわれるように、親や子の死が縁となって、

聖人のお弟子になった人たちも多い。

一人息子を亡くした鳥喰(とりばみ)の唯円(ゆいえん)、

2人の愛児を失った源海房(げんかいぼう)、

父の死が縁となった念信房の、真実の出遇いを見てみよう。

併せて、恋いに破れた半狂乱の女性が、

聖人のお導きで生まれ変わった伝説の地を訪ねてみた。

 

●愛児を失った鳥喰の唯円

 

武蔵国猶山(ゆうやま)の城主・橋本綱宗は、

十六万五千石の大名であった。

家は栄え、愛する妻子とともに幸せな家庭を築いていた。

綱宗の、何よりの楽しみは、一人息子・清千代丸の成長である。

自分の生き甲斐と、将来の望みのすべてをわが子にかけていた。

ところが、建保3年2月5日、清千代丸が病に襲われ、

わずか8歳にしてこの世を去ったのである。

突然の出来事であった。

綱宗は、あどけない子供の笑顔を、いつまでも忘れられない。

この世に、当てになるものは何一つない。

8歳の子供さえ、無常の風に誘われるのだ。

オレはよく43歳まで生き延びてきたものだ。

今死んだら、どこへ行くのか・・・

激しい無常を感じた綱宗は、城を弟に譲り、修行者となった。

善知識を求めて諸国遍歴の旅に出たのである。

同年3月1日、常陸国の那珂郡鳥喰村を通った時のことである

(現在の、茨城県那珂郡那珂町豊喰)。

とある空き家で一夜を過ごした綱宗は、不思議な夢を見た。

仏さまが現れ、

是より西に当たり稲田といえる処に、名僧知識下られて

仏法弘通盛んなる程に、明日は急ぎて参詣致すべし

と告げられたという。

翌日、綱宗は霊夢に従って稲田へ向かった。

するとどうだろう。門前市をなし、多くの人たちが、

親鸞聖人のご説法を聴聞している最中であった。

綱宗も群衆に交じって、聞法に身を沈めた。

綱宗の心に、聖人のお言葉はしみ入るように響いてくる。

後生に一大事があることと、その解決は、

阿弥陀仏の本願以外には絶対ないと知らされ、

その日のうちに、聖人のお弟子となり、

唯円房の名を賜っている。

二十四輩の二十四番である。(聖人43歳)

(綱宗は『歎異抄』の作者ではないかといわれる

「河和田の唯円」とは別人である。

区別して、綱宗を「鳥喰の唯円」という)

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●恋に破れた鬼女伝説

 

JR水戸駅から北へ20キロ。

水郡線・谷河原駅の近くに、鳥喰の唯円が開いた西光寺がある。

田園に囲まれた静かな所だ。(常陸太田市谷河原町)

本堂へ入ると、仏壇の横に、動物の角らしき物が、

丁重に置いてある。大きさは、大人の親指ほど。

相当年数がたっているらしく、小さな虫食いの穴がいっぱいある。

「なぜ、こんな所に角が・・・」

寺で尋ねると、そこには、悲しい恋の伝説が秘められていた。

昔、「おため」という18歳の美しい娘がいた。

貧しい農家に生まれたが、篠田民部という豪族の家に雇われ、

働いていた。

その家には六郎という屈強の若者がいた。

六郎は、毎日まめまめしく働くおための姿を見て、

恋心を抱くようになった。

おためも、若くてたくましい六郎に思いを寄せていた。

いつしか2人の間には身分の違いを超えて

ひそかな愛が育っていったのである。

しかし、楽しい恋の日々は長くは続かなかった。

六郎は、親の説得に負けてしまい、

近所に住む富豪の娘と結婚し、

おためは、民部の家から追い出されてしまった。

引き裂かれた、おための恋慕の情はますます燃え盛り、

いつしか、激しい憎悪の炎へと転じていったのである。

「どうせ、一緒になれないのなら、呪い殺してやる」

藁人形に釘を打ち、毎夜毎夜、恐ろしい形相で祈るのであった。

ある夜、彼女の様子を垣間見た村人が、

「おための頭に角が生え、鬼になったぞ!」

と驚いて告げたという。

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村人は、何とか元の優しい娘に戻すことはできないかと、

親鸞聖人に救いを求めた。

哀れに思われた聖人は、早速おために会いに行かれた。

狂乱状態の彼女を、どう導かれたかは伝えられていないが、

何日間もご説法なされている。

冷静さを取り戻したおためは、命を懸けた恋さえ

続かない現実と、自分の思いどおりにならないと

恋する相手をも殺してしまう恐ろしい自己のすがたを

知らされ、戦慄せざるをえなかった。

しかし、「どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に」と

誓われた阿弥陀仏の本願を知らされ、熱心な仏法者に

生まれ変わったという。

恐ろしい角は、おためだけが持っているのではない。

私たちの心の中には、常に、うらみ、ねたみ、そねみ、

怒りの角が生えていないだろうか。

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●父の急死に

   驚いた念信房

 

JR水戸駅から、車で北へ約1時間半。

トンネルを幾つも越えた奥深い山村に、

念信房が開いた照願寺がある(那珂郡美和村鷲子)。

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親鸞聖人は、6度も、この地へ足を運ばれている。

稲田の草庵からではかなりの距離だ。

真実を聞き求める人が一人でもあれば、

どんな山奥でもご布教に歩かれるお姿がしのばれる。

安貞2年の春、聖人(56歳)は、はるばる念信房の草庵を

訪ねられ、ご説法なされた。

ちょうど、桜のつぼみが膨らみ始めるころであったが、

聖人がお越しになると、一夜にして満開となった。

これを見た人々は、

「浄土真宗が末代まで栄えるあかしに違いない」

と喜んだという。

稲田へ帰られる聖人は、この桜の花を何度も振り返って

眺められたことから、「見返りの桜」と呼ばれている。

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念信房は、この地にあった高沢城の城主・高沢氏信であった。

知勇兼備の武人といわれていたが、

いつかは散る命、死んだらどうなるのか

と深く悩んでいた。

そんな時、父親が突然亡くなったのである。

父は、臨終間際に、

「稲田の親鸞聖人を訪ねよ」

と言い残した。

「今度は自分の番だ」

と強く感じた氏信は、遺言に従って稲田へはせ参じた。

親鸞聖人は、後生の一大事をズバリ説き切られる。

真実に衝撃を受けた氏信は、城主の位をなげうって、

聖人のお弟子になったのである。

31歳の決断であった。(二十四輩十七番)

 

●2人の子供を同時に

 亡くした源海房

 

武蔵国の領主・安藤隆光には、7歳の月寿と5歳の花寿という

2人の男の子があった。

寵愛限りなかったが、ある年、ふとした病で、

2人の子供を同じ日に亡くしてしまった。

一度に2人の愛児を失った隆光の嘆きは、

他人には想像できない。

涙尽き、ともに死のうとまで思っていたある夜、

夢の中に、尊い僧が現れ、次のように告げたという。

汝、未来永劫、悪道に堕ちるのは必定である。

今、観音、勢至菩薩が、かりに、そなたの愛児と生まれて、

世の無常を目の当たりに示してくだされた。

これひとえに汝ら夫婦を菩提の道に入れしめんがためである。

今幸いに、末代不思議の善知識あり。

親鸞聖人と名づく。汝、速やかに行きて、仏法を聴聞せよ

隆光は、大いに喜び、急ぎ、親鸞聖人の元へはせ参じ、

聞法に励んだ。

この時、隆光34歳、聖人のお弟子となり、

源海房と生まれ変わったのである。

私たちも、肉親の死を、一時の悲しみに終わらせず、

「次は自分の番」と受け止め、聞法の勝縁にしたい。

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人生に悩んだ門弟たち(関東の二十四輩) [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

        親鸞聖人の旅

 

人生に悩んだ門弟たち

    (関東の二十四輩)

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親鸞聖人には、関東の二十四輩をはじめとして、

多くのお弟子があった。

彼らは、どのようにして真実を求めるようになったのだろうか。

剣の道に励んでいた善念房(ぜんねんぼう)、

比叡山で修行していた唯誓房(ゆいせいぼう)、

有名な歌人だった慈善房(じぜんぼう)、

城主だった唯信房4人のドラマにスポットを当ててみよう。

いずれも、本当の人生の目的を探し求めていた人たちである。

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●剣の道を捨てた善念房

 

18歳の青年、三浦義重は、人生の目的に悩んでいた。

「武士の家に生まれ、当然のごとく、剣の道に励んでいるが、

このまま一生を終わっていいのだろうか・・・」

ある日、常陸(茨城)の名勝・桜川のほとりを通りかかった時、

一人の僧形の旅人が、土手にたたずんでいるのが見えた。

「今日の桜川は、いつもより水かさが多い。

川を渡れずに困っておられるのだな」

と感じた義重は、

「私の背中にお乗りください」

と、屈強な体を差し出した。

この旅人こそ、親鸞聖人だったのである。

義重は胸まで水につかりながらも、無事、

聖人を対岸へお渡しできた。

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聖人は、青年の気負いのない誠実さに

感謝の言葉をかけられるが、

義重の表情は、どことなく暗い。

「何か、お悩みを?」

はい。人は何のために生きるのか、悩んでいます。

私は、親の言いつけに従い剣の道を求めていますが、

強くなる目的は一体何なのか

結局、人を殺し、領地を奪うためとしか思えません。

父は、私の13歳の時に討ち死にしました。

思えば、はかない一生。

私もいつ命を落とすかしれません。

人生懸けて悔いのない目的を知りたいのです

義重は胸のうちを聖人に打ち明けた。

あなたの言うとおり、欲や怒りや愚痴のために

命を落とすのは、愚かなこと。

人間には、なさねばならない重大な使命があります。

それ一つを教えたのが仏教です

親鸞聖人は、後生の一大事を解決して、

絶対の幸福に救われることこそ、人生の目的であると、

じゅんじゅんと教えられた。

この方が。この方こそ、本当の人生の師だ

と確信した義重は、すべてを投げ捨てて、

聖人のお弟子となった。

二十四輩の十二番「善念房」である。

建保4年8月13日、暑い夏の日であったと記されている(聖人44歳)

思いがけない出会いが、人生を大きく変える。

真実を知らされ、喜びに燃える義重は、

目をみはる勢いで聞法に励んだ。

晩年、伊勢地方(三重県)の布教に力を尽くし、

85歳で亡くなっている。

義重が開いた善重寺は、JR水戸駅から車で5分ほどの、

水戸市酒門(さかど)町にある。

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●合戦の功名を捨てた唯誓房(ゆいせいぼう)

 

善重寺から、約500メートル西に、聖人のお弟子「唯誓房」が

開いた安楽寺がある。

唯誓房は、源氏の勇将・佐々木四郎高綱の四男で、

もとの名を沢田四郎高信といった。

高信は、父とともに源平の合戦に参陣し、

若武者ぶりを発揮した。

しかし、手柄を立てながらも、心には大きな悩みがあった。

合戦は武士の晴れ舞台。しかし、現実には、

功名を争っての殺し合いでしかない。

命を懸けて名誉を追い求め、一体、何が残ったのか。

多くの人間を殺した自分は、死んだらどこへ行くのか

高信は、武士を捨てた。「諦乗(たいじょう)」と名を改め、

比叡山に登り、後生の一大事の解決目指して、

修行に没頭したのである。

しかし、打ち込めば打ち込むほど、

救われない自己の魂が見えてくる。

天台宗では助からないとさとった高信は、

真っ暗な心を抱えて比叡山を下りた。

このままでは、後生は一大事だ。

どこかに魂の解決をしてくださる善知識はおられぬか

と、雲水の旅に出たのであった。

全国を流浪し、常陸国大戸郷(おおどのごう)の

天台宗浄土院に身を寄せていた時のことである

(現在の東茨城郡茨城町大戸)。

「稲田の親鸞聖人が、生死出ずべき道を説いておられる」

という話が伝わってきた。

早速、稲田を訪ねた高信は、草庵を埋め尽くす参詣者が、

老いも若きも、真剣に聞法している姿に驚いた。

親鸞聖人は、

仏法を聞く目的は、後生の一大事の解決以外にはない。

この一大事の解決は、阿弥陀仏の本願によらなければ

絶対にできない。

阿弥陀仏は、どんな人をも、必ず絶対の幸福に救い摂ると

誓っておられる

と力強く断言される。

高信は、

長い間探し求めた善知識に、今、お会いできたぞ

と全身で叫ばずにおれなかった。

比叡山を下りて4年目のことである(承久2年、聖人48歳)

さらに驚いたことには、戦場でともに戦った父・高綱も、

数年早く、聖人のお弟子になっていたのである。

阿弥陀仏の不思議なご念力で実現した親子の再会であった。

 

●文学の名声を捨てた慈善房

 

後鳥羽上皇の家臣・橘重義は、優れた歌人として有名であった。

しかし、いくら文学で名声を得ても、心には満たされないものを

感じていた。

重義が、所用で関東に向かい、常陸国の村田郷の太子堂で

一夜を明かした時のことである。

夢の中に、聖徳太子が現れ、

これより西南に高僧ましまして説法したもう。

これ弥陀如来の化身なり。汝、早く行きて要法を聴聞せよ

と告げられたという。

驚いた重義は、稲田の草庵に親鸞聖人を訪ねた。

地位や名誉は、いつまでも続く幸せではない。

阿弥陀仏によって、大安心、大満足の絶対の幸福に救われてこそ、

永遠に変わらない幸せになれるのです

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を説法なされた。

重義は、それまでの地位も名誉も投げ捨てて、

直ちに聖人のお弟子になっている(建保3年、聖人43歳)。

慈善房と生まれ変わった重義は、霊夢を見た太子堂のほとりに

聞法道場(常弘寺)を建て、親鸞聖人のみ教えを

伝えることに生涯をかけた(二十四輩二十番)。

常弘寺は、水戸駅から、国道118号線を北へ

20キロほど進んだ所にある。(那珂郡大宮町石沢)。

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●城主の位を捨てた唯信房

 

親鸞聖人は、稲田から鹿島方面へと、

よくご布教に歩かれた。

そのコースの途中、霞ヶ浦の北岸に幡谷村があった

(現在の東茨城郡小川町幡谷)

建保4年8月13日の夜のこと。

この村の城主・幡谷次郎信勝の夢に、観音菩薩が現れ、

汝、城主の位は高くとも、七珍万法(しっちんまんぽう)は

久しくとどまらず。ただいま城下に休んでおられる親鸞聖人の

ご教化を被らずば、永劫に生死を出ずることあるべからず。

直ちに行きてみ教えを賜れと告げたという。

おまえは今、城主という地位や財産に

満足しているかもしれぬが、

いつまでも続く幸せではないぞという観音の言葉が、

深く胸に刺さった。

不思議な霊夢に驚いた信勝は、夜が更けていたにもかかわらず、

一人で城外に出てみた。

するとどうだろう。

霊夢のとおり、親鸞聖人が三日月を眺められながら、

しばしお休みになっているではないか。

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信勝は、聖人にお目にかかって、事の次第をお話しした。

親鸞聖人は、

今まで何度も、この城下を往復しています。

そのたびに、いつかお会いして、親しくお話ししたいと

思っていました。ようやく縁が熟したのですね

とお喜びになった。信勝は胸をときめかせながら、

聖人を城内へご案内し、夜の明けるまで、

阿弥陀仏の本願を聴聞させていただいた。

信勝は、

善知識まします今、真剣に求めなかったら、

未来永遠、苦しみから逃れることはできないぞ

という、観音菩薩の言葉をかみしめずにおれなかった。

すなわち、城主の位をなげうって、聖人のお弟子となり、

唯信房」と生まれ変わった(二十四輩二十三番)。

唯信房は、親鸞聖人のみ教えの伝道に燃えた。

北は福島県から、南は島根県に至るまで、

教化の跡が残されている。

水戸市緑町の信願寺は、唯信房が開いた寺である。

関東には、人生の目的を知らされた人々の

熱烈な聞法の逸話が、数多く残されている。

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人間にはどれほど生まれ難いのか? [六道輪廻]


(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

ああ 受け難き 人身
     人と生まれし意味を聞く

2月は、仏教を説かれたお釈迦さまが
お隠れになった月。
2600余の星霜(せいそう)を経て、
釈迦45年間の仏教は一層私たちを引きつけます。
「仏教とは、すべての人の出世の本懐(人生の目的)である」
と親鸞聖人は、一言で喝破なされています。

生きる目的をどのように教えられているのか、
詳しくお聞きしましょう。

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●祝福された産声が
  やがてウラミの声に
    変わるのはなぜ?

「産声を聞いた時、
赤ちゃんが生まれた喜びで
体中が熱くなり、
涙があふれて止まりませんでした」

ある母親の言葉です。
誰もが祝福されてこの世に生を受けました。
人間に生まれたことを、みんなが
「おめでとう」と歓迎したのです。

ところが歓迎された当の“主人公”は、
成長するにつれて、人生の荒波にもまれ、
「何で生まれてきたのだろう」
と生まれたことを後悔し、
「なぜ俺を産んだ」
と、親を恨む人さえあります。

人生を「ハズレくじ」のように思っているのでしょう。
本当は、誰もが、人間に生まれたことを
心の底から喜びたいはずです。

太宰治は小説『斜陽』の中で、
登場人物にこう言わせています。

「幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと
胸つぶれる思いで待って、からっぽ。
ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。
生まれて来ないほうがよかったと
みんなが考えているこの現実。
そうして毎日、朝から晩まで、
はかなく何かを待っている。
みじめすぎます。
生まれて来てよかったと、
ああ、いのちを、人間を、世の中を、
よろこんでみとうございます」

なぜ生まれ難い人間に生まれたことを
よろこべないのか。
それは「人生の目的」を知らないからだ、
と仏教で教えられています。
何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
この人生の根本問題に
真正面から答えたのは仏教なのです。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」  (釈尊)

生まれ難い人間に生まれることができてよかった。
聞き難い仏法をよくぞ聞くことができた。
何が何でも今生で救われねば、
いずれの生で救われようか。
永遠のチャンスは今しかないのだ。

今回はこの言葉を通して学びましょう。

●人間にはどれほど
    生まれ難いか?

「人身受け難し、今已に受く」
「人身」とは私たち人間のこと。
「人身受け難し」とは、
「人間に生まれ難い」という意味です。


人間に生まれることはどれほど難しいか、
他の生き物と比較してみましょう。
マンボウが一度に産む卵の数は3億個といわれます。
これだけで日本の人口の2倍以上。

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『蟻の自然誌』によるとアリの数は、
約一京(いっけい)(一兆の一万倍)で、
すべてのアリの重さを計算すると、
全人類の総重量に匹敵するそうです。
昆虫の総数になると100京にも上るといわれます。
人間は、爆発的に増えたといっても70億ですから、
かりに人口を100億にしても、
昆虫の数(100京)は、その1億倍になります。
単純計算すると、
人間に生まれる確率は昆虫の1億分の1です。
もちろん昆虫以外にもたくさんの動物がいます。
名前がついているだけで120万種といわれ、
未発見のものを含めると、
870万種に上るという説もあります。

全生命の総数ともなると、もはや計り知れません。
もし、自分が、あのアリの行列の一匹、ハエ、蚊だったら・・・。
そう思うと、人間に生まれることが、
いかに困難か、お分かりになるでしょう。

●お釈迦さまの説かれた 
   「盲亀浮木の譬え」

人間界に生を受けることがいかに有り難いか、
お釈迦さまは、譬えで教えておられます。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれることを
どのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えると、
お釈迦さまは盲亀浮木の譬え
お話なさっています。

「果てしなく広がる海の底に、
目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、
海面に顔を出すのだ。
広い海には1本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、
西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、
丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押される。
「何憶年かける何憶年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられています。

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「有り難い」とは「有ることが難しい」
ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、
それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦さまは教導されているのです。

また、『涅槃経』には、

人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし

人間に生まれるものは、
爪の上の砂のように少なく、
三悪道(地獄・餓鬼・畜生に苦しみの世界)に堕つる者は、
大宇宙の砂の数ほど多い。

とも説かれています。

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●人生の目的を
  達成してこそ・・・

ところが、これほど生まれ難い人間に生まれながら、
喜んでいるどころか、
「なんで生まれてきたのかなあ」
「人間に生まれさえしなければ、
こんなに苦しまなくてもよかったのに」
と恨んでいる人さえあります。
それは、何のために人間に生まれ、
生きているのか、人と生まれし本懐は何か。
人生の目的が分からないからです。

「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」
と人生の目的を達成させていただいた時こそ、
「人身受け難し、今已に受く」
「人間に生まれてよかった!」
という生命の大歓喜が起きるのです。

では、仏教で生きる目的を
どのように教えられているのでしょう。
明らかにしたいと思います。

●悲劇の輪から離れ出るには

仏教に説かれる生きる目的を、
自らハッキリ知らされ、
生涯多くの人に伝えていかれた親鸞聖人は、
こう仰っています。

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし
        (高僧和讃)
(※昿劫・・・果てしない長期間
  多生・・・生まれ変わり死に変わりして、
       多くの迷界をさまよってきたこと
  本師源空・・・親鸞聖人の師・法然上人
  高僧和讃・・・親鸞聖人がインド・中国・日本の
         7人の高僧を讃歎された詩)

このご和讃のこころです。
果てしなき長い間、迷いの世界を
生まれ変わり死に変わりして、
苦しみ続けてきた。
よもやこの身が、この世で
阿弥陀仏のお力(出離の強縁)によって
無量光明土(極楽浄土)に必ず往生できる身に
救い摂られるとは、
親鸞知らなかったなあ。
もし、真の恩師・源空(法然)上人にお会いできなかったら、
二度とないチャンスを失い、
永遠に苦しんでいたに違いない。
危ないところを親鸞、法然さまに救われたのだ。

まず「昿劫多生のあいだにも」とは、
遠い過去から幾度も生死を繰り返してきたことを
表されています。
その間、真の救いを求めたがかなわず、
迷いの世界(六道)を経巡って苦しんできた、
ということです。

私たちが今、生まれ難い人間界に生まれるまでには、
過去果てしない長期間、
6つの苦しみの世界(六道)を
生死輪廻してきたのだと
お釈迦さまは教えられています。
これを「六道輪廻」とか「流転輪廻」ともいわれます。

「輪廻」は輪が廻る(まわる)と書くように、
ゴールのない円周を、限りなく回っているさまです。

 

試合に負けたバツだ、と部活動の顧問が生徒に言いつける。
「私がいいと言うまで、おまえたち、
グラウンドを走っておれ!」
ところが罪なことに気分屋の顧問は、
生徒を走らせていることをすっかり忘却、
帰宅してしまった。
夕食を取ってくつろいでいた時に思い出して、
慌てて学校に駆けつけると、
生徒たちはまだ黙々と走り続けていたという。
トラックから外れることもできず、
ゴールの見えないランニングを続けていた
彼らの未来は、悲惨な走り倒れです。
その苦しみの輪を出て、
往生一定(極楽往き間違いなしとハッキリすること)
の身に救ってくださる教えが、実に仏教なのです。

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●一瞬の人生で、永の(ながの)迷いを晴らす

次に「出離の強縁知らざりき」の「出離の強縁」とは、
六道輪廻を断ち切り、
迷界から出て離れ、二度と迷わぬ絶対の幸福の身に
助けてくだされる強烈なお力を「強縁」といわれます。
これは、阿弥陀仏の本願力のことです。

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「本願」とは「誓願」ともいい、お約束のこと。
十方諸仏の師匠の仏である阿弥陀仏が、
苦悩から離れ切れない私たちを哀れに思われ、
必ず絶対の幸福に救い摂り、
来世は極楽に往生させ、仏にしてやりたい、
と誓われたのが「弥陀の本願」です。

この弥陀の強い強い願力によって、
六道出離の身になれるのは、
仏法が聞ける人間界でなければできないこと。

三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)のように苦しみが激しくても、
天上界のように楽しみが多すぎても、
仏法は聞けないからです。

釈尊は仏教を聞けない八つの障り「八難」を挙げられ、
チャンスは人間に生まれた今しかないことを
教えられています。
ですから「人生の目的」といっても、
本当は「多生永劫の目的」のことなのです。

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過去無量劫から果てしない未来へと続く、
永遠の生命から見たら、50年、100年の人生など
あっという間。
その一瞬で、永の迷いの打ち止めをさせられる。

これをお釈迦さまは
「今生でこの身を度する」
(今救われる)
と言われています。

●本当の先生には会い難い

ところが、そんな大事を教えた仏教は、
誰もが聞きたいのにもかかわらず、
ほとんどの人が知りません。
なぜなら、「出離の強縁(弥陀の本願)」を説かれる先生は
雨夜(あまよ)の星で、めったに会うこ
とはできないのだと、
聖人はご自身の体験を通して仰せです。

真の知識にあうことは
難きが中にもなお難し
        (高僧和讃)

「真の知識」とは、阿弥陀仏の本願を
正しく伝える先生のこと。

9歳で出家なされた親鸞聖人は、
天台宗の僧侶として20年間、比叡山で学ばれました。
比叡山といえば、当時の仏教の中心地。
全国の俊秀(しゅんしゅう)が集まっていましたが、
弥陀の本願を教える知識には会えなかった
とお弟子たちの前で述懐されています。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第6巻)
の場面で見てみましょう。

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親鸞聖人「親鸞、後生が苦になってのぉ、
     どこかにこの一大事、助かる道教える大徳はないか、
     導く高僧知識いまさぬかと、
     狂い回ったが、会えずに泣いた」
お弟子A「比叡山や奈良にもですか?お師匠さま」
お弟子B「あそこには、全国の高僧知識が集まっていなさると
     聞いていますが・・・」
     (聖人、静かに首を横に振られる)
親鸞聖人「その比叡や、奈良にも、教える知識はなかったのだ。
     今にして思えば、仏法に暗き者ばかりだったと知らされる。
     そんな親鸞が、よき人・法然上人に巡り会えた時の喜びは、
     そなた方にも思い知らされるであろう」

苦闘20年の末、なおも暗い心の解決ならず、
泣く泣く比叡の山を下りられた聖人が、
間もなく弥陀の本願を説かれる明師・法然上人との
邂逅(かいこう)をいかに喜ばれたか。
(※邂逅・・・巡り会うこと)

「本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし」
もし、法然(源空)上人にお会いすることができなかったら、
出離の強縁を知らず、二度とないチャンスを失い、
永遠に苦しんだに違いない。
危ないところを法然上人に救われた。

のお言葉からも分かるでしょう。
実際に助けてくださるのは阿弥陀さまですが、
その救いのあることを教えてくだされた
法然上人がおられなければ、
救われることもなかった
のですから、
「法然さまに、親鸞すくわれたのだ」
「会い難い善知識に、よくぞお会いできたものぞ」
との仰せも深くうなずけることです。

まさに、
「仏法聞き難し」
のお釈迦さまのお言葉を痛感せられたでしょう。

その聞き難さを釈尊は、
「ヒマラヤの山頂より糸を垂らして、
麓にある針の穴に通すことよりも難しい」
と説かれています。

ちょっとボタンを付け替えようと、
針と糸を取り出して、目をしばたたかせつつ、
目の前の針の穴に通すのさえ難儀するのに、
八千メートルの頂上からでは針の影さえ分からない。
その難しさたるや想像も及ばないでしょう。
考えてみますと、地球上に70億の人あれど、
仏縁あって無上仏(阿弥陀仏)の本願が聞ける人は、
どれだけあるか。

今こうして、聖人のみ教えに出遇えた皆さんは、
大変深い仏縁に恵まれているのです。

“軽い気持ちで読み始めただけ”
という人もあるかもしれませんが、
聞法を重ねていくと、
「本当に聞き難いことであった」
と知らされ、尊い仏縁を喜ばずにおれなくなってきます。

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●大目的を果たすのは「今」

「人身受け難し、仏法聞き難し」
この二大難関を突破して、今、
あなたは人間に生まれ、仏法を聞いている。
今、幾億兆年にもないチャンスが巡ってきたのです。

“今日は用事があるし、仕事や家事も忙しいし・・・
聞法はまたの日に”
などと言っている場合ではありませんね。

いつ仏法聞くのか?
いつ救われるのか?
今である。
とお釈迦さまは仰っています。

それが、
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん

のお言葉です。
この多生永劫の目的を知ったならば、
いかなる人生の荒波にもまれても
「大目的を果たすため、乗り越えなければ」
と力が湧いてくる。
あるかないか分からぬ幸福の足音を
胸つぶれる思いで待つ日々は、
今ハッキリする弥陀の救いに向かって
たくましく前進する人生に大転換いたします。
「何で俺を生んだのか」
の恨みが、
「生んでくれてありがとう」
の感謝に転回するのです。

その身に救われるのは、仏法は聴聞に極まる。
「人間に生まれたのはこのためであった」
と生命の歓喜を獲るところまで、
真剣に仏法(阿弥陀仏の本願)を聞き抜きましょう。

(聞き抜くは、弥陀に救われるの意味)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記
(25歳の時から、往生極楽の道を探し求めていた川田さん。
しかし、本当の親鸞聖人の教えに出遇うまで、
長い年月を費やさねばなりませんでした。
当時の心境を語ってもらいました)

60年訪ね歩いて
ようやく真実に遇えた
   岐阜県 川田 貞子さん(仮名)

ーー仏法を求めるようになったきっかけは?

3つの時に地獄・極楽の絵を見て、
「あんな怖い所は行きたくない、お浄土に往きたい」
と思いました。
若い頃から自分の心が汚く思え、
結婚して家族と暮らすようになると、
舅や姑を大事にしなければと分かっておりながらも、
「この人たちがいなければ楽になれる。早く・・・」
と邪魔にする心が出て、これでは絶対、
地獄にしか行けないから何とかしたいと。
これが出発点でした。
実家も嫁ぎ先も真宗の盛んな地ですが、
どの寺も葬式法事ばかり。
教えは聞けませんでした。

ーーそれで遠方にも聞きに出かけるようになったのですね。

善知識を求めて、広島、大阪、神戸と訪ね歩きました。
神戸では、真宗の学校の校長先生から学びました。
「『教行信証』は漢字で読まないとダメだ」と言われましたが、
漢文を習って読んでも難しくて・・・。
スラスラと読めず、中身も分からず、ますます苦しくなる。
善知識とはどんな方か。
それすら分からなくなりました。
 
ーーではどんなご縁で、正しいみ教えに出遇ったのですか?

3年前、新聞広告を見て『歎異抄』の解説本を買ったのです。
これまでの本と大違いで、ハッキリ分かり、
寝ずに読みました。
その感動を知人に電話で伝えたところ、
「聞法のつどい」に誘ってくれました。
素晴らしいお話にバンザイしました。
何にバンザイしたかというと、
本師本仏が阿弥陀仏と教えていただいたことです。
今までお釈迦さまに助けてもらうと思っていたのです。
お釈迦さまの先生が阿弥陀さまであった。
長い間聴聞したけれど誰もはっきり教えてくれなかった。
いちばん大切なことを教えていただき、
うれしかった。

阿弥陀仏以外にない。
大悲の願船に乗せていただく以外に絶対に助かる道はない。
この教えを聞けて本当にバンザイしました。

ーー60年かけてようやく巡り遇えたのですね。

そうです。聴聞は皆出席です。
一回休むと100万円を落としたように思います。
真の知識に会うのは、これほど大変なことであり、
幸せやなあと喜んでいます。


親、兄弟、夫婦の縁は遠い過去からの縁、仏縁も然り [六道輪廻]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

縁の大切さを、昔から
「朱に交われば、赤くなる」
とか
「人の善悪は 近づき習うによる」
さらには
「善人の敵とはなるとも
悪人を友とするなかれ」
といろんなことわざで言われています。
これらはすべて悪い縁を遠ざけ、
善い縁を結ぶことが大事だという、
メッセージを伝えています。
人や物など、さまざまな縁に触れ、
人の運命は織り成されていきます。

その縁とはどんなものか考えてみましょう。

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「袖触れ合うも多生の縁」とか「縁談」など、
私たちはふだん、“縁”という言葉を使ったり、
耳にしています。
生まれた国も言葉も、
目や肌の色も全く違う2人の国際結婚は、
万里を超える縁です。
周りじゅうから反対されても、
突破して駆け落ちするほどの深い縁もあります。
さほど縁のない人は、毎日擦れ違っても
それ以上の間柄にはならず、
会話すらない人がほとんどでしょう。
地球上に70億の人がありますが、
私たちは生涯に何人と縁を持つのでしょう。
話をしたいと思っても縁がないから、
会うこともできないとか、
また、あまり知らなかった人とでも、突如、
縁あって結ばれるなど、
私たちの意志とは別に、見えない赤い糸に
引き寄せられるように
感じて使われる言葉でもあります。

昔の着物は、ひらひらとたもとの揺れる袖がありました。
その袖が触れ合うほど近くにいる人がある。
それは深い因縁あっての故だと言われているのが

「袖振れ(振り)合うも多生の縁」
という言葉です。

“多生の縁”を“多少”と思って、
少しばかり縁があったと思っている人もありますが、
これは、仏教から出た言葉で、
正しくは“多生”です。

●世々生々(せせしょうじょう)の
     父母兄弟

多生とは、多くの生と書きますように、
私たちが人間に生まれる前に、
長い過去があり、いろんな形に生まれ変わり
死に変わりしてきたのだと、
仏教では教えられています。

昔から「二十五有生(うしょう)、生まれる里もなければ、
受けぬ形もない
」といわれます。
“二十五有生”とは、仏教で説かれる
二十五の迷いの世界のことですが、
私たちは遠い過去から、それらどの世界にもどんな形にも
生まれてきたということです。
ある時はイヌに生まれ、またある時はネコに生まれ、
ウシやブタに生まれては殺され、
餓鬼に生まれて求め苦しみ、
地獄に生まれて、
のたうち回ったこともあったでしょう。
そんな長い時の流れの中で、
親子であったり、兄弟、夫婦の関係だったことが
あったのではないでしょうか。

一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり
と、親鸞聖人も『歎異抄』に仰っています。
(※25有生は、六道を細分化したもの)

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●春秋知らぬセミ

私たちは、この世、生まれてから死ぬまでの
50年乃至100年の肉体のことしか分かりませんが、
私たちの本当の生命は、肉体ではなく、
果てしない過去からずっと続いてきたと
お釈迦さまは教えられています。

そんな過去世なんか信じられないという人もありますが、
私たちは肉体ができると同時に
造られた頭でしか考えることができませんから
分かりようがないのです。

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セミは春秋を知りません。
夏、地上に出て1、2週間で死んでいくセミには、
春も秋も分からないでしょう。
まして10年や100年などは、
知る由もありません。

同様に私たちが、多生と聞いても
「何それ?そんなのあるか」
と思うのが当然かもしれません。

ですから、生まれる前の過去からの縁と
聞いても毛頭分からず、
人と人が出会うのも、
たまたまだと思われがちですが、
本当は、多生の因縁によるのだと
教えられています。
道で擦れ違い、
袖触れ合うようなささやかな事でも、
それは過去にそうなる関係があってのこと。
原因なく現れた偶然ではなく
因縁が結びついた結果なのだよと
教えられるのです。

私が、ここにいるという結果も
様々な因縁和合してのことですし、
親子・夫婦の関係になるのも、友達となるのも、
過去、多生の間の因縁によるのです。

そうと知れば、コンチクショー、憎い、
こんな人と同じ部屋で息吸うのもイヤ、
と思っている人も、案外、
因縁深い懐かしい方ではないでしょうか。


また皆さんが今、こうして『とどろき』を読み、
「聞法の集い」で仏教を聞かれているのも、
人に勧められて、何となく聞き始めたと
思っていられるかもしれませんが、
実は、根っこが深いのです。


親鸞聖人は、遠い過去から結ばせていただいた
阿弥陀仏との尊いご縁なのだと
言われています。
これを仏縁といいます。

●ああ・・・
    弘誓の強縁

親鸞聖人は、弥陀に救い摂られた時の驚きと慶喜を

噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし

               (教行信証)

と仰って、多生・億劫という言葉を使われています。
一劫とは、仏教で4億3千200万年ですから、
億劫とは、その億倍、とても想像できない長い時間です。

これは、弘誓の強縁・弥陀の救いにあい、
迷いの打ち止めをさせられた聖人が、
世々生々、多生億劫の間、
迷ってきた流転の過去を
ハッキリ知らされ告白されているお言葉です。

「弘誓の強縁」とは、阿弥陀仏の本願のこと。
阿弥陀仏という仏がなされているお約束のことです。
阿弥陀仏とは、どんな仏さまか。
蓮如上人は、このように教えられています。

弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり
              (御文章二帖目八通)

今日の天文学によれば、太陽のような恒星(自ら光る星)が
2千億集まって、銀河系宇宙を作っています。
さらにその銀河が、大宇宙には、
1千億以上もあると知られています。
ケタはずれのスケールですね。

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2600年前、地球上に現れたお釈迦さまが、
仏の智恵によって、この大宇宙には
数知れない仏がましますと教えられ、
それをここで蓮如上人は、
「三世十方の諸仏」と言われています。
それら無数の仏方の本師本仏が
阿弥陀仏といわれる仏さま。
「本師本仏」とは、先生・師匠ということですから、
大宇宙のすべての仏を指導されている仏さまが、
阿弥陀仏(弥陀如来)なのです。

その弥陀が
「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」
と約束なされて、
迷い続ける私たちを何としても助けようと、
あの手この手と、導いていられるのです。

●だれにも
  「多生の目的」がある

私たちは、飲みたい、食べたい、楽したい、
褒められたい、認められたい、そして寝たい、
と欲望を満たす楽しみ以外、
関心がないといってもいいでしょう。

「いたずらに 過ぐる月日は 多けれど
   法を求むる 時ぞ少なき」
テレビの前には、長時間座っても、
法座に身を置くことの何と少ないことか。
せっかく人間としてこの世に生まれたというのに、
くる日もくる日も欲に追い回され、
やがて消え去る、
はかない幸福ばかりを追い求めている。
この世を去る時には、
何一つ持ってはいけないと
百も千も承知していながら、
何と言うバカ者でしょう。
こうして、これまでも、長い間、
迷いを重ねてきたのです。

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そんな私たちを阿弥陀仏は哀れんで
「絶対の幸福に必ず助けてみせる」
と誓われています。

これは、大宇宙の諸仏が、
束になっても絶対にできないお約束なので、
親鸞聖人は『正信偈』に弥陀の本願を
「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」
と、たたえられています。
親鸞は全く、この弥陀のお力によって救われたのだ、
と『歎異抄』には

「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
往生をば遂ぐるなり』
と信じて『念仏申さん』と思いたつ心の発る(おこる)とき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり

と仰っています。
摂取不捨の幸せ、
必ず浄土往生できる身に生かされたのは、
全く弥陀の不思議な願力によってだと、
阿弥陀仏の絶大なお力を、
賛嘆(さんだん)されているのです。

そして、この弘誓の強縁・弥陀の本願によって、
必ずあなたも救われる、
弥陀の本願聞き抜きなさいよと、
親鸞聖人は真剣な聞法を勧められています。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん。

            (お釈迦さま)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法を今聞いています。
遠い過去から結ばれた仏縁に感謝し、
多生・億劫にも聞き難い弥陀の本願を、
今、聞き抜かせていただきましょう。
(聞き抜くとは、阿弥陀仏に救われること)


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七高僧あればこそ、親鸞救われたのだ! [恩徳讃]

印度西天之論家  印度西天の論家

中夏日域之高僧  中夏・日域の高僧

 

ここをよく理解するために、『正信偈』の冒頭を

振り返ってみましょう。

親鸞聖人は、まず、

帰命無量寿如来

 南無不可思議光

とおっしゃっています。これは、

親鸞は、無量寿如来に帰命いたしました。

親鸞は、不可思議光に南無いたしました

ということです。

〝親鸞は〟とは書いてない、と思う人があるかもしれませんが、

これは隣のおじさんのことでも、向かいのお嫁さんのことを

言われたのでもありません。

聖人ご自身のことを書かれたのです。

無量寿如来」も「不可思議光」も、

ともに阿弥陀如来の別名です。

不可思議光如来の「如来」を略して、

不可思議光と言われています。

「帰命」とは、昔の中国の言葉。

「南無」は、昔のインドの言葉で、

ともに〝救われた、助けられた〟という意味ですから、

この二行は、「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ。

親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ」

と同じことを繰り返しおっしゃっていることになります。

一度書けば分かることを、なぜでしょう。

ここは、叫び尽くせぬ喜びを表されているのです。

 

●繰り返し叫ばずにはおれない。こんな時も

 

例えばこんな時、繰り返し言わずにおれないでしょう。

話題のレストランで夕食を、と家族で出掛けた。

店の前はすでに行列。

30分待ってようやく座席に案内される。

早速注文し、空腹こらえて待つことさらに30分、

おいしそうな料理を、さあ食べようとしたところ、

停電で突然真っ暗に。

10分待っても20分待っても復旧しない。

せっかくのごちそうが冷めていく。

食べるに食べられず、帰るわけにもいかず、

闇の中、30分、40分が過ぎ、そろそろ1時間たとうかというところ、

パッと明かりがついた。

すると、店内の皆が口々に、

「ついた!ついた!ついた!」

と言うようなものです。

1回「ついた」と言えば分かることでも、

闇の中で困っていた、光を待っていたからこそ、

うれしさのあまり何度も言わずにおれなくなるのです。

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5年間も外国に行っていたかわいい孫が、

帰省したらどうでしょうか。

「よく来た、よく来た。どうやって来たのか。

電車かバスか飛行機か。いつまでおれるんだ。

よく来たなぁ、よく来たなぁ」

待ち望んでいた孫に会えた喜びから、

繰り返し言わずにおれないでしょう。

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●弥陀の救いにあった喜びは、言葉に尽くせぬ

 

親鸞聖人は、4歳で父君を、8歳で母君を亡くされました。

〝次に死ぬのはオレの番だ。死んだらどうなるのだろうか〟

と深刻に考え込まれた聖人は、真っ暗な後生に驚かれました。

だれしもぶち当たる死。その先がどうなっているのか、

だれも知りません。

そんな真っ暗がりの後生へ、

必ず飛び込んでいかねばならないのです。

こんな一大事がほかにあるでしょうか。

この万人共通の一大事が、わが身の問題と知らされた時、

どうして捨てておけましょうか。

親鸞聖人は、何とか後生一つ明るくなりたいと、

9歳で出家されて20年間、比叡山で法華経の修行に

打ち込まれたのです。

大曼の難行まで完遂なされましたが、

どうにも後生暗い魂の解決ができず、

泣き泣き下山されました。聖人29歳の春のこと。

暗い後生の解決を教えてくだされる方はないのかと、

京都の町をさまよっておられた聖人は、

旧友・聖覚法印の紹介で、吉水の法然上人から、

阿弥陀如来の本願を聞かれたのです。

そして29歳の御時、阿弥陀如来の本願力によって、

無明の闇(後生暗い心)が破られ、

いつ死んでも浄土往生間違いなしの

大安心・大満足の身に救い摂られました。

「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ!

親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ!」

『正信偈』の冒頭のお言葉は、弥陀の救いにあわれた聖人の、

大慶喜なのです。

こんな明らかな世界があろうとは。

こんな不思議な絶対の幸福に恵まれようとは。

想像を絶する驚天動地に体験は、どれだけ書いても書き足りない、

言い足りません。

その無限の喜びを、二度繰り返されることで、

表現しておられるのです。

 

●現在の救い、それは全く弥陀のお力

 

「救われた、助かった」と言われていますから、

弥陀の救いは現在生きている時であることは明白です。

またここで聖人が、

「阿弥陀如来によって、救われた」

と繰り返されているように、救われたのは、

全く阿弥陀如来の独り働きであったことがハッキリします。

自分の力で後生明るい心になったのでもなければ、

ほかの仏や菩薩や神の力で助かったのでもない。

極悪最下の自分を助けてくだされたのは、

阿弥陀如来一仏であったと明らかに知らされます。

ただただ、しのばれるは弥陀の大恩。

有名な「恩徳讃」にも、

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

阿弥陀如来のご恩を真っ先に挙げておられます。

『正信偈』でも、まず冒頭で自ら救い摂られた喜びを告白し、

その後「法蔵菩薩因位時」以下、阿弥陀如来のご恩を述べられ、

釈尊が生涯説かれた弥陀の本願を明らかにされているのです。

 

●伝えてくだされた方なかりせば

 

ここで聖人は述懐されます。

〝親鸞、この幸せに救われたのは、

ひとえに阿弥陀如来のお力だが、

釈尊の説かれた、その弥陀の本願を、

伝えてくだされる方がなければ、

助からなかったに違いない〟

と、善知識(正しい仏教の先生)のご恩を知らされ、

その教えを述べているのが、

「印度西天の論家、中夏・日域の高僧」

からあとの文章なのです。

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「印度」「西天」はインド、「中夏」は中国、

「日域」は日本のことです。

インドで釈尊によって説かれた仏教は、

中国へと伝えられ、韓半島を経て日本に伝来しました。

「論家」も「高僧」も、正しく仏教を伝えられた

善知識のことです。

 

●インド・中国・日本の高僧

 

親鸞聖人は、インドの論家として、

龍樹菩薩と天親菩薩のお二人、中国の高僧を三名、

曇鸞大師、道綽禅師、善導大師を紹介され、

日本では源信僧都、法然上人の二名を挙げられています。

これら七人の方々を「七高僧」といわれ、

親鸞聖人は大変尊敬されています。

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弥陀の救いにあった時、助けてくだされたのは

全く阿弥陀如来のお力しかなかったと知らされますが、

同時に、その弥陀の本願を伝えてくだされた方々の

ご恩を知らされるのです。

インドを西蕃(せいばん)・月氏(げっし)、

中国を東夏、日本を日域といわれ、

聖人は次のようにも記されています。

 

ここに愚禿鈔の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、

東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり、

聞き難くして已に聞くことを得たり

               (教行信証総序)

 

「ああ、幸せなるかな親鸞。何の間違いか、毛頭遇えぬことに、

今遇えたのだ。絶対聞けぬことが、今聞けたのだ。

釈迦が、どんなすごい弥陀の誓願を説かれていても、

伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることは

なかったに違いない。

広く仏法は伝えられているが、弥陀の誓願不思議を説く人は

まれである。その稀有な、弥陀の誓願を説くインド・中国・

日本の高僧方の教導に、今遇うことができたのだ。

聞くことができたのだ。この幸せ、何に例えられようか。

どんなに喜んでも過ぎることはない」

師恩に感泣される聖人が彷彿とします。

 

●水を飲みて源を思う

 

今日、蛇口をひねれば水は幾らでも出てきますが、

昔は大変でした。

庭に井戸のある家はまれで、ほとんどの家庭では、

共同の井戸から運ばねばなりませんでした。

まず、つるべを井戸の底に落とす。

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次に井戸綱を引いてつるべで水をくみ上げる。

おけに移して、わが家まで運ぶ。

炊事、洗濯はもちろん、風呂に水を張るともなれば、

この作業を何度も繰り返さねばならぬ重労働でした。

そのため、特に不便な地方では、

「嫁にいくなら、○○(地名)およし、田なし、

水なし、井戸深し」

とか、

「娘可愛けりゃ、○○(地名)には嫁にやるな」

といわれたそうです。

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やがてポンプが普及し、柄を上下に動かしてポンプで

井戸から水をくみ上げるようになりました。

それから徐々に水道が設置されていったのです。

昔を思えば、何と楽になったことかと感謝せずにおれませんが、

蛇口さえあれば水が出るのではありません。

見えずとも、満々と水がたたえられている

貯水池があってのことなのです。

中国に、

「飲水思源」(水を飲みて源を思う)ということわざがあります。

まず貯水池の水を忘れることはできませんが、

貯水池があっても、私たちの家まで水道管が

敷設されていなければ水は出ないのですから、

水道管のありがたさも思わずにおれません。

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貯水池に例えたのは「弥陀の本願」です。

本願の法水(ほっすい)が、親鸞の心に流入せねば

救われなかった。

だから、まず思うのは如来大悲のご恩徳。

水道管に例えたのが、印度西天の論家であり、

中夏・日域の高僧です。

三国相伝の善知識方ましまさずば、親鸞、弥陀の本願に

あえなかった。

水道管の一カ所でも破れていれば水は届かぬように、

七高僧のお一人でも欠けていたら、親鸞、

助からなかったであろう。

このご恩は骨を砕いても足りませんぬと聖人は「恩徳讃」に、

師主知識の恩徳も

 骨をくだきても謝すべし

と燃ゆる思いを告白されているのです。

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極楽に蓮の花が咲いている訳 [救われるとどうなる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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仏事になじみ深いのが、蓮の花

仏教では、蓮を大切にします。

 

極楽浄土に咲くのは、桜でも菊でもなく、

清浄な蓮の花ばかりといわれます。

その理由は、どこにあるのでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   蓮は極楽の花

 

「在る日のことでございます。

お釈迦さまは極楽の蓮池のふちを、

独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。

池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、

そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、

何とも云えない好い匂が、絶え間なくあたりへ溢れております。

極楽は丁度朝なのでございましょう。

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文豪・芥川龍之介は、代表作『くもの糸』の冒頭に、

極楽の様子をこう書きました。

極楽と聞けば、きらびやかな、百花繚乱の荘厳を

連想する人も多いでしょう。

ところが「極楽絵図」には、蓮の花ばかりが描かれ、

仏さま方は、みな蓮の台(うてな)の上におられます。

そういえば、お仏壇や墓石に描かれているのも蓮の花。

有名な『阿弥陀経』には、

「池の中に蓮華あり、大(おおき)さ車輪の如し」

と浄土の様子が描かれています。

仏教で花といえば、蓮のことと言っても過言ではありません。

 

  極楽に蓮の花が

   咲いている訳

 

なぜ、蓮がよく登場するのでしょうか。

それは、蓮の花が、仏教で教えられる「正しい信心」の

特徴を表しているからです。

 

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだ、

と思う人があるかもしれませんが、

私たちは何かを信じなければ、

一日たりとも生きてはいけません。

例えば、明日も生きておれると、命を信じて生きています。

いつまでも達者でおれると、健康を信じています。

金や財産があるから安心だ、地位や名誉があるから大丈夫と

信じる人も、それらの信心を持っているのです。

夫は妻を、妻は夫を信じ、子供は親を、親は子供を信じています。

政治、科学、思想、何かを信じなければ、

私たちは生きていけません。

神や仏を信じるだけが、信心ではありません。

何かを信じておれば、それはその人の信心です。

何を命として信じるかは、一人一人違いましょうが、

すべての人は何らかの信心を持って生きているのです。

生きるとは、信じることだといえましょう。

 

ところが私たちが、信じていたものに裏切られた時に、

苦しみ悩みます。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、

家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、

夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。

しかも、深く信じていればいるほど、

裏切られた苦悩や悲しみ、怒りが大きくなります。

私たちは決して、苦しみ悲しむために

生まれてきたのではありません。

生きているのでもありません。

幸福を求めて生きているのです。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ70年、80年、信じられるものがあったとしても、

私たちは最後、死なねばなりません。

いよいよ死んでいかねばならない時には、

信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、

この肉体さえも焼いていかなければなりません。

やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、

苦しみ悩みが絶えないのだ、本当の幸福になりたければ、

絶対裏切ることのない「正しい信心」を持ちなさいよと、

親鸞聖人は教えていかれました。

その正しい信心とはどんなものかを、

蓮の花の五つの特徴が表しているのです。

これを「蓮華の五徳」といわれます。

 

「蓮華の五徳」

 

蓮華の五徳」とは、次の5つをいいます。

 

①淤泥不染(おでいふぜん)の徳

②一茎一花(いっけいいっか)の徳

③花果同時(かかどうじ)の徳

④一花多果(いっかたか)の徳

⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳

 

●どんな人の心に

    信心の花が開くのか

       ①淤泥不染の徳

 

蓮の花は、高原陸地には咲かず、泥沼(淤泥)に咲くという

特徴を持っています。

しかもその花は、泥の汚れに染まらず、

清浄な輝きを放つのです。

 

これは、正しい信心が、どんな人の心の中に開くかを

教えています。

ここで「淤泥」、泥沼に例えられたのは、

悪人のことです。

また、高原陸地とは、善人を例えています。

正しい信心は、善人の心中には徹底せず、

悪人の心の中にこそ、開発(かいほつ)するのです。

親鸞聖人は、有名な『歎異抄』に、

こうおっしゃっています。

 

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

 

このお言葉を、多くの人は、「善人より悪人が救われるのか、

ならば悪いことをすればよいのか」と思いますが、

大変な間違いです。

これを正しく読むには、聖人のおっしゃる「悪人」とは

どんな人かを、よく知らなければなりません。

 

■「悪人」とはだれのことか

 

聖人のいわれる「悪人」とは、常識や法律、

倫理・道徳の悪人とは全く異なります。

「自分ほどの悪人はなかった」と、

自己の真実の姿を知らされた人のことなのです。

仏教は「法鏡」ともいわれ、私たち人間の本当の姿を、

明らかに映す鏡であると教えられます。

微塵の悪も見逃されない仏さまの眼からごらんになれば、

すべての人間は一人残らず悪人であると、

お釈迦さまは仰せです。

 

心常念悪(心常に悪を念じ) 

 口常言悪(口常に悪を言い)

 身常行悪(身常に悪を行じ)  

 曽無一善(曽て一善無し)」

       (大無量寿経

 

仏眼からは、心も、口も、体も、悪ばかりで

一つの善もない。

人間の実相を喝破なされた、釈尊のご金言です。

世界の光と仰がれる親鸞聖人もまた、

法鏡に映し出されたご自身の姿を、「一生造悪」

「極悪最下」「極重の悪人」とおっしゃり、

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」 (歎異抄)

 

と、悲痛な告白をしておられます。

これは、決して聖人だけのことではなく、

古今東西の全人類、変わらぬ姿なのです。

では、「善人」とは、どんな人なのでしょうか。

それは、悪しか造れぬ己の実態が分からず、

善人とうぬぼれている人のことです。

例を挙げれば、〝その気になれば善ができると思っている人〟や、

〝あの人と比べれば私のほうがましだと思っている人〟

〝悪いことはするけど、反省する心ぐらいあると思っている人〟

などです。

 

鏡に近づけば近づくほど、

自分の容姿がハッキリ見えてくるように、

仏教を聞けば聞くほど、知らされてくるのは、

自分の本当の姿です。

そして、阿弥陀如来のお力で、地獄より行き場のない

極悪最下の者が自分であると知らされた「悪人」の

心の中にこそ、正しい信心の花が開くのです。

 

■何ものにも染まらず輝く真実信心

 

「不染」とは、読んで字のごとく「染まらない」ということです。

蓮の花は、泥中にありながら、汚されることなく、

美しく咲いています。

また、泥沼のままで、きれいな土地に変わることもありません。

これは、正しい信心を獲て、大安心大満足の心に救われても、

「煩悩」は全く変わらないということです。

煩悩は一人一人に108ずつあり、中でも恐ろしいのが、

三毒の煩悩といわれる、貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、

愚痴(ねたみそねみの心)です。

これらの煩悩は死ぬまで、なくなりもしなければ減りもしません。

しかし、阿弥陀如来に救い摂られ、正しい信心を獲得すれば、

いつでもどこでも煩悩一杯が、幸せ一杯となるのです。

これを「煩悩即菩提」といいます。

苦悩がそのまま歓喜となる、煩悩即菩提の不思議さを、

親鸞聖人は次のような例えで説かれています。

 

罪障功徳の体となる

こおりとみずのごとくにて

こおりおおきにみずおおし

さわりおおきに徳おおし」  (高僧和讃)

 

欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、

幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。

大きな氷ほど解けた水が多いように、

極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ」

シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、

煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、

すごい確信に満ちた、聖人のお言葉です。

正しい信心を獲れば、私たちも皆、

親鸞聖人と同じ境地に出させていただけるのです。

               (淤泥不染の徳

 

往生は一人一人のしのぎ

    ②一茎一花の徳

 

蓮の花は、一本の茎に一つの花しか咲かせません。

チューリップなどほかの花にも見られますが、

蓮の特色の一つです。

 

正しい信心は、一人一人が求めねばならず、

決して身代わりは利かないということを表したものです。

蓮如上人の『御一代記聞書』に、「往生は一人一人のしのぎ」

とおっしゃっています。

後生の一大事は、自分自身の問題であり、

他人事ではありません。

正しい信心は、一人一人が求め、獲得しなければならないのです。

ところが、

〝親鸞さまや蓮如上人さまが、代わりに

ご苦労をしてくだされたのだから、

私たちは求めることも聞き歩くことも要らない。

ありがたいことじゃ〟

と、思っている人があるようです。

 

■ご自身のためであり

   私たちのためでもある

 

善知識方のご苦労には、2とおりあります。

一つは、ご自身の後生の一大事を解決されるための

ご苦労です。そしてもう一つは、私たちのためのご苦労です。

こんな例え話があります。

 

夏の盛り、高い山に登る人たちがあった。

汗は滝のように流れ、のどはカラカラ。

手持ちの水筒は空っぽ。渇するあまり、

「もう一歩も歩けない」と、一人また一人、

動けなくなりその場に座り込んでしまう。

最後の一人が、気力を振り絞って登っていく。

登れど登れど、しかしどこにも水はない。

やがてその男も、精根尽き果ててバッタリ倒れてしまった。

と、倒れた場所のすぐそばに、冷たい清水が、

こんこんとわき出ているではないか。

思わず男は顔を突っ込み、ガブガブ飲んだ。

清水の冷たさが全身にしみわたる。

九死に一生を得た男は、

「ああ、この水のおかげで助かったぞ-!」と、

大喜びである。

そして、大声で呼ばずにおれなかった。

「おーい、ここまで来いよ-!。

ここにおいしい清水があるぞー!」

手にした笠を振りかざし、力の限り叫ぶ。

力尽き倒れていた人たちは、その声に勇気づけられ、

清水のある場所まで懸命に登ろうとする。

そしてたどり着き、のどを潤した同士もまた、叫んだ。

「本当だ、ここに清水があるぞ!」

こうして次々と助かった人々は、

最初に清水を見つけた人に感謝せずにおれなかった。

〝笠上げて 道連れ招く 清水かな〟

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親鸞聖人は、800年前、後生の一大事の解決という「山登り」を

なされました。

比叡山で20年間、血のにじむご修行に励まれるも

一大事の解決はならず、泣く泣く山を下りられた聖人は、

法然上人より阿弥陀仏の本願を知らされ、来る日も来る日も、

必死の聞法を重ねられました。

建仁元年、29歳の御時、阿弥陀仏の救済にあわれた聖人は、

自らの体験と救い摂られたことへの感謝を、

実に生々しく感動的に叫び上げられています。

 

噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、

真実の浄信は億劫にも獲がたし。

遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

若しまたこの廻(たび)疑網に覆蔽せられなば

更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ

             (教行信証)

ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、

求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。

これは全く、弥陀の強いお力によってであった。

深く感謝せずにおれない。

もし今生も、無明の闇(後生暗い心)の晴れぬままで

終わっていたら、未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。

何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、

知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを

 

聖人は、この生命の大歓喜、弥陀に救われた世界を、

90歳でお亡くなりになるまで、

私たちにお叫びくださったのです。

親鸞聖人ほか、善知識方が、阿弥陀如来に救われるまでの

ご苦労は、ご自身のためのものです。

これは先ほどの例え話では、気力ある一人が、

先陣切って山を登っていく苦労に当たります。

見つけた清水の在りかを、笠振り叫ばずにおれないとは、

阿弥陀仏の本願という清水を皆に伝え、

飲ませようとしてのことです。

これは私たちのため、ひとえに私たちの後生を

案じてくだされてのご苦労なのです。

その聖人のご教導に従い、一人一人が、

正しい信心を求めねばなりません。

         (一茎一花の徳

 

信心の「花」と

  幸福の「実」は一念同時

       ③花果同時の徳

 

蓮は、花開くと同時に実ができるという特徴があります。

普通は、開花から実を結ぶまで時間がかかりますが、

蓮の花は違います。また、蓮の花はだんだんと開くのではなく、

一気に音を立てて開きます。

 

これは、正しい信心は「一念」で獲得させていただけることを

表しています。「一念」とは、

何億分の1秒よりも速い時をいいます。

蓮の花がパッと開くように、真実の信心は、

アッという間もない一念で獲得できるのです。

だんだんと信ずるのでもなければ、いつとはなしに信心を

頂くのでもありません。

中国の高僧・曇鸞大師は、阿弥陀如来の救いの速さを、

有名な例えで解説されています。

 

譬えば千歳の闇室に光若し暫く至れば

すなわち明朗なるが如し。

闇豈室に在ること千歳にして去らずと言うことを得んや

                (浄土論註)

たとえ千年間、闇に閉ざされてきた部屋でも、

明るくするのに時間はかからないだろう。

光がさし込むと同時に、闇はなくなる。

千年も真っ暗だったからといって、闇が晴れるのに

時間がかかるということはない

 

しかも、一念の信心を獲ると同時に、正定聚の身になるのです。

蓮如上人は、そのことを『御文章』に、

「その位を『一念発起・入正定聚』とも釈し」と

おっしゃっています。

「正定聚」とは、「間違いなく仏になることに定まった人々」

ということですから、いつ死んでも、必ず浄土へ往ける、

大安心・大満足の身になるのです。

絶対に崩れない幸福ですから、今日の言葉で、

絶対の幸福ともいいます。

一念の信心の「花」開くと同時に、

絶対の幸福の「実」を頂けるのです。

 

正しい信心は、〝いつとはなしに頂く〟のでもなければ、

〝信心しておれば、そのうちご利益がある〟という信心とも

全く違います。

一念で獲得でき、同時に絶対の幸福に救い摂られる信心なのです。

             (花果同時の徳

 

限りない幸福の「実」

    ④一花多果の徳

 

蓮は、一つの花からたくさんの実ができます。

これに対して、柿やミカンなどは一つの花から

一つの実しかできません。

 

正しい信心を獲得した人は、

この世から数多くの利益(りやく)が

頂けることを表します。

「利益」と聞きますと、新興宗教のゴ利益を連想して、

よい印象をもたない方もあるかもしれませんが、

本来は仏教の言葉で「幸福」という意味です。

経典の中にも頻繁に出てきます。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を信ずる人は、

計り知れない幸福に恵まれることを、

次のように教えられています。

 

南無阿弥陀仏をとなうれば

この世の利益(りやく)きわもなし

流転輪廻のつみきえて

定業中夭(じょうごうちゅうよう)のぞこりぬ」 

              (現世利益和讃)

信心獲得して、他力の念仏称えれば、

この世の幸福は限りなく、当然受けねばならぬ業報も、

若死にをすることもなく、天寿を全うすることができるのだ、

と言われています。

そういえば、真宗の善知識方は、

皆ずば抜けてご長命ではありませんか。

親鸞聖人は90歳、蓮如上人は85歳、覚如上人は82歳の

天寿を全うされているのも、うなずけるでしょう。

 

■現世十種の益


数限りない利益を親鸞聖人は、『教行信証』に十にまとめて、

現世十種の益」で教えられています。

 

(1)冥衆護持の益

もろもろの菩薩や諸神(冥衆)が、

夜昼常に守護してくださる。

(2)至徳具足の益

大宇宙最高の功徳(至徳)である南無阿弥陀仏

と私が一体となる。

(3)転悪成善の益

苦しみが転じて楽しみとなる。

(4)諸仏護念の益

十方の諸仏方が百重千重に囲んで

護ってくださる。

(5)諸仏称賛の益

十方の諸仏方が、「妙好人だ、希有人だ」

と褒めたたえてくださる。

(6)心光常護の益

阿弥陀仏が、常に護ってくださる。心光とは

阿弥陀仏の光明、念力。

(7)心多歓喜の益

心に喜びがあふれる。

(8)知恩報徳の益

仏智のはたらきで、阿弥陀仏や善知識のご恩が

知らされ、報いずにおれない。

(9)常光大悲の益

大悲とは、阿弥陀如来の大慈悲心のこと。

弥陀の本願を伝えずにおれなくなる。

(10)入正定聚の益

正定聚の位に入る(正定聚とは、間違いなく

仏になることに定まった人々ということで、

いつ死んでも極楽往生間違いない身になる)。

 

信心の花が開くと、このような限りない

幸福の実が得られるのです。

          (一花多果の徳

 

親鸞聖人の

   たくましさの源泉

      ⑤中虚外直の徳

 

最後は茎の特徴です。

蓮の茎は、中に小さな穴がたくさん空いています(中虚)。

一見、弱々しい感じがしますが、大変強く、

真っ直ぐに花を支えているのです(外直)。

 

「他力の信心」などと聞きますから、「仏法を聞くのは、

弱い人間ではないか」と思う人がありますが、

阿弥陀如来に救い摂られ、絶対の幸福になった人は、

いざ鎌倉と言う時には不思議な力を発揮するものだから、

本当に強いたくましい人間だと、

お釈迦さまはおっしゃっています。

それに対して、金や財産や名誉や権力を持っている者は、

一見強そうに見えるが本当は弱いものだといわれるのです。

日本を一握りにした太閤秀吉も、臨終には天下人の面影もなく、

「露とおち露と消えにしわが身かな 

難波のことも夢のまた夢」と、

寂しく息を引き取りました。

過去にも、幾多の英雄、名士が大事業を成し遂げましたが、

しかし彼らは、後世に一体何を残したのか。

大観すれば、それはただ、ひとときの夢のようなもの

ではなかったでしょうか。

財産は、地変に遭えばつぶれます。

建物は、災禍に遭えば灰になります。

名誉や地位のはくは、死の前には執着を増すばかりです。

永劫生き抜く他力金剛心の信心を獲なければ、

すべてが一朝の夢にしかすぎないのだと知らされます。

あの親鸞聖人のたくましさ、蓮如上人の大活躍も、

その源泉は、弥陀より賜った他力の大信心にあったと知れば、

うなずけるではありませんか。   (中虚外直の徳

 

現在ただいま、蓮のような正しい信心を獲得している人だけが、

一息切れると同時に、極楽浄土の蓮の台(うてな)に

生まれさせていただけますから、親鸞聖人は、

信心獲得を急げと叫び続けられていかれたのです。

親鸞聖人の教えを真剣に聞き求め、一日も早く、

他力信心の大輪の花を、心の中に咲かせましょう。

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施しは生きる力の元と知れ [因果の道理]

    施しは

     生きる力の

       元と知れ

 

         布施のこころ

 

経済大国日本で、心の貧しさを象徴する事件が

日々報道されています。

警察白書によると、刑法犯は過去10年間で100万件増加し、

戦後最悪の記録を更新中。

とりわけ路上強盗やひったくりは10年前の4~5倍に上っています。

(2004年2月のとどろきです)

その要因として、多くの識者は〝他人を思いやる心、

我慢する心を持ち合わせない青少年の増加〟を挙げ、

自己中心的な人が増えていることを警告しています。

 

2600年前、布施の大切さを説かれた釈尊。

自分の損得ばかりを考えている我利我利亡者は、

決して恵まれませんよ。

他人を喜ばせよう、幸せにしようとする利他の心を持ちなさい、

と仏教では教えられます。

 

物は豊かになりましたが、目に見えないところで、

大切な何かが、急速に失われつつあるのではないでしょうか。

いつの時代も、だれにとっても大切な「布施のこころ」を

学びましょう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●仏教を一貫する廃悪修善の勧め

 

昔、中国に、いつも樹上で、座禅瞑想していた

鳥窠(ちょうか)という僧がいた。

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ある日、儒者で有名な白楽天が、その樹下を通って、

ひとつひやかしてやろうと思った。

「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって座っていては、

危ないではないか」

鳥窠は、

「そういう貴殿こそ、危ないぞ」

と切り返す。

この坊主、相当偉いのかもしれぬ、と見て取った白楽天は、

「私は名もなき白楽天という儒者だが、

貴僧の名を承りたい」

と尋ねると、

「私は鳥窠という名もなき坊主だ」。

これが有名な鳥窠禅師と知った白楽天は、

かねてから仏教に関心を持っていたので、

「いい所で貴僧に会った。一体、仏教とは、

どんなことを教えているのか、一言でお聞きしたい」

と頭を下げた。

鳥窠は即座に、

もろもろの悪をなすことなかれ、

謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である

と答える。

白楽天、いささかあきれて、

そんなことくらいなら、三歳の子供でも知っている

と冷笑すると、鳥窠すかさず、

三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し

と大喝しています。

 

●仏教の根幹は因果の道理

 

仏教を一貫するものは、因果の道理です。

 

善因善果 

悪因悪果 

自因自果

 

因とは私たちの行為のこと。果は果報、

つまり、私たちの受ける幸福や不幸という運命です。

幸福という運命は、善い行いが生み出したものであり、

不幸や災難は、悪い行いが引き起こしたものなのです。

神というものがいて運命を造ったのでもなければ、

先祖のたたりで不幸になるのでもありません。

自分の運命のすべては、自分の行為が生み出したもの

であると教えられます。

これは三世十方を貫く真理です。

この真理に立って、廃悪修善を勧めているのが仏教です。

 

●あらゆる善を六つにまとめると

          六度万行

 

では、何をすればいいでしょうか、

という私たちの疑問に釈尊は、

たくさんの善を教え勧められています。

これが諸善万行です。

しかし、あれも善、これも善と並べられても、

私たちはどれから手をつけてよいか迷います。

ちょうど、服を買いに行っても、何百着も並んでいると、

目移りして選択できません。

そんな時、店員さんが気を利かせて、

数着候補並べてくれると選びやすいでしょう。

私たちが実行しやすいように釈尊が、

善を六つにまとめられたのが、

六度万行(六波羅密・ろっぱらみつ)です。

その六つを挙げ、現代語で表現すると次のようになります。

 

○布施・・・親切

○持戒・・・言行一致

○忍辱・・・忍耐

○精進・・・努力

○禅定・・・反省

○智慧・・・修養

 

この六つに数え切れぬほどの善がおさまっています。

しかも、どれか一つでも実行すれば、

六つ全部したと同じことになるのが六度万行の特色です。

中でも私たちがいちばんしやすいのは布施ですから釈尊は、

六度万行の最初に挙げられています。

 

●与えられるより、与える人が幸せの実を結ぶ

             財施

 

布施は、施すものによって、大きく財施と法施の2つに

分けられます。

財施とは、財を施す、つまりお金や物を人に上げることです。

名利のために千金を投げ出すは、髭をなでるより易く、

慈悲のために一銭を出すは、生爪はがるるよりも痛し

といわれるように、欲一杯の私たちが、命の次に大事にしている

金や財を人に上げるのはつらいことでしょう。

しかしそれを乗り越え、施すことが大きな善なのです。

因果の道理に狂いはありません。

まいたタネの結果は、その人自身に必ずもたらされます。

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●長者の万灯よりも貧者の一灯

       ーー大切なのは心

 

〝それは金や財に恵まれた人のことだろう〟

と思う人があるかもしれません。

しかし財施の功徳は決して、その量の多少で

決まるものではありません。

心こそ大切だと教えられます。

 

釈尊在世中、ナンダという貧女がいました。

街中の人が釈尊に灯を布施するのを見て、

自分も何とかしたいと、ある日、わずかな金を

恵まれたのを持って、油屋へ走った。

彼女の尊い布施の心に感激した油屋の主人は、

不足分を足して一灯分の油をくれました。

彼女は何とかそれで釈尊に一灯を布施することができ、

大変喜びました。

彼女の布施した一灯は、万灯の中に赤々と燃え、

明け方に万灯が皆消えたあとも、

ナンダの布施した一灯だけは、

なぜか消えません。

当番であった目蓮尊者は、どうしてもその火が消えないので、

不思議に思って釈尊に尋ねると、

「おまえの力では、とてもあの灯を消すことはできない。

四大海水を注ごうとも燃え続けるだろう。

なぜならあれは、四大海水よりも、なお大きな広済の心から

布施された灯火であるからだ」

と仰っています。

金持ちが万の灯を布施することも尊いが、

貧しい人が心から布施する一つの灯は、

もっと尊いことなのだと教えられているのです。

ここから、

長者の万灯よりも貧者の一灯」といわれます。

布施はお金や物の多寡(たか)ではなく、

心こそ最も大切なのです。

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●3つのことを

  忘れるほど功徳は大きい

     ーー施す時の心掛け「三輪空」

 

また、布施の心掛けとして釈尊は、「三輪空」を

教えられています。

分かりやすく言いますと、

 

○私が(施者)

○だれだれに(受者)

○何々を(施物)

 

この3つを忘れるように努めなさい、ということです。

そうしないと、

〝私があんなに苦労したのに〟

〝あの人、いつになったら礼を言うのか〟

〝あんな高価な物を上げたのに〟

と、腹を立て、罪を造ることになります。

3つを忘れれば忘れるほど、布施の功徳は大きいのだよ、

と教えられているのです。

 

●施しは、田畑に

   タネをまくがごとし

     ーー布施の相手「三福田(さんふくでん)」

 

ただしここで注意しなければならないことは、

相手構わずだれにでも優しく親切にしたり、

施しをすればよいのではありません。

例えば、放蕩息子に金銭を与えれば、

ますます堕落していくだけでしょう。

泥棒の手助けをしてよいはずがありません。

釈尊は布施の相手を「三福田」と説かれています。

 

○敬田(きょうでん)・・敬うべき徳を備えられた方

○恩田(おんでん)・・ご恩を受けた方

○悲田(ひでん)・・気の毒な人

 

最も敬うべき、計り知れないご恩を受けている方は、

無上仏の阿弥陀如来です。

この世も未来も、私たちの魂を救い切ってくださる方は

ほかにありません。

次いで親鸞聖人や蓮如上人など、その弥陀の救いを

命懸けで伝えてくだされた善知識方です。

また、両親や学校の先生など、陰に陽にお世話になっている方々。

病人や怪我人、災害や貧困で苦しむ人など、

気の毒な方に布施することも、大いにしなさいよと、

釈尊は教えられています。

ここでなぜ、布施の相手を田んぼに例えられるのでしょうか。

それはちょうど、田畑がまいたタネを

何倍もの収穫にして返してくれるように、

三福田に布施をすれば、その福徳は布施した人のものになり、

やがて大きな幸せの実を結ぶからです。

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●麦こがしと多根樹のタネ

       ーー布施の功徳

 

仏典にこんな話があります。

 

ある時、柔和な釈尊のお姿に貧しい主婦が、

昼食のために用意していた一握りの「麦こがし」を

差し上げました。

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釈尊は弟子の阿難に向かって、

「この女は今行った善根によって、

やがてさとりを開くであろう」

と仰いました。

そばで聞いていた主人が腹を立て、

「そんな出任せを言って麦こがしを出させるな。

取るに足らぬ布施で、どうしてそんな果報が得られるか」

と食ってかかる。

静かに釈尊は、

「あなたは世の中で、これは珍しいというものを

見たことがあるか」

と聞かれると男は得意になって、

「あの多根樹ほど不思議なものはない。

一つの木陰に500両の馬車をつないでも、

まだ余裕があるからだ」

と言う。

「そんな大きな木だからタネは、挽き臼ぐらいはあるだろう。

それともかいば桶ぐらいかな」

「とんでもない。そんな大きなものではない。

ほんのケシ粒の四分の一ぐらいしかない」

と答える。

「そんな小さなタネから、そんな大きな木になるとは

だれ一人信じないね」

と仰ると、男はムキになり、

「だれ一人信じなくともおれは信じている」

と大声で反発する。

ここで釈尊は言葉を改められ、

どんな麦こがしの小さな善根でも、

やがて強縁に助けられてついにはさとりを

開くことがもできるのだ」。

当意即妙の説法に、夫婦は直ちに仏弟子となったといいます。

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●焼けもせず、流されも、盗まれもしない不滅の宝

               ーー法施

 

もう一つの法施について説明しましょう。

法施とは、法を施す、つまり仏法を人に教えてあげることです。

財施も尊い善ですが、

「財は一代の宝、法は末代の宝」

といわれ、法施は財施に勝る功徳があると、

釈尊は教えられています。

お金や財は、生きている間は相手を喜ばせるものですが、

死ぬ時には輝きを失ってしまいます。

ところが、仏法は未来永遠の幸福に導く教えですから、

焼けもせず、流されも、盗まれもしない、

不滅の宝を施すことになるのです。

それはたとえ、自分で仏法を話すことができなくても、

真実の仏法が説かれる場所に人を誘って、

聞かせてあげることも尊い法施です。

また財を、仏法を広めるために使えば、

法施と財施の両方をすることになります。

こんな素晴らしい教えを、

自分だけ聞いているのはもったいない。

ぜひ皆さんにも聞いてもらいたいと、わが家を開放して

講師を招きご法話を開いたり、

聞法道場を建立するために財施をする。

これは、財施と同時に法施もすることになりますから、

その功徳は大変なものです。

昔から、自分の家で法座を勤めると、

その家の屋根に留まった鳥から、

床下の虫まで尊い仏縁を結ぶといわれているほどです。

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●「その土地を欲しいだけ

      黄金で埋めなさい」

       祇園精舎建立のドラマ

 

お釈迦様と巡り会い感激した給孤独長者という

富豪がありました。

ぜひ自分の国にも仏法を広めたいと、

精舎(寺院)を建立し寄進するため、

土地を探しました。

国中を回り、理想的な樹林を発見しましたが、

そこは祇陀太子(ぎだたいし)の所有地でした。

そこで祇陀太子に土地を譲ってもらうために、

八方手を尽くして懇願しましたが、

どうしても太子は承知しません。

しかも、長者があまりに熱心なので、

太子は難題をふっかけ断念させようとしました。

それでは、その地を欲しいだけ黄金で埋めなさい。

その分の土地を、その金と引き換えに売ろう

ところが長者は逆に大喜び、早速、その土地に

金貨を敷き詰めていったのです。

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驚いたのは祇陀太子。

土地の半ばまで黄金色に染まった時、

長者よ、待ってくれ。あなたは、そこまでしてだれに、

この土地を寄進するつもりなのか」。

お釈迦さまが仏のさとりを開かれ、

万人の救われる教えを今、説いておられます。

私は、この国に仏法を伝えたい。金や財は一時の宝。

真実の法は永久に輝く不滅の宝です。悔いはありません

太子の心は大きく動きました。

ああ、あなたがそれほど尊敬される釈尊とは、

どれほど偉大な方なのでしょうか。

もう金貨はけっこうです。残りの土地はお譲りします。

私にも布施の善を求めさせていただきたい。

この樹林の立ち木を精舎建立の用材に寄進します

こうして落成した壮大な建物が、有名な祇園精舎です。

ここで『阿弥陀経』『玉耶経』はじめ、多くの経典が説かれ、

仏法興隆に大きな役割を果たしました。

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●さん然と輝く、

    親鸞聖人のご一生

 

仏法を広める功徳の広大さを知れば、法施に生きる人が、

恵まれ生かされるのもうなずけます。

 

「まことに一人なりとも信をとるべきならば

身を捨てよ、それはすたらぬ」

           (御一代記聞書)

蓮如上人は、たとえ一人でも、信心決定したいと

仏法を求める人あれば、己の生活など顧みず、

命を懸けて説法しなさい。

決して生活できぬことなどない、必ず生かされる、

と仰っています。

法を受け取った人がほっておかないからです。

何億円でも買えぬ尊い教えを聞かせていただいたと

分かれば、財施せずにおれません。

生活の心配は要らぬどころか、恵まれすぎるほど恵まれ、

無上の道を歩ませていただくことができるのです。

あのたくましき親鸞聖人や蓮如上人を見れば明らかでしょう。

法施一筋の人生は、さん然と輝いているではありませんか。

 

財施も法施もともに善。

因果の道理に狂いなし。

まいたタネの結果は、他人のものにはなりません。

すべて、実行した人のものです。

恵む人は恵まれる。

生かす人は生かされる。

慕われ、愛され、幸福な人生を歩むことができるのです。

 

「施しは

  生きる力の 

    元と知れ」


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