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湘南海岸の御勧堂(おすすめどう) [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)                   

            親鸞聖人の旅

湘南海岸の御勧堂(おすすめどう)

 

関東ご布教の最南端はどこか。

神奈川県の相模湾に面した国府津(こうず)に、

親鸞聖人が説法されたご旧跡「御勧堂」がある。

56歳のころから、しばしば教化の御足を延ばされたという。

この地で、仏縁を結んだ了源房は、

日本三大仇討ちとして有名な曽我兄弟の子供であった。

親鸞聖人のお手紙にも「平塚の入道」として登場する。

どんなドラマがあったのか。

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●聞法の勧め

 

海が美しい。湘南海岸を走るバイパスは眺めがいい。

パーキングエリアは若者であふれていた。

親鸞聖人は、稲田から徒歩で5、6日もかかる道のりを苦にされず、

この海岸へ布教に通われたのだ。

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近くの漁民を集めて説法された草庵は「御勧堂」と呼ばれている。

親鸞聖人が、いかに聞法を強く勧めておられたかを

表しているようだ。

聖人は、ご和讃に、

たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

とおっしゃっている。これは、

たとえ、大宇宙が火の海になっても、

その中をかき分けて聞こうという心で聞きなさい。

さすれば必ず、信心決定できて

永遠に絶対の幸福を獲られる

と教えられたものだ。

村人は、このお言葉に従い、どんなに忙しくても

お互いに参詣を勧め合っていたに違いない。

御勧堂は、どこにあるのか。

小田原から東へ5キロ、海岸に沿って車を走らせる。

地図ではJR国府津駅の近くなのに、

なかなか分からない。

やっと見つけた「御勧堂」の石碑は、駅前の魚屋の角にあった。

細い路地の突き当たりに、荒れ果てたブロック造りの小屋・・・。

「これが御勧堂?」

しかし、そばには確かに「親鸞聖人御草庵之旧跡」と

書かれているのだ。

この土地に、もはや聖人を慕う人はいないのだろうか。


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近くの人も、

「40年ほど前は立派なお堂だったんですがね」

と残念がっていた。

60歳過ぎ、親鸞聖人が関東へお帰りになるため、

この地を通られた。

すると大勢の人が集まり、あまりにも別れを惜しむので、

聖人はしばらく御勧堂に滞在され、最後の説法をされたという。


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●平塚入道の往生

 

国府津の御勧堂で、親鸞聖人のお弟子になった人の中に、

了源房」がいる。

『末灯鈔』の中にも「平塚の入道」として登場する人物である。

彼は、どのようにして真実に巡り遇ったのだろうか。

了源の祖父・河津祐泰は、領地争いで、工藤祐経(すけつね)に殺された。

この時、30歳の若さであったという。

妻は、2人の子供、十郎、五郎を連れて曽我祐信と再婚。

兄弟は仇討ち一つを目指して成長していった。

建久4年5月、源頼朝は富士の裾野で巻き狩り

(四方を取り巻いて獲物を追い込む狩り)を実施した。

工藤祐経も側近として同行している。

曽我兄弟は、好機到来と、28日の深夜、工藤の陣屋に斬り込み、

仇討ちを遂げた。

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「曽我の十郎、五郎、父の敵・工藤祐経を討ち取ったり。

この上は頼朝公に仇討ちに至る事情を訴えん」

と、一直線に頼朝の本営に向かった。

しかし、十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられ、翌日、

打ち首になった。十郎22歳、五郎20歳であった。

この仇討ちは、たぐいまれな義挙といわれ、

曽我兄弟は武士の鑑と、うたわれた。

「日本三大仇討ち」といえば、曽我兄弟の富士の夜襲、

赤穂浪士の吉良邸討ち入り、荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘、

と相場が決まっている。

さて、了源房の父は、討ち死にした曽我十郎である。

この時、いまだ母の胎内にあり、父の死後出生した。

成人して21歳の時、和田義盛の乱に軍功を立て、

将軍に仕官して、相模国平塚の郷を与えられた。

ここに晴れて家名を再興し、河津信之と名乗った。

しかし、一族の宿願を果たした了源の心は晴れなかった。

祖父は30歳で殺され、父は22歳で討ち死にした。

わが一族は皆非業の死を遂げている。

どんな悪業の報いなのか。たとえ今、自分が絶えた家を興し、

再び父祖の名をあらわしたとしても、結局、

この世のことは夢幻ではないか。

武門に身を置いてはかえって罪を重ね、

後生に大変な苦しみを受けることは明らかだ。

今こそ真実の幸福をえたい

了源房は、髪をおろして出家した。

ちょうどその時、国府津の御勧堂で親鸞聖人が

説法しておられるという話を聞き、急ぎ参詣した。

聖人は、了源に阿弥陀仏の本願を説かれ、

次のようにおっしゃった。

どんな人でも、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば、

過去世からの永い迷いを離れ、清浄安楽の仏土に往生できる。

そなたの親族がいかなる業報を受けていようと、

そなたが往生を遂げて仏となれば、思うままに教化を施し、

同じく浄土へ導くことができるだろう

了源は随喜の涙に暮れ、聖人のお弟子になった。

以来、自信教人信に努め、60歳で亡くなっている。


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●甲斐の閑善房(かんぜんぼう)

 

御勧堂で仏縁を結んだもう一人のお弟子を紹介しよう。

甲斐国(山梨県)に、小笠原長顕(ながあき)という武士がいた。

彼は、世の無常を強く感じ、真の知識を探し求めていた。

しかし、甲斐国に善知識はましまさず、

長顕はむなしく年月を送っていた。

ある時、親鸞聖人が相模国(神奈川県)国府津で、

阿弥陀仏の本願を説かれているという話が伝わってきた。

彼は直ちに故郷を振り捨て、聖人の元へ急いだ。

聖人は長顕の求道心の深さを感じられ、真実の信心を

懇ろに諭された。

長顕はその場で、聖人のお弟子となり、閑善房と名を改めた。

これより閑善房は聖人のおそばを離れず求道に励み、

ご帰洛の時もお供をしている。

東海諸国を経て尾張国に入られた時のことである。

親鸞聖人は大浦の真言宗の寺にしばらく滞在され、

地元の人々に説法された。(現在の岐阜県羽島市正木町大浦)

短期間であったが、非常に大きな反響があったことが

次の記述で分かる。

遠近の道俗市のごとく群集し、

隣里(りんり)の男女山のごとくに参詣し

各(おのおの)聞法随喜せずという事なし

            (二十四輩順拝図絵)

いよいよ、親鸞聖人が京都へ向け出発される時、

地元の人々は、聖人に願い出た。

「どうか、お弟子の方をお一人、

当地にお残し願えませんか。

続けて阿弥陀仏の本願を聞き求めたいのでございます」

この大役を聖人は、閑善房に命じられた。

彼はよく師の仰せと、羽島の人々の要望に応え、

聖人のみ教え徹底に生涯を懸けたという。

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関東の二十四輩・信願房へのお諭し [親鸞聖人の旅]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

                     親鸞聖人の旅

関東の二十四輩・信願房へのお諭し

 

親鸞聖人の熱烈な布教により、他宗の僧が、

寺ごと真宗に変わった例が多く見られる。

栃木県宇都宮市の観専寺もそうであり、

開基・信願房(しんがんぼう)は二十四輩の

一人になっている。

信願房への、聖人晩年のお諭しを通し、

真の報恩とは何かを考えてみよう。

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●天台宗から改宗

 

観専寺を開いた信願房は、元の名を稲木次郎義清といい、

常陸稲木の領主であった。

地位や財力に恵まれた生活を送っていた義清を

突然の不幸が襲った。

最愛の一子が病で亡くなったのである。

ああ、あまりにもむごい・・・。

あの子は、どこへ行ったのか・・・。

幼い子供にさえ死は容赦しない。

まして、自分が今日まで生きてこられたのが不思議だ

無常を強く感じた義清は、後生の一大事の解決目指して

出家し、宇都宮に寺を建てた。

天台宗の修行に励んだのである。

どれだけ精進しても心が晴れない義清を救ったのは、

親鸞聖人との出会いであった。

しかも、聖人のほうから飛び込んでこられた。

高田に新たな拠点を築かれ、

布教戦線を拡大しておられた聖人は、

観専寺で一夜の宿を請われたのである。

聖人は、住職を、夜を徹して顕正なされた。

比叡山での自らの体験を踏まえ、自力の修行では

決して救われないことを明らかにされたのである。

初めて真実の教えを知らされた義清は、

直ちに聖人のお弟子になり、「信願房」と生まれ変わった。


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観専寺では、翌日から、里人を集めて

親鸞聖人のご法話が開かれている。

後生の一大事は、阿弥陀仏の本願によらなければ

絶対に解決する道はありません。

阿弥陀仏は、どんな人をも、必ず助けると

誓っておられるのです

と静かに説かれるや、

「老若男女の念仏に帰すること、

草木の風になびく如く、たちまちに聖人の御名は

四方にひびきわたった」

と寺伝に記されている。


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●真の報恩

 

親鸞聖人が、京都へ帰られてから10数年後、

信願房は、師の聖人を慕って上洛している。

聖人のお住まいを訪ね、懐かしさとうれしさが

胸にあふれ、いつまでも帰国を忘れているかのようだった。

親鸞聖人は、信願房にこう諭されている。

仏恩、師の恩を報ずるということは、

自信教人信にしくものはない

「自信教人信」とは、善導大師のお言葉、

「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」

の一節である。

自分が信心決定することは大変難しいことだ。

人を信心決定まで導くことはさらに難しいことだ。

だからこそ、阿弥陀仏の本願を伝えることが、

いちばんの御恩報謝になるのだ

と教えられているのである。

(信心決定<しんじんけつじょう>とは、阿弥陀仏に救われること)

親鸞聖人も、広大無辺な絶対の幸福に

救ってくださった阿弥陀仏のご恩、

救われるまで導いてくださった善知識のご恩に

報いる道は、一人でも多くの人に阿弥陀仏の大悲を

伝える以外にない、と言い切っておられる。


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信願房は、直ちに関東へ帰り、親鸞聖人のみ教えの

徹底に生涯をかけた。

常陸、河内、三河に聞法道場を築き、今日に至るまで、

信願寺、勝福寺、弘誓寺、慈願寺などがその流れをくんでいる。

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●文章伝道のさきがけ

 

親鸞聖人が京都へ帰られたあと、

聖人と関東の門弟を結んでいたのが、書状であった。

関東から、信心や教学についての疑問が手紙で寄せられる。

親鸞聖人は、一つ一つ分かりやすく返事を書いておられる。

しかも、手紙の最後は、

「この文をもて人々にも見せ参らせさせ給うべく候」とか、

「かように申し候様を、人々にも申され候べし」

と書き添えておられる。

聖人からお手紙を頂いた関東のお弟子は、

親鸞聖人のじかのご説法として、

門徒に読み聞かせたに違いない。

現在、親鸞聖人の書状は46通知られているが、

そのうち、30通が、写本、版本である。

聖人の一通のお手紙が、次々に書き写され、印刷されて、

10万以上の人たちに伝わったのであろう。

お弟子が親鸞聖人のお手紙を携えて、

文字を読めない農民や漁民の元を訪れ、

繰り返し繰り返し読み聞かせている姿が

目に浮かぶようだ。

これはまさに、文章伝達のさきがけである。

この方法をさらに徹底されたのが、

蓮如上人の『御文章』といえる。

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