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善知識は何を教えられる方か

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)       

        善知識は何を教えられる方か

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

       (『恩徳讃』親鸞聖人

阿弥陀如来の洪恩は、

身を粉にしても報ぜずにはおれませぬ。

その弥陀の救いを伝えてくだされた師恩も

骨砕きても相済みませぬ

 

阿弥陀如来と善知識への感謝、讃嘆があふれ出る親鸞聖人の

「恩徳讃」。

一字一字に込められた御心は、時を超えて私たちの胸に

感動を与えます。

それは、聖人から届けられた、

何よりも大切なメッセージだからです。

「恩徳讃」に、「師主知識の恩徳」との言葉があります。

私たちも「師主知識」から骨を砕いても返せない

大恩を受けているのですが、「師主知識」とは、

どのような方なのか、私たちは、どんなご恩を受けているのか、

前回に続いてお話ししたいと思います。

 

●大恩ある「師主知識」とは、どのような方なのか

 

「師主知識」の「知識」とは、「仏教を伝える先生」のことです。

師主知識」を「善知識」「真の知識」ともいいます。

「善」は「悪」に対する言葉、「真」は「偽」に対して

使われる言葉ですから、「知識(仏教の先生)」にも、

善・悪、真・偽があるとお分かりになると思います。

無論、悪知識、偽の知識から話を聞いていても

幸せになれません。

善知識、真の知識から聞かせていただいてこそ、

歓喜無量の幸せになることが知らされるのです。

では、師主知識(善知識)とは、

どのようなことを教えられる方なのでしょうか。

親鸞聖人の教えを正確に、最も多くの人に伝えられた

室町時代の蓮如上人は、明確にこう教えられています。

 

善知識の能をいうは「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」

と人を勧むべきばかりなり   (御文章2帖目11通)

 

「一心一向に弥陀に帰命せよ」。

ひたすら、こう教え勧められる方が師主知識(善知識)である、

との教導です。

非常に簡潔な言葉ですが、この中に仏教の全てが

収まっていますので、どういうことなのか、

お話しいたしましょう。

まず、「一心」も「一向」も、「これ一つ」という

強い言葉です。

こう聞きますと、「偏るのはよくないのでは」

「みんな違って、みんないい」「多様性の時代には

合わないんじゃないの」という疑問が

わき上がってくるかもしれません。

では、「これ一つ」となるのは

本当によくないことなのでしょうか。

蓮如上人は、『御文章』に、こう記されています。

「一心一向というは、阿弥陀仏と他の仏を並べて

フラフラしないことである。

世間でも主人というのは一人ではないか。

『外典』でも、『忠義な家臣は2人の主君に仕えない。

貞淑な女性は2人の主人を持たない』と言われている」

 

一心一向というは、阿弥陀仏に於て、

二仏をならべざる意(こころ)なり。

この故に、人間に於ても、まず主をば一人ならでは

たのまぬ道理なり。されば外典の語(ことば)に云わく、

「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり

               (御文章2帖目9通)

 

この中に出てくる「忠臣は二君につかえず、

貞女は二夫をならべず」という言葉は、

中国の『史記』という歴史書にあります。

仏教以外の書ですから、外典と言われているのですが、

その『史記』に、次のような有名な話があります。

 

      ◇    ◇    ◇

 

昔、中国に斉(せい)という国があった。

その王様は、おごりに長じて酒色にふけり、

大事な政治を怠っている。

国を憂いた王蠋(おうしょく)という大臣が、

たびたび諫めるが、耳を傾けようとはしなかった。

王蠋は、身の不徳を嘆き、一切の職を辞し、

画邑(がゆう)という所へ隠居した。

斉の国は、王蠋によって保たれ、

どの国も手が出せなかったのだが、

王蠋なき今は恐るるに足らず。

今こそチャンスと、隣国の燕王(えんおう)が、

楽毅(がっき)という男を総大将として斉を攻めた。

斉国は、たちまち敗れ去る。

その時、燕の大将・楽毅は、かねてから賢徳と手腕を

高く評価していたので、燕の高官に迎えたいと

幾度も礼を厚くして勧誘した。

だが、王蠋は頑として応じない。

それでも楽毅は、幾度となく使者を送った。

そこで王蠋、一つの言葉をしたため楽毅の使者に渡し、

庭先の松にかけた縄で首をつってしまったのである。

遺された書には、こう記されてあった。

「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」

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      ◇    ◇    ◇

 

主君は一人と貫いた王蠋は、『史記』に記され、

今日でも称賛されています。

また、貞淑な女性は浮気はしないもの。

「あの人も私の夫、この人も私のもの、たくさんの男に

頼っていれば、困った時に誰かが助けてくれるだろう」

と不貞を働けば軽蔑されるだけでしょう。

「主君は一人」と忠義を貫いた「赤穂浪士(あこうろうし)」

の話にアメリカの大統領も感動したといわれます。

国を超えて、忠節はたたえられ、裏切り者は罵られるのです。

 

蓮如上人は、この『史記』の例を出されて、

この世の主従でさえ、忠臣は二君に仕えずと、

心の潔白を表している。

ましていわんや、未来永劫の浮沈を決する大事に

弥陀一仏と心定まらずしてどうするか

と諭されているのです。

では、「一心一向になれ」といわれる「弥陀」とは、

どのようなお方なのでしょうか。

 

●私を救い切ってくだされる唯一の仏さま

 

親鸞聖人はよく、「弥陀」「弥陀」と言われるのは、

「阿弥陀仏」という仏さまのことです。

「阿弥陀仏」は、「阿弥陀」というお名前の仏さまですが、

そもそも「仏」とは、どのような方なのか。

「仏」という言葉は子供でも知っていますが、

正しい意味を知る人はまれです。

世間では死んだ人のことを仏といわれています。

例えば、ある火葬場で、90歳の女性と70歳の男性の遺骨を

取り違えて遺族に渡した。

それを報道したアナウンサーが、

「これでは仏も浮かばれませんね」と言っていた。

また葬式に行きますと、「ここのおじいさんも、

とうとう仏になってしもうたか」とか、

「こんなキレイな死に顔の仏さま、見たことないわ」

とか聞こえてくる。

しかし、もし仏=死人のことだとしますと、

仏教は死んだ人が説いた教えになってしまいます。

死人に口無し。死んだ人が教えを説けるはずがありませんので、

死人を仏というのは大変な間違いでありことが分かります。

では、仏さまとはどんな方かというと、

最高のさとりを開かれた方をいうのです。

一口にさとりといっても、低いさとりから高いさとりまで、

52の位があり、これをさとりの52位といわれます。

ちょうど、相撲取りでも、下はフンドシ担ぎから

上は大関、横綱までいろいろありますように、

さとりにも、ピンからキリまで全部で52の位があり、

それぞれ名前がついております。

その52のさとりの、最高の位を仏覚というのです。

これ以上のさとりがありませんから、

無上覚ともいわれます。

この最高無上の、仏というさとりを開かれた方を

「仏」とか「仏さま」と言われるのです。

そして、この仏のさとりを目指している人を、

「菩薩」といいます。

51段までは皆、菩薩です。

 

では、さとりといっても、何をさとるのかというと、

大宇宙の真理です。

真理にも、数学的真理、科学的真理などありますが、

ここでいわれるのは、すべての人が本当の幸福になれる

真理のことです。

この仏覚を開かれた方だけを仏といわれるのであって、

死んだ人を仏というのは、大間違いです。

この地球上で仏のさとりを開かれた方はお釈迦さまだけですから、

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」

といわれます。そのお釈迦さまが、

「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」

と、私たちに教えてくだされたのが、

阿弥陀如来といわれる仏さまです。

弥陀如来と釈迦如来との関係について、

蓮如上人は『御文章』に次のように仰っています。

 

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、

その師匠の仏をたのまんにはいかでか弟子の諸仏のこれを

喜びたまわざるべきや   (御文章2帖目9通)

 

お釈迦さまは、地球上ではただ一人の仏さまですが、

大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、

無数の仏さまがましますと説かれています。

それらの仏を三世諸仏とか十方諸仏といわれているのです。

大日如来とか薬師如来、奈良の大仏のビルシャナ如来などが

よく知られていますが、それらの仏も皆、十方諸仏の一人です。

「本師・師匠」とは「先生」のことですから、

阿弥陀仏は、この大宇宙の仏方の師であり、

大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏のお弟子ということです。

地球のお釈迦さまも、十方諸仏の一人ですから、

弥陀如来と釈迦如来の関係は、師匠と弟子、

ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方は、

弥陀如来のことを

「偉大な仏さまだ、尊い仏さまだ、われらの先生だ」

と褒めたたえて、手を合わせ拝まれるのです。

親鸞聖人も晩年には、弥陀如来のことを無上仏と言われています。

無上仏と仰がずにおられなかったのでしょう。

 

では、阿弥陀仏は、なぜ「先生」と尊ばれるのか。

それは、阿弥陀仏にしかできないことがあるからです。

それは、私たちにとって一番大事な「生死の一大事」の解決です。

この生死の一大事とは、いかなる大事なのでしょうか。

 

●噴火山上の舞踏会

 

人生には思わぬ問題が噴出します。

ニュースを見ても、集中豪雨や竜巻、地震や噴火など、

突然の災害が各地で起きています。

NHKによりますと熊本にある阿蘇山では、

過去4回も大規模な噴火があったそうです。

放出したマグマは、富士山宝永噴火の千回分に

当たるといいます。

火砕流は九州のほぼ全域を襲い、一部は海を越え、

山口県にまで到達したことが分かっています。

火山灰は日本全土を覆い尽くし、なんと、

北海道でも10センチ以上に達したといわれますから驚きです。

本格的な大噴火が起こると、

周囲100~200キロメートルの範囲は火砕流で覆われます。

火砕流の速度は時速100キロメートルを超えるため、

その地域は数時間以内に数100度以上の高温の火砕流に襲われ、

壊滅状態となるのは避けられません。

しかも、この噴火は、いつ起こってもおかしくないと

専門家は指摘します。

もし、次の瞬間、噴火する山で遊んでいたら、

どうでしょう?

「今さえよければいい」「好きでやっているのだから満足だ」

などの言葉も、噴火と同時に吹き飛ばされてしまうでしょう。

ところが、これは、ある特定の場所だけの問題ではありません。

人生は噴火山上で舞踏会をしているようなものだ

と言った人がある。

実際に山が噴火しなくても、病気や事故、予想外の事件など、

一人一人に、必ず「死」という大噴火が起きるからです。

私たちが、日常、大切にしているものは、

全て「生」を土台としています。

家族も、会社も、お金も、財産も、皆、「命あっての物種」。

生きていることが大前提の幸福ばかりですが、

どう頑張っても150年も生きられる人はない。

それどころか、いつ死ぬかは全く不明。

早ければ今晩、いや、一息先さえ当てにならないのが

「命」というものです。

この「死」の問題を前に、どんな明かりがあるでしょうか?

何か準備ができているのでしょうか?

生の一息先が真っ暗がりですから、

これを生死の一大事というのです。

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この「生死の一大事」は、自分の力では

どうすることもできません。

諸仏も菩薩も諸神も、解決できない問題です。

解決できる力を持っておられる方は、大宇宙にただ一仏、

阿弥陀仏しかましまさないから、十方の諸仏方も、諸菩薩も、

諸神も、阿弥陀仏を本師師匠と仰ぎ、

ただ「阿弥陀仏一仏に向かいなさい」と、

私たちに教え勧められるのです。

 

一向専念無量寿仏(釈尊)

阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ

 

これが、仏教の結論です。

生死の一大事には、諸仏や菩薩の力も及ばないし、

自分の力も間に合わないから、弥陀に一向専念し、

助けてもらいなさいと聖人は教え続けていかれました。

それで、世間では、親鸞聖人の教えを「一向宗」とまで

いうようになったのです。

 

●弥陀をタノメ

 

「一心一向に弥陀に帰命せよ」ということを、

蓮如上人は『御文章』の至るところに、

「弥陀をタノメ」とか「弥陀をタノム」と仰っています。

ところがそう聞くと、

「やはり私たちは、阿弥陀仏に『助けてください』と

お願いしなければならないのでしょうか」

と尋ねる人がありますので、最後に「弥陀をタノム」と

いうことについて、お話をしましょう。

これは大変重要な、しかも誤解されている言葉です。

ほとんどの人は、頭を下げて他人にお金を借りる時のように、

「阿弥陀さま、どうか助けてください」と、

お願いすることだと思っています。

『領解文』に、

「『われらが今度の一大事の後生御たすけ候え』

とたのみ申して候」

とあるのを読めば、現代人なら、必ず、

そのように理解し解釈するでしょう。

しかし、蓮如上人の教えられる「弥陀をタノメ」は、

全く意味が異なります。

古来、「タノム」という言葉に、

「お願いする」という祈願請求の意味は全くなかったのです。

今日のような意味で、当時この言葉を使っている書物は

見当たりません。

それが、「お願いする」という意味に使われるようになったのは、

後世のことなのです。

「タノム」の本来の意味は、「あてにする、たのみにする、

力にする」ということです。

一例を『御文章』の一節で挙げましょう。

 

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ

              (御文章1帖目11通)

 

ここで「かねてから妻子や財宝を、あて力にしていた」ことを

「かねて、たのみおきつる」と言われています。

蓮如上人「タノム」の意味は、あてにする、たのみにする、

力にする、という意味なのです。

もし、蓮如上人が「阿弥陀仏にお願いせよ」と仰ったのなら、

「弥陀にタノメ」と書かれたはず。

とこが、そのような『御文章』は一通もありません。

常に「弥陀をタノメ」とか「弥陀をタノム」と、

「弥陀を」と仰って、「弥陀に」とは言われていません。

これらでも明らかなように、

「弥陀をタノメ」「弥陀をタノム」は、

祈願請求も意味ではないのです。

「阿弥陀仏に帰命した」とは、阿弥陀仏が「あてたより」

になったことです。

弥陀をたのむ一念に、生死の一大事が解決できて、

往生一定の身になるのです。

 

この如来(阿弥陀如来)を一筋にたのみたてまつらずば、

末代の凡夫、極楽に往生する道、

二つも三つもあるべからざるものなり

              (御文章2帖目8通)

 

だからこそ善知識は、

「一心一向に弥陀に帰命せよ」。

このこと一つを教示されるのです。

「私の生死の一大事、助けたもう方は

阿弥陀仏しかましまさなかった」と、

一切の自力が廃って一心一向に弥陀に帰命するまで、

師主知識(善知識)から真実の仏教を

真剣に聞かせていただきましょう。

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