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『正信偈』講話⑥ [正信偈]

参考に以下の動画を見られると真実の仏教がどういうことを教えられているのか
よくわかります。
岡安講師の他の動画も観られると本当にその通りだなと
感動せずにはおれないと思います。



(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講話から続きを載せたいと思います。)

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印度西天之論家 印度西天の論家

中夏日域之高僧 中夏・日域の高僧

顕大聖興世正意 大聖興世の正意を顕し、

明如来本誓応機 如来の本誓、機に応ずることを明す。

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親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』のお話をいたします。

その前に、上記の文に至るまでのおおまかな内容を述べましょう。

 

●あふれる喜びの表明

 

冒頭で親鸞聖人は、

帰命無量寿如来

 南無不可思議光

と仰っています。

「親鸞は無量寿如来に帰命いたしました。

不可思議光に南無いたしました」

ということで、無上仏の阿弥陀仏に助けられた、救われた、

とあふれる喜びを告白されたお言葉です。

この二行から、阿弥陀仏の救いはハッキリすることがわかります。

また同じ意味のことを二回繰り返しておられるのは、

喜びの限りないことを表しています。

 

●釈尊、七高僧の

    ご教導あったればこそ

 

この身に救われたのは、まったく阿弥陀仏の本願の

おかげであったと、無上仏を称讃され、

本願を教えてくだされた釈尊のご恩を、

次に聖人は讃えておられます。

それが、

如来所以興出世

 唯説弥陀本願海

です。

釈尊こそ善知識の元祖。

そして、釈尊の教えを間違いなく教えてくださる方をも

善知識といい、親鸞聖人は七人選ばれました。

七高僧といいます。

インドでは龍樹・天親の二菩薩、

中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、

日本では源信僧都・源空上人、これらの方々を、

印度西天の論家、中夏日域の高僧と仰ったのです。

いずれも、釈尊の教えの通り、阿弥陀仏の本願を

教えられた大変すぐれた方たちです。

親鸞聖人は、これらの七高僧のご教導あったなればこそ、

とよろこばれたのです。

 

●『大経』か『法華経』か

   法で互角、機で『大経』

 

では、七高僧は何を顕らかにされたか。

大聖興世の正意。

大聖とは釈尊のことですから

釈尊がこの世にお生まれになった目的です。

釈尊の本心を知り、それを顕らかにすることが、

善知識の条件なのです。

七高僧は、釈尊の正意を、

如来の本誓、機に応ずること

と明かされました。

如来の本誓とは阿弥陀仏の本願、応機とは、

すべての人々を救うということです。

釈尊の本心が説かれているお経を出世本懐経といいますが、

それについて古来、二通りの意見があります。

一つは『法華経』、一つは『大無量寿経』。

日蓮系の者は『法華経』だといい、

浄土系の人は『大無量寿経』だと主張します。

今でも議論がありますが、徳川時代にはよくこれに関しての

法論がなされました。

その結果『法華経』が勝ったためしがありません。

法、つまり教えそのものの深さでは互角。

共に深法といわれます。

一切経の中でも、深法とあるのはこの二つだけでしょう。

しかし、その法を聞いて救われるのは誰か、

という機の問題になりますと、『法華経』は、

声聞、縁覚、菩薩に限られます。

『大無量寿経』には、すべての人々が救われると

書かれてありますから、この点で『大経』がすぐれているのです。

七高僧は、それを知っておられ、

「阿弥陀仏の本願のみがどんな人でも救うことができる」

と明らかに教えられたのです。

 

●『歎異抄』第二章の真意

 

さて、『正信偈』のこの部分を拝読する時に

いつも思い出すのは、『歎異抄』第二章の次のお言葉です。

弥陀の本願まことにおわしまさば、

釈尊の説教虚言なるべからず。

仏説まことにおわしまさば、

善導の御釈虚言したまうべからず。

善導の御釈まことならば、

法然の仰(おおせ)そらごとならんや。

法然の仰(おおせ)まことならば、

親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候か

「阿弥陀仏の本願がまことだから、

それひとつ教えられた釈尊の教えはウソ偽りではない。

仏説がまことだから、釈尊の教え通りに説かれた善導大師の

御釈はウソではないんだ。

善導大師の教えがまことだから、

法然上人の仰せにまちがいがあるはずがない。

法然上人の仰せがまことだから、この親鸞が言うこともまた、

ウソであるはずがないではないか」

これは、関東からはるばる京都の親鸞聖人を訪ねてきた

同行たちに仰ったお言葉です。

親鸞聖人は関東で長い間ご布教されたあと、

還暦過ぎて京都へ帰られました。

ところが、その後関東に日蓮というキチガイ坊主が現れ、

ウチワ太鼓を叩きながら、

念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊

とふれ回った。

念仏称えておる者は無間地獄に堕ちるぞ、

と叫んで歩いたのです。

それがあまりに狂信的であったため、

はじめは相手にしていなかった関東の同行たちの

信仰も動揺してきた。

もし日蓮の言うことが本当なら大変だ。

これは京都の親鸞聖人にジカに問い質そうと決意し、

大変なお金と時間をかけて、京都へ行ったのです。

道中、山賊もおれば、盗賊もいる。

今では想像もつかない危険が待ち受けている。

まさに命がけで、関東の同行は聖人のもとへ行ったのです。

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それに対して、聖人が仰ったのが、『歎異抄』第二章。

親鸞聖人はまず、「弥陀の本願まこと」と仰いました。

これが聖人の信仰の出発点であり、大前提なのです。

だからこそ、釈尊も善導大師も法然上人も、

そしてこの親鸞の言うことも正しいのだ、

という論法です。

信心決定した人にとって、唯一まちがいないのは

弥陀の本願のみだからです。

しかし、信前の関東の同行にとっては、

最もまちがいないのが親鸞聖人、

一番信じられないのが弥陀の本願、まるっきり反対です。

信前は、本願ではなく人を信じているのです。

だから、その人にもしまちがいがあれば、

信仰が全部くずれてしまいます。

砂上の楼閣にすぎません。

信後の心は、絶対にまちがいない弥陀の本願の上に

立っていますから、くずれることはありません。

たとえ、釈尊の一切経、七高僧の教えがまちがいであると

分かっても信仰は少しも動じないのです。

このように、信前と信後の決定的な信仰の違いを、

このお言葉は表しています。

『歎異抄』のこのお言葉と合わせて考えると、

『正信偈』の四行の意味がより深く理解されると思われますので、

紹介しました。

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天親菩薩論註解 天親菩薩の論を註解して、

報土因果顕誓願 「報土の因果は誓願なり」と顕したまう。

往還廻向由他力 「往還の回向は他力に由る、

正定之因唯信心 正定之因は唯信心なり」といえり。

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曇鸞大師が、天親菩薩の『浄土論』を解釈なされたものが

『浄土論註』である。

『浄土論註』の大意を、親鸞聖人は次のように

顕らかにしておられる。

報土の因果は誓願なり、と顕したまう。

往還の回向は他力に由(よ)る、

正定の因はただ信心なり

報土とは、阿弥陀仏の願と行に報いて完成された世界、

阿弥陀仏の極楽浄土である。

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「極楽浄土が成就した原因と結果は、

阿弥陀仏の本願による」ことを明らかにされている。

医学が進歩して寿命は延びたが、死からは逃れられない。

お金も財産も、地位、名誉、すべてが最期、

自分から離れていってしまう。

金ができて何でも食べられると思ったら

糖尿病で食べられない。

好き放題できるころは身体が動かない。

タンスに着物いっぱいしまいながら中風で着られない。

人生、積み上げる後から鬼が崩してゆく賽の河原と同じ。

家を建て、子供を育て、財を築きながら、

死に直面して、根底からひっくり返り、泣き出す。

すべてが無常と知らされて、はじめて常住の世界を求める。

全人類は幸福を願いながら、永遠に変わらない世界のあることも、

ゆく方法も知らない。

「浄土は厳然としてある」

と、曇鸞大師は明らかにしてくださった。

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この世のことも、ろうそくからランプ、電気、蛍光灯、

ラジオから白黒テレビ、カラーテレビと願いによって

作り出されている。

我々の究極の願いは、無常から常住、不浄から清らかな世界、

不安から安心の世界以外にない。

究極の願いをかなえてくださる阿弥陀仏の誓いは、

凡夫の知恵では分からない。

 

●自力回向と他力回向

 

仏智を体得された天親菩薩が『浄土論』に、

曇鸞大師は『浄土論註』に明らかにされていると、

親鸞聖人がご教示になっている。

仏智によって知らされるのが、

往還の回向は他力に由る、正定の因は唯信心なり」である。

往還の回向とは、往相回向と還相回向のこと。

往生浄土の相状を略して往相、還来穢国の相状を略して

還相という。

回向とは、差し向ける、与えるという意味。

自力回向と他力回向の二通りがある。

元旦に神社に出かけ、柏手打って賽銭をあげる。

知人の訃報を知り、冥福を祈って線香、灯明を差し向ける。

肉親が死ぬと読経や盛大な葬式をする。

その善根功徳を神仏、亡者に差し向けて助けようとしている。

自力回向である。

他力回向。他力とは阿弥陀仏のお力のみ。

阿弥陀仏から私たちに与えてくだされるのを他力回向という。

自力回向と他力回向は差し向ける方向が正反対だ。

親鸞聖人が回向と仰るのは他力回向に限る。

「往相も還相も、阿弥陀仏のお力による」

と、曇鸞大師が教えていられるからだ。

我々に差し向けるものがあるなどと思うは、

我が身知らずもはなはなだしい。

罪悪の塊が何を差し向けるのか。

自力回向の言葉はあっても、使う余地なし。

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

煩悩具足とハッキリ知らされているからである。

一息一息、死に近づいているのは万人同じだが、

信心決定していない人はそのまま地獄への行進だ。

信心決定の人は阿弥陀仏のお力によって、

極楽浄土へ運ばれているのが往相廻向。

泳げる人にも泳げない人にも、波は同じように来ているが、

泳げない人は波で苦しみ、泳げる人は波を楽しむ。

大変な違いがある。

信前・信後、人生の荒波は変わらないが、

救われた人は苦悩の波が喜びと転じる。

極楽に往生すれば、衆生済度にこの世に戻って

大活躍せずにおれなくなる。

これを還相廻向という。

親鸞聖人が、

片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

と、仰っているのが還相廻向。

往相廻向、還相廻向ともに他力、すなわち阿弥陀仏のお力による。

『教行信証』には、往相を自利、還相を他利と教えられている。

往相廻向は、我が身が苦悩の世界を離れ、

極楽浄土に生まれるのだから自利。

還相廻向は、苦悩の衆生を済度する活動だから、利他である。

 

●大悲の活動

 

小慈小悲もない人間でさえ、苦しんでいる人を見ては

安穏としておれない。

まして仏の慈悲は、一人残らず平等に広い世界に出ない限り、

満足できない。

大悲の活動はここから起きてくる。

小慈小悲もなき身にて

 有情利益はおもうまじ

 如来の願船いまさずは

 苦海をいかでか渡るべき

親鸞聖人のご和讃である。

「親鸞には小さな慈悲のカケラもない、

みんなを信心決定まで導こうの心もない」

と仰っている。

ギリギリ一杯、人間の実相である。

「みなみな信心決定あれかし」

と思い続けられ、強欲な日野左衛門、

仇の弁円まで済度されたのも事実である。

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信心決定された29歳から、お亡くなりになるまでの親鸞聖人は、

大慈悲一杯のお方と思われている。

それはしかし、親鸞聖人のみ心ではない。

なぜか。

それは、如来の願船、他力回向の大慈悲心以外にない。

「日野左衛門や弁円を済度したのは、親鸞ではない。

阿弥陀仏の活動だ」

と仰っているからだ。

我が歳きわまりて、安養浄土(極楽浄土)に還帰すというとも

和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。

一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、

その一人は親鸞なり

と、『御臨末の御書』にある。

「いま親鸞は極楽浄土に還る。

しかし波のようにすぐ帰ってくる。

一人いても一人と思うな、二人いても二人と思うな、

必ずそばに、親鸞がいる」

聖人っは限りない衆生済度を約束しておられる。

そんな広大な阿弥陀仏の救いにどうしたらあえるのか。

「正定の因は唯信心なり」

信心一つで助かるのだ、とハッキリ教えていられる。

正定とは、正定聚、絶対の幸福である。

平生に阿弥陀仏のご念力で絶対の幸福になり、

生死の苦海が光明の広海に転じた人でなければ、

阿弥陀仏の浄土へ往くこと(報土浄土)も、

弥陀同体の仏にもなれない。

弥陀同体の無量寿・無量光の仏になると、

自由自在に衆生済度の活動ができる。

仏法は聴聞に極まる

ハッキリ救われるところまで聞き抜かなければならない。

浄土真宗は平生業成、現生不退、報土往生、弥陀同体と

現当二益の大幸福をうる無二の妙法である。


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