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『正信偈』講話③ [正信偈]

以下の動画を見られると真実の仏教がどういうことを教えられているのか

よくわかります。

菊谷講師の他の動画も観られると本当にその通りだなと

感動せずにはおれないと思います。


【仏教の原点】人は死んだらどこへ行くのか



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)


摂取心光常照護 摂取の心光は常に照護したまう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これはおなじみの『正信偈』の一節である。

「摂取の心光は常に照護したまう」

と読むのだが、親鸞聖人が、すべての人間が阿弥陀仏に救われたら

どうなるのかを教えられたものである。

まず「摂取の心光」の心光とは阿弥陀仏の光明のことである。

光明とは仏の力、仏の念力を表す。

念力とは念ずる力のことであるが、

念力とは物を動かしたり、人を動かしたりする。

私たち人間にもある。

かつてテレビで日本中の話題をさらった番組に、

ユリ・ゲラーの「念力によるスプーン曲げ」があった。

あの不思議な超能力も実はこの念力の応用である。

今日、念力とは光と同じ作用をすることが

念写の実験により証明されている。

念写とは、念じたことが写真のフィルムに写る

現象のことであるが、これによって、釈尊が念力を

光明と言われた達見に驚かざるを得ない。

大願業力といわれる弥陀の光明とは、

一念で私たちを絶対の幸福に救い摂られる

素晴らしい念力なのである。

 

●遍照と摂取

 

この弥陀の光明を大別すると、遍照の光明と摂取の光明の

2つに分かれ、それぞれ働きが異なる。

遍照の光明とは、すべての人間を遍く照らし、

真実の仏法を聞かせようとしてくださっている

阿弥陀仏のご念力のことである。

邪教に迷っている人も、重罪で獄中にある人も、

例外ではない。

また、人間界ばかりでなく、地獄・餓鬼・畜生界、

それに修羅・天上界、六道輪廻のあらゆる衆生も照らして、

何とか人間界に押し出そうとしてくださっている。

この遍照の光明の縁に遇わぬ者は一人もいない。

このことから、

「私たちは弥陀の光明に包まれているのだから、

すでに助かっているのだ」

という者がいるが、これは誤りである。

遍照の光明は別名、調熟の光明ともいい、

私たちが信心決定するまで、心を調え、

宿善を熟してくださる光明であるから、

この遍照の光明に押し出されて仏法を求め、

次の摂取の光明に出遇った時、

信心決定、と助けていただくのである。

遍照の光明では助からず、摂取の光明を体験して

初めて救われるのである。

これを摂取の心光ともいう。

蓮如上人は、『御文章』に、

「この摂取の光明に遇いたてまつる時剋をさして、

信心の定まるとは申すなり」

           (三帖目一通)

とか、

「そのたのむ衆生を、光明を放ちて、

その光の中に摂め入れ置きたまうなり」

           (三帖目四通)

とか、

「即ち是れ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明の中に摂取して」

           (四帖目六通)

と説いておられる。

摂取とは摂取不捨ということ、摂め取って捨てたまわず、

の意である。

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●摂め取って捨てたまわぬ

       大慈悲心

 

例えば、ある親子が寝ていたところ、川が氾濫して、

洪水が押し寄せてきた。

電気は消え、親子ともども水に流されようとした。

その時、暗闇で父が、

「おい、しっかりワシの帯につかまっていろよ、

岸まで泳ぐからな」

と、子供に帯をつかまらせて泳いで岸についた。

ところが、子供は途中で、力尽きて手を離して死んでしまった。

この場合、子供は自ら力を出して帯にすがらねばならないから、

摂取不捨にならない。

子供をしっかり抱きかかえ、離れようとしても離さず、

何の力もいらない状態で岸まで連れてゆく。

「常に照護したまう」とは、常に人生という生死の苦海を、

阿弥陀仏に摂取不捨と抱きかかえられて

照らし護られているという、大安心・大満足の自覚があるぞ、

と親鸞聖人が叫ばれたお言葉である。

私たちは、この摂取の光明のご縁に遇うまで、

聞法精進しなければならないのである。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

摂取心光常照護 摂取の心光は常に照護したまう、

已能雖破無明闇 已に能く無明の闇を破すと雖も、

貪愛瞋憎之雲霧 貪愛・瞋憎の雲霧、

常覆真実信心天 常に真実信心の天を覆えり、

譬如日光覆雲霧 譬えば日光の雲霧に覆わるれども、

雲霧之下明無闇 雲霧の下明らかにして闇無きが如し

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

●人生の目的は破闇明闇

 

「摂取の心光は常に照護したまう」

とは、無上仏のすごいお力によって親鸞は

絶対の幸福にさせていただいた、

誰でも同じようになれるんだ、

と教えられたお言葉です。

「已に能く無明の闇を破すと雖も」

の「已に」とは、過去のこと。

「無明の闇」とは、苦悩の根源です。

苦しみの原因がわからないと、

取り除いて幸福になることはできません。

なぜ苦しいのか。

金がないからだ、こんな人と結婚したからだ、

こんな子供を持ったからだ、といろいろ思いますが、

これらは根源ではない。

枝葉です。根源はたった一つ。

それを「無明」とつきとめられたのが、

釈尊の偉大な功績なのです。

無明とは、光がない、明かりがない、闇の心です。

どれだけ科学が進歩し便利になり、物が豊かになっても

幸せにはなれない。

科学も医学も、相対的な幸せしか与えてくれません。

我々の求める絶対の幸福は、

無明の闇を破らない限りなれないのです。

だから、全人類の目的は、無明の闇を破ることにあります。

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●無明の知らされ方

 

ところがほとんどの人は、無明をもっていることに

気づいていません。

ではどうすれば、無明が知らされるか。

親鸞聖人の教えを真剣に聴聞し、教えの通り実行してゆくと、

知らされてきます。

何をしても空しい、満足できない。

バク然とした不安が襲ってくる。

物質的には何の不満もないのに、

どうして心にポッカリ穴があいたように空しいのか。

このまま一生終わっていいんだろうか。

芥川龍之介が「ぼんやりした不安」と言って

自殺した心に通ずるものです。

親鸞聖人のみ教えをまじめに求めてゆきますと、

無明の心がさまざまに感じられてきます。

聞いても聞いてもわからない。

だからといって放っておけない。

念仏称えても味がない。

称えないと不安で、称えずにおれない。

ある時はこれでいいと安心するけれど、

またある時はこんなことではなあ、と不安になる。

若存若亡と曇鸞大師が仰った。

これが無明の闇です。

おかる同行は、

「夜明けに向こうたようでもない。

真っ暗がりのようでもない」

と言っております。

もう一歩突っ込むと、文字通り闇の心と知らされます。

後生とふみ出して、ハッキリしない心は、みな無明です。

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●学問ではわからぬ心

 

無明の闇は、学問だけではわかりません。

実地に真実の教えを求めてゆかないとわからないのです。

その無明の闇が破れたらハッキリします。

その体験を、信心決定、絶対の幸福、無碍の一道というのです。

曇鸞大師は破闇満願と教え、無明の闇が破れ、

人生究極の願いが満足させられる。

略して破満ともいいます。

「摂取心光常照護」と「破闇明闇」は同じことです。

 

●変わる心と変わらぬ心

 

「已に能く無明の闇を破すと雖も」

というのは、信心決定してもということ。

信心決定しても、変わるところと変わらんところがある。

どこが変わり、どこが変わらないのか。

「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり」

貪は貪欲、愛は愛欲、瞋は怒り、憎はニクシミ、

これらをみな煩悩といいます。

人間は煩悩のかたまり。

煩悩具足の凡夫とか、煩悩成就の凡夫、

『歎異抄』には煩悩熾盛の衆生とあります。

煩悩を油にたとえると、油のかたまりに火がついて、

燃えさかっておるのが、人間です。

親鸞聖人はこれらの煩悩を雲や霧にたとえられ、

常に覆いかぶさっていると仰るのです。

無碍の一道へ出ても、常に煩悩は変わらないのです。

 

●はかり難い絶対の境地

 

無上仏に救われたと聞くと、欲は少なくなり、

腹も立たんようになる、憎しみの心もなくなるのだろうな、

とみんな思っています。

しかし親鸞聖人は、「それはまちがいだ」と教えられています。

では、煩悩がなくならないままで、

どうして絶対の幸福になれるのだろうか、

という疑問がおこります。

そんなことがあり得るとは思えません。

しかし、信心決定したら、その通りだったなあと

ハッキリ知らされます。

『教行信証』の中に親鸞聖人は生々しくそれを書いておられます。

三かな文といわれて有名です。

「爰に愚禿釈の親鸞、慶ばしき哉や、

西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に遇い難くして

今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」

                (教行信証総序)

「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、

真証の証に近づくことを快まず。恥ずべし、傷むべし」

                (教行信証信巻)

「慶ばしき哉。心を弘誓之仏地に樹て、

念を難思之法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、

良に師教の恩厚を仰ぐ。

慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」

             (教行信証後序)

 

●真実開顕のご辛苦

 

『教行信証』は、親鸞聖人が90年の心血を注いで書かれた、

浄土真宗の根本聖典です。

「慶ばしき哉」と「悲しき哉」では、まるっきり反対。

どっちが本当なのか。

どちらも事実なのです。

悲しい親鸞と、慶ばしい親鸞とは、同時にあるんです。

同時に書けませんが、本当は、前後がないんです。

この真実をいかに伝えるか。

ここに、親鸞聖人の辛苦があるのです。

親鸞聖人は、「慶ばしき哉」の中に「悲しき哉」を

はさんでおられます。

人間の考えでは、時間によって変わられたように思うでしょうが、

同時なのです。

これが、絶対の境地であり、無碍の一道なのです。

『正信偈』に三かな文をあてはめると、

「摂取心光常照護」は総序の「慶ばしき哉や・・・」、

「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」

は「悲しき哉・・・」、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」は

「慶ばしき哉・・・」にあたるでしょう。

 

●懺悔の中に歓喜あり

 

はじめに総序のお言葉ですが、愚禿釈の親鸞とは、

愚かな親鸞は何とうれしいことか。

真実の仏法を教えてくださる方に導かれ、

信心決定させていただいた。

「遇うことを得たり」、「聞くことを得たり」は

聞即信のこと。

無上仏のお呼び声を聞かせていただいて、

絶対の幸福にさせていただいたー、というお叫びです。

こんな喜びの身になったら煩悩は少なくなったのかというと

「悲しき哉、愚禿鸞」と仰るのです。

何を悲しまれたのか。

愛欲の広さ、深さ、限りなき、まさに広い海であり、

沈没して、永久に浮かばれない、

愛欲から離れることが、瞬時もないと言われています。

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●聖人の自己告白

 

また、名利の大山に迷惑しておられます。

名は名誉欲、利は利益欲。

これらが大山ほどあって、苦しんでおられるのです。

無明の闇が破れて明るくなってハッキリ知らされた、

真実の自己を告白しておられるのです。

こんな親鸞が助かったのだから、みんな救われますよと、

素っ裸の姿をさらけ出されたのです。

これが地獄しかゆき場のない親鸞の姿なのだ、と。

「定聚の数に入ることを喜ばず」は、

絶対の幸福に救われたことを喜ぶ心がない、

という意味です。

親鸞聖人でさえ、喜ばれんと仰っているのに、

我々が喜ばれるはずがない。

喜ばれんのが当たり前と言う人があります。

喜ばれんのが当たり前と言うなら、

親鸞聖人の「慶しき哉」はどうなるでしょうか。

「慶しき哉」と「悲しき哉」の会通ができなくなってしまいます。

ノーベル賞をと貰った人でも、分からん世界なのです。

人間の智慧でわかるものなら、大したことはありません。

わかったら、「不可称不可説不可思議」とは言われません。

「いつつの不思議をとくなかに

仏法不思議にしくぞなき

仏法不思議ということは

弥陀の弘誓になづけたり」

という、不思議な世界があるのです。

華厳宗の学者鳳潭(ほうたん)が、

『教行信証』を「キチガイの書いた本だ」と

庭先に捨てたのも、この世界がわからなかったからでしょう。

喜ぶ心の微塵もない者が救われたとは、

何という不思議かいなーという喜びです。

 

●喜ばぬ心に懺悔

 

次に「真証の証に近づくことを快まず」と仰っています。

真証とは仏のさとりです。

正定聚になるのはこの世だけれども、

仏になるのは死んでからです。

信心決定した人は、日一日と極楽へ近づく。

だから楽しいはずなのに、少しも楽しむ心がない。

『歎異抄』では、

「苦悩の旧里は棄てがたく、いまだ生まれざる

安養の浄土は恋しからず候」と仰っています。

しかし、親鸞聖人は、

「喜べないのが当たり前」

と仰っているのではありません。

「恥ずべし、傷むべし」とあります。

こんな幸福にさせていただいて、

どうして喜ばないのか、懺悔しておられるのです。

このお気持ちがわからないのです。

 

●粉骨砕身の喜び

 

最後は、後序のお言葉。

「心を弘誓之仏地に樹てる」

とは、本願の大地にたてることです。

この世は無常ですから、幸福も砂上の楼閣のように

グラグラしています。

無常のものに基礎をおけば、くずれるに決まっています。

親、子供、恋人、妻、夫、金、地位。

すべては無常です。

弘誓の仏地は不変です。

だから、本願の大地に信念が立ったら、

くずれようがありません。

「念を難思之法海に流す」とは、常に念(おも)いが、

不可思議の仏法に流されてゆくことを、仰ったのです。

そして、深く無上仏の広大な慈愛を知らされ、

導いてくだされた善知識のご恩を仰がずにおれない。

恩徳讃と同じです。

「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」

この喜びどうしようか、じっとしておれない。

最高のご恩に、報いずにおれない。

身を粉にしても、骨を砕いてでもやるぞ、

という行動となって表れるのです。

行動にあらわれない喜びは、ウソです。

 

●信前信後の決定的相違

 

以上のように、絶対の悲しみと絶対の喜びとが同時にあるのが、

絶対の幸福です。

それを親鸞聖人は『正信偈』に、

「日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明らかにして闇無きが如し」とたとえられたのです。

雲や霧がいくらかかっても、その下に闇はない。

ここがちがう。

闇があるのは助かっていないから。

信心決定すると、煩悩は変わらないけれど、

無明の闇はなくなってしまうのです。

親鸞聖人は、『正信偈』のここで大変なことを

教えておられることを、知っていただきたいと思います。


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