SSブログ

あなたも親鸞聖人が好きになる! [親鸞聖人]

 底知れぬ魅力はどこから?
みんな親鸞聖人が好きになる

3年前の七百五十回忌を縁に、
親鸞聖人の、時代を超えた人気を
再認識された方も多いでしょう。

浄土真宗の人はもちろん、
著名人や作家、思想家など、
聖人を讃仰する声は世に満ちています。
例えば、
鎌倉(時代)というのは、
一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった
        (司馬遼太郎)
有名な歴史小説家が、日本を代表する
人物として聖人の名を挙げています。

また文豪・夏目漱石も、
親鸞上人に初めから非常な思想が有り、
非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、
あれ程の大改革(肉食妻帯)はできない
と驚きとともに称讃しています。

鋭い感性を持った作家や知識人が、
なぜこれほど聖人をたたえるのでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・

EPSON143.jpg-1.jpg

●31歳の肉食妻帯(結婚)
  世の常識を破り、断行なされた御心は?

90年のご一生のエピソードの中から、
今回は特に有名な「肉食妻帯」について学びましょう。
「親鸞聖人が非常な強い根底のある思想をもたなければ、
あれ程の大改革はできない」
と夏目漱石がたたえた肉食妻帯とはどういうことなのでしょう。
僧侶には元来、「戒律」という決まり事があり、
「肉食妻帯の禁」はその代表的なものです。
肉食は「殺生(生き物を殺すこと)」であり、
妻帯は「女犯(にょぼん)」ですから、
いずれも修行(善行)を妨げる悪の行為として禁じられるのです。
その戒律を公然と破り、肉食妻帯されたことは、
仏教界では重大かつ衝撃的な事件でした。
どんな経緯があったのでしょうか。
聖人のアニメで見てみましょう。

なぜあえて茨の道を?

このように、当時、肉食妻帯の断行は
大変な茨の道でありました。
その険しい道を、なぜあえて、聖人は歩まれたのでしょう。
「つらい修行がイヤになったから?」
「自分に正直に生きていかれたのだろう」
皆さん、いろいろ思われましょうが、
そこには、仏法の教えに基づいた確固たる理由があったのです。
紹介したアニメのセリフに、その心が表明されています。

全ての人がありのままの姿で救われるのが、
真実の仏法(阿弥陀如来の本願)であることを
分かっていただくご縁になれば、
親鸞、厭いは致しません

よいか、玉日、僧侶も、在家の人も、
男も、女も、ありのままで、
等しく救いたもうのが阿弥陀如来の本願。
その真実の仏法を、
今こそ明らかにせねばならぬのだ

世間の評判や保身、自己の利益ではなく、
阿弥陀如来(弥陀)の本願をいかに多くの人に
明らかにするかだけを
問題にされていることが分かります。
肉食妻帯もそのためだ、と聖人は明言されているのです。
では、聖人が生涯これ一つ開顕なされた弥陀の本願とは、
どんなことなのでしょうか。

●すべての人を救う
  阿弥陀如来の本願

阿弥陀如来とは、お釈迦さまが私たちに
紹介してくだされた仏さまです。
仏教では、この大宇宙には、
地球のような世界がガンジス川の砂ほど無量にあり、
それぞれに仏がまします。
十方諸仏といい、地球上の釈迦もその一仏です。
これらの諸仏方が「われらの尊い先生、本師本仏だ」
と崇敬し、異口同音に褒めたたえるのが
阿弥陀仏という仏さまなのです。
その阿弥陀仏が、全ての人を無上の幸せに救ってみせると、
命懸けで誓われたお約束が「阿弥陀仏の本願」です。
この無上殊勝の本願を私たちに教えるために、
釈迦は仏教を説かれたのだと、
親鸞聖人は、

「如来、世に興出したまう所以は、
唯弥陀の本願海を説かんがためなり」
           (正信偈)
釈迦如来がこの世に現れられた目的は、
ただ弥陀の本願一つを教えるためであった

と断言なされ、ご自身も、釈迦が唯説なさった
弥陀の本願を生涯、説き明かされたのです。
EPSON144.jpg-1.jpg


弥陀の本願は「十方衆生(全ての人)」
を無上の幸せに必ず救う、という誓いです。
全ての人が対象ですから、
私もあなたも、この本願に無関係な人は
一人もないのです。

●どんな者を救う
    お約束か

では阿弥陀仏は、約束の相手である私たちを、
どのような者と見られているのでしょう。
これが分からねば、弥陀の本願と相応せず、
救われませんから、極めて重要です。
有名な『歎異抄』第1章には、

「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」
煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために
建てられたのが、阿弥陀仏の本願である

とあります。
阿弥陀仏の本願は、欲、怒り、ネタミ、
ソネミの煩悩が激しく燃えている極重の悪人が相手である、
と仰せです。
全ての人間を、煩悩の塊であり、罪悪を造り通しの者であると
見抜かれているのです。

●聖人20年間の
    煩悩との格闘

このような弥陀の本願を知られなかった聖人は、
9歳で仏門に入ってより20年、
煩悩と格闘なさっていました。
4歳で父上、8歳で母上と悲しい別れをなされ、
「次に死ぬのは自分だ。死ねばどうなる?」
と100パーセントの未来、後生(来世)不安な心を解決したいと
願われてのことです。
それには仏道に励むしかないと、
厳しい修行に身を投じられました。
日々、懸命に身を修め、勉学に励み、やがて並ぶ者なき優秀さで
「叡山の麒麟児」とまでうたわれていました。
ところが、誰よりも厳しく自己を律して
思い知らされたのは己の醜い内面でした。
そのきっかけが、玉日姫との出会いだったのです。

EPSON145.jpg-1.jpg

 

仏の化身か魔性の女か、あまりの美しさに虜になった聖人は、
寝ては夢、起きては現(うつつ)と姫の幻想に苦悶します。
思いを「仏道一つ」と振り払っても、
「親鸞さま、親鸞さま」
と鈴を振るような声が耳について離れない。
身は叡山にあって善を修め、
口に尊い経文を唱えつつ、心は女性を抱き締めている。
「ああ・・・この心・・・」
封じ込めようとするほど、
マグマの如く噴き上がる煩悩は果てしがない。
煩悶する聖人の苦しみは、いかばかりであったでしょう。

●問題は「心」

こんな話があります。
二人の禅僧が諸国行脚中、小川にさしかかった。
美しい娘が、連日の雨で川が増水し、
とび越えられずモジモジしている。
「どれどれ、私が渡してあげよう」
僧の一人が、無造作に抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は、顔を赤らめ礼を言って立ち去った。
同伴の僧がそれを見て、かりにも女を抱くとはけしからんとでも
思ったのか、無言の行に入ってしまった。
戒律のやかましい禅宗では、
女性に触れてはならないとされているからだろう。
日が暮れて、女を渡した僧が、
「どこかで泊まることにしようか」
と声をかけると、
「生臭坊主との同宿はごめんこうむる」
連れの僧は、そっぽを向いた。
「なんだ、お前、まだあの女を抱いていたのか」
件(くだん)の僧はカラカラと笑った。
連れの僧は、いつまでも抱いていた心の生臭さを突かれて、
返す言葉がなかったという。

EPSON146.jpg-0.jpg

・・・・・・・・・・・・・・・
問題は、その心にあるのです。
心こそ、もっとも最大視されねばならないはずなのに、
人間の社会では、どんな悪い考えを抱いていても、
それだけで法律に抵触(ていしょく)するわけではありません。
私たちがふだん、善悪の基準としている法律や道徳は、
恐喝や詐欺など口の行為にも時には触れますが、
主に問題になるのは身の行為です。
そんな善悪に慣れていると、
聖人の苦しみは理解しがたいものでしょう。
法を犯すわけでも、道徳に背くわけでもないのに、
心で思うだけで何か悪いのかと思うのも、無理からぬことです。

●心の動き
  すべて知っておるぞ

しかし、仏さまは「見聞知」のお方。
「そなたのやっていることを見ておるぞ、
口で言っていることを聞いておるぞ、
心で思っていることを知っておるぞ」
と、私たちの身口意の全てをごらんになっている。

EPSON146.jpg-1.jpg


だから仏教では、私たちの行いを
身、口、心の三方面から教えます。
「身口意の三業」といい、特に重視するのが
「意業(心の行い)」です。
心で思わぬことを言ったり、やったりはしない。
私たちのどんな言動も心の命令によるのですから、
司令塔である心を、仏教は最も重視するのです。
例えれば口や身は火の粉、
心が火の元です。
火元へ放水せねば鎮火できぬように、
心の悪を取り締まらぬ限り、
身や口の悪は止まないのです。
親鸞聖人もそう熟知され、何とか心を正そうと懸命に努力されましたが、
山中で悪いことを「見ざる」「言わざる」「聞かざる」はできても、
「思わざる」だけはどうしてもできなかった。
どうにもならぬ心の悪に絶望し、
ついに修行を断念、泣く泣く比叡山を下りられました。
やがて聖人は、法然上人との邂逅(かいこう)を果たし、
間もなく阿弥陀如来(弥陀)の本願によって救い摂られたのです。
29歳の御時でした。

EPSON147.jpg-1.jpg

●肉食妻帯は
   すべての人の姿

形の上で肉食をせず、妻を娶らず(めとらず)とも、
心はどうか。
親鸞聖人が20年の修行を捨てて山を下りられたのは、
口や身は「麒麟児(きりんじ)」でも、
常に心で女を抱き続けている自己に驚かれたからです。
その聖人が弥陀の救いにあわれて知らされたのは、
そういうどうにもならなぬ親鸞を、
阿弥陀仏一仏が遠い過去からお見抜きで、
“その煩悩具足のおまえをそのまま救ってやろう”
とお立ちづめであった、ということでした。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり」  
           (歎異抄)
五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねて
建ててくだされた弥陀の本願は、
こんな煩悩の塊の親鸞一人のためでありました

と絶叫されています。
弥陀の光明に照らし抜かれた一念に、
煩悩100パーセントの真実の自己が疑いなく知らされ、
同時に、今死んでも浄土往生間違いなし、
と本願に疑い晴れたのです。
そして、知らされた罪悪深重の自己の姿は、
全ての人間の姿なのだと、聖人は喝破されています。
口や身で殺さなくても、心で思えば殺生であり、
たとえ結婚していなくても、心で犯せば女犯(にょぼん)です。
心を見れば、全ての人間が肉食妻帯の悪人であり、
そんな者をそのままで、極楽一定の身に必ず救う
と、阿弥陀仏は誓われているのです。
地獄一定の親鸞を、よくぞ救いたもうた。
この弥陀のご本願、いかにしたら一刻も早く、
一人でも多く伝えられようか。
聖人は全生命を懸けずにいられなかった。
破天荒な肉食妻帯も、弥陀の本願の布教以外には
ありませんでした。
そのために受ける非難攻撃など物の数ではない。

「唯仏恩の深きことを念じて、
人倫の嘲り(あざけり)を恥じず」
        (教行信証)
弥陀の本願を知らぬ人たちから疑謗破滅を受けるほど、
ますます弥陀の救いを伝えなくては、と親鸞、
ファイトが湧いてくる

と立ち向かわれたのです。

●ご活躍の源泉は?

このように、親鸞聖人のご生涯には、
我々の想像を超えたご活躍が随所に見られます。
それは、聖人が特別優れていられたからできたことなのか。
もちろん、ズバ抜けた学識と教化力、
人徳を持つお方でありましたが、
ご自身は意外な告白をなさっています。

「小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ」
(少しぐらいは他人を哀れみ、悲しみ、
助ける心があるように思っていたが、
とんでもない錯覚だった。
親鸞には、慈悲のかけらもなかったのだ)

救われても煩悩具足は変わらない。
人を助けたい心などさらさらない親鸞なのだ、と仰せです。
「エッ、それなら私と一緒。
でも、あれほどのご布教はどうして?」
と尋ねる私たちに聖人は、
「それは私の力ではない。
南無阿弥陀仏のお働きによるのだよ」
と教えられています。
聖人が29歳の御時、阿弥陀如来の本願に救い摂られた、
とは、阿弥陀仏が苦悩に沈む全ての人間を救うために、
大変なご苦労の末に成就なされた「南無阿弥陀仏」
の六字の御名号を頂いたということです。

「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。
南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲ることなり」
           (蓮如上人・御一代記聞書)
(弥陀に救われたとは、煩悩具足の私が
南無阿弥陀仏の六字の名号と一体になったことをいう。
それを信心獲得ともいうのだよ)

と言われています。
この南無阿弥陀仏には、
「無上甚深の功徳利益の広大なること、
極まりなし」
          (御文章)
といわれるように、大宇宙の宝が全て封じ込められていますから、
「功徳の大宝海」とか「至徳」といわれます。
弥陀に救われたならば、煩悩具足のままで
南無阿弥陀仏と一体になり、至徳具足となるのです。

●南無阿弥陀仏の
   躍動に身をまかせ

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の「智慧(厳しさ)」と「慈悲(優しさ)」
の結晶です。
阿弥陀仏は「光寿無量の仏」といわれます。
「光明(智慧)」と「寿命(慈悲)」に限りがないということで、
阿弥陀仏がどんな煩悩具足の極悪人をも救ってくださるのは、
救うお力が無限であるからです。
この弥陀から賜った智慧の働きが、
聖人の厳しさとなって現れれば、
いかなる迫害にもひるまぬ肉食妻帯の断行となり、
弥陀の慈悲の現れが、底無しの慈愛に満ちた聖人の優しさです。
聖人90年のご活躍の源泉は、
29歳、弥陀の救いにあわれ、
名号六字と一体となったことであり、
その後の大活躍は、全て南無阿弥陀仏の偉大な躍動なのです。
多くの人を引きつける聖人の底知れぬ魅力は、
この南無阿弥陀仏の智慧と慈悲の顕現(現れ)であることを
よく知っていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

EPSON148.jpg-1.jpg


体験手記
「アニメは聖人直々のご説法」
    忘れられぬ母の姿
   山村 恭子さん(熊本県)

私を親鸞聖人の教えに導いてくれたのは、
今は亡き母でした。
昭和24年に私の妹が3歳で亡くなってから、
母は仏教に心を寄せ、昭和55年に父、さらには祖父が亡くなると、
それからは毎日のように寺参りするようになりました。
しかし、何か今一つ物足りないと思っていたようです。
そんな母に、祖母が雨でびしょ濡れになった一枚のチラシを渡しました。
そのチラシをご縁に、この世で明らかに救うと誓われた弥陀の本願、
本当の親鸞聖人の教えに巡り遇い、
聞くようになりました。
自分の求めていたものがあったと
大喜びした母の変わりようは大変なものでした。
いちずに家族に伝えようと、仏法一筋、聴聞最優先で、
毎週、遠方まで聞法に行くようになったのです。
自己にも子供たちにも厳しい母の言動が私は理解できず、
反発ばかりしていました。
「何でこんないい話、聞かんとね」
と、母はよく口にしていました。
それは「仏法を聞け、聞け」
という母の勧めであったのでしょう。
仏縁のない私たちに、何としても弥陀の本願を聞かせたかったのだと思います。

EPSON149.jpg-1.jpg

やがて、そんな母が心臓を悪くして入院し、
私は介護の毎日となりました。
病院で母は、アニメ『世界の光・親鸞聖人』
を毎日一巻ずつ見ていました。
「このアニメは親鸞聖人の直のご説法だ」
と、アニメを見る時はご説法を聴聞するのと同様に
身支度を整え、ベッドの上で正座して見ていました。
私も世話のために、一緒に座って見ていましたが、
今にして思えば、仏法の分からぬ私に、
母は姿にかけて仏法の尊さを教えてくれたのでしょう。
上映が終わると、ビデオテープを巻き戻し、
明日見るアニメを準備しておくのが、私の仕事でした。

そんな母から、私が仏法を聞く縁となった衝撃的な事件がありました。
いつものように朝食の世話を済ませ、
自宅へ戻って庭掃除をしていた時、
看護師から電話がありました。
「お母さんの様子がおかしいので、
すぐ病院に戻ってきてください」
とのこと。
容体が悪化したのかと思い、
すぐ駆けつけると、目を真っ赤にして
「本当だった。私をこんな幸せにしてくださるとは本当だった」
と繰り返し弥陀の本願を喜ぶ母がいたのです。
看護師さんは様子がおかしい、と思ったのでしょう。
仏縁の薄い私も、容体がおかしいとしか思えませんでした。
その時母は、このような歌を私に筆記させました。

  あら不思議
心は弥陀に いだかれて
 南無阿弥陀仏の
    船の中とは

その後もなかなか仏法を聞こうとしなかった私でしたが、
“阿弥陀さまに救われた、明らかな世界が本当にあるんだな”
と知らされ、いろいろなご縁によって、
今は親鸞聖人の教えを求める身となりました。
亡き母に心から言いたいです。
「お母さん、私を生んでくれて本当にありがとう。
仏法を伝えてくれて本当にありがとう」
姿にかけて教えてくれた母の聞法を見習い、
この大恩に報いるべく、弥陀の救いにあうまで
真剣に聞き求めたいと思います。

 


nice!(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

親鸞聖人から、あなたへのメッセージ [親鸞聖人]

親鸞聖人から、あなたへメッセージ

難思の弘誓は
難度の海を度する大船、
無碍の光明は
無明の闇を破する慧日なり

      (教行信証総序)

阿弥陀さまは苦しみ多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります。

今月も、親鸞聖人の主著『教行信証』の
冒頭のお言葉について学びましょう。


●「無碍の光明」とは

まず、「無碍の光明」について解説いたしましょう。
「光明」とは、「力」ということです。
一般にも、「親の七光り」「親の威光」
という言葉が使われます。
社長の息子が、実力もないのに難なく出世したり、
有名人の娘が、さほど魅力がなくても芸能界入りしたりすると、
「あれは親の七光りだ」とささやかれます。
もちろん、実際に親から虹のごとき七色の光がでるワケではなく、
親の「力」を「光」で表しているのです。
仏教では、「仏さまのお力」を「光明」といいます。
「無碍の光明」とは、すべての仏の本師本仏である
阿弥陀仏のお力のことです。

阿弥陀仏のお力は、何ものにも遮られない(碍とならない)
偉大な力ですから「無碍の光明」と言われ、

親鸞聖人は『正信偈』に阿弥陀仏のことを「無碍光如来」とも
仰っています。
この弥陀のお力を「他力」ともいいます。

●「他力」の本当の意味

「他力」と聞くと、どんなイメージがあるでしょうか。
「他人任せ」「他人依存」「自立心がない」
「自主性がない」など、
弱々しいものの代名詞になっており、
「他力本願ではダメだ」「他力本願を脱却しよう」
と使われたりもします。
それが高じてか、仏教を聞いている人までが
弱いイメージで見られがちです。
しかし、本当はどうなのでしょう?

強そうで弱いものは歯であり、
弱そうで強いものは舌だといわれます。
そういえば、バリバリ何でもかみ砕く歯は、
一見、強そうに見えますが案外もろく、折れたり、
虫歯でボロボロになったりします。
それに対して、弱そうに見えるコンニャクのような舌は、
生涯、抜けもせねば短くもならず、
「年取って、体のあちこち悪くなったが、
舌だけは元気」という人が多いようです。
同じように、人生にも、強そうで弱いものと、
弱そうで強いものとがあります。
お釈迦さまは、金や財産、名誉や権力を持っている人は、
一見、強そうに見えるが、本当は弱いものだ、
と仰っています。

EPSON125.jpg-1.jpg
それに反して、弥陀に救われ、絶対の幸福に生かされている人は、
「他力の信心」などといわれますから、
他人に頼る弱い人間のように思われるかもしれませんが、
いざ鎌倉という時には、不思議な力を発揮しますので、
強い人間だと言われています。

事実、日本を一握りにし、難攻不落の大阪城を築き、
天下に号令した太閤秀吉も、
辞世の言葉は哀れなものでした。
「露とおち
露と消えにし 我が身かな
難波のことも 夢のまた夢」
と、寂しく息を引き取っています。
お釈迦さまの仰るとおり、
もはやそこには、天下人としての面影はありません。

遠くは欧州全土を征服したナポレオンや、
アレキサンダー、ジンギスカンも、
回天の大事業を成し遂げましたが、
人類に、一体、何を残したというのでしょうか。
大観すれば、ただひとときの夢の戯れにすぎません。

近くは、日本を不敗の神国と妄信し、
世界を相手に宣戦した立て役者、
東条英樹も、緒戦のカクカクたる戦果を上げていた時分は、
騎虎(きこ)の勢いでしたが、一敗地にまみれ、
A級戦犯の筆頭として、板敷きの上にワラ布団を置き、
五枚の毛布のほかは、
何も持ち込めない巣鴨の刑務所にぶち込まれ、
軍事法廷に立たされるや、
かつての、総理、陸相、参謀総長、内務、文部、
外務の各大臣を歴任した威厳は微塵もなく、
孤影悄然(こえいしょうぜん)たる姿に、
人間本来の相(すがた)を見せつけられた思いを、
皆したはずです。

EPSON126.jpg-1.jpg
しかも、その彼が、一度(ひとたび)、
仏縁に恵まれ大慈大悲の阿弥陀仏の本願にあうや、
死刑直前に、
「さらばなり 有為の奥山 今日こえて
弥陀のみもとで のびのびと寝ん」
「日も月も 蛍の光 さながらに
行く手に 弥陀の 光輝く」
と詠み遺しています。
人間のつけた、一切の虚飾を振るい落とされた、
そこにあるものは、か弱き葦(あし)のような、
罪悪にまみれた自己でしかありません。
悪夢から覚めた彼は、大罪を犯したが、
多生にも億劫にもあい難い、
弥陀の救いにあえたこと一つが有り難かったと、
絞首台に勇み足で立ったといわれています。

財産は、地変に遭えば潰れる。
建物は、災禍に遭えば灰になる。
名誉や地位の箔は、死の前には執着を増ばかり。
妻子は、輪廻の仲立ちにしかなりません。
全てが、一朝の夢にしかすぎないことが分かれば、
本願他力に生き抜かれた親鸞聖人のたくましさも、
蓮如上人の無碍の大活躍も理解されることと思います。

●極楽浄土まで届けてくださる阿弥陀仏のお力

このように、「他力」とは、
他人に依存することではありません。

他力の「他」とは、阿弥陀如来に限り、親鸞聖人は、

「他力」と言うは如来の本願力なり(教行信証)

とズバリ教えられています。
では、阿弥陀仏の本願力(他力)とは、
どのような力でしょうか?

それは、私たちを必ず南無阿弥陀仏の大船に乗せて
極楽浄土に届け、仏に生まれさせてくださるお力です。

ですから、阿弥陀さまに救われ、
南無阿弥陀仏の大船に乗った人には、
「極楽へ行けるだろうか」の不安は微塵もありません。
まだ救われていなければ、
「いつも親切しているし、
後ろ指さされるようなことはしていないから、
死んで悪いところにはいかないだろう。
でも、ひょっとしたら・・・」
「こんな嫌な心が出てくるようではナァ、
悪い世界に堕ちるのではなかろうか」
と、様々な疑いや不安が出てきて、
往生浄土(極楽に往く)の「碍り(さわり)」
(妨げ)となります。
この弥陀の本願に対する疑いの心を「無明の闇」といわれます。
往生浄土の「碍り」である無明の闇を照破する(無くす)
阿弥陀仏のお力を、「無碍の光明」と言われるのです。

阿弥陀仏の偉大なお力を、親鸞聖人は、ご和讃に、
「無明長夜の闇を破し
衆生の志願を満てたまう」
と教導されています。
阿弥陀仏は、昿劫といわれる遠い過去から今日まで、
私を迷わせ苦しませてきた苦悩の根元“無明長夜の闇”
をブチ破ってくださり、
「いつ死んでも極楽浄土に生まれさせる」願いを、
私たち(衆生)の身の上に満たしてくだされるのです。

こんな凄いお力の仏さまは阿弥陀仏だけです。
大宇宙に無量の仏さまがおられても、
無明の闇を晴らすことはできない。
お釈迦さまもできないことなのです。

●「無明の闇」を破る太陽

「慧日」とは、「智慧の太陽」のことで、
阿弥陀仏のお力を、無明の闇を破る太陽に例えられています。
「天に二日(にじつ)なし」ともいわれますように、
無明の闇を破る「太陽」もまた唯一なのだよと、
親鸞聖人は、弥陀の救いを称賛されているのです。
「必ず極楽浄土へ往ける」と、
未来明るい智者になるには、
智慧の太陽に照破されるまで、
仏法を聞かせていただくしかありません。

無碍の光明によって無明の闇が破られ、
いつ死んでも極楽往生間違いなしの身になった時、

人間に生まれてよかった!
苦しみも悲しみも、涙で過ごした日々も、
この幸せになるためだった。
この世の一切は、無上の法悦を得るために存在していたのだ

と生命の歓喜が沸き起こるのです。
この真実の幸せを獲るためにこそ、
私たちは生まれてきた。
そして今、生きているのです。

最後に今一度、『教行信証』冒頭のお言葉を拝読いたしましょう。

難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
            (教行信証総序)
“阿弥陀さまは 苦しい多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります”

八百年の時を超えて、親鸞聖人の力強いメッセージが
胸に迫るではありませんか。


 


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

弥陀の救いは完全な平等 [親鸞聖人]

凡聖逆謗斉廻入(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば、)

如衆水入海一味(衆水の海に入りて一味なるが如し)

 

自由と平等。この2つは、古今の人類が希求してやまぬ究極の理想でしょう。

だが実際は、自由を追求すれば不平等になり、

平等を徹底すると不自由を強いられる。

小学校の駆けっこでは、「順位をつけない」ことで

「平等性」を保とうと試みられていますが、

自由な競争心を失わせ活力を奪うと懸念する声もあります。

また、私有財産を禁じ完全平等を目指すはずの共産主義国家で、

貧困にあえぐ民衆をはた目に、独裁統治者や一部の特権階級が富を独占し

豪奢に暮らす、いわば「超格差社会」が出現しやすい事実は、

いかに「平等」が実現困難か示しているといえるでしょう。

考えてみれば、生まれもっての能力や家柄、国籍、肌の色、

男女の違いや容姿のよしあし、学問や経験の浅深など、

あらゆることが十人十色、千差万別で、一人も同じ人はありません。

現在、地球上に70数億人の人がいるといわれますが、

それらの人はみな異なります。

いわゆる「差別」は、紛れもない現実です。

そんな中、すべての人が真の平等になれる、

驚くべき世界の厳存を喝破されている親鸞聖人のお言葉が、

「凡聖逆謗斉廻入

如衆水入海一味」

の二行なのです。意味は一言でこうです。

阿弥陀仏に救い摂られたならば、才能の有無、健常者・障害者、

人種や職業・貧富の違いなど関係なく、

万川の水が海に入って一味になるように、

すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ

聖人が、かかる不思議な「弥陀の救い」を明示されている目的、

その御心は、

「道俗時衆共同心」

と『正信偈』の最後に言われているとおり、

“すべての人よ、この親鸞と同じように、

「弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」と叫ばずにおれない身になってくれよ”

これ以外には何もありませんでした。

だが、「すべての人を同じ幸せに生かし切る」弥陀の救いは、

あまりにも常識からかけ離れているために、

簡単に分かることではない。

そこで聖人は、後の世の私たちのために、

法友と大喧嘩されてまで「一味平等」の弥陀の救いを開示してくだされたのが、

今日「信心同異の諍論(じょうろん)」といわれている大論争です。

 

●信心同異の諍論

 

この争いの相手は、聖信房・聖観房・念仏房の3人。

みな法然上人の高弟です。

当時、法然上人は、「智恵第一の法然房」「勢至菩薩の化身」といわれ、

日本一の仏教の大学者でした。

有名な大原問答は、京都の大原で、

各宗派のトップの学者たちを相手にたったお一人で、

7000余巻の一切経を縦横無尽に引用して、

完膚なきまでに論破なされた大法論です。

また主著の『選択本願念仏集』は、

当時の仏教界に水爆級の衝撃を与えた事実によっても、

いかに法然上人が常人を超えた方であったか、知られるでしょう。

その法然上人には、380余人という多くのお弟子がありました。

聖信房・勢観房・念仏房の3人は、中でもトップクラスの俊秀であり、

親鸞聖人の先輩でもあったのです。

聖人34歳の御時。3人が、「信心」について話し合っているのを耳にされます。

アニメ『世界の光・親鸞聖人』第2部で見てみましょう。


EPSON059.jpg-1.jpg

念仏房「高弟2人が、何の話かな」

聖信房「今、お師匠さまの信心は凄い。

あんな信心にはとても我々はなれんと言っておったのだ」

念仏房「そりゃそうだ。智恵第一のお師匠さまと、同じ信心になれるものか」

勢観房「大原の法論でもそうだった。

    300余人の日本中の学者を向こうに回して、

    たったお一人で打ち破られたお方だからなあ」

念仏房「勢至菩薩の生まれ変わりと、みんなが言うのも当然だ」

聖信房「そんな方の信心と、同じになれないのが当たり前よ

 

ここで親鸞聖人が、摩擦を避けて“見て見ぬふり”をされたならば、

論争は起こらなかったでしょう。

後に先輩から疎まれ門内で孤立されることもなかったかもしれません。

だが“極悪の親鸞を、絶対の幸福に救ってくださった弥陀の厚恩には、

身を粉に骨砕きても報いずにはおれない”と、

燃える「恩徳讃」に生き抜かれる聖人には、

弥陀の本願の聞き誤りを、看過することはできなかったのです。


EPSON060.jpg-1.jpg

親鸞聖人「少し、よろしいでしょうか」

念仏房「何だ、親鸞か」

親鸞聖人「今、お師匠さまの信心と、同じになれるはずがないと、

仰っておられたようですが」

聖信房「いかにも」

親鸞聖人「それは親鸞、納得できません」

念仏房「そなたはいつも先輩の言うことにケチをつける人だなあ。

善恵房殿の時もそうだった。そんなことでは、みんなから嫌われるだけだぞ」

親鸞聖人「先輩方には、申し訳ありませんが、親鸞の信心は、

お師匠さまの信心と、まったく同じでございます」

3人「なっ、何ーっ!」

念仏房「何ということを親鸞!お師匠さまを冒涜するにもほどがある。

聞き捨てならんぞ」

 

かくして、「信心が同じくなれるか、なれないか」で意見が対立した論争なので、

「信心同異の諍論」と伝えられています。

 

●師への深い尊敬

 

親鸞聖人が、法然上人をいかに尊敬されていたかは、

有名な『歎異抄』第二章の、

 

たとい法然上人にすかされまいらせて、

念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候

 

“たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄へ堕ちても、

親鸞なんの後悔もないのだ”

という宣言、また「救われたのは、まったく阿弥陀仏のお力によってであった」

と感泣されている聖人が、

 

昿劫多生のあいだにも

出離の強縁しらざりき

本師源空いまさずは

このたびむなしくすぎなまし

 

“親鸞、法然上人に救われた”

とまで言われている「ご和讃」からも窺えます。

聖人にとって法然上人は、まさに“いのち”であったのです。

その聖人が、

親鸞の信心は、法然上人の信心とまったく変わるところはありません。

同じです

と、何の躊躇もなく確言されていることには、

聖信房・勢観房・念仏房ならずとも、だれもが驚くのではないでしょうか。

「お前、何様のつもりだ。自惚れるな」

「法然上人をどんな方だと心得る。弟子としてあるまじきことだ」

と、激しく非難した3人の気持ちも分からないでもありません。

この3人も、ただの人ではなかった。

法然上人から親しく教えを受け、

皆さんに伝えることを使命としていた仏教の専門家であり、

法然門下380余名の中でも高弟と目され、

お師匠さまへの尊敬の深さは一方ならぬものでした。

だからこそ、親鸞聖人の、

「私の信心は、法然上人と同じです」の発言にいきり立ち、

「同じになれるはずがない。撤回せよ」と迫ったのです。

法然上人を尊敬していない3人なら、こんな反応はありえないでしょう。

また学問や理屈で分かることなら、

優秀な人たちが間違えるはずもありません。

 

●法然上人のご裁断

 

どれだけ論じても埒が明かないと見て3人は、法然上人をお呼びし、

ご裁断を仰ぐことになりました。

その時の“判決文”ともいえる上人のお言葉が残っています。

 

信心のかわると申すは自力の信にとりての事なり、

すなわち智慧格別なるが故に信また格別なり。

他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、

源空が信心も善信房の信心もさらにかわるべからず。

ただ一つなり。

我が賢くて信ずるにあらず。

信心のかわりおうておわしまさん人々はわが参らん浄土へはよも参りたまわじ、

よくよく心得らるべき事なり 

                 (御伝鈔) 

 

これも分かりやすく描かれた、アニメで見てみましょう。


EPSON061.jpg-1.jpg

法然上人「そなたたちは、私の信心と、異なると言ったのだな」

3人 「そのとおりでございます」

法然上人「皆、よく聞きなさい。信心が異なるというのは、

自力の信心であるからだ

3人 「えーっ!」

法然上人「自力の信心は、智恵や学問や才能で作り上げたもの。

その智恵や学問や経験や才能は、一人一人異なるから、

自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ

勢観房「異なるのは、自力の信心か・・・」

法然上人

他力の信心は、阿弥陀如来からともに賜る信心だから、

誰が受け取っても皆、同じ信心になるのである

聖信房「他力の信心は同じになる・・・」

法然上人「それ故に、阿弥陀如来から賜った私の信心も、

親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。

まったく同じになるのだよ

念仏房「それでは、親鸞の言うことが正しかったのか・・・」

法然上人「いいですか。この法然と異なる信心の者は、

私の往く極楽浄土へは往けませんよ。

心しておきなさい

3人 「はあっ」

念仏房「おのれ、親鸞。

よくもお師匠さまの前で恥を・・・」

 

こうして、彼ら高弟の誤りを正された親鸞聖人は、

いよいよ孤立していかれました。

今日「信心同異の諍論」と伝えられているこの論争は、

『歎異抄』後序にも記されています。

 

●一味平等の救いを鮮明に

 

これは決して、「愚かな人たちが、うっかり誤った」

という程度のものではないのです。

何億兆年と迷い続けてきた我々一人一人の魂にかかわる、

根深い重大な問題を孕んでいることを忘れてはなりません。

では、聖信房・勢観房・念仏房の3人が、

「法然上人の信心と同じになれなくて当然」

と間違った原因はどこにあるのか。

「信心」といえば、「智恵や学問、才能、経験」で作り上げたものしか

知らなかったところにあります。

これらは一人一人異なるものであり、

法然上人は卓越しておられたから、

「信心も異なって当然」と結論したのです。


EPSON062.jpg-1.jpg

昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、

同宿して争っていました。

「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」

と、高山の男は言う。

「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。

この目でいつも見ていることだ」

と、一歩も引かないのは大島の男。そこへ宿屋の主人がやって来て、

「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。

太陽は屋根から出て屋根へ入るもの」

と笑ったといいます。

同じ時計の音でも、金回りのいい人には、

「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」

と聞こえるそうですが、借金に追われている者には、

「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」

と時計までもが催促するといいます。

一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、

各人各別の智恵や才能、経験で固めた「自力の信心」は、

異なるのが特徴です。

それに対して「他力の信心」は、智恵や才能、

学問や経験、善人悪人などとは関係なく、

阿弥陀仏から賜る信心だから、誰が受け取ってもまったく同じになるのです。

TV局が同じなら、各家庭のテレビが、大・小・新・旧、異なっても、

放送内容が変わるはずがない、のに例えられるでしょう。

あるいは、同じ日本銀行発行の一万円札ならば、

金襴・革・布、どんな素材の財布に入っていても、

同じく一万円の値があるようなもの、

と言えば分かりやすいでしょうか。

EPSON063.jpg-1.jpg

慈悲平等の阿弥陀仏から賜った信心に、

相違があろうはずがない。法然の信心も親鸞の信心も、

ともに他力の信心、まったく違いはない。同じである

誤りやすいところを法然上人は懇ろに糾され、

この一味平等の絶対の救いを親鸞聖人は『正信偈』に、

「凡聖逆謗斉廻入

如衆水入海一味」

と鮮明にされて“片時も急いで弥陀の救いにあってくれよ”

と念じておられるのです。

 

 

 

 


nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

六道輪廻して苦しむ私たち [六道輪廻]

生死の苦海ほとりなし
 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、必ず乗せて、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

まず、親鸞聖人は、「生死の苦海ほとりなし」
と言われています。
これは私たちの生を海に例えたものです。
仏教で「生死」とは、「苦しみ」を表し、
「ほとりなし」とは、「際がない」「果てしない」ということですから、
「私たちは、果てしない苦しみの海で溺れもだえている」
という意味です。
2600年前、お釈迦さまは「人生は苦なり」と言われ、
『正信偈』に親鸞聖人が
「善導独明仏正意」(善導ひとり、仏の正意に明らかであった)
と称賛される中国の善導大師は、1300年前
「四方八方眺むれどただ愁嘆の声のみぞ聞く」
と言われています。
近代に日本ではどうでしょう?
人生を鋭く見つめた文学者たちはこう語っています。

○なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。
(芥川龍之介・自伝小説『或阿呆の一生』で、
長男出生について語った言葉)

○のんきとみえる人々も、心の底をたたいてみると、
どこか悲しい音がする。
     (夏目漱石『吾輩は猫である』)

○人生のさびしさは酒や女で癒されるような浅いものではないからな。
      (倉田百三『出家とその弟子』)

●成功者もまた・・・

成功を勝ち得た者もまた「苦しみ」から逃れることはできないようです。
前漢の第七代皇帝・武帝は、
中国全土を支配し、絶大な権勢と富を誇り、
漢時代の最盛期を生き抜いた。
しかし、盛大で、甘美を極めたといわれる宴の最中に、
彼の心に去来した次の言葉は
今でも多くの人々の胸を打ちます。

「歓楽極まりて 哀情多し
少壮は幾時か 老を如何せん」(秋風辞)
(歓び、楽しみの絶頂に、哀しさ、空しさが満ちてくる。
若く、壮健な時は束の間で、やがて、老いさらばえて
人は死ぬ。この哀しくも儚い現実をどうすればいいのか)

チャーチルは、第2次世界対戦・戦勝時のイギリス首相であり、
1953年にはノーベル文学賞を受賞。
そんな彼は、人生最後の誕生日に、娘にこう述懐しました。
「私はずいぶんたくさんのことをやってきたが、
結局何も達成できなかった」
90年の生涯を閉じる最期の言葉は
「何もかもウンザリしちゃったよ」
であったという。

●現代も変わらぬ苦海

経済の発展も、苦しみを減じる処方箋とはなりえないようです。
日本のGDP(国内総生産)は50年で7倍になりましたが、
生活満足度は全く変わっていません。

IMG_20150607_0001.jpg-1.jpg

心理学者は、これを「快楽の踏み車」という言葉で説明しています。
「経済など状況がどんなに変わっても、人間は、
その状況に慣れてしまい、願望を引き上げ、
もっともっととさらなる満足を求める」という説です。
永遠に満たされることがない欲望とのイタチゴッコを
人類は繰り返しているだけかもしれません。
それは、政治、経済、科学、医学、
あらゆるジャンルでも同じことがいえそうです。
日々の実感としても、人間関係、業績不振、
災害、病、死別などなど、
苦しみは多岐にわたります。
大小はあれど、苦海の波は、どの時代、
どの国においても静まることを知りません。
こんな状態では「人命は地球より重い」の言葉も、
木枯らしに舞ってしまうでしょう。

●「久しく」とは過去無量劫

この実相を、親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」と短い言葉で
ズバリ言われています。

続けてさらに久しく沈めるわれら」。
ここで「久しく」と言われているのは、
50年や100年くらいのことではありません。
仏教では、私たちは、生まれては死に、
生まれては死にを繰り返し、
流転を重ねてきたと教えられます。
生まれる世界は大きく分けると六つあり、
これを六道とか、六界といわれます。

次の6つの世界です。

IMG_20150607_0001.jpg-2.jpg

①地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。
インドの言葉で「ナカラ」。地獄を八つに分けられているのが、
「八大地獄」である。
「八熱地獄」ともいわれる。
その中でも、最も苦しみの激しい地獄を阿鼻地獄といい、
他の七つの地獄のさらに下にある、
と説かれている。
寿命は八万劫。
一劫は四億三千二百万年。
苦しみがヒマなくやってくるので「無間地獄」とも言われる。

②餓鬼界・・食べ物も飲み物も皆、
炎となって食べられず飲まれもせず、
飢えと渇きで苦しむ世界。

③畜生界・・犬や猫、動物の世界。
弱肉強食の境界で、つねに不安におびえている。

④修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界

⑤人間界・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。

⑥天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
迷いの世界に違いなく、老いる悲しみもあり寿命もある。

私たちの生命は、過去無量劫の間、
六道を回り続けてきた
のであり、
この果てしない苦しみの歴史を
「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれら」と、
教えられているのです。

しかも、
地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し

           (涅槃経)
と経典に説かれていますから、
人間に生まれたことは、実に有り難いことなのです。

IMG_20150607_0002.jpg-1.jpg



このことを『正信偈』で
「源信広海一代経」(源信広く一代の教を開きて)
と親鸞聖人が褒め称える源信僧都は、
こう仰っています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず


人間に生まれたことは大いなる喜びである。
いくら賤しい身であっても、畜生に劣る者はいない。
貧しさを嘆いても、
飢えと渇きで苦しみ続ける餓鬼よりはましである。
思い通りいかない苦しみも、
地獄の大苦悩とは比較にならないではないか。
だから人間に生を受けたことを大いに喜ぶべきなのだ。

何事も比較しなければ分かりません。
「人間に生まれなければよかった」
と嘆く人がありますが、人間の生を受けたことは、
三悪道に堕することを思えばとても有り難いことです。
人として生きて行く以上、この“人命を尊び、感謝する心”が、
政治、経済、科学、医学など
私たちの一切の営みの根底になければならないのではないでしょうか。
そのうえで、親鸞聖人は、人間に生まれた本当の喜びとは何なのか、
こう教えてくださいます。

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

             (親鸞聖人)
無量の過去から続く苦しみの海を、
明るく楽しく渡してくださる船がただ一艘だけある。
それこそ、阿弥陀仏が造られた船である。
この船に乗れば、生きては光明の広海に浮かび、
死しては阿弥陀仏のまします極楽浄土・限りなく明るい無量光明土へ
生まれることができるのだ

この阿弥陀仏の大船に乗るには真実の仏法を聞く以外にありません。
しかも仏法は、人間に生まれた今しか聞けないのです。

この真実が知らされた時、

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く(釈尊)
(生まれ難い人間に生まれてよかった!
聞き難い仏法が聞けてよかった!)

の聖語が、熱く胸に響くのです。
人生の目的とは、本当は多生の目的です。
私たちは今、生死生死を繰り返してきた永の迷いの打ち止めをし、
未来永遠の幸せを獲得するために生きているのです。

どんなに苦しいことがあっても、
「地獄の苦には比ぶべからず」
と乗り越えて光に向かって生き抜くのです。
仏法は、聴聞に極まる。
今ここで、尊い仏縁に感謝し、
親鸞聖人のみ教えを聞かせていただきましょう。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

死んだら賀茂川の魚に食わせよとなぜいわれたのか [親鸞聖人]


親鸞聖人は常に「私が死んだら賀茂川へ捨てて、
魚に食べさせよ
」とおっしゃっていたということが、
「改邪鈔」という書物に書いてあります。

世間一般では盛大な葬式や法事や、
立派な墓を造ることに力を入れて、
死後の冥福を祈っているので、
この聖人のお言葉は何とも不可解なことと思います。
EPSON005.jpg-1.jpg

●信心決定(しんじんけつじょう)に
       力を入れよ

この聖人のお言葉は種々に味わえますが、
まず第一は、肉体の葬式に力を入れずに早く魂の葬式、
すなわち信心決定に力を入れよ
、ということです。
親鸞聖人は信心決定した時をもって、
魂の臨終であり、葬式だと教えられたお方です。

覚如上人も、
「平生のとき、帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」
とおっしゃっているように、
信心決定した人は、もう葬式は終わっているのです。
だから、セミの抜け殻のような肉体の葬式など、
もはや問題ではないのです。

「つまらんことに力を入れて、大事な信心決定を忘れてはなりませんぞ」
と最後まで真実を叫び続けていかれた聖人のお言葉なのです。
庄松同行の臨終に、
「おまえが死んだら、立派な墓を造ってやるから喜べよ」
と言った時、
庄松は、「そんな石の下におらんぞ」と叫んでいった心も同じです。
次に味わえる聖人の御心は、
生前、親鸞は多くの生命を奪い、その肉を食べてきた。
中でも魚を最も多く食べて生きてきた。
いかに生きるためとはいいながら、
まことに相済まんことであった。
せめて死後なりとも、この肉体を魚に食べてもらおう

という深信因果の御心と拝します。

●同じ幸福に

また、
親鸞は幸福にも、仏凡一体、機法一体、
南無阿弥陀仏と一体にさせていただいた。
親鸞の肉体を一部刻みにしても南無阿弥陀仏の染まらぬところはない。
この親鸞の屍を食べることによって、
南無阿弥陀仏と縁を結び、次生に人間界に生まれて、
弥陀の本願を聞いて、
親鸞と同じく信心決定の大幸福を
頂いてくれる魚が一匹でもあってくれよ。
これが罪悪深重、いずれの行も及び難い親鸞の、
せめてもの最後の願いである

という御心もあったのではなかろうかと
拝察せずにおれません。

EPSON006.jpg-1.jpg



nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

弥陀の本願の対象はどんな人?

弥陀の本願の対象はどんな人?


「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」とは
だれのことでしょう。


親鸞聖人の肉声の記録として有名な『歎異抄』第一章には、
どんな人も弥陀の誓願(本願)に救い摂られたならば、
「摂取不捨の利益を得る」と書かれています。
「摂め取って捨てられない幸せ」
ということで、絶対の幸福といっていいでしょう。
阿弥陀仏という仏さまが
「すべての人を、必ず絶対の幸福にしてみせる」
と約束されているからです。
これを、弥陀の誓願といいます。


第一章には、その誓願を、
罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願
と言われています。
今回は、この一文について学びましょう。


EPSON189.jpg-1.jpg


【意訳】
“すべての衆生を救う”という、
阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、
念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、
摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、
一切差別はない。
ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。
なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、
煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、
阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである。


まず「弥陀の誓願」の「弥陀」とは、阿弥陀仏のことです。
阿弥陀仏とは、どんな仏さまでしょうか。
親鸞聖人の教えを、手あかをつけずにそのまま教えられた蓮如上人は、
次のように仰っています。


「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
               (御文章)
三世十方とは、大宇宙のことで、
この広大な宇宙に数え切れないほどまします諸仏方が
先生と仰ぐ仏が、阿弥陀仏だと言われています。

なぜ、阿弥陀仏は、大宇宙の諸仏に褒め讃えられているのでしょうか。
それは、老いも若きも善人も一切の差別なく、
私たちを摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救うと
誓われている仏は、
阿弥陀仏以外おられないからです。


●“罪の重い者を助ける”お約束


これは、どんな人のための、お約束なのでしょうか。
それを教えられているのが、次のお言葉です。


罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします
              (歎異抄第一章)
阿弥陀仏は、煩悩のすさまじい、
最も罪の重い極悪人を助けるのをお目当てに、
本願を建てられたと言われています。

まず「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」とは、
どういう意味でしょう。
「衆生」とは、私たち人間のことです。
「罪悪深重」とは、罪や悪が深くて重いということで、
私たちは、罪悪深重の者と言われているのです。
罪悪深重と聞くと、
“私がいつ、そんな重くて深い罪を犯したのか?”
と思われるかもしれません。

そんな重い罪ならば、刑務所に入らねばならないのに、
捕まってもいない。
だれからも、とがまえられたことがない。
なのに、罪悪深重とは何事かと、
だれもが思うのではないでしょうか。


●仏教は心を最も重視する


仏教では、
「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」

と言われて、口や身体で犯す罪よりも、
心で思う罪が、最も恐ろしいと教えられています。

身体で人を傷つけ、殺めたとか、口でウソを言い、
人をだまして苦しめたとなれば、
逮捕され、刑罰が下るでしょう。
しかし、その身体や口を動かしているのは、心です。
ですから、仏教では、心を一番重く見られます。
口や身体で何もしなくても、
心で恐ろしいことを思っているならば、
重く深い罪なのです。

火事の時、炎から飛び散る火の粉で、
周りの建物が類焼しますので、
火の粉は恐ろしいですが、
消防士が火の粉の放水することはありません。
もし火の粉一つ一つを消すならば、
無尽蔵の水が必要でしょう。
それでも火の粉は尽きません。
消防士が放水する先は、火の元です。


EPSON184.jpg-1.jpg
元さえ消えれば、何百、何千の火の粉は、
一気に消滅するのです。
当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、
では、身体や口で犯す罪はどうでしょう。
どれだけ取り締まって厳罰を科しても、
火の粉に水をかけているのに等しく、
口や身体に指令を出している心を取り締まらぬ限り、
犯罪はやまず、警察官がヒマになることはありません。
では、私たちの心は、どんなことを思っているでしょうか。
『歎異抄』には、欲や怒り、ねたみそねみの炎が
メラメラ燃え上がるように勢い盛んだといわれています。
それが、「煩悩熾盛」ということです。


●キリもキワもない欲の心


欲は、お金が欲しい、物が欲しい、有能だ、
カッコイイ、きれいだと褒められたい、認められたい、
だけど、楽したい、苦労はしたくない・・・・、という心。
果てしなく大きく、深い心です。
「世の中は 一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
という歌があります。
これさえあれば満足、と思って手に入れると、
次は、あれも欲しいなぁ、とキリと際もなく求め続ける。
「これで満足」とは、もう言いません。
借金してでも買わずにいられない。
家族や友人も巻き込んで苦しみますが、
それでも自分を止められない人もいます。
新聞・テレビ・インターネットの広告も、
私たちの欲をかき立てます。
デパートのバーゲンセールは、
開店前から長蛇の列が店を取り巻く。
どの入り口から、どの階段を駆け上がったら、
目的の品をいちばん早く手に入れられるか、
周到に下調べする人もある。
人を押し倒し、けんか騒動が起き、
負傷しても、手にした品は手離さない。
また、見下げられたくない一心で、
高額の教材を使っての猛勉強。
「すごいね!カッコイイ」
「ステキだね!」
この一言が聞きたくて、不眠不休の仕事も、
血を吐くスポーツの猛訓練も頑張れる。
お笑いタレントの間寛平さんは、
世界一周マラソンをする理由を聞かれた時、
「目立ちたいの」と言ってました。
映画『クライマーズ・ハイ』で描かれている谷川岳登山は、
遭難者数が世界のワースト記録を保持しています。
エベレストでさえ180人ほどなのに、
780人が命を落とし“魔の山”ともいわれています。
「もっと高く、もっと困難な岩場へ」との野望は尽きません。
ある登山家は、「周りが止めてくれない。
100人中100人が、次はどこですか?と期待する」
と言っています。


EPSON185.jpg-1.jpg
そんな名誉の代償に、命を落とす悲劇が絶えません。
欲に駆り立てられ、
心安からざる日々を送っているのではないでしょうか。
何人も抑えることのできぬ欲で、
苦しみ悩み、人には言えないことを思い、
罪や悪を造っているのです。


●やめがたい悪性


欲が妨げられると出てくるのが怒りの心です。
欲しいものが手に入らなければ、イライラする。
どうにもならない、いらだち腹立ちに我慢がならず
「ぶち切れる」という言葉もあります。
4月半ば、愛知県で10数年前から引きこもっていた30歳の男が、
インターネットを解約した父に腹を立て、
父と、弟の子供(Ⅰ歳)を刺殺し、
母と弟、その妻も腹や首を刺して、
重軽傷を負わせ、自宅に放火した事件がありました。
怒りのすまさじさを見せられる事件が、後を絶ちません。
いつ破裂するか分からぬ爆弾を、皆、抱えているようです。
怒りは、強い相手にはぶちまけれず、恨みや憎しみとなります。
あの時、あんなこと言われた、こんなことされたと、
いつまでも反芻し、グチグチと文句が噴き上がる。
他人の幸せは、シャクの種。
ねたみ・そねみ・恨みの愚痴は、
他人の不幸を祈る醜く恐ろしい心です。

親鸞聖人は、


「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり」。
      (悲歎述懐和讃)


ヘビやサソリのようなぞっとする恐ろしい心は、
少しもやまないと嘆かれています。
そんな、悪性を見せつけられても、
恐ろしいとも感じず、平然として、
みじんの懺悔も起こらない。
反省のそぶりはしても、
内心は、他人にも自分にも恥ずる心のない「無慚無愧」。
こんな悪を作り続ける私は、どうにもこうにも、
救われない、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生です。


●弥陀おひとりが立ち上がられた


まいた種は必ず生える。
今までも、今も、己のまいた種によって苦しみ悩み、
未来永遠、苦しみ続けねばならない私を、
ただお一人、必ず往生一定(絶対の幸福)の身に助けてみせる、
と約束してくださっているのが、阿弥陀仏です。

蓮如上人の『御文章』には、こう書かれています。
「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば、
弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という
超世の大願を発して(略)
この如来一筋にたのみたてまつらずば、
末代の凡夫、極楽に往生する道、
二も三も、有るべからざるものなり」
             (二帖目八通)
大宇宙の諸仏は、私たちを何とか助けてやりたいと思われましたが、
あまりの悪の重さに驚き、力及ばず、
泣く泣く私たちを見捨てたのだと言われています。

しかし、阿弥陀仏だけが、
諸仏に見捨てられた極悪人なら、なおかわいいと
「われひとり助けん」と願を建て、
立ち上がってくださったのです。

その阿弥陀仏の本願を、
親鸞聖人は『正信偈』に、大讃嘆なされています。


「建立無上殊勝願
超発希有大弘誓」
(無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり)


罪悪深重の私を、往生間違いない身に救ってくだされるお方は、
大宇宙広しといえども、弥陀よりほかになかった、
その弥陀が、無上殊勝の本願を建立してくだされたからこそ、
極悪の親鸞も救われたのだ、と言われています。

「希有」とは、めったにないということ、
どんな人も漏らさず救うという、
弘いお約束ですから「大弘誓」です。
「超発」は、おこされたということですから、
2つともない大願をおこしてくだされたと言われています。
「罪悪深重・煩悩熾盛の私を助けんがための願」を、
無上殊勝の願・希有の大弘誓と、
言葉を尽くして褒め讃えられる理由がお分かりになるでしょう。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

正しいご本尊は何か? [南無阿弥陀仏]

皆さんのお宅にお仏壇はありますか。
「うちはまだ葬式を出したことがないから、
仏壇はありません」
という方もあるでしょう。
多くの人が死人を「仏」といい、
亡くなった先祖を祭るのが仏壇だ、
と誤解しているようです。

仏壇は死んだ先祖のためではなく、
文字どおり仏さまを御安置するところ。

仏とは、仏教で教えられる
五十二のさとりの最高の仏覚を開いた方で、
先祖のことではありません。

私たちが人間に生まれ、
弥陀の本願に救われるために
仏前にて勤行はします。
そこで大事なのが仏壇に安置するご本尊。

根本に尊ぶべき、宗教で最も重要なものです。
浄土真宗の私たちは、
何をご本尊とすればいいのでしょう。
親鸞聖人にお聞きします。


     私たちの
        正しいご本尊は何か?

●「南無阿弥陀仏」って
  何かのおまじない?

親鸞聖人は、
浄土真宗の正しいご本尊は
南無阿弥陀仏の六字の御名号である

と明確に示されています。
「南無阿弥陀仏って何?」
「何かの呪文かおまじない?」
いいえ、そうではありません。
御名号とは分かりやすくいえば、
恐ろしい病で苦しむすべての人を救うために、
名医である阿弥陀仏が作られた、
すごい働きのある妙薬に例えられます。

「病なら
すてておいては なおるまじ
六字の薬 たてかけて飲め」
私たちの心の病はほっておいては治らない。
南無阿弥陀仏の六字の薬を飲めば治るのだ。
この名号の妙薬を飲むには、
仏法を重ねて聞かねばならない。
不断の聞法が大事である

古歌にもこう歌っているように、
私たちは重い心の病にかかっている。
その病気を、飲むと同時に治し、
無上の幸福に救う働きのある
すごい薬が南無阿弥陀仏なのです。

「恐ろしい病?」
「すごい薬?」
一体、何のことかと思うでしょう。
薬といっても、病気の自覚なき人には
無関係としか思えませんね。

まず、その病についてお聞きしましょう。

●私たちは皆、
   “心の難病”で
      苦しんでいる

私もあなたも、すべての人は、皆、
心の病で苦しんでいると、
仏教を説かれたお釈迦さまは教えられています。

「難治の三病(根治し難い重篤な病)」
といわれ、その病名を蓮如上人は、
無明業障の恐ろしき病」(御文章)
とおっしゃっています。
ここで「無明」とは「煩悩」のこと。
私たちを煩わせ、悩ませる。
各人に108ずつある、と説かれています。
年末に除夜の鐘を108鳴らすのは、
この数に由来します。
“煩悩に苦しんだ一年。
来年こそはそれを滅して幸せに”という願いから。
しかし実際は、鐘を打つだけで
煩悩を離れ切れるものではありません。
「煩悩具足(ぼんのうぐぞく)」
「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」
と聖人は、有名な『歎異抄』にいわれ、
「私は煩悩の塊である」
と告白されています。
「具足」とは、それでできている、ということ。
雪だるまは「雪具足」、雪を取ったら何も残らない。
「煩悩具足」の人間は、煩悩に目鼻をつけたような者です。
「熾盛」は盛んに燃えている様子。
煩悩は常に燃え盛って、
私たちを悩ませ、苦しめます。

EPSON148.jpg-1.jpg

●離れきれない
    欲や怒りの心

その108ある煩悩の中で、最も恐ろしい貪欲、
瞋恚(しんい)、愚痴を三毒の煩悩といわれます。

貪欲とは欲の心。
飲みたい、食べたい、楽がしたい。
称賛を好み、嫌われるのを恐れ、少しでも得をしたい、
損したくない心です。
私たちの行動の源泉は、多くの場合、欲でしょう。
学生がつらい勉強に励むのは、
未来の楽を手に入れるため。
反対に怠けるのは、今の楽を求めてのこと。
仕事も同様で、働かねば思い通りの生活を送れないからです。
老いも若きも男女の別なく、我を通したいともがいている、
それらすべて、欲に違いありません。

EPSON148.jpg-2.jpg

その欲が妨げられると、瞋恚(怒りの心)が
猛然と噴き上がってきます。

不況の寒風が心を波立たせ、
ギスギスした風潮が世間を覆っている。
都会では乗客の、駅員への暴行が
多発しているといいます。
不景気で財欲が妨げられ、
他人に八つ当たりせずにいられない
心情になるのでしょうか。
(平成22年のとどろきから載せています)
そんな怒りの連鎖が、時に凶悪事件へと
発展することもある。
いずれもだれかの怒りが、
ほんの少し表に顔を出したのでしょう。
怒れない相手にはネタミ、ソネミ、ウラミの愚痴が、
心底に生じます。

夫婦、親子、兄弟は仲良くしてこその間柄。
しかし、年を重ねてともに暮らしていくと、
人に言えぬ抜き差しならぬ感情が募ります。
「あの時、こんなこと言われた」
「20年も前のことだけど、一生忘れられん」
など、実際に顔突き合わせて生活する
当事者にしか分からないもの。
周囲からはとても推し量ることができないのです。
そんな思いの数々を、胸に納めて一生を終える人、
耐え切れずに感情を爆発させる人。
いろいろでしょう。
そのいずれもが、煩悩の毒によって苦悩の人生となる。
まさに「恐ろしき病」。

欲、怒り、愚痴と無関係な人はないのだと知らされます。
煩悩の障りが現れて苦しむのを「業障」といわれています。
煩悩で悪業を造り、それが原因となって苦しみの悪果が
自身に現れるのです。

●諸仏に
  見捨てられたのは
       だれ?

こんな恐ろしい病で苦しむ私たちを、
何とか救ってやりたいと立ち上がられたのが、
十方諸仏(大宇宙の仏方)でした。

それを蓮如上人は『御文章』に教えられています。
「十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
十悪・五逆の罪人、五障・三従の女人は、
いずれも私たち人間のこと。
欲や怒り、愚痴の心で悪を造り続ける罪悪深重の者を、
何とか救おうと諸仏方が願いを起こされたが、
私たちの罪があまりに重いため、
「とても我々の手に負えん」
と見捨てられたのです。

しかしこのままなら、私たちは何にために生まれ、
生きているか分からず、苦しみから苦しみへ、
冥から冥へと、現在も死後もジゴクに沈んでしまう。
そんな者をとても見捨てておけん、
何としても救いたいと、
ただ一人立ち上がられたのが、
十方諸仏の本師本仏・阿弥陀仏なのです。

EPSON149.jpg-2.jpg


「然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に見捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
と『御文章』には続きます。
比類なき名医である阿弥陀仏は、
そんな私たちを救わんと、

諸仏に見捨てられた極悪人なら、
なおかわいい。この私が必ず最高の幸せに救ってみせる

と誓願を起こされました。
このお約束を阿弥陀仏の本願といいます。

EPSON150.jpg-1.jpg

●私ひとりのための
    お約束

本師・阿弥陀仏が、ご自身で建てられた
この「五劫の思惟」の誓いを果たすために
兆載永劫の修行」という気の遠くなるような長期間、
ご苦労なされて成就されたのが
南無阿弥陀仏」の六字の御名号です。

ここで五劫、兆載永劫の「劫」とは、
4億3千200万年のこと。
無限数とも教えられ、古来、その長さをこう例えられます。

EPSON150.jpg-2.jpg

四十里四方の大盤石(だいばんじゃく)を、
天人が百年ごとに羽衣で触れて磨し、
これによって消滅してもいまだ尽きないほどの長期間。
           (盤石劫ともいう)
四十里四方の大倉庫に芥子(けし)を満たし、
百年に一粒ずつ取り出して、尽きないほどの長期。
           (芥子劫ともいう)
いずれも想像を絶する長期間であり、
その長きにわたる弥陀のご苦労
は、
ひとえに、この私一人を救わんがためであったなあと聖人は、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり」
            (歎異抄)
と感泣なされています。
南無阿弥陀仏の大功徳を頂けば、往生一定、
命終われば阿弥陀仏の極楽浄土に往って
弥陀同体の仏に生まれる身となります。

EPSON151.jpg-2.jpg

真っ暗な後生が、限りなく光明輝く未来に転じ変わる。
煩悩具足のままで、大安心、大満足の身に大変わりする。
南無阿弥陀仏には、私たちをそんな幸せにする働きが
封じ込められています。

大宇宙に二つとない至宝なのです。
この南無阿弥陀仏は、弥陀がお手元に置いて
喜ぶためのものではありません。
私たちに一刻も早く飲ませ、
心の重病を完治させる。
そのために阿弥陀仏は、今もお立ちづくめで
働いてくださっているのです。

では、この名号の薬はどのようにして頂けるのでしょう。
お釈迦さまは、
聞其名号
といわれ、南無阿弥陀仏を「聞」と聞いた一念に、
耳から頂くのだと教えられています。

そこまで進むには、仏法を重ねて
聴かせていただく以外にありません。
仏法は聴聞に極まる
と、これを教えられています。
「聞其名号信心歓喜」、南無阿弥陀仏を弥陀から賜った一念に、
絶対の幸福に救い摂られるのです。

だからこそ親鸞聖人は、このすごい力のある御名号を、
生涯、ご本尊とされました。

親鸞聖人と同じご本尊を御安置し、
聖人と同じ往生一定の身に一日も早く救われるよう、
光に向かわせていただきましょう。

 


nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

死んだら誰でも極楽に往けるのか [Q&Aシリーズ]

どんな人でもただ念仏していると、
死んだら簡単に極楽浄土へ往けて仏になれるのが、
浄土真宗のように教えられています。
そのために世間の人たちは死んだ人をみんな仏といって、
何の不信も抱きません。
しかし、これは浄土真宗でもなければ仏教でもありません。

●浄土へは
    往き易くして人なし

仏教を説かれたお釈迦さまは、唯一の真実経『大無量寿経』の中に、
易往而無人」と教えられているだけでも、
それは明らかです。
「易往而無人」ということは、
「往き易くして人無し」と読みます。
お釈迦さまは出世本懐として
阿弥陀仏の浄土往生を説かれてから、
「弥陀の浄土へは往き易いけれども、往っている人が無い」
と、おかしなことを仰っておられます。
EPSON064.jpg-1.jpg
なぜおかしいかと言いますと、
弥陀の浄土へ往くことが本当に易しいのならば、
往っている人が無いというのはおかしいし、
浄土へ往っている人が無いというのが真実なら、
往き易い浄土だと言われるのは適当ではないことになります。
この点について親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中に、
「『易往而無人』というは、『易往』はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること
疑いなければ往き易きなり、
『無人』というは、ひとなしという、ひとなしというは、
真実信心の人はありがたき故に実報土に生るる人稀なりとなり
と仏意を開顕なされています。

EPSON065.jpg-1.jpg


蓮如上人は、これを、
安心(あんじん)を取りて
弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、
信心をとる人稀なれば
浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり
               (御文章二帖七通)
と教えられています。
親鸞聖人も蓮如上人も、
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは
真実の信心を獲ている人だけなのだ、
その真実の信心を獲ている人(現在、阿弥陀仏に救われている人)は
甚だ稀だから、誰でも彼でも死にさえすれば、
極楽へ往けるのではないのだ、これが釈迦の御意だ、
と教えておられます。
EPSON066.jpg-1.jpg

 
●教える人も
    求め抜く人もいない

また、存覚上人は次のように教えられておられます。
「人なしというは、よくおしうる人もなくよくきく人もなきなり」
             (浄土見聞書)
真実の信心を教え切る知識もいないし、
真剣に求め抜く同行もいないから、
真実の信心を獲る人がいない、
だから浄土へ往く人は雨夜の星になるのだ
と喝破なされています。
EPSON066.jpg-2.jpg

●観念の遊戯では助からぬ

浄土真宗は平生業成、現生不退、報土往生、
弥陀同体と現当二益の大幸福をうる無二の勝法でありますが、
その真実が開顕されず他力が無力になり、
やりっぱなしが他力のように教えられています。
そのまま、そのままと教えられてわがままになり、
放縦になって有り難いお言葉や例え話をきいて合点して
観念の遊戯をしている者ばかりです。
何十年聞いても晴れたも曇ったも分からず、
分からぬままのお助けと疑心往生を決め込んでいます。
だから順境の時は
「これこれ」
と喜べますが、逆境に煩悩が噴き上がる時は、
「こんなことではなあ」
「どうも・・・」
と、底の知れない不安が湧き上がるのは、
一応の合点をしただけで真実の信心でない証拠です。
火に触れれば火傷すると、
幾ら合点し信じていても火傷はいたしません。
ご飯を食べれば腹が膨れると合点して信じていても、
食べなければ腹は満足しません。
世の中のことでさえ合点や言葉では通れないのです。
ましていわんや後生の一大事という大問題。
色もなければ形もない無限無辺の仏智不思議を全領することは
難中之難無過斯(なんちゅうなんむかし)のことです。
平生にこの難中之難を弥陀のご念力によって突破させられて、
地獄一定が極楽一定に転じ、
生死の苦海が光明の広海に転じた人でなければ、
弥陀の浄土へ往くこともできなければ成仏することもできません。
その身そのままその機のなりで、
三悪道へだだ走りしている人ばかりであることを
よくよく承知していなければなりません。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

お金を使う人使われる人 [なぜ生きる]

お金を使う人
  使われる人
    「生かすかどうかは腕次第」

EPSON136.jpg-0.jpg

食品の値上げが相次いでいます。
牛乳、パン、うどん、しょうゆ等々。
家計を預かる主婦のため息が聞こえてきそうです。
(平成20年のとどろきです。)
お金はしかし、有るところには有るもの。
大阪で、自宅に59億円もの現金を
隠し持っていた姉妹が逮捕されました。
脱税額は過去最高の29億円といわれます。
「脱税姉妹」と嘲笑しつつ、
“100万でいいから譲って欲しい”と、
何ともうらやましく思っている方も多いでしょう。

無いから幸せになれないのか、有れば満足できるのか。
今回はそんな“お金”にちなんだ話です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●ああ、もっとお金が欲しい

EPSON137.jpg-1.jpg

4月に日本中の関心を集めたのが、
暫定期限切れに伴う、ガソリン代の値下げでした。
スタンドには続々と車が押し寄せ、
一円でも安いところを求めて、車を走らせた人もあるでしょう。
(平成20年のとどろきより載せています)
スーパーの特売チラシを見比べて、
二軒、三軒とはしごする。
どうしたらガスや電気料金を抑えられるか。
一円でも安くと、私たちは日々頭を悩ませています。
ですから、社会保険庁のずさんな管理のために、
もらえるはずの年金を受け取れなくなった時の怒りは無理からぬこと。
75歳以上の人たちは、4月から始まった新しい医療制度により、
介護保険に加えて医療保険料も年金から天引きされるようになりました。
制度の周知不足も重なって、
“出すべきもんは出さずに、保険料だけはしっかり取るのか”
“役所に都合がいいだけの制度だ”
と反発の声が次々と上がりました。
このように朝から晩まで私たちは、
お金のことで一喜一憂。
漏らすのは、
“もっとお金が有れば・・・”
のつぶやきばかりという人も多いのではないでしょうか?

EPSON137.jpg-2.jpg

ビジネスマンを対象にしたアンケート調査を見ると、
「現在の生活にどの程度満足していますか」
の問いに、
「不満」「やや不満」と答えた人が半数を超えています。
中でも、資産や将来の収入に悩みや不安を抱えている人が
多いと分かりました。
その不安を解消しようと、毎日並々ならぬ努力をしています。
他人と同じことをしていては、
より多く稼ぐことはできないからです。
“年収が何倍もアップする”
“株で常勝するには・・・”
“少ない時間で最大の成果”
書店にはこんなタイトルのビジネス書がズラリと並び、
競争心をあおっています。
戦う術を少しでも早い時期から身につけさせようと、
株式の仕組みや取引の仕方を教えている中学校もあるといいます。
昨年相次いだ食品の偽装にしても、
政治家や官僚による汚職事件にしても、
つまるところは、金のため。
では、なぜそこまでして求めるのか。
お金が有れば衣食住が満たされ、欲しいものが手に入る。
今より豊かな生活を送れて、幸福になれる。
そう信じているからでしょう。

ならば、たくさんの金を手にできたならば、
本当に幸せになれるのでしょうか。

●手にして始まる
    苦悩がある

EPSON138.jpg-1.jpg

ある弁護士の話によると、
全国の裁判所で審理される事件のうち、
最も多いのが金銭絡みのものだといわれます。

EPSON138.jpg-2.jpg
「日本司法支援センター」に寄せられる、
年間約22万件の相談の中でも、
多重債務などの金銭のお借り入れや遺産相続、
金銭の貸し付けなどが、上位に顔を出しています。
これは、お金や遺産があるがゆえに
争っている人があることを示しています。
借金に首が回らず泣く人もありますが、
貸して苦しんでいる人もあるのです。

貸す金が無ければ、“返してくれない”
と涙を流す必要がありません。
“おれにもよこせ”“いや、おまえには渡さぬ”
と兄弟間で取り合いが起きるのは、
莫大な親の遺産があるから。
つまり“有るがゆえの苦しみ”なのです。
金は人を変える、とはよく聞く言葉ですが、
どんなに仲のよかった家族や親戚、
友人・知人同士であっても、ひとたび金銭が絡めば、
骨肉相はむ争いを繰り広げかねないのです。

EPSON139.jpg-1.jpg

法廷で争っている人ばかりが苦しんでいるのではありません。
現代を見渡せば、自殺者は毎年3万人を超え、
精神的な病を抱える人も増えています。
DVや児童虐待の問題の深刻化。
“人を殺してみたかった”“むしゃくしゃしたから”
と身勝手な理由で、見ず知らずの人を殺す事件が
後を絶ちません。
4、50年前と比べると、金や物に驚異的に恵まれ、
生活は豊かになったはずなのに、
今日の日本は幸福どころか殺伐として、
皆、心がイライラしています。

金や物が無ければ苦しいですが、有れば有ったでまた苦しい。
有っても無くても苦しんでいることに変わりがないことを、
2600年前、インドで仏教を説かれたお釈迦さまは、
「有無同然」と教えられました。

金をたくさん手にしたから、
それで幸福になれるわけではないのです。

かつて競争社会のまっただ中で、
家庭も健康も犠牲にしながらモーレツに働き、
高度経済成長を支えてきた「団塊」の世代。
次々と定年を迎えるに当たって、
“今までは、物質的な繁栄を求めて死ぬほど頑張ってきたが、
今になって「心」の問題がいちばん大切だと分かった”
と気づく人が少なくありません。
古人の知恵に学ぼうという昨今の古典ブームも、
その流れの一つといえましょう。

●なぜ金に
   “使われて”しまうのか

必死の思いで金を手にし、
欲しいものが手には入ったはずなのに、
幸せになれないのはなぜでしょう。
考えさせるこんな小話があります。

あるところに、愚かな金持ちがいた。
有名な画家を訪問した時のこと。
見事な作品の数々に感動し、
自分もあのような絵を描いてみたい、
と思うようになった。

EPSON140.jpg-2.jpg
彼はまず、金にまかせて素晴らしいアトリエを建てた。
そして高価なフランス製の絵の具など、
必要な一切のものを買い集めると、
そこへこもって一歩も外へ出ずに
絵を描き続けるようになった。
こうして数年がたったある日、
彼は突然、近所の人にアトリエの参観を許した。
珍しがって集まってきた人々は一様に驚く。
どの絵も、小学生が描いたような
稚拙(ちせつ)なものばかりだったからである。
聞けば彼は、アトリエや絵の具など、
高級なものさえ集めれば、よい絵が描けるものだと
固く信じ切っていた。
ために、肝心の腕を磨くことを
忘れていたというのだ。

EPSON139.jpg-2.jpg

生け花や料理でもそうです。
どんなにきれいな花をそろえても、
生け方を知らねば美しく飾れない。
高級な食材も、調理方法を知らねば
おいしい料理は作れない。
たとえ有り合わせでも、華の先生は美しく生けるし、
名シェフはおいしい料理を作ります。
材料に活殺(かっさつ)は、
それを使用する人の腕一つにかかっているのです。
金は私たちを幸福にする材料ですが、
その金を得ることがイコール幸福ではありません。
「脱税姉妹」と話題の方たちは、
銀行口座から数十回にわたって現金を引き出し、
4,5年ほど前から自宅車庫にため込むようになったといいます。
しかし、ダンボール50箱に詰められた札束は、
使われることもなく無造作に積み上げられ、
カビが生えていたものまで見つかった。
姉妹は着物に少し金をかけるくらいで、
あとは一般の人と何ら変わらぬ
質素な生活を送っていたというのです。
彼女たちにとって、あの大金は何だったのでしょうか。
“金は使うためにある”という平凡な真理に盲目で、
いつの間にか金の番人になっているのは、
かの人ばかりではありません。
「幸福」と「幸福の材料」を混同したまま、
幾らよい材料ばかりを集めても、
本当の幸福になれないのは、当然でしょう。

●一生懸命手に入れた
  “材料”が生かされる

EPSON141.jpg-1.jpg

では、本当の幸福とは何か。
その厳存を教え、人間の真に生きる道を教えられたのが、
お釈迦さまという方です。

このお釈迦さまの教えを、
正確に伝えられた800年前の親鸞聖人は、
念仏者は無碍の一道なり」(歎異抄)
弥陀に救われ念仏する者は、
一切が碍りにならぬ、絶対の幸福者である
とおっしゃっています。
金が有るから、無いからということが、
全く障りにならない真の幸福があるぞ、
という明言です。

今日の言葉で、「絶対の幸福」ともいえましょう。
仏法を真剣に聞き求め、無碍の一道の身になったならば、
だれと比べるまでもなく、
心底からの安心、満足を謳歌できます。

500年前、親鸞聖人のみ教えを
日本全国に広められた蓮如上人はこれを、
「信の上は一人居て喜ぶ法なり」
        (御一代記聞書)
と言われました。
これこそが私たちの生きる目的です。
真の幸福、無碍の一道に向かって生きてこそ、
今まで懸命に手に入れてきた“材料”も
真に生かされることになるのです。

EPSON141.jp2.jpg


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

苦しみの根源は煩悩ではなく、無明の闇! [親鸞聖人]

 


無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり
      (浄土和讃)

親鸞聖人のご恩に報いるには、
喜んでいただけることをしなければ
なりません。
それには聖人が生涯、教えられたみ教えを知り、
信従するのが一番です。
仏教は苦しみの原因を無明と断定しています。
無明とは明かりのない心、臨終に真っ暗になる心です。

還来生死輪転家
決以疑情為所止
(生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す)
苦しみが際限もなくやってくるのは、
疑情(無明)が原因、と断定されています。

●煩悩と闘われた聖人

ところが、私たちはそう思えません。
お金や物質に恵まれれば、
政治や経済がよくなれば、
幸福になれると信じています。

さらに苦悩の根源を追求してゆくと、
煩悩につき当たります。
煩悩が苦悩の原因のように説かれるお経もあり、
体験上も、もっと欲が淡泊であればとか、
短気だから苦しむんだと思われます。
欲や怒りや愚痴の心を煩悩と名付けられたのは、
まことにその通りです。
仏教を大別すると、聖道仏教と浄土仏教の二つになります。
聖道仏教では、煩悩を苦しみの根源のように教え、
親鸞聖人は9歳から比叡山天台宗で、
『法華経』に説かれている難行苦行をなさいました。

煩悩が苦しみの原因のように教える方便の仏教と、
20年間取り組まれたのです。

聖人が如実に煩悩と闘われたお言葉は、
定水を凝らすと雖も識浪(しきろう)頻(しきり)に
動き、心月を観ずと雖も妄雲(もううん)猶覆う

でした。
方便を仮、真実を真ともいい、
仏教には真仮が説かれています。

真仮が分からずして助かる道理がありません。

煩悩によって日夜苦しんでいる私たちが、
苦悩の根源を煩悩と間違えるのはいたし方ありませんが、
いつまでも方便に留まって真実を見失ってはなりません。
(真は真実の教えで、仮は方便の教え、
つまり、真実の教えである“弥陀の救い”に値わせるために方便の教えを説いた。)

善悪と信疑

無明の闇を体験的に知るのは並大抵ではありませんが、
無明を解決しなければ、
生死輪転の家に還来し続けるのです。

煩悩をみつめてゆく中に、
無明が苦悩の根源と知らされてきます。
無明と煩悩を混同している人ばかりです。
煩悩と無明の区別がつかなくては、
親鸞聖人の本当のみ教えは分かりません。

EPSON196.jpg-1.jpg


煩悩は善悪相対であり、
無明は信疑廃立、全然違います。

仏教では煩悩具足、煩悩成就の凡夫と教えられるように、
煩悩は死ぬまで無くなりません。

無明はきれいになくなるときがあります。
無明が分かるのは臨終ですが、
肉体の臨終に分かっても手遅れ、
心の臨終にたたない限り、解決できません。

後生暗い人(死後がハッキリしていない人)を愚者と
仏教では言います。

蓮如上人は『御文章』に、
八万の法蔵を知るというとも、
後世を知らざる人を愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも、
後世を知るを智者とす

と仰います。

後生明るい人は、どんな人であっても智者、
後生暗い人は、学者であっても愚者です。

人生の智者か愚者かは、
無明が晴れたか否かで分かれます。

無明の闇は学問では分かりませんが、
真面目に己れの死を見つめてゆくと知らされてきます。

親鸞聖人29歳の御時、
「信受本願 前念命終」
と仰っているのは、心の臨終です。

闇を破する弥陀の本願

無明を破るのが光明。
光明は仏教では智慧といい、
後生暗い心を解決できる仏は、
阿弥陀仏しかなく
釈尊(釈迦)は阿弥陀仏を
智慧光仏と名づけておられるのです。

「凡夫にそんなハッキリできるものか」
という人は、
阿弥陀仏が無明を破ることができるかと
疑っているのと同じです。
我が身の無明さえも知らず、
破っていただいた体験がないのは当然。
無明が破れなければ、
阿弥陀仏は智慧光仏ではなくなり、
釈尊も親鸞聖人もウソつきになります。
親鸞聖人は、阿弥陀仏によって無明を破っていただかれ、
「釈尊が智慧光仏と名づけられたのは、
まことだったなあ」
と感動的に仰っているところです。
一切諸仏も三乗衆もほめたたえられます。
一切とは十方微塵世界。
大宇宙には数え切れない仏がましまし、
三世諸仏、一切諸仏といいます。
三乗衆とは、声門・縁覚・菩薩のこと、
私たちとはケタ違いに勝れた人たちが
異口同音にほめたたえられます。
それは三世諸仏も三乗衆も破れなかった無明を
阿弥陀仏が破られるからです。

EPSON197.jpg-1.jpg

●真の報恩

親鸞聖人の生涯は、阿弥陀仏一仏に向かってゆくと、
必ず無明が破られるときがある、
そこまで聞き求めなさい、のご教示です。

私たちが無明の晴れるまで求め抜いたとき、
親鸞聖人は一番お喜びになられるのです。

 


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。