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親鸞聖人から、あなたへのメッセージ [親鸞聖人]

親鸞聖人から、あなたへメッセージ

難思の弘誓は
難度の海を度する大船、
無碍の光明は
無明の闇を破する慧日なり

      (教行信証総序)

阿弥陀さまは苦しみ多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります。

今月も、親鸞聖人の主著『教行信証』の
冒頭のお言葉について学びましょう。


●「無碍の光明」とは

まず、「無碍の光明」について解説いたしましょう。
「光明」とは、「力」ということです。
一般にも、「親の七光り」「親の威光」
という言葉が使われます。
社長の息子が、実力もないのに難なく出世したり、
有名人の娘が、さほど魅力がなくても芸能界入りしたりすると、
「あれは親の七光りだ」とささやかれます。
もちろん、実際に親から虹のごとき七色の光がでるワケではなく、
親の「力」を「光」で表しているのです。
仏教では、「仏さまのお力」を「光明」といいます。
「無碍の光明」とは、すべての仏の本師本仏である
阿弥陀仏のお力のことです。

阿弥陀仏のお力は、何ものにも遮られない(碍とならない)
偉大な力ですから「無碍の光明」と言われ、

親鸞聖人は『正信偈』に阿弥陀仏のことを「無碍光如来」とも
仰っています。
この弥陀のお力を「他力」ともいいます。

●「他力」の本当の意味

「他力」と聞くと、どんなイメージがあるでしょうか。
「他人任せ」「他人依存」「自立心がない」
「自主性がない」など、
弱々しいものの代名詞になっており、
「他力本願ではダメだ」「他力本願を脱却しよう」
と使われたりもします。
それが高じてか、仏教を聞いている人までが
弱いイメージで見られがちです。
しかし、本当はどうなのでしょう?

強そうで弱いものは歯であり、
弱そうで強いものは舌だといわれます。
そういえば、バリバリ何でもかみ砕く歯は、
一見、強そうに見えますが案外もろく、折れたり、
虫歯でボロボロになったりします。
それに対して、弱そうに見えるコンニャクのような舌は、
生涯、抜けもせねば短くもならず、
「年取って、体のあちこち悪くなったが、
舌だけは元気」という人が多いようです。
同じように、人生にも、強そうで弱いものと、
弱そうで強いものとがあります。
お釈迦さまは、金や財産、名誉や権力を持っている人は、
一見、強そうに見えるが、本当は弱いものだ、
と仰っています。

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それに反して、弥陀に救われ、絶対の幸福に生かされている人は、
「他力の信心」などといわれますから、
他人に頼る弱い人間のように思われるかもしれませんが、
いざ鎌倉という時には、不思議な力を発揮しますので、
強い人間だと言われています。

事実、日本を一握りにし、難攻不落の大阪城を築き、
天下に号令した太閤秀吉も、
辞世の言葉は哀れなものでした。
「露とおち
露と消えにし 我が身かな
難波のことも 夢のまた夢」
と、寂しく息を引き取っています。
お釈迦さまの仰るとおり、
もはやそこには、天下人としての面影はありません。

遠くは欧州全土を征服したナポレオンや、
アレキサンダー、ジンギスカンも、
回天の大事業を成し遂げましたが、
人類に、一体、何を残したというのでしょうか。
大観すれば、ただひとときの夢の戯れにすぎません。

近くは、日本を不敗の神国と妄信し、
世界を相手に宣戦した立て役者、
東条英樹も、緒戦のカクカクたる戦果を上げていた時分は、
騎虎(きこ)の勢いでしたが、一敗地にまみれ、
A級戦犯の筆頭として、板敷きの上にワラ布団を置き、
五枚の毛布のほかは、
何も持ち込めない巣鴨の刑務所にぶち込まれ、
軍事法廷に立たされるや、
かつての、総理、陸相、参謀総長、内務、文部、
外務の各大臣を歴任した威厳は微塵もなく、
孤影悄然(こえいしょうぜん)たる姿に、
人間本来の相(すがた)を見せつけられた思いを、
皆したはずです。

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しかも、その彼が、一度(ひとたび)、
仏縁に恵まれ大慈大悲の阿弥陀仏の本願にあうや、
死刑直前に、
「さらばなり 有為の奥山 今日こえて
弥陀のみもとで のびのびと寝ん」
「日も月も 蛍の光 さながらに
行く手に 弥陀の 光輝く」
と詠み遺しています。
人間のつけた、一切の虚飾を振るい落とされた、
そこにあるものは、か弱き葦(あし)のような、
罪悪にまみれた自己でしかありません。
悪夢から覚めた彼は、大罪を犯したが、
多生にも億劫にもあい難い、
弥陀の救いにあえたこと一つが有り難かったと、
絞首台に勇み足で立ったといわれています。

財産は、地変に遭えば潰れる。
建物は、災禍に遭えば灰になる。
名誉や地位の箔は、死の前には執着を増ばかり。
妻子は、輪廻の仲立ちにしかなりません。
全てが、一朝の夢にしかすぎないことが分かれば、
本願他力に生き抜かれた親鸞聖人のたくましさも、
蓮如上人の無碍の大活躍も理解されることと思います。

●極楽浄土まで届けてくださる阿弥陀仏のお力

このように、「他力」とは、
他人に依存することではありません。

他力の「他」とは、阿弥陀如来に限り、親鸞聖人は、

「他力」と言うは如来の本願力なり(教行信証)

とズバリ教えられています。
では、阿弥陀仏の本願力(他力)とは、
どのような力でしょうか?

それは、私たちを必ず南無阿弥陀仏の大船に乗せて
極楽浄土に届け、仏に生まれさせてくださるお力です。

ですから、阿弥陀さまに救われ、
南無阿弥陀仏の大船に乗った人には、
「極楽へ行けるだろうか」の不安は微塵もありません。
まだ救われていなければ、
「いつも親切しているし、
後ろ指さされるようなことはしていないから、
死んで悪いところにはいかないだろう。
でも、ひょっとしたら・・・」
「こんな嫌な心が出てくるようではナァ、
悪い世界に堕ちるのではなかろうか」
と、様々な疑いや不安が出てきて、
往生浄土(極楽に往く)の「碍り(さわり)」
(妨げ)となります。
この弥陀の本願に対する疑いの心を「無明の闇」といわれます。
往生浄土の「碍り」である無明の闇を照破する(無くす)
阿弥陀仏のお力を、「無碍の光明」と言われるのです。

阿弥陀仏の偉大なお力を、親鸞聖人は、ご和讃に、
「無明長夜の闇を破し
衆生の志願を満てたまう」
と教導されています。
阿弥陀仏は、昿劫といわれる遠い過去から今日まで、
私を迷わせ苦しませてきた苦悩の根元“無明長夜の闇”
をブチ破ってくださり、
「いつ死んでも極楽浄土に生まれさせる」願いを、
私たち(衆生)の身の上に満たしてくだされるのです。

こんな凄いお力の仏さまは阿弥陀仏だけです。
大宇宙に無量の仏さまがおられても、
無明の闇を晴らすことはできない。
お釈迦さまもできないことなのです。

●「無明の闇」を破る太陽

「慧日」とは、「智慧の太陽」のことで、
阿弥陀仏のお力を、無明の闇を破る太陽に例えられています。
「天に二日(にじつ)なし」ともいわれますように、
無明の闇を破る「太陽」もまた唯一なのだよと、
親鸞聖人は、弥陀の救いを称賛されているのです。
「必ず極楽浄土へ往ける」と、
未来明るい智者になるには、
智慧の太陽に照破されるまで、
仏法を聞かせていただくしかありません。

無碍の光明によって無明の闇が破られ、
いつ死んでも極楽往生間違いなしの身になった時、

人間に生まれてよかった!
苦しみも悲しみも、涙で過ごした日々も、
この幸せになるためだった。
この世の一切は、無上の法悦を得るために存在していたのだ

と生命の歓喜が沸き起こるのです。
この真実の幸せを獲るためにこそ、
私たちは生まれてきた。
そして今、生きているのです。

最後に今一度、『教行信証』冒頭のお言葉を拝読いたしましょう。

難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
            (教行信証総序)
“阿弥陀さまは 苦しい多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります”

八百年の時を超えて、親鸞聖人の力強いメッセージが
胸に迫るではありませんか。


 


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弥陀の救いは完全な平等 [親鸞聖人]

凡聖逆謗斉廻入(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば、)

如衆水入海一味(衆水の海に入りて一味なるが如し)

 

自由と平等。この2つは、古今の人類が希求してやまぬ究極の理想でしょう。

だが実際は、自由を追求すれば不平等になり、

平等を徹底すると不自由を強いられる。

小学校の駆けっこでは、「順位をつけない」ことで

「平等性」を保とうと試みられていますが、

自由な競争心を失わせ活力を奪うと懸念する声もあります。

また、私有財産を禁じ完全平等を目指すはずの共産主義国家で、

貧困にあえぐ民衆をはた目に、独裁統治者や一部の特権階級が富を独占し

豪奢に暮らす、いわば「超格差社会」が出現しやすい事実は、

いかに「平等」が実現困難か示しているといえるでしょう。

考えてみれば、生まれもっての能力や家柄、国籍、肌の色、

男女の違いや容姿のよしあし、学問や経験の浅深など、

あらゆることが十人十色、千差万別で、一人も同じ人はありません。

現在、地球上に70数億人の人がいるといわれますが、

それらの人はみな異なります。

いわゆる「差別」は、紛れもない現実です。

そんな中、すべての人が真の平等になれる、

驚くべき世界の厳存を喝破されている親鸞聖人のお言葉が、

「凡聖逆謗斉廻入

如衆水入海一味」

の二行なのです。意味は一言でこうです。

阿弥陀仏に救い摂られたならば、才能の有無、健常者・障害者、

人種や職業・貧富の違いなど関係なく、

万川の水が海に入って一味になるように、

すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ

聖人が、かかる不思議な「弥陀の救い」を明示されている目的、

その御心は、

「道俗時衆共同心」

と『正信偈』の最後に言われているとおり、

“すべての人よ、この親鸞と同じように、

「弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」と叫ばずにおれない身になってくれよ”

これ以外には何もありませんでした。

だが、「すべての人を同じ幸せに生かし切る」弥陀の救いは、

あまりにも常識からかけ離れているために、

簡単に分かることではない。

そこで聖人は、後の世の私たちのために、

法友と大喧嘩されてまで「一味平等」の弥陀の救いを開示してくだされたのが、

今日「信心同異の諍論(じょうろん)」といわれている大論争です。

 

●信心同異の諍論

 

この争いの相手は、聖信房・聖観房・念仏房の3人。

みな法然上人の高弟です。

当時、法然上人は、「智恵第一の法然房」「勢至菩薩の化身」といわれ、

日本一の仏教の大学者でした。

有名な大原問答は、京都の大原で、

各宗派のトップの学者たちを相手にたったお一人で、

7000余巻の一切経を縦横無尽に引用して、

完膚なきまでに論破なされた大法論です。

また主著の『選択本願念仏集』は、

当時の仏教界に水爆級の衝撃を与えた事実によっても、

いかに法然上人が常人を超えた方であったか、知られるでしょう。

その法然上人には、380余人という多くのお弟子がありました。

聖信房・勢観房・念仏房の3人は、中でもトップクラスの俊秀であり、

親鸞聖人の先輩でもあったのです。

聖人34歳の御時。3人が、「信心」について話し合っているのを耳にされます。

アニメ『世界の光・親鸞聖人』第2部で見てみましょう。


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念仏房「高弟2人が、何の話かな」

聖信房「今、お師匠さまの信心は凄い。

あんな信心にはとても我々はなれんと言っておったのだ」

念仏房「そりゃそうだ。智恵第一のお師匠さまと、同じ信心になれるものか」

勢観房「大原の法論でもそうだった。

    300余人の日本中の学者を向こうに回して、

    たったお一人で打ち破られたお方だからなあ」

念仏房「勢至菩薩の生まれ変わりと、みんなが言うのも当然だ」

聖信房「そんな方の信心と、同じになれないのが当たり前よ

 

ここで親鸞聖人が、摩擦を避けて“見て見ぬふり”をされたならば、

論争は起こらなかったでしょう。

後に先輩から疎まれ門内で孤立されることもなかったかもしれません。

だが“極悪の親鸞を、絶対の幸福に救ってくださった弥陀の厚恩には、

身を粉に骨砕きても報いずにはおれない”と、

燃える「恩徳讃」に生き抜かれる聖人には、

弥陀の本願の聞き誤りを、看過することはできなかったのです。


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親鸞聖人「少し、よろしいでしょうか」

念仏房「何だ、親鸞か」

親鸞聖人「今、お師匠さまの信心と、同じになれるはずがないと、

仰っておられたようですが」

聖信房「いかにも」

親鸞聖人「それは親鸞、納得できません」

念仏房「そなたはいつも先輩の言うことにケチをつける人だなあ。

善恵房殿の時もそうだった。そんなことでは、みんなから嫌われるだけだぞ」

親鸞聖人「先輩方には、申し訳ありませんが、親鸞の信心は、

お師匠さまの信心と、まったく同じでございます」

3人「なっ、何ーっ!」

念仏房「何ということを親鸞!お師匠さまを冒涜するにもほどがある。

聞き捨てならんぞ」

 

かくして、「信心が同じくなれるか、なれないか」で意見が対立した論争なので、

「信心同異の諍論」と伝えられています。

 

●師への深い尊敬

 

親鸞聖人が、法然上人をいかに尊敬されていたかは、

有名な『歎異抄』第二章の、

 

たとい法然上人にすかされまいらせて、

念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候

 

“たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄へ堕ちても、

親鸞なんの後悔もないのだ”

という宣言、また「救われたのは、まったく阿弥陀仏のお力によってであった」

と感泣されている聖人が、

 

昿劫多生のあいだにも

出離の強縁しらざりき

本師源空いまさずは

このたびむなしくすぎなまし

 

“親鸞、法然上人に救われた”

とまで言われている「ご和讃」からも窺えます。

聖人にとって法然上人は、まさに“いのち”であったのです。

その聖人が、

親鸞の信心は、法然上人の信心とまったく変わるところはありません。

同じです

と、何の躊躇もなく確言されていることには、

聖信房・勢観房・念仏房ならずとも、だれもが驚くのではないでしょうか。

「お前、何様のつもりだ。自惚れるな」

「法然上人をどんな方だと心得る。弟子としてあるまじきことだ」

と、激しく非難した3人の気持ちも分からないでもありません。

この3人も、ただの人ではなかった。

法然上人から親しく教えを受け、

皆さんに伝えることを使命としていた仏教の専門家であり、

法然門下380余名の中でも高弟と目され、

お師匠さまへの尊敬の深さは一方ならぬものでした。

だからこそ、親鸞聖人の、

「私の信心は、法然上人と同じです」の発言にいきり立ち、

「同じになれるはずがない。撤回せよ」と迫ったのです。

法然上人を尊敬していない3人なら、こんな反応はありえないでしょう。

また学問や理屈で分かることなら、

優秀な人たちが間違えるはずもありません。

 

●法然上人のご裁断

 

どれだけ論じても埒が明かないと見て3人は、法然上人をお呼びし、

ご裁断を仰ぐことになりました。

その時の“判決文”ともいえる上人のお言葉が残っています。

 

信心のかわると申すは自力の信にとりての事なり、

すなわち智慧格別なるが故に信また格別なり。

他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、

源空が信心も善信房の信心もさらにかわるべからず。

ただ一つなり。

我が賢くて信ずるにあらず。

信心のかわりおうておわしまさん人々はわが参らん浄土へはよも参りたまわじ、

よくよく心得らるべき事なり 

                 (御伝鈔) 

 

これも分かりやすく描かれた、アニメで見てみましょう。


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法然上人「そなたたちは、私の信心と、異なると言ったのだな」

3人 「そのとおりでございます」

法然上人「皆、よく聞きなさい。信心が異なるというのは、

自力の信心であるからだ

3人 「えーっ!」

法然上人「自力の信心は、智恵や学問や才能で作り上げたもの。

その智恵や学問や経験や才能は、一人一人異なるから、

自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ

勢観房「異なるのは、自力の信心か・・・」

法然上人

他力の信心は、阿弥陀如来からともに賜る信心だから、

誰が受け取っても皆、同じ信心になるのである

聖信房「他力の信心は同じになる・・・」

法然上人「それ故に、阿弥陀如来から賜った私の信心も、

親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。

まったく同じになるのだよ

念仏房「それでは、親鸞の言うことが正しかったのか・・・」

法然上人「いいですか。この法然と異なる信心の者は、

私の往く極楽浄土へは往けませんよ。

心しておきなさい

3人 「はあっ」

念仏房「おのれ、親鸞。

よくもお師匠さまの前で恥を・・・」

 

こうして、彼ら高弟の誤りを正された親鸞聖人は、

いよいよ孤立していかれました。

今日「信心同異の諍論」と伝えられているこの論争は、

『歎異抄』後序にも記されています。

 

●一味平等の救いを鮮明に

 

これは決して、「愚かな人たちが、うっかり誤った」

という程度のものではないのです。

何億兆年と迷い続けてきた我々一人一人の魂にかかわる、

根深い重大な問題を孕んでいることを忘れてはなりません。

では、聖信房・勢観房・念仏房の3人が、

「法然上人の信心と同じになれなくて当然」

と間違った原因はどこにあるのか。

「信心」といえば、「智恵や学問、才能、経験」で作り上げたものしか

知らなかったところにあります。

これらは一人一人異なるものであり、

法然上人は卓越しておられたから、

「信心も異なって当然」と結論したのです。


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昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、

同宿して争っていました。

「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」

と、高山の男は言う。

「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。

この目でいつも見ていることだ」

と、一歩も引かないのは大島の男。そこへ宿屋の主人がやって来て、

「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。

太陽は屋根から出て屋根へ入るもの」

と笑ったといいます。

同じ時計の音でも、金回りのいい人には、

「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」

と聞こえるそうですが、借金に追われている者には、

「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」

と時計までもが催促するといいます。

一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、

各人各別の智恵や才能、経験で固めた「自力の信心」は、

異なるのが特徴です。

それに対して「他力の信心」は、智恵や才能、

学問や経験、善人悪人などとは関係なく、

阿弥陀仏から賜る信心だから、誰が受け取ってもまったく同じになるのです。

TV局が同じなら、各家庭のテレビが、大・小・新・旧、異なっても、

放送内容が変わるはずがない、のに例えられるでしょう。

あるいは、同じ日本銀行発行の一万円札ならば、

金襴・革・布、どんな素材の財布に入っていても、

同じく一万円の値があるようなもの、

と言えば分かりやすいでしょうか。

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慈悲平等の阿弥陀仏から賜った信心に、

相違があろうはずがない。法然の信心も親鸞の信心も、

ともに他力の信心、まったく違いはない。同じである

誤りやすいところを法然上人は懇ろに糾され、

この一味平等の絶対の救いを親鸞聖人は『正信偈』に、

「凡聖逆謗斉廻入

如衆水入海一味」

と鮮明にされて“片時も急いで弥陀の救いにあってくれよ”

と念じておられるのです。

 

 

 

 


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六道輪廻して苦しむ私たち [六道輪廻]

生死の苦海ほとりなし
 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、必ず乗せて、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

まず、親鸞聖人は、「生死の苦海ほとりなし」
と言われています。
これは私たちの生を海に例えたものです。
仏教で「生死」とは、「苦しみ」を表し、
「ほとりなし」とは、「際がない」「果てしない」ということですから、
「私たちは、果てしない苦しみの海で溺れもだえている」
という意味です。
2600年前、お釈迦さまは「人生は苦なり」と言われ、
『正信偈』に親鸞聖人が
「善導独明仏正意」(善導ひとり、仏の正意に明らかであった)
と称賛される中国の善導大師は、1300年前
「四方八方眺むれどただ愁嘆の声のみぞ聞く」
と言われています。
近代に日本ではどうでしょう?
人生を鋭く見つめた文学者たちはこう語っています。

○なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。
(芥川龍之介・自伝小説『或阿呆の一生』で、
長男出生について語った言葉)

○のんきとみえる人々も、心の底をたたいてみると、
どこか悲しい音がする。
     (夏目漱石『吾輩は猫である』)

○人生のさびしさは酒や女で癒されるような浅いものではないからな。
      (倉田百三『出家とその弟子』)

●成功者もまた・・・

成功を勝ち得た者もまた「苦しみ」から逃れることはできないようです。
前漢の第七代皇帝・武帝は、
中国全土を支配し、絶大な権勢と富を誇り、
漢時代の最盛期を生き抜いた。
しかし、盛大で、甘美を極めたといわれる宴の最中に、
彼の心に去来した次の言葉は
今でも多くの人々の胸を打ちます。

「歓楽極まりて 哀情多し
少壮は幾時か 老を如何せん」(秋風辞)
(歓び、楽しみの絶頂に、哀しさ、空しさが満ちてくる。
若く、壮健な時は束の間で、やがて、老いさらばえて
人は死ぬ。この哀しくも儚い現実をどうすればいいのか)

チャーチルは、第2次世界対戦・戦勝時のイギリス首相であり、
1953年にはノーベル文学賞を受賞。
そんな彼は、人生最後の誕生日に、娘にこう述懐しました。
「私はずいぶんたくさんのことをやってきたが、
結局何も達成できなかった」
90年の生涯を閉じる最期の言葉は
「何もかもウンザリしちゃったよ」
であったという。

●現代も変わらぬ苦海

経済の発展も、苦しみを減じる処方箋とはなりえないようです。
日本のGDP(国内総生産)は50年で7倍になりましたが、
生活満足度は全く変わっていません。

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心理学者は、これを「快楽の踏み車」という言葉で説明しています。
「経済など状況がどんなに変わっても、人間は、
その状況に慣れてしまい、願望を引き上げ、
もっともっととさらなる満足を求める」という説です。
永遠に満たされることがない欲望とのイタチゴッコを
人類は繰り返しているだけかもしれません。
それは、政治、経済、科学、医学、
あらゆるジャンルでも同じことがいえそうです。
日々の実感としても、人間関係、業績不振、
災害、病、死別などなど、
苦しみは多岐にわたります。
大小はあれど、苦海の波は、どの時代、
どの国においても静まることを知りません。
こんな状態では「人命は地球より重い」の言葉も、
木枯らしに舞ってしまうでしょう。

●「久しく」とは過去無量劫

この実相を、親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」と短い言葉で
ズバリ言われています。

続けてさらに久しく沈めるわれら」。
ここで「久しく」と言われているのは、
50年や100年くらいのことではありません。
仏教では、私たちは、生まれては死に、
生まれては死にを繰り返し、
流転を重ねてきたと教えられます。
生まれる世界は大きく分けると六つあり、
これを六道とか、六界といわれます。

次の6つの世界です。

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①地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。
インドの言葉で「ナカラ」。地獄を八つに分けられているのが、
「八大地獄」である。
「八熱地獄」ともいわれる。
その中でも、最も苦しみの激しい地獄を阿鼻地獄といい、
他の七つの地獄のさらに下にある、
と説かれている。
寿命は八万劫。
一劫は四億三千二百万年。
苦しみがヒマなくやってくるので「無間地獄」とも言われる。

②餓鬼界・・食べ物も飲み物も皆、
炎となって食べられず飲まれもせず、
飢えと渇きで苦しむ世界。

③畜生界・・犬や猫、動物の世界。
弱肉強食の境界で、つねに不安におびえている。

④修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界

⑤人間界・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。

⑥天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
迷いの世界に違いなく、老いる悲しみもあり寿命もある。

私たちの生命は、過去無量劫の間、
六道を回り続けてきた
のであり、
この果てしない苦しみの歴史を
「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれら」と、
教えられているのです。

しかも、
地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し

           (涅槃経)
と経典に説かれていますから、
人間に生まれたことは、実に有り難いことなのです。

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このことを『正信偈』で
「源信広海一代経」(源信広く一代の教を開きて)
と親鸞聖人が褒め称える源信僧都は、
こう仰っています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず


人間に生まれたことは大いなる喜びである。
いくら賤しい身であっても、畜生に劣る者はいない。
貧しさを嘆いても、
飢えと渇きで苦しみ続ける餓鬼よりはましである。
思い通りいかない苦しみも、
地獄の大苦悩とは比較にならないではないか。
だから人間に生を受けたことを大いに喜ぶべきなのだ。

何事も比較しなければ分かりません。
「人間に生まれなければよかった」
と嘆く人がありますが、人間の生を受けたことは、
三悪道に堕することを思えばとても有り難いことです。
人として生きて行く以上、この“人命を尊び、感謝する心”が、
政治、経済、科学、医学など
私たちの一切の営みの根底になければならないのではないでしょうか。
そのうえで、親鸞聖人は、人間に生まれた本当の喜びとは何なのか、
こう教えてくださいます。

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

             (親鸞聖人)
無量の過去から続く苦しみの海を、
明るく楽しく渡してくださる船がただ一艘だけある。
それこそ、阿弥陀仏が造られた船である。
この船に乗れば、生きては光明の広海に浮かび、
死しては阿弥陀仏のまします極楽浄土・限りなく明るい無量光明土へ
生まれることができるのだ

この阿弥陀仏の大船に乗るには真実の仏法を聞く以外にありません。
しかも仏法は、人間に生まれた今しか聞けないのです。

この真実が知らされた時、

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く(釈尊)
(生まれ難い人間に生まれてよかった!
聞き難い仏法が聞けてよかった!)

の聖語が、熱く胸に響くのです。
人生の目的とは、本当は多生の目的です。
私たちは今、生死生死を繰り返してきた永の迷いの打ち止めをし、
未来永遠の幸せを獲得するために生きているのです。

どんなに苦しいことがあっても、
「地獄の苦には比ぶべからず」
と乗り越えて光に向かって生き抜くのです。
仏法は、聴聞に極まる。
今ここで、尊い仏縁に感謝し、
親鸞聖人のみ教えを聞かせていただきましょう。


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死んだら賀茂川の魚に食わせよとなぜいわれたのか [親鸞聖人]


親鸞聖人は常に「私が死んだら賀茂川へ捨てて、
魚に食べさせよ
」とおっしゃっていたということが、
「改邪鈔」という書物に書いてあります。

世間一般では盛大な葬式や法事や、
立派な墓を造ることに力を入れて、
死後の冥福を祈っているので、
この聖人のお言葉は何とも不可解なことと思います。
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●信心決定(しんじんけつじょう)に
       力を入れよ

この聖人のお言葉は種々に味わえますが、
まず第一は、肉体の葬式に力を入れずに早く魂の葬式、
すなわち信心決定に力を入れよ
、ということです。
親鸞聖人は信心決定した時をもって、
魂の臨終であり、葬式だと教えられたお方です。

覚如上人も、
「平生のとき、帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」
とおっしゃっているように、
信心決定した人は、もう葬式は終わっているのです。
だから、セミの抜け殻のような肉体の葬式など、
もはや問題ではないのです。

「つまらんことに力を入れて、大事な信心決定を忘れてはなりませんぞ」
と最後まで真実を叫び続けていかれた聖人のお言葉なのです。
庄松同行の臨終に、
「おまえが死んだら、立派な墓を造ってやるから喜べよ」
と言った時、
庄松は、「そんな石の下におらんぞ」と叫んでいった心も同じです。
次に味わえる聖人の御心は、
生前、親鸞は多くの生命を奪い、その肉を食べてきた。
中でも魚を最も多く食べて生きてきた。
いかに生きるためとはいいながら、
まことに相済まんことであった。
せめて死後なりとも、この肉体を魚に食べてもらおう

という深信因果の御心と拝します。

●同じ幸福に

また、
親鸞は幸福にも、仏凡一体、機法一体、
南無阿弥陀仏と一体にさせていただいた。
親鸞の肉体を一部刻みにしても南無阿弥陀仏の染まらぬところはない。
この親鸞の屍を食べることによって、
南無阿弥陀仏と縁を結び、次生に人間界に生まれて、
弥陀の本願を聞いて、
親鸞と同じく信心決定の大幸福を
頂いてくれる魚が一匹でもあってくれよ。
これが罪悪深重、いずれの行も及び難い親鸞の、
せめてもの最後の願いである

という御心もあったのではなかろうかと
拝察せずにおれません。

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弥陀の本願の対象はどんな人?

弥陀の本願の対象はどんな人?


「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」とは
だれのことでしょう。


親鸞聖人の肉声の記録として有名な『歎異抄』第一章には、
どんな人も弥陀の誓願(本願)に救い摂られたならば、
「摂取不捨の利益を得る」と書かれています。
「摂め取って捨てられない幸せ」
ということで、絶対の幸福といっていいでしょう。
阿弥陀仏という仏さまが
「すべての人を、必ず絶対の幸福にしてみせる」
と約束されているからです。
これを、弥陀の誓願といいます。


第一章には、その誓願を、
罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願
と言われています。
今回は、この一文について学びましょう。


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【意訳】
“すべての衆生を救う”という、
阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、
念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、
摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、
一切差別はない。
ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。
なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、
煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、
阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである。


まず「弥陀の誓願」の「弥陀」とは、阿弥陀仏のことです。
阿弥陀仏とは、どんな仏さまでしょうか。
親鸞聖人の教えを、手あかをつけずにそのまま教えられた蓮如上人は、
次のように仰っています。


「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
               (御文章)
三世十方とは、大宇宙のことで、
この広大な宇宙に数え切れないほどまします諸仏方が
先生と仰ぐ仏が、阿弥陀仏だと言われています。

なぜ、阿弥陀仏は、大宇宙の諸仏に褒め讃えられているのでしょうか。
それは、老いも若きも善人も一切の差別なく、
私たちを摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救うと
誓われている仏は、
阿弥陀仏以外おられないからです。


●“罪の重い者を助ける”お約束


これは、どんな人のための、お約束なのでしょうか。
それを教えられているのが、次のお言葉です。


罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします
              (歎異抄第一章)
阿弥陀仏は、煩悩のすさまじい、
最も罪の重い極悪人を助けるのをお目当てに、
本願を建てられたと言われています。

まず「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」とは、
どういう意味でしょう。
「衆生」とは、私たち人間のことです。
「罪悪深重」とは、罪や悪が深くて重いということで、
私たちは、罪悪深重の者と言われているのです。
罪悪深重と聞くと、
“私がいつ、そんな重くて深い罪を犯したのか?”
と思われるかもしれません。

そんな重い罪ならば、刑務所に入らねばならないのに、
捕まってもいない。
だれからも、とがまえられたことがない。
なのに、罪悪深重とは何事かと、
だれもが思うのではないでしょうか。


●仏教は心を最も重視する


仏教では、
「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」

と言われて、口や身体で犯す罪よりも、
心で思う罪が、最も恐ろしいと教えられています。

身体で人を傷つけ、殺めたとか、口でウソを言い、
人をだまして苦しめたとなれば、
逮捕され、刑罰が下るでしょう。
しかし、その身体や口を動かしているのは、心です。
ですから、仏教では、心を一番重く見られます。
口や身体で何もしなくても、
心で恐ろしいことを思っているならば、
重く深い罪なのです。

火事の時、炎から飛び散る火の粉で、
周りの建物が類焼しますので、
火の粉は恐ろしいですが、
消防士が火の粉の放水することはありません。
もし火の粉一つ一つを消すならば、
無尽蔵の水が必要でしょう。
それでも火の粉は尽きません。
消防士が放水する先は、火の元です。


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元さえ消えれば、何百、何千の火の粉は、
一気に消滅するのです。
当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、
では、身体や口で犯す罪はどうでしょう。
どれだけ取り締まって厳罰を科しても、
火の粉に水をかけているのに等しく、
口や身体に指令を出している心を取り締まらぬ限り、
犯罪はやまず、警察官がヒマになることはありません。
では、私たちの心は、どんなことを思っているでしょうか。
『歎異抄』には、欲や怒り、ねたみそねみの炎が
メラメラ燃え上がるように勢い盛んだといわれています。
それが、「煩悩熾盛」ということです。


●キリもキワもない欲の心


欲は、お金が欲しい、物が欲しい、有能だ、
カッコイイ、きれいだと褒められたい、認められたい、
だけど、楽したい、苦労はしたくない・・・・、という心。
果てしなく大きく、深い心です。
「世の中は 一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
という歌があります。
これさえあれば満足、と思って手に入れると、
次は、あれも欲しいなぁ、とキリと際もなく求め続ける。
「これで満足」とは、もう言いません。
借金してでも買わずにいられない。
家族や友人も巻き込んで苦しみますが、
それでも自分を止められない人もいます。
新聞・テレビ・インターネットの広告も、
私たちの欲をかき立てます。
デパートのバーゲンセールは、
開店前から長蛇の列が店を取り巻く。
どの入り口から、どの階段を駆け上がったら、
目的の品をいちばん早く手に入れられるか、
周到に下調べする人もある。
人を押し倒し、けんか騒動が起き、
負傷しても、手にした品は手離さない。
また、見下げられたくない一心で、
高額の教材を使っての猛勉強。
「すごいね!カッコイイ」
「ステキだね!」
この一言が聞きたくて、不眠不休の仕事も、
血を吐くスポーツの猛訓練も頑張れる。
お笑いタレントの間寛平さんは、
世界一周マラソンをする理由を聞かれた時、
「目立ちたいの」と言ってました。
映画『クライマーズ・ハイ』で描かれている谷川岳登山は、
遭難者数が世界のワースト記録を保持しています。
エベレストでさえ180人ほどなのに、
780人が命を落とし“魔の山”ともいわれています。
「もっと高く、もっと困難な岩場へ」との野望は尽きません。
ある登山家は、「周りが止めてくれない。
100人中100人が、次はどこですか?と期待する」
と言っています。


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そんな名誉の代償に、命を落とす悲劇が絶えません。
欲に駆り立てられ、
心安からざる日々を送っているのではないでしょうか。
何人も抑えることのできぬ欲で、
苦しみ悩み、人には言えないことを思い、
罪や悪を造っているのです。


●やめがたい悪性


欲が妨げられると出てくるのが怒りの心です。
欲しいものが手に入らなければ、イライラする。
どうにもならない、いらだち腹立ちに我慢がならず
「ぶち切れる」という言葉もあります。
4月半ば、愛知県で10数年前から引きこもっていた30歳の男が、
インターネットを解約した父に腹を立て、
父と、弟の子供(Ⅰ歳)を刺殺し、
母と弟、その妻も腹や首を刺して、
重軽傷を負わせ、自宅に放火した事件がありました。
怒りのすまさじさを見せられる事件が、後を絶ちません。
いつ破裂するか分からぬ爆弾を、皆、抱えているようです。
怒りは、強い相手にはぶちまけれず、恨みや憎しみとなります。
あの時、あんなこと言われた、こんなことされたと、
いつまでも反芻し、グチグチと文句が噴き上がる。
他人の幸せは、シャクの種。
ねたみ・そねみ・恨みの愚痴は、
他人の不幸を祈る醜く恐ろしい心です。

親鸞聖人は、


「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり」。
      (悲歎述懐和讃)


ヘビやサソリのようなぞっとする恐ろしい心は、
少しもやまないと嘆かれています。
そんな、悪性を見せつけられても、
恐ろしいとも感じず、平然として、
みじんの懺悔も起こらない。
反省のそぶりはしても、
内心は、他人にも自分にも恥ずる心のない「無慚無愧」。
こんな悪を作り続ける私は、どうにもこうにも、
救われない、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生です。


●弥陀おひとりが立ち上がられた


まいた種は必ず生える。
今までも、今も、己のまいた種によって苦しみ悩み、
未来永遠、苦しみ続けねばならない私を、
ただお一人、必ず往生一定(絶対の幸福)の身に助けてみせる、
と約束してくださっているのが、阿弥陀仏です。

蓮如上人の『御文章』には、こう書かれています。
「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば、
弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という
超世の大願を発して(略)
この如来一筋にたのみたてまつらずば、
末代の凡夫、極楽に往生する道、
二も三も、有るべからざるものなり」
             (二帖目八通)
大宇宙の諸仏は、私たちを何とか助けてやりたいと思われましたが、
あまりの悪の重さに驚き、力及ばず、
泣く泣く私たちを見捨てたのだと言われています。

しかし、阿弥陀仏だけが、
諸仏に見捨てられた極悪人なら、なおかわいいと
「われひとり助けん」と願を建て、
立ち上がってくださったのです。

その阿弥陀仏の本願を、
親鸞聖人は『正信偈』に、大讃嘆なされています。


「建立無上殊勝願
超発希有大弘誓」
(無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり)


罪悪深重の私を、往生間違いない身に救ってくだされるお方は、
大宇宙広しといえども、弥陀よりほかになかった、
その弥陀が、無上殊勝の本願を建立してくだされたからこそ、
極悪の親鸞も救われたのだ、と言われています。

「希有」とは、めったにないということ、
どんな人も漏らさず救うという、
弘いお約束ですから「大弘誓」です。
「超発」は、おこされたということですから、
2つともない大願をおこしてくだされたと言われています。
「罪悪深重・煩悩熾盛の私を助けんがための願」を、
無上殊勝の願・希有の大弘誓と、
言葉を尽くして褒め讃えられる理由がお分かりになるでしょう。


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