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未来永遠の家族になる方法はあるのか!? [死後に再会するためには]

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親兄弟や愛児、恋人との
悲しい別れを経験した人は、
故人の在りし日を、
しみじみと思い出すことがあるでしょう。

今ごろあの人は、どこでどうして・・・
もう一度会いたい

つのる思いは簡単には消せません。
私たちを突如、涙の谷に突き落とす残酷な死。
しかしそれは、私自身にも必ず訪れます。
愛する人の死を無駄にしないためにも、
我が身の一大事を見つめ、
弥陀の浄土で再会できる身に
ならせていただきましょう。


お別れね。また私を見つけてね。

小説『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一著)が、
三百万部を超える記録的なベストセラーになりました。
主人公の朔(さく)とアキは、
将来を誓い合う高校生同士。
「いつか一緒にオーストラリアに行こう」
と夢を馳せる二人が、
アキを襲った白血病によって、
悲しい別れを余儀なくされる物語です。
「愛し合った二人が再び会える世界ってあるのかな?」
別れを悟った二人の関心は、
死後再会できるかという一点に
向かっていきました。

しかし、結論の出ぬまま、
アキに最期が訪れます。
「お別れね、また私を見つけてね」
朔に告げたアキの言葉に、
多くの人が涙しました。



不慮の事故や事件で、突如、
家族を失った心の傷も深刻です。
長崎の小6同級生殺害事件は
日本中に衝撃を与えました。
愛娘を失った父親の、
さっちゃん。今どこにいるんだ」の手記には、
だれもが胸を痛めずにはおれませんでした。

大切な人の死を悼む気持ちは皆同じです。
でも、死別はいつも私が残るとは限りません。
親しい人の死に接した時、
人はやがてわが身に訪れる死を予感し、
底知れぬ不安と恐怖を感じます。
「もう再び会えないのだなあ、
話もできないのだ。」
と、故人のために流す涙は、実は、
「自分もいつか必ず、
再び帰ってはこられない遠い世界に、
たった一人、旅立たねばならないのだなあ」
と、自分のために流す涙でもあるのです。

家族や友人の無常を、
我が身に迫る一大事を
見つめる勝縁とすることこそ、
肝心ではないでしょうか。


こうまでしてくださらないと 
             分からぬ私でありました

お釈迦さまの時代に
こんな話が残されています。


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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キサーゴータミーといわれる麗しい女性が、
結婚して玉のような男子を生んだ。
命より大切にして育てていたその子が、
突然の病で急死した。
彼女は狂わんばかりに
愛児の亡骸を抱きしめ、
この子を生き返らせる人はいないかと
村中を尋ね回った。
会う人見る人、その哀れさに涙を流したが、
死者を生き返らせる人などあろうはずがない。
だが今の彼女に、
何を言っても無駄だと思う人たちは、
「舎衛城(しゃえじょう)にまします釈尊に
聞かれるがよい」
と教える。

早速、キサーゴータミーは釈尊を訪ね、
泣く泣く事情を訴え、
子どもの生き返る法を求めた。
哀れむべきこの母親に釈尊は、
優しくこう言われている。
「あなたの気持ちはよく分かる。
いとしい子を生き返らせたいのなら、
私の言うとおりにしなさい。
これから町に行って、
今まで死人の出たことのない家から、
ケシの実をひとつかみ、
もらってくるのです。
すぐにも子どもを生き返らせてあげよう。」
それを聞くなりキサーゴータミーは、
町に向かって一心に走った。

どの家を訪ねても、
「昨年、父が死んだ」
「夫が今年亡くなった」
「先日、子どもに死別した」
という家ばかり。
ケシの実は、どの家でも持ってはいたが、
死人を出さない家はどこにもなかった。
しかし彼女は、なおも死人の出ない家を
求めて駆けずり回る。
やがて日も暮れ夕闇が町を包むころ、
もはや歩く力も尽き果てた彼女は、
トボトボと釈尊の元へ戻っていた。

「ゴータミーよ、ケシの実は得られたのか」
「世尊、死人のない家はどこにもありませんでした。
私の子どもも死んだことがようやく知らされました。」
「そうだよキサーゴータミー。
人は皆死ぬのだ。
明らかなことだが、
分からない愚かな者なのだよ。

本当に馬鹿でした。
こうまでしてくださらないと、
分からない私でございました。

こんな愚かな私でも、
救われる道を聞かせてください。」
愛児の無常に、自らの一大事を自覚した彼女は、
深く懺悔し、直ちに仏法に帰依したという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇宙に飛び出しても逃げられない「死」

生あるものは必ず死す。
有史以前から幾憶兆の人類で、
死ななかった人は一人もいない。
蓮如上人は、『御文章』に、
上は大聖世尊(釈迦のこと)より始めて、
下は悪逆の提婆(だいば)に至るまで、
逃れがたきは無常なり。

と仰っています。
最も偉大なお釈迦さまも、
その釈尊の名声をねたみ、
命を付け狙った提婆も、
死を免れることはできない。
たとえ、宇宙に飛び出しても
逃れることはできないのです。

死は突如やってくる暴力

死は百パーセント確実な未来と納得しても、
とかく遠い先のことと思いがちです。
死なんてまだまだ先の話。
今から考えたってしょうがないよ。」
と言う人がありましょうが、
果たして、
正しい人生観といえるでしょうか。


タレントのビートたけしさんは、
かつてのバイク事故で生死をさまよった時、
「今までどうしてこんな生き方をしたんだろう」
と猛省し、「人生観の訂正」をせざるをえなかったことを
告白しています。
死というものは突如来る暴力なんだね。
準備なんかしなくたっていいと言ってても、
結局死というものには
無理矢理対応させられるわけだよ。

あまりに一方的に向こうが勝手に来るわけだから。
死というもののすごさというのは、
自分が人生を振り返って、
何をしたとか何をしていないとかいうのは
全然関係ない。
そんなことはビタ一文かすんないんだよ

                 (『たけしの死ぬための生き方』)

精神科医であった頼藤和寛氏も、
五十二歳でガンの宣告を受けたとき、
著書にこう綴っています。
これまで平気で歩いてきた道が
実は地雷源だったと教えられ、
これから先はもっと危ないと
注意されるようなものである。
それでも時間の本性上、
退くことはおろか立ち止まることもできない。
無理矢理歩かされる。
次の一歩が命取りなのか、
あるいはずいぶん先の方まで
地雷源に触れないままに進めるのか。
いずれにせよ、
生きて地雷源から抜け出せることはできない。

        (『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』)


次の一歩で爆発するかもしれない道を、
誰もが歩いているのだと訴えています。
死はまだまだ先の話ではない。
今の問題だと知らされるではないですか。

にもかかわらず、
自分が死ぬとは思えないのは、
太陽と死は直視できないといわれるように、

己の死は、直視するには
あまりに過酷だからでしょう。

しかし、いくら目を背けていても
解決にはなりません。


「今死ぬと 思うにすぎし 宝なし
       心にしみて 常に忘れるな」

死を見つめることは
いたずらに沈むことではなく、
生の瞬間を日輪よりも明るくする
第一歩なのです。


生死の一大事を
     ただいま解決する真実の仏法


いよいよ死なねばならぬとなったらどうでしょう。
蓮如上人のお言葉です。

「まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
我が身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ


今まで頼りにし、
力にしてきた妻子や金や物も、
いよいよ死んでいく時は、
何一つ頼りになるものはない。
すべてから見放されて、
一人でこの世を去らねばならない。
丸裸で一体、どこへ行くのだろうか。




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仏典にはこんな話が伝えられています。

昔、ある金持ちの男が
三人の妻を持って楽しんでいた。
第一夫人を最も可愛がって、
寒いと言ってはいたわり、
暑いと言っては心配し、
贅沢の限りを尽くさせ、
一度も機嫌を損なうことはなかった。

第二夫人は、
それほどではなかったが種々苦労して、
他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。

第三夫人は、何か寂しい時や、悲しい時や、
困った時だけ会って楽しむ程度であった。

ところがやがて、
その男が不治の病床に伏すようになった。
刻々と迫り来る死の影に恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ。

ところが、
「ほかのこととは違って、
死の道連れだけは、
お受けすることはできません」
とすげない返事に、
男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし、寂しさに耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に頼んでみようと思った。
「あなたがあれほど、かわいがっていた第一夫人でさえ、
嫌とおっしゃったじゃありませんか。
私も、まっぴらごめんでございます。
あなたが私を求められたのは、
あなたの勝手です。
私から頼んだのではありません」
案の定、第二夫人の返事も冷たいものであった。

男は、恐る恐る第三夫人にすがってみた。
「日ごろのご恩は、決して忘れませんから、
村はずれまで同道させていただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください。」
と突き放されてしまった。

男というのは私たち人間のことです。
第一夫人は肉体、
第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟友人などを
例えられています。

いよいよ死んでいくときに、
私たちは今まで命にかえて、
愛し求めてきた財産や家族、
この肉体からさえも見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに、
嘆き悲しむのです。

そして、一歩後生へと足を踏み出した時、
魂は真っ暗な未来に泣き、たった一人、
未知の世界へと入っていかねばなりません。


お釈迦さまの、この一大事の解決一つを
教えられているのが、真実の仏教です。


●往くは、光明輝く弥陀の浄土

釈尊は、一切経の結論として、
『大無量寿経』に、

一向専念無量寿仏」とおおせになり、 
(※無量寿仏=阿弥陀仏)
後生の一大事の解決は、
大宇宙最高の仏である
阿弥陀仏の本願によるしかない。
だから、阿弥陀仏一仏に向き、
阿弥陀仏だけを信じよ

と明言されています。
 

 
蓮如上人も、だから『御文章』に、
これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、
信心決定して参るべきは
安養の浄土なりと思うべきなり

とおっしゃり、
阿弥陀仏を信ずるよりほかに、
後生の一大事を解決する道は
決してないぞ
、と明かされています。

弥陀は、その誓願に、
「死後のハッキリしない暗い心を一念で破り、
‘極楽浄土へ必ず往ける’大安心、
大満足の身にしてみせる」
と誓われています。

この阿弥陀仏の本願を信じ切れた時、
この世は生きてよし、
死んでよしの無上の幸福に生かされ、
死後は必ず弥陀の浄土へ往生しますから、
後生の一大事は完全に解決いたします。


しかも極楽の蓮台(れんだい)に
仏として生まれれば、
懐かしい人たちとも再会できるのです。

『阿弥陀経』には、
「倶会一処(くえいっしょ)」と
説かれています。
弥陀の浄土は、ともに一処に会うことのできる
世界だからです。


ただ、ここで、
真実の信心をえたる人のみ
本願の実報土(極楽浄土)によく入ると知るべし

               (尊号真像銘文)
と、親鸞聖人が明言されているように、
浄土へ往けるのは、真実の信心、
すなわち阿弥陀仏から賜る他力の信心を
得ている人のみである
ことを
よく心得ていなければならない
でしょう。

蓮如上人も、
一念の信心定まらん輩(ともがら)は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑いなし

とおっしゃり、
死後、浄土に往生できるのは、
一念の信心(他力の信心)を獲得した人だけだぞ

と目釘を刺しておられます。

●信心の異なる者は、再会できない。

親鸞聖人三十四歳の御時、
そのことを明らかになされたことがありました。
法然上人のお弟子であった聖人は、
ある時、聖信房、勢観房、念仏房らの
そうそうたる高弟の居並ぶ前で、

「法然上人の信心も、この親鸞の信心も、
少しも異なったところはございません。
全く一味平等でございます。」
と喝破なされた。

「そなた何様のつもりだ」
「お師匠さまを冒涜するにもほどがある」
聖人のあまりに大胆不敵な発言に、
憤慨した三人は激しく難詰(なんきつ)する。
智恵第一、勢至菩薩の化身と尊崇されていた
法然上人の信心と同じになれるなど、
夢にも考えられぬことであったからでしょう。

朝夕、ともに法然上人の説法を聞いていても、
上人の告白される血を吐く懺悔もなければ、
飛び立つような大慶喜心もない。
これはなぜだろうと思ってはみますが、
お師匠さまと同じ信心になれるはずがないと
思い込んでいますから、
親鸞聖人のお言葉は大変な驚きであったのです。

その時聖人は、穏やかに、
「皆さん、お聞き違いくださいますな。
この親鸞は智恵や学問や徳がお師匠さまと同じだと
申しているのではありません。
ただ、阿弥陀仏より賜った他力金剛の信心一つは、
微塵も異ならぬと申したのでございます。」
と断固として言い切られました。

この激しい信心の諍論に対して法然上人のご裁断は、
実に快刀乱麻を断つ、明快そのものでした。

皆さん、よく聞きなさい。
信心が異なるというのは、
自力の信心であるからだ」
「自力の信心は、智恵や学問や経験や才能で
作り上げたもの。
その智恵や学問や経験や才能は、
一人一人異なるから、
自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ

「他力の信心は、
阿弥陀仏からともに賜る信心だから、
だれが受け取っても皆、
同じ信心になるのである」
「それゆえに、阿弥陀如来から賜った私の信心も、
親鸞の信心も、少しの違いもない。
全く同じになるのだよ。」


「いいですか。この法然と異なる信心の者は、
私の往く極楽浄土には往けませんよ。
心しておきなさい。」

と、キッパリと相手の顔色をうかがわずにおっしゃいました。

同一の信心でなければ、
同一の世界には生まれられません。
自力の信心は一人一人異なり、
後生も一人一人の世界に堕ちていきますから、
再会はかないません。

この世だけの友だけでは情けない。
未来永遠の友でありたい、
との法然上人の慈愛あふれるお言葉なのです。



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泣くな、友よ
    浄土でまた遇おうぞ

かつて、
「一向専念無量寿仏」をあまりに強調されたため、
法然、親鸞両聖人が、神信心の権力者の怒りを買い、
流刑に遭われたことがありました。
法然上人は南国・土佐へ。親鸞聖人は越後へ。

旅立ちの前夜、
「お師匠さま・・・。
短い間ではございましたが、親鸞、多生の間にも、
遇えぬ尊いご縁を頂きました」
と嘆き悲しむ聖人に、

法然上人は優しく語りかけられます。
「親鸞よ。そなたは越後か・・・・。
いずこに行こうと、ご縁のある方に、
弥陀の本願をお伝えしようぞ。
くれぐれも達者でな」

「はい、お師匠さま。
お師匠さまは南国・土佐へ・・・。
遠く離れて西・東。
生きて再びお会いすることができましょうか。」

恩師との別れを惜しむ親鸞聖人は、
一首の歌をしたためられます。
「会者定離 ありてはかねて 聞きしかど
    昨日今日とは 思わざりけり」

法然上人は、次の返歌を贈られました。
別れ路の さのみ嘆くな 法の友
   また遇う国の ありと思えば

たとえ今生で再会できなくても
しばしの別れ、嘆くな親鸞よ、
再び会える世界(弥陀の浄土)が
あるのだからとの仰せです。


●半座あけて待っているよ

ご臨末の近づかれた親鸞聖人も、
浄土往生の確信から、
「この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」
              (末灯鈔)

「親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。
必ず浄土に往って待っていようぞ。
間違いなく来なさいよ。」
と明言されています。


‘必ず浄土で待っているぞ’と、
力強くも温かく、末代の私たちに
語りかけてくださっているのです。



真宗の盛んな村に、仏法熱心な夫婦があった。
平生から弥陀の本願を喜ぶ身になっていた夫は、
(阿弥陀仏に救われていたということ)
いよいよ臨終が近づいた時に、
ともに苦楽を乗り越えてきた愛する妻に、
こう告げた。
おまえと一緒になれて、
本当によかった。
極楽の蓮台で、
半座空けて待っているからな

妻の目に、熱いものがこみ上げたという。

縁あって同じ家に生まれ合わせた家族と、
この世限りの縁では寂しい。

親子、夫婦そろって
弥陀の本願を聞かせていただき、
(弥陀の本願を聞くとは、弥陀に救われるの意味です。
聞即信と言われるように、弥陀の「助けるぞ!」の呼び声を
腹底にある我々の本体、阿頼耶識が聞く一つで助かるからです。)
ともに弥陀の浄土で再会する
未来永遠の家族とならせていただきたいものです。



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蓮如上人にまた叱られる [蓮如上人]

(平成10年のとどろきより載せています)

本年(H10)は蓮如上人の500回忌とあって
大変な蓮如上人ブームである。
しかし、蓮如上人があれほど徹底して説かれた
「後生の一大事」について、
詳しく解説する人は皆無に近い。

それでは蓮如上人の御心に反することになる。
もし蓮如上人が現状を見られたら、
「なぜ、わしが教えたようにまず後生の一大事、説かないのか」
とお叱りを受けることになるだろう。

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                                (蓮如上人)

●後生の一大事を心にかけて   
       死んだらどうなるか?

とにかくすさまじいばかりの蓮如上人ブームである。
映画館ではアニメ『蓮如上人物語』(五木寛之原作)が上映され、
週刊誌『サンデー毎日』では
小説『蓮如上人ー夏の嵐』が連載中である。
新聞では「京都新聞」「北国新聞」「富山新聞」が
蓮如上人の生涯を描いた小説『此岸の花』の連載を終了し、
単行本として出版されている。
ところがこれらの中でも
「後生の一大事」という大事な仏語がほとんど出てこない。

残念なことである。
蓮如上人がいかに後生の一大事を力説されたか、
上人のみ教えが凝縮された『御文章』(御文)で確認してみよう。

蓮如上人が親鸞聖人のみ教えを
お手紙で分かりやすく伝えられた「御文」は今日、
五帖に編集されている。
一帖から五帖まで、五冊あるのだが、
真宗門徒のお仏壇には大抵、
「末代無智の章」から始まる五帖目が備えられている。
五帖目には二十二通が収められているが、
その中、十三通に「後生の一大事」
または「後生助けたまえ」と記されている。
具体的に引用してみよう。

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五帖目二通
「・・・弥陀如来、今度の後生助けたまえ、と深くたのみ・・・」
三通
「・・・後生助けたまえと申さん人をば・・・」
六通
「・・・後生助けたまえ、と申さん者をば、
必ず救いまします・・・」
七通
「・・・後生助けたまえ、と思う心一にて・・・」
八通
「・・・後生助けたまえ、と申す意なるべし・・・」
九通
「・・・阿弥陀仏後生助けたまえ、
と一向にたのみたてまつる意なるべし・・・」
十二通
「・・・後生を助けたまえ、とたのみ申せば・・・」
十四通
「・・・今度の一大事の後生助けたまえ、
と申さん女人をば、
あやまたず助けたまうべし・・・」
十六通
「・・・誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみ・・・」
十七通
「・・・一心に後生を御助け候えと、
ひしとたのまん女人は・・・」
十八通
「・・・阿弥陀如来後生助けたまえと、
一念にふかくたのみ・・・」
十九通
「・・・その他には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず・・・」
二十通
「・・・弥陀如来をひしとたのみ、
後生助けたまえ、と申さん女人をば、
必ず御助けあるべし・・・」

このように「後生」「後生の一大事」と
五帖目だけでもこれほど徹底して説かれた方が蓮如上人なのだ。

我々が阿弥陀仏に助けていただくのは病気や経済苦ではない。
後生の一大事が分からなければ
蓮如上人のみ教えは全く理解できない。

●誤った一大事の解釈

何が「後生の一大事」なのかを明らかにする前に、
世間に横行する解釈を列記してみよう。

大阪大学名誉教授A・O氏はこう言っている。
「死後に三途の河があるとか地獄があるとかいうことを
現代人はもはや信じない。
この世しかないと思っているからである。
しかし、たったひとりで棺桶に入って無に落下することは、
まさしく地獄に落ちることではないのか。
『後生の一大事』は依然として、
現代の我々を放していないのである」
死後は無であり、そこへ落下することが
「後生の一大事」だという。
死後、未来世の実在を信じられない知識人がよく陥る誤りである。

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同様な考えのもとに
「釈尊は死後を説かれなかった」などと主張する人もいる。
無責任にもほどがある放言である。
過去世、現在世、未来世の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説くところに仏教の特色があるのだ。
未来世を否定してしまったら仏教にならない。

当然、釈尊は経典中の至る所で三世の実在をご教示なされている。
一例を挙げよう。
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」 
              (阿含経)

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前述の教授や唯物論の共産主義のように
死後を無とする思想を釈尊は「断見外道」として
徹底的にその誤りを正しておられるのだ。

もし、断見外道が正しく死後が無であるならば、
それは永遠の眠りと言い換えてよい状態であり、
苦しい思いをして生きるよりも死んだ方がよほどよいことになる。
「世の中に 寝るより楽はなかりけり
浮世の馬鹿は 起きて働く」
という狂歌があるとおりである。
一大事でも何でもない。
断見外道がはこびると安易に自殺をする者が多くなってゆく。
後生の一大事の別な解釈に、
「後生の一大事とは今生の一大事、
それは今の一大事」
などと言う人もいる。
やはり死後を認めたくない気持ちからであろうが、
後生はあくまで「現世」「今生」に対しての言葉であるから、
「明日は今日である」「来月は今月である」
「女は男である」と言っているようなもので、
まるで意味不明になってしまうのだ。

●全人類は愚かな旅人
     足下に迫る一大事

では仏教で「後生の一大事」とはいかなることか。
後生とは我々の死後のことである。
一大事とは大事件、取り返しのつかない大変なことをいうのだ。

全人類の死後に何があるのか。
釈尊にお聞きしよう。

釈尊は一つの有名な譬で教えておられる。
ある旅人が野原で飢えた虎に遭遇して、
必死に逃げたところが、断崖絶壁に出てしまった。
崖には松の木が生えていたが、
登っても無意味、虎は木登りができる動物だ。
幸い松の根元から一本の藤蔓が垂れ下がっており、
旅人はそれにぶら下がって何とか虎の難から逃れられた。
下はどうなっているのだろう、
と足下を見た旅人、思わず悲鳴をあげた。
足下には怒濤さかまく深海、
しかも波間から三匹の毒龍が大きな口を開けて
旅人の落ちてくるのを待っているではないか。
上に虎、下に龍、絶体絶命である。
ところがさらに悪いことが起きた。
藤蔓の根元に白黒二匹のネズミが現れ、
旅人の命の綱の藤蔓をかじっているのだ。
そのネズミを追い払おうと藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは依然としてガリガリかじり続ける。
藤蔓を揺すったとき、何かが滴り落ちてきた。
手に取ってみればおいしそうな蜂蜜である。
上の蜜蜂の巣からこぼれてきたのだ。
密の甘さに旅人はたちまち、
虎や龍、ネズミのことなど忘れ、
蜂蜜のことばかり考えるようになってしまった。

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この旅人こそ万人の姿だと釈尊は言われる。
飢えた虎とは恐ろしい死、
我々はそれから逃げようと
必死に病院や薬を求めて逃げ回っている。
崖の松の木は財産や地位だが、
億万長者も大統領も死の虎からは逃れられない。
細い藤蔓とは我々の寿命のことだ。
まだまだ死なんぞ、とぶらさがっている。
白黒のネズミは昼と夜。
交互に寿命を縮めている。
寿命の藤蔓が切れた先が後生の一大事である。

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人間死んだらどうなるのか。
釈尊は、全人類が怒濤の深海、
毒龍の餌食になると説かれている。

まさに一大事だ。
怒濤の深海に譬えたれたのは暗黒と大苦悩の無間地獄である。
なぜそのような世界に堕ちるのか。
三匹の毒龍がそれを生み出すと釈尊は仰せられる。

欲、怒り、愚痴という三毒の煩悩のことだ。

●悪逆非道な人間

人間は生きるためには仕方ないと悪を造り続ける。
例えば「殺生罪」。

仏教では人間も他の動物、生き物も同じく衆生である。
人間が健康で長生きしたいと思っているように、
牛も豚も鶏も殺されて食われたいと思っていない。
人間が無理やり暴力で彼らの命を奪っているのだ。
ちょうど我々が家族で平和に暮らしている所へ
独裁権力者が土足で上がり込み、
家族を皆殺しにして、五体をバラバラにしてしまうようなものだ。
そのような仕打ちを受けたら、
我々はどれほど相手を恨むかしれない。
ヒットラーはユダヤ人を六百万人殺害したといわれるが、
そんな男は地獄に堕ちて当たり前だろう。
動物の側から見れば、
我々の一人一人が血も涙もない悪逆非道な存在なのである。

殺生といっても自分で直接殺す場合と、
他人に依頼する場合がある。
肉屋で牛肉、豚肉を買うのは、
消費者である我々が、業者に殺して肉を分けてくれと
頼んでいるのである。

自分が殺したと同じ殺生罪である。
毎日、三度の食事をとるたびに殺生罪を重ねている。
これまで、何万、何十万の生き物の命を奪ってきたことか。
それは何万、何十万の殺人をしたのと同じ罪なのだ。
毎日、何回も殺人しながら平然と生きているのと
同様の極悪人が我々の実態だ。

そのすさまじい罪悪が未来の地獄を生み出すと
釈尊は教えられる。

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後生の一大事は足下に迫っている。

今日死ねば、今日から恐るべき大苦悩を
受け続けなければならない。

しまった、と後悔しても取り返しがつかないのだ。
ところが旅人はすべてを忘れて蜂蜜ばかりを求めていると
釈尊は言われる。
蜂蜜とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲をいう。
全人類は朝から晩まで五欲の満足を求めて東奔西走である。
死ねば大変な後生の一大事の起きることを知らないのだ。

●後生の一大事の解決を
     一心に弥陀に帰命せよ

釈尊は全人類に後生の一大事の有ることと、
その解決は、「一向専念無量寿仏」以外にないと教えられた。

最高無上の仏、阿弥陀仏の本願力に極重悪人のまま救いとられて、
いつ死んでも弥陀の浄土に往生できる、
信心決定という身にならなければならないのだ。

これを蓮如上人は『御文章』に、
「後生ということはながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定(けつじょう)すべし」
と教えられたのだ。

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大意「後生の一大事とは、罪悪深重の我々が、
死後、必ず無間地獄に堕ち、八万劫という長い間、
大苦悩を受け続けることだ。
ゆえに急いで後生の一大事の解決を求め、
弥陀の本願に救われ、浄土往生間違いない、
信心決定の身にならねばならない」

死後、無になるのが一大事とか、
今生の一大事だなどということが
いかに狂った解釈か分かるであろう。

また、こうも教えられる。
「此の一流のうちに於て、
確々(しかじか)とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。
一大事というは是れなり」
       (御文章一帖目五通)

大意「真宗の中には信心決定している人が少ない。
信心を獲得していない人はどうして弥陀の浄土に往生できようか。
それどころか、死ねば直ちに無間地獄におつるのだ。
後生の一大事とは、このことである」
法然上人や親鸞聖人は
比叡山で徹底的に仏道修行をなされたのは
ひとえに後生の一大事の解決のためであった。

そして法然上人は四十三歳で、
親鸞聖人は二十九歳の御時、
阿弥陀如来の本願に救われ、信心決定の身となられて以来、
後生の一大事、一心に弥陀に帰命せよと勧めてゆかれたのだ。

蓮如上人もただひたすら後生の一大事とその解決の道、
弥陀の本願の救いを説き続けてくだされた。
それを知らねば、蓮如上人ブームも空しいことになってしまう。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
        (御文章二帖目二通)

大意「信心獲得しなければ極楽には生まれられず、
無間地獄に堕ちる後生の一大事があるのである」
後生の一大事とその解決の道を、
蓮如上人にハッキリ教えていただこう。

●「皆々信心決定あれかし」
    すでに助かっているのか?

全人類の後生に、大苦悩の地獄へ堕ちねばならない一大事がある。
阿弥陀如来の本願に救い摂られる以外に、
後生の一大事を解決する方法はない。

ところが、「阿弥陀さまはお慈悲な仏さまじゃから、
十劫の昔から我々は助かってしまっている。
それを感謝して、お念仏の日暮らしをいたしましょう」
と公言してはばからない人が、
浄土真宗門徒に見られるようだ。
一劫とは、四億三千二百万年なので、
その十倍の長年月が十劫である。
ずっと昔に助かってしまっているという誤りを、
「十劫安心の異安心」と言うのである。
「異安心」とは、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人といった
善知識方の信心とは違う信心をいう。
信心が異なっていては、
善知識方と同じ浄土に生まれることはなく、
地獄へ堕在せねばならない。

●信心の有無で決する
    地獄行きと極楽往き

確かに阿弥陀仏は、十劫の昔に、
すべての人を本当の幸せに助ける、
「南無阿弥陀仏の六字のご名号」を完成なされた。
だが、それがそのまま、私たちが助かったことにはならない。
「六字のご名号」は譬えれば、
重病人を完治させる特効薬である。
いかにもよく効く薬ができあがり、
薬局に並んでいても病人が、それを購入して服用せねば
病気は治らないのは当然だ。

このような誤解は、今日だけでなく、
蓮如上人時代にもあったようである。
「『十劫正覚の初より、我等が往生を定めたまえる弥陀のご恩を、
忘れぬが信心ぞ』といえり。これ大なる過りなり」
           (御文章一帖目十三通)
「いかに十劫正覚の初より、
われらが往生を定めたまえることを知りたりというとも、
われらが往生すべき他力の信心の謂われをよく知らずば、
極楽には往生すべからざるなり」
           (御文章二帖目十一通)
「十劫正覚」とは、阿弥陀仏が、
六字名号を完成なされて仏のさとりを成就されたときを言われた。
そのときに助かっている(往生が定まっている)ならば、
生まれたときから救われていることになる。
もしそうなら、これほど結構なことはない。
それどころか、「苦しい人生、死んだ方がよい」となり、
自殺を肯定する危険思想である。
この世に現在生きている人の中に、
助かっている人と、いまだ助かっていない人があるのだ。
それは次のお言葉で明らかである。
「この御正忌のうちに参詣をいたし、
志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て
信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり」
          (御文章五帖目十一通)
「御正忌」とは、毎年秋に行われる、
浄土真宗最大の行事・報恩講のことだが、
仏法を聞かせていただこうと思って、
ご法話会場(報恩講)へ集まっている人の中に、
信心を獲得して、後生の一大事を解決できた人と、
信心をまだいただけずに、
死ねば地獄行きの人と、二通りあるのだと仰有ったのだ。
仏縁ある人々にすら、蓮如上人はこう仰っている。
まして、聞く気もなく、それどころか、
キリスト教やイスラム教、雑多な新興宗教の信者も含め、
すべての人が生まれたときから救われていると言うに至っては、
蓮如上人の仰せを反故にした暴言と言われねばならない。
「信心決定」「信心獲得」していなければ、
後生の一大事は助からないのである。

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●聞法の目的は信心獲得

「信心決定」とか「信心獲得」とは、
阿弥陀如来の本願に救い摂られ、
絶対の幸福にこの世から生かされた驚天動地の体験を言う。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
生涯の師・法然上人から阿弥陀如来の本願を知らされ、
信心獲得の身になられた。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第1部)
に描かれているので、見ていただきたい。

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また蓮如上人は、
「毎月両度(二回)の寄合(法話)の由来は、
何の為というに、更に他の事にあらず、
自身の往生極楽の信心獲得の為なるが故なり」
           (御文章四帖目十二通)
「あわれあわれ、存命の中に
皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」

           (御文章四帖目十五通)
と、仏法を聞く目的である信心獲得を繰り返し示された。
さらには、前述の通り、
「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」

           (御文章二帖目二通)
と厳しい。
先ほどの薬の譬喩にあてはめれば、
薬を飲んで病気の治った体験が信心獲得である。
薬はどれだけあっても、飲まねば病気は治らない。

●往き易くして人無し
      矛盾のような仏語の真意

次に、仏法を聞いている人のうち、
信心獲得した人はどのくらいあるのか、
蓮如上人から教えていただこう。
「蓮如上人の御時、志の衆も御前に多く候とき、
『このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、
一人か二人か有るべきかな』と御掟候とき、
各『肝をつぶし候』と、申され候由に候。
          (御一代記聞書)
御前に参詣した、多くの人を前に蓮如上人が、
「この中で、信心獲得しているのは、
一人かな、二人かな・・・」
と仰有ったので、救われたつもりでいた人々は、
驚いて二の句を継げなかったのである。
信心獲得していなければ、後生は一大事だからだ。

誰でも簡単に浄土へ往けるならば、『大無量寿経』に、
「易住而無人」と仰るはずがない。
「阿弥陀如来の浄土へは、往きやすいけれども、
往っている人が少ない」
と一見、矛盾したようなことを釈尊は仰っている。
弥陀の浄土へ往くことが易しいならば、
多くの人が往っているはずだし、
浄土へ往っている人が少ないのが本当ならば、
往きにくい浄土だと仰るはずである。
これを蓮如上人は、『御文章』二帖目七通に、
「『安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし』と言えるは、
この経文の意なり」と解説された。
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは、
この世で信心獲得の身に救われた人である。
ところが、そんな人ははなはだ稀なので、
「人無し」と仰有った。
信心獲得こそが、もっとも大事だと知らされる。

●「世間のヒマを欠きて聞け」
    聞き歩かなくてよいのか?

遠路を厭わず、間断なく聞法する人に、
「そんなに聞き歩かんでもよい」
と言う人がいる。
蓮如上人は、しかし、こう教えられた。
「仏法には世間のヒマを欠きて聞くべし。
世間のヒマをあけて法を聞くべきように思うこと、
浅ましきことなり。
仏法いは明日ということはあるまじき」
          (御一代記聞書)

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「世間のヒマ」とは、仕事を指す。
仕事よりも優先して聞かねばならぬのが仏法だと、
仰有っているのだ。

「それでは、生きてゆけんじゃないか」
と思うかもしれないが、イヤな上司に叩かれ、
後輩からは突き上げられながらも、
あくせく生きているのは、何のためだろうか。
徳川三百年の礎を築いた家康は、
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし」
と、苦しみの連続だった生涯を告白している。
はたして私たちに、家康ほどの事業ができるだろうか。
たとえできたところで、夢幻と化す、
苦渋に満ちた人生ならば、哀れである。
生まれがたい人間に生まれてきたのは、
仕事をするためでもなければ、家を建てるためでもない。
地位を得るためでも、財を築くためでもない。
仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
絶対の幸福になるためだと、蓮如上人は、示しておられるのだ。
「今日仕事をして、明日聞こう」
と思っても、明日は後生かもしれぬのが、
私たちである。
無常の風に、頭叩かれて驚いては手遅れだから、
聞けるあいだに聞きぬかねばならぬのだ。

●仏法に独断は禁物
     阿弥陀仏の願いを聞く

絶対の幸福に救われるには、
阿弥陀仏の願いをよく知らねばならない。

他人を喜ばせたければ、相手が何を願っているかを
知らねばならないのと同様である。
太郎君が、憂鬱そうな花子さんを喜ばせようと、
全財産の百万円を与えた。
ところが、花子さんは少しも喜ばない。
それもそのはず、花子さんは、大資産家の令嬢だったのだ。
大変辛い思いをしながら、
太郎くんの苦労は水の泡となってしまったのである。
そんなときは、花子さんが何を望んでいるのか、聞けばよい。
「何かあったの」
花子さんは、言った。
「かわいがっていた猫のミイちゃんが、
行方不明なの」
さっそく友達と手分けして探すと、
その猫は隣家の猫と仲良く遊んでいた。
花子さんは大喜び。
百万円どころか、一銭も使わずに喜ばせることができたのだ。

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結婚式の引き出物でも、最近は、もらう人がカタログを見て、
品物を自由に選択できる方式がはやっているそうである。
いくら高価なものでも、
もらった本人にとって不要なら、
物置のスペースをとるだけのガラクタになってしまうからだろう。
苦労すればさえよいのではないのだ。
相手の願いをよく聞き、熟知することは、
人間相手でさえ、重要なのである。
まして、未来永劫の魂の浮沈がかかった
弥陀の救済にあずかるには、独断は禁物。
阿弥陀仏の願いをよくよく聞かせていただかねばならないのである。

●火中突破の覚悟で

親鸞聖人は、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきくひとは
ながく不退にかなうなり」
       (浄土和讃)
と仰有った。

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火の海かき分けて、命がけで聞かずにおれなくなった人が、
永久に崩れぬ絶対の幸福になれるのだ、
との意である。

蓮如上人は、また、
「火の中を分けても法は聞くべきに、
雨・風・雪はものの数かは」
と厳しい聞法を勧めておられる。
火中突破の覚悟で聞かねばならぬ仏法なのに、
「今日は雨が降っているから、やめておこう」
「今日は風が強いので、また次の機会に」
「雪が積もっているこんな日に、聞かんでもよかろう」
と、聞法をおろそかにしていないか。
雨・風・雪は、ものの数ではないのだ、
と仰るのである。

浄土真宗の先哲は、聞法の心構えを分かりやすく、
四つに分けて教えてられている。
①骨折って聞け
②衣食忘れて聞け
③間断なく聞け
④聞けないときは思い出せ

苦労して真剣に聴聞せよ、とのご教導である。

暑ければ説法中でも扇子を使い、
足が痛めばいつでも投げ出す。
のみたくなればたばこをのみ、
眠たくなれば前後不覚に船をこぐ。
近くに法座があれば参るが、少し遠方だと参る気がなくなる。
こんな聞法では、真剣に聞いているとは言えない。

●一座一座のご縁を大切に

蓮如上人は、また、『御一代記聞書』に、
こう教えられている。
「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、
水よく石を穿つ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり」
昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行に励んでいた。
三年たってもいっこうに魂の解決がつかず、
「私のような者に、求めきれる道ではない。
今はこれまで」と、永遠のおいとまを願いでた。
師僧は思いとどまるよう説得したが、
明詮の決意は堅く、慰留をあきらめ、これを許した。
しかし、苦楽をともにした法友と別れるのは、
さすがにつらい。
明詮は泣きながら寺を出た。
ところがそのとき、にわかに大雨が降ってきたので、
やむなく山門の下に腰をおろし、
雨の晴れるのを待っていた。
何気なく、山門の屋根から落ちる雨滴を見ていた明詮は、
雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
「こんな堅い石に、どうして穴があいたのだろう」
まぎれもない、それは雨滴の仕業ではないか。
「このやわらかい水滴が、堅い石に穴をあけたのか。
何と言うことだ。
私は二年や三年の修行でへこたれて、
断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。
たとえ水のような力のない自分でも、
根気よく求めてゆけば、
必ず魂の解決ができるに違いない。」

奮然として、その場を立った明詮は、
水から受けた大説法を師匠に話し、
深く前非をわびて努力精進し、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったのである。
何事も、真剣に続けるほど大切なことはない。
マッチ一本で灰になる家屋でも、
一日や二日の努力で完成するものではない。
それ相当の長年月の粒々辛苦の結果である。
途中でその努力が断たれれば、
完成した家屋は楽しめない。
後生の一大事の解決をめざす仏法においてをや、である。
「聞き歩かんでもよい」どころか、
一座一座のご縁を大切に、真剣に求める人にこそ、
弥陀の呼び声が徹底し、
足下に安養の浄土が開かれると知らねばならない。

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あなたもお釈迦さまの親友にならせていただきましょう! [釈迦]

ともに喜び、励まし合い、
苦しみを乗り越えてきた「親友」の存在は、
何年たっても大きいもの。
友人を見ればその人が分かる”ともいわれるように、
どんな友を持つかで、人生は大きく変わります。
今日、世界の三大聖人のトップに挙げられるお釈迦さまから、
「あなたは私の善き親友だよ」
と手を差し伸べていただけたなら、どうでしょう。
そんな夢のようなことがお経に説かれています。
どんな人がお釈迦さまの親友になれるのでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だれかに認めてもらいたい

「一年の計は元旦にあり」といわれるように、
年の始めに“目標”を立てる人は少なくありません。
(平成22年1月のとどろきを載せています)
受験生なら「志望校合格」、ビジネスマンは「昇給・昇進」、
メタボを気にして「今年こそダイエットを!」
という人もあるかもしれません。
目標が定まれば、あとは努力あるのみ。
順調な時ばかりでなく、壁にぶち当たり、
くじけそうになっても、それを突き抜けて頑張れば、
その結果は自らにすべて現れてくるものです。
しかし、そんな努力がだれからも評価されなければ、
“あんなに頑張ったのに・・・”とたちまち落ち込んでしまいます。

「あの大学に合格するなんてステキ」
「部長に昇進したのか、すごいなあ」
「10キロもやせたの?うらやましいわ」
と一言でも言ってもらえれば、
ああ、頑張ってよかったと思えるでしょう。

生きていく上で、周囲に認められることは
非常に大事なことだと分かります。

心に残る褒め言葉が人生を変えることさえあるのですから。
私たちが努力するのは、“誰かに褒められ、認められる”ため。
自分を認め、受け入れてくれる相手を
私たちは常に求めているともいえましょう。

そんな人が一人でもいれば、
生きる勇気や元気がわいてくるものです。

寒い中、仕事で疲れた体を引きずって帰宅した夫に、
妻が声をかける。
「おかえりなさい、寒かったでしょう。
いつもお仕事ご苦労さまです」
この一言で、彼は元気百倍、
「なーに、これくらいの寒さなんか平気さ。
もういっぺん行ってこようか!」
となる。

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あるいは、日々家事に育児に奮闘し、
心身ともに疲弊している奥さんには、
「毎日頑張ってくれてるね。ありがとう」
夫の言葉が何よりの栄養剤となるでしょう。

考えてみますと、私たちは朝から晩まで
他人の評価を気にしています。

朝起きてまず顔を洗い、髪を整えるのは
他人に笑われたくないからです。
キレイな人と言われたい、老けて見られたくないから、
化粧や服選びも真剣。
会社で一生懸命働くのも、学校で勉強するのも、
評価を気にしてのことです。

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世界中の称賛を浴びる、しかし・・・

そんな私たちが、世界中の人々から称賛されたなら、
どれほどの喜びでしょう。
多くのスポーツ選手があこがれるオリンピック。
カナダ・バンクーバーでの冬季五輪もあと一月に迫りました。
(平成22年のとどろきです)
ちょうど4年前、トリノ大会で日本唯一の金メダルを獲得したのが、
フィギア・スケートの荒川静香さんです。
幼い頃から天才と呼ばれ、16歳で長野五輪に出場。
しかしその後は成績不振に悩み、
早々に引退を考えていたといいます。
起伏の激しい競技生活で苦悩を乗り越え、
つかんだ世界一でした。
特に話題になったのは
上体を大きく反らせる「イナバウアー」の美しさ。
その時の気持ちを荒川さんは、
自身のホームページでこうつづっています。
「驚くほどの知名度になった『イナバウアー』からの
ジャンプコンビーネーションは、
音楽がすごく心地よく感じられ、
何よりお客さんの歓声が忘れられないほど嬉しかったし、
気持ちよかった!(中略)
色々なことを思い出しながらこれまでやってこられた事に満足、
嬉しい気持ちいっぱいで
最後のストレートラインステップを踏んでいました」
荒川さんの味わった世界一の栄誉を目指し、
今日も選手たちは厳しいトレーニングに励んでいることでしょう。

政治、経済、科学、医学、芸術、文学など、
いずれの分野でも、多くの人々から称賛を受けることができるのは、
恵まれた才能を持ち、抜きん出る努力をしてきた一握りの人です。
ところが、世間で認められたといっても、
大衆の心は移ろいやすいもの。
その評価はコロコロと変わってしまいます。

有名なナポレオンは、約200年前、
フランス皇帝として二度称賛を浴び、
二度島流しに遭ったといいます。
そんな彼は他人の評価をこう受け止めていました。

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■    ■    ■     ■
イタリア、オーストリアと戦い、
連勝のナポレオンが凱旋した。
イルミネーションや旗行列、たいまつや鐘、祝砲など、
国民の慶賀は、その極に達する。
部下の一人が、恭しく祝辞を述べた。
「閣下、このような盛大な歓迎を受けられ、さぞ、
ご満悦でありましょう」

意外にもその時、ナポレオンは、冷然と、こう言っている。
ばかを申すな。表面だけの騒ぎを喜んでいたら大間違いだ。
彼らは、少しでも情勢が変われば、
また“断頭台に送れ”と言って、やはり、
このように騒ぐであろう。
雷同の大衆の歓迎など、当てになるものか

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■    ■    ■    ■

現代でも、期待されて発足した政権が不祥事で支持を失い、
退陣を余儀なくされたり、
一発ギャグで人気を博したお笑いタレントも、
数年後にはパッタリ見かけなくなったりと、
世間の評価は目まぐるしく変わり、
当てにならない例は事欠きません。
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
泣くも笑うも ウソの世の中」
とトンチで有名な禅僧・一休が詠んでいるとおりです。

仏さまから褒められるのは

仏教では、そんな当てにならない人間の評価に
一喜一憂していても幸せはなれない、
それよりも仏さまから褒められる身になりなさい、
と教えられ
親鸞聖人は『正信偈』に、

一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解の者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)

どんな人も、如来の弘誓願を聞信すれば、
仏さまから「広大勝解者(こうだいしょうげしゃ)」
「分陀利華(ふんだりけ)」と褒められる身になれる”
と説かれています。

「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)」
とは私たち「すべての人」のことです。次の、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信ずれば)」
の「如来」は、阿弥陀如来のこと。
「阿弥陀仏」とも「弥陀」ともいわれます。
仏とは、最高無上のさとり(仏覚)を開かれた方をいいます。
低いさとりから高いさとりまで
全部で52ある「さとりの五十二位」のうち、
最高のさとりが仏覚です。
一段違うだけでも人間と虫けらほど
境界(きょうがい)の差があるといわれますから、
五十二段の仏覚の境地は、私たちの想像も及びません。

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地球上で仏のさとりを開かれたのは
お釈迦さまただ一人ですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
そこには無数の仏さまがまします、
とお釈迦さまは説かれています。

その大宇宙の諸仏方が、
先生と尊敬し手を合わせる仏さまが、
阿弥陀如来です。

十方諸仏の一人であるお釈迦さまも、

無量寿仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

            (大無量寿経)
“阿弥陀如来のお力は、大宇宙最高であり、
十方の諸仏が総がかりになっても及ばない”

諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり
             (大阿弥陀経)

と一切経の至るところに讃嘆なされています。

親鸞聖人は「無上仏」と仰がれ、
蓮如上人も「本師本仏」と『御文章』に称揚されています。

阿弥陀仏といってもお釈迦さまといっても、
名前が違うだけで同じ仏さまだろう、
と思っている人がありますが、
それは大変な間違いであると分かるでしょう。

その本師本仏の阿弥陀如来が、
苦しみ悩む私たちすべての人を
必ず絶対の幸福に救い摂ってみせる、
と尊い願を建てられました。

これを「如来弘誓願」といわれています。
「聞信する」とは、この本願のとおりに
救い摂られたことをいうのです。

「仏言広大勝解者 是人名分陀利華
(仏は広大勝解の者と言い、是の人を分陀利華と名く)」
といわれる「仏」は、お釈迦さまも含め十方諸仏のこと。
「広大勝解者」は大学者、
「分陀利華」はめったに咲かない白蓮華ですから、

大宇宙のすべての仏が、
“あなたは仏教の大学者だ、
白蓮華のようなめったに咲かない尊い人だ”
と褒められる身になるのだ、
と聖人はおっしゃっているのです。

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人からこう言われてさえうれしいのに、
すべての仏さまから絶賛される。

これほどの喜びはありません。
これは主著『教行信証』に聖人が、
「金剛の真心を獲得(ぎゃくとく)する者は、
横に五趣・八難(ごしゅはちなん)の道(どう)を超え、
必ず現生に十種の益を獲(う)」
と本願に救い摂られて得られる十の幸せを教えられた中の、
「諸仏称讃の益」
(大宇宙のすべての仏方に褒められる幸せ)
のことです。

苦難に立ち向かう勇気の源

いつ一日として修行したこともなく、
朝から晩まで、あれが欲しい、
これが足りないと欲に振り回され、
それがかなわずに怒り、恵まれた人を見ては
ネタミ・ソネミの心がわき起こる。
一時として心穏やかならぬこんな私が、
弥陀の不思議の願力によって、
浄土往生間違いない身に救われたならば、
その人をお釈迦さまは、
「わが善き親友なり」
と手を差し伸べてくださることを、
経典に説かれています。

“私の先生に救い摂られたあなたは、この釈迦の親しい友人だ”
と仰せられているのです。

孤立無援の時、「あなたの味方だよ」
と理解してくれる人が現れたら、
どんなに心強いでしょう。
まして地球上で最も偉大な釈尊から
「親しき友よ」と呼びかけられたら、
これほど元気・勇気の出ることはありません。

29歳で弥陀に救われ、
無碍の一道の世界に出られた親鸞聖人は、
諸仏に称賛されている大自覚がありました。

ですから世間の人々の非難攻撃を一身に受けられても、
「人倫の哢言(ろうげん・嘲り)を恥じず」
と勇気をもって驀進(ばくしん)されたのです。

“波乱万丈”という言葉は
まさに聖人のためにあるとしか思えない、
たくましき一生です。
31歳の時、僧侶には固く禁じられていた肉食妻帯を、
公然とされました。
世間中から“破戒僧、堕落坊主、仏教を破壊する悪魔”
など、ありとあらゆる悪口雑言が浴びせられましたが、
すべての人が救われるのが
本当の仏教であることを明らかにするために、
断行なされたのです。

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35歳、権力者の横暴で越後(新潟)へ流刑に遭われた時も、
“これも越後の人々に弥陀の本願を伝えるご縁”
と布教に立ち上がっておられます。
“親鸞は坊主じゃない”との非難には、
「そうだ、オレは坊主じゃない」
と高らかに「非僧非俗」を宣言。
国家権力の認める僧侶ではないから「僧に非ず」、
しかし契約に基づいて働き
収入を得る世間の仕事人でもないから「俗に非ず」。
弥陀の本願一つを伝える真の仏弟子の信念を生涯貫かれました。

聖人が『正信偈』に
「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」
と書き記されたのは、私たちに早く
“弥陀に救われ、諸仏から褒められる身になりたい”
という心にさせよう、のお気持ちからでしょう。

“この親鸞もなれた。あなたも如来の弘誓願(弥陀の救い)
を聞信すればなれますよ”
と朝晩の勤行で教えてくださっているのです。
弥陀の本願を聞信し、
お釈迦さまの「親友」とならせていただきましょう。


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