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仏教とは「阿弥陀仏の本願」のことである。 [聖道仏教と浄土仏教]

すべての人を
    等しく救う弥陀の本願

顕示難行陸路苦
(難行の陸路の苦しきことを顕示し、)
信楽易行水道楽
(易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう)


これは龍樹菩薩の教えられたことを、
親鸞聖人が明らかにされているお言葉です。
大意はこうです。

“「難行」の教えでは誰も助からない。
すべての人の救われる道は、
阿弥陀仏の本願しかないのだから、
早く弥陀の本願を聞きひらき、
無上の幸福に救われてもらいたい。

龍樹菩薩は我々に、かく勧められているのである”
今回は、この二行について学びましょう。

●難行道と易行道

まず「難行」「易行」と言われているのは、
「難行道」の仏教と「易行道」の仏教のことです。

「難行道」の仏教とは、
“捨家棄欲(しゃけきよく)”といって、
妻子家族を捨てて深山幽谷に入り、
欲や怒りの煩悩と闘う難行苦行によって、
仏のさとりを得ようとする教えです。

現在も日本にある宗派でいえば、
天台宗、真言宗、禅宗、華厳宗などで、
聖道諸宗ともいわれています。


例えば比叡山の天台宗は、
『法華経』の教えに従って戒律を守り、
さとりを開こうとする宗派で、
今日でも「千日回峯行」といわれる荒行があります。
真夜中の零時前に起床して、
山上山下の行者道を三十キロ歩くのです。
この間、堂塔伽藍や山王七社、霊石、霊水など
約三百カ所で所定の修行。
無論、雨風雪、病気になっても
やめることはできない。
もし途中で挫折した時は、
持参の短刀で自害するのが
山の掟になっています。
初めの三年間は毎年百日、
次の二年間は毎年二百日、
その翌年は百日、最後は二百日間、
休まず修行しなければならず、
とりわけ大変なのが、
最後の年に百日続ける「大回り」です。
山を下りて京都の修学院から一乗寺、
平安神宮、祇園と一日八十四キロを十七、八時間で
回る生死関頭の苦行です。
最澄が叡山を開いてより今日まで、
やり遂げた人は数える程で、
文字通り命がけの修行です。
それでも、仏のさとりには程遠い、
初歩の段階といわれます。

このように「行ずることが難しい教え」
ゆえに「難行道」と言われているのですが、

これは龍樹菩薩が身をもって知らされたことでした。

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●龍樹菩薩でさえ

今日まで、五十一段のさとりの最高位である
仏覚に到達された方は、
二千六百年前、インドで活躍された
お釈迦さまお一人です。

その釈迦に次いで高いさとりを開かれた方が、
龍樹菩薩です。
仏門に入られて当初は、難行の道を進まれ、
四十一段まで覚られました。

面壁九年で手足腐るほど修行に打ち込んだ、
あの達磨大師でも
三十段そこそこであったと言われます。
中国天台を開いた智者(天台大師)も臨終に、
「ただ五品弟子位(十段に満たない位)あるのみ」
と告白しています。

これらと比較しても、
自力修行によって四十一段のさとりを
開かれた龍樹菩薩が、
いかに人並み外れて優れた方が、
知られましょう。
今日も仏教の諸宗派から尊敬され、
「小釈迦」とか「八宗の祖師」と
仰がれているのも分かりますね。

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ところが、です。
その龍樹でさえも、
「『難行』の教えは険しく苦しい道だから、
とても仏覚まで到達することはできない。
意志薄弱、儜弱怯劣(ねいじゃくこれつ)の
私ごとき者の進める道ではなかった」

と知らされ、
真に魂の救われる道を探し求め、
ついに「阿弥陀仏の本願」によって
絶対の幸福に救い摂られたのです。

(※儜弱怯劣とは、悪い、弱い、卑怯な、
愚劣なものという意)

「本願」とは「誓願」とも言われ、
お約束のこと。
大宇宙にまします無数の仏方の師(本師本仏)である
阿弥陀仏は、
「どんな罪悪深重の者も、
平生の一念に必ず絶対の幸福に救い摂り、
死ぬと同時に浄土で仏のさとりを開かせる」
と、とてつもない約束をなされています。

欲や怒り、妬みそねみ一杯の私たちが、
この世も未来も無上の幸せに救われるのは、
ひとえにこの本願力不思議、
弥陀の独り働きによってですから、
弥陀の救いを「易行道」と
龍樹菩薩は言われているのです。

●陸路と水道

この「難行道」と「易行道」との違いを、
分かりやすく「難行の陸路」
「易行の水道」と仰っています。
目的地に行こうとする時に、
テクテク歩いていく「陸路」の道は、
山あり谷ありで、石につまずいてケガをしたり、
雨に打たれて難儀したりと、
つらい苦しい道になります。

それに対して、船に乗って船頭まかせ、
重荷を下ろし、風に吹かれて海
や河川の水面を滑るように進む「水道」は、
大変楽しい道でしょう。
同様、難行苦行の教えでは
一人も助からないのだよ、
すべての人を安楽浄土の幸せに
生かして下さるのは、
阿弥陀仏の本願しかないのだから、
弥陀一仏に向け、弥陀のみを信じなさい。

このように龍樹菩薩は、非難迫害の嵐の中、
熱烈に布教して下されたおかげで親鸞、
弥陀の本願を知らされ、救われることができたのだ、
なんと有り難いことなのかと、

厚きご恩に合掌感泣されているお言葉が、
「難行の陸路の苦しきことを顕示し、
易行の水道の楽しきことを
信楽せしめたまう」
の二行です。
これはそのまま、仏教を説かれた
お釈迦さまの真意でした。

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●仏教は弥陀の本願一つ

釈迦が、八十年の生涯、
説いていかれた教えを今日、
仏教といわれます。
その教えのすべてが書き残されているのが、
七千余巻の一切経。
仏教とはどんな教えかを知るには、
その一切経を読まねばなりませんが、
漢字ばかりで、しかも一字一句に
深遠な意味がありますから、
誰でも彼でも読めるものではありませんし、
正しく理解できるものでもありません。
今日、世界の光と仰がれている親鸞聖人は、
その一切経を何度も読破されて、
『正信偈』にこう断言されています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

この意味は、
「釈迦が仏教を説かれたのは、
阿弥陀仏の本願ひとつを
明らかにするためであったのだ」

と仰ったお言葉です。
簡潔に言えば、
「仏教=阿弥陀仏の本願」
ということ。
「阿弥陀仏の本願以外に、仏教はない」
と断定されている、
親鸞聖人のお言葉なのです。

そして、
「決してこれは、親鸞の独断ではない。
インド・中国・日本の七高僧方が、
明言されていることなのだ」

と、同じく『正信偈』に、

印度西天之論家
中夏日域之高僧
顕大聖興世正意
明如来本誓応機

インド・中国・日本に現れられた
七人の高僧方は皆、
“仏教を説かれた釈迦の本意は、
どんな人も救う弥陀の誓願一つであった”
と明らかにされている」

と仰っていることも、
繰り返しお話してきました。

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続いて、その七高僧の筆頭である「龍樹菩薩」が、
弥陀の本願を明らかにされ、
勧めておられることを聖人は、
「顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽」
と仰って、
釈迦の真意は、捨家棄欲(しゃけきよく)の
難行道ではないのだよ。
出家も在家も等しく救う
弥陀の本願ひとつが仏教なのだ。

みな人よ、早く弥陀の本願を聞信し、
浄土で仏になれる身になってもらいたい

と教示されているのです。

これでお分かりのように、
弟子である釈迦が、
本師本仏の阿弥陀仏の御心を、
生涯、明らかにされた教えが仏教なのです。

分かりやすく言えば、こういうことです。
阿弥陀仏がお釈迦さまに、
「釈迦よ、私の心を、
地球の人たちに伝えてきなさい」
と命じられた、
その通りに釈迦が地球に現れられて、
弥陀の御心ひとつを説かれた。

されば「仏教=阿弥陀仏の本願」であり、
「弥陀の本願(御心)以外に、
釈迦の教え・仏教はない」
ことも、当然と知られるでしょう。


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死後どうなる!釈迦が説く「後生の一大事」 [後生の一大事]

有名な『歎異抄』冒頭の、
弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と親鸞聖人は、
阿弥陀仏に救われたと言われています。

また、『正信偈』の冒頭2行でも、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と言われ、
親鸞、「阿弥陀仏に救われたぞ、助けられたぞ!」
と叫んでおられます。

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では、「何を」阿弥陀仏に助けられた、
と親鸞聖人はおっしゃっているのでしょうか。

「後生の一大事」を救われた、助けられた、ということなのです。
仏教は、この「後生の一大事」を知るところから始まり、
「後生の一大事」の解決で終わります。

ですから、「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、
仏法は何十年聞いても分かるものではありませんし、
親鸞聖人の『正信偈』は、一行も正しく読めません。
そこで今回は、「後生の一大事」について、お話いたしましょう。

後生の一大事とは、どんなことか

「後生」とは、一息切れたら後生です。
仏教と聞くと、「年を取ってから聞けばいいもの」
「若いからまだ聞く必要がない」と言う人があります。
後生は遠い先のことで、自分とは関係のないことだと
思っているのでしょう。
しかし、この世は「火宅無常の世界」(歎異抄)、
いつ何が起きるか分かりません。

当社近くの国道で早朝、凍結でスリップした大型トレーラーが、
寺に突っ込む事故がありました。
女性(23)の寝ている部屋の壁を突き破り、
ベッドの手前で止まったといいます。
運転手とも軽傷で済んだそうで何よりですが、
一歩間違えば・・・。

「まさか」は突然やってきます。
心臓マヒや脳梗塞、事故や震災など、
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
吸う息吐く息と触れ合っているのが、後生なのです。

だから後生と関係のない人は、一人もいないのです。
次に「一大事」とは、どんなことをいわれるのでしょうか。
仏教に、こんな話が伝えられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ある時お釈迦さまは托鉢中、
大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、
しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。
自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、
早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、
相手がお釈迦さまと分かった娘は、
心を開いてこう打ち明けました。

「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、
今は捨てられてしまいました。
世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、
死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。
どうかこのまま死なせてくださいませ」
と娘は、よよと泣き崩れました。

その時お釈迦さまは哀れに思われ、
こう諭されています。
「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。
ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、
朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。
つくづくその牛は思った。
なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。
そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、
牛は車を壊すことを決意した。
ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、
木っ端微塵に壊してしまったのだ。

ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、
頑丈な車でなければまた壊されると、
やがて鋼鉄製の車を造ってきた。
それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。
その車で重荷を同じように毎日引かせられ、
以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、
深く後悔したが後の祭りであった。

牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと
思ったのと同じように、
そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。
そなたには分からないだろうが、
死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。
その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この話は、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあることを、
お釈迦さまが教えられたものです。
これを「後生の一大事」といわれます。
この「後生の一大事」を解決することこそが、
仏教を聞く目的なのです。

苦より苦に入る

お釈迦さまは、唯一の真実のお経である『大無量寿経』に、
「後生の一大事」を、
「従苦入苦 従冥入冥」(苦より苦に入り、冥より冥に入る)
とも説かれています。

今苦しんでいる人は、死んだ後もジゴクの苦を受ける。
「この世のジゴクから、死後のジゴクへと堕ちていく」
とおっしゃったお言葉です。

「ジゴク」というのは中国の昔の言葉ですが、
日本の言葉で言いますと、「苦しみの世界」ということです。

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この世のジゴクというのは、何のために生きているのか分からず、
毎日が不安で暗い日暮らししていることをいいます。
「人間に生まれてよかった」という飛び立つような生命の歓喜がなく、
ため息をつきながらぼんやりと日々を過ごし、
「こんな人生なら死んだほうがましだ」と心で泣いているのが、
この世のジゴクです。

自分の業(行為)が生み出す苦しみですから、
「自業苦」とも書きます。

蚕は自ら吐いた糸で繭に閉じこめられ、
湯玉に煮られて苦しむように、
心ない発言で人を傷つけ自らも傷ついたり、
暴力振るって妻(夫)に逃げられるなど、
「身から出たさび」の実例はあふれています。

多くの人が、お釈迦さまのいわれる「この世の自業苦」に
人知れず呻き(うめき)、悶えているのではないでしょうか。
このような、現在が心の暗い生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗なジゴクへ堕ちて苦しまなければならないことを、
お釈迦さまは、「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)と説かれているのです。

では、死後のジゴクとは、どんな世界なのでしょうか。
お釈迦さまは、「どんな言葉を使っても、ジゴクの苦しみは説けない」
と言われています。
それでは喩えでなりと、とお弟子が申し上げると、
お釈迦さまは、こんな喩えで教えられています。

「朝と昼と夜の三度、それぞれ100本の槍で突かれるのだ。
その苦しみを何と思うか」
と尋ねられました。
「わずか一本の槍で突かれてさえどんなに苦しいだろうに、
一日三百本で突かれる苦しみは想像も及びません」
とお弟子が答えるとお釈迦さまは、
小さな石を拾われて、
「この石と向こうのヒマラヤ山と、どちらが大きいか」
と突拍子もないことを言われる。
「それはそれは、とても比較になりません。
大変な違いでございます」
と答えると、
「毎日、三百本の槍で突かれる苦しみをこの石だとすれば、
ジゴクの苦しみはあのヒマラヤ山のごとしだ」
とおっしゃっています。

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これでは私たちに、地獄の苦しみを分からせることは、
私たちが犬や猫にテレビやパソコンの説明をするよりも、
大変なことであったに違いありません。
「地獄」と聞くと、虎の皮のフンドシの鬼や湯玉たぎる釜を想像して、
あざけったり笑ったりするのは、
苦しみを表す表現であることを知らないからです。
特にインテリを自負する人たちの中には、
「死後の地獄など架空の物語だ」と蔑視するのが聡明な知識人の証、
とさえ錯覚している人が多いようです。
相当の仏教学者や自称「親鸞聖人のファン」の作家でもそうですから、
いかに仏教を正しく理解するのが難しいか、
ということでしょう。

「地獄」とは、自分の業(行為)が生み出す実在の世界なのだと、
仏智を体得されたお釈迦さまは、説かれているのです。

弥陀のねらいは、平生の救い

大宇宙の諸仏の王である阿弥陀仏は、
このジゴクからジゴクへ綱渡りしようとしている私たちを、
「この世のジゴクも未来のジゴクも救い摂り、
永遠の幸福にしてみせる」という約束をしておられます。
これを「弥陀の誓願」といいます。

こんな凄い誓願は、ほかに絶対にありませんから、
親鸞聖人は「無上殊勝の願」とも「超世の悲願」とも言われているのです。

現在の延長が未来です。
現在の自業苦が救われなければ、未来の地獄は助かりません。
眼前の小川さえ渡れないのに、
どうしてその先の大きな河が渡れましょうか。

生きている平生に救われる「平生業成」の教えこそが、
弥陀の誓願のねらいになっているのも、
お分かりになるでしょう。

阿弥陀仏の誓願不思議によって、後生の一大事を解決していただき、
いつ死んでも浄土往き間違いない「後生明るい心」に救い摂られたことを、
「正しい信心」とか、「信心決定」「信心獲得」といわれます。

「決定(けつじょう)」とはハッキリすること。
「獲得(ぎゃくとく)」とは、わがものになったこと。
これを「他力の信心」ともいわれるのは、
全く弥陀のお力によって頂くからです。
「他力」とは、弥陀から賜ること。
『歎異抄』の最初に、
「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて」
と言われているのも、この「他力の信心」一つで、
後生の一大事の解決が果たされますから、

ただ信心を要とす」(『歎異抄』第一章)と“信心肝要”を説かれ、
聖人自作のお聖教では、

涅槃の真因は唯信心を以てす」(教行信証)
(浄土往生の真の因はただ信心一つである)

正定の因は、ただ信心なり」(正信偈)
(仏になれる身になる因は、信心一つだ)

と、“信心正因”を打ち出されています。

親鸞聖人90年の生涯、教えられたことは、
この「他力の信心」以外にありません
から、
蓮如上人は、
聖人一流の御勧化(ごかんけ)の趣は、信心をもって本とせられ候
祖師聖人御相伝一流(そししょうにんごそうでんいちりゅう)の肝要は、
ただこの信心一(ひとつ)に限れり

と、“唯心独達の法門”を宣揚(せんよう)され、
一日も片時も急いで信心決定せよ」(御文章)
後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし
」(帖外御文)
と訴えておられるのです。
それは死んでからではない、生きている「平生」に果たされるから、
「平生業成」といわれます。

「平生」に、「他力の信心」を獲得する一つで、
永遠の幸福になるという「人生の大事業」が、
「完成」するということです。

この解決は、大宇宙に無数の諸仏ましませども、
本師本仏の阿弥陀仏以外には絶対できませんから、
お釈迦さまは仏教の結論に、

一向専念 無量寿仏(大無量寿経)
「阿弥陀仏一仏に向かい、信じよ」

と説かれ、親鸞聖人は、

一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)
「永遠の楽果を得るか、永久(とわ)の苦患(くげん)に沈むか。
それは『一向専念無量寿仏』になるか、否かで決まる」

と断言され、
蓮如上人は、よく親しまれている「白骨の御文章」に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのめ
と、教えられているのです。

では、なぜそんな一大事が引き起こるのでしょうか。
このことが本当に分からねば、
『正信偈』冒頭に、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
と叫ばれた聖人の大歓喜は、毛頭分かりません。
初めの2行が分からなければ、『正信偈』は最後まで、
全く分からなくなってしまいます。
それに関しては、以下の記事を読んでいただければ
理解できると思います。

一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか!

一息切れると、なぜ一大事が起きるのか!

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特に関連の深い記事は

仏教で一番大事なことが教えられていないのは何故?

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我々はみな極悪人である! [罪悪深重]



(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

極重悪人唯称仏(極重の悪人は、唯、仏を称すべし)
                    (正信偈)

「極重の悪人」とは、「極めて罪の重い悪人」
ということです。
これはどんな人のことか分からないと、
親鸞聖人がこの一行でおっしゃっていることは、
毛頭分かりません。

仏教を説かれたお釈迦さまは、
お亡くなりになる時に、
「仏教は法鏡なり」とおっしゃっています。

「法」とは「真実」「本当の」ということですから、
「法鏡」とは、「本当の私の姿を見せてくれる鏡」
ということです。
仏教を聞き初めのころは、
法鏡から遠いところにいて、
自己の真実の姿を教えられても、
「それは私のことではない。自分は違う」
と思っています。
そして、「あの人に比べれば、私はまだましなほうだ」
と平気でいます。

ところが、だんだんと仏教を聞いていきますと、
鏡に近づいていくように、
自分の本当の姿が
次第に明らかに知らされてきます。
鏡に近づくほど、しわやら、あざやら、
醜いものが見えてくるように、
仏教を聞けば聞くほど、
自分の醜い姿が知らされてきます。

鏡の前に座っても、目をつむっていたり、
そっぽを向いていては、
鏡を見ていることにはならないように、
何十年も仏教を聞いていても、
本当の自分の姿を知らなければ、
仏教を聞いたことにはなりません。

では、仏教の法鏡に私たちの姿は、
どのように映し出されているのでしょうか。

●問題は、「心」にある。

お釈迦さまは『大無量寿経』に、
次のように説かれています。

心常念悪(しんじょうねんあく・心常に悪を念じ)
口常言悪(くじょうごんあく・口常に悪を言い)
身常行悪(しんじょうぎょうあく・身常に悪を行い)
曽無一善(ぞうむいちぜん・かつて一善も無し)

仏は私たちを心と口と身体の、
三つの行為から見ておられます。

中でも、
「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
と教えられるように、最も重く見られるのは
心の行為です。
口や身体を動かすのは心だからです。

・・・・・・・・・・・・・・・
二人の禅僧が諸国行脚中、
小川にさしかかった。
美しい娘が、連日の雨で川が増水し、
とび越えられずモジモジしている。
「どれどれ、私が渡してあげよう」
僧の一人が、無造作に抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は、
顔を赤らめ礼を言って立ち去った。
同伴の僧がそれを見て、
かりにも女を抱くとはけしからんとでも
思ったのか、無言の行に入ってしまった。
戒律のやかましい禅宗では、
女性に触れてはならないとされているからだろう。
日が暮れて、女を渡した僧が、
「どこかで泊まることにしようか」
と声をかけると、
「生臭坊主との同宿はごめんこうむる」
連れの僧は、そっぽを向いた。
「なんだ、お前、まだあの女を抱いていたのか」
件(くだん)の僧はカラカラと笑った。
連れの僧は、いつまでも抱いていた
心の生臭さを突かれて、
返す言葉がなかったという。

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・・・・・・・・・・・・・・・
問題は、その心にあるのです。
「よもすがら 仏の道を求むれば
わがこころにぞ たずね入りぬる」
親鸞聖人が高僧と仰ぐ、源信僧都の述懐です。
自己の真実とは、
「心の真実」が問われているのです。

その心は、欲や怒り、ねたみそねみが
とぐろを巻いて、
他人に言えない、恐ろしいことを
思ってはいないでしょうか。

●他人に言えないことを、思ってはいないか

一皮むけばウミ血が流れると分かっていても、
美しい女を見た時は、
邪淫の心が燃え上がっている、
と釈尊は説かれています。

あらゆる人は、つねに淫らなことばかり考え、
婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、
卑猥な行為を思いのままにしている。

我が妻を厭い憎んで、
他の女をひそかにうかがって
煩悶の絶えたことなく、
愛欲の波は高く寄せかけ、
寄せかけ、起つも座るも、安らかでない

仏典に説かれている刀葉林地獄(とうようりんじごく)
といわれるものは、
人間のこの愛欲の広海を描かれたものでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
この地獄へ堕ちた男がふと見ると、
天を摩(ま)すような大樹がある。
葉は刃のごとく鋭く、焔(ほのお)を吹いている。
樹上には好みの女が、満面の媚(こび)を浮かべて、
自分を招いているではないか。
罪人のかつての恋人である。
恋しさのあまり、居ても立ってもおれぬ男は、
前後を忘れて木に登っていく。
すると刀葉(とうよう)が降ってきて、
男の肉を割き、骨を刺し、全身血だるまになるが、
愛欲はいっそう激しさを増す。
ヤットの思いで近づいて、
さあ、満身の力で抱こうとすると、
忽然と女は消えうせて、今度は樹の下から声がする。
「あなたを慕ってここまで来たわ。
ねえ、早く来て抱いて」
とやさしく誘う。たかが一人の女のために、
火を吐く思いで登ってきた純情が、
いじらしく泣けてくるが、
愛恋(あいれん)の情ますます燃え盛り、
樹を下りようとすると、地上に落下した刀葉が、
今度は逆に、上に向かって焔を吐き、
寸々分々に肉を徹し、骨を削る。
言語に絶する苦痛である。
ようやく地上に下りると、
だが、恋人の姿はそこにはない。
樹上からまたしても身悶えしながら彼を呼ぶ。
愛欲の広海は果てしなく、
限りなく登り下りを繰り返し、
苦しみ続ける地獄であると
説かれている。

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・・・・・・・・・・・・・・・・

別れては恋しく、会えば敵同士となって
傷つけ合う。
満たされなければ渇き、
満たせば二倍の度を増して渇く。
愛欲の実態を表して余すところがありません。
「理性」と聞けば、近代哲学の父・デカルトが
思い浮かびますが、
彼もお手伝いの女性に子供を産ませ、
未婚の母にしています。

泳ぎ切れない愛欲の広海に溺れているのが、
私たちの実相ではないでしょうか。

金が欲しい、物が欲しい、誉められたい、認められたい、
もっともっとという限りない欲に私たちは、

どれだけ恐ろしいことを
思い続けていることでしょう。

あいつがいなければ、こいつがいなければ、
あの人が失敗したら、この人が死ねばと、

どれだけ人を、
心で蹴落とし殺しているでしょうか。

親であれ兄弟であれ、
子供であれ恩人であれ、

自分の欲のためには、
どんなことでも考えます。

遺産相続で、兄弟や親戚どうし、
骨肉相はむ争いは、
この欲の心が引き起こす惨劇です。

その欲が妨げられると、
出てくるのが怒りの心。

あいつのせいで儲け損なった、
こいつのせいで恥かかせられたと、
愼恚(しんい)の炎が燃え上がる。

交際していた女性の上司が
女性を中傷したことに腹を立て、
胸や腹を包丁で刺殺。
さらに、不倫が発覚して離婚を迫る
妻の首をネクタイで絞め殺し、
遺体を切断、山林に捨てた事件も、
怒りの心のなせる業(わざ)でしょう。


とても欲を起こしても、怒ってみても、
かなわぬ相手と知ると、ねたみ、そねみ、
うらみの心がわき上がってきます。

相手の才能や美貌、金や財産、
名誉や地位をねたみ、そねみ、
相手の不幸を喜ぶ悪魔の心が出てきます。

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毒舌家A・ビアスは、
幸福とは、他人の不幸を見てよろこぶ快感
と『悪魔の辞典』に書いています。
にわか雨にあって、
困っているのを見て喜んでいる。
犬にほえられ、うろたえている人を笑っている。
着飾った女性が車の泥はねで、
泣き出しそうなのを楽しんでいる。
火事場に向かう途中で、
鎮火したと聞くとガッカリする。
「旅先の火事は、大きいほどおもしろい」
不謹慎であってはならないと思う下から、
対岸の火事を楽しんでも、
悲しむ心が起きてはこない。

大きな事件や残虐性が強いほど、
視聴率は上がり週刊誌が売れるのは、
何を物語っているのでしょうか。

出世した、結婚した、新築など、
他人の幸せはみんなしゃくのタネ。
失敗した、離婚した、災難など、
他人の不幸を聞くと心の中はニヤリとする。

思っていることは洗いざらい、
さらけ出したらどうでしょう。
悪魔と叫んで、みんな逃げ出すに違いありません。

●永遠に助かる縁なき者

善導大師といわれる偉い方でさえ、

一日のうちに八億四千の憶いあり。
念々になすところ、これみな三塗(さんず)の業なり

と言われています。「三塗の業」とは「悪」のことです。
このように、悪に染まった心の奴隷である口も身体も、
常に悪ばかり言ったりやったりするのは当然です。
だから一つの善もないのです。

これが、すべての人の本当の姿なのです。

親鸞聖人が『正信偈』に、
「極重の悪人」
と言われているのは、
この法鏡に映し出された姿を
告白された言葉です。

『歎異抄』には、

いずれの行も及び難き身なれば、
地獄は一定すみかぞかし

とおっしゃっています。
「行」とは「善」のことで、
頭についた火をもみ消すように
善をしようと努めたが、一つの善もできない、
地獄より行き場のない親鸞であった、
と悲痛な告白をなされています。


「極重の悪人」とは、この「永遠に助かる縁なき者」
と、ハッキリ知らされた自己をいわれたものです。
このように弥陀の光明に照らし出された聖人が、
「こんな極重の悪人は、そのまま救いたもうた念仏を、
称えずにはおれないのだ

とおっしゃっているのが、
「極重の悪人は、唯、仏を称すべし」
のお言葉です。ですから、
「唯、仏を称すべし」
と言われているのは、
「ただ、念仏を称えなさい」
と言われている「唯」ではないことを、
よく知っていただきたいと思います。

念仏称えれば、極楽に往生できるのですか?


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お釈迦さまの本当のみ教えは、いかに骨抜きにされたか!(空海、最澄) [空海と最澄]

    

    なぜ加持祈祷が流行していたか

祈祷によって現世利益をもたらすのが
仏教と思われていた時代に、
それは本当の仏教ではないと親鸞は明言した。

●僧侶は祈祷をするのが当たり前だった
弁円は、加持祈祷をする修験道こそが正しい仏教だと
思っていた。
当時は祈祷によって病気を治したり、
商売繁盛、豊作、安産、災害の回避などの
現世利益をもたらすのが
仏教だと思われていたのである。
そのような社会で、加持祈祷は断じて釈迦の教えではないと
明言したのが親鸞だった。
親鸞の教えの特徴の一つは、祈祷の仏教を、
無祈祷の仏教にしたことである。

親鸞の時代に、祈祷が僧侶の仕事のようになっていたのは、
平安時代に密教が流行したからである。

密教とは「秘密仏教」の意味で、
神秘的な儀式をするのが特徴である。
中国で密教が盛んになったのは8世紀で、
唐の黄金時代だった。
インドから密教を伝えた善無畏(ぜんむい)、金剛智(こんごうち)、
不空(ふくう)を、時の皇帝・玄宗(げんそう)は手厚く迎えた。
この3人によって、密教が中国に本格的に伝わった。
玄宗が60歳の時から陽貴妃を溺愛し、
政治に無関心になると、
陽貴妃の養子・安禄山が755年に反乱を起こした。
不空がこの乱を鎮める祈祷をしてから、
密教は国家を護る宗教として、
ますます皇帝から保護されるようになる。

密教は権力者との結び付きによって、
一気に中国仏教の主流になった。
だが朝廷の力で栄えた密教は、
唐の朝廷が衰えると急速に衰退し、
中国では姿を消した。

●空海が入唐して密教を学ぶ

延暦23年(804)、中国に渡った空海は
不空の弟子・恵果(けいか)に師事し、
3ヶ月で「日本に密教を伝えよ」と免許皆伝された。

空海は20年の留学予定を、
無断で2年で切り上げて帰国する。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       密教に力を入れた天台宗

密教の加持祈祷が権力者から受け入れられると、
天台宗も密教の儀式を取り入れたので、
祈祷が盛んになった。

貴族は加持祈祷を喜んで受け入れた

密教が伝わると貴族は喜んで受け入れ、
主に病気治しを求めて、加持祈祷を僧侶に依頼した。
中でも世間の注目を浴びたのは、
「護持僧(ごじそう)」という、
天皇の健康を不断に祈り続ける僧だった。
最澄が桓武天皇の、
空海が嵯峨天皇の護持僧になったのが、
その先駆けである。

空海と同時期に留学した最澄は、
あるべき仏教の姿を求め天台宗を学んだが、
帰国して求められたのは、密教のまじないの力だった。

最澄も密教を学んだが、
その知識は付け焼き刃的なものでしかなかった。
理想を追った最澄は、自分が時代遅れになりつつあることに、
焦りを隠せなかった。

一方、野心家・空海は、密教という仏教の最新の知識を誇り、
詩文や書にも秀でた多彩な能力を生かして
巧みに朝廷に取り入り、着々と勢力を拡大していた。

2人の状況は、あまりにも対照的だった。
最澄はやむなく、年下のライバル空海に頭を下げて
教えを請うたが、数年で不仲になり絶交している。

●比叡山は密教に力を入れる

最澄の開いた比叡山は、
建前は『法華経』に基づく天台宗の山だったが、
貴族が望んだ密教の加持祈祷を
取り入れなければならなかった。

そこで最澄の死後、天台宗は密教に力を入れ、
「台密(たいみつ)」といわれる
天台宗独自の密教を生み出した。
「台密」に対し、
空海の伝えた真言宗の密教は「東密」という。

天台・真言宗が成立して、
仏教界では祈祷がますます盛んになった。
密教以外の仏教宗派を「顕教(けんぎょう)」というが、
顕教・密教が入り混じって宗派のけじめもなくなり、

さとりを求めるはずの仏教は、呪術化していった。

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・・・・・・・・・・・・・・・
      
修験道はどうして生まれたか

昔から山は神の住む場所と信じられていたので、
修験道のように、山で修行すれば人間ばなれした力を
身につけられるという信仰が生まれた。

●山は神の住む神聖な場所とされていた。

「修験道」は、密教と神信心が混合して生まれた。
日本では古来、「神」といえば「人間の知恵では理解できない、
恐ろしい存在」で、捧げ物をして丁寧に祭ると
人々に恩恵を与えるが、そうしないと腹を立て、
ひどい災いをもたらすものと信じられていた。
神は人里離れた山の中や、
海の彼方に住んでいるとされる。
山を神々の住む神聖な場所とみる「山岳信仰」は古くからあり、
そこで修行すれば超自然的な能力が
身につけられると考えられいた。

だから平安時代になり、山で修行する密教の僧が増えると、
彼らは人間を超えた力を身につけていると信じられた。

密教僧の中で、特に強い加持祈祷の力を持つと
信じられた者は「修験者」(山伏)と呼ばれ、
「修験道」が生まれたのである。

密教に、天台系(台密)と真言系(東密)の2つがあるように、
修験道も天台系と真言系に分かれる。
弁円は天台系だった。

●神仏習合が日本の伝統

修験道のように仏教と神信心が混ざり合うのは、
日本では普通のことであり、むしろ伝統だった。

特に江戸時代までは、仏教にも神信心が含まれ、
神道にも仏教が混じっていたので、
仏教と神道が、ぶつかることなく両立していたのである。

本来はまったく違う仏と神が、
同じようなものとして一緒に信仰される現象を
「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」といい、
日本の宗教界の特徴だった。

「習合」とは「重なり合う」という意味で、
明治に入るまでは、僧侶が神主を兼ねていたり、
神社の礼拝の対象が仏教であったりなど、
寺院と神社の混合がよくあった。
しかし明治元年(1868)の「神仏分離令」により、
神社から仏教的な要素は一切除かれた。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    神道と妥協した日本仏教の伝統

日本の僧侶は神信心の権力者と密接な関係にあった。
それは仏教の教えが、神道と両立するよう
変えられてきたということである。

●仏教と神道は対立を避け妥協した。

6世紀に金色の仏像や経典が伝来し、
仏教がはじめて公式に日本に伝えられた時、
物部氏と蘇我氏が激しく争ったという。
両氏とも経典が理解できるはずはなく、
「仏」とは「他国の神」だと考えていた。
物部氏は他国の神を拝めば、
昔からいた神が怒るといい、
蘇我氏は崇拝するべきだと主張した。
仏を神と誤解した低次元の論争だったが、
そこには早くも、古くから神信心と仏教の対立があった。

だがこのような争いは日本では避けられ、
昔から仏教も神道も、社会に受け入れやすいように、
教えを変化させたのである。

●独自の本地垂迹説が作り上げられた

天台・真言宗などは、日本の著名な神は、
仏が神の姿になって現れたものだと主張した。
経典には、仏は衆生を救うために、
あらゆるものの姿となって仮に現れると説かれており、
これを「本地垂迹」という。
この本地垂迹を都合よく解釈した、
「神社の神は本は仏であり、神も仏も一体だ」
という説が、天台・真言によって広められ、
社会の常識となった。

仏典には神は拝んではならないと厳しく教えられている。
だが仏教は日本で骨抜きにされて他宗教と化し、
僧侶が平気で神を崇め、祈るようになった。

そこへ法然と親鸞が現れ、「一向専念無量寿仏」
を強調し、阿弥陀仏以外の仏・菩薩・神を捨てよと説いたのである。
これは、仏教と神道が混合した伝統を破って不純物を排し、
釈迦の本当の教えを明らかにした、
日本の宗教史上画期的なことだった。

だがそのために、権力者と仏教諸宗から総攻撃を受け、
法然も親鸞も流刑に遭わねばならなかった。
後で述べるが晩年の親鸞に痛ましい家庭悲劇が起きるのも、
生涯この一向専念を貫いたからである。

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