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正しいご本尊は何か? [南無阿弥陀仏]

皆さんのお宅にお仏壇はありますか。
「うちはまだ葬式を出したことがないから、
仏壇はありません」
という方もあるでしょう。
多くの人が死人を「仏」といい、
亡くなった先祖を祭るのが仏壇だ、
と誤解しているようです。

仏壇は死んだ先祖のためではなく、
文字どおり仏さまを御安置するところ。

仏とは、仏教で教えられる
五十二のさとりの最高の仏覚を開いた方で、
先祖のことではありません。

私たちが人間に生まれ、
弥陀の本願に救われるために
仏前にて勤行はします。
そこで大事なのが仏壇に安置するご本尊。

根本に尊ぶべき、宗教で最も重要なものです。
浄土真宗の私たちは、
何をご本尊とすればいいのでしょう。
親鸞聖人にお聞きします。


     私たちの
        正しいご本尊は何か?

●「南無阿弥陀仏」って
  何かのおまじない?

親鸞聖人は、
浄土真宗の正しいご本尊は
南無阿弥陀仏の六字の御名号である

と明確に示されています。
「南無阿弥陀仏って何?」
「何かの呪文かおまじない?」
いいえ、そうではありません。
御名号とは分かりやすくいえば、
恐ろしい病で苦しむすべての人を救うために、
名医である阿弥陀仏が作られた、
すごい働きのある妙薬に例えられます。

「病なら
すてておいては なおるまじ
六字の薬 たてかけて飲め」
私たちの心の病はほっておいては治らない。
南無阿弥陀仏の六字の薬を飲めば治るのだ。
この名号の妙薬を飲むには、
仏法を重ねて聞かねばならない。
不断の聞法が大事である

古歌にもこう歌っているように、
私たちは重い心の病にかかっている。
その病気を、飲むと同時に治し、
無上の幸福に救う働きのある
すごい薬が南無阿弥陀仏なのです。

「恐ろしい病?」
「すごい薬?」
一体、何のことかと思うでしょう。
薬といっても、病気の自覚なき人には
無関係としか思えませんね。

まず、その病についてお聞きしましょう。

●私たちは皆、
   “心の難病”で
      苦しんでいる

私もあなたも、すべての人は、皆、
心の病で苦しんでいると、
仏教を説かれたお釈迦さまは教えられています。

「難治の三病(根治し難い重篤な病)」
といわれ、その病名を蓮如上人は、
無明業障の恐ろしき病」(御文章)
とおっしゃっています。
ここで「無明」とは「煩悩」のこと。
私たちを煩わせ、悩ませる。
各人に108ずつある、と説かれています。
年末に除夜の鐘を108鳴らすのは、
この数に由来します。
“煩悩に苦しんだ一年。
来年こそはそれを滅して幸せに”という願いから。
しかし実際は、鐘を打つだけで
煩悩を離れ切れるものではありません。
「煩悩具足(ぼんのうぐぞく)」
「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」
と聖人は、有名な『歎異抄』にいわれ、
「私は煩悩の塊である」
と告白されています。
「具足」とは、それでできている、ということ。
雪だるまは「雪具足」、雪を取ったら何も残らない。
「煩悩具足」の人間は、煩悩に目鼻をつけたような者です。
「熾盛」は盛んに燃えている様子。
煩悩は常に燃え盛って、
私たちを悩ませ、苦しめます。

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●離れきれない
    欲や怒りの心

その108ある煩悩の中で、最も恐ろしい貪欲、
瞋恚(しんい)、愚痴を三毒の煩悩といわれます。

貪欲とは欲の心。
飲みたい、食べたい、楽がしたい。
称賛を好み、嫌われるのを恐れ、少しでも得をしたい、
損したくない心です。
私たちの行動の源泉は、多くの場合、欲でしょう。
学生がつらい勉強に励むのは、
未来の楽を手に入れるため。
反対に怠けるのは、今の楽を求めてのこと。
仕事も同様で、働かねば思い通りの生活を送れないからです。
老いも若きも男女の別なく、我を通したいともがいている、
それらすべて、欲に違いありません。

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その欲が妨げられると、瞋恚(怒りの心)が
猛然と噴き上がってきます。

不況の寒風が心を波立たせ、
ギスギスした風潮が世間を覆っている。
都会では乗客の、駅員への暴行が
多発しているといいます。
不景気で財欲が妨げられ、
他人に八つ当たりせずにいられない
心情になるのでしょうか。
(平成22年のとどろきから載せています)
そんな怒りの連鎖が、時に凶悪事件へと
発展することもある。
いずれもだれかの怒りが、
ほんの少し表に顔を出したのでしょう。
怒れない相手にはネタミ、ソネミ、ウラミの愚痴が、
心底に生じます。

夫婦、親子、兄弟は仲良くしてこその間柄。
しかし、年を重ねてともに暮らしていくと、
人に言えぬ抜き差しならぬ感情が募ります。
「あの時、こんなこと言われた」
「20年も前のことだけど、一生忘れられん」
など、実際に顔突き合わせて生活する
当事者にしか分からないもの。
周囲からはとても推し量ることができないのです。
そんな思いの数々を、胸に納めて一生を終える人、
耐え切れずに感情を爆発させる人。
いろいろでしょう。
そのいずれもが、煩悩の毒によって苦悩の人生となる。
まさに「恐ろしき病」。

欲、怒り、愚痴と無関係な人はないのだと知らされます。
煩悩の障りが現れて苦しむのを「業障」といわれています。
煩悩で悪業を造り、それが原因となって苦しみの悪果が
自身に現れるのです。

●諸仏に
  見捨てられたのは
       だれ?

こんな恐ろしい病で苦しむ私たちを、
何とか救ってやりたいと立ち上がられたのが、
十方諸仏(大宇宙の仏方)でした。

それを蓮如上人は『御文章』に教えられています。
「十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
十悪・五逆の罪人、五障・三従の女人は、
いずれも私たち人間のこと。
欲や怒り、愚痴の心で悪を造り続ける罪悪深重の者を、
何とか救おうと諸仏方が願いを起こされたが、
私たちの罪があまりに重いため、
「とても我々の手に負えん」
と見捨てられたのです。

しかしこのままなら、私たちは何にために生まれ、
生きているか分からず、苦しみから苦しみへ、
冥から冥へと、現在も死後もジゴクに沈んでしまう。
そんな者をとても見捨てておけん、
何としても救いたいと、
ただ一人立ち上がられたのが、
十方諸仏の本師本仏・阿弥陀仏なのです。

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「然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に見捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
と『御文章』には続きます。
比類なき名医である阿弥陀仏は、
そんな私たちを救わんと、

諸仏に見捨てられた極悪人なら、
なおかわいい。この私が必ず最高の幸せに救ってみせる

と誓願を起こされました。
このお約束を阿弥陀仏の本願といいます。

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●私ひとりのための
    お約束

本師・阿弥陀仏が、ご自身で建てられた
この「五劫の思惟」の誓いを果たすために
兆載永劫の修行」という気の遠くなるような長期間、
ご苦労なされて成就されたのが
南無阿弥陀仏」の六字の御名号です。

ここで五劫、兆載永劫の「劫」とは、
4億3千200万年のこと。
無限数とも教えられ、古来、その長さをこう例えられます。

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四十里四方の大盤石(だいばんじゃく)を、
天人が百年ごとに羽衣で触れて磨し、
これによって消滅してもいまだ尽きないほどの長期間。
           (盤石劫ともいう)
四十里四方の大倉庫に芥子(けし)を満たし、
百年に一粒ずつ取り出して、尽きないほどの長期。
           (芥子劫ともいう)
いずれも想像を絶する長期間であり、
その長きにわたる弥陀のご苦労
は、
ひとえに、この私一人を救わんがためであったなあと聖人は、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり」
            (歎異抄)
と感泣なされています。
南無阿弥陀仏の大功徳を頂けば、往生一定、
命終われば阿弥陀仏の極楽浄土に往って
弥陀同体の仏に生まれる身となります。

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真っ暗な後生が、限りなく光明輝く未来に転じ変わる。
煩悩具足のままで、大安心、大満足の身に大変わりする。
南無阿弥陀仏には、私たちをそんな幸せにする働きが
封じ込められています。

大宇宙に二つとない至宝なのです。
この南無阿弥陀仏は、弥陀がお手元に置いて
喜ぶためのものではありません。
私たちに一刻も早く飲ませ、
心の重病を完治させる。
そのために阿弥陀仏は、今もお立ちづくめで
働いてくださっているのです。

では、この名号の薬はどのようにして頂けるのでしょう。
お釈迦さまは、
聞其名号
といわれ、南無阿弥陀仏を「聞」と聞いた一念に、
耳から頂くのだと教えられています。

そこまで進むには、仏法を重ねて
聴かせていただく以外にありません。
仏法は聴聞に極まる
と、これを教えられています。
「聞其名号信心歓喜」、南無阿弥陀仏を弥陀から賜った一念に、
絶対の幸福に救い摂られるのです。

だからこそ親鸞聖人は、このすごい力のある御名号を、
生涯、ご本尊とされました。

親鸞聖人と同じご本尊を御安置し、
聖人と同じ往生一定の身に一日も早く救われるよう、
光に向かわせていただきましょう。

 


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死んだら誰でも極楽に往けるのか [Q&Aシリーズ]

どんな人でもただ念仏していると、
死んだら簡単に極楽浄土へ往けて仏になれるのが、
浄土真宗のように教えられています。
そのために世間の人たちは死んだ人をみんな仏といって、
何の不信も抱きません。
しかし、これは浄土真宗でもなければ仏教でもありません。

●浄土へは
    往き易くして人なし

仏教を説かれたお釈迦さまは、唯一の真実経『大無量寿経』の中に、
易往而無人」と教えられているだけでも、
それは明らかです。
「易往而無人」ということは、
「往き易くして人無し」と読みます。
お釈迦さまは出世本懐として
阿弥陀仏の浄土往生を説かれてから、
「弥陀の浄土へは往き易いけれども、往っている人が無い」
と、おかしなことを仰っておられます。
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なぜおかしいかと言いますと、
弥陀の浄土へ往くことが本当に易しいのならば、
往っている人が無いというのはおかしいし、
浄土へ往っている人が無いというのが真実なら、
往き易い浄土だと言われるのは適当ではないことになります。
この点について親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中に、
「『易往而無人』というは、『易往』はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること
疑いなければ往き易きなり、
『無人』というは、ひとなしという、ひとなしというは、
真実信心の人はありがたき故に実報土に生るる人稀なりとなり
と仏意を開顕なされています。

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蓮如上人は、これを、
安心(あんじん)を取りて
弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、
信心をとる人稀なれば
浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり
               (御文章二帖七通)
と教えられています。
親鸞聖人も蓮如上人も、
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは
真実の信心を獲ている人だけなのだ、
その真実の信心を獲ている人(現在、阿弥陀仏に救われている人)は
甚だ稀だから、誰でも彼でも死にさえすれば、
極楽へ往けるのではないのだ、これが釈迦の御意だ、
と教えておられます。
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●教える人も
    求め抜く人もいない

また、存覚上人は次のように教えられておられます。
「人なしというは、よくおしうる人もなくよくきく人もなきなり」
             (浄土見聞書)
真実の信心を教え切る知識もいないし、
真剣に求め抜く同行もいないから、
真実の信心を獲る人がいない、
だから浄土へ往く人は雨夜の星になるのだ
と喝破なされています。
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●観念の遊戯では助からぬ

浄土真宗は平生業成、現生不退、報土往生、
弥陀同体と現当二益の大幸福をうる無二の勝法でありますが、
その真実が開顕されず他力が無力になり、
やりっぱなしが他力のように教えられています。
そのまま、そのままと教えられてわがままになり、
放縦になって有り難いお言葉や例え話をきいて合点して
観念の遊戯をしている者ばかりです。
何十年聞いても晴れたも曇ったも分からず、
分からぬままのお助けと疑心往生を決め込んでいます。
だから順境の時は
「これこれ」
と喜べますが、逆境に煩悩が噴き上がる時は、
「こんなことではなあ」
「どうも・・・」
と、底の知れない不安が湧き上がるのは、
一応の合点をしただけで真実の信心でない証拠です。
火に触れれば火傷すると、
幾ら合点し信じていても火傷はいたしません。
ご飯を食べれば腹が膨れると合点して信じていても、
食べなければ腹は満足しません。
世の中のことでさえ合点や言葉では通れないのです。
ましていわんや後生の一大事という大問題。
色もなければ形もない無限無辺の仏智不思議を全領することは
難中之難無過斯(なんちゅうなんむかし)のことです。
平生にこの難中之難を弥陀のご念力によって突破させられて、
地獄一定が極楽一定に転じ、
生死の苦海が光明の広海に転じた人でなければ、
弥陀の浄土へ往くこともできなければ成仏することもできません。
その身そのままその機のなりで、
三悪道へだだ走りしている人ばかりであることを
よくよく承知していなければなりません。


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お金を使う人使われる人 [なぜ生きる]

お金を使う人
  使われる人
    「生かすかどうかは腕次第」

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食品の値上げが相次いでいます。
牛乳、パン、うどん、しょうゆ等々。
家計を預かる主婦のため息が聞こえてきそうです。
(平成20年のとどろきです。)
お金はしかし、有るところには有るもの。
大阪で、自宅に59億円もの現金を
隠し持っていた姉妹が逮捕されました。
脱税額は過去最高の29億円といわれます。
「脱税姉妹」と嘲笑しつつ、
“100万でいいから譲って欲しい”と、
何ともうらやましく思っている方も多いでしょう。

無いから幸せになれないのか、有れば満足できるのか。
今回はそんな“お金”にちなんだ話です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●ああ、もっとお金が欲しい

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4月に日本中の関心を集めたのが、
暫定期限切れに伴う、ガソリン代の値下げでした。
スタンドには続々と車が押し寄せ、
一円でも安いところを求めて、車を走らせた人もあるでしょう。
(平成20年のとどろきより載せています)
スーパーの特売チラシを見比べて、
二軒、三軒とはしごする。
どうしたらガスや電気料金を抑えられるか。
一円でも安くと、私たちは日々頭を悩ませています。
ですから、社会保険庁のずさんな管理のために、
もらえるはずの年金を受け取れなくなった時の怒りは無理からぬこと。
75歳以上の人たちは、4月から始まった新しい医療制度により、
介護保険に加えて医療保険料も年金から天引きされるようになりました。
制度の周知不足も重なって、
“出すべきもんは出さずに、保険料だけはしっかり取るのか”
“役所に都合がいいだけの制度だ”
と反発の声が次々と上がりました。
このように朝から晩まで私たちは、
お金のことで一喜一憂。
漏らすのは、
“もっとお金が有れば・・・”
のつぶやきばかりという人も多いのではないでしょうか?

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ビジネスマンを対象にしたアンケート調査を見ると、
「現在の生活にどの程度満足していますか」
の問いに、
「不満」「やや不満」と答えた人が半数を超えています。
中でも、資産や将来の収入に悩みや不安を抱えている人が
多いと分かりました。
その不安を解消しようと、毎日並々ならぬ努力をしています。
他人と同じことをしていては、
より多く稼ぐことはできないからです。
“年収が何倍もアップする”
“株で常勝するには・・・”
“少ない時間で最大の成果”
書店にはこんなタイトルのビジネス書がズラリと並び、
競争心をあおっています。
戦う術を少しでも早い時期から身につけさせようと、
株式の仕組みや取引の仕方を教えている中学校もあるといいます。
昨年相次いだ食品の偽装にしても、
政治家や官僚による汚職事件にしても、
つまるところは、金のため。
では、なぜそこまでして求めるのか。
お金が有れば衣食住が満たされ、欲しいものが手に入る。
今より豊かな生活を送れて、幸福になれる。
そう信じているからでしょう。

ならば、たくさんの金を手にできたならば、
本当に幸せになれるのでしょうか。

●手にして始まる
    苦悩がある

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ある弁護士の話によると、
全国の裁判所で審理される事件のうち、
最も多いのが金銭絡みのものだといわれます。

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「日本司法支援センター」に寄せられる、
年間約22万件の相談の中でも、
多重債務などの金銭のお借り入れや遺産相続、
金銭の貸し付けなどが、上位に顔を出しています。
これは、お金や遺産があるがゆえに
争っている人があることを示しています。
借金に首が回らず泣く人もありますが、
貸して苦しんでいる人もあるのです。

貸す金が無ければ、“返してくれない”
と涙を流す必要がありません。
“おれにもよこせ”“いや、おまえには渡さぬ”
と兄弟間で取り合いが起きるのは、
莫大な親の遺産があるから。
つまり“有るがゆえの苦しみ”なのです。
金は人を変える、とはよく聞く言葉ですが、
どんなに仲のよかった家族や親戚、
友人・知人同士であっても、ひとたび金銭が絡めば、
骨肉相はむ争いを繰り広げかねないのです。

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法廷で争っている人ばかりが苦しんでいるのではありません。
現代を見渡せば、自殺者は毎年3万人を超え、
精神的な病を抱える人も増えています。
DVや児童虐待の問題の深刻化。
“人を殺してみたかった”“むしゃくしゃしたから”
と身勝手な理由で、見ず知らずの人を殺す事件が
後を絶ちません。
4、50年前と比べると、金や物に驚異的に恵まれ、
生活は豊かになったはずなのに、
今日の日本は幸福どころか殺伐として、
皆、心がイライラしています。

金や物が無ければ苦しいですが、有れば有ったでまた苦しい。
有っても無くても苦しんでいることに変わりがないことを、
2600年前、インドで仏教を説かれたお釈迦さまは、
「有無同然」と教えられました。

金をたくさん手にしたから、
それで幸福になれるわけではないのです。

かつて競争社会のまっただ中で、
家庭も健康も犠牲にしながらモーレツに働き、
高度経済成長を支えてきた「団塊」の世代。
次々と定年を迎えるに当たって、
“今までは、物質的な繁栄を求めて死ぬほど頑張ってきたが、
今になって「心」の問題がいちばん大切だと分かった”
と気づく人が少なくありません。
古人の知恵に学ぼうという昨今の古典ブームも、
その流れの一つといえましょう。

●なぜ金に
   “使われて”しまうのか

必死の思いで金を手にし、
欲しいものが手には入ったはずなのに、
幸せになれないのはなぜでしょう。
考えさせるこんな小話があります。

あるところに、愚かな金持ちがいた。
有名な画家を訪問した時のこと。
見事な作品の数々に感動し、
自分もあのような絵を描いてみたい、
と思うようになった。

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彼はまず、金にまかせて素晴らしいアトリエを建てた。
そして高価なフランス製の絵の具など、
必要な一切のものを買い集めると、
そこへこもって一歩も外へ出ずに
絵を描き続けるようになった。
こうして数年がたったある日、
彼は突然、近所の人にアトリエの参観を許した。
珍しがって集まってきた人々は一様に驚く。
どの絵も、小学生が描いたような
稚拙(ちせつ)なものばかりだったからである。
聞けば彼は、アトリエや絵の具など、
高級なものさえ集めれば、よい絵が描けるものだと
固く信じ切っていた。
ために、肝心の腕を磨くことを
忘れていたというのだ。

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生け花や料理でもそうです。
どんなにきれいな花をそろえても、
生け方を知らねば美しく飾れない。
高級な食材も、調理方法を知らねば
おいしい料理は作れない。
たとえ有り合わせでも、華の先生は美しく生けるし、
名シェフはおいしい料理を作ります。
材料に活殺(かっさつ)は、
それを使用する人の腕一つにかかっているのです。
金は私たちを幸福にする材料ですが、
その金を得ることがイコール幸福ではありません。
「脱税姉妹」と話題の方たちは、
銀行口座から数十回にわたって現金を引き出し、
4,5年ほど前から自宅車庫にため込むようになったといいます。
しかし、ダンボール50箱に詰められた札束は、
使われることもなく無造作に積み上げられ、
カビが生えていたものまで見つかった。
姉妹は着物に少し金をかけるくらいで、
あとは一般の人と何ら変わらぬ
質素な生活を送っていたというのです。
彼女たちにとって、あの大金は何だったのでしょうか。
“金は使うためにある”という平凡な真理に盲目で、
いつの間にか金の番人になっているのは、
かの人ばかりではありません。
「幸福」と「幸福の材料」を混同したまま、
幾らよい材料ばかりを集めても、
本当の幸福になれないのは、当然でしょう。

●一生懸命手に入れた
  “材料”が生かされる

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では、本当の幸福とは何か。
その厳存を教え、人間の真に生きる道を教えられたのが、
お釈迦さまという方です。

このお釈迦さまの教えを、
正確に伝えられた800年前の親鸞聖人は、
念仏者は無碍の一道なり」(歎異抄)
弥陀に救われ念仏する者は、
一切が碍りにならぬ、絶対の幸福者である
とおっしゃっています。
金が有るから、無いからということが、
全く障りにならない真の幸福があるぞ、
という明言です。

今日の言葉で、「絶対の幸福」ともいえましょう。
仏法を真剣に聞き求め、無碍の一道の身になったならば、
だれと比べるまでもなく、
心底からの安心、満足を謳歌できます。

500年前、親鸞聖人のみ教えを
日本全国に広められた蓮如上人はこれを、
「信の上は一人居て喜ぶ法なり」
        (御一代記聞書)
と言われました。
これこそが私たちの生きる目的です。
真の幸福、無碍の一道に向かって生きてこそ、
今まで懸命に手に入れてきた“材料”も
真に生かされることになるのです。

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苦しみの根源は煩悩ではなく、無明の闇! [親鸞聖人]

 


無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり
      (浄土和讃)

親鸞聖人のご恩に報いるには、
喜んでいただけることをしなければ
なりません。
それには聖人が生涯、教えられたみ教えを知り、
信従するのが一番です。
仏教は苦しみの原因を無明と断定しています。
無明とは明かりのない心、臨終に真っ暗になる心です。

還来生死輪転家
決以疑情為所止
(生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す)
苦しみが際限もなくやってくるのは、
疑情(無明)が原因、と断定されています。

●煩悩と闘われた聖人

ところが、私たちはそう思えません。
お金や物質に恵まれれば、
政治や経済がよくなれば、
幸福になれると信じています。

さらに苦悩の根源を追求してゆくと、
煩悩につき当たります。
煩悩が苦悩の原因のように説かれるお経もあり、
体験上も、もっと欲が淡泊であればとか、
短気だから苦しむんだと思われます。
欲や怒りや愚痴の心を煩悩と名付けられたのは、
まことにその通りです。
仏教を大別すると、聖道仏教と浄土仏教の二つになります。
聖道仏教では、煩悩を苦しみの根源のように教え、
親鸞聖人は9歳から比叡山天台宗で、
『法華経』に説かれている難行苦行をなさいました。

煩悩が苦しみの原因のように教える方便の仏教と、
20年間取り組まれたのです。

聖人が如実に煩悩と闘われたお言葉は、
定水を凝らすと雖も識浪(しきろう)頻(しきり)に
動き、心月を観ずと雖も妄雲(もううん)猶覆う

でした。
方便を仮、真実を真ともいい、
仏教には真仮が説かれています。

真仮が分からずして助かる道理がありません。

煩悩によって日夜苦しんでいる私たちが、
苦悩の根源を煩悩と間違えるのはいたし方ありませんが、
いつまでも方便に留まって真実を見失ってはなりません。
(真は真実の教えで、仮は方便の教え、
つまり、真実の教えである“弥陀の救い”に値わせるために方便の教えを説いた。)

善悪と信疑

無明の闇を体験的に知るのは並大抵ではありませんが、
無明を解決しなければ、
生死輪転の家に還来し続けるのです。

煩悩をみつめてゆく中に、
無明が苦悩の根源と知らされてきます。
無明と煩悩を混同している人ばかりです。
煩悩と無明の区別がつかなくては、
親鸞聖人の本当のみ教えは分かりません。

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煩悩は善悪相対であり、
無明は信疑廃立、全然違います。

仏教では煩悩具足、煩悩成就の凡夫と教えられるように、
煩悩は死ぬまで無くなりません。

無明はきれいになくなるときがあります。
無明が分かるのは臨終ですが、
肉体の臨終に分かっても手遅れ、
心の臨終にたたない限り、解決できません。

後生暗い人(死後がハッキリしていない人)を愚者と
仏教では言います。

蓮如上人は『御文章』に、
八万の法蔵を知るというとも、
後世を知らざる人を愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも、
後世を知るを智者とす

と仰います。

後生明るい人は、どんな人であっても智者、
後生暗い人は、学者であっても愚者です。

人生の智者か愚者かは、
無明が晴れたか否かで分かれます。

無明の闇は学問では分かりませんが、
真面目に己れの死を見つめてゆくと知らされてきます。

親鸞聖人29歳の御時、
「信受本願 前念命終」
と仰っているのは、心の臨終です。

闇を破する弥陀の本願

無明を破るのが光明。
光明は仏教では智慧といい、
後生暗い心を解決できる仏は、
阿弥陀仏しかなく
釈尊(釈迦)は阿弥陀仏を
智慧光仏と名づけておられるのです。

「凡夫にそんなハッキリできるものか」
という人は、
阿弥陀仏が無明を破ることができるかと
疑っているのと同じです。
我が身の無明さえも知らず、
破っていただいた体験がないのは当然。
無明が破れなければ、
阿弥陀仏は智慧光仏ではなくなり、
釈尊も親鸞聖人もウソつきになります。
親鸞聖人は、阿弥陀仏によって無明を破っていただかれ、
「釈尊が智慧光仏と名づけられたのは、
まことだったなあ」
と感動的に仰っているところです。
一切諸仏も三乗衆もほめたたえられます。
一切とは十方微塵世界。
大宇宙には数え切れない仏がましまし、
三世諸仏、一切諸仏といいます。
三乗衆とは、声門・縁覚・菩薩のこと、
私たちとはケタ違いに勝れた人たちが
異口同音にほめたたえられます。
それは三世諸仏も三乗衆も破れなかった無明を
阿弥陀仏が破られるからです。

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●真の報恩

親鸞聖人の生涯は、阿弥陀仏一仏に向かってゆくと、
必ず無明が破られるときがある、
そこまで聞き求めなさい、のご教示です。

私たちが無明の晴れるまで求め抜いたとき、
親鸞聖人は一番お喜びになられるのです。

 


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