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殺生の限りを尽くしている者が救われるには! [罪悪深重]

  (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

               (親鸞聖人)

果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ


今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

阿弥陀仏が見抜かれた約束の相手

「弥陀弘誓の船」の説明の途中ですので、
続けたいと思います。
「弥陀」とは、全ての仏の先生である阿弥陀仏、
「弘誓」とは、
“すべての人(十方衆生)を必ず絶対の幸福に救う”
お約束のことです。

阿弥陀仏が見て取られた約束の相手、
十方衆生(すべての人)について
『御文章(お文)』に分かりやすく、
こう書かれています。

それ、十悪・五逆の罪人も、(乃至)
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

              (御文章二帖目八通)

弥陀は私たちを、十悪・五逆という罪を犯し、
大宇宙の仏方(十方・三世の諸仏)から
見捨てられた者と見抜かれているのです。

十悪とは、仏教で教えられている十の罪悪をいいます。

心で犯す罪
①貪欲
②愼恚(しんい)
③愚痴

口で犯す罪
④綺語
⑤両舌
⑥悪口
⑦妄語
身で犯す罪
⑧殺生
⑨偸盗(ちゅうとう)
⑩邪淫

今回は身(からだ)で犯す罪を解説します。

【殺生】
一口に「殺生」といっても、
3通りあると仏教で教えられています。
○自殺
○他殺
○随喜同業(ずいきどうごう)
の3つです。

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最初の「自殺」とは、自分で生き物を殺すこと。
世間でいう、首をつって死ぬとか、
飛び降り自殺のような、
自ら命を絶つことではありません。
食べるために魚や鳥を殺したり、
蜂や蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、
遊びのために釣りや猟で動物を殺すことです。

「生きるためには仕方がない」「害を与えるから」と
私たちは毎日、どれだけの生き物を
殺していることでしょうか。

「他殺」とは、他人に依頼して殺させる罪。
直接殺さなくても、自分が殺したのと
同罪だと教えられています。

魚屋さんは魚を殺し、
肉屋さんは牛や豚を殺しますが、
魚や肉を買って食べる人がいなければ、
それらの人たちは殺生をしなかったでしょう。
肉の好きな私たちが、肉屋さんに頼んで
牛や豚を殺してもらっているのですから、
肉を買って食べる私たちは、
「他殺」の罪を犯していることになります。

「随喜同業」は、他人が殺生しているのを
見て喜ぶ心があれば同罪、ということです。

日々の言動を振り返れば、
殺生を犯さずには生きられぬ
自己の姿が知らされます。

動物虐待者をののしる、その口で・・・

以前、矢が刺さったまま泳いでいるカモが発見され、
一大騒動に発展したことがあります。

通称“矢ガモ”といわれ、連日テレビで報道されました。
痛々しい矢ガモの映像を見ながら、
「かわいそうに」「鬼の仕業だ」
「犯人をボーガンで撃ってやりたい」
と口々に言いながら、
その“口”で、何をしていたのか?

ある人は、“焼き鳥”を食べ、
ある人は、“北京ダック”を平らげ、
“カモ鍋”に舌鼓を打っていたのです。

動物を傷つけてさえ、
「鬼だ」「無慈悲だ」と言うのなら、
殺生の限りを尽くし、
うまいうまいと喜んでいるわが身は
何と評すればいいのでしょう。

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いとしのPちゃんを食べる?

「ブタがいた教室」という実話をもとにした映画があります。
ストーリーは次のとおり。
ある小学校の先生が、食べることを前提として
子ブタを飼うことを児童たちに提案する。
「いのちとは?」「食べるとは?」
という教育の一環として、
卒業までの一年間、26人の児童が
子ブタの面倒を交代で見ることになる。
「Pちゃん」と名づけた子ブタをみんなが可愛がった。
そしてその日がやってくる。
「育てた豚をみんなで食べる」日。

クラスのみんなでPちゃんのことを話し合う。
食べるか、食べないか、
みんなで泣きながら真剣に討論する。

そして結局は・・・みんなで食べた。
実際にこのような授業をすべきかどうか、
賛否は分かれましょうが、
生き物を殺して食べるとはどういうことか、
誰もが考えてみる必要はありそうです。

多くは、「生きるために仕方ない」と、
済ませてしまいますが、
「仕方ない」と「悪くない」は全く別です。
私たちは、殺生せずしては生きられない、
どうにもならない恐ろしい業を持っているのです。

【偸盗】
「偸盗」とは他人のものを盗むこと。
リンゴ泥棒、米泥棒、スーパーや本屋での万引きなど
様々な盗みが行われています。
警察庁によると、一昨年、万引きで逮捕や書類送検、
補導などされた人は95000人。
19歳以下の少年が26000人だったのに対し、
65歳以上は29000人と初めて高齢者が上回りました。
万引きが「少年の犯罪」といわれていたのは昔のこと。
年齢、男女を問わず、盗む罪がやみません。

盗みは物に限らない。
約束の時間に遅れるのは、
相手の時間を奪う時間泥棒です。

また、お経には、
「己にふさわしからぬものを用い、または食する」
のも偸盗罪と説かれています。

心の中で、あれが欲しい、これも欲しいと物色を続け、
偸盗罪を造り続けているのが
人間だとお釈迦さまは教えられます。

【邪淫】
「邪淫」とは、よこしまな男女関係。
ストーカーや不倫などの問題が
毎日のように報道されていますが、
人間は、幾つまで愛欲に悩まされるのでしょうか。

それを、大岡裁きで有名な大岡越前が
母親に尋ねると、
一言も語らず囲炉裏の灰を
火箸でかき混ぜているだけ。
釈然とせぬまま、その場を去った大岡越前。
後でポンと手を打って、
「なるほど、灰になるまでか」
と言ったという。
「世の人の心惑わす事、色欲には如かず。
人の心は愚かなるものかな」
とは、『徒然草』の吉田兼好の言葉。
科学だ、文明だといいながら、
人間幾つになっても、
邪淫の罪はなくならないようです。

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●極悪を 捨てず裁かず 摂め取る

心では貪欲・瞋恚・愚痴。
口では綺語・両舌・悪口・妄語。
身では殺生・偸盗・邪淫
の十の悪を造り続けているのが人間だと、
お釈迦さまは説かれています。

これが「十悪」です。

中でも口や身(からだ)をそうさせる
心の姿をよくよく見つめなさいよ、
と教えられるのが仏教です。

恐ろしいのは、十悪を犯しながら自覚がなく、
善人とうぬぼれているところにあります。

「夢の世は 罪を罪とも知らねども
         報わんときや 思い知られん」
罪を罪とも知らず、悪を悪とも思わず、
罪悪を造り続けていますが、
その報いは必ず受けていかねばなりません。

だから、苦から苦、闇から闇への
綱渡りを続ける私たち。
このままでは何のために生まれてきたのか、
生きているのか、分かりません。

そんな苦悩の悪衆生と私たちを見て取られ、
「我を信じよ。
どんな極悪人も、
必ず絶対の幸福に救い摂る」
と誓われているのが阿弥陀仏の本願なのです。

極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」
底なしの弥陀の大慈悲によらなければ、
金輪際助からないのが私たちであります。

「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてからなずわたしける」

自分の行い(業)が生み出した自業苦(じごく)の海で
苦しみ続ける私たちが、
弥陀弘誓の船に乗せていただければ、
この世から絶対の幸福に生かされ、
死後必ず極楽浄土に連れていってもらえるのだよ、

との親鸞聖人の仰せです。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ
              (歎異抄)
弥陀が五劫という長い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、全く親鸞一人のためであった。
こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、
助けんと奮い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことなのか

弥陀のご本願、真剣に聞かせていただきましょう。


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阿弥陀仏の大慈悲心とは! [阿弥陀仏]

大悲の願船に乗じて、
 光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、
  衆禍の波、転ず
        ーー教行信証

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●私たちを唯一救ってくだされる
         大慈悲の仏


大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、
衆禍の波、転ず
       (教行信証行巻)

“大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか”

親鸞聖人は、初めに「大悲の願船」と仰っています。
「大悲」とは、「大慈悲心」のことです。
ここに、「慈悲」という言葉が出てきます。
日常でも、「あの人は慈悲深い方だ」とか、
「あんな無慈悲なやつとは思わなかった」など、
「慈悲」という言葉を使いますが、
本来、「慈悲」とはどういう意味なのでしょう?
「慈悲」とは、慈の心と、悲の心に分けられ、
親鸞聖人が大変尊敬しておられる、
中国の曇鸞大師は、
「苦を抜くを『慈』という、
楽を与うるを『悲』という」

と教えられています。


大事なわが子が病気で苦しんでいると
居ても立ってもいられない、
真夜中でも病院へ連れていって苦しみを
抜いてやりたいと思うのは、
親の「慈」の心。

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動物園や遊園地に子供を連れていき、
楽しませてやりたい思いは、
親の「悲」の心といえましょう。


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 慈の心は、
抜苦(苦しみをぬいてやりたい)の心、
悲の心は、
与楽(幸せを与えてやりたい)の心ともいわれます。

苦しみをなくして幸せになりたいのは、
誰もが願っていることですが、
現実はどうでしょう。

●人生は「苦しみの花咲く木」

人生は「苦しみの花咲く木」といわれます。
病気という苦しみの花が咲き、
治療に専念していると、
経済的に困窮するという別の花が咲く。
病気も治り、何とか仕事がうまく回って、
貧苦の花の枝をやっと切り落とせたと思ったら、
今度は家族との関係がこじれていた。
その修復をしているうちに、
体調を崩したり、思わぬ事故やトラブルに
巻き込まれたりと
新たな苦しみの花が咲き乱れる。
天災や人災、リストラや大切な人との死別など、
さらに深刻な苦の花が咲くことも・・・。
生きるって、本当に大変。
とにかく目の前のことを一つ一つ解決していこうと、
私たちは頑張っています。
一人の力ではどうにもならぬと、
政治、経済、科学や医学と、
総力挙げて苦しみの花を
切り落とそうとしています。
景気や雇用の問題を解決するのが
政治の役目ですし、
快適に過ごすには科学技術も必要。
病苦を除くには医学の力が欠かせません。
明日への活力を与えるスポーツや芸術も大切でしょう。
人間の営み全ては、いかに苦しみを減らし、
幸せを得るかの努力にほかなりません。
言うまでもなく、いずれも大事なことばかりですが、
もう少し踏み込んで考えてみましょう。


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かつて、政治や経済、科学、医学などによって
人生苦がなくなり、
「人間に生まれてよかった!」
との生命の歓喜を得られたことがあったでしょうか。
古今の歴史をひもといてみれば、
どの時代でも、どこの国でも、
人生には常に深刻な不安や悩みが付きまとい、
私たち人間は一時的な幸せしか得られませんでした。

一つの枝を切ってヤレヤレと思っても、
また別の枝に苦しみの花が咲く。
どれだけ努力して枝を切ったところで、
苦の根っこがある限り、
また新たな苦の花が咲く。

どこまでいっても、
人間に生まれた真の喜びにはたどり着けません。
歴史を直視すれば、それが、
私たちの現実の姿です。
終わりなき苦しみを根本解決するには、では、
どうすればいいのでしょうか。

その答えを示されているのが、
実に仏教なのです。

●阿弥陀さまは「大慈悲」の仏

仏教とは、仏さまの説かれた教えです。
一口に「仏」といいましても、釈迦は、
大宇宙には地球のようなものは
数え切れないほどあり、
そこには無数の仏さまがまします
と説かれています。
それらの仏方を、「十方諸仏」とか「十方三世の諸仏」
といわれます。

「仏心とは大慈悲これなり」
と言われるように、仏さまは皆、
慈悲深いお方ですから、
仏教は「慈悲の教え」ともいわれます。
苦しみを抜き、楽しみ(幸せ)を与える。
これ以外に仏さまの願いはありません
から、
仏教の目的を漢字四字で示すなら、
「抜苦与楽」で100点満点です。
しかし、苦しみを抜いてやりたいと
どれだけ願っても、
重すぎる病は治せぬように、
力及ばぬことがあります。

十方諸仏は、苦しみにあえぐ私たちを、
何とか助けようとされたけれど、
とてもかなわぬと
さじを投げてしまわれた
のだと、
蓮如上人は、『御文章(御文)』にこう書かれています。

それ、十悪・五逆の罪人も、
(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

凡夫とは、私たち人間のこと。
私たちは煩悩の塊で、
罪が重く、「十悪・五逆の罪人」と言われる
「救い難い者」なのです。
助けてやりたいのはやまやまだが、
とても我々の手には負えぬと、
十方諸仏は、私たちを救うことを
断念せざるをえなかった。

では私たちは、真の幸せを知らぬまま、
あくせく生きて、
むなしく死んでいくばかりなのでしょうか。
そうではありません。
諸仏に見捨てられた極悪人なら、
なおかわいいと、ただ一仏、
「われひとり助けん」と立ち上がってくだされた
仏さまがいらっしゃいます。
その方こそが、
十方諸仏の師・阿弥陀如来なのです。
大宇宙最高の仏である弥陀だけが、
「どんな人も我をたのめ、
必ず絶対の幸福に助ける」
という無上の誓願を建立してくださいました。

蓮如上人は、それを次に明示されています。

ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
(乃至)弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」
という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり

        (御文章二帖目八通)

苦しみの花咲く木の根元から
解決できる仏さまは、
この大宇宙に弥陀一仏だということです。

私たちの苦悩の根元を断ち切り、
「人間に生まれてよかった」と
生命の歓喜を与えてくださるお力を持つ
唯一の仏さまですから、

阿弥陀仏はすべての仏から、
「われらが師匠だ。本師本仏だ」
と褒めたたえられています。

阿弥陀仏の御心は
「衆生苦悩 我苦悩
衆生安楽 我安楽」
“衆生の苦悩は、我が苦悩であり、
衆生の安楽は、我が安楽である”

弥陀にとって、人々の苦しみは
ご自分の苦しみであり、
人々の幸せがご自身の喜びなのです。

「おまえを助けるためなら、
どんな苦労もいといはしない。
見捨てはしないぞ。我にまかせよ」

の阿弥陀仏の御心は、
まさに限りなき大慈悲心にほかなりません。
この阿弥陀仏の大慈悲心の願いによって
造られた衆生救済の大船を
「大悲の願船」と親鸞聖人は仰っています。


聖人は、「必ず絶対の幸福に救う」
弥陀の誓願どおりに、
この世で無上の幸福に救い摂られ

「親鸞は、弥陀の大悲の願船に
乗せていただいたぞ!
この広大な世界、皆にも知らせたい」

と、歓喜の叫びを『教行信証』に
書きつづっておられるのです


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