SSブログ

子は大人の鏡 [因果の道理]

 

 

EPSON150.jpg-1.jpg

少子化で子供の教育に関心が集まっています。
よりよく生きるには、勉強はとても大事ですが、
学問だけが教育ではありません。
「健やかに、真っすぐに生きてほしい」
このすべての親の願いを満足するには、
何を拠り所に子供に接し、
育んでいけばいいのでしょう?

・・・・・・・・・・・・・・・・
●“私自身がまず正す”ーーある親の述懐

「“もう、パパったら・・・”
人形でママごと遊びをしている娘の口調が妻そっくりで、
正直、ドキッとしました。
恥ずかしいやら、ほほえましいやら。
思わず家内と顔を見合わせました。

EPSON151.jpg-1.jpg

幼い女児を持つ、ある父親の述懐です。
知らず知らず、自分の行いを子供がマネている。
こんな経験を持つ親御さんは多いでしょう。
ある大学教授はこう振り返っています。

「5歳の息子が、以前はだれが呼んでも
元気よく“ハイ”と返事をしたのに、
このごろ、とんとしなくなりました。
よく考えてみると、どうも私自身に原因があったらしい。
仕事に忙殺され、妻が呼んでもつい黙って
仕事を続けてしまう。
それを見習って子供は、返事をしなくなったようです。
そこで何とかこれを正そうとしたが、
さっぱり効果が表れない。
最後に、そして気がついたのです。
私自身がまず、ハッキリ返事をするのが一番と。

すると子供は、“ハイ”と元気に答えるようになり、
再び家の中に、明るさを取り戻すことができました」
まさに「子は親の鏡」
わが子の未来を思えば、まず親が行いを正す
大切さが分かります。


それは社会全般でもいえることでしょう。
昨年も食品関連など、多くの企業や団体のウソや不正が
噴出しました。
中でも大分県の教員試験での点数操作や増収賄は、
子供を預かる教育者による犯罪。
(平成21年のとどろきです)
その実態に暗澹たる気持ちになった人も
少なくないでしょう。
また、飲酒運転を取り締まる部署の責任者が、
酒酔い運転で検挙された事件もありましたが、
身を正し、模範となるべき人が、
種々の誘惑に負けてしまうのは情けない限り。
もちろんどの世界でも、立派に職務を
果たしている人がほとんどでしょうが、
不祥事は記憶に残りやすく、
子供への影響も大きいものです。

●勉強させるのだけが「教育」!?

そんな中、私たちが目の色を変えて取り組む
「教育」はどんなものでしょうか。
近ごろはビジネス誌の出版社が父親をターゲットに
教育誌を創刊していますが、
「あの有名校の評判は?」など、
メインの企画の多くは入試対策です。
ある期間、目標を定めて努力する受験は、
子供にも大切な経験になりますが、
学力だけにこだわると思わぬ結果を招くおそれもあります。

EPSON152.jpg-1.jpg
昔から「知育」「体育」「徳育」の三つのバランスが、
子の生育に大切だといわれます。

特に徳育は、行動のもととなる心を育むもの。
知育や体育を支える人間の基礎です。
ところが、昨年の有名大学生による大麻使用や、
相撲部屋でのリンチ殺人など、
その基礎に、昨今はひずみが目立ちます。
「約束を守る」
「挨拶や返事をキチンと」
「正直に。ウソや不正をしない」
「相手を思いやり、親切に」
という心掛け、善い生活習慣を身につけることは、
多くの人が大切だと認識していますが、
一方で、なぜウソや不正はいけないのか、
どうして正直が大事なのか。
悪をやめ、善を心がける理由は何か、
の根本問題には、
なかなか目が向けられないようです。

もし子供にその意味を問われたら、
どう答えるでしょう。
心を清め、身を正そうとすることが、
自身の幸せとどんな関係にあるのか。

それを知ることが、頑張って生きる
原動力となるに違いありません。

●なぜ悪いことはいけないか。

悪事はなぜいけないのか、について考えてみましょう。
お店に行って欲しいものを見た時、
実際に手を出さないのは、
「店の人に叱られる」
「警察に捕まってしまう」
からでしょう。
ほかにも、
「親や大切な人が悲しむ」
「人の迷惑になることは、とにかくいけない」
などの理由を挙げ、“だから悪いことはできない”
と抑えます。
これらは一応、だれもが納得する考え方です。

しかし、それでは「バレず」「捕まらず」
「だれも悲しまない」なら、
何をしてもいいのか。
人に見られなければ、
行いはその場で消えてしまい、
悪行の報いは来ないのでしょうか。

EPSON153.jpg-0.jpg

 昨年10月、大阪で、無断借用した会社の車を
飲酒運転し、はねた男性を3キロも引きずって
死なせた22歳の男が逮捕された事件や、
インターネットや携帯電話で
級友を中傷するいじめが横行し、
自殺者が出るほどになっているのも、
「知られなければいい。どうせバレやしないから」
という思考が始まりだと分かります。

確かに録画でもしなければ、
過去の行為を確かめられません。
しかし、人の目の有無で、悪の報いが来たり、
来なかったりするものでしょうか。

世の中には、だれも見ていないはずの悪事が露呈して、
苦しんでいる人がたくさんいます。
いかに周到に隠蔽しても、「頭隠して尻隠さず」
で馬脚は必ず現れる。
ことわざにも、
「天網恢恢(てんもうかいかい)にして漏らさず」
と、悪業は必ず報うことがいわれています。
古人の経験をもとに作られた至言ですが、
これには根拠があるのです。

●仏教の根幹 因果の道理

人類最高の偉人とたたえられ、2600年前、
インドで活躍されたお釈迦さまは、
私たちの行為と幸不幸には、
大変深い関係があるのだと、「因果の道理」
を教えられました。

「因果」とは「原因」と「結果」のこと。
すべての結果には例外なく原因があるということです。
いい成績を取る、思いどおりの仕事に就けるという幸せも、
ケガをする、人に嫌われるという災いも、
原因なしに起きた結果は、万に一つも、億に一つもありえない。
日常のどんなささいな事象にも、
原因が必ずあり、何か原因を作れば必ず結果が生じる、
と教えられています。

次に「道理」とは、「いつでも」「どこでも」間違いのないこと。
悠久の過去から永遠の未来に至るまで、
変わらぬ真理をいいます。
時代や国、地域によって違う憲法や法律、常識などは、
だから道理とはいえません。
因果の道理とは、原因があれば必ず結果が現れる、
すべての結果には必ず原因がある、
といういつでもどこでも変わらぬ真理なのです。
これを釈尊は、

善因善果
   (善いタネをまけば善い結果が現れる)
悪因悪果
   (悪いタネをまけば悪い報いが現れる)
自因自果
   (善も悪も、皆自分のタネまきによって果報が現れる)

と説かれています。
ここで「因」とは、私たちの「行為」をいい、
「果」とは「運命」(本来、仏教では使われない言葉ですが)
のことです。
善いことをすれば喜ばしい結果が、
悪いことをすればイヤな報いが来る。
善いのも悪いのも、自分に現れる運命はすべて、
過去の自己の行いによるのだ、と教えられます。

その「行為」に三つあると、仏教では教えられています。
これを「三業」といわれます。

EPSON154.jpg-0.jpg


「業」とは行為のことで、
三業とは、
身業(身体の行い)
口業(口で言うこと)
意業(心で思うこと)
の三つをいいます。

私たちには、口や身体は容易に分かりますが、
心で思うことも「行為」であり、
自身にさまざまな果報をもたらすことは、
なかなか分からないことです。

しかし仏教では、口や身体は心の命ずるまま
動いているのであり、
心を火の元とすれば、口や身体は火の粉。
心の行いが最も重いのだと説かれています。

 殺(や)るよりも
劣らぬものは
   思う罪

実際、手にかけて殺すことは大変恐ろしいことですが、
それ以上に恐ろしいのは、思う罪なのだ、
ということです。

因果の道理に寸分の狂いもなく、
行為の果報は必ず自身に現れますから、
人に「見える」「見えない」は関係ありません。
たとえだれからも褒められず、とがめられなくても、
行為は目に見えない力となって残り、
応じた結果となって現れると
仏教では説かれているのです。

この教えをしれば、「バレなければ、何をやっても問題ない」
という誤った見解も、
「何を頑張ってもムダ」という自暴自棄な思いも
粉砕されるでしょう。

EPSON154.jpg-1.jpg

  あれを見よ
深山(みやま)の桜 咲きにけり
 真心尽くせ 
  人知らずとも

深山に咲く桜が、「だれも見ていないから」
と手を抜くことなく、
力の限り花を咲かせているように、
人目の有無にかかわらず、
何事も真心尽くさねばならない。
因果の道理に従っていけば、
裏表無く努力する高潔な人格が
形成されるでしょう。

また、ズルや不正をして思い通りの結果を
得ればいいと思う人もあるでしょうが、
ズルや不正は悪い行いですから、
その報いは必ず受けねばならないのです。

EPSON155.jpg-1.jpg

●悪を恐れ、
  善に向かう心がけ

だれも皆、不幸を恐れ、幸せを求めています。
それには大宇宙の真理である
因果の道理に従って
「悪を慎み、善を心がけなさい」
と廃悪修善を教えられているのが仏教なのです。

これを教えられたエピソードを紹介しましょう。

 

EPSON156.jpg-0.jpg

昔、中国に、いつも樹上で座禅瞑想していた
鳥窠という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天が、
その樹下を通った。
奇妙な僧がいるので、ひとつ冷やかしてやろうと、
「坊さんよ、そんな高い木の上で、
目をつむって座っていては危ないではないか」
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。
この坊主、相当偉いのかもしれぬ、
と見て取った白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、
貴僧の名を承りたい」
「私は鳥窠という名もなき坊主だ」
高名な鳥窠禅師と知った白楽天は、
かねてから仏教に関心を持っていたので、
「いいところで貴僧に会った。
一体、仏教とはどんなことを教えているのか、
一言でお聞きしたい」
と頭を下げた。鳥窠は即座に、
「もろもろの悪をなすことなかれ。
つつしんで善を修めよ、と教えるのが仏教である」
と答えた。白楽天、いささかあきれて、
「そんなことくらいなら、3歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、鳥窠すかさず、
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」
と大喝している。

鳥窠禅師の大喝を、私たち大人は
どう聞けばよいのでしょう。
本当の幸せを知り、求めていくうえで、
「廃悪修善」は大切な心掛けです。
仏教を深く知らされるほど、
この「廃悪修善」の心は強くなります。

すべての人が幸せになれる真実の教えに従い、
悪を遠ざけ、光に向かう。

親が身をもってその心掛けを示すことが、
何よりの「こころの教育」でしょう。

この「因果の道理」は、お釈迦さまの説かれた
7000余巻といわれる膨大な
一切経を貫く、仏教の根幹であり、
大宇宙の真理なのです。
常に心にとどめ、生きる指針といたしましょう。


EPSON156.jpg-1.jpg


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

亡き父母の恩に報いたい [葬儀・法事とは]

EPSON092.jpg 

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 )  

「孝行のしたい時分に親はなし」

亡き父や母をしのぶほど、
“ああすればよかった・・・”
“こうもしておけば・・・”
と後悔したり、自分を責めたり。

いつまでも尽きぬ、そんな思いは、
仏法によって、計り知れない親の恩を知らされた
私たちにとっては、特に強いものです。

受けし両親の恩に報いるには、
どうすればよいのか。
亡き父母の最も喜ぶことは何なのでしょう。

アニメーション
『世界の光・親鸞聖人』を通して、
親鸞さまからお聞きしましょう。

●盛大な葬儀が死んだ人の
    ためになるって本当ですか?

「大切な人が亡くなるたび、亡くなった人々に
何をすればよいのか分からず困っていました。
寺の住職が、お通夜や初七日法事で説法しましたが、
内容が全く理解できず、
仏法を知りたいと思うようになりました。」

富山県のとどろき読者(60代男性)から、
先日、このような感想が届きました。
肉親や家族を失って初めて、
当たり前のように受けてきた
ご恩の大きさが知らされ、
悔やむ人は少なくないようです。

墓に布団もかけられず、
遺骨にご馳走を食べさせられもせず、
どうすればこの心が落ち着くか、
ご恩に報いるにはどうすれば・・・、
今からでもできることはないものか、

と思い悩まれる心情は、よく分かります。
では、亡くなった方の最も喜ぶことは何でしょう。
一般に、盛大な葬式や法事を勤め、
お経を読んでもらい、墓も立派にすることと言われ、
これが常識のようになっていますが、
本当なのでしょうか。

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』
の第6巻に、亡き父の葬儀を
どのように執り行うか悩んだ同行(良作とハル)が、
親鸞聖人に教えを求めている様子が描かれています。

(アニメ『世界の光・親鸞聖人』 今回の記事そのままの場面は、12:30ぐらいからです。)

EPSON098.jpg-1.jpg

EPSON100.jpg-1.jpg

追善供養とは、死んだ人を幸福にすると
信じられている行為。
葬儀も法事もそのためだと思っている人に、
親鸞聖人は『歎異抄』にこう仰っています。

「親鸞は、父母の孝養のためとて念仏、
一返にても申したること未だ候わず」
“亡き父母の追善供養に、一回の念仏も、
一巻のお経も読んだことがない”

と告白されています。
4歳でお父さまを、8歳でお母さまを亡くされ、
聖人はどんなにご両親を恋しく思われたかしれません。
「孝心厚い聖人さまが、どうして?」と、
聖人のこの告白に驚く人は少なくないでしょう。
しかし、これは決して、親の孝行を軽視したり、
否定されているのでは、もちろんありません。
29歳にして法然上人に巡り会われ、
弥陀に救い摂られた聖人は、
盛大な葬式や立派な墓と、
死んだ人が極楽往生できるかどうかは
全く関係ないことを知らされて、
仰ったお言葉なのです。

●お釈迦さまのご教導

仏教を説かれたお釈迦さまご在世中の、
こんな話が伝えられています。

ある日、一人のお弟子が、
「お釈迦さま、長いお経を読んでもらったら、
地獄に堕ちている者でも、
極楽に往けると言う人がいるのですが、
本当でしょうか」と尋ねた。
お釈迦さまは無言で立ち上がって
庭に出て行かれ、
小石を一つ拾って大きな池に投げられる。
沈んでいく石を指さされながら、
「そなたたち、この池の周りを、
石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれと
言いながら回ったら、
あの石が浮かんでくると思うか」
「お釈迦さま、そんなことで石が
浮かぶはずがありません」
とお弟子が答えると、こう仰せになった。
「そうだろう。石は、石の重さで
沈んでいったのだ。
どんなに浮かび上がれと言ったところで、
浮かぶものではない。
人は、己の過去に造った悪業によって、
悪因悪果、次の世界に沈むのだ」

EPSON094.jpg-1.jpg

葬式や墓をいかに盛大にしても、
読経や念仏をどんなに多く称えても、
死んだ人の後生は変えられないことを、
お釈迦さまは説いておられるのです。

●「後生どうなるか」分からないと
 亡き父母の喜ぶことは分からない

では、後生は何によって決まるのか。
親鸞聖人はこう教えられています。

「死んで極楽浄土に往けるかどうかは、
本師本仏の本願に救われているかどうかで
決まるのじゃ」

本師本仏とは、大宇宙の諸仏方の先生である
阿弥陀如来のこと。
本願とは誓願のことで、
阿弥陀仏のなされているお約束を、
本師本仏の弥陀の本願といわれます。

阿弥陀如来は、すべての人の苦悩の元は、
死んだらどうなるか分からない、
後生暗い心であると見抜かれました。

そして、「暗い心を、明るい心にしてみせよう、
いつ死んでも極楽参り間違いない
往生一定の身(絶対の幸福)に必ず救う」
と誓っておられます。

それは、死んだ後ではなく、現在ただ今、
平生の救いです。

ゆえに、

「平生の一念によりて往生の得否は
定まれるものなり。
平生のとき不定の念(おもい)に住せば
かなうべからず」
               (執持鈔)
浄土へ往けるかどうかは、平生の一念で決まるのである。
今、往生一定の身になっていない人は、
浄土往生できないのである”。

平生ただ今、弥陀に救われているか、否かで、
永遠の未来が決するのです。

この弥陀の救いの一念を、覚如上人は、
次のように表現されています。

帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり
臨終とおもうべし

               (執持鈔)

弥陀に救われ、後生明るい心が生まれた時を
「帰命の一念」といい、
その時に、苦しめてきた後生暗い心が
死んでしまいますから、
「娑婆のおわり臨終」と言われています。
親鸞聖人は、この「魂の葬式を急げ」と
生涯教え続けていかれました。

EPSON095.jpg-1.jpg

EPSON095.jpg-2.jpg

●最も心をかけるべきは

だから、親鸞聖人の常の仰せは、

親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし
              (改邪鈔)
私が死んだら、賀茂河へ捨てて
魚に食べさせるがよかろう

でありました。なぜ?と驚く私たちに、
その理由を続けてこう教えられています。

これすなわち、この肉身を軽んじて、
仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり

               (改邪鈔)
“弥陀の本願に救い摂られ、
魂の葬式(仏法の信心)ができたならば、
肉体の葬式や墓など、問題にならなくなる”

との御心です。

「いよいよ葬喪(そうそう)を一大事とすべきにあらず」
              (改邪鈔)

肉体の葬式に力を入れて、
最も大事な魂の解決(仏法の信心)を
忘れてはなりませんよ

と常に聖人は教えていられたのです。

EPSON096.jpg-1.jpg

EPSON096.jpg-2.jpg

●喪葬仏事の意味

では、肉体の葬式は必要ないのでしょうか。
親鸞聖人はこう仰います。

EPSON103.jpg-1.jpg

EPSON103.jpg-2.jpg


故人をしのんで仏法を聞くことが、
亡くなった人の最も喜ぶことであると聖人は
教えられています。

なぜでしょうか?
先祖や親の最も望んでいることは何か、
よくよく考えてみますと、
煎じ詰めれば、「子供たちよ、正しく生きてくれ、
真の幸福になってもらいたい」
ということではないでしょうか。
それは私たちが子供に何を望み、
願っているかを考えてみれば、分かります。
私たちが、子孫に切望することは唯一つ、
「正しく生きよ、幸福になれかし」であるからです。

EPSON103.jpg-3.jpg

●真の孝行とは

では、正しく生き抜き、真実の幸福になるのは、
どうすればよいのか。
本師本仏の弥陀の本願を聞信するしかないと、
お釈迦さまは教えておられます。
阿弥陀仏の絶対の救いにあずかり、
後生暗い心が死んで、後生明るい心に生まれる、
往生一定、絶対の幸福、いつ死んでも
極楽往き間違いなしの身になることが、
最も親や先祖の喜ぶことであり、
ご恩に報いることになるのです。
これ以上の、先祖に対する供養も
親孝行もありません。
この最も大事な魂の葬式の勝縁になる
仏事であるならば、
大いに結構なことです。

「亡くなった人をご縁にして無常を見つめ、
真剣に後生の一大事を心にかけて、
一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、
みんなが最高の幸せに救い摂られるのだからね。
これほど尊いことは、ないのだよ」
聖人の仰せにしたがい、
喪葬を縁として、弥陀の本願を
聞き抜かせていただきましょう。
(弥陀の本願を聞き抜くということは、
弥陀の本願に救われるということ)

EPSON097.jpg-1.jpg

ここに注目!

EPSON097.jpg-2.jpg

 


タグ:葬式
nice!(88)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。