SSブログ

出会いにひそむ別れの予感 [親鸞聖人]

親鸞聖人が京都にお生まれになって
およそ800年、
親鸞さまなかりせば、我々は、
真実の仏法、到底知ることはできませんでした。

EPSON114.jpg-1.jpg

親鸞聖人が幼くして仏門に入られたのはなぜか。
その大きな要因であるご両親との悲しい別れを、
聖人はどう受け止められたか。
聞いてみましょう。

出会いにひそむ
     別れの予感

人生は出会いの連続、と聞けば、
希望広がる未来に心弾む思いがします。
しかし「会うは別れのはじめ」。
生きることは別れること、ともいえるでしょう。
人生行路を歩むにつれ、心にしみてくる現実です。
その受け止め方も、相手や別れ方で違います。
とりわけ大恩ある両親、愛する夫や妻、
子供、兄弟姉妹、親友・・・・
それらの人々との永訣に抱く感情は
ひととおりではありません。
(永訣とは、永遠の別れのこと)
経験なくとも、描いたドラマや小説などから
「いつか皆と別れるのだな」と思いを致したことが、
だれにも一度ならずあるでしょう。


映画にもなった小説『魂萌え!』(桐野夏生著)は、
ある日突然、夫を亡くした還暦前の敏子が主人公。
信じられぬ主人の死に、
彼女の感慨をこう描いています。

敏子は、そうだった、夫は死んだのだ、
とまた改めて思い起こし、
こんな思いをこの先何度もするのだろうかと
果てしなく続く時間を重荷に感じたのだった。

平凡な主婦、敏子が、伴侶の死に惑い、
翻弄され、変化していく物語は、
特に同世代の読者の共感を呼びました。

EPSON115.jpg-1.jpg

男性の視点もあります。
昨年3月に亡くなった作家・城山三郎さんは、
遺著『そうか、もう君はいないのか』で、
先に逝った妻・容子さんとの離別を、
こうつづっています。

あっという間の別れ、という感じが強い。
癌と分かってから4ヶ月、入院してから2ヶ月と少し。
4歳年上の夫としては、まさか容子が先に逝くなどとは、
思いもしなかった。
もちろん、容子の死を受け入れるしかない、
とは思うものの、彼女はもういないのかと、
ときおり不思議な気分に襲われる。
容子がいなくなってしまった状態に、
私はうまく慣れることができない。
ふと、容子に話しかけようとして、
われに返り、「そうか、もう君はいないのか」と、
なおも容子に話しかけようとする。

かけがえのない相手との別れを受け入れられぬ、
もどかしさが伝わってきます。
紹介したのは、いずれも伴侶の死を主題にした本ですが、
夫婦に限らず、大切な人を亡くしたなら、
だれでもしばらく胸ふさがれ、
“この先どうしよう”と考える気力も
起きないかもしれません。
「私」がその立場だったら、
周囲からのさまざまな励ましをどう受け止めるでしょう。

EPSON116.jpg-133.jpg

「思いっきり泣いていい。涙かれるまで」
「気持ちを前向きに転換しよう」
「早く立ち直って、今までの生活を取り戻してください」
「つらいことは早く忘れて。
まだ若いんだからいい人でも見つけたら?」
「待つしかない。すべては時が解決してくれる」
表現はさまざまでも、どれも自分を思ってくれてのことと、
ありがたく受け止めたいとは思います。

でも真に救いになる一言は、
実際のところ、あるのでしょうか。
「自分しか分からない不安、悲しみ、いらだちがある」
と胸中を吐露する人もあります。
そのような交錯する感情の出所は、正直、
自分でもよく分からないもの。
先述の『魂萌え!』にも、こうあります。

内心苛立っていた。
なぜ、わかってくれないのだろうか、と。
ここにいる友人たちは、
高校時代からの気の置けない仲間だ。
何かあれば、我がことのように
心配して駆け付けてくれるし、
自分もそうしてきたつもりだ。
しかし、心の底の底にある、
まだ悩みという形にもならない思いや、
漠然とした不安について話し合ったことはない。(略)
友に対する距離感が、
敏子を居心地悪くさせていた。

“なぜこんなふうに感じるのか”ハッキリしないからこそ、
不安で悲しく、いらだつとしたら、
その苦悩とどう向き合えばいいのか。

わずか8歳の親鸞聖人は、
両親との永久の別れをどう受け止め、
行動されたのでしょうか。
聖人の前半生を振り返ってみましょう。

肉親の「死」から
     自身の「死」を知る

親鸞聖人は幼名・松若丸。
お父さまは藤原有範卿(ふじわらありのりきょう)、
お母さまは吉光御前といわれる。
ご両親の元、健やかに成長されたが、
平穏な日々は長くは続かず、
4歳で父君との悲しい別れ、
8歳には杖とも柱ともたのみにされた
母君と死別された。
9歳となったある春の日、
伯父の範綱(のりつな)に伴われて、
松若丸は京都東山の青蓮院を訪れた。
天台宗の座主・慈鎮和尚(じちんかしょう)にお目通りかない、
僧侶になるための出家得度の式は明日、
と案内を受ける。
その時、固く唇を結んでいた松若丸はおもむろに、
何かを懐紙(かいし)に書き付け、
伯父に渡す。
「これを慈鎮さまへ」
松若丸の無礼をたしなめる範綱に和尚は、
「よいよい。その紙をここへ」。
懐紙にしたためられていたのは、歌一首であった。

  明日ありと
思う心の 仇桜
 夜半に嵐の
  吹かぬものかは

EPSON117.jpg-13.jpg

「今を盛りと咲く花も、
一陣の嵐で散ってしまいます。
人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞きます。
明日といわず、どうか今日、
得度の式をしていただけないでしょうか」

松若丸の無常観に、和尚(かしょう)も深く感銘し、
すぐに儀式を行ったという。

この時の聖人の心境は、
「父去り、母も亡くなった。
次は自分の死ぬ番だ。死ねばどうなるのか。
ここ一つ、ハッキリさせねばならぬ」。

この世に生を受けしより、
陰にひなたに養育してくださったご両親との別れは、
少年、松若丸の胸に深く大きな悲しみ、
寂寥をもたらしたことは想像に難くありません。

こういう境涯を知ると、普通なら、生きる糧を心配し、
それを満足させることが第一と思うでしょう。
ところが聖人は、出家して仏道修行に励む、
という進路を選ばれました。
両親の逝去から「自身の死」という問題を、
聖人は知られた。

周囲の慰めも、生き方の充実も、
生死の問題の解決にはならないと痛感されたのです。
聖人の、その深い無常観は先のお歌にうかがえます。

「明日ありと思う心」とは、
“明日も自分は生きていられる”という心です。
毎日、私たちは「明日」のために種々の準備をします。
米をとぐ、洗濯する、学び、働く、すべて明日を信じてのこと。
未来への努力を、皆疑いません。
しかし、「明日ありと思う心」は、
明日になれば、また、「明日ありと思う心」。
その明日になれば、また、「明日ありと思う心」です。
つまり、「明日ありと思う心」は
「今日は死なぬ、と思う心」であり、
それがどこまでも続くのですから、
「永遠に死なぬ、と思っている心」なのです。

言い換えれば、明日も、来年も、10年後も、
永遠に、生きていられると思う心です。

そう聞けば、
“そんなことはないよ。
自分もいずれ死なねばならないことぐらいは
分かっている”
と思うでしょう。
だがそれは、本心からでしょうか。


「露の世は 露の世ながら さりながら」
愛娘を病で亡くした小林一茶の詠(えい)です。
「はかなきこの世と知ってはいたが、
いとしいわが娘を亡くした身は、
何と耐え難いことか」
子供の死を悲嘆しながらも、
100パーセント確実な自身の死を
はねつけている心。
現実はしかし、
「夜半に嵐の吹かぬものかは(今宵、死んでゆくのが私)」。
だから「仇桜」と、聖人は言われるのです。
必ず死にゆく自分、なのに「なぜ生きる」。
その答えを聖人は、仏の教えに求められました。

●「まだ死なぬ」
    そんな思いは
       正しいの?

それでも
“大げさな。悲観的すぎだよ”。
“そんなイヤなこと考えたくないわ。
そこそこ幸せだし、大事なことだと思うけど、
今の私には関係ないんじゃない?”
“死ぬことばっかり考えて生きていけないよ。
毎日毎日、働かなくちゃならないし。
生きるのも大変なんだ。だいたい死なんて、
まだ先の話じゃないか”

こんなつぶやきを漏らす人もあるかもしれません。
その思いが正しいのなら、若死にや、
不慮の死を遂げる人はいないはず。

EPSON117.jpg-1.jpg

しかし実際はどうでしょう。
不条理な事件が続発しています。
茨城県のJR「荒川沖」駅近辺で、
24歳の男が白昼、包丁を振りかざして8人を殺傷。
2日後には岡山駅のホームで18歳の少年が、
38歳の男性を電車に突き落として殺害。
(平成20年のことです)
事件の被害者にならずとも、
事故や病気はいつ襲ってくるか分からない。
往来で頭上から、自殺者が降ってくる時世(じせい)。
「夜半の嵐」は決して杞憂ではないのです。
“その時”が今日か明日にも、私の身の上に起こらないと、
だれが保証できるでしょう。
ああ、生とは何と危ういものか。

聖人は、人生最大の問題に気づき、
最優先で取り組まれたのです。
これが、私たちが仏法を聞く原点だと聞けば、
うなずけるでしょうか。

●一念の鮮やかな
     弥陀の救い

比叡山で9歳から20年、
親鸞聖人は苦しい修行を続けられたが、
暗い未来に明かりが灯せず、泣く泣く下山。
京の町へ。
そこで会った旧友・聖覚法印に、
京都吉水の法然上人の元へ導かれる。
上人のご教導により、
大宇宙の諸仏を指導する師の仏・阿弥陀仏が、
すべての人を必ず無上の幸せに救うと
誓われた本願(お約束)を知る。

決死の聞法によって、信の一念、
たちどころに弥陀の救いにあったのは、
聖人29歳の春だった。

EPSON118.jpg-1.jpg

あまりにも鮮やかな、その体験を、
こう告白されています。

弥陀の救いにあわれた聖人の、
歓喜の叫びです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
                  (教行信証)
(まことだった、本当だった。
生きている今、こんな驚天動地の幸せに
救い摂られるとは。
弥陀の本願、ウソではなかった)

“死ねばどうなる”ハッキリしなかった聖人の、
生死の大問題が一念で解決し、
いつ死んでも浄土往生間違いなし、
歓喜の人生と転じ変わったのです。

開かれた信眼で世を眺めれば、
すべての人が今日あって明日なき幸せに身を委ね、
真っ暗な後生(死)に、
雨降るごとく堕ちていく。
その一人であったこの親鸞を、
最高の幸せに救いたもうた
無上仏・弥陀の本願のみが真実なのだ。

有名な『歎異抄』のお言葉です。

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無きに、
ただ念仏のみぞまことにて在します(おわします)。

(火のついた家のような不安な世界に住む、
欲や怒りにまみれた人間のすべては、
そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。
ただ弥陀の本願念仏のみがまことである)

この世のことすべては、まことが一つもないのだと、
人間の営み一切を、聖人は否定されていますが、
決してこれは、虚無主義ではありません。
「弥陀の本願まこと」の確信から、
すべてが滅びに向かう世の実相を訴えられたのです。

聖人はそして、「ただ念仏のみがまことなのだ」
と喝破されています。

「念仏のみぞ、まこと」とは「本願のみぞ、まこと」
を言い換えられたもの。
老若男女、賢愚貴賤、何人(なにびと)も差別なく、
ありのままで救う、という弥陀のお約束です。
弥陀の本願どおりの幸せに救われることが、
この世に生まれた、たった一つの本懐なのですよ
と、
聖人は90歳でお亡くなりになるまでの生涯、
弥陀の熱き願心を教え伝えられました。
この弥陀の本願をよく聞き、
疑いなく信知することが、
聖人が最も喜ばれることなのです。
親鸞聖人の真に慈愛あふるるメッセージを、
よくよく知っていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・

体験手記
最愛の妻との突然の別れ
    北海道 佐山 一郎さん

その日、カラオケサークルの集まりで歌い終えた直後、
妻は倒れました。
血圧が高かったので、連絡を聞いた時、
すぐに原因は分かりました。
妻の倒れたコミュニティセンターへ急ぐ車の、
7、8分がとても長く感じられる。
病院では医師から「手術が難しい」と聞かされ、
別れを覚悟しました。
駆けつけた娘も私も、そばにいるだけ。
何もできないのです。
そして妻は、意識を回復することはなく、
十日後に亡くなりました。
あまりに突然のことで、
何が何やら分からない。
何もしてやれなかった、の反省と後悔ばかり。
しばらくは、周りの人の声もなかなか胸に
おさまりませんでした。

やがて、どうすれば少しでも妻の供養になるのか、
と『正信偈』を拝読するようにまりました。
拝読するうち、何が書かれているか知りたくなりましたが、
だれに尋ねても分からない。
そんな時、一枚のチラシをご縁に、
『とどろき』主催の「聞法のつどい」に参加しました。
今まで聞いたことのない話で、
真剣な講師の説法から、
自身の生死の一大事を知らされ、
驚きました。

「夢の世を あだにはかなき 身と知れと
教えて還る(かえる) 人は知識なり」
妻の無常を縁に、本当の親鸞聖人の教えに
遇うことができた私は幸せです。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

阿弥陀仏に救われるとどう変わるのか!? [信心決定]

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

            (親鸞聖人・正信偈)
 

みんなに知ってもらいたいことがある。
あなたに伝えたいことがある。
それにはどう書けば、どう表現すれば・・・。
一字一涙の御心で筆を染められた『正信偈』には、
親鸞聖人九十年の教えのすべてがおさまっています。
その『正信偈』を、朝晩拝読する勤行は、
自らの声を通して、聖人の直のご説法を聞かせていただく
聞法の勝縁です。
ゆえに浄土真宗の家では毎日欠かされないのも、
お分かりでしょう。
しかし、せっかく暗誦できるほど親しんでいても、
意味が分からず「門徒もの知らず」では、
あまりにも勿体ないですね。
一行一句に込められた真意をよくよく知り、
聖人の教えに明るい真実の仏弟子とならせていただきましょう。
まず冒頭に、
帰命無量寿如来(無量寿如来に親鸞、帰命いたしました)
南無不可思議光(不可思議光に親鸞、南無いたしました)
と言われている二行は、
親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ!
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ!
という、「弥陀の救い」に遇われた聖人の告白であり、
叫び尽くせぬ歓喜の発露です。
この初めの二行で親鸞聖人は、

○弥陀の救いは、平生ただ今である。

○弥陀の救いは、ハッキリする。

という、「凄い弥陀の救い」を明らかにされていることは、
すでに繰り返し述べてきました。
では、どうすれば親鸞さまと同じように、
私も弥陀に救われるのですか。
救われたら、何がどう変わるのですか
私たちの切実な疑問に、同じく『正信偈』の中で
懇ろに答えておられるのが、次の五行です。

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

ここで親鸞聖人は、どんなことを言われているのか、
少しずつ区切りながら解説していきましょう。

●弥陀の救いは「破闇明闇」

まず一行目の「已能雖破闇明闇」に、
「阿弥陀如来の救いは、無明の闇を破ること(破闇明闇)である」
と、明らかにされています。
「無明の闇」とは、「後生暗い心」ともいわれ、
「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」。
「後生」とは、一息切れた死後のことであり、
「暗い」とは、分からない、ハッキリしないことをいいます。

EPSON041.jpg-1.jpg


生まれたからには死は避けられませんが、
その死後の行く先が、分からない。
有るのか、無いのかさえも定かではない。
“千の風になる”と言われても、ピンとこない。
“死んだら死んだ時だ”と強がってみても、
どうもスッキリしない。
“死後は無になる”の信念にも、根拠がない。
心はなんだかぼんやりしています。
気楽に考えている人は
「念仏さえ称えておれば極楽へ往けるのだろう」
と淡い想像をし、自己を真面目に見つめている人は
「こんな私は暗い世界へ行くのではなかろうか」
と恐れおののく。
「でも、そこはお慈悲な阿弥陀さま、なんとかしてくださるだろう」
と希望を抱きもする。
死を遠くに追いやっている間は気づかなかったが、
ひょっとして今晩かもと、
死を凝視して魂を後生へ送り出してみると、
なんとも言えぬ不安な、恐ろしい戦慄を覚える。
崖っぷちから千尋(せんじん)の谷底をのぞき込んでいるような
薄気味悪い、真っ暗な心が胸一面を覆います。
このような、確実な行く先である「後生」がハッキリしない心、
今の一息一息と触れ合っている「後生」が暗い心を、
親鸞聖人は「無明の闇」と言われているのです。

本師本仏の阿弥陀如来は、
この「後生暗い心(無明の闇)」こそが、
十方衆生(すべての人)の苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、“必ず浄土へ往ける”大安心に救い摂る」
と誓われています。
これを「阿弥陀如来の本願」と申します。
「本願」とは「誓願」とも言われ、約束のこと。
有名な『歎異抄』冒頭の「弥陀の誓願」も、
この阿弥陀如来のお誓いのことです。

EPSON042.jpg-1.jpg-2.jpg

「後生暗い心(無明の闇)」が晴れわたり、
“必ず浄土へ往ける”とハッキリしたことを
「往生一定」ともいわれます。
それは、どんな事故や災難にも微動だにしない大満足であり、
最悪の死が来ても崩れない幸せですから、
『歎異抄』には「摂取不捨の利益」とか
「無碍の一道」とも言われ、
今日の表現で「絶対の幸福」といえるでしょう。
しかも弥陀は、その絶対の幸福に「一念で救う」
と誓っておられる。
一念とは、何兆分の一秒よりも短い時間。
アッと言う間もない一瞬で、
後生暗い心(無明の闇)を破り、
絶対の幸福に救い摂る、と、弥陀は誓われているのです。

EPSON042.jpg-2.jpg


この弥陀の誓願通りに「後生暗い心」が晴れて、
「往生一定」に救い摂られたことを、
「已能雖破闇明闇(いのうすいはむみょうあん)
「弥陀の誓願力によって(能く)、無明の闇が破られた」
と言われ、冒頭の、
「帰命無量寿如来(親鸞、弥陀に救われたぞ!)
南無不可思議光(親鸞、弥陀に助けられたぞ!)」
という宣言も、
聖人自らこの「弥陀の救い」に遇われた魂の絶叫なのです。

●弥陀に救われたら、どうなるのか

では、弥陀のお力によって、
苦悩の根元である「無明の闇」がぶち破られて
「往生一定」の絶対の幸福に救い摂られたならば、
どうなるのか。
欲も起こさず、腹を立てないようになるのか。
「しがみつかない生き方」に変わるのか。
執着心の無いひょうひょうとした人生になるのだろうか。
それらのことについて、親鸞聖人は次に、
貪愛瞋憎之雲霧(貪愛・瞋憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり)
と明言されています。
「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。
褒められたい、儲けたい、愛したい、愛されたい、
まだ足らんと、際限もなく求める心をいわれます。
ダイエットや整形に大金を投じ、
時には命の危険さえ冒すのも、
モテたい、キレイと言われたい、
の強烈な願望にちがいありません。
「瞋(しん)」は瞋恚、怒りの心。
欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心です。
ひとたび怒りの炎が燃え上がると、
理性も教養もへったくれもなく八方を焼き尽くす、
恐ろしい心です。
18歳の男が、「交際を邪魔されたから」と、
恋人の姉を刺殺した事件も、
この怒りのなせる業でしょう。
「憎」は憎しみ・うらみの心。
因果の道理も分からず、
“オレがこんな目にあったのは、あいつのせいだ”
“こいつが余計なことを言ったからだ”
“世間が悪い”と他人を怨み世を呪い、
ライバルの容姿や人気をねたみそねむ、
醜い心のことです。

EPSON043.jpg-1.jpg
これら欲や怒り・ねたみそねみの心で私たちは、
朝から晩まで煩わされ、悩まされ、
イライラしてはいないでしょうか。
仏教ではこれを「煩悩」といわれ、
全部で百八つあると教えられます。
聖人が「貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧」
と言われているのは、
その百八の煩悩を雲や霧にたとえられてのこと。
次に「真実信心の天」は、
無明の闇が晴れた「後生明るい心」であり、
その天を、欲や怒りの雲霧が「常覆(常に覆っている)」
とは、「途切れる間がない、一杯である」ことですから、
この三行で親鸞聖人は、
「弥陀に救われて『無明の闇』が無くなっても、
欲や怒り・ねたみそねみの『煩悩』は、
減りもしなければ無くもならない、まったく変わらない」
と、驚くべきことを道破されているのです。

●仏教の目的は、何か

この「煩悩」と「無明の闇」の違いを正しく知らなければ、
親鸞聖人の教えは絶対に分からず、
弥陀の救いには遇われません。
だからこそ聖人は、『正信偈』に峻別して教えておられる。
ところが、専門外の作家が間違うならまだしも、
相当の真宗学者でもこの「煩悩」と「無明の闇」
の区別がなされておらず、
ごちゃまぜに論じているものがほとんどですから、
違いを知るのは大変です。
それで、多くの人の仏教観がこうなるのでしょう。
「阿弥陀仏に救われたならば、欲が減って、
何事にも淡泊になるのではないか。
今まで一日に十回腹を立てていた人は、
忍耐力がついて、五回か六回になるのだろう。
執着を離れてひょうひょうとした生き方になるのではないか」

EPSON044.jpg-1.jpg
これが常識ですから、それに反する言動を見聞きすると、
「あんたは仏教を聞いているのに、
少しも欲が減らないじゃないの」
「腹立ててばかりいるし。聞く前とちっとも変わってない。
それで仏教聞いているといえるの?」
「そんなことでは仏教聞く意味なんてない!」
と非難までする。
これは「無明の闇」と「煩悩」との違いが分からず、
仏教の目的を完全に誤解しているから。
すなわち、
「仏教を聞く目的は、煩悩を減らすことだ」
「欲や怒りをコントロールできるようになることだ」
と、カンカンに思い込んでいるのです。

そこで聖人は、この「無明の闇」と「煩悩」との違いは
簡単にわかることではないからと、
さらに譬えを重ねて、
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆わるども、)
雲霧之下明無闇(雲霧の下、明かにして闇なきが如し)
“雲や霧で天が覆われていても、弥陀の智慧の太陽で、
心は明るく浄土に遊んでいるように楽しいのだ”
と解説されています。
私たちの本願成就のポイントは、
欲や怒りの煩悩にあるのではなく、
「無明の闇が晴れたか、どうか」にあることを、
巧みなたとえで説かれているお言葉と知られるでしょう。

●「無明の闇」と「煩悩」のちがい

阿弥陀仏の目的は、私たちの欲や怒りの煩悩を
減らしたり無くすることではありません。
もしそうなら、弥陀に救われた人は、
夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、
誰かにいきなり頭をたたかれても、
腹も立たないということになります。
おかしいとすぐ分かるでしょう。
弥陀の救いは「無明の闇(後生暗い心)を照破すること」なのです。

聖人は9歳で仏門に入って20年、
比叡山の日々は、まさに煩悩との格闘でした。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。
あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。
思ってはならぬことが思えてくる。
考えてはならぬことが浮かんでくる。
恐ろしい心が噴き上がる。
どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。
このままならば、釜の中の魚の如く、
永久の苦患は免れぬ。
忍び寄る無常の嵐に火急を感じ、
「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」
と下山を決意。
間もなく、法然上人に邂逅(かいこう)され、

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り腹立ち、そねみねたむ心、
多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、
止まらず消えず絶えず
            (一念多念証文)

“人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、
ねたみそねみなどの塊である。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。
もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”。

苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされて、
「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」
に救い摂られたのが、
聖人29歳の御時のことでした。
それから90歳でお亡くなりになるまで61年間、
この「弥陀の救い」ひとつを、すべての人に知らせたいと、
「煩悩」と「無明の闇」との違いを『正信偈』に峻別され、
欲や怒りの煩悩は、死ぬまで無くならぬ。
仏教を聞く目的は、
後生暗い『無明の闇』を破ること一つなのだ。
聞き誤ってはならないよ
と朝晩、訴えておられる5行なのです。
弥陀のご本願を、正しく聞き抜かせていただきましょう。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

平生達者なときに救うのが、弥陀の本願!! [親鸞聖人]

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)

「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、「名号」とは
「南無阿弥陀仏」の六字のこと、
「正定」は「正定聚不退転」、「業」は「働き」のことですから、
この一行は、こういう意味になります。
阿弥陀仏の本願によって作られた『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を『正定聚不退転』の身にする働きがある

初めに「阿弥陀仏の本願」とはどういうことか、解説しましょう。

●阿弥陀仏の本願

「阿弥陀仏」は、「阿弥陀如来」とも「弥陀如来」とも、「弥陀」とも
いわれる仏さまです。
世間では、「お釈迦さま」といっても「阿弥陀仏」といっても、
名前が違うだけで、同じ仏様だろうと思っている人がありますが、
それは大変な間違いです。
お釈迦さまと阿弥陀仏とは全く違う仏なのです。
その違いを知らないと、親鸞聖人のみ教えは分かりませんので、
よく知って頂きたいと思います。

EPSON032.jpg-1.jpg
お釈迦さまは、今から約2600年前、インドで活躍なされた方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の覚り(さとり)を開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えていかれたみ教えを、今日、仏教といわれます。
地球上でただお一人、仏の覚りを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるのです。
そのお釈迦さまが、「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、私たちに教えてくだされたのが、阿弥陀如来といわれる仏様です。
弥陀如来と釈迦如来との関係について、
蓮如上人は、『御文章』に次のように仰っています。

EPSON033.jpg-1.jpg

ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏さまですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
無数の仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。
有名なのは、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏はビルシャナ如来
といわれる仏ですが、それらも皆、十方諸仏の一人です。
本師本仏とは、師匠であり先生ということですから、
大宇宙の仏方の先生ということ。
これはお釈迦さまが説かれたことですが、
親鸞聖人も明らかにされ、蓮如上人も仰っているのです。
「弥陀如来は、十方諸仏の先生である」ということは、
大宇宙の仏方はみな阿弥陀仏のお弟子ということです。
地球のお釈迦さまも、十方諸仏の一人ですから、
弥陀如来と釈迦如来の関係は、
師匠と弟子、弥陀如来を先生とするなら、
お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方は、
弥陀如来のことを「偉大な仏様だ、尊い仏様だ、我らの先生だ」
と讃め称えて、手を合わせ拝まれているのです。
親鸞聖人も、弥陀如来のことを無上仏、「最高の仏さま」と
仰がれています。
次に「本願」とは「誓願」とも言われるように、
「約束」のこと。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」をいうのです。
では、阿弥陀仏は、どんな約束をされているでしょうか。
漢字36文字で誓われているのですが、
分かりやすく今日の言葉で表現すると、

すべての人を
必ず助ける
絶対の幸福に

というお約束です。

「約束」には必ず相手がある。
相手のない約束はありません。
阿弥陀仏は約束の相手を、本願に「十方衆生」と仰っています。
「十方」とは、仏教で大宇宙のこと。
「衆生」とは、生きとし生けるものすべて。
私たちは人間ですから、「十方衆生」とは、
「すべての人」ということです。
この中に入らない人は一人もいません。
「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばず」(歎異抄)
とも言われているとおり、
男も女も、老いも若きも、差別なく救うのが阿弥陀仏の本願。
キリスト教やイスラム教を信じている人も、
無宗教の人も、日本人もアメリカ人もフランス人もドイツ人も、
健常者も障害者も、あらゆる人が、弥陀の本願の対象なのです。

EPSON034.jpg-1.jpg

●摂取不捨の利益

では阿弥陀仏は、「すべての人」と、
どんな約束をなされているのでしょうか。
大事なのは、約束の内容です。
金銭の貸借で言えば、金額に当たります。
阿弥陀仏はすべての人を「信楽」にする、と誓われているのです。
『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨の利益」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って(おさめとって)、
絶対に捨てられない」こと。
「利益」は幸福のことですから、
「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。
終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。
やっと決まった内定が、一方的に取り消し。
一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。
恋人に振られたショックで自殺する人もいます。
健康が取り柄だったのに、末期がんの宣告。
かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。
これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
東京の高島平や千葉の常盤平など、
都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、
30年を経た今、子供は皆巣立ち、
独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、
役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、
悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、
NHK番組『クローズアップ現代』で紹介されていました。
わずか八畳間に男女の区別なく3人押し込められ、
風呂にも入れず、食事は一日たったの200円。
入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、
経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、
ア然としました。
ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」
と涙ぐむ。
家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。
「身寄りがない、いられるだけでよい」
という弱みにつけ込む悪どい業者、
それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、
浮き彫りにされていました。
死に物狂いで働き、
日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、
その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、
想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、
才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。
オギャッとこの世に生まれ落ちてより、
努力してかき集めてきたものが、
年とともに奪われていく。
最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。
これが人生というものならば、一体どこに、
生きる喜びがあるでしょうか。
何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

EPSON035.jpg-1.jpg

火宅無常の世界は、万(よろず)のこと皆もって空言・たわごと・真実(まこと)
あること無し       (歎異抄)

やがて必ず「捨てられる」ものしか知らず、
薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、
阿弥陀如来は、「すべての人を、絶対に裏切られることのない、
大安心の身にしてやりたい」
と、無上の願いを起こされたのです。

何と有り難いことではありませんか。
本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、
「歎異抄」にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

●若不生者のご念力

ところがそう聞くと私たちは、
「摂取不捨の利益?そんなもの本当にあるの?」
「絶対の幸福になんかなれるはずがない」などと、
本願を疑います。
中には「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」
「脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、
自分とは関係ない」
と怪しむ人もありましょう。
そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、
「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて
誓われているお言葉が、
「若不生者不取正覚」(もし生まれずは、正覚を取らじ)
の八字です。
「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、
仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、
命を捨てる」
といわれているお言葉です。
弥陀が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」
と誓われているのが、
「若不生者の誓い」なのです。

卑近(ひきん)な例えで言うと、
銀行でローンを組む際、
こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、
土地や建物を担保に入れるでしょう。
阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、
自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。

この絶大な「若不生者のご念力」によって、
平生の一念、疑心が晴れわたり、
必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、
親鸞聖人は生涯、教え続けていかれたのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ 
        (浄土和讃)

●名号の働き

「本願の名号」の「本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏が「すべての人を絶対の幸福にする」
と誓われているお約束であることを、
明らかにしてきました。
次に「名号」とは、阿弥陀仏が、
この誓願を実現するために、
大変な苦労をして完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の
六字のことです。
これを親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号」
“本願によって造られた名号”
と言われています。
だから「六字の名号」には、「本願」の通りに
「すべての人を絶対の幸福に救い摂る」力があることを聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
といわれているのです。

●正定聚

「正定」とは、「正定聚」のことで、
「間違いなく(まさしく)仏のさとりを開くことに定まった人たち」
ということ。
さとりと言いましても、
低いさとりから高いさとりまで全部で十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」と言われます。
それぞれのさとりには名前があります。
「正定聚」とは、下から数えて五十一段目、あと一段で仏、
という位のことであり、
「正定聚不退転」とも言われています。
「不退転」とは、後戻りしない、捨てられない、
裏切らない、ということですから、
「正定聚不退転」とは、「摂取不捨の利益(絶対の幸福)」のことを
いわれます。
だから、
「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
の一行は、
「阿弥陀仏が本願を果たすために造られた
『南無阿弥陀仏』の六字の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだよ」
と、親鸞聖人が断言されているお言葉なのです。

EPSON036.jpg-1.jpg

 

 


nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

大安心に生きる [なぜ生きる]

EPSON009.jpg-1.jpg

誰もが皆、安心して生きたい、
満足した人生を送りたいと望んでいます。
しかし現実は、不安を感じている人が
少なくありません。
日本は昨年、明治以降続いてきた人口の自然増加が
初めて減少に転じ、
本格的に少子高齢化社会に突入、
起こりうるさまざまな問題の対策が
論じられています。(平成18年の記事です)
「不安の時代」といわれる現代、
真に安心した人生を送るに必要なのは、
一体、何でしょうか。

●平均寿命世界一
    でも、年を取るのは不安

今年四月に発表された平均寿命世界一の国は、
日本、モナコ、サンマリノの三国で、
82歳だったそうです。(2004年時点の寿命)
前の年に続いて、日本は、
“長寿世界一”を維持したことになります。
ところが、この長寿を日本の私たちは
喜んでいるのでしょうか。
国立長寿医療センターが一昨年、
全国の20~70代の男女約2000人を対象にした
アンケートによると、
8割以上の人が、
「高齢者になることは不安」
と答えています。
年代別では、75歳以上の69パーセントに比べて、
20~39歳は87パーセント、40~54歳で88パーセントと、
若い人ほど不安に感じていることが
分かります。
寝たきりや認知症で介護が必要になることが
理由の一位、
自分が病気になることが2位と、
健康に関する悩みがトップを占めています。

●アンチエイジングで
      安心できる?

そんな未来への不安を打ち消そうと、
今、アンチエイジングがブームになっています。
「アンチエイジング」とは、
直訳すれば「抗加齢」。
老化を遅らせようとするものです。
もともとは、しわなど美容に関するものが
多かったのですが、
最近は、健康維持を目的として、
運動、脳のトレーニング、食生活やサプリメントなど、
さまざまな分野での研究がなされています。
書店には、『脳を鍛える大人の計算ドリル』、
『ボケない脳をつくる』など、
脳を活性化させるための本が数多く並んでいます。
あるパソコン教室は今年四月、
六十歳以上の人を対象に、
パソコンゲームを解きながら脳を鍛える講座を開設しました。
テレビをつけると、老化予防によい食品を紹介した番組や、
現在の食生活を続ければ五年後、
十年後にどんな病気になるかを
予測する番組が放映され、
人気を呼んでいます。
みんな、将来への不安をなくそうと必死ですが、
老化を遅らせることで本当に不安はなくなるのでしょうか。

●「生きてよかった」
     と言える“目的”は?

最近、老後の人生を考える書籍が相次いで
出版されていますが、
その中の一冊『60歳からの「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)』には、
定年後に大きな問題となってくるのが、
「なぜ生きるか」だと述べられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

60歳を迎えると会社を定年退職し、
突然に自由な時間が有り余るほどできる「余生」を手にして、
そこではじめて「自己の存在証明」について
考えるようになります。
「自分は何のために生きてきたのか」と。(中略)
「あなたは何のために生きているのですか?」
と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。
現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。
社会に役立たなくなっていながら、
なおかつ存在しているのはなぜか。
この存在理由を証明するのは、
実は歴史上にかつて存在しなかった大変な難問なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仕事をしている時は、
「これが、私の生きる目的だ」と思っていたものが、
実は人生の通過駅であり、
目標と呼ばれるもので、
「生まれてきたのはこれ一つ」
と言える人生の目的ではなかったことが、
定年後になって知らされるのです。
退職して、たとえ体が不自由になっても、
生きねばならない理由は何か。
人生の終わりに近づいて、
自らの生きる目的がハッキリしていなかったことに
愕然とするのです。
「人間に生まれてよかった」
「生きてきてよかった」
と大満足する「人生の目的」が分からなければ、
長生きすればするほど老いや病の苦しみは深くなり、
苦しむための一生に終わってしまうのではないでしょうか。

●百パーセント
    確実な未来

そうやって、なぜ生きるかが分からないまま日を送り、
やがて人生の終わりを予感した時、
大問題になってくるのが、
「死んだらどうなるか」
だと著者はいいます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

だんだんと老化が進んで体が不自由になってくると、
そうやって自分の力で寂しさを解消することが
できなくなってきます。
そのときに、思うことは二つです。
一つは、「自分は生きてきてよかったのか」
という過去からの自己の存在証明、
もう一つは「自分が死んだら将来どこへ行くのか」。
死と向かい合っている人と話しをしていると、
必ずと言ってよいほど、
この二つのことが出てきます。(中略)
私の父がそうでした。
けっして神仏を信じてる人ではなかったけれども、
最期には私の手を握って「エマーソン」と
小さく呟いたのです。
私の耳には確かにそう聞こえました。
さらに父は、「エマーソンは、
日本の言葉で言えば輪廻転生、
死んでからの魂の再生のことを言っているけれども、
どう思う?」
と私に聞いてきたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この死の問題を無視して、
人生の不安を根本的に解決することはできません。
年を取るのが不安、病気にはなりたくない、
と言うのも、結局は、死が怖いということにほかなりません。
風邪だと言われても驚きませんが、
「ガンだ」「エイズだ」となると大騒ぎするのは、
それが死に至る病気だからでしょう。

作家、ヴィクトール・ユゴーは
『死刑囚最後の日』の中で、
人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ
と言っていました。
すべての人の悲劇は、
遅かれ早かれ、死なねばならないところにあります。
どれだけ健康に気を遣っても、
死ななくなることはできません。
死は、確実な未来ですから、まさに死刑囚です。

EPSON011.jpg-1.jpg

●突然やってくる暴力

死刑を宣告された死刑囚は、
明日にも執行されるか、今日にも執行されるか、
と毎日を戦々恐々と過ごすといいます。
私たちも、必ず死なねばなりませんが、
いつ死がやってくるか分からないから、
不定の執行猶予期間をもった死刑囚です。

ところが、それほど死が問題になっていないのは、
なぜでしょう。
それは、「自分が死ぬのは、
まだまだ遠い先のことだ」
と思っているからではないでしょうか。

ガンを宣告された岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は、
死はまさに、突然襲ってくる暴力だと闘病記に残しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
死は、突然にしかやって来ないといってもよい。
いつ来ても、その当事者は、
突然に来たとしか感じないのである。
生きることに安心しきっている心には、
死に対する用意が、なにもできていないからである。
        (岸本英夫『死を見つめる心』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

交通事故で今日亡くなった人の中で、
「今日が最後の日」と思って、
朝、出かけた人があったでしょうか。
私たちと同じように、洗顔し、
食事を済ませ、「行ってきます」
と出て行った人が、今日、
突然の事故や病気で帰らぬ人となっているのです。
突然の死の到来は、
今日かもしれないのです。

●先はどうなっているのか?

死の問題と聞くと、
財産の分配や葬式について遺言状を書いたり、
墓を造ったりすることが大事だと
考える人もあります。
それは例えて言えば、
電車から降りる時、それまで座っていた席を誰に譲ろうかと、
辺りを見回しているようなものです。
しかし大事なのは、降りた後、どこへ行くのかということでしょう。
財産や葬式、墓などは電車の席のようなもの。
死を目前にして問題となるのは、
後生、どこへ行くかということだけなのです。

“まだまだ死なない”と死を遠くに眺めている時は、
「死んだら死んだ時さ」「死は永眠だ」
「恐ろしくないよ」と気軽に考えている人も、
いざ死が近づくと、先はどうなっているかだけが
大問題となります。

死後は有るのか無いのか、
どうなっているのかさっぱり分からない、
お先真っ暗な状態なのです。
この死んだらどうなるか分からない心を
「無明の闇」といい、「後生暗い心」ともいわれます。

「後生」とは死後のこと。
「暗い」とは分からないということです。
すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心だと仏教では教えられています。
この暗い心を解決しないかぎり、
何を手に入れても、心からの安心は得られないのです。

なぜか。
未来が暗いと現在が暗くなるからです。
自分の乗っている飛行機が墜落する、
と知った乗客の心境を考えれば、
よく分かるでしょう。
どんな食事もおいしくないし、
コメディ映画もおもしろくなくなる。
不安におびえ、狼狽し、泣き叫ぶ人も出てくる。
乗客の苦悩の元はこの場合、
やがて起きる墜落ですが、
墜死だけが恐怖なのではありません。
悲劇に近づいている今が、地獄なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなる。
死後の不安と現在の不安は、切り離せないもの。
後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

EPSON012.jpg-1.jpg

●言い尽くせぬ 
     大きな喜び

この後生暗い心が断ち切られ、
「人間に生まれてよかった!」
という生命の大歓喜を獲ることこそが、
人生の大目的なのです。

その目的を達成した喜びを、
親鸞聖人は『正信偈』の冒頭に、

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

と叫んでおられます。
「無量寿如来」も「不可思議光」も
阿弥陀仏の別名です。
「帰命」とは中国の昔の言葉、
「南無」はインドの昔の言葉で、
ともに「助けられた、救われた」
という意味ですから、
「阿弥陀如来に、親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に、親鸞、助けられたぞ!」
とおっしゃっているお言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・
【阿弥陀如来とは】
「阿弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」(御文章)
と教えられている。
「三世十方の諸仏」とは、
大宇宙のすべての仏、「本師本仏」とは先生のことだから、
「阿弥陀如来は、大宇宙のあらゆる仏の先生である」
ということ。

・・・・・・・・・・・・・・

なぜ、同じことを2回も?
これは、言っても言っても言い尽くせぬ、
書いても書いても書かずにおれぬ、
大慶喜を表されているのです。
例えば、ある死刑囚に、いよいよ執行の日がやってきた。
絞首台の階段を上り、首にロープをかけられ、
今まさにボタンを押されて
足下の板が外れたら死ぬ、という時、
「その死刑待った!無罪放免、
そしてその者に百億円与えよ!」
と言われたら、どうでしょうか。
「あー!」と言葉にならぬ驚き、
感嘆のあとは、
「助かったぁ、救われたぁ」
と叫ばずにおれません。
親鸞聖人が『正信偈』に、
「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」
と繰り返しおっしゃってるのは、
それ以上のことなのです。
苦悩の根元(後生暗い心)が破られ、
大宇宙の宝を丸もらいするのですから、
天に踊り、地に踊る歓喜がわき起こります。
どれだけ喜んでも喜びすぎることはありません。

●自分自身に
    ハッキリする

このハッキリした体験を、
蓮如上人は次のように書かれています。

「三世の業障、一時に罪消えて」(御文章)

「三世」とは、過去、現在、未来のことで、
今まで私たちが迷い苦しんで来たのも、
現に苦悩渦巻いているのも、
未来また無限の苦患(くげん)を受けなければならないのも、
その原因は三世の業障ただ一つ。
後生暗い心のことです。
その迷いの元凶が、
一念でなくなると断言されています。
そんな苦しみが抜き取られたのに、
助かったのか助かっていないのか、
他人に聞かねば分からない、
というようなものではありません。

EPSON013.jpg-1.jpg

背中についた糸くず程度なら、
他人に取ってもらっても、
取られたのかどうか分かりません。
軽いからです。
しかし、重荷を背負って苦しんでいた時、
その荷物を取られたら分からないはずがない。
だれに言われなくても、
自分自身がハッキリします。

分からないのは、まだ救われていないからです。
三世の業障という重荷を負うて、
その重さに泣いたことがない人に、
その重荷を阿弥陀仏に一念で
奪い取られて躍り上がった
体験がないのは当たり前です。

●大安心、大満足の
    世界に生かされる

この後生暗い心がなくなった一念で、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”
と心が一つに定まるので、
蓮如上人は、「往生一定」と言われています。
往生の本決まり(ほんぎまり)です。
合格発表までの受験生は大丈夫だろうか、
ダメだろうかと心は千々(ちぢ)に乱れて
定まりませんが、合格発表を見た瞬間、
「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
阿弥陀仏のお力によって、
“死んだらどうなるか分からない”
後生不安な心が破られ、
“いつ死んでも必ず極楽往生へ往ける”
大安心・大満足の世界に生かされるのです。
親鸞聖人は、ご著書の至るところに、
その世界に救われた大歓喜を書き記されています。
そして、この身になることこそが
人生究極の目的であり、
「なぜ生きる」の答えだと明らかに教えられています。

それなのに、
「なぜ生きるの答えは見つからない」などと言うのは、
そんな聖人のお言葉を全くご存じない人の言うことだと、
お分かりになるでしょう。

聖人と同じ世界に出させていただくところまで、
真実の仏法を真剣に聞き求めましょう。


・・・・・・・・・・・・・
【読者の声】

人生を歩ませていただく道の、
いかに険しくとも、「往生一定」の世界に向かって
一歩一歩、踏みしめて歩いていきたい。
そして、素晴らしい日を送りたいと思います。
          (兵庫県・60代女性)

現在暗い心が救われなければ、
一生涯不安な暮らしです。
私たちの苦悩を救い、
未来永遠に生かし切ってくださる弥陀の本願。
その弥陀の本願に救い摂られた世界を
「往生一定」と言われました。
本当にありがたいお言葉です。
私もこの心になれるよう光に向かいます。
        (北海道・50代男性)


nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。