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出会いにひそむ別れの予感 [親鸞聖人]

親鸞聖人が京都にお生まれになって
およそ800年、
親鸞さまなかりせば、我々は、
真実の仏法、到底知ることはできませんでした。

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親鸞聖人が幼くして仏門に入られたのはなぜか。
その大きな要因であるご両親との悲しい別れを、
聖人はどう受け止められたか。
聞いてみましょう。

出会いにひそむ
     別れの予感

人生は出会いの連続、と聞けば、
希望広がる未来に心弾む思いがします。
しかし「会うは別れのはじめ」。
生きることは別れること、ともいえるでしょう。
人生行路を歩むにつれ、心にしみてくる現実です。
その受け止め方も、相手や別れ方で違います。
とりわけ大恩ある両親、愛する夫や妻、
子供、兄弟姉妹、親友・・・・
それらの人々との永訣に抱く感情は
ひととおりではありません。
(永訣とは、永遠の別れのこと)
経験なくとも、描いたドラマや小説などから
「いつか皆と別れるのだな」と思いを致したことが、
だれにも一度ならずあるでしょう。


映画にもなった小説『魂萌え!』(桐野夏生著)は、
ある日突然、夫を亡くした還暦前の敏子が主人公。
信じられぬ主人の死に、
彼女の感慨をこう描いています。

敏子は、そうだった、夫は死んだのだ、
とまた改めて思い起こし、
こんな思いをこの先何度もするのだろうかと
果てしなく続く時間を重荷に感じたのだった。

平凡な主婦、敏子が、伴侶の死に惑い、
翻弄され、変化していく物語は、
特に同世代の読者の共感を呼びました。

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男性の視点もあります。
昨年3月に亡くなった作家・城山三郎さんは、
遺著『そうか、もう君はいないのか』で、
先に逝った妻・容子さんとの離別を、
こうつづっています。

あっという間の別れ、という感じが強い。
癌と分かってから4ヶ月、入院してから2ヶ月と少し。
4歳年上の夫としては、まさか容子が先に逝くなどとは、
思いもしなかった。
もちろん、容子の死を受け入れるしかない、
とは思うものの、彼女はもういないのかと、
ときおり不思議な気分に襲われる。
容子がいなくなってしまった状態に、
私はうまく慣れることができない。
ふと、容子に話しかけようとして、
われに返り、「そうか、もう君はいないのか」と、
なおも容子に話しかけようとする。

かけがえのない相手との別れを受け入れられぬ、
もどかしさが伝わってきます。
紹介したのは、いずれも伴侶の死を主題にした本ですが、
夫婦に限らず、大切な人を亡くしたなら、
だれでもしばらく胸ふさがれ、
“この先どうしよう”と考える気力も
起きないかもしれません。
「私」がその立場だったら、
周囲からのさまざまな励ましをどう受け止めるでしょう。

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「思いっきり泣いていい。涙かれるまで」
「気持ちを前向きに転換しよう」
「早く立ち直って、今までの生活を取り戻してください」
「つらいことは早く忘れて。
まだ若いんだからいい人でも見つけたら?」
「待つしかない。すべては時が解決してくれる」
表現はさまざまでも、どれも自分を思ってくれてのことと、
ありがたく受け止めたいとは思います。

でも真に救いになる一言は、
実際のところ、あるのでしょうか。
「自分しか分からない不安、悲しみ、いらだちがある」
と胸中を吐露する人もあります。
そのような交錯する感情の出所は、正直、
自分でもよく分からないもの。
先述の『魂萌え!』にも、こうあります。

内心苛立っていた。
なぜ、わかってくれないのだろうか、と。
ここにいる友人たちは、
高校時代からの気の置けない仲間だ。
何かあれば、我がことのように
心配して駆け付けてくれるし、
自分もそうしてきたつもりだ。
しかし、心の底の底にある、
まだ悩みという形にもならない思いや、
漠然とした不安について話し合ったことはない。(略)
友に対する距離感が、
敏子を居心地悪くさせていた。

“なぜこんなふうに感じるのか”ハッキリしないからこそ、
不安で悲しく、いらだつとしたら、
その苦悩とどう向き合えばいいのか。

わずか8歳の親鸞聖人は、
両親との永久の別れをどう受け止め、
行動されたのでしょうか。
聖人の前半生を振り返ってみましょう。

肉親の「死」から
     自身の「死」を知る

親鸞聖人は幼名・松若丸。
お父さまは藤原有範卿(ふじわらありのりきょう)、
お母さまは吉光御前といわれる。
ご両親の元、健やかに成長されたが、
平穏な日々は長くは続かず、
4歳で父君との悲しい別れ、
8歳には杖とも柱ともたのみにされた
母君と死別された。
9歳となったある春の日、
伯父の範綱(のりつな)に伴われて、
松若丸は京都東山の青蓮院を訪れた。
天台宗の座主・慈鎮和尚(じちんかしょう)にお目通りかない、
僧侶になるための出家得度の式は明日、
と案内を受ける。
その時、固く唇を結んでいた松若丸はおもむろに、
何かを懐紙(かいし)に書き付け、
伯父に渡す。
「これを慈鎮さまへ」
松若丸の無礼をたしなめる範綱に和尚は、
「よいよい。その紙をここへ」。
懐紙にしたためられていたのは、歌一首であった。

  明日ありと
思う心の 仇桜
 夜半に嵐の
  吹かぬものかは

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「今を盛りと咲く花も、
一陣の嵐で散ってしまいます。
人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞きます。
明日といわず、どうか今日、
得度の式をしていただけないでしょうか」

松若丸の無常観に、和尚(かしょう)も深く感銘し、
すぐに儀式を行ったという。

この時の聖人の心境は、
「父去り、母も亡くなった。
次は自分の死ぬ番だ。死ねばどうなるのか。
ここ一つ、ハッキリさせねばならぬ」。

この世に生を受けしより、
陰にひなたに養育してくださったご両親との別れは、
少年、松若丸の胸に深く大きな悲しみ、
寂寥をもたらしたことは想像に難くありません。

こういう境涯を知ると、普通なら、生きる糧を心配し、
それを満足させることが第一と思うでしょう。
ところが聖人は、出家して仏道修行に励む、
という進路を選ばれました。
両親の逝去から「自身の死」という問題を、
聖人は知られた。

周囲の慰めも、生き方の充実も、
生死の問題の解決にはならないと痛感されたのです。
聖人の、その深い無常観は先のお歌にうかがえます。

「明日ありと思う心」とは、
“明日も自分は生きていられる”という心です。
毎日、私たちは「明日」のために種々の準備をします。
米をとぐ、洗濯する、学び、働く、すべて明日を信じてのこと。
未来への努力を、皆疑いません。
しかし、「明日ありと思う心」は、
明日になれば、また、「明日ありと思う心」。
その明日になれば、また、「明日ありと思う心」です。
つまり、「明日ありと思う心」は
「今日は死なぬ、と思う心」であり、
それがどこまでも続くのですから、
「永遠に死なぬ、と思っている心」なのです。

言い換えれば、明日も、来年も、10年後も、
永遠に、生きていられると思う心です。

そう聞けば、
“そんなことはないよ。
自分もいずれ死なねばならないことぐらいは
分かっている”
と思うでしょう。
だがそれは、本心からでしょうか。


「露の世は 露の世ながら さりながら」
愛娘を病で亡くした小林一茶の詠(えい)です。
「はかなきこの世と知ってはいたが、
いとしいわが娘を亡くした身は、
何と耐え難いことか」
子供の死を悲嘆しながらも、
100パーセント確実な自身の死を
はねつけている心。
現実はしかし、
「夜半に嵐の吹かぬものかは(今宵、死んでゆくのが私)」。
だから「仇桜」と、聖人は言われるのです。
必ず死にゆく自分、なのに「なぜ生きる」。
その答えを聖人は、仏の教えに求められました。

●「まだ死なぬ」
    そんな思いは
       正しいの?

それでも
“大げさな。悲観的すぎだよ”。
“そんなイヤなこと考えたくないわ。
そこそこ幸せだし、大事なことだと思うけど、
今の私には関係ないんじゃない?”
“死ぬことばっかり考えて生きていけないよ。
毎日毎日、働かなくちゃならないし。
生きるのも大変なんだ。だいたい死なんて、
まだ先の話じゃないか”

こんなつぶやきを漏らす人もあるかもしれません。
その思いが正しいのなら、若死にや、
不慮の死を遂げる人はいないはず。

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しかし実際はどうでしょう。
不条理な事件が続発しています。
茨城県のJR「荒川沖」駅近辺で、
24歳の男が白昼、包丁を振りかざして8人を殺傷。
2日後には岡山駅のホームで18歳の少年が、
38歳の男性を電車に突き落として殺害。
(平成20年のことです)
事件の被害者にならずとも、
事故や病気はいつ襲ってくるか分からない。
往来で頭上から、自殺者が降ってくる時世(じせい)。
「夜半の嵐」は決して杞憂ではないのです。
“その時”が今日か明日にも、私の身の上に起こらないと、
だれが保証できるでしょう。
ああ、生とは何と危ういものか。

聖人は、人生最大の問題に気づき、
最優先で取り組まれたのです。
これが、私たちが仏法を聞く原点だと聞けば、
うなずけるでしょうか。

●一念の鮮やかな
     弥陀の救い

比叡山で9歳から20年、
親鸞聖人は苦しい修行を続けられたが、
暗い未来に明かりが灯せず、泣く泣く下山。
京の町へ。
そこで会った旧友・聖覚法印に、
京都吉水の法然上人の元へ導かれる。
上人のご教導により、
大宇宙の諸仏を指導する師の仏・阿弥陀仏が、
すべての人を必ず無上の幸せに救うと
誓われた本願(お約束)を知る。

決死の聞法によって、信の一念、
たちどころに弥陀の救いにあったのは、
聖人29歳の春だった。

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あまりにも鮮やかな、その体験を、
こう告白されています。

弥陀の救いにあわれた聖人の、
歓喜の叫びです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
                  (教行信証)
(まことだった、本当だった。
生きている今、こんな驚天動地の幸せに
救い摂られるとは。
弥陀の本願、ウソではなかった)

“死ねばどうなる”ハッキリしなかった聖人の、
生死の大問題が一念で解決し、
いつ死んでも浄土往生間違いなし、
歓喜の人生と転じ変わったのです。

開かれた信眼で世を眺めれば、
すべての人が今日あって明日なき幸せに身を委ね、
真っ暗な後生(死)に、
雨降るごとく堕ちていく。
その一人であったこの親鸞を、
最高の幸せに救いたもうた
無上仏・弥陀の本願のみが真実なのだ。

有名な『歎異抄』のお言葉です。

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無きに、
ただ念仏のみぞまことにて在します(おわします)。

(火のついた家のような不安な世界に住む、
欲や怒りにまみれた人間のすべては、
そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。
ただ弥陀の本願念仏のみがまことである)

この世のことすべては、まことが一つもないのだと、
人間の営み一切を、聖人は否定されていますが、
決してこれは、虚無主義ではありません。
「弥陀の本願まこと」の確信から、
すべてが滅びに向かう世の実相を訴えられたのです。

聖人はそして、「ただ念仏のみがまことなのだ」
と喝破されています。

「念仏のみぞ、まこと」とは「本願のみぞ、まこと」
を言い換えられたもの。
老若男女、賢愚貴賤、何人(なにびと)も差別なく、
ありのままで救う、という弥陀のお約束です。
弥陀の本願どおりの幸せに救われることが、
この世に生まれた、たった一つの本懐なのですよ
と、
聖人は90歳でお亡くなりになるまでの生涯、
弥陀の熱き願心を教え伝えられました。
この弥陀の本願をよく聞き、
疑いなく信知することが、
聖人が最も喜ばれることなのです。
親鸞聖人の真に慈愛あふるるメッセージを、
よくよく知っていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・

体験手記
最愛の妻との突然の別れ
    北海道 佐山 一郎さん

その日、カラオケサークルの集まりで歌い終えた直後、
妻は倒れました。
血圧が高かったので、連絡を聞いた時、
すぐに原因は分かりました。
妻の倒れたコミュニティセンターへ急ぐ車の、
7、8分がとても長く感じられる。
病院では医師から「手術が難しい」と聞かされ、
別れを覚悟しました。
駆けつけた娘も私も、そばにいるだけ。
何もできないのです。
そして妻は、意識を回復することはなく、
十日後に亡くなりました。
あまりに突然のことで、
何が何やら分からない。
何もしてやれなかった、の反省と後悔ばかり。
しばらくは、周りの人の声もなかなか胸に
おさまりませんでした。

やがて、どうすれば少しでも妻の供養になるのか、
と『正信偈』を拝読するようにまりました。
拝読するうち、何が書かれているか知りたくなりましたが、
だれに尋ねても分からない。
そんな時、一枚のチラシをご縁に、
『とどろき』主催の「聞法のつどい」に参加しました。
今まで聞いたことのない話で、
真剣な講師の説法から、
自身の生死の一大事を知らされ、
驚きました。

「夢の世を あだにはかなき 身と知れと
教えて還る(かえる) 人は知識なり」
妻の無常を縁に、本当の親鸞聖人の教えに
遇うことができた私は幸せです。


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