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阿弥陀仏に救われるとどう変わるのか!? [信心決定]

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

            (親鸞聖人・正信偈)
 

みんなに知ってもらいたいことがある。
あなたに伝えたいことがある。
それにはどう書けば、どう表現すれば・・・。
一字一涙の御心で筆を染められた『正信偈』には、
親鸞聖人九十年の教えのすべてがおさまっています。
その『正信偈』を、朝晩拝読する勤行は、
自らの声を通して、聖人の直のご説法を聞かせていただく
聞法の勝縁です。
ゆえに浄土真宗の家では毎日欠かされないのも、
お分かりでしょう。
しかし、せっかく暗誦できるほど親しんでいても、
意味が分からず「門徒もの知らず」では、
あまりにも勿体ないですね。
一行一句に込められた真意をよくよく知り、
聖人の教えに明るい真実の仏弟子とならせていただきましょう。
まず冒頭に、
帰命無量寿如来(無量寿如来に親鸞、帰命いたしました)
南無不可思議光(不可思議光に親鸞、南無いたしました)
と言われている二行は、
親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ!
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ!
という、「弥陀の救い」に遇われた聖人の告白であり、
叫び尽くせぬ歓喜の発露です。
この初めの二行で親鸞聖人は、

○弥陀の救いは、平生ただ今である。

○弥陀の救いは、ハッキリする。

という、「凄い弥陀の救い」を明らかにされていることは、
すでに繰り返し述べてきました。
では、どうすれば親鸞さまと同じように、
私も弥陀に救われるのですか。
救われたら、何がどう変わるのですか
私たちの切実な疑問に、同じく『正信偈』の中で
懇ろに答えておられるのが、次の五行です。

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

ここで親鸞聖人は、どんなことを言われているのか、
少しずつ区切りながら解説していきましょう。

●弥陀の救いは「破闇明闇」

まず一行目の「已能雖破闇明闇」に、
「阿弥陀如来の救いは、無明の闇を破ること(破闇明闇)である」
と、明らかにされています。
「無明の闇」とは、「後生暗い心」ともいわれ、
「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」。
「後生」とは、一息切れた死後のことであり、
「暗い」とは、分からない、ハッキリしないことをいいます。

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生まれたからには死は避けられませんが、
その死後の行く先が、分からない。
有るのか、無いのかさえも定かではない。
“千の風になる”と言われても、ピンとこない。
“死んだら死んだ時だ”と強がってみても、
どうもスッキリしない。
“死後は無になる”の信念にも、根拠がない。
心はなんだかぼんやりしています。
気楽に考えている人は
「念仏さえ称えておれば極楽へ往けるのだろう」
と淡い想像をし、自己を真面目に見つめている人は
「こんな私は暗い世界へ行くのではなかろうか」
と恐れおののく。
「でも、そこはお慈悲な阿弥陀さま、なんとかしてくださるだろう」
と希望を抱きもする。
死を遠くに追いやっている間は気づかなかったが、
ひょっとして今晩かもと、
死を凝視して魂を後生へ送り出してみると、
なんとも言えぬ不安な、恐ろしい戦慄を覚える。
崖っぷちから千尋(せんじん)の谷底をのぞき込んでいるような
薄気味悪い、真っ暗な心が胸一面を覆います。
このような、確実な行く先である「後生」がハッキリしない心、
今の一息一息と触れ合っている「後生」が暗い心を、
親鸞聖人は「無明の闇」と言われているのです。

本師本仏の阿弥陀如来は、
この「後生暗い心(無明の闇)」こそが、
十方衆生(すべての人)の苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、“必ず浄土へ往ける”大安心に救い摂る」
と誓われています。
これを「阿弥陀如来の本願」と申します。
「本願」とは「誓願」とも言われ、約束のこと。
有名な『歎異抄』冒頭の「弥陀の誓願」も、
この阿弥陀如来のお誓いのことです。

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「後生暗い心(無明の闇)」が晴れわたり、
“必ず浄土へ往ける”とハッキリしたことを
「往生一定」ともいわれます。
それは、どんな事故や災難にも微動だにしない大満足であり、
最悪の死が来ても崩れない幸せですから、
『歎異抄』には「摂取不捨の利益」とか
「無碍の一道」とも言われ、
今日の表現で「絶対の幸福」といえるでしょう。
しかも弥陀は、その絶対の幸福に「一念で救う」
と誓っておられる。
一念とは、何兆分の一秒よりも短い時間。
アッと言う間もない一瞬で、
後生暗い心(無明の闇)を破り、
絶対の幸福に救い摂る、と、弥陀は誓われているのです。

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この弥陀の誓願通りに「後生暗い心」が晴れて、
「往生一定」に救い摂られたことを、
「已能雖破闇明闇(いのうすいはむみょうあん)
「弥陀の誓願力によって(能く)、無明の闇が破られた」
と言われ、冒頭の、
「帰命無量寿如来(親鸞、弥陀に救われたぞ!)
南無不可思議光(親鸞、弥陀に助けられたぞ!)」
という宣言も、
聖人自らこの「弥陀の救い」に遇われた魂の絶叫なのです。

●弥陀に救われたら、どうなるのか

では、弥陀のお力によって、
苦悩の根元である「無明の闇」がぶち破られて
「往生一定」の絶対の幸福に救い摂られたならば、
どうなるのか。
欲も起こさず、腹を立てないようになるのか。
「しがみつかない生き方」に変わるのか。
執着心の無いひょうひょうとした人生になるのだろうか。
それらのことについて、親鸞聖人は次に、
貪愛瞋憎之雲霧(貪愛・瞋憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり)
と明言されています。
「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。
褒められたい、儲けたい、愛したい、愛されたい、
まだ足らんと、際限もなく求める心をいわれます。
ダイエットや整形に大金を投じ、
時には命の危険さえ冒すのも、
モテたい、キレイと言われたい、
の強烈な願望にちがいありません。
「瞋(しん)」は瞋恚、怒りの心。
欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心です。
ひとたび怒りの炎が燃え上がると、
理性も教養もへったくれもなく八方を焼き尽くす、
恐ろしい心です。
18歳の男が、「交際を邪魔されたから」と、
恋人の姉を刺殺した事件も、
この怒りのなせる業でしょう。
「憎」は憎しみ・うらみの心。
因果の道理も分からず、
“オレがこんな目にあったのは、あいつのせいだ”
“こいつが余計なことを言ったからだ”
“世間が悪い”と他人を怨み世を呪い、
ライバルの容姿や人気をねたみそねむ、
醜い心のことです。

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これら欲や怒り・ねたみそねみの心で私たちは、
朝から晩まで煩わされ、悩まされ、
イライラしてはいないでしょうか。
仏教ではこれを「煩悩」といわれ、
全部で百八つあると教えられます。
聖人が「貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧」
と言われているのは、
その百八の煩悩を雲や霧にたとえられてのこと。
次に「真実信心の天」は、
無明の闇が晴れた「後生明るい心」であり、
その天を、欲や怒りの雲霧が「常覆(常に覆っている)」
とは、「途切れる間がない、一杯である」ことですから、
この三行で親鸞聖人は、
「弥陀に救われて『無明の闇』が無くなっても、
欲や怒り・ねたみそねみの『煩悩』は、
減りもしなければ無くもならない、まったく変わらない」
と、驚くべきことを道破されているのです。

●仏教の目的は、何か

この「煩悩」と「無明の闇」の違いを正しく知らなければ、
親鸞聖人の教えは絶対に分からず、
弥陀の救いには遇われません。
だからこそ聖人は、『正信偈』に峻別して教えておられる。
ところが、専門外の作家が間違うならまだしも、
相当の真宗学者でもこの「煩悩」と「無明の闇」
の区別がなされておらず、
ごちゃまぜに論じているものがほとんどですから、
違いを知るのは大変です。
それで、多くの人の仏教観がこうなるのでしょう。
「阿弥陀仏に救われたならば、欲が減って、
何事にも淡泊になるのではないか。
今まで一日に十回腹を立てていた人は、
忍耐力がついて、五回か六回になるのだろう。
執着を離れてひょうひょうとした生き方になるのではないか」

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これが常識ですから、それに反する言動を見聞きすると、
「あんたは仏教を聞いているのに、
少しも欲が減らないじゃないの」
「腹立ててばかりいるし。聞く前とちっとも変わってない。
それで仏教聞いているといえるの?」
「そんなことでは仏教聞く意味なんてない!」
と非難までする。
これは「無明の闇」と「煩悩」との違いが分からず、
仏教の目的を完全に誤解しているから。
すなわち、
「仏教を聞く目的は、煩悩を減らすことだ」
「欲や怒りをコントロールできるようになることだ」
と、カンカンに思い込んでいるのです。

そこで聖人は、この「無明の闇」と「煩悩」との違いは
簡単にわかることではないからと、
さらに譬えを重ねて、
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆わるども、)
雲霧之下明無闇(雲霧の下、明かにして闇なきが如し)
“雲や霧で天が覆われていても、弥陀の智慧の太陽で、
心は明るく浄土に遊んでいるように楽しいのだ”
と解説されています。
私たちの本願成就のポイントは、
欲や怒りの煩悩にあるのではなく、
「無明の闇が晴れたか、どうか」にあることを、
巧みなたとえで説かれているお言葉と知られるでしょう。

●「無明の闇」と「煩悩」のちがい

阿弥陀仏の目的は、私たちの欲や怒りの煩悩を
減らしたり無くすることではありません。
もしそうなら、弥陀に救われた人は、
夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、
誰かにいきなり頭をたたかれても、
腹も立たないということになります。
おかしいとすぐ分かるでしょう。
弥陀の救いは「無明の闇(後生暗い心)を照破すること」なのです。

聖人は9歳で仏門に入って20年、
比叡山の日々は、まさに煩悩との格闘でした。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。
あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。
思ってはならぬことが思えてくる。
考えてはならぬことが浮かんでくる。
恐ろしい心が噴き上がる。
どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。
このままならば、釜の中の魚の如く、
永久の苦患は免れぬ。
忍び寄る無常の嵐に火急を感じ、
「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」
と下山を決意。
間もなく、法然上人に邂逅(かいこう)され、

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り腹立ち、そねみねたむ心、
多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、
止まらず消えず絶えず
            (一念多念証文)

“人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、
ねたみそねみなどの塊である。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。
もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”。

苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされて、
「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」
に救い摂られたのが、
聖人29歳の御時のことでした。
それから90歳でお亡くなりになるまで61年間、
この「弥陀の救い」ひとつを、すべての人に知らせたいと、
「煩悩」と「無明の闇」との違いを『正信偈』に峻別され、
欲や怒りの煩悩は、死ぬまで無くならぬ。
仏教を聞く目的は、
後生暗い『無明の闇』を破ること一つなのだ。
聞き誤ってはならないよ
と朝晩、訴えておられる5行なのです。
弥陀のご本願を、正しく聞き抜かせていただきましょう。


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