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平生達者なときに救うのが、弥陀の本願!! [親鸞聖人]

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)

「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、「名号」とは
「南無阿弥陀仏」の六字のこと、
「正定」は「正定聚不退転」、「業」は「働き」のことですから、
この一行は、こういう意味になります。
阿弥陀仏の本願によって作られた『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を『正定聚不退転』の身にする働きがある

初めに「阿弥陀仏の本願」とはどういうことか、解説しましょう。

●阿弥陀仏の本願

「阿弥陀仏」は、「阿弥陀如来」とも「弥陀如来」とも、「弥陀」とも
いわれる仏さまです。
世間では、「お釈迦さま」といっても「阿弥陀仏」といっても、
名前が違うだけで、同じ仏様だろうと思っている人がありますが、
それは大変な間違いです。
お釈迦さまと阿弥陀仏とは全く違う仏なのです。
その違いを知らないと、親鸞聖人のみ教えは分かりませんので、
よく知って頂きたいと思います。

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お釈迦さまは、今から約2600年前、インドで活躍なされた方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の覚り(さとり)を開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えていかれたみ教えを、今日、仏教といわれます。
地球上でただお一人、仏の覚りを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるのです。
そのお釈迦さまが、「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、私たちに教えてくだされたのが、阿弥陀如来といわれる仏様です。
弥陀如来と釈迦如来との関係について、
蓮如上人は、『御文章』に次のように仰っています。

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ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏さまですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
無数の仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。
有名なのは、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏はビルシャナ如来
といわれる仏ですが、それらも皆、十方諸仏の一人です。
本師本仏とは、師匠であり先生ということですから、
大宇宙の仏方の先生ということ。
これはお釈迦さまが説かれたことですが、
親鸞聖人も明らかにされ、蓮如上人も仰っているのです。
「弥陀如来は、十方諸仏の先生である」ということは、
大宇宙の仏方はみな阿弥陀仏のお弟子ということです。
地球のお釈迦さまも、十方諸仏の一人ですから、
弥陀如来と釈迦如来の関係は、
師匠と弟子、弥陀如来を先生とするなら、
お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方は、
弥陀如来のことを「偉大な仏様だ、尊い仏様だ、我らの先生だ」
と讃め称えて、手を合わせ拝まれているのです。
親鸞聖人も、弥陀如来のことを無上仏、「最高の仏さま」と
仰がれています。
次に「本願」とは「誓願」とも言われるように、
「約束」のこと。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」をいうのです。
では、阿弥陀仏は、どんな約束をされているでしょうか。
漢字36文字で誓われているのですが、
分かりやすく今日の言葉で表現すると、

すべての人を
必ず助ける
絶対の幸福に

というお約束です。

「約束」には必ず相手がある。
相手のない約束はありません。
阿弥陀仏は約束の相手を、本願に「十方衆生」と仰っています。
「十方」とは、仏教で大宇宙のこと。
「衆生」とは、生きとし生けるものすべて。
私たちは人間ですから、「十方衆生」とは、
「すべての人」ということです。
この中に入らない人は一人もいません。
「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばず」(歎異抄)
とも言われているとおり、
男も女も、老いも若きも、差別なく救うのが阿弥陀仏の本願。
キリスト教やイスラム教を信じている人も、
無宗教の人も、日本人もアメリカ人もフランス人もドイツ人も、
健常者も障害者も、あらゆる人が、弥陀の本願の対象なのです。

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●摂取不捨の利益

では阿弥陀仏は、「すべての人」と、
どんな約束をなされているのでしょうか。
大事なのは、約束の内容です。
金銭の貸借で言えば、金額に当たります。
阿弥陀仏はすべての人を「信楽」にする、と誓われているのです。
『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨の利益」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って(おさめとって)、
絶対に捨てられない」こと。
「利益」は幸福のことですから、
「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。
終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。
やっと決まった内定が、一方的に取り消し。
一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。
恋人に振られたショックで自殺する人もいます。
健康が取り柄だったのに、末期がんの宣告。
かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。
これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
東京の高島平や千葉の常盤平など、
都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、
30年を経た今、子供は皆巣立ち、
独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、
役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、
悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、
NHK番組『クローズアップ現代』で紹介されていました。
わずか八畳間に男女の区別なく3人押し込められ、
風呂にも入れず、食事は一日たったの200円。
入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、
経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、
ア然としました。
ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」
と涙ぐむ。
家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。
「身寄りがない、いられるだけでよい」
という弱みにつけ込む悪どい業者、
それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、
浮き彫りにされていました。
死に物狂いで働き、
日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、
その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、
想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、
才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。
オギャッとこの世に生まれ落ちてより、
努力してかき集めてきたものが、
年とともに奪われていく。
最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。
これが人生というものならば、一体どこに、
生きる喜びがあるでしょうか。
何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

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火宅無常の世界は、万(よろず)のこと皆もって空言・たわごと・真実(まこと)
あること無し       (歎異抄)

やがて必ず「捨てられる」ものしか知らず、
薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、
阿弥陀如来は、「すべての人を、絶対に裏切られることのない、
大安心の身にしてやりたい」
と、無上の願いを起こされたのです。

何と有り難いことではありませんか。
本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、
「歎異抄」にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

●若不生者のご念力

ところがそう聞くと私たちは、
「摂取不捨の利益?そんなもの本当にあるの?」
「絶対の幸福になんかなれるはずがない」などと、
本願を疑います。
中には「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」
「脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、
自分とは関係ない」
と怪しむ人もありましょう。
そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、
「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて
誓われているお言葉が、
「若不生者不取正覚」(もし生まれずは、正覚を取らじ)
の八字です。
「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、
仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、
命を捨てる」
といわれているお言葉です。
弥陀が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」
と誓われているのが、
「若不生者の誓い」なのです。

卑近(ひきん)な例えで言うと、
銀行でローンを組む際、
こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、
土地や建物を担保に入れるでしょう。
阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、
自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。

この絶大な「若不生者のご念力」によって、
平生の一念、疑心が晴れわたり、
必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、
親鸞聖人は生涯、教え続けていかれたのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ 
        (浄土和讃)

●名号の働き

「本願の名号」の「本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏が「すべての人を絶対の幸福にする」
と誓われているお約束であることを、
明らかにしてきました。
次に「名号」とは、阿弥陀仏が、
この誓願を実現するために、
大変な苦労をして完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の
六字のことです。
これを親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号」
“本願によって造られた名号”
と言われています。
だから「六字の名号」には、「本願」の通りに
「すべての人を絶対の幸福に救い摂る」力があることを聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
といわれているのです。

●正定聚

「正定」とは、「正定聚」のことで、
「間違いなく(まさしく)仏のさとりを開くことに定まった人たち」
ということ。
さとりと言いましても、
低いさとりから高いさとりまで全部で十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」と言われます。
それぞれのさとりには名前があります。
「正定聚」とは、下から数えて五十一段目、あと一段で仏、
という位のことであり、
「正定聚不退転」とも言われています。
「不退転」とは、後戻りしない、捨てられない、
裏切らない、ということですから、
「正定聚不退転」とは、「摂取不捨の利益(絶対の幸福)」のことを
いわれます。
だから、
「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
の一行は、
「阿弥陀仏が本願を果たすために造られた
『南無阿弥陀仏』の六字の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだよ」
と、親鸞聖人が断言されているお言葉なのです。

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