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大安心に生きる [なぜ生きる]

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誰もが皆、安心して生きたい、
満足した人生を送りたいと望んでいます。
しかし現実は、不安を感じている人が
少なくありません。
日本は昨年、明治以降続いてきた人口の自然増加が
初めて減少に転じ、
本格的に少子高齢化社会に突入、
起こりうるさまざまな問題の対策が
論じられています。(平成18年の記事です)
「不安の時代」といわれる現代、
真に安心した人生を送るに必要なのは、
一体、何でしょうか。

●平均寿命世界一
    でも、年を取るのは不安

今年四月に発表された平均寿命世界一の国は、
日本、モナコ、サンマリノの三国で、
82歳だったそうです。(2004年時点の寿命)
前の年に続いて、日本は、
“長寿世界一”を維持したことになります。
ところが、この長寿を日本の私たちは
喜んでいるのでしょうか。
国立長寿医療センターが一昨年、
全国の20~70代の男女約2000人を対象にした
アンケートによると、
8割以上の人が、
「高齢者になることは不安」
と答えています。
年代別では、75歳以上の69パーセントに比べて、
20~39歳は87パーセント、40~54歳で88パーセントと、
若い人ほど不安に感じていることが
分かります。
寝たきりや認知症で介護が必要になることが
理由の一位、
自分が病気になることが2位と、
健康に関する悩みがトップを占めています。

●アンチエイジングで
      安心できる?

そんな未来への不安を打ち消そうと、
今、アンチエイジングがブームになっています。
「アンチエイジング」とは、
直訳すれば「抗加齢」。
老化を遅らせようとするものです。
もともとは、しわなど美容に関するものが
多かったのですが、
最近は、健康維持を目的として、
運動、脳のトレーニング、食生活やサプリメントなど、
さまざまな分野での研究がなされています。
書店には、『脳を鍛える大人の計算ドリル』、
『ボケない脳をつくる』など、
脳を活性化させるための本が数多く並んでいます。
あるパソコン教室は今年四月、
六十歳以上の人を対象に、
パソコンゲームを解きながら脳を鍛える講座を開設しました。
テレビをつけると、老化予防によい食品を紹介した番組や、
現在の食生活を続ければ五年後、
十年後にどんな病気になるかを
予測する番組が放映され、
人気を呼んでいます。
みんな、将来への不安をなくそうと必死ですが、
老化を遅らせることで本当に不安はなくなるのでしょうか。

●「生きてよかった」
     と言える“目的”は?

最近、老後の人生を考える書籍が相次いで
出版されていますが、
その中の一冊『60歳からの「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)』には、
定年後に大きな問題となってくるのが、
「なぜ生きるか」だと述べられています。

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「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

60歳を迎えると会社を定年退職し、
突然に自由な時間が有り余るほどできる「余生」を手にして、
そこではじめて「自己の存在証明」について
考えるようになります。
「自分は何のために生きてきたのか」と。(中略)
「あなたは何のために生きているのですか?」
と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。
現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。
社会に役立たなくなっていながら、
なおかつ存在しているのはなぜか。
この存在理由を証明するのは、
実は歴史上にかつて存在しなかった大変な難問なのです。

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仕事をしている時は、
「これが、私の生きる目的だ」と思っていたものが、
実は人生の通過駅であり、
目標と呼ばれるもので、
「生まれてきたのはこれ一つ」
と言える人生の目的ではなかったことが、
定年後になって知らされるのです。
退職して、たとえ体が不自由になっても、
生きねばならない理由は何か。
人生の終わりに近づいて、
自らの生きる目的がハッキリしていなかったことに
愕然とするのです。
「人間に生まれてよかった」
「生きてきてよかった」
と大満足する「人生の目的」が分からなければ、
長生きすればするほど老いや病の苦しみは深くなり、
苦しむための一生に終わってしまうのではないでしょうか。

●百パーセント
    確実な未来

そうやって、なぜ生きるかが分からないまま日を送り、
やがて人生の終わりを予感した時、
大問題になってくるのが、
「死んだらどうなるか」
だと著者はいいます。


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「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

だんだんと老化が進んで体が不自由になってくると、
そうやって自分の力で寂しさを解消することが
できなくなってきます。
そのときに、思うことは二つです。
一つは、「自分は生きてきてよかったのか」
という過去からの自己の存在証明、
もう一つは「自分が死んだら将来どこへ行くのか」。
死と向かい合っている人と話しをしていると、
必ずと言ってよいほど、
この二つのことが出てきます。(中略)
私の父がそうでした。
けっして神仏を信じてる人ではなかったけれども、
最期には私の手を握って「エマーソン」と
小さく呟いたのです。
私の耳には確かにそう聞こえました。
さらに父は、「エマーソンは、
日本の言葉で言えば輪廻転生、
死んでからの魂の再生のことを言っているけれども、
どう思う?」
と私に聞いてきたのです。

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この死の問題を無視して、
人生の不安を根本的に解決することはできません。
年を取るのが不安、病気にはなりたくない、
と言うのも、結局は、死が怖いということにほかなりません。
風邪だと言われても驚きませんが、
「ガンだ」「エイズだ」となると大騒ぎするのは、
それが死に至る病気だからでしょう。

作家、ヴィクトール・ユゴーは
『死刑囚最後の日』の中で、
人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ
と言っていました。
すべての人の悲劇は、
遅かれ早かれ、死なねばならないところにあります。
どれだけ健康に気を遣っても、
死ななくなることはできません。
死は、確実な未来ですから、まさに死刑囚です。

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●突然やってくる暴力

死刑を宣告された死刑囚は、
明日にも執行されるか、今日にも執行されるか、
と毎日を戦々恐々と過ごすといいます。
私たちも、必ず死なねばなりませんが、
いつ死がやってくるか分からないから、
不定の執行猶予期間をもった死刑囚です。

ところが、それほど死が問題になっていないのは、
なぜでしょう。
それは、「自分が死ぬのは、
まだまだ遠い先のことだ」
と思っているからではないでしょうか。

ガンを宣告された岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は、
死はまさに、突然襲ってくる暴力だと闘病記に残しています。

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死は、突然にしかやって来ないといってもよい。
いつ来ても、その当事者は、
突然に来たとしか感じないのである。
生きることに安心しきっている心には、
死に対する用意が、なにもできていないからである。
        (岸本英夫『死を見つめる心』)

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交通事故で今日亡くなった人の中で、
「今日が最後の日」と思って、
朝、出かけた人があったでしょうか。
私たちと同じように、洗顔し、
食事を済ませ、「行ってきます」
と出て行った人が、今日、
突然の事故や病気で帰らぬ人となっているのです。
突然の死の到来は、
今日かもしれないのです。

●先はどうなっているのか?

死の問題と聞くと、
財産の分配や葬式について遺言状を書いたり、
墓を造ったりすることが大事だと
考える人もあります。
それは例えて言えば、
電車から降りる時、それまで座っていた席を誰に譲ろうかと、
辺りを見回しているようなものです。
しかし大事なのは、降りた後、どこへ行くのかということでしょう。
財産や葬式、墓などは電車の席のようなもの。
死を目前にして問題となるのは、
後生、どこへ行くかということだけなのです。

“まだまだ死なない”と死を遠くに眺めている時は、
「死んだら死んだ時さ」「死は永眠だ」
「恐ろしくないよ」と気軽に考えている人も、
いざ死が近づくと、先はどうなっているかだけが
大問題となります。

死後は有るのか無いのか、
どうなっているのかさっぱり分からない、
お先真っ暗な状態なのです。
この死んだらどうなるか分からない心を
「無明の闇」といい、「後生暗い心」ともいわれます。

「後生」とは死後のこと。
「暗い」とは分からないということです。
すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心だと仏教では教えられています。
この暗い心を解決しないかぎり、
何を手に入れても、心からの安心は得られないのです。

なぜか。
未来が暗いと現在が暗くなるからです。
自分の乗っている飛行機が墜落する、
と知った乗客の心境を考えれば、
よく分かるでしょう。
どんな食事もおいしくないし、
コメディ映画もおもしろくなくなる。
不安におびえ、狼狽し、泣き叫ぶ人も出てくる。
乗客の苦悩の元はこの場合、
やがて起きる墜落ですが、
墜死だけが恐怖なのではありません。
悲劇に近づいている今が、地獄なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなる。
死後の不安と現在の不安は、切り離せないもの。
後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

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●言い尽くせぬ 
     大きな喜び

この後生暗い心が断ち切られ、
「人間に生まれてよかった!」
という生命の大歓喜を獲ることこそが、
人生の大目的なのです。

その目的を達成した喜びを、
親鸞聖人は『正信偈』の冒頭に、

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

と叫んでおられます。
「無量寿如来」も「不可思議光」も
阿弥陀仏の別名です。
「帰命」とは中国の昔の言葉、
「南無」はインドの昔の言葉で、
ともに「助けられた、救われた」
という意味ですから、
「阿弥陀如来に、親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に、親鸞、助けられたぞ!」
とおっしゃっているお言葉です。

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【阿弥陀如来とは】
「阿弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」(御文章)
と教えられている。
「三世十方の諸仏」とは、
大宇宙のすべての仏、「本師本仏」とは先生のことだから、
「阿弥陀如来は、大宇宙のあらゆる仏の先生である」
ということ。

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なぜ、同じことを2回も?
これは、言っても言っても言い尽くせぬ、
書いても書いても書かずにおれぬ、
大慶喜を表されているのです。
例えば、ある死刑囚に、いよいよ執行の日がやってきた。
絞首台の階段を上り、首にロープをかけられ、
今まさにボタンを押されて
足下の板が外れたら死ぬ、という時、
「その死刑待った!無罪放免、
そしてその者に百億円与えよ!」
と言われたら、どうでしょうか。
「あー!」と言葉にならぬ驚き、
感嘆のあとは、
「助かったぁ、救われたぁ」
と叫ばずにおれません。
親鸞聖人が『正信偈』に、
「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」
と繰り返しおっしゃってるのは、
それ以上のことなのです。
苦悩の根元(後生暗い心)が破られ、
大宇宙の宝を丸もらいするのですから、
天に踊り、地に踊る歓喜がわき起こります。
どれだけ喜んでも喜びすぎることはありません。

●自分自身に
    ハッキリする

このハッキリした体験を、
蓮如上人は次のように書かれています。

「三世の業障、一時に罪消えて」(御文章)

「三世」とは、過去、現在、未来のことで、
今まで私たちが迷い苦しんで来たのも、
現に苦悩渦巻いているのも、
未来また無限の苦患(くげん)を受けなければならないのも、
その原因は三世の業障ただ一つ。
後生暗い心のことです。
その迷いの元凶が、
一念でなくなると断言されています。
そんな苦しみが抜き取られたのに、
助かったのか助かっていないのか、
他人に聞かねば分からない、
というようなものではありません。

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背中についた糸くず程度なら、
他人に取ってもらっても、
取られたのかどうか分かりません。
軽いからです。
しかし、重荷を背負って苦しんでいた時、
その荷物を取られたら分からないはずがない。
だれに言われなくても、
自分自身がハッキリします。

分からないのは、まだ救われていないからです。
三世の業障という重荷を負うて、
その重さに泣いたことがない人に、
その重荷を阿弥陀仏に一念で
奪い取られて躍り上がった
体験がないのは当たり前です。

●大安心、大満足の
    世界に生かされる

この後生暗い心がなくなった一念で、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”
と心が一つに定まるので、
蓮如上人は、「往生一定」と言われています。
往生の本決まり(ほんぎまり)です。
合格発表までの受験生は大丈夫だろうか、
ダメだろうかと心は千々(ちぢ)に乱れて
定まりませんが、合格発表を見た瞬間、
「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
阿弥陀仏のお力によって、
“死んだらどうなるか分からない”
後生不安な心が破られ、
“いつ死んでも必ず極楽往生へ往ける”
大安心・大満足の世界に生かされるのです。
親鸞聖人は、ご著書の至るところに、
その世界に救われた大歓喜を書き記されています。
そして、この身になることこそが
人生究極の目的であり、
「なぜ生きる」の答えだと明らかに教えられています。

それなのに、
「なぜ生きるの答えは見つからない」などと言うのは、
そんな聖人のお言葉を全くご存じない人の言うことだと、
お分かりになるでしょう。

聖人と同じ世界に出させていただくところまで、
真実の仏法を真剣に聞き求めましょう。


・・・・・・・・・・・・・
【読者の声】

人生を歩ませていただく道の、
いかに険しくとも、「往生一定」の世界に向かって
一歩一歩、踏みしめて歩いていきたい。
そして、素晴らしい日を送りたいと思います。
          (兵庫県・60代女性)

現在暗い心が救われなければ、
一生涯不安な暮らしです。
私たちの苦悩を救い、
未来永遠に生かし切ってくださる弥陀の本願。
その弥陀の本願に救い摂られた世界を
「往生一定」と言われました。
本当にありがたいお言葉です。
私もこの心になれるよう光に向かいます。
        (北海道・50代男性)


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