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親鸞聖人が示された「真の仏法者」の道 [一向専念無量寿仏]

親鸞聖人が示された「真の仏法者」の道

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし 

        (親鸞聖人・恩徳讃)

 

大慈大悲の阿弥陀如来と、

その弥陀の本願を伝えたもうた師主知識のご恩は、

身を粉にしても、骨を砕いても、

とてもお返しすることはできぬのだ

 

阿弥陀如来と師主知識(善知識)の恩徳に

限りなき謝念のあふれる親鸞聖人の「恩徳讃」。

その後半の

「師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし」

を続けて学んでいます。

「師主知識」とは、仏教を正しく説かれる先生のことで、

善知識ともいいます。

先月は、この善知識の元祖であるお釈迦さまの教えを学びました。

 

●仏法の目的は何か

 

釈迦一代の教えは、七千余巻の一切経に全て書き残されており、

その一切経の中で「出世本懐経」と

釈尊自らが仰る『大無量寿経』には、

十方諸仏の本師本仏である阿弥陀仏の本願が説かれています。

本願とは誓願ともいい、阿弥陀仏のなされたお約束のこと。

 

どんな人も

必ず絶対の幸福(往生一定)に救う

 

と誓われています。

往生一定とは、阿弥陀仏の本願に救い摂られると、

来世は明るい極楽浄土に往って、

弥陀同体の仏に生まれる(往生)身とハッキリする(一定)。

未来が限りなく明るくなると、

現在から比べものにならない無上の幸せになれますから、

絶対の幸福ともいい、これを信心決定(しんじんけつじょう)

ともいいます。

人と生まれし本懐(人生の目的)は、

この身に救われることだと仏教では教えられますが、

信心決定せずに命尽きれば、

万劫(まんごう)にもかえらぬ一大事が待ち受けているから、

一時も片時も信心決定を急ぎなさいよ、

と親鸞聖人は警鐘乱打なされています。

 

呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり。

一たび人身を失いぬれば万劫にも復(かえ)らず。

この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。

願わくば深く無常を念じて、

徒(いたずら)に後悔をのこすことなかれ

               (教行信証行巻)

吸った息が吐けなかったら、

吐いた息が吸えなかったら来世である。

後生は遠い話ではない。

死ねば、二度と同じ人身に戻ることは永遠にないのである。

今、この一大事を解決しなければ、

いつできるであろうか。

永遠のチャンスは、今しかないのだ。

されば、刻々と迫る無常を凝視して、

決して後悔を残すことがあってはならない。

 

信心決定(しんじんけつじょう)できるか否かは、

永劫の浮沈を分ける大事ですから「生死の一大事」とか

「後生の一大事」といわれるのです。

 

●目を向けたくない未来とは?

 

ところが、そんな一大事を知らず、

人生を過ぎるに任せている人ばかりではないでしょうか。

それにしても一生とは、何とはかないものか。

テレビで見た生命保険のコマーシャル。

若い夫婦と幼い娘の団欒(だんらん)が映され、

少女は瞬く間に成長して花嫁となり、母親となる。

子供を連れて里帰りすると、

かつて若々しかった両親が白髪の目立つ祖父母になっている。

わずか数十秒のCMに、人の一生が凝縮されています。

子の成長だけを願って、親は自身の老いを忘れていることを、

古来こう詠まれています。

「這えば立て

立てば歩めの 親心

わが身につもる 老いを忘れて」

古今を問わぬ親の姿でしょう。

こうして子は親となり、またその子供も親となる。

老いの先には終幕が待っているのですが、

皆、そこに目が向かないのです。

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トランプのババ抜きや七並べなど、

誰もが一度は遊んだことがあるでしょう。

カードに描かれている四種のマークはそれぞれ愛(ハート)、

お金(ダイヤ)、学問(クラブ)、死(スペード)という

意味があり、マークごとの13枚のカードの中には、

11(ジャック・若者)、12(クイーン・女性)、

13(キング・老人)の三種の絵札があります。

その絵札に描かれている人の顔の向きは、

実はマークによって違うことをご存じでしょうか。

例えば、若者は興味津々で愛(ハート)を見つめているとか、

女性は愛(ハート)、お金(ダイヤ)、知識(クラブ)に

同等の関心を示している。

また、老人は愛(ハート)に興味が薄いが、

お金(ダイヤ)には執着が強いなどです。

ところが三者がいずれも、直視できないマークがある。

それが、スペード(死)です。

老人(キング)だけは、迫り来る死を意識し、

他の二者よりも目を向けようとしていますが、

それでも直視できません。

誰もが見たくない、考えたくないのが、

死だからでしょう。

この生死の大問題に、解決の道を明示しているのが仏法です。

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●仏教の結論は「一向専念無量寿仏」

 

本師本仏の阿弥陀仏は、すべての人を浄土往生間違いない身に

救い摂る、と誓われていることは先述しました。

暗い後生が、弥陀の本願を信ずる一念に、

光明輝く来世に大転換いたします。

そんな救いは、他の仏や菩薩には到底できないことですから、

〝皆人よ、弥陀一仏を信じ、助けていただきなさい〟

と釈尊は仏教の結論として、

 

一向専念無量寿仏(阿弥陀仏一仏に向け、専ら信じよ)

 

と教えられているのです。

このお釈迦さまの教導を、私心なく伝えられた方が

親鸞聖人です。

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』をごらんになれば、

全6巻のシリーズ中、最も多く出てくる仏語が、

この「一向専念無量寿仏」であることに気づかれるでしょう。

親鸞聖人は生涯、これ一つ叫ばれたことが分かります。

どのように聖人は、仏教の結論「一向専念無量寿仏」を

教えられたのでしょうか。

 

●ただ弥陀一仏に向かう

 

親鸞聖人が生涯、手元に置いて

修正を重ねられた主著『教行信証』の化身土巻末には、

経典を引用にしてこう教導されています。

 

出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、

父母に向かいて礼拝せず、六親に務(つか)えず、

鬼神を礼(らい)せず   (菩薩戒経)

 

(真の仏法者は、たとえ相手が国王であれ、父母であれ、

六親であれ、鬼神であれ、一切、

これらのものに礼拝恭敬(らいはいくぎょう)しないのである)

 

真の仏法者とは、「一向専念無量寿仏」の人のことです。

「一向専念無量寿仏」の仏法者は、たとえ相手が国王であれ、

父母であれ、六親であれ、鬼神であれ、これらのものに

礼拝恭敬はしないのである。

ただ弥陀一仏を礼拝恭敬する者こそが、

真の仏法者であるというのが、親鸞聖人のこの「経文」の解釈です。

 

事実、聖人は、この『菩薩戒経』の教えを忠実に、

自ら実践されました。

まず「国王に向かいて礼拝せず」と仰っていることについて

『教行信証』後序には、

 

主上・臣下、法に背き義に違(い)し、忿(いかり)を成し、

怨(あだ)を結ぶ

            (教行信証後序)

(天皇も家臣も、仏法に反逆して、

正義を踏みにじり、怒りにまかせて大罪を犯した)

 

と仰り、『口伝鈔』には、

 

上一人(かみいちにん)よりはじめて偏執(へんじゅう)の

やから一天に満てり   

               (口伝鈔)

(天皇をはじめとして、法謗の輩が天下に満ちている)

 

とあります。

これは真実の仏法を弾圧した当時の権力者らを

痛烈に非難されたお言葉です。

戦時中、聖人のこのお言葉が、天皇不敬に当たると大問題になり、

削除されましたが、これこそ親鸞聖人の

「国王に向かいて礼拝せず」の明証でありましょう。

 

9歳から20年間、比叡山の天台僧として

後生の一大事の解決一つを求め、日夜、

苛烈(かれつ)な修行に身を投じられた親鸞聖人は、

忍び寄る無常の嵐に火急を感じ、天台宗、法華経の教えに絶望。

ついに下山を決意されました。

「こんな親鸞、救われる道はあるのだろうか。

導く高僧いまさぬか」

夢遊病者のごとくさまよう都の辻で、

叡山の旧友・聖覚法印と巡り会い、

その縁で生涯の師と仰ぐ法然上人に邂逅(かいこう)された。

雨の日も風の日も聞法に専心された聖人は、

たちどころに阿弥陀仏の本願に救い摂られる。

〝誠なるかなや弥陀の本願。

親鸞の後生の一大事、救いたもう仏は阿弥陀仏一仏であった〟

あふれる歓喜とともに、ただちに法然上人門下に連なり、

熱烈な「一向専念無量寿仏」の布教を開始。

聖人29歳の時でした。

時あたかも、庶民や武士に加え、

聖道諸宗の学者や公家・貴族まで、

弥陀一仏の救いを説く法然上人の信奉者が急増した。

ところが急速な法然一門の発展に恐れをなした仏教各派は、

強い危機感を抱く。

やがて聖道諸宗一丸となり、前代未聞の朝廷への直訴となった。

承元元年(1207)、ついに浄土宗は解散、

「一向専念無量寿仏」の布教は禁止され、

法然・親鸞両聖人以下八人が流刑となる。

さらに無法な裁きは住蓮・安楽ら4人の弟子を死刑に処した。

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聖道諸宗と権力者が結託しての日本仏教史上かつてない

大弾圧は「承元の法難」といわれています。

聖人35歳の時のことでした。

この時の、法然上人のご教導が、

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第3巻に、

こう表されています。

よいか、皆の者。我ら仏法者にとって、

命懸けて護らねばならぬのは、天下の掟でもなければ、

世間体でもない。

ましてや、名誉でも財産でもない。

それは唯一つ、釈尊出世の本懐である、一向専念無量寿仏と、

その布教だけなのだ

恩師のこの教導を親鸞聖人は、生涯護り通され、

「一向専念無量寿仏」を貫かれたのです。

 

次の「父母に向かいて礼拝せず」について、『歎異抄』に、

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても

申したることいまだ候わず

               (歎異抄)

親鸞は、亡き父母の追善供養のために、一遍の念仏も

称えたことがない

 

と仰せられています。

「孝養」とは「追善供養」のことであり、

死んだ人を幸福にすると信じられている行為です。

4歳で父を、8歳で母を亡くされた聖人の、

両親を思う切なさは、いかばかりであったでしょう。

その聖人がこう仰るのは、

死後の報いはその人の生前の行為(業力)で定まり、

他人が死人に果報を変えることはできないからです。

これが聖人の「父母に向かいて礼拝せず」の宣言です。

 

また84歳の老聖人が、

「一向専念無量寿仏」を乱した長子・善鸞を

義絶されたのは、「六親に務(つか)えず」の

表明といえましょう。

建長8年5月29日、84歳の聖人が、

遠く関東で布教する50歳の善鸞に義絶状を送られたのは、

「私は父から真夜中に、一人秘法を伝授されたのだ」

と言い触らし、さらに神に仕えて祈祷し、

吉凶を占って仏法を蹂躙したからです。

聖人の度重なる諫(いさ)めにも、一向に改めぬ善鸞に、

 

あさましさ、申すかぎりなければ、今は親ということ、

あるべからず。子とおもうこと、おもいきりたり。

かなしきことなり      (義絶状)

 

と断腸の思いで勘当の手紙を書き送られたのです。

親子の恩愛に引かれて善鸞の言動を黙認されていたら、

幾億兆の人々の真実の救いはなかったでしょう。

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親鸞聖人が、一切の鬼神(人畜の死霊を神とするもの)を

排斥されたことは、あまりにも顕著なことです。

『教行信証』には、

 

余の諸天神に帰依せざれ  (涅槃経)

(天地の神々を信じ、礼拝してはならぬ)

 

天を拝することを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ

              (般舟三昧経)

(天を拝んだり、鬼神を祀り仕えてはならない)

 

など諸経を引用して、「和讃」にもこう仰っています。

 

かなしきかなや道俗の

良時吉日をえらばしめ

天神地祇(てんじんちぎ)をあがめつつ

卜占祭祀つとめとす

            (悲歎述懐和讃)

(悲しいことよ。僧侶も在家の者も、日の善し悪しを論じ、

天地の神を崇め、占いや祭りごとをやっている)

 

かなしきかなやこのごろの

和国の道俗みなともに

仏教の威儀をもとにして

天地の鬼神を尊敬(そんきょう)す

             (悲歎述懐和讃)

(なんと悲しいことか、国中の僧侶も在家の者も、

外面は仏法者を装っているが、内心は天地の鬼神を敬っている)

 

親鸞聖人ほど鬼神信仰や卜占祭祀を打破なされた方はないのです。

 

先述のとおり、この「一向専念無量寿仏」の強調が、

承元の法難を呼び、聖人が流刑に遭われたのは

歴史上の事実です。

厳しい「一向専念無量寿仏」の徹底に、

世間の人々は浄土真宗のことを、

一向宗とまでいうようになったほど。

いかに「一向専念無量寿仏」が、私たちが絶対の幸福に

救われるに大事であるかがお分かりでしょう。


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死を解決して100パーセント明るい未来を! [後生の一大事]

 


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。
このゆえに人間に生まれることを喜ぶべし

               (源信僧都)

人間に生まれたことは大いなる喜びである、
と仏教では教えられています。

ところがせっかく人間に生を受けながら、
私たちはどれほど喜んでいるでしょう。
それどころか“なんで生まれてきたのだ”
と恨んでみたり、“つまらない人生、サッサと生きて、
サッサと死にたい”と思っている人も多いようです。
生まれたことを心から喜べないのは、
喜べなくさせているものがあるからです。
それは一体、何なのでしょうか。


●老後より確実な未来


PPKってご存じですか。
ピンピンと元気に老いて、病まずにコロリと死ぬ。
略して“ピンピンコロリ”という、
こんな言葉が、はやっています。
少子高齢化に伴い、このように考える人が増え、
年を取っても健康でいるための食生活や運動に、
注目が集まっています。
年金や医療制度については、国会でも喧々囂々の議論がなされ、
制度に対する国民の不審が選挙結果を大きく左右します。
4月に始まった「後期高齢者医療制度」なるネーミングが不評で、
「長寿医療制度」と名前を変えても、
国民の不安はなくならず、
「高齢者の切り捨てだ」
「年を取ったら死ねと言うことか」
と猛反発の声が上がりました。
納めた年金が本当にもらえるのか、
現行の制度で将来に対応できるのか、
誰もが関心を持っています。
老後の生き方を論じる書も多く出版されました。
最近は、独身者だけでなく、
既婚者も伴侶と死別すれば最期は独り、
ということで、死を迎えるまでの独りの生活に
関心が高まっているようです。


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ところが、その先はどうでしょう。
何も語られていません。

たまに死後に言及しているかと思えば、
遺品や遺骨の後始末のこと。
あたかも、電車を降りる時、
座っていた席をだれに譲るか論じているようなものです。
でも、電車を降りる人にとっての一番の問題は、
降りた自分がどこへ行くのか、ということではないでしょうか。


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若死にすれば老後はないが、
死は、すべての人にやってくる100パーセントの未来です。

室町時代の禅僧・一休は、

“門松は 冥土の旅の 一里塚
    めでたくもあり めでたくもなし”

と言いました。
「冥土」とは死後の世界で、
生きるということは、冥土へ向かって旅をしているようなもの。
一日生きれば一日死に近づく。
万人共通の厳粛な事実。

人生の全体が、何か黒々とした闇の中に、
否応なしに引きずり込まれていくような感覚を持っている人は
どれだけあるでしょうか。


 


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硫化水素の自殺者が後を絶ちません。
きっかけは、インターネットで、
楽に死ねる方法として紹介されたことでした。
しかし、硫化水素自殺を図り、
途中で外に飛び出した29歳の女性は、
「ネットに書いてあったのとは逆で、
本当に苦しかった。死ぬことが急に怖くなった」
と告白しています。

また、読者のMさんも、
仏法に出遇う前の体験を次のように記しています。


ネクタイで輪を作り、天井から下げました。
これでもう楽になれると、
輪の中に首を入れたとき、急に「死んだらどうなる?」
と真っ暗な心が出てきたのです。
考えもしなかった恐怖心でした。
「これは死ねない!」と思った瞬間、
体の重さでネクタイがちぎれ、
床にドスンとたたきつけられました。


想像していた死と、眼前に迫った自己の死は、
動物園で見ているトラと、
山中で出くわしたトラほどの違いがあります。
「死んだら楽になれる」と言っている“死”は、
頭で想像している死であり、
襲われる恐れのない檻の中のトラを見ているに過ぎません。
山中で突如バッタリ出会った猛虎ではないのです。


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死を遠くに眺めている時は「死は休息だ」「永眠だ」
「恐ろしくない」と気楽に考えていますが、
いざ直面すると、死後は有るのか、無いのか、
どうなっているのか全く分からない。
最も重要なことを、実は最もおろそかにしていたことに
愕然とし、お先真っ暗な状態にうろたえます。

仏教では、この「死後どうなるか分からない心」を
無明の闇とか、後生暗い心といわれるのです。


●今の私を暗くするもの


すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心であると仏教では教えられています。


なぜでしょう。
未来が暗いと、どうなるか。
例えれば、こうもいえるでしょう。
三日後に大事な試験を控えている学生は、
今から心が暗くなります。
テレビでお笑いを見ていても、
“こんなことをしている場合じゃないのに・・・”
と落ち着かない気持ちになります。
五日後に生死にかかわる大手術を控えた患者に、
「今日だけでも、楽しくやろうや」
と言っても無理でしょう。
逆に一週間後に楽しい旅行が待っているとなると、
今から心がウキウキします。
毎日の仕事や家事は変わらなくても、
楽しい気分でやっているうちに、
いつも以上にはかどった、という人もあるでしょう。


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未来が暗いと現在が暗くなる。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。
死後の不安と現在の不安は、
切り離せないものであることが分かります。
後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

明るい太陽の下、視界がハッキリ開ける時は、
安心して車を走らせることができますが、
前方が深い霧に包まれていると、
だれでも走るのが不安になります。
高速道路のカーブの手前で、
スピードを上げる人はないでしょう。
曲がった先に何が待ち受けているか分からないからです。

後生暗い心とは、今が暗い心です。
確実な未来が分からぬ不安が、
現在の私を覆っているのです。


 


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『千の風になって』という歌が流行し、
「死別の悲しみが慰められた」
「死に対するイメージが変わった」
と言う人もあります。
しかし、私たちの感じ方で
後生の実態が変わるわけではないでしょう。

葬式でこの歌を流し、
一言の説法も無く終わった寺があったそうですが、
これでは仏教になりません。
たとえ一時、悲しみが薄らぎ、慰められたとしても、
必ず来る自己の大問題に対する解決にはなっていないのです。

現世でいいことをやれば魂のステージが上がって、
死後、今よりいい所へ行けると言う人もありますが、
本心から、そう思えるでしょうか。
だれかから言われて、そうかな、と信じているだけでは、
後生の不安はなくなりません。

あなたの心は本当にスッキリ晴れわたっていますか。
「死ねばどうなるのだろう」
「人生をリセットして、また人間に生まれ変わりたい」
「念仏称えているから、極楽へ往けるに間違いない」
「悪いことばかりしているオレは、
どうも地獄へ行く気がする」
後生ハッキリしない心は皆、後生暗い心です。
晴れたかどうか分からないのは、
まだ晴れていないからです。


●後生明るい心になる


この後生暗い心を破り、未来永遠の幸福にしてみせる、
と誓われているのが弥陀の本願であり、
その弥陀の本願一つを説かれたのが仏教なのです。

弥陀の本願とは、
本師本仏と仰がれる阿弥陀仏のなされているお約束のこと。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
とおっしゃっています。
「無碍の光明」とは阿弥陀仏のお力。
弥陀のお力は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、
後生を明るくする、智慧の太陽なのです。

弥陀の光明によって無明の闇(後生暗い心)がブチ破られて、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”と心が一つに定まったことを、
「往生一定」
と蓮如上人は言われています。

いつ息が切れても浄土往生間違いなしと
「後生明るい心」が生まれるのです。

合格発表までの受験生は、大丈夫だろうか、
ダメだろうかと千々(ちぢ)に乱れて定まりませんが、
合格発表を見た瞬間、「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
弥陀の救いは、
決してぼんやりしたものではありません。
また、人の話を聞いて納得し、
「もう助かっているんだ」「死んだら極楽に連れていってくださる」
と自分で信じることでもありません。
「今こそ明らかに知られたり」
と躍り上がる明らかな体験です。


「一念の信心定まらん輩は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑なし」
         (蓮如上人)


仏法を聞き求め、一念の信を獲て、
現在も未来も真に明るい人生を歩ませていただきましょう。


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どんな人も絶対の幸福にする弥陀の強縁 [因果の道理]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


どんな人も

  絶対の幸福にする強縁

 

大阪府の会社社長・小川誠さん(仮名)は数年前に仏縁を結び、

会社と、大阪のシンボル・通天閣を望む高層マンションの

11階にある自宅で勉強会を開いています。

「社員も聞いていますよ。仕事仲間に、

ゼニじゃ買えん幸福があることを伝えたいんです」

と語るナニワの社長に、仏法とのどんな出遇いがあったのでしょう。

小川さんの手記を通して今月は、仏教の根幹・因果の道理

学びます。

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「仏法は

 めっちゃええ教え

    聞かな損や」

       大阪府 小川誠さん

 

●賭け事に振り回されて

 

18年前、結婚まで考えていた彼女が末期ガンで入院しました。

何とか治ってほしいと、両親の影響で幼い頃から信じていた、

ある新興宗教にすがったのです。

どんな病も治す神サマがおって、両親も熱心に信じとるから、

効く人には効くんやろうと、信じておったんです。

ところが願いもむなしく、彼女は27歳の若さで、

私の手を握ったまま亡くなったのです。

もう、宗教なんか二度と信じるか、と思いました。

 

無類の博打好き、ギャンブル依存症だった私は、

彼女の死後、寂しさからさらにのめり込みました。

一回の賭けに数百万円をつぎ込み、

大負けして多額の借金を作ったことも。

バカなもので、そうなるとますます大博打で勝とうとして

傷を広げるんです。

給料で返せないほど借金が膨れ上がり、

悩んだ挙げ句、会社を辞めて独立。

仕事は真面目だったので順調に借金も返済し、

貯金もできましたが、依然、博打打ちは治りません。

やがて、商売よりも博打につぎ込む額が桁違いになり、

貯金は再び借金に逆戻り。

そしてある時、ボロ負けして仕事の業者への支払いが

できなくなってしまいました。

その時、悪友の誘いに乗り、人の道まで踏み外してしまったのです。

後悔と懺悔の日々、周囲の厚意で立ち直り、

しばらくは真面目に働き、借金も返済、

再び貯金ができました。

ところが、数年後にはまたしても

博打を繰り返してしまっていたのです。

 

●仏法との出遇い

 

その頃、ふとしたことで知り合った人に誘われて

仏教講座に参加しました。

「宗教なんて・・・」と思っていましたが、

理路整然とした因果律の教えを聞き、

「さすがお釈迦さまや。これは他の宗教とはちゃう。

聞かな損や」

と続けて聞きたくなったのです。

しばらくして親鸞聖人の、

「さるべき強縁の催(もよお)せば、

如何なる振舞もすべし」   (歎異抄)

というお言葉を学びました。

親鸞さまでさえ、縁が来れば「どんな恐ろしいことでもする」と

仰っている。

よくないと知りつつ、賭博や借金を重ね、

悪に手を染めてきた己の過去を思い出し、

メモを取る手が止まり、あふれる涙を抑えられませんでした。

 

●「ホンマ、縁って大事やなぁ」

 

そして、ギャンブル依存症だった私が、

いつしか続けて聞法せずにいられなくなったのです。

一方で聞法のご縁がないと〝聞きたくない〟弱い心になる。

親鸞聖人の尊敬される中国の善導大師が

「白道(聞法心)四、五寸」と言われ、

仏法に向かう聞法心が細く、弱い善導だと仰っていることを

知りました。

善導大師のような偉い方でもそうなら、自分は、

なおさらよい環境を求めねばならぬと、

自宅と会社で勉強会を開くようになったのです。

常に法友に囲まれ、博打を打つ心も時間もなくなりました。

そして今度は、自分が身近な人と仏法を結ぶ縁になりたい、

今まで苦労かけた両親に仏法を伝えたいと思ったのです。

仏教講師から、〝言葉で話をするよりも言動を改め、

ひたすら感謝の言葉をかけ続けなさい〟と教わり、

優しく接したり、母の日にプレゼントしたところ、

「仏教を聞き始めて、百八十度変わった。

よかったね」

と両親から喜んでもらえました。

また仏法では、挨拶や返事、時間や約束、

整理整頓など、よい習慣を身につけることが

大切だと教えられます。

それがその人の徳となり、生きる力となるのです。

そこで会社で早速、整理整頓の大切さを伝え、

皆で掃除をしたところ、社員も感心して話に耳を

傾けるようになりました。

仏法はめっちゃええ教えやから、

多くの人に聞いてもらいたい。

ホンマ、縁って大事やなあ、と思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  仏教は「自業自得の教え」

 

小川さんが感動した仏教とはどんな教えなのでしょうか。

仏教とは、2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまの

教えです。

仏法ともいい、三世十方を貫く道理が説かれています。

三世十方を貫くとは、いつでも(三世)どこでも(十方)

変わらないこと。

どの国に行っても、たとえ宇宙に飛び出しても

間違いのない真理で、それは仏教の根幹である

因果の道理であります。

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因果の道理とは一口で言えば、人間の運命は全て「自業自得

であると説く教えです。

これはよく耳にする言葉でしょう。

「彼があんな目に遭ったのは、ふだんの行いが悪いせい。

自業自得だ」

などと言います。

悪い事例にばかり使われますが、

本来は善いのも悪いのも、人間の全ての運命は

「自業自得」にほかなりません。

因果の道理は、私たちが最も知りたい運命の原因と

結果の関係を教えられているのです。

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ここで因とは行為のこと。

果は運命(仏教では本来、使わない言葉ですが)。

私の禍・福(幸・不幸)は全て、

私の行為が生み出したもので、万が一にも例外はない、

と教えられています。

行為(業)と聞けば、一般には身(からだ)の行いと思いますが、

仏教では心と口と身の3とおりあると教えます。

この身口意で造る行為(三業)が、目に見えない力(業力、業因)

となって、私たちの阿頼耶識という永遠の生命に

蓄えられるのです。

阿頼耶とは、インドの言葉で「蔵」の意。

阿頼耶識とは、私の業力を全て蓄える蔵のような心です。

過去、現在、未来にわたって続く永遠不滅の生命であり、

その実体は「暴流のごとし」と説かれています。

暴流とは滝のこと。

滝は遠くからは一枚の白布を垂らしたように見えますが、

実際は無数の水滴が激しく変化しながら流れています。

阿頼耶識は、私たちの毎日の身口意の行為(業力)を

全ておさめ、蓄え、絶えず変化しながら、

過去から現在、そして未来へと続いていくのです。

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●現在におさまる「三世」とは?

 

自分に現れる結果の一切は、私の過去の行為が生み出したもの。

未来、私が受ける運命の原因は、現在、

私がつくり続けているのです。

これをお釈迦さまは、

 

汝ら、過去の因を知らんと欲すれば

現在の果を見よ。

未来の果を知らんと欲すれば

現在の因を見よ

                 (因果経)

と説かれています。

〝過去の種まき(行為)を知りたければ、

現在の結果を見なさい。

未来の運命が知りたければ、

現在の種まきを見なさい。

分かりますよ〟

これは、現在を見れば過去も未来も、皆分かる。

現在は過去と未来を包含しているのだよ、との教導です。

ここで言われる「過去」とは、吐いた息であり、

昨日であり、去年であり、

もっと広げれば生まれる前の過去世のこと。

「現在」とは、今の一息であり、今日であり、

今年であり、今生の現在世です。

「未来」とは吸う息であり、明日であり、来年であり、

もっと開けば死後、未来世のことです。

過去と未来は現在の一息におさまり、

広げれば過去世、現在世、未来世の三世となります。

因果の道理は今生だけでなく、

三世を貫く「三世因果の理法」なのです。

三世と聞くと、親、子、孫の三世代のことと思う人がありますが、

仏教では、一人一人に、人間として生まれる前の過去世、

今生きている現在世、死後の未来世と、

三世の実在が厳然と教えられています。

このように、過去の種まきによって現在の運命が決まり、

現在の種まきによって未来の運命が作られる、

とお釈迦さまは教えられているのです。

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この因果の道理を知った小川さんは、

未来を変えたいと、両親への優しい心遣いや会社の掃除など、

自身の言動を大きく変えていきました。

お釈迦さまの教導は皆、善の勧めですから、

その実践は全て幸せの種まきとなります。

 

●すべては因縁あってのこと

 

もう一つ、小川さんが痛感したのが

「縁の大事さ」だといいます。

 

縁とは原因が結果となるのを助けるものをいいます。

一切法(万物)は因縁生なり

全ては、因と縁が結合して生じたもの

と、お釈迦さまは仰せです。

例えば米という結果の原因はモミダネ。

このモミダネがなければ、絶対に芽が出ません。

しかし、モミダネだけでも米はできない。

土や水、空気、陽気や農家の方の手間隙(てまひま)が

あってようやく実りを手にできる。

これらを縁というのです。

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種々の運命が私たちの上に現れるのは、

三世を流れる阿頼耶識(永遠の生命)に

蓄積された業因が縁と和合してのことです。

今秋、世界を沸かせたラクビーワールドカップでの

日本代表の躍進は、エディー・ジョーンズ監督の

厳しい指導によるところが大きいといわれます。

(2015年のとどろきです)

この場合、監督の指導という縁によって、

世界一過酷といわれる練習を重ね、

その努力(因)がワールドカップ3勝という

空前の結果となったのです。

同じチームでも、指導者や環境などによって結果は

大変わりしますから、縁の重要性が知らされます。

 

「善知識・同行に親近せよ」

 

仏法を求める時には、善知識(先生)・同行(友達)という

縁が大切です。

小川さんは、そのありがたさをこう述懐しています。

「朝夕の勤行(おつとめ)が大事だと教えてもらった時、

仕事のつきあいで夜中まで飲んだりする自分には

難しいなと思いました。

ところが初めに誘ってくれた法友が毎朝、

私の会社に来て、一緒に勤行してくれたのです。

おかげで毎日勤行ができたんです。

とてもありがたかった」

自己の弱い心と向き合えば、

法友や環境に親近する大切さも知らされ、

一歩一歩光に向かっていくのです。

 

この「善知識・同行に親近せよ」の教導がいかに大事か。

悪師に翻弄されながら、お釈迦さまと出会って

生まれ変わった仏弟子から学びましょう。

 

釈尊(お釈迦さま)が生存中、コーサラ国の、

ある外道の弟子に、才知、弁舌、体力ともに優れた

オークツマラという美青年がいた。

彼の師の妻は、その魅力に引かれ、

あろうことか夫の不在を計って密通を迫った。

物堅い彼は、断固その誘惑を拒み、

彼女の不倫をいさめる。

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女の身の恥ずかしさ口惜しさに打ちしおれ、

すごすごと彼女はその場を立ち去ったが、

やがて狂わんばかりの愛恋は激しい憎悪となって、

恐ろしい復讐を企んだ。

たまたま夫の帰宅を見計らい、自らの着衣を引き裂き、

下半身あらわな姿で床の上に打ち倒れたまま、

不在中のオークツマラに不倫の恋を強いられ、

こんな辱めを受けたと涙ながらに訴えたのである。

愕然とした夫は、激しい嫉妬に燃え、

平凡な一時的な復讐よりも自滅に仕向け、

永遠の辛酸(しんさん)をなめさせてやろうと考えた。

そこでさりげなく彼を呼んで、こう命じる。

「おまえはもう、ワシの全ての教えを修得した。

後はただ一つ、この剣で街の辻に立って100人を殺し、

一人一人より一本の指を切り取って、

首飾りとするがよい。

さすれば、おまえのさとりの道は成就するであろう」

と一口の剣を渡した。

意外な残忍な行為を命じられ、彼は一時躊躇したが、

師命に逆らうことはできなかった。

憤然と意を決して街頭に立ち、

阿修羅のごとく道行く老少男女を問わず殺害し、

それらの指を切ってつなぎ、

見る見るうちに紅に染まった鬘(かずら・首や身体の飾り)を

作り上げ、ついに99人までになる。

この噂はたちまち四方に伝わり、

誰言うとなく彼をオークツマラ(指鬘・しまん)と呼んだ。

狂気のごとくあと一人を狙っていた時、

100人目に現れたのがなんと〝生みの母〟と

〝お釈迦さま〟であった。

誰からともなくわが子の恐ろしいふるまいを聞いた母が、

驚いてやってきたのだ。

彼はもはや、誰彼の見境もなかったが、

釈尊目掛けて猛然と襲いかかった。

ところがどうしたことか、一歩も前進できない。

彼は焦って鋭く叫ぶ。

「沙門(しゃもん)よ、止まれ!」

お釈迦さまは、静かに応じられる。

「我は止まれり。止まらざるは汝なり」

不可解な答えに、彼は驚いてワケを尋ねる。

そなたは邪教にだまされて、

みだりに人命を奪おうと焦っている。

だから少しも身も心も安らかになれぬのだ。

私を見よ。生死を超えて何ら煩うところがない。

惑(まど)える者よ。早く悪夢より覚めて無上道に入れ

お釈迦さまの尊容と無上の威徳に接して、

さしもの悪魔外道も慟哭し、たちまち敬虔な仏弟子となっている。

「わが弟子の中、法を聞いて早くさとること、
(さとるとは、阿弥陀仏に救われたということです)

指鬘(しまん)のように勝れた者はなし」

とお釈迦さまは言われたという。

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●弥陀の救いと因果の道理

 

ではお釈迦さまが宇宙の真理である因果の道理を説かれ、

廃悪修善(悪い行いをやめて善を修めよ)の教えを

勧められた真の目的は何でしょう。

親鸞聖人は『正信偈』にズバリ、

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

釈迦が仏教を説かれたのは、

「阿弥陀仏の本願」唯一つを説くためであった

 

と明らかにされています。

阿弥陀仏の本願とは、大宇宙にまします仏方の

本師本仏(先生)である阿弥陀仏が、

「どんな人も

必ず絶対の幸福に救う」

と命懸けで誓われたお約束です。

親鸞聖人は、釈迦一代の教えは、

この弥陀の本願を明らかにするためだったと断言され、

その教えに従ってご自身も、

弥陀の本願一つを生涯、明らかにされたのです。

 

因果の道理を信じ、真剣に修善に向かうと、

知らされるのは、まことの善のできない自己の姿。

こんな者は弥陀の本願によらねば毛頭救われないことが

知らされてきます。

そして弥陀の本願に明らかに救い摂られた時、

本当の自分とはどんな者であったのか、

ハッキリ知らされます。

 

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし

縁さえあれば、どんなことでもやる親鸞である

 

これは阿弥陀仏の光明によって照らし抜かれた自身の姿を、

親鸞聖人が告白なされたお言葉です。

「縁さえ来れば、どんなことでもする」

とは、「どんな業因(ごういん)でも持っている」ということ。

遠い過去世から生死を繰り返しながら、

私たちはいかなる行いをもし、

あらゆる業因を造ってきた。

だから縁次第ではいかなることもしでかし、

どんな結果も受けるだろう、と親鸞聖人は仰るのです。

これは聖人だけのことではありません。

阿弥陀仏は十方衆生(すべての人)を

「煩悩具足の凡夫(煩悩の塊の人間)」とか

「一生造悪(死ぬまで悪しか造れぬ)の者」と

見て取られ、そんな極悪の者を、

「一念に絶対の幸福(往生一定)に救う」と誓われています。

弥陀の本願は何と値(あ)い難く、

強い縁(強縁)であったのか、どれだけの生死を経ても

毛頭あえぬ救いにあえた、と親鸞聖人は

 

「噫(ああ)、弘誓(ぐぜい)の強縁は

多生にも値(もうあ)い難く、

真実の浄信は億劫にも獲がたし」

(ああ・・・不思議なるかなや、親鸞は今、

多生億劫の永い間、求め続けてきた

歓喜の生命を得ることができた。

これは全く、弥陀の強いお力によってであった。

深く感謝せずにおれない)

 

と高らかに宣言なさっています。

このご本願を聞き求める以上の尊い仏縁はなく、

この強縁にあわずして、誰一人、真の幸福にはなれません。

弥陀の本願に救われるには「聴聞に極まる」。

仏法は聞く一つですから、

〝こんな私が本当に助かるのだろうか〟

と疑い計らってモタモタせずに、

真剣に弥陀の本願を聞きなさいと勧められています。

尊き仏縁を求めて、真剣に弥陀の本願を

聞いていただきたいと思います。

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弥陀の放たれる真実の弾(たま)が心の闇を晴らす! [お寺の役割とは]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


お寺の中には

  「陣」(戦場)がある

 

   弥陀の放たれる

    真実の弾が

    心の闇を晴らす

 

「お寺は何をする所?」

と尋ねると、ほとんどの人は首をかしげます。

葬式や読経など、死んだ人の供養をする所だと思っていたり、

あるいは「分からない」と答える人も少なくありません。

正解はーーーー。

「寺は仏法を聞く所」です。

 

仏法を説かれたお釈迦さまは、今から約2600年前、

インドのある王様夫婦の子供として誕生されました。

何不自由のない日々でしたが、人間に生まれた以上、

生・老・病・死の苦悩は逃れられぬと知り、

どんな幸せも続かないことに深く悩まれたのです。

〝苦しくても、なぜ生きる〟

その答えを求めて勤苦6年、想像を絶する厳しい修行に

打ち込まれ、35歳の12月8日、ついに仏のさとりを成就されました。

そして、無上殊勝の本願を建てられている

阿弥陀仏のましますことを明らかに知らされたのです。

 

釈迦一代の教えは、全て7千余巻の一切経に収まっています。

その一切経を何度も読まれた親鸞聖人は、『正信偈』に

 

如来所以興出世

唯説弥陀本願海

(如来世に興出したまう所以は、

ただ弥陀の本願海を説かんがためなり)

 

と仰り、釈迦は一生涯、「阿弥陀仏の本願」(弥陀の本願海)

ただ一つを説かれたのだと断言されています。

この阿弥陀仏の本願こそ、古今東西すべての人が

求めてやまない「なぜ生きる」の答えだと、

親鸞聖人は明らかになされました。

 

●阿弥陀仏の本願とは

 

では、阿弥陀仏の本願とは何でしょうか。

阿弥陀仏とは、大宇宙に無数にまします仏方(十方諸仏)の

王様であり、本師本仏ともいわれます。

大宇宙で最も尊いその阿弥陀仏が、

「どんな人も

 必ず絶対の幸福に助ける」

という約束をなされている。

それが「阿弥陀仏の本願」です。

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親鸞聖人はこの阿弥陀仏の本願を、主著『教行信証』の冒頭に

「難思の弘誓」と仰っています。

 

難思の弘誓は難度の海を度する大船(教行信証総序)

 

苦しみ悩みの絶えない人生は、

荒波の絶えない海のようなものですから

「難度の海」と言われます。

その人生の苦海を、明るく楽しく渡してくださる大船に

例えられているのが、阿弥陀仏の本願です。

 

●どんな人も渡り難い人生の海

 

「人生は苦なり」

これはお釈迦さまのお言葉です。

王様の子として何もかも恵まれておりながら、

一体、何の苦しみが?と思われますが、

どんな人も苦しみから逃れて生きることはできない、皆、

難度海で溺れ苦しんでいると仏教では教えられています。

そう言うと、「苦しみがあるから楽しみもあるんじゃないの?

楽しいだけなんて、そんなの幸せじゃない」。

そんな声も聞こえてきます。

確かに、乗り越えた困難が大きいほど、

つかむ喜びもまた格別。

スポーツでも学問でも、仕事でもそうです。

〝人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る〟

苦しみがあるから人間は磨かれる。

苦しみを乗り越えて生きる姿こそ素晴らしい、

そう考える人も多いでしょう。

ただそれは、命あっての物ダネです。

人の命は決して長くはありません。

平成に入ってはや30年たちましたが、

振り返ればあっという間でした。

(2018年のとどろきです)

過ぎた30年がアッという間なら、

たとえ100年生きたにせよ、振り返れば、

アッ、アッ、アッ、で終わります。

 

凡(およ)そはかなきものは、この世の始中終、

幻の如くなる一期なり   (御文章5帖目16通)

 

蓮如上人の有名な「白骨の御文」の一節にもあるとおり、

はかないものとは、幻のように過ぎ去る人の

一生ではないでしょうか。

 

●〝死にともない〟が本心

 

皆、老いて死んでいくのだから、そう深刻に考えず、

今を楽しめばいい。

死んだら死んだ時さ、と楽観する人もあるでしょうが、

こんな話があります。

 

奈良県の有名なポックリ寺に、大阪の婦人会の人たちが

訪れました。

長患いで苦しんだり、家族に迷惑をかけるのは嫌だから、

どうかポックリ死ねますようにと、

皆で願掛けをしたのです。

ところが3日後、その中の一人が本当にポックリ死んでしまった。

こうなると〝あの寺のゴリヤクはほんまや〟

〝霊験あらたかや〟と大騒ぎになり、それからというもの

「次はあんたの番や」「いやあんたこそ、真剣に頼んでおったで」

と、仲間内でゴリヤクの押しつけ合いが始まったのです。

ちょっとした頭痛や腹痛がしようものなら

「いよいよ自分の番か」と戦々恐々。

これではもうやってられんと、また皆でポックリ寺へ、

前回の祈願の取り下げに行ったそうな。

「ポックリ死ねたらええなあ」と「考えている死」は

怖くはありませんが、いざ本当に迫ってくると

慌てふためきます。

誰かが言った〝冷や飯食うても娑婆におりたい〟が、

我々の本心でしょう。

九州博多の名僧・仙がい。

いよいよ臨終という時に、弟子たちが最後の言葉を依頼した。

「先生、何かお言葉を」

差し出す色紙に、仙がいが一筆、

「死にともない、死にともない」ーーー。

尊い言葉を期待していた弟子たちはビックリ仰天。

これでは師の名声を汚しはしまいかと案じた弟子が、

「今のお言葉もまことにけっこうではございますが、

何とぞ、もう一言」

と再度の依頼。すると仙がい、先の言葉の上に、

「ほんまに、ほんまに」

と書き加えたという。

いかなる名僧も、死にたくないのが本音のようです。

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誰だって墓場へ近づくのはまっぴらごめんですが、

嫌じゃ嫌じゃと言いながら、皆、

墓場へと向かっているのです。

 

上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、

逃れ難きは無常なり    (御文章3帖目4通)

 

上はお釈迦さまのような偉人から、

下はその釈迦殺しを企てた極悪の提婆(だいば)まで、

「死」だけは何人も逃れられません。

死ぬことを「旅立つ」といいますが、最後は誰もが、

否応なく後生へ旅立たなければならない。

どこへ行くか分からず、誰も連れ立ってはくれず、

たった独りで逝くのです。

そんな暗い未来に向かう日々が、

心から明るくなる道理がありません。

幾ら明るく楽しくふるまっていても、

いずれ寂しい本心が顔を出します。

 

「おもしろうて

 やがて悲しき 鵜舟哉(うぶねかな)」(芭蕉)

 

花火の消えた夜空の闇が深いように、

華やかな楽しみの去ったあとほど、

独りになるとやりきれないもの。

その心の穴を埋めずにいられないから、

酒やタバコ、ゲームやテレビ、ファッションや買い物、

スマホに依存するので、趣味や生きがいなど一切は、

ごまかしだとフランスの哲学者・パスカルも言っています。

これでは、私たちは何のために生まれてきたのか、

何のために生きているのか分かりません。

 

●光明の広海に浮かぶ

 

そんな苦悩に溺れるすべての人を、必ず大きな船に乗せ、

現在ただ今、絶対の幸福に救うと誓われているのが、

本師本仏の阿弥陀仏です。

この大船は、極楽浄土(無量光明土)への直行便ですから、

この船に乗せられると同時に、

往く手は限りなく明るい未来にガラリと変わります。

 

親鸞聖人は、阿弥陀仏のお約束どおり大船に乗られ、

苦悩渦巻く人生が、光明輝く人生に転じた驚きと

喜びをこう仰っています。

 

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、

至徳の風静(しずか)に衆禍の波転ず

            (教行信証行巻)

 

(阿弥陀仏の造られた大悲の願船に乗じて見る

難度の海〈人生〉は、千波万波がきらめく明るい

広い海ではないか。

順風に帆を揚げる航海のように、

何と生きるとは素晴らしいことなのか)

 

親鸞聖人は、この身になるための人生だったと

明らかに知らされ、これこそ「なぜ生きる」の答えであると、

90年の生涯、徹底して伝えていかれたのです。

 

●弥陀の救いは「聞く一つ」

 

では、どうすればこの大船に乗せていただけるのか。

それは、阿弥陀仏の本願を熟知されている、

お釈迦さまにお聞きするよりありません。

お釈迦さまは、『大無量寿経』の本願成就文に、

聞其名号」(その名号を聞く一つ)

と教えられています。

名号を聞くとは、阿弥陀仏の本願(南無阿弥陀仏)を

聞くということです。

ところが私たちは、阿弥陀仏が

「聞く一つで必ず、絶対の幸福に救う」

と、命を懸けて誓われている本願を、

素直に聞くことができません。

「絶対の幸福なんて本当にあるんだろうか」

「この世で助かることなんて、あるの?」

「聞く一つ?ほかに修行や学問が要るんじゃない」

「聞いてもすぐ忘れる私は、無理だよね」

「すぐ腹立てる人は、ダメでしょ」

等々、いろいろな疑いが必ず出てきます。

この「阿弥陀仏の本願を疑う心」を疑情(ぎじょう)といい、

また自力ともいいます。

この自力疑情のある間は、

絶対に弥陀の願船に乗ることはできません。

ですから阿弥陀仏は、私たちの「疑い」を一念で、

必ず晴らしてみせると命を懸けられているのです。

そのお約束どおり大悲の願船に乗せられると同時に、

自力(疑情)は一切なくなります。

その弥陀の本願力を他力といいます。

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世間では、他力というと他人の力や天地自然のことだと思い、

他人まかせの無責任な言動を「他力本願」などと言っていますが、

とんでもない誤りです。

大事な仏教の言葉ですから、

正しい意味で使わないと仏教を大きく誤解させる元になります。

他力とは、阿弥陀仏の本願力のみをいうのです。

 

●聞法は自力と他力の一騎打ち

 

お寺とは、この阿弥陀仏の本願を聞く所です。

その寺の本堂は「内陣」と「外陣(げじん)」とに別れています。

内陣は外陣より一段高く、阿弥陀仏がご安置され、

善知識が阿弥陀仏の本願を説く所。

外陣は、私たちが善知識の説法を聞かせていただく場所で、

正座で聞けるように畳が敷かれています。

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「陣」とは、合戦とか軍隊の集結している所をいいますが、

なぜお寺にこんな物騒な字が使われているのでしょう。

聞法とは、熾烈(しれつ)な戦いだからです。

内陣からは、今宵も知れぬ命だぞ、

早く大悲の願船に乗りなさいと、

善知識の説法を通して、南無阿弥陀仏(弥陀の本願力)の

真実の弾(たま)が打ち込まれます。

一方、外陣の私たちは、体は聞法の場に座っていても、

心は金や名誉、色恋(いろこい)や趣味に奔走し、

少しも真面目に聞こうとしません。

余命いくばくもない、弥陀の本願より救いはないと

理屈は重々分かっていても、まだまだ死なんとのんびり構え、

弥陀の本願を疑いはねつける自力疑情の弾を、

外陣から打ち返すのです。

この自力と他力の一騎打ちが聞法であり、

その火花散る場所が寺なのです。

阿弥陀仏の本願力は、必ず私たちの自力疑情を破り、

救い摂ってくださいます。

その時が大悲の願船に乗せられた一念です。

 

阿弥陀仏の本願に疑いが晴れ、大悲の願船に

乗じられた親鸞聖人のお言葉が、

 

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ 

           (教行信証総序)

 

「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」もともに

阿弥陀仏の本願のことです。

聞けば必ず「まことであった」と知らされるから、

そこまで聞きなさい。

あれこれ迷って千載一遇の聞法のチャンスを

逃してはなりませんよ、

早く大悲の願船に乗せていただくところまで

進みなさいと、親鸞聖人は真剣な聞法一つを

勧められているのです。

 

たとい大千世界に

満てらん火をも過ぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

       (浄土和讃)

(たとい、大宇宙が火の海になろうとも、

その中、弥陀の本願聞き抜く人は、

必ず不滅の幸せに輝くのだ)


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お寺は本来「なぜ生きる」を説くところです! [お寺の役割とは]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

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「寺が消える!?」

 

テレビ番組や新聞紙面でも「寺が消える」という

話題がしばしば取り上げられています。

仏教文化の中で育った日本人にとって

避けては通れない話だからでしょう。

 

『寺院消滅』(鵜飼秀徳著、日経BP社)という本が出て

話題を呼んだのは3年前。

それによると、寺院は全国に7万7千ヵ寺。

このうち住職がいない「無住寺院」は2万ヵ寺という。

他の寺の住職が兼任すれば、寺は存続できるが、

そのような住職もなく活動できない「不活動寺院」は、

2千ヵ寺に上る。

さらに、約20年後には現在の3割の寺院が消滅するのでは

ないかと言われています。

(2018年のとどろきです)

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寺院に関するこうした問題を、

本誌昨年11月号の特集「『お寺』って何?」でも取り上げたところ、

多くのお便りを頂いたので、一部を紹介します。

 

○長野県・男性(69)

「お寺では法話がなく、寂しい限りです。

もっと皆で仏教の教えを聞くご縁があれば、

人を思いやる和やかな世に少しでも変わっていくと思います」

 

○北海道・女性(75)

「今のお寺は仏教伝道の役割を果たしてないと思います。

お寺は門徒の心情に添い、

教えを伝える場となってほしいと願っています。

 

○兵庫県・男性(54)

「今のお寺には、死んだ人を供養する場所という

イメージがありますが、本来は仏教の教えを説く所でしょう。

若い人でも気楽に行って教えを聞けるように

なってもらいたいのにと思います。

 

 

このような意見に共通するのは、

「子供の頃は、お寺にはたくさんの人が集まって

にぎやかだった」

けれど、今は

「死んだ人が相手の場所」

「仏像に向かってお経を上げるだけ」

「宗教ビジネスに熱心」

となり、私たちの生活と接点がなくなってきた、

という指摘です。

仏教とはそもそも、お釈迦さまが生きた人を相手に、

苦しみ悩みを解決する道を説かれたもので、

お経とは、その教えをお弟子方が記録したものなのです。

それなのに今日の仏教は、

死人ばかりを相手にし、生きた人に教えを説いていないことに

不満、疑問があるようです。

寺院の住職さんからも次のような声が寄せられています。

 

「私は説法できないので布教使を招待してきましたが、

世間話が大半で、親鸞聖人のお言葉が聞けないので、

門徒さんに申し訳なく思っています。

寺に人が来なくなるのは当然の結果かもしれません」

              (石川県・80代住職)

 

「浄土真宗の寺は親鸞聖人の教えを伝える所ですが、

それができていないと思います。

まず、僧侶が親鸞聖人のお言葉の意味を知っていなければ、

寺が存在する意味はなくなります。

これが寺院衰退の大きな要因だと思います」

           (岐阜県・50代住職)

 

●「どう生きる」より

   大事な「なぜ生きる」

 

こうした反省から、様々な悩みを抱える人たちの相談に乗り、

「こんな生き方もあるのでは?」と、

生き方をアドバイスする取り組みが、最近、

寺でもなされているようです。

励ましや、慰め、反省させたり、勇気づけたり。

そういう話に、

「何だか気持ちがラクになった」

「明日からまた頑張ります」

と来た人が喜んで帰っていく。

これが「本来の寺の姿」と思う人もあるでしょう。

しかし、このような「どう生きるか」という話も大事ですが、

もっと大事なことを忘れてはいないでしょうか。

それは「なぜ生きる」の一大事です。

例えば、「どう歩く」という歩き方も大事ですが、

もっと大事なのは、「なぜ歩く」、歩く目的でしょう。

会社に行く、買い物をするなど、まず目的があって、

その次に、そこまでどう歩くのかという

「歩き方」が問題になるのです。

ところが、肝心の目的地が分からなければ、

どのように歩いたところで、歩く苦労が皆、

無駄になってしまいます。

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私たちの人生も同じ。

「なぜ生きる」が定まって初めて、

「どう生きる」が問題になるのです。

「なぜ生きる」の一大事が分からねば、

どう生きようと、禅僧一休が歌うように、

 

〈人生は 食て寝て起きて クソたれて

  子は親となる 子は親となる〉。

〈世の中の 娘が嫁と 花咲いて

  嬶としぼんで 婆と散りゆく〉

 

悩んだり励まされたりしながら、結局、

一生、台所と便所の間を行ったり来たり。

その間、娘さんが嫁となり、やがて嬶といわれ、

おばあさんに変貌する。

どんなに健康に気を遣っていても、

せいぜい50年から100年の人生。

長いようで振り返れば、あっという間です。

散りゆく定めの人生なら、

何ために生まれてきたのか?

人は、なぜ生きるのでしょうか?

 

●人生に

   後悔を残すな

 

お釈迦さまの説かれたお経に、

次のようなお話があります。

 

昔、ある男が3人の妻を持って楽しんでいた。

1番目の夫人を最もかわいがり、暑さ寒さにも気を遣い、

ゼイタクの限りを尽くさせ、一度も機嫌を損なうことはなかった。

2番目の夫人は、それほどではなかったが、

種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、

いつも自分のそばにおいて楽しんでいた。

3番目の夫人は、何か寂しい時や悲しい時や困った時にだけ

会って楽しむ程度であった。

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ところがやがて、その男が不治の病に伏す。

刻々と迫りくる死の影に恐れおののいたかれは、

1番目の夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、

ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ、ところが、

「他のこととは違って、死の道連れだけは、

お受けすることはできません」。

すげない返事に、男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし寂しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで

2番目の夫人に頼んでみた。

「あなたがあれほど、かわいがっていた方でさえ、

イヤと仰ったじゃありませんか。

私もまっぴらごめんでございます。

あなたが私を求められたのは、あなたの勝手。

私から頼んだのではありません」

案の定、返事は冷たいものであった。

男は、恐る恐る3番目の夫人にすがってみた。

「日頃のご恩は、決して忘れてはいませんから、

村外れまで同道させていただきましょう。

しかし、そのあとはどうか、堪忍してください」

と突き放されてしまった。

 

これは『雑阿含経』に説かれている有名なお話ですが、

何を例えられているのでしょうか。

男というのは、我々人間のことです。

1番目の夫人とは「肉体」、

2番目の夫人は「お金や財産」、

3番目の夫人は「父母・妻子・兄弟・朋友」

などを例えられているのです。

 

どんなに幸せをつかんでも、いざ後生と踏み出すと、

今まで命に代えて大事に愛し求めてきた一切のものから

見放されてしまい、何一つあて力になるものがなかったことに

驚き悲しむのです。

 

 

●「なぜ生きる」の問いに

   答える仏教

 

蓮如上人は『御文章』に次のように

教えられています。

 

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ」

病にかかれば妻子が介抱してくれよう。

財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、

日頃、あて力にしている妻子や財宝も、

いざ死ぬ時には何一つ頼りにならない。

一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、

一体、どこへ行くのだろうか

 

死の影が頭をよぎる時、それまでの喜び一切がむなしさを深め、

一体何のために生きてきたのか、〝なぜ生きる〟の問いが

眼前に突きつけられます。

やがて死ぬのになぜ生きる。

どんなに苦しくても、なぜ生きねばならないのか。

古今東西すべての人が知りたいこの問いに、

仏教を説かれたお釈迦さまは、

それは死に直面しても崩れぬ「絶対の幸福」になることだと

ハッキリ教えられています。

そして「平生元気な今、誰もがなれる。

だから、早くなりなさい」と勧められているのです。

 

●寺院本来の

   役割の実践を

 

この「なぜ生きる」という問いの答えが仏教であり、

それを伝えるのが僧侶の役目です。

その教えを聞く場所として、

人々が建立してきたのがお寺なのですから、

寺の本堂は、聞法に適した造りになっています。

しかし今日、その本堂で「なぜ生きる」は

説かれているのでしょうか?

ここにこそ、人々が寺から離れ、

寺院が消えていく根本原因があるといえましょう。

 

では、仏教に説かれる「なぜ生きる」の答え、

「絶対の幸福」とはいかなるものか。

またどうしたらなれるのか。

詳しくは次回更新時に載せたいと思います。


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一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか! [後生の一大事]

親鸞聖人は『正信偈』の冒頭2行に
次のように書かれています。 

帰命無量寿如来
南無不可思議光

「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」

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と、弥陀に救われた喜びを
叫ばれた聖人の大歓声であり、
その「救われた」とは、
「後生の一大事」のことであることを、
繰り返し述べてきました。


「後生」とは、一息切れた後。
「死んだらどうなるか」の大問題を、
仏教では「後生の一大事」といわれます。

私たちの百パーセント確実な未来ですから、

「誰の人も、早く後生の一大事を心にかけよ」
             (白骨の御文章)
と蓮如上人は訴えておられるのです。
「一大事」といっても、世間で使われる意味とは、
全く異なります。

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例えば自宅の全焼や会社の倒産などは、
確かに大変な出来事でしょう。
「一大事」と普通は思いますが、
それらはまだやり直しがきく。
火事ならば「焼け太り」もあり、
経営失敗から再起し
大成功する人もあります。
恋人にフラれた心の傷も、
時間が癒してくれるでしょう。
取り返しのつくことは、どんな深刻な事態でも、
仏教では「小事」です。

「一大事」とは、一度起きたならば、
二度と取り返しのつかないことだけをいわれます。

一息一息触れ合っている、この「後生の一大事」を、
親鸞聖人はこう説かれています。

呼吸のあいだ、すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば、万劫にもかえらず。
この時さとらざれば、
仏、衆生をいかがしたまわん。
願わくは深く無常を念じて、
いたずらに後悔をのこすことなかれ

            (教行信証)

一息つがざれば次の生である。
永久に後悔する後生を迎えねばならぬ。
ただ今、救われねば、
いつするというのだろうか。
いつできるというのだろうか。
永遠のチャンスは今しかない。

刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔をのこさぬように
永久に後悔する後生を一大事といわれ、
この一大事の解決を急げ
、とのご文です。

蓮如上人もまた、

命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得(おんこころえ)あるべく候
           (御文章)

生きている時に、
「後生暗い心」が晴れなければ、
必ず後悔しますよ、
仏法は生きている間が勝負なのだ

とお叫びです。

では、なぜ後生に一大事が起きるのか。
「火の車 造る大工はなけれども 
己が造りて 己が乗りゆく」
私に現れる運命のすべては、
他の誰が生み出したものでもない、
全部わが身のまいたタネ。
厳粛な「善因善果 悪因悪果 自因自果」の
因果の大道理にしたがってのことであるのです。

(因果の道理に関しての記事は以下にアクセスしてください。
運命を決めるものは何?

すなわち、まいたタネに応じた結果が、
まいた本人に現れる、
自業自得に寸分の狂いもない、

しかもそれは、現世のみならず
過去・現在・未来の三世を
貫いて成立している

だから後生未来の結果は、
現在の自己のタネまき(行為)を
徹見すれば分かる
のだと、
お釈迦さまは仰せなのです。

では、私たちは日々、
どんな行いをしているでしょうか。

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○心、口、体で犯す十の罪悪

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
「十悪」と教えられています。
貪欲、瞋恚、愚痴、綺語、両舌、
悪口、妄語、殺生、偸盗、邪淫の十の罪です。

初めの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは、
心で犯す罪悪をいいます。
仏教では「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれて、口や身体で犯す罪よりも、
心で思う罪はもっと恐ろしいといわれます。


最初の「貪欲」とは、底の知れない欲の心。
金が欲しい、物が欲しい、
褒められたい、認められたい、
もっともっとという限りない欲に、
私たちはどれだけ恐ろしいことを
思い続けていることでしょう。

「あいつがいなければ」「こいつさえ消えれば」
「あの人が失敗したらいいのに」と、
心で蹴落とし、殺してはいないでしょうか。
親子兄弟、友人、恩人、だれに対してであれ

自分の欲のためには、
どんなことでも平気で浮かんできます。

遺産相続で、兄弟や親戚同士、
骨肉相食む(あいはむ)争いは
この欲の心が引き起こす惨劇です。

その欲が妨げられると、
出てくるのが「瞋恚(しんい)」、
怒りの心です。

「あいつのせいで儲け損なった」
「こいつのせいで恥かかせられた」
と、怒りの心が燃え上がります。

離婚話にカッとなった男が、
部屋に灯油をまき火をつけ、
妻も子供も焼き払った事件がありましたが、
この瞋恚のなせる業(わざ)でしょう。

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次の愚痴」とは、ねたみ、そねみ、恨みの心。
欲を起こしても、怒ってみても、
かなわぬ相手と知ると、
ねたみ、そねみ、うらみの心が

わき上がってはこないでしょうか。

相手の才能や美貌、金や財産、
名誉や地位をねたみ、そねみ、
相手の不幸を喜ぶ悪魔の心。

災難に遭って苦しんでいる人に、
「お気の毒に」と言いながら、
心ではニヤリとする心です。
親鸞聖人は、ヘビやサソリを見たときのような、
ゾッとする心だといわれています。

これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語となります。
綺語」とは、心にもないお世辞です。
両舌」とは二枚舌ともいわれ、
仲のよい人の間を裂いて、
仲悪くするようなことを言うこと。
悪口」とは、中傷でありワル口のこと。
妄語」とは事実無根のウソをつくことです。

これらの言葉で、
深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。

「『2ちゃんねる』さえなければ、と思った。
ネットの怖さをもっと分かってほしい」。
インターネット掲示板の誹謗で被害を受けた、
ある学校法人の学園長は、
いわれなき中傷に翻弄された二年間を
苦渋の表情で振り返ったといいます。
元生徒の父親の心ない書き込みに、
多くの者が「祭り」と称して便乗したものと確認され、
父親は罰金刑。
ネット上には、匿名を利用した
悪質な中傷があふれています。
言ったほうは自覚がなくても、
言われたほうは死ぬまで忘れられないもの。
面白半分の言葉が、どれだけの人を苦しめ傷つけ、
殺しているかしれません。

さらに、体では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
殺生」とは生き物を殺すこと、
偸盗」は他人のものを盗むこと、
邪淫」はよこしまな男女関係をいいます。

このように、心や口や体で
十悪を造り続けているのが
私たちだと、教えられているのが仏教です。

●親を殺す五逆の大罪

その「十悪」よりも重いのが「五逆罪」。
五つの恐ろしい罪のことですが、
中でも最初に挙げられているのが、
親殺しの罪です。
十六歳の少年が金属バットで
お母さんを殴り殺したとか、
五十代の男が年老いた母親を
刺し殺したなどという事件が、
時々耳に入ってきます。
赤ん坊のころは、
お乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらったのではありませんか。
病気になれば寝ずに看病してもらったり、
離れていれば、いつも心配してもらって
成長してきたのです。
そんな大恩ある親を自らの手で殺すなど、
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないかとさえ思われます。

仏教では、このような親殺しの大罪は、
最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる恐ろしい
「無間業」であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、このように手にかけて
殺すばかりが親殺しではないのだ
と、

親をそしる者をば五逆の者と申すなり 
            (末灯鈔)
と言われています。
親をそしるのも五逆の罪なのです。
「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、
「うるさい」「あっちへ行け」
などとののしるのも、親を殺しているのです。

また前述のとおり
教では、心を最も重くみられます。
一つ屋根の下に暮らしておりながら、
ろくに口もきかず、食事も別々に取り、
呼ばれても聞こえないふりして
親を邪魔者扱いしているのは、
心で親を殺しています。

親が病気にでもなり
寝たきりになったらどうでしょう。
世話を嫌って、「邪魔だなあ」
「いい加減死んでくれたら」
という、とても他人にはいえない心が
噴き上がってこないでしょうか。


数年前、女手一つで、
四人の男の子を大学まで出させ、
一流企業に入社、
結婚させたお母さんの悲劇が
紹介されていました。


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その四人の兄弟夫婦が集まり、
年老いた母の面倒を誰が見るか、
ということで深夜まで激論したが、
誰一人として面倒を見ると言う者がいなかった。
その一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、
翌朝、電車に飛び込み、自殺したのです。
手にかけて殺さずとも、
私たちは心でどれだけ親を
殺しているか分かりません。

●もっとも恐ろしい謗法罪

「五逆罪」よりも、もっと恐ろしいのが
「謗法罪」です。

謗法」の罪とは、真実の仏法を謗ったり
非難することをいいます。

なぜ仏法を謗ったり非難することが、
そんなに重い罪なのか。
それは、仏教はどんな教えかを知れば、
はっきりとお分かりになるでしょう。

今日も多くの人に尊敬されている
かの聖徳太子は、
有名な十七条憲法に、
仏教を「四生の終帰、万国の極宗」
と言われています。
「四生」とは、生きとし生けるものすべて。
「終帰」とは最後、帰依するところという意味で、
生きとし生けるものの救われる
唯一絶対の教えであるということです。
聖徳太子が断言されているように、
古今東西のすべての人が救われる
たった一本の道が仏教ですから、
「万国の極宗」とも言われているのです。

親鸞聖人は、
九十五種世をけがす、唯仏一道きよくます
ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異抄
私たちを真に救いきる教えは
仏教以外にないぞ、
弥陀の本願念仏のほかに
助かる道はないのだよ

と、明言されています。
そんな仏教を謗り、
弥陀の本願念仏を非難することは、
すべての人の救われる
たった一本の道をぶち壊すことですから、
こんな恐ろしいことはありません。

それは何十億、何百億、幾億兆の人を
地獄へ突き落とすことになりますから、
これ以上重い罪はないのです。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまう  

        (正像末和讃)

「最尊の念仏を謗る者の報いは恐ろしい。
必ず阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて
八万劫という永い間、
ひまなく大苦悩を受けねばならぬと、
経典に説かれている」

それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、
極楽と聞いても喜ばず、
あの人が死んだかと驚いて
一時は同情の涙が出ても、
自分は当分は死にはせぬと
平気でいる心が「闡提(せんだい)」で、
ドタ牛のように動かない。
頭は承知していても肝が承知しない。
道理は分かっても納得できない。
なんの不足もないのに満足がない。
分かって分からず、知って知らず、
急いで急がず、泣いて泣かず、
なんともかんとも言えないような奴が闡提です。
十悪・五逆・謗法・闡提

照らし出された人間の実相を、
親鸞聖人は、次のように記されています。
一切の群生海、無始より已来、
乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心無く、
虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心無し
「無始より已来、一切群生海、無明海に流転して、
諸有輪に沈没し、衆苦輪に繁縛(けばく)せられて、
清浄の信楽無く、法爾として真実の信楽なし」
            (教行信証信巻
「然るに微塵界の有情、煩悩海に流転し、
生死海に漂没(ひょうもつ)して、
真実の廻向心無く、
清浄の廻向心無し」
            (教行信証信巻
繰り返し、後生の一大事を
警鐘乱打されているのです。

これが単なる合点ではなく、
自身の実相として照らし出された時、
一切の助かる望みが絶え果てて、
必ず火だるまになって
必定地獄を実感させられる。

いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし

         (歎異抄)

は、その時の聖人の悲痛な
叫びでありました。
同時に、
弥陀の呼び声を聞き
破闇満願させられて、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ
            (歎異抄


と躍り上がっておられます。
『正信偈』冒頭の、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

「阿弥陀如来に親鸞、
いま救われた、助けられたぞ」
の叫びは、
この「後生の一大事」を救い摂られた時の驚き、
喜び、感動の告白なのです。

ですから、
「後生の一大事」が分からなければ、
この二行の意味がサッパリ分からず、
冒頭が分からねば、
『正信偈』は最後の行まで、
何を言われているのか
全く分からないことになってしまいます。
よくよく知っていただきたいと思います。

では、この極悪の親鸞が、
どうして救われることができたのか。
それは全く、阿弥陀仏のこのような
ご苦労があったからなのだ。
広大無辺なご恩を、喜ばずにはおれない」
と詳しく説かれているのが、次に、
「法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所」
と続くお言葉です。

それは、以下の記事を
読んでいただければ分かると思います。

法蔵菩薩(阿弥陀仏)のご苦労とは

 

 


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宝の山に入っていることに気づいていない!? [蓮如上人]

今度の報土往生を決定せずは、

誠に宝の山に入りて、

手をむなしくして帰らんに

異ならんものか。

      (蓮如上人御文章三帖目八通)

 

「今度の報土往生を決定(けつじょう)する」とは、

今生で阿弥陀仏の本願に救われ

〝いつ命が尽きても浄土往生間違いなし〟と、

この世も未来も絶対の幸福になることをいいます。

その幸せに救われずして死ぬのは、

せっかく宝の山に入りながら、

何も持たずに帰るようなものだよ、

と仰った蓮如上人のお言葉です。

生きている今、絶対の幸福になれるチャンスを生かさねば、

あまりにもったいない。

決して後悔を残さぬよう、弥陀の本願を聞き抜きなさいと、

念じてくださっています。


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全ての仏さまが総がかりで阿弥陀仏の救いがあることを知らせている!! [経典]

 もし我々が池で溺れている犬を見たらどう思いますか?


何とかして救ってあげたいと思いますよね。


まして慈悲の塊である仏さま、


死ねば地獄しか行き場のない我々を見過ごすことはできない、


何とかして助けてあげたい、


阿弥陀仏の救いがあることを知らせねばと


浄土から、無数にある人間の存在する惑星に、


お釈迦さまと同じように説法されに来られるのです。


どんなすごい救いがあっても、それを教える者がいなければ


誰も助かりませんよね。


浄土から人間界にお出ましになるのも当然なことだと分かると思います。


そんな諸仏方が、


われらが師の仏、阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。


我々が保証するから早く信じなさいよ」


と保証人になって、


「阿弥陀仏の本願」が真実であることを叫ばれておられます。


それが説かれているのが『仏説阿弥陀経』です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(ここからは真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』から載せています)


お盆の法要や葬儀でなじみ深い『仏説阿弥陀経』は、
釈迦一代の結びの経といわれ、
大宇宙の仏の本師本仏である阿弥陀仏のことばかりが
説かれています。

今回は『仏説阿弥陀経』について学びましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●お釈迦さまが自ら語りだされたお経


約2600年前、インドに現れられたお釈迦さま(釈尊)が、
35歳で仏という無上のさとりを開かれてから、
80歳で涅槃に入られる(亡くなる)までの45年間、
説かれた教えを仏教といいます。
その教えは、7000余巻という膨大な数のお経に書き残されています。
これを「一切経」といいます。
お経の名前には必ず「仏説」とありますように、
仏である釈尊の説かれたものだけをお経といいます。
『仏説阿弥陀経』もその一つ。
この『阿弥陀経』の大きな特徴は「無問自答」といわれることです。
お釈迦さまのご説法は、
お弟子などの質問に答えられる形で始まりますが、
この『阿弥陀経』だけは例外で、
問わず語りに釈迦自ら語り始められたのです。

本師本仏の阿弥陀仏の本願を説くことこそが、
弟子であるお釈迦さまの出世本懐(この世に生まれた目的)であったのですから、
その目的を果たす喜びのあまり、
釈迦は自ら説かずにいられなかったのでしょう。

その『阿弥陀経』の冒頭には、こう説かれています。


一時、仏、舎衛国の衹樹給孤独園に在して、
大比丘衆千二百五十人と倶なりき

(ある時、釈尊は、千二百五十人の優れたお弟子とともに、
舎衛国の衹樹給孤独園におられました。


「舎衛国の衹樹給孤独園」とは、
中インドのコーサラ国の首都・舎衛城にあった大寺院のことで、
一般に「衹園精舎」と呼ばれています。
ここで『阿弥陀経』をはじめ、多くの経典が説かれていました。


爾時(そのとき)、仏、長老舎利弗に告げたまわく、
是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、
名けて極楽と曰う。
其の土(くに)に仏有(ましま)す。
阿弥陀と号す、今現に在して説法したまう

その時、釈尊は弟子の舎利弗にこう告げられました。
これより西方、十万億の仏土を過ぎて極楽という世界がある。
その世界には阿弥陀仏といわれる偉大な仏さまがましまして、
今現に説法をしていらっしゃるのだ、と


お釈迦さまは、宇宙には、この地球のようなものが数限りなくあり、
それぞれに仏さまがまします、と教えられています。

仏教では宇宙について
「地球のような世界が千個集まって小千世界、
小千世界が千個集まって中千世界、
中千世界千個で三千大千世界を形成している。
それらがまた無数に集まったのを、十方微塵世界という」
と説かれています。
これは、今日の天文学でいう宇宙観と大変似ており、
それが二千六百年もの古に釈迦によってすでに教えられていたことに
驚かずにおれません。

この宇宙観に基づいて、
「十万億の仏土を過ぎて、極楽という世界がある。
そこにまします仏を、阿弥陀仏といわれる」
と釈迦は説かれているのです。


●阿弥陀仏と釈迦仏の関係


阿弥陀仏とは、どんな仏さまなのでしょう。


彼(か)の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障礙する所無し、
是(こ)の故に号して阿弥陀と為す

彼の仏の寿命及び其の人民も
無量無辺阿僧衹劫なり、故に阿弥陀と名く


『阿弥陀経』には、このように阿弥陀仏は
「光明無量、寿命無量」の仏さまであると説かれています。
「光明」とは、阿弥陀仏の智慧、お力のこと。
「無量」とは無限、計り知れないことですから、
空間的無辺を表します。
阿弥陀仏の光明は大宇宙どこでも届かぬ所がない。
何ものも妨げにならない
のだ、ということです。
「寿命」とは慈悲のこと。
阿弥陀仏の命は限りがないとは、時間的無限であり、
私たちを未来永遠に救ってくださる、
限りないお慈悲の仏さまである
ということです。

仏と聞けば、
「釈迦も、阿弥陀仏も同じ仏だろう」
と思っている人が少なくありません。

しかし、それは大変な間違いです。
釈迦と阿弥陀仏は違う仏さまであり、
その違いを知らないと、仏教は全く分かりませんから、
よく知っていただきたいと思います。

お釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏という無上のさとりを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれますが、そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と教えてくだされたのが、阿弥陀仏といわれる仏さまなのです。

お二方の関係について、お釈迦さまが詳しく教えられていることを、
蓮如上人も『御文章』にこう端的に仰っています。


ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり
         (二帖目八通)


お釈迦さまは、地球上では唯一の仏であり、
最も尊い方ですが、大宇宙には地球のようなものが無数にあり、
それらの世界には無量の仏がまします。

その仏方を総称して「十方の諸仏」といいます。
『阿弥陀経』では、大宇宙を東西南北上下の六方と表し、
それぞれの方角に、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏など、たくさんの仏さまがましますと、
名前を挙げて説かれています。
阿弥陀仏がそれらの仏方の本師本仏であるとは、
十方諸仏の師であり先生である
、ということです。
諸仏は阿弥陀仏の弟子なのです。
地球で唯一の仏・釈尊も諸仏の一人ですから、
弥陀のお弟子です。


●釈迦出世の大目的


弟子の使命とは、何でしょう?
師の御心を正確に、一人でも多く伝える以外にありません。
ゆえに弟子の釈迦が説かれた仏教は、
師である阿弥陀仏の御心一つを教えられているのです。

そのことを親鸞聖人は『正信偈』に、こう明言されています。


如来所以興出世
 唯説弥陀本願海

(如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)


「如来」とは釈迦如来。
「釈迦が世に興出したもう所以は」とは、
「釈迦が、この地球上に現れて、仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、ただ一つのことを説かれるためであった、
ということ。
七千余巻のお経、45年間の教法と聞きますと、
「お釈迦さまはいろいろなことを、
教えていかれたのだろう」
と思いますが、そうではない。

たった一つのことなのだと、親鸞聖人は断言されています。
一切経を99パーセント読んでも、こんな断言はできません。
残りの1パーセントに何が書かれているか分からないからです。
一切経を何度も読破されての、親鸞聖人の確言なのです。
私たちは釈尊が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、
仏教全てを聞いたことになり、仏教の全てを知ったことになる。

ゆえに釈尊のただ一つ説かれたことほどの大事はなく、
それこそが「弥陀の本願」であると、親鸞聖人は仰っています。


●阿弥陀仏の本願


弥陀の本願とは、阿弥陀仏の本当に願っていられる御心のことで、
それはあまりにも広大で深いので、
海に例えられ「本願海」と言われています。
釈尊45年間の教えは、この弥陀の本願以外になかったのです。
しかも弥陀の本願一つ説かれているのは、
地球のお釈迦さまだけではありません。

大宇宙のあらゆる仏方も同様で、
それぞれの国土で、本師本仏の弥陀の本願一つを説くことを
出世本懐(世に現れた目的)とされているのです。

だから『阿弥陀経』には、
「われらが師の仏、
阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。
我々が保証するから早く信じなさいよ」
という諸仏の言葉が説かれています。


舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、
東方にも亦、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、
各其の国に於て、広長の舌相を出してあまねく三千大千世界に覆いて、
誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の
『称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経』を信ずべしと


舎利弗よ、この釈迦が今、弥陀の本願によってつくられた
南無阿弥陀仏の功徳の不可思議なることを説いているように、
東の方にもまた、あしゅくび仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏
・妙音仏、このようなガンジス河の砂の数ほどの無数の仏方が、
おのおのその国において、大雄弁をもって、
三千大千世界の至るところで、
“全ての人々よ、まさにこの不可思議な弥陀の本願を信ずる以外に
救われる道はないのだ”
と真実の説法をしておられるのだ


これは東方のみならず、南方、北方、上方、下方の六方にまします仏方が皆、
弥陀の本願まことを保証しておられることが続いて説かれています。
これが有名な「六方諸仏の証誠」です。

先述しましたが、東西南北の四方に上方・下方を加えて
説かれる釈尊の宇宙観は、今日、明らかになっている宇宙の構造を、
まるでご存知だったかのようです。
仏さまの深い智慧の一端が知られるでしょう。
また、その大宇宙にたくさんの仏がましますことも、
「仏々想念」とか「唯仏与仏の知見」といわれる仏智の働きによって
仏さま同士が互いに通じておられるから、分かられたことです。


●すべての仏さまが
    たたえるのはなぜか?


その大宇宙のすべての仏方が、
「偉大な仏だ、尊い仏だ、われらの師匠である」
と褒めたたえ、手を合わせて拝まれるのが阿弥陀仏です。

十方の諸仏方が一仏残らず褒めたたえておられるとは、
いかにすごいことでしょうか。
人間ならば、どんな立派な方でも、万人に褒められることはないでしょう。
「過去にも、今にも、未来にも
 皆にて謗る人もなく
 皆にて褒むる人もなし」
       (法句経)
ところが仏の世界にはあるのです。
阿弥陀仏こそは、大宇宙のすべての仏方が異口同音に
褒めたたえられる最も偉大な仏さまなのです。
それは、他の仏にない、ズバ抜けて優れたお力を
持っておられるからです。


舎利弗、彼の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障碍する所無し、
是の故に号して阿弥陀と為す

舎利弗よ、彼の仏の光明<智慧・お力>は無限であり、
大宇宙の全ての世界を照らして、妨げるものは何一つない。
無限のお力を持たれた阿弥陀仏なのである


「光明」とは、仏の智慧を表す、とはすでに述べました。
阿弥陀仏が、諸仏に優れているのは、
実にこの無量の光明であると、親鸞聖人は讃嘆なされています。


仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ

     (浄土和讃)
*大応供(だいおうぐ)・・・「応供」とは供養を受けるにふさわしい方、仏のこと。大応供とは最もすぐれた仏のことで阿弥陀仏のこと


阿弥陀仏の光明は最第一にして、
諸仏の光明は遠く及ばない。
阿弥陀仏を光炎王仏とお呼びするのだ。
その光明は三塗の黒闇<無明の闇>を破るお力があるから、
大応供の阿弥陀仏を帰命しなさい


最第一のお力を持たれた本師本仏の阿弥陀仏。
その光明は「三塗の黒闇(無明の闇)」をひらく(破る)ことができる
ズバ抜けたお力、智慧です。
そこで諸仏方は光炎王仏とか大応供ともお呼びし、
異口同音に褒めたたえずにおれないのです。

大宇宙広しといえども、我々の三塗の黒闇(無明の闇)を破るお力は、
阿弥陀仏の光明以外
ありませんから、
一切の諸仏が称賛するのです。

では、三塗の黒闇(無明の闇)とは何なのでしょうか。
これは、「死んだらどうなるか分からない心」
「本当に浄土往生できるのだろうか、という不安な心」をいいます。
死に直面すると、黒いというか、暗いというか、
真っ暗がりの闇の心になりますので、
親鸞聖人は「黒闇」と仰っているのです。

先のお盆の項でも書きましたが、
死は万人の確実な未来ですが、死ねばどうなるか分からぬまま、
私たちは日々を生きています。
飛行機でいえば、どこへ向かって飛んでいるのか、
降りる場所もハッキリせぬまま、飛んでいるのです。
その不安をごまかそうと機内でどれだけ楽しもうとしても、
心底からの安心も満足も味わえない。
この暗い心を無明の闇といい、
全ての人の苦悩の根元であると教えられます。
そこで、阿弥陀仏は、この無明の闇をぶち破ってみせる、
と誓われ、兆載永劫という気の遠くなる長期間、
大変なご苦労をなされてつくられた「南無阿弥陀仏」の六字の御名号を、
平生の一念に私たちに与えて、救ってくださるのです。

『阿弥陀経』に六方(十方)諸仏の「称讃不可思議功徳」とあるのは、
阿弥陀仏のつくられた、その「南無阿弥陀仏」の不可思議な功徳を、
すべての仏方が褒めたたえている、ということなのです。
その諸仏称讃の名号(南無阿弥陀仏)を、
私たちが受け取った一念に救われることを、


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と説かれています。
この弥陀の本願のとおりに南無阿弥陀仏を信受し、
救われたならば、無明の闇が破られ、後生明るい心になります。

いつ死んでも弥陀の浄土、限りなく明るい無量光明土に
生まれることがハッキリいたしますから、
これを「往生一定」というのです。

「往生」とは、この世終わると同時に、
弥陀の浄土に往って、弥陀同体の仏に生まれることです。
それがはっきり定まったのが「一定」。
最高に素晴らしいところに往けることが、
ただ今、決定いたします。
生きてよし、死んでよし、いつでもどこでも大安心大満足の絶対の幸福で、
この世を生き抜くことができるのです。


全ての人よ、一日も片時も急いで、
弥陀の本願を信じ、この無上の幸福に救われてもらいたい」
大宇宙の諸仏方が保証人になって、
阿弥陀仏の本願が真実であることを証明されているのが
『仏説阿弥陀経』なのです。


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「葬式仏教」、それは本当の仏教じゃない! [なぜ生きる]

「葬式仏教、それは本当の仏教じゃないのよ」


「葬式仏教」といわれて久しく、
僧侶の務めは「葬式や法事」と考える人も多いでしょう。
そんな仏教観を持つ人に、
仏さまの教えをよく知る人は訴えます。
「それは本当の仏教じゃない」
では、真実の仏法とは何を教えられているのでしょう。
親鸞聖人からお聞きします。



  真実の仏法は「平生業成」


●「仏法嫌い」は
     どうしてなの?


「いいかげんにその歌やめろ!
坊主に何を吹き込まれたのか知らんが、
あいつらは金の亡者だぞ。
おっとうが死んだ時も
『たくさん金を払えば長いお経をあげてやる』だの、
『極楽に行ける』だのなんて言いやがったんだ!」
普段から熱心に聞法し、
「恩徳讃」を口ずさむ妻・千代に、
こうまくしたてる仏法嫌いの了顕。
“それは・・・”と言いかけた千代を遮り、さらに言う。
「本堂が雨漏りするとか、門が壊れたとか、
何だかんだと言って門徒から金を集めるそうじゃないか。
断ったら『墓を持っていけ』と脅された奴もいるらしいぞ」
「それは本当の仏教ではないのよ。
あなたも、蓮如さまのお話を聞けば分かるわ」
千代の言葉にも、了顕は承服しなかった。


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約500年前、浄土真宗を日本全国に弘められた蓮如上人と、
その弟子、本光房了顕の史実を描いた
アニメーション映画『なぜ生きる・・・蓮如上人と吉崎炎上』
冒頭の一場面です。



幼くして父親を失った了顕は、
葬儀の際の僧侶の一言で、「坊主は大嫌い」になりました。
「僧侶は葬式や法事で金儲けする者」との思いを、
彼はここで吐露しています。
今日も、仏教に同様のイメージを持っている人は多いでしょう。


●批判される仏教界
   “教えを説かない僧侶たち”


最近、流通王手のアマゾンが民間業者と提携して、
葬儀・法事への僧侶の手配のチケットを販売し、
イオングループなども同様の安価なサービスを展開して
好評を得ています。
注目されるのは、今まであいまいだった
「お布施」の金額を明確に打ち出した点です。
ところがこれに、全日本仏教会が、
「お布施本来の宗教性を損なう」と苦言を呈し、
議論の的となりました。
様々な意見が見られます。


“アマゾンの試みは、よくも悪くも
法要や戒名の金額の不透明さに一石を投じている”
と語る人は、こんな経験をしたそうです。
父親の49日が終わって納骨の時、
僧侶が挨拶もそこそこに左手を出してお礼を要求してきた。
しかも彼は、もらうものをもらったら遺族を急がせ、
読経が終わるやそそくさと帰宅。
思い出話も法話もなかったといいます。
一方で、アマゾンのようなサービスは心が失われており、
葬儀や法事はそんなもんじゃないと感じる、
という人も。
中には仏教のあり方を問う、こんな意見もありました。
“そもそも仏の教えを伝えない人を
仏教者(僧侶)と見なすことはできない。
人々に教えが届いていれば、こうはならない。
大衆が知りたいのは仏教界の論理ではなく、
仏の教え、心の救いだ。
何もしない人にお金を渡すことに異を唱えるのは仕方がない”
ここで言われているように、
問題は「教えを説かずに布施を要求すること」です。
仏教を説かれたお釈迦さまは、死者のための葬式をされたことは
一度もなかったといわれます。
常に、生きた人間に救いの法を説かれたのです。

葬儀や法事は本来、親しい人の無常をご縁に仏法を聞かせていただくために
開くのであり、その説法へのお礼が「お布施」なのです。
「教えの有無」が大事であり、正しい教えを聞いた人ならば
「布施」の心がおのずと起きるものです。


●本当の仏教とは何でしょう?


正しい教えを知らずに腹を立てる了顕に、
妻の千代は、
「それは本当の仏教じゃないのよ」
と諭していますが、本当の仏教とはどんな教えなのでしょうか。
映画のご説法で、蓮如上人は第一声、こう仰います。


蓮如上人 「皆さん、親鸞聖人の教えはただ一つ。なぜ生きる、
       『なぜ生きる』の答えでした


私たちが人間に生まれてきたのは何のためか。
その答え一つを説かれたのが親鸞聖人であると明言されています。
親鸞聖人はそれを、主著『教行信証』冒頭に
「難度の海を度する大船」に乗ること
とズバリ仰っています。


●釈迦の金言
  「人生は苦なり」


「難度の海」とは、苦しみの絶えない人生を、
荒波の絶えない海に例えられているのです。
フランスの思想家、ルソーは、
「人生の最初の四分の一はその使い道もわからないうちに過ぎ去り、
最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎていく。
しかもその間の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、
あらゆる種類の苦しみによって費やされる」と言い、
ノーベル文学賞の戯曲家、イギリスのバーナード・ショーは、
「人生は苦しみである。そして2人の人間の唯一の相違は、
その人の味わっている苦しみの程度の差に過ぎない」
と語っているように、
多くの著名人も人生は苦しいところだと述べています。
仏のさとりを開かれた大聖釈迦牟尼世尊(お釈迦さま)は、
人生は苦なり
(人は生まれてから死ぬまで、苦しみ続けなければならぬ)
と道破なされ、その実態を「四苦八苦」で教えられています。
次の八つです。


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初めの「生苦」とは生きてゆく苦しみ。
これを「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」と
具体的に教えられています。


愛別離苦」とは愛するものと別離する苦しみをいいます。
政治資金の不在使用で辞職した前東京都知事は、
週刊誌で始まった追求から世論が高まり、
恋々と固執した知事のイスを追われた。
身から出たサビとはいえ、
泣くほど愛着した地位から引き離されるのは辛かったでしょう。
大切な人や物を失う痛みは、筆舌に尽くし難いもの。
永年連れ添った伴侶や親、子との別れを味わって、
悲嘆されている方もあるでしょう。


次の「怨憎会苦」とは、怨み憎むものと会わねばならぬ苦しみ。
イヤな奴、と聞けば、幾人かの顔がすぐに浮かぶ。
そんな相手と会う不快さです。


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「亭主元気で留守がいい」と笑い飛ばせたのは過去のこと。
夫の在宅がイヤでイヤで高血圧やうつなど
体調を壊す妻が多くあるようです。
「主人在宅ストレス症候群」なる病名までついています。
一方、NHKの「クローズアップ現代+」によると、
“すぐキレる妻が怖い”という夫がなんと47パーセント。
妻は自分が働いているのに、家事や子育てを手伝わない夫に
イライラしているのですが、夫は妻が何を怒っているのか
分からないので会話もできず、退社後も帰宅せずに繁華街を、
何時間もさまよう。
そんな夫が増えているといいます。
愛した人がストレスの元とは、まさに愛情一如。
その人にとっては結婚が「怨憎会苦」の始まりだったのかも。


求不得苦」は、求めているものが得られない苦しみのことです。
女性3人のアイドル「パフューム」が
“最高を求めて終わりなき旅をするのは、私たちが生きているから。
夢に向かって遠い先まで、前を見て進もう”
という内容の応援歌を発表した時、
メンバーの一人がこう紹介しています。
「今回の新曲は一言で言うと、ものすごい苦しい歌です。
勇気が出るといえば、出るんですが・・・」
有名になり、多くの曲をヒットさせているパフュームですが、
これからは日本だけでなくアジア、欧米へ進出する。
大きな夢を追い求める、その厳しい過程を思うと
「ものすごい苦しい歌」という本音が思わず出たのでしょう。


「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
七つ、八つ・・・もっともっとと、
死ぬまで「夢のまた夢」に取りつかれ、
私たちは“六つか(難)し”の「難度の海」を泳いでいるのです。


●「死ぬまで求道」がいい?


スポーツや音楽、科学、医学、芸術など、
人間の全ての営みに完成はありません。
それを「死ぬまで求道」といいます。
多くの人は礼賛する言葉ですが、よく考えれば、
100パーセント求まらぬものを、
死ぬまで求め続ける、というおかしなことにならないでしょうか。
求めるのは「求まる」ことが前提のはず。
死ぬまで求まらぬと知りながら求め続けるのは、
去年の宝くじを買い続けるようなもの。
“それでいい”とどうして言えるのでしょうか。

「求める」のは苦しいこと。
「死ぬまで求道」の人生は、そのまま死ぬまで
苦しみの絶えない難度の海なのです。
しかも人生には、すべての人が避けられぬ
「老苦」「病苦」「死苦」が必ず訪れます。



老苦」は肉体が古びていく苦しみ。
若いつもりがいつの間にやら随所に衰えが来ます。
幼い頃、なぜ祖父母が眼鏡を外して小さい文字を見るのか、
全く理解できなかったが、自分が老眼になるとよく分かる。
老いの嘆きは1000年以上前の『古今集』の時代から、
いずこでも常に変わらないのだと知らされます。


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「老いらくの
来んと知りせば 門鎖して
なしとこたえて 会わざらましを」
(このように「老い」が来ると知っていたら、門を閉ざし
「用のある者はない」と言って会わぬようにしたものを)



「とどめあえず
むべもとしとは 言われけり
しかもつれなく 過ぐる齢か」
(とどめられず、まさに「疾し(年)」とはよく言ったもの。
かように人の気も知らず、「齢」は過ぎゆくものだなぁ)
長寿がかなった高齢社会の現代は、
老老介護や老後破産など、老苦はより深刻になっていようです。


病苦」は病の苦しみです。
「やまいだれ」に「丙」と書くのは、
どんな病気も当事者には甲乙つけがたい苦痛だから、といわれます。
6月に亡くなったボクシング元世界ヘビー級チャンピオン、
モハンメド・アリさんは、“蝶のように舞い、蜂のように刺す”
華麗な戦いが多くの人を魅了しましたが、
彼の引退後の半生は、42歳から晩年まで
パーキンソン病との闘いでした。
並外れた身体能力も病一つで奪われ、
歩行もままならなかったといいます。


死苦」は問答無用、「死ぬほどつらい」とよく口にしますが、
この100パーセントの未来が、
私たちの人生を巨大な不安で覆っているのです。

蓮如上人はこう仰せです。


未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し」(白骨の章)
どこにも千年万年、生きている人を聞かない。
人生は実に短い。


朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず
                  (白骨の章)


朝元気な人が、夜にはポックリ死んでしまうこともよくあること。
次の世に旅立つ時は、妻も子供も兄弟も連れにはなってくれない。
この世のもの何一つ、持ってはいけないのです。


●「絶対の幸福に救う大船あり」
     親鸞聖人の断言


親鸞聖人は「こんな四苦八苦の難度の海に苦しむ私たちを、
そのまま乗せて絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土まで渡す大船があるのだよ

と断言なされています。
阿弥陀仏の本願によってつくられた船ですから、
「大悲の願船」と聖人は仰っています。


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阿弥陀仏とは、お釈迦さまが紹介された仏さまです。
大宇宙には地球のような世界が無数に存在し、
それぞれに仏さまがまします。
その大宇宙の諸仏方が異口同音に、
「われらの本師本仏である」
「最高無上の師の仏だ」
と仰ぐお方が阿弥陀仏です。

阿弥陀仏が、
どんな人をも
必ず絶対の幸福に助ける

という本願(約束)を建てておられます。
このお約束を果たすために、
阿弥陀仏がつくられたのが大悲の願船なのです。


この大悲の願船に乗せられ、絶対の幸福になるために、
私たちは生まれてきた。
これが「なぜ生きる」の答えであります。


●「永遠の命が救われる」


では、大悲の願船に乗せられる、とはどんなことでしょうか。
映画『なぜ生きる』で蓮如上人はこう仰います。


蓮如上人 「阿弥陀仏の救いは、肉体の救いとは比較にならぬ、
        永遠の命が救われるご恩ですからね、
        無限に大きくて深いものなのですよ


大悲の願船に乗せていただけば、
四苦八苦に蹂躙される肉体の救いではなく、
「永遠の命が救われる」と言われています。

このことについて親鸞聖人からお聞きしましょう。
ご自身が大悲の願船に乗せられた時の歓喜と感謝を述べられた
『教行信証』総序のお言葉です。


噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
全くこれは、弥陀の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、弥陀の救いにあえぬままで終わっていたら、
未来永遠、幸せになることはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを


「噫」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きとよろこびの、
言葉にならぬ言葉です。
「弘誓の強縁」とは阿弥陀仏の本願のこと。
“難度の海に苦しむ人々を、必ず大船に乗せて絶対の幸福に救う”
という強烈なお約束をいい、
その誓いどおりに、大船に乗ったことを、
「真実の浄信」と言われています。
それはもう、100年や200年求めて得られる、
ちっぽけな幸せではなかった
、と知らされますから、
親鸞、果てしない過去から、生まれ変わり死に変わり、
生死生死を繰り返してきた。
永い間迷い苦しみ、救いを求めてきたのだ。
その多生にもあえなかった弥陀の救いに今、あえた、
億劫にも獲がたいことを今、獲たのだ

と言われているのです。
ここでいわれる「あう」は「値う」と書き、
過去無量劫、果てしない魂の歴史の間にも、
かつてなかったこと。
これから未来永劫、二度とないことに「値った」ことをいいます。
多生億劫の間求めても値えなかったことに値えたから
『噫』と驚嘆せずにいられなかったのでしょう。
山高ければ谷深し、救い摂られた山が高いほど、
後生の一大事に戦慄し、こう嘆息もされています。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん
弥陀の大船を疑って乗らぬ心を、ここでは「疑網」と言われ、
もしまた今生も、大悲の願船を疑い、
乗船せぬままで終わっていたら、未来永劫、
苦しみ続けていたに違いない。危ないところであったなぁ
」。
合掌瞑目し、法悦に包まれる聖人が、
まぶたに浮かぶようです。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
まことだった!本当だった。絶対の幸福に救い摂り、
必ず極楽浄土に渡してくださる弥陀の願船、ウソではなかった。
皆々、乗船してもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、大悲の願船の厳存を知ってもらいたい

弥陀の救いはこの世の肉体の問題ではない。
まさしく「永遠の命を救っていただいた」という美しい感激に
満ちた告白であることが知らされます。
だからこそ、「身も粉に、骨砕きても」という恩徳讃の心になるのです。


●平生の一念に乗せられる


この大悲の願船には、いつ乗せていただけるのでしょう。
映画で蓮如上人は、こう教えられています。


蓮如上人 「それは、平生、生きている、今のことですよ。
       今この大船に乗せていただき、どんなことがあっても
       変わらぬ絶対の幸福になることを、
       『平生業成』と親鸞聖人は言われています」


「平生業成」とは親鸞聖人の教えを漢字四字で表した言葉です。
「平生」とは死後ではない、「生きている今」のこと。
「業」とは人生の大事業。
これこそ「なぜ生きる」の答えであり、
大悲の願船に乗じて絶対の幸福(往生一定)になることです。
私たちに、これ以上大切なことはありません。
「成」とは「完成、達成する」ということです。
人生には、これ一つ果たさねばならないという大事な目的がある、
それは現在、完成できる。だから早く完成しなさいよ

と親鸞聖人は教えられていますから、
「平生業成」は聖人の教えの一枚看板といわれるのです。
「仏教」と聞くと、地獄や極楽などの死後物語ばかりと
思われているのが悲しい現実です。
その誤解を正し、弥陀の救いは“”であることを
鮮明になされた方が親鸞聖人なのです。


「漂泊とは、たどりつかぬことである。
たとえ、それがどこであろうとも、われわれに夢があるあいだは、
『たどりつく』ことなどはないだろう」 (旅の詩集)
作家・寺山修司が言うように、果てなき夢を求めて
難度の海を漂泊する者は、
どこにでも「たどりつく」ことはない。
ゴールなき「死ぬまで求道」では永遠に救いがありません。
親鸞聖人は、「なぜ生きる」の答えがある、
この世でハッキリ絶対の幸福に救われる時がある、
と断言されているのです。

弥陀の大船には平生の一念に、乗せていただけるのですから、
こんな水際だった鮮やかな救いは、
阿弥陀仏の本願にしかありません。
真剣によくよく弥陀の本願を聞いて、
一日も早く「平生業成」の身にならせていただきましょう。


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お釈迦さまが説かれた「なぜ生きる」の答え [なぜ生きる]

苦しみが

 幸せに変わる!

  お釈迦さまが説かれた

    「なぜ生きる」の答え

 

もうすぐ秋のお彼岸。

彼岸は、秋分の日を中日とした7日間をいい、

「暑さ寒さも彼岸まで」ともいわれるように、

厳しい暑さも和らぐ季節の変わり目です。

お彼岸には、おはぎを作ってお仏壇に供えたり、

読経や墓参りなど、彼岸会といわれる仏事を

毎年勤めている家庭もあるでしょう。

「彼岸」とは仏教由来の言葉ですが、

その意味を考えたことはあるでしょうか?

この「彼岸」を正しく知ったならば、

私たちが生きるうえでいかに大切な言葉か分かります。

お釈迦さまからお聞きしましょう。

 

●「彼岸」とは向こう岸。

〝こちらの岸〟はどんなところ?

 

「彼岸」とは字のとおり、彼の岸、向こう岸ということです。

向こう岸があるなら、当然、こちらの岸(此岸)もある。

仏教で「此岸(しがん)」とは私たちの生きている世界をいい、

「娑婆世界」ともいわれます。

娑婆(しゃば)はインドの言葉で、「堪忍土(かんにんど)」と訳されます。

堪忍とは「こらえ、しのぶ」と書きます。

今年の夏は、国内最高気温も更新するような猛暑続きで、

まさに〝堪え忍んだ〟堪忍土でした。

 

また、「ならぬ堪忍、するが堪忍」で、

家庭でも職場でも、耐え難くて怒りを爆発させたい時も、

ぐっとこらえねば、お互い生きてはいけません。

全国紙に載っている悩み相談で、

多いのはやはり「人間関係」。

近い関係であるほど悩みも多く、

一つ屋根の下で暮らす夫婦は、とりわけ大変です。

違う環境で育ってきた者同士なので、

生活習慣の違いが出てくるのは当然。

新婚当初はまず食事の味付けの違いに戸惑います。

夫の電気の消し忘れや、妻の長風呂が気になる。

ささいなことでは、洗濯物の畳み方がいつもと違うだけでも、

ストレスを感じるものです。

やがて、年数がたつと、夫婦はもともと他人だったことを

忘れてしまい、言動に遠慮がなくなりますから、

余計に腹が立ちます。

でも、いちいちケンカしてもいられないので、

ぐっとこらえる。

長く夫婦を続けている人にコツを聞くと、

「ガマンよ。結婚生活はガマンが大事」。

笑い話で済む程度の堪忍ならいいのですが、

近頃は、パートナーの言動への不満が積もりに積もって、

めまいや頭痛、不眠など心身に不調を来す人が増えており、

ある大学教授が「夫源病(ふげんびょう)」

「妻源病(さいげんびょう)」と命名したそうです。

こうなると、笑い話では済みませんね。

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●苦しみに耐えて

  頑張ってきたのに

 報われた感じが

  しないのは、なぜ?

 

人間関係に限らず、私たちには日々、

さまざまな苦難がやってきます。

一難去ってまた一難。

それらを堪え忍びながら、

〈こんなことが、いつまで続くのだろう〉

〈人生ってこんなものかなあ〉

と、ふと疑問を感じることはないでしょうか。

はた目からは成功し恵まれていると見える人でも、

実態は変わらないようです。

 

「いずくとも

身をやるかたの 知られねば

うしと見つつも ながらうるかな」

(どこに向かって生きればよいか分からないまま、

住みづらいと思いながらも、この世に生きながらえています)

 

こう詠んだのは、平安時代の才媛・紫式部でした。

当時、宮中で爆発的な人気を誇った長編小説『源氏物語』の

作者として、人も羨む才能、地位、名誉に恵まれていた女性ですが、

「向かうべき【方角】が分からぬまま堪え忍んで生きている」

と告白しています。

これが彼女の本音だったことは、

自ら編纂した歌集の最後にこの和歌を選んでいることからも

分かります。

 

同様の声は現代にもあふれています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

34年間、看護職に従事し、2年前に退職しました。

その後は、同居の義母の介護をしていましたが、

昨年亡くなり、子供たちはすでに独立をしているので、

夫婦だけの生活になりました。

今までひたすら走り続けてきたのが、

急に止まったように感じており、

これから何をしようか考えています。

             (50代女性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

定年になり、趣味などに自由に過ごせると思っていた時に

大病し、体が不自由になりました。

家族の介護を受けながら人生が終わるのか、

自分は今まで何をしていたのか・・・

              (60代男性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

主人が亡くなり、生きる目標をなくしました。

人生が終わったようで、心の方向をどこに

持っていけばいいのか悩んでいます。

              (70代女性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ダンテは『神曲』の冒頭に、

「人生の旅のなかば、正しい道を見失い、

私は暗い森をさまよった」

と書いていますが、共感する人が多いのではないでしょうか。

 

●まず「方角」を確かめる

 

誰もが、その時その時、頑張ってきたはずなのに、

人生の旅の半ばで「ああ幸せだ」「これで満足」

「堪忍の日々が報われた」と感じられないでいる。

そこで、〈それは、まだまだ努力が足りないからだろう〉

と思い、さらなる努力を続けようとするのです。

しかし、努力する前に、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。

それは、【方角】を間違えたら、

どんな努力も報われないことがある、

ということです。

IMG_20220915_0002.jpg-5.jpg

 

例えば、海の真ん中に放り出された時、

あなたならどちらへ向かって泳ぎだすでしょう。

陸や島の方角に向かっていけば、

泳げば泳ぐほど近づきますから、

やがては陸地に着いて助かるということがあります。

しかし、陸や島とは反対方向に泳いでいたなら、

沖に向かうばかり。

頑張って泳げば泳ぐほど助からないことになってしまいます。

ですから、泳ぐ前にまず確かめねばならないのは、

正しい【方角】です。

 

人生も同じことが言えるでしょう。

〈私の人生、このまま進んでいって、

本当に幸せになれるのか?〉

生きる方角を間違えて、進んでいった先を、

仏教ではこう教えられています。

 

まことに死せんときは、

予(かね)てたのみおきつる妻子や財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ、三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ

             (御文章1帖目11通)

いよいよこの世の別れとなれば、

かねてから、頼りにしていた妻子も財宝も、

何ひとつあて力になるものはない。

みんな剥ぎ取られて、独りでこの世を去らねばならぬのである

苦しみに耐えながら頑張って、いよいよ最期、

全てと別れてたった独りで旅立たねばならない。

だとすれば、一体、私たちは何のために生きるのでしょうか。

 

●彼岸に向かって進めば

   人生が劇的に変わる

 

そんな私たちに、正しい方角を示してくださる方が

お釈迦さまです。

「本当の幸せになりたければ、この方角に向かって

進みなさい」

とお釈迦さまが指し示されているのが、

此岸ではなく、「彼岸」なのです。

「彼岸」とは何か。それは釈迦の先生である阿弥陀仏の

極楽浄土のことです。

「阿弥陀経」というお経には、

「これより西方、十億万の仏土を過ぎて世界有り、

名(なづ)けて極楽と曰う」

と説かれています。

お釈迦さまは、具体的に「西」という方角を示され、

阿弥陀仏の極楽浄土の存在を明言なさっています。

浄土に生まれた人には、一切苦しみはなく、

ただいろいろの楽しみだけがあるので「極楽」という、

と『阿弥陀経』には説かれ、

その幸せが言葉を尽くして表現されています。

限りなく明るい世界ですから、

親鸞聖人は「無量光明土」とも仰っています。

こう聞くと、

〈浄土?死んだ後の極楽参りの話か〉

〈死んだ後のことなんか、死んでみなけりゃ分からんだろ〉

と思う人もあるでしょう。

ところが親鸞聖人は、

「浄土へ往けるかどうか、死んでから分かるのではない。

此岸にいる現在ただ今、浄土(彼岸)に往けることが

ハッキリするのだよ」

と教えられているのです。

確実な未来が限りなく明るい無量光明土とハッキリすれば、

われ生きるしるしありと現在が輝き、

生きてよし、死んでよしの大安心・大満足の

絶対の幸福に生かされます。

これを「平生業成」といいます。

「平生」とは、現在のこと。

「業」は絶対の幸福、「成」は成るということ。

この平生業成の身になることが、

仏教に明らかにされている「なぜ生きる」の答えなのです。

娑婆(この世)にいる限り、

苦しみや災難は変わらずやってきますが、

絶対の幸福に救われれば、

娑婆(しゃば)の苦しみ悩みは全て喜びに転じ変わり、

人生の醍醐味を心行くまで満喫できます。

ある女性が、「阿弥陀如来を殿御(とのご)に持てば、

娑婆の貧乏苦にならぬ」

と言ったのは、その喜びでしょう。

なぜそんな幸せになれるのか?

またどうすればなれるのか?

それは、前々回の記事を読んでくださればと思います。



年2回、春分と秋分は、太陽が真西に沈む日です。

西に沈む夕日を見ながら、

極楽浄土に思いをはせるようになったことから、

お彼岸といわれるようになったのでしょう。

せっかくの休日、お釈迦さまの説かれた

「なぜ生きる」の答えを聞く日にしたいものです。


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