親鸞聖人が示された「真の仏法者」の道 [一向専念無量寿仏]
死を解決して100パーセント明るい未来を! [後生の一大事]
(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
「まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。
このゆえに人間に生まれることを喜ぶべし」
(源信僧都)
人間に生まれたことは大いなる喜びである、
と仏教では教えられています。
ところがせっかく人間に生を受けながら、
私たちはどれほど喜んでいるでしょう。
それどころか“なんで生まれてきたのだ”
と恨んでみたり、“つまらない人生、サッサと生きて、
サッサと死にたい”と思っている人も多いようです。
生まれたことを心から喜べないのは、
喜べなくさせているものがあるからです。
それは一体、何なのでしょうか。
●老後より確実な未来
PPKってご存じですか。
ピンピンと元気に老いて、病まずにコロリと死ぬ。
略して“ピンピンコロリ”という、
こんな言葉が、はやっています。
少子高齢化に伴い、このように考える人が増え、
年を取っても健康でいるための食生活や運動に、
注目が集まっています。
年金や医療制度については、国会でも喧々囂々の議論がなされ、
制度に対する国民の不審が選挙結果を大きく左右します。
4月に始まった「後期高齢者医療制度」なるネーミングが不評で、
「長寿医療制度」と名前を変えても、
国民の不安はなくならず、
「高齢者の切り捨てだ」
「年を取ったら死ねと言うことか」
と猛反発の声が上がりました。
納めた年金が本当にもらえるのか、
現行の制度で将来に対応できるのか、
誰もが関心を持っています。
老後の生き方を論じる書も多く出版されました。
最近は、独身者だけでなく、
既婚者も伴侶と死別すれば最期は独り、
ということで、死を迎えるまでの独りの生活に
関心が高まっているようです。
ところが、その先はどうでしょう。
何も語られていません。
たまに死後に言及しているかと思えば、
遺品や遺骨の後始末のこと。
あたかも、電車を降りる時、
座っていた席をだれに譲るか論じているようなものです。
でも、電車を降りる人にとっての一番の問題は、
降りた自分がどこへ行くのか、ということではないでしょうか。
若死にすれば老後はないが、
死は、すべての人にやってくる100パーセントの未来です。
室町時代の禅僧・一休は、
“門松は 冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし”
と言いました。
「冥土」とは死後の世界で、
生きるということは、冥土へ向かって旅をしているようなもの。
一日生きれば一日死に近づく。
万人共通の厳粛な事実。
人生の全体が、何か黒々とした闇の中に、
否応なしに引きずり込まれていくような感覚を持っている人は
どれだけあるでしょうか。
硫化水素の自殺者が後を絶ちません。
きっかけは、インターネットで、
楽に死ねる方法として紹介されたことでした。
しかし、硫化水素自殺を図り、
途中で外に飛び出した29歳の女性は、
「ネットに書いてあったのとは逆で、
本当に苦しかった。死ぬことが急に怖くなった」
と告白しています。
また、読者のMさんも、
仏法に出遇う前の体験を次のように記しています。
ネクタイで輪を作り、天井から下げました。
これでもう楽になれると、
輪の中に首を入れたとき、急に「死んだらどうなる?」
と真っ暗な心が出てきたのです。
考えもしなかった恐怖心でした。
「これは死ねない!」と思った瞬間、
体の重さでネクタイがちぎれ、
床にドスンとたたきつけられました。
想像していた死と、眼前に迫った自己の死は、
動物園で見ているトラと、
山中で出くわしたトラほどの違いがあります。
「死んだら楽になれる」と言っている“死”は、
頭で想像している死であり、
襲われる恐れのない檻の中のトラを見ているに過ぎません。
山中で突如バッタリ出会った猛虎ではないのです。
死を遠くに眺めている時は「死は休息だ」「永眠だ」
「恐ろしくない」と気楽に考えていますが、
いざ直面すると、死後は有るのか、無いのか、
どうなっているのか全く分からない。
最も重要なことを、実は最もおろそかにしていたことに
愕然とし、お先真っ暗な状態にうろたえます。
仏教では、この「死後どうなるか分からない心」を
無明の闇とか、後生暗い心といわれるのです。
●今の私を暗くするもの
すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心であると仏教では教えられています。
なぜでしょう。
未来が暗いと、どうなるか。
例えれば、こうもいえるでしょう。
三日後に大事な試験を控えている学生は、
今から心が暗くなります。
テレビでお笑いを見ていても、
“こんなことをしている場合じゃないのに・・・”
と落ち着かない気持ちになります。
五日後に生死にかかわる大手術を控えた患者に、
「今日だけでも、楽しくやろうや」
と言っても無理でしょう。
逆に一週間後に楽しい旅行が待っているとなると、
今から心がウキウキします。
毎日の仕事や家事は変わらなくても、
楽しい気分でやっているうちに、
いつも以上にはかどった、という人もあるでしょう。
未来が暗いと現在が暗くなる。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。
死後の不安と現在の不安は、
切り離せないものであることが分かります。
後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。
明るい太陽の下、視界がハッキリ開ける時は、
安心して車を走らせることができますが、
前方が深い霧に包まれていると、
だれでも走るのが不安になります。
高速道路のカーブの手前で、
スピードを上げる人はないでしょう。
曲がった先に何が待ち受けているか分からないからです。
後生暗い心とは、今が暗い心です。
確実な未来が分からぬ不安が、
現在の私を覆っているのです。
『千の風になって』という歌が流行し、
「死別の悲しみが慰められた」
「死に対するイメージが変わった」
と言う人もあります。
しかし、私たちの感じ方で
後生の実態が変わるわけではないでしょう。
葬式でこの歌を流し、
一言の説法も無く終わった寺があったそうですが、
これでは仏教になりません。
たとえ一時、悲しみが薄らぎ、慰められたとしても、
必ず来る自己の大問題に対する解決にはなっていないのです。
現世でいいことをやれば魂のステージが上がって、
死後、今よりいい所へ行けると言う人もありますが、
本心から、そう思えるでしょうか。
だれかから言われて、そうかな、と信じているだけでは、
後生の不安はなくなりません。
あなたの心は本当にスッキリ晴れわたっていますか。
「死ねばどうなるのだろう」
「人生をリセットして、また人間に生まれ変わりたい」
「念仏称えているから、極楽へ往けるに間違いない」
「悪いことばかりしているオレは、
どうも地獄へ行く気がする」
後生ハッキリしない心は皆、後生暗い心です。
晴れたかどうか分からないのは、
まだ晴れていないからです。
●後生明るい心になる
この後生暗い心を破り、未来永遠の幸福にしてみせる、
と誓われているのが弥陀の本願であり、
その弥陀の本願一つを説かれたのが仏教なのです。
弥陀の本願とは、
本師本仏と仰がれる阿弥陀仏のなされているお約束のこと。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
とおっしゃっています。
「無碍の光明」とは阿弥陀仏のお力。
弥陀のお力は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、
後生を明るくする、智慧の太陽なのです。
弥陀の光明によって無明の闇(後生暗い心)がブチ破られて、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”と心が一つに定まったことを、
「往生一定」
と蓮如上人は言われています。
いつ息が切れても浄土往生間違いなしと
「後生明るい心」が生まれるのです。
合格発表までの受験生は、大丈夫だろうか、
ダメだろうかと千々(ちぢ)に乱れて定まりませんが、
合格発表を見た瞬間、「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
弥陀の救いは、
決してぼんやりしたものではありません。
また、人の話を聞いて納得し、
「もう助かっているんだ」「死んだら極楽に連れていってくださる」
と自分で信じることでもありません。
「今こそ明らかに知られたり」
と躍り上がる明らかな体験です。
「一念の信心定まらん輩は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑なし」
(蓮如上人)
仏法を聞き求め、一念の信を獲て、
現在も未来も真に明るい人生を歩ませていただきましょう。
どんな人も絶対の幸福にする弥陀の強縁 [因果の道理]
(さとるとは、阿弥陀仏に救われたということです)
弥陀の放たれる真実の弾(たま)が心の闇を晴らす! [お寺の役割とは]
お寺は本来「なぜ生きる」を説くところです! [お寺の役割とは]
一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか! [後生の一大事]
親鸞聖人は『正信偈』の冒頭2行に
次のように書かれています。
帰命無量寿如来
南無不可思議光
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と、弥陀に救われた喜びを
叫ばれた聖人の大歓声であり、
その「救われた」とは、
「後生の一大事」のことであることを、
繰り返し述べてきました。
「後生」とは、一息切れた後。
「死んだらどうなるか」の大問題を、
仏教では「後生の一大事」といわれます。
私たちの百パーセント確実な未来ですから、
「誰の人も、早く後生の一大事を心にかけよ」
(白骨の御文章)
と蓮如上人は訴えておられるのです。
「一大事」といっても、世間で使われる意味とは、
全く異なります。
例えば自宅の全焼や会社の倒産などは、
確かに大変な出来事でしょう。
「一大事」と普通は思いますが、
それらはまだやり直しがきく。
火事ならば「焼け太り」もあり、
経営失敗から再起し
大成功する人もあります。
恋人にフラれた心の傷も、
時間が癒してくれるでしょう。
取り返しのつくことは、どんな深刻な事態でも、
仏教では「小事」です。
「一大事」とは、一度起きたならば、
二度と取り返しのつかないことだけをいわれます。
一息一息触れ合っている、この「後生の一大事」を、
親鸞聖人はこう説かれています。
呼吸のあいだ、すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば、万劫にもかえらず。
この時さとらざれば、
仏、衆生をいかがしたまわん。
願わくは深く無常を念じて、
いたずらに後悔をのこすことなかれ
(教行信証)
「一息つがざれば次の生である。
永久に後悔する後生を迎えねばならぬ。
ただ今、救われねば、
いつするというのだろうか。
いつできるというのだろうか。
永遠のチャンスは今しかない。
刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔をのこさぬように」
永久に後悔する後生を一大事といわれ、
この一大事の解決を急げ、とのご文です。
蓮如上人もまた、
命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得(おんこころえ)あるべく候
(御文章)
生きている時に、
「後生暗い心」が晴れなければ、
必ず後悔しますよ、
仏法は生きている間が勝負なのだ、
とお叫びです。
では、なぜ後生に一大事が起きるのか。
「火の車 造る大工はなけれども
己が造りて 己が乗りゆく」
私に現れる運命のすべては、
他の誰が生み出したものでもない、
全部わが身のまいたタネ。
厳粛な「善因善果 悪因悪果 自因自果」の
因果の大道理にしたがってのことであるのです。
(因果の道理に関しての記事は以下にアクセスしてください。
運命を決めるものは何?)
すなわち、まいたタネに応じた結果が、
まいた本人に現れる、
自業自得に寸分の狂いもない、
しかもそれは、現世のみならず
過去・現在・未来の三世を
貫いて成立している、
だから後生未来の結果は、
現在の自己のタネまき(行為)を
徹見すれば分かるのだと、
お釈迦さまは仰せなのです。
では、私たちは日々、
どんな行いをしているでしょうか。
○心、口、体で犯す十の罪悪
仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
「十悪」と教えられています。
貪欲、瞋恚、愚痴、綺語、両舌、
悪口、妄語、殺生、偸盗、邪淫の十の罪です。
初めの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは、
心で犯す罪悪をいいます。
仏教では「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれて、口や身体で犯す罪よりも、
心で思う罪はもっと恐ろしいといわれます。
最初の「貪欲」とは、底の知れない欲の心。
金が欲しい、物が欲しい、
褒められたい、認められたい、
もっともっとという限りない欲に、
私たちはどれだけ恐ろしいことを
思い続けていることでしょう。
「あいつがいなければ」「こいつさえ消えれば」
「あの人が失敗したらいいのに」と、
心で蹴落とし、殺してはいないでしょうか。
親子兄弟、友人、恩人、だれに対してであれ
自分の欲のためには、
どんなことでも平気で浮かんできます。
遺産相続で、兄弟や親戚同士、
骨肉相食む(あいはむ)争いは
この欲の心が引き起こす惨劇です。
その欲が妨げられると、
出てくるのが「瞋恚(しんい)」、
怒りの心です。
「あいつのせいで儲け損なった」
「こいつのせいで恥かかせられた」
と、怒りの心が燃え上がります。
離婚話にカッとなった男が、
部屋に灯油をまき火をつけ、
妻も子供も焼き払った事件がありましたが、
この瞋恚のなせる業(わざ)でしょう。
次の「愚痴」とは、ねたみ、そねみ、恨みの心。
欲を起こしても、怒ってみても、
かなわぬ相手と知ると、
ねたみ、そねみ、うらみの心が
わき上がってはこないでしょうか。
相手の才能や美貌、金や財産、
名誉や地位をねたみ、そねみ、
相手の不幸を喜ぶ悪魔の心。
災難に遭って苦しんでいる人に、
「お気の毒に」と言いながら、
心ではニヤリとする心です。
親鸞聖人は、ヘビやサソリを見たときのような、
ゾッとする心だといわれています。
これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語となります。
「綺語」とは、心にもないお世辞です。
「両舌」とは二枚舌ともいわれ、
仲のよい人の間を裂いて、
仲悪くするようなことを言うこと。
「悪口」とは、中傷でありワル口のこと。
「妄語」とは事実無根のウソをつくことです。
これらの言葉で、
深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。
「『2ちゃんねる』さえなければ、と思った。
ネットの怖さをもっと分かってほしい」。
インターネット掲示板の誹謗で被害を受けた、
ある学校法人の学園長は、
いわれなき中傷に翻弄された二年間を
苦渋の表情で振り返ったといいます。
元生徒の父親の心ない書き込みに、
多くの者が「祭り」と称して便乗したものと確認され、
父親は罰金刑。
ネット上には、匿名を利用した
悪質な中傷があふれています。
言ったほうは自覚がなくても、
言われたほうは死ぬまで忘れられないもの。
面白半分の言葉が、どれだけの人を苦しめ傷つけ、
殺しているかしれません。
さらに、体では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
「殺生」とは生き物を殺すこと、
「偸盗」は他人のものを盗むこと、
「邪淫」はよこしまな男女関係をいいます。
このように、心や口や体で
十悪を造り続けているのが
私たちだと、教えられているのが仏教です。
●親を殺す五逆の大罪
その「十悪」よりも重いのが「五逆罪」。
五つの恐ろしい罪のことですが、
中でも最初に挙げられているのが、
親殺しの罪です。
十六歳の少年が金属バットで
お母さんを殴り殺したとか、
五十代の男が年老いた母親を
刺し殺したなどという事件が、
時々耳に入ってきます。
赤ん坊のころは、
お乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらったのではありませんか。
病気になれば寝ずに看病してもらったり、
離れていれば、いつも心配してもらって
成長してきたのです。
そんな大恩ある親を自らの手で殺すなど、
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないかとさえ思われます。
仏教では、このような親殺しの大罪は、
最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる恐ろしい
「無間業」であると教えられています。
ところが親鸞聖人は、このように手にかけて
殺すばかりが親殺しではないのだよと、
親をそしる者をば五逆の者と申すなり
(末灯鈔)
と言われています。
親をそしるのも五逆の罪なのです。
「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、
「うるさい」「あっちへ行け」
などとののしるのも、親を殺しているのです。
また前述のとおり
仏教では、心を最も重くみられます。
一つ屋根の下に暮らしておりながら、
ろくに口もきかず、食事も別々に取り、
呼ばれても聞こえないふりして
親を邪魔者扱いしているのは、
心で親を殺しています。
親が病気にでもなり
寝たきりになったらどうでしょう。
世話を嫌って、「邪魔だなあ」
「いい加減死んでくれたら」
という、とても他人にはいえない心が
噴き上がってこないでしょうか。
数年前、女手一つで、
四人の男の子を大学まで出させ、
一流企業に入社、
結婚させたお母さんの悲劇が
紹介されていました。
その四人の兄弟夫婦が集まり、
年老いた母の面倒を誰が見るか、
ということで深夜まで激論したが、
誰一人として面倒を見ると言う者がいなかった。
その一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、
翌朝、電車に飛び込み、自殺したのです。
手にかけて殺さずとも、
私たちは心でどれだけ親を
殺しているか分かりません。
●もっとも恐ろしい謗法罪
「五逆罪」よりも、もっと恐ろしいのが
「謗法罪」です。
「謗法」の罪とは、真実の仏法を謗ったり
非難することをいいます。
なぜ仏法を謗ったり非難することが、
そんなに重い罪なのか。
それは、仏教はどんな教えかを知れば、
はっきりとお分かりになるでしょう。
今日も多くの人に尊敬されている
かの聖徳太子は、
有名な十七条憲法に、
仏教を「四生の終帰、万国の極宗」
と言われています。
「四生」とは、生きとし生けるものすべて。
「終帰」とは最後、帰依するところという意味で、
生きとし生けるものの救われる
唯一絶対の教えであるということです。
聖徳太子が断言されているように、
古今東西のすべての人が救われる
たった一本の道が仏教ですから、
「万国の極宗」とも言われているのです。
親鸞聖人は、
「九十五種世をけがす、唯仏一道きよくます」
「ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異抄)
“私たちを真に救いきる教えは
仏教以外にないぞ、
弥陀の本願念仏のほかに
助かる道はないのだよ”
と、明言されています。
そんな仏教を謗り、
弥陀の本願念仏を非難することは、
すべての人の救われる
たった一本の道をぶち壊すことですから、
こんな恐ろしいことはありません。
それは何十億、何百億、幾億兆の人を
地獄へ突き落とすことになりますから、
これ以上重い罪はないのです。
念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまう
(正像末和讃)
「最尊の念仏を謗る者の報いは恐ろしい。
必ず阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて
八万劫という永い間、
ひまなく大苦悩を受けねばならぬと、
経典に説かれている」
それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、
極楽と聞いても喜ばず、
あの人が死んだかと驚いて
一時は同情の涙が出ても、
自分は当分は死にはせぬと
平気でいる心が「闡提(せんだい)」で、
ドタ牛のように動かない。
頭は承知していても肝が承知しない。
道理は分かっても納得できない。
なんの不足もないのに満足がない。
分かって分からず、知って知らず、
急いで急がず、泣いて泣かず、
なんともかんとも言えないような奴が闡提です。
十悪・五逆・謗法・闡提。
照らし出された人間の実相を、
親鸞聖人は、次のように記されています。
「一切の群生海、無始より已来、
乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心無く、
虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心無し」
「無始より已来、一切群生海、無明海に流転して、
諸有輪に沈没し、衆苦輪に繁縛(けばく)せられて、
清浄の信楽無く、法爾として真実の信楽なし」
(教行信証信巻)
「然るに微塵界の有情、煩悩海に流転し、
生死海に漂没(ひょうもつ)して、
真実の廻向心無く、
清浄の廻向心無し」
(教行信証信巻)
繰り返し、後生の一大事を
警鐘乱打されているのです。
これが単なる合点ではなく、
自身の実相として照らし出された時、
一切の助かる望みが絶え果てて、
必ず火だるまになって
必定地獄を実感させられる。
いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし
(歎異抄)
は、その時の聖人の悲痛な
叫びでありました。
同時に、弥陀の呼び声を聞き
破闇満願させられて、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ
(歎異抄)
と躍り上がっておられます。
『正信偈』冒頭の、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、
いま救われた、助けられたぞ」
の叫びは、
この「後生の一大事」を救い摂られた時の驚き、
喜び、感動の告白なのです。
ですから、
「後生の一大事」が分からなければ、
この二行の意味がサッパリ分からず、
冒頭が分からねば、
『正信偈』は最後の行まで、
何を言われているのか
全く分からないことになってしまいます。
よくよく知っていただきたいと思います。
では、この極悪の親鸞が、
どうして救われることができたのか。
それは全く、阿弥陀仏のこのような
ご苦労があったからなのだ。
広大無辺なご恩を、喜ばずにはおれない」
と詳しく説かれているのが、次に、
「法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所」
と続くお言葉です。
それは、以下の記事を
読んでいただければ分かると思います。
宝の山に入っていることに気づいていない!? [蓮如上人]
全ての仏さまが総がかりで阿弥陀仏の救いがあることを知らせている!! [経典]
もし我々が池で溺れている犬を見たらどう思いますか?
何とかして救ってあげたいと思いますよね。
まして慈悲の塊である仏さま、
死ねば地獄しか行き場のない我々を見過ごすことはできない、
何とかして助けてあげたい、
阿弥陀仏の救いがあることを知らせねばと
浄土から、無数にある人間の存在する惑星に、
お釈迦さまと同じように説法されに来られるのです。
どんなすごい救いがあっても、それを教える者がいなければ
誰も助かりませんよね。
浄土から人間界にお出ましになるのも当然なことだと分かると思います。
そんな諸仏方が、
「われらが師の仏、阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。
我々が保証するから早く信じなさいよ」
と保証人になって、
「阿弥陀仏の本願」が真実であることを叫ばれておられます。
それが説かれているのが『仏説阿弥陀経』です。
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(ここからは真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』から載せています)
お盆の法要や葬儀でなじみ深い『仏説阿弥陀経』は、
釈迦一代の結びの経といわれ、
大宇宙の仏の本師本仏である阿弥陀仏のことばかりが
説かれています。
今回は『仏説阿弥陀経』について学びましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●お釈迦さまが自ら語りだされたお経
約2600年前、インドに現れられたお釈迦さま(釈尊)が、
35歳で仏という無上のさとりを開かれてから、
80歳で涅槃に入られる(亡くなる)までの45年間、
説かれた教えを仏教といいます。
その教えは、7000余巻という膨大な数のお経に書き残されています。
これを「一切経」といいます。
お経の名前には必ず「仏説」とありますように、
仏である釈尊の説かれたものだけをお経といいます。
『仏説阿弥陀経』もその一つ。
この『阿弥陀経』の大きな特徴は「無問自答」といわれることです。
お釈迦さまのご説法は、
お弟子などの質問に答えられる形で始まりますが、
この『阿弥陀経』だけは例外で、
問わず語りに釈迦自ら語り始められたのです。
本師本仏の阿弥陀仏の本願を説くことこそが、
弟子であるお釈迦さまの出世本懐(この世に生まれた目的)であったのですから、
その目的を果たす喜びのあまり、
釈迦は自ら説かずにいられなかったのでしょう。
その『阿弥陀経』の冒頭には、こう説かれています。
「一時、仏、舎衛国の衹樹給孤独園に在して、
大比丘衆千二百五十人と倶なりき」
(ある時、釈尊は、千二百五十人の優れたお弟子とともに、
舎衛国の衹樹給孤独園におられました。
「舎衛国の衹樹給孤独園」とは、
中インドのコーサラ国の首都・舎衛城にあった大寺院のことで、
一般に「衹園精舎」と呼ばれています。
ここで『阿弥陀経』をはじめ、多くの経典が説かれていました。
「爾時(そのとき)、仏、長老舎利弗に告げたまわく、
是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、
名けて極楽と曰う。
其の土(くに)に仏有(ましま)す。
阿弥陀と号す、今現に在して説法したまう」
(その時、釈尊は弟子の舎利弗にこう告げられました。
これより西方、十万億の仏土を過ぎて極楽という世界がある。
その世界には阿弥陀仏といわれる偉大な仏さまがましまして、
今現に説法をしていらっしゃるのだ、と)
お釈迦さまは、宇宙には、この地球のようなものが数限りなくあり、
それぞれに仏さまがまします、と教えられています。
仏教では宇宙について
「地球のような世界が千個集まって小千世界、
小千世界が千個集まって中千世界、
中千世界千個で三千大千世界を形成している。
それらがまた無数に集まったのを、十方微塵世界という」
と説かれています。
これは、今日の天文学でいう宇宙観と大変似ており、
それが二千六百年もの古に釈迦によってすでに教えられていたことに
驚かずにおれません。
この宇宙観に基づいて、
「十万億の仏土を過ぎて、極楽という世界がある。
そこにまします仏を、阿弥陀仏といわれる」
と釈迦は説かれているのです。
●阿弥陀仏と釈迦仏の関係
阿弥陀仏とは、どんな仏さまなのでしょう。
「彼(か)の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障礙する所無し、
是(こ)の故に号して阿弥陀と為す」
「彼の仏の寿命及び其の人民も
無量無辺阿僧衹劫なり、故に阿弥陀と名く」
『阿弥陀経』には、このように阿弥陀仏は
「光明無量、寿命無量」の仏さまであると説かれています。
「光明」とは、阿弥陀仏の智慧、お力のこと。
「無量」とは無限、計り知れないことですから、
空間的無辺を表します。
阿弥陀仏の光明は大宇宙どこでも届かぬ所がない。
何ものも妨げにならないのだ、ということです。
「寿命」とは慈悲のこと。
阿弥陀仏の命は限りがないとは、時間的無限であり、
私たちを未来永遠に救ってくださる、
限りないお慈悲の仏さまであるということです。
仏と聞けば、
「釈迦も、阿弥陀仏も同じ仏だろう」
と思っている人が少なくありません。
しかし、それは大変な間違いです。
釈迦と阿弥陀仏は違う仏さまであり、
その違いを知らないと、仏教は全く分かりませんから、
よく知っていただきたいと思います。
お釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏という無上のさとりを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれますが、そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と教えてくだされたのが、阿弥陀仏といわれる仏さまなのです。
お二方の関係について、お釈迦さまが詳しく教えられていることを、
蓮如上人も『御文章』にこう端的に仰っています。
「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
(二帖目八通)
お釈迦さまは、地球上では唯一の仏であり、
最も尊い方ですが、大宇宙には地球のようなものが無数にあり、
それらの世界には無量の仏がまします。
その仏方を総称して「十方の諸仏」といいます。
『阿弥陀経』では、大宇宙を東西南北上下の六方と表し、
それぞれの方角に、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏など、たくさんの仏さまがましますと、
名前を挙げて説かれています。
阿弥陀仏がそれらの仏方の本師本仏であるとは、
十方諸仏の師であり先生である、ということです。
諸仏は阿弥陀仏の弟子なのです。
地球で唯一の仏・釈尊も諸仏の一人ですから、
弥陀のお弟子です。
●釈迦出世の大目的
弟子の使命とは、何でしょう?
師の御心を正確に、一人でも多く伝える以外にありません。
ゆえに弟子の釈迦が説かれた仏教は、
師である阿弥陀仏の御心一つを教えられているのです。
そのことを親鸞聖人は『正信偈』に、こう明言されています。
「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
(如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)
「如来」とは釈迦如来。
「釈迦が世に興出したもう所以は」とは、
「釈迦が、この地球上に現れて、仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、ただ一つのことを説かれるためであった、
ということ。
七千余巻のお経、45年間の教法と聞きますと、
「お釈迦さまはいろいろなことを、
教えていかれたのだろう」
と思いますが、そうではない。
たった一つのことなのだと、親鸞聖人は断言されています。
一切経を99パーセント読んでも、こんな断言はできません。
残りの1パーセントに何が書かれているか分からないからです。
一切経を何度も読破されての、親鸞聖人の確言なのです。
私たちは釈尊が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、
仏教全てを聞いたことになり、仏教の全てを知ったことになる。
ゆえに釈尊のただ一つ説かれたことほどの大事はなく、
それこそが「弥陀の本願」であると、親鸞聖人は仰っています。
●阿弥陀仏の本願
弥陀の本願とは、阿弥陀仏の本当に願っていられる御心のことで、
それはあまりにも広大で深いので、
海に例えられ「本願海」と言われています。
釈尊45年間の教えは、この弥陀の本願以外になかったのです。
しかも弥陀の本願一つ説かれているのは、
地球のお釈迦さまだけではありません。
大宇宙のあらゆる仏方も同様で、
それぞれの国土で、本師本仏の弥陀の本願一つを説くことを
出世本懐(世に現れた目的)とされているのです。
だから『阿弥陀経』には、
「われらが師の仏、
阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。
我々が保証するから早く信じなさいよ」
という諸仏の言葉が説かれています。
「舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、
東方にも亦、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、
各其の国に於て、広長の舌相を出してあまねく三千大千世界に覆いて、
誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の
『称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経』を信ずべしと」
(舎利弗よ、この釈迦が今、弥陀の本願によってつくられた
南無阿弥陀仏の功徳の不可思議なることを説いているように、
東の方にもまた、あしゅくび仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏
・妙音仏、このようなガンジス河の砂の数ほどの無数の仏方が、
おのおのその国において、大雄弁をもって、
三千大千世界の至るところで、
“全ての人々よ、まさにこの不可思議な弥陀の本願を信ずる以外に
救われる道はないのだ”
と真実の説法をしておられるのだ)
これは東方のみならず、南方、北方、上方、下方の六方にまします仏方が皆、
弥陀の本願まことを保証しておられることが続いて説かれています。
これが有名な「六方諸仏の証誠」です。
先述しましたが、東西南北の四方に上方・下方を加えて
説かれる釈尊の宇宙観は、今日、明らかになっている宇宙の構造を、
まるでご存知だったかのようです。
仏さまの深い智慧の一端が知られるでしょう。
また、その大宇宙にたくさんの仏がましますことも、
「仏々想念」とか「唯仏与仏の知見」といわれる仏智の働きによって
仏さま同士が互いに通じておられるから、分かられたことです。
●すべての仏さまが
たたえるのはなぜか?
その大宇宙のすべての仏方が、
「偉大な仏だ、尊い仏だ、われらの師匠である」
と褒めたたえ、手を合わせて拝まれるのが阿弥陀仏です。
十方の諸仏方が一仏残らず褒めたたえておられるとは、
いかにすごいことでしょうか。
人間ならば、どんな立派な方でも、万人に褒められることはないでしょう。
「過去にも、今にも、未来にも
皆にて謗る人もなく
皆にて褒むる人もなし」
(法句経)
ところが仏の世界にはあるのです。
阿弥陀仏こそは、大宇宙のすべての仏方が異口同音に
褒めたたえられる最も偉大な仏さまなのです。
それは、他の仏にない、ズバ抜けて優れたお力を
持っておられるからです。
「舎利弗、彼の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障碍する所無し、
是の故に号して阿弥陀と為す」
(舎利弗よ、彼の仏の光明<智慧・お力>は無限であり、
大宇宙の全ての世界を照らして、妨げるものは何一つない。
無限のお力を持たれた阿弥陀仏なのである)
「光明」とは、仏の智慧を表す、とはすでに述べました。
阿弥陀仏が、諸仏に優れているのは、
実にこの無量の光明であると、親鸞聖人は讃嘆なされています。
「仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ」
(浄土和讃)
*大応供(だいおうぐ)・・・「応供」とは供養を受けるにふさわしい方、仏のこと。大応供とは最もすぐれた仏のことで阿弥陀仏のこと
(阿弥陀仏の光明は最第一にして、
諸仏の光明は遠く及ばない。
阿弥陀仏を光炎王仏とお呼びするのだ。
その光明は三塗の黒闇<無明の闇>を破るお力があるから、
大応供の阿弥陀仏を帰命しなさい)
最第一のお力を持たれた本師本仏の阿弥陀仏。
その光明は「三塗の黒闇(無明の闇)」をひらく(破る)ことができる
ズバ抜けたお力、智慧です。
そこで諸仏方は光炎王仏とか大応供ともお呼びし、
異口同音に褒めたたえずにおれないのです。
大宇宙広しといえども、我々の三塗の黒闇(無明の闇)を破るお力は、
阿弥陀仏の光明以外ありませんから、
一切の諸仏が称賛するのです。
では、三塗の黒闇(無明の闇)とは何なのでしょうか。
これは、「死んだらどうなるか分からない心」
「本当に浄土往生できるのだろうか、という不安な心」をいいます。
死に直面すると、黒いというか、暗いというか、
真っ暗がりの闇の心になりますので、
親鸞聖人は「黒闇」と仰っているのです。
先のお盆の項でも書きましたが、
死は万人の確実な未来ですが、死ねばどうなるか分からぬまま、
私たちは日々を生きています。
飛行機でいえば、どこへ向かって飛んでいるのか、
降りる場所もハッキリせぬまま、飛んでいるのです。
その不安をごまかそうと機内でどれだけ楽しもうとしても、
心底からの安心も満足も味わえない。
この暗い心を無明の闇といい、
全ての人の苦悩の根元であると教えられます。
そこで、阿弥陀仏は、この無明の闇をぶち破ってみせる、
と誓われ、兆載永劫という気の遠くなる長期間、
大変なご苦労をなされてつくられた「南無阿弥陀仏」の六字の御名号を、
平生の一念に私たちに与えて、救ってくださるのです。
『阿弥陀経』に六方(十方)諸仏の「称讃不可思議功徳」とあるのは、
阿弥陀仏のつくられた、その「南無阿弥陀仏」の不可思議な功徳を、
すべての仏方が褒めたたえている、ということなのです。
その諸仏称讃の名号(南無阿弥陀仏)を、
私たちが受け取った一念に救われることを、
と説かれています。
この弥陀の本願のとおりに南無阿弥陀仏を信受し、
救われたならば、無明の闇が破られ、後生明るい心になります。
いつ死んでも弥陀の浄土、限りなく明るい無量光明土に
生まれることがハッキリいたしますから、
これを「往生一定」というのです。
「往生」とは、この世終わると同時に、
弥陀の浄土に往って、弥陀同体の仏に生まれることです。
それがはっきり定まったのが「一定」。
最高に素晴らしいところに往けることが、
ただ今、決定いたします。
生きてよし、死んでよし、いつでもどこでも大安心大満足の絶対の幸福で、
この世を生き抜くことができるのです。
「全ての人よ、一日も片時も急いで、
弥陀の本願を信じ、この無上の幸福に救われてもらいたい」
と大宇宙の諸仏方が保証人になって、
阿弥陀仏の本願が真実であることを証明されているのが
『仏説阿弥陀経』なのです。
「葬式仏教」、それは本当の仏教じゃない! [なぜ生きる]
「葬式仏教、それは本当の仏教じゃないのよ」
「葬式仏教」といわれて久しく、
僧侶の務めは「葬式や法事」と考える人も多いでしょう。
そんな仏教観を持つ人に、
仏さまの教えをよく知る人は訴えます。
「それは本当の仏教じゃない」
では、真実の仏法とは何を教えられているのでしょう。
親鸞聖人からお聞きします。
真実の仏法は「平生業成」
●「仏法嫌い」は
どうしてなの?
「いいかげんにその歌やめろ!
坊主に何を吹き込まれたのか知らんが、
あいつらは金の亡者だぞ。
おっとうが死んだ時も
『たくさん金を払えば長いお経をあげてやる』だの、
『極楽に行ける』だのなんて言いやがったんだ!」
普段から熱心に聞法し、
「恩徳讃」を口ずさむ妻・千代に、
こうまくしたてる仏法嫌いの了顕。
“それは・・・”と言いかけた千代を遮り、さらに言う。
「本堂が雨漏りするとか、門が壊れたとか、
何だかんだと言って門徒から金を集めるそうじゃないか。
断ったら『墓を持っていけ』と脅された奴もいるらしいぞ」
「それは本当の仏教ではないのよ。
あなたも、蓮如さまのお話を聞けば分かるわ」
千代の言葉にも、了顕は承服しなかった。
約500年前、浄土真宗を日本全国に弘められた蓮如上人と、
その弟子、本光房了顕の史実を描いた
アニメーション映画『なぜ生きる・・・蓮如上人と吉崎炎上』
冒頭の一場面です。
幼くして父親を失った了顕は、
葬儀の際の僧侶の一言で、「坊主は大嫌い」になりました。
「僧侶は葬式や法事で金儲けする者」との思いを、
彼はここで吐露しています。
今日も、仏教に同様のイメージを持っている人は多いでしょう。
●批判される仏教界
“教えを説かない僧侶たち”
最近、流通王手のアマゾンが民間業者と提携して、
葬儀・法事への僧侶の手配のチケットを販売し、
イオングループなども同様の安価なサービスを展開して
好評を得ています。
注目されるのは、今まであいまいだった
「お布施」の金額を明確に打ち出した点です。
ところがこれに、全日本仏教会が、
「お布施本来の宗教性を損なう」と苦言を呈し、
議論の的となりました。
様々な意見が見られます。
“アマゾンの試みは、よくも悪くも
法要や戒名の金額の不透明さに一石を投じている”
と語る人は、こんな経験をしたそうです。
父親の49日が終わって納骨の時、
僧侶が挨拶もそこそこに左手を出してお礼を要求してきた。
しかも彼は、もらうものをもらったら遺族を急がせ、
読経が終わるやそそくさと帰宅。
思い出話も法話もなかったといいます。
一方で、アマゾンのようなサービスは心が失われており、
葬儀や法事はそんなもんじゃないと感じる、
という人も。
中には仏教のあり方を問う、こんな意見もありました。
“そもそも仏の教えを伝えない人を
仏教者(僧侶)と見なすことはできない。
人々に教えが届いていれば、こうはならない。
大衆が知りたいのは仏教界の論理ではなく、
仏の教え、心の救いだ。
何もしない人にお金を渡すことに異を唱えるのは仕方がない”
ここで言われているように、
問題は「教えを説かずに布施を要求すること」です。
仏教を説かれたお釈迦さまは、死者のための葬式をされたことは
一度もなかったといわれます。
常に、生きた人間に救いの法を説かれたのです。
葬儀や法事は本来、親しい人の無常をご縁に仏法を聞かせていただくために
開くのであり、その説法へのお礼が「お布施」なのです。
「教えの有無」が大事であり、正しい教えを聞いた人ならば
「布施」の心がおのずと起きるものです。
●本当の仏教とは何でしょう?
正しい教えを知らずに腹を立てる了顕に、
妻の千代は、
「それは本当の仏教じゃないのよ」
と諭していますが、本当の仏教とはどんな教えなのでしょうか。
映画のご説法で、蓮如上人は第一声、こう仰います。
蓮如上人 「皆さん、親鸞聖人の教えはただ一つ。なぜ生きる、
『なぜ生きる』の答えでした」
私たちが人間に生まれてきたのは何のためか。
その答え一つを説かれたのが親鸞聖人であると明言されています。
親鸞聖人はそれを、主著『教行信証』冒頭に
「難度の海を度する大船」に乗ること、
とズバリ仰っています。
●釈迦の金言
「人生は苦なり」
「難度の海」とは、苦しみの絶えない人生を、
荒波の絶えない海に例えられているのです。
フランスの思想家、ルソーは、
「人生の最初の四分の一はその使い道もわからないうちに過ぎ去り、
最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎていく。
しかもその間の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、
あらゆる種類の苦しみによって費やされる」と言い、
ノーベル文学賞の戯曲家、イギリスのバーナード・ショーは、
「人生は苦しみである。そして2人の人間の唯一の相違は、
その人の味わっている苦しみの程度の差に過ぎない」
と語っているように、
多くの著名人も人生は苦しいところだと述べています。
仏のさとりを開かれた大聖釈迦牟尼世尊(お釈迦さま)は、
「人生は苦なり」
(人は生まれてから死ぬまで、苦しみ続けなければならぬ)
と道破なされ、その実態を「四苦八苦」で教えられています。
次の八つです。
初めの「生苦」とは生きてゆく苦しみ。
これを「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」と
具体的に教えられています。
「愛別離苦」とは愛するものと別離する苦しみをいいます。
政治資金の不在使用で辞職した前東京都知事は、
週刊誌で始まった追求から世論が高まり、
恋々と固執した知事のイスを追われた。
身から出たサビとはいえ、
泣くほど愛着した地位から引き離されるのは辛かったでしょう。
大切な人や物を失う痛みは、筆舌に尽くし難いもの。
永年連れ添った伴侶や親、子との別れを味わって、
悲嘆されている方もあるでしょう。
次の「怨憎会苦」とは、怨み憎むものと会わねばならぬ苦しみ。
イヤな奴、と聞けば、幾人かの顔がすぐに浮かぶ。
そんな相手と会う不快さです。
「亭主元気で留守がいい」と笑い飛ばせたのは過去のこと。
夫の在宅がイヤでイヤで高血圧やうつなど
体調を壊す妻が多くあるようです。
「主人在宅ストレス症候群」なる病名までついています。
一方、NHKの「クローズアップ現代+」によると、
“すぐキレる妻が怖い”という夫がなんと47パーセント。
妻は自分が働いているのに、家事や子育てを手伝わない夫に
イライラしているのですが、夫は妻が何を怒っているのか
分からないので会話もできず、退社後も帰宅せずに繁華街を、
何時間もさまよう。
そんな夫が増えているといいます。
愛した人がストレスの元とは、まさに愛情一如。
その人にとっては結婚が「怨憎会苦」の始まりだったのかも。
「求不得苦」は、求めているものが得られない苦しみのことです。
女性3人のアイドル「パフューム」が
“最高を求めて終わりなき旅をするのは、私たちが生きているから。
夢に向かって遠い先まで、前を見て進もう”
という内容の応援歌を発表した時、
メンバーの一人がこう紹介しています。
「今回の新曲は一言で言うと、ものすごい苦しい歌です。
勇気が出るといえば、出るんですが・・・」
有名になり、多くの曲をヒットさせているパフュームですが、
これからは日本だけでなくアジア、欧米へ進出する。
大きな夢を追い求める、その厳しい過程を思うと
「ものすごい苦しい歌」という本音が思わず出たのでしょう。
「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
七つ、八つ・・・もっともっとと、
死ぬまで「夢のまた夢」に取りつかれ、
私たちは“六つか(難)し”の「難度の海」を泳いでいるのです。
●「死ぬまで求道」がいい?
スポーツや音楽、科学、医学、芸術など、
人間の全ての営みに完成はありません。
それを「死ぬまで求道」といいます。
多くの人は礼賛する言葉ですが、よく考えれば、
100パーセント求まらぬものを、
死ぬまで求め続ける、というおかしなことにならないでしょうか。
求めるのは「求まる」ことが前提のはず。
死ぬまで求まらぬと知りながら求め続けるのは、
去年の宝くじを買い続けるようなもの。
“それでいい”とどうして言えるのでしょうか。
「求める」のは苦しいこと。
「死ぬまで求道」の人生は、そのまま死ぬまで
苦しみの絶えない難度の海なのです。
しかも人生には、すべての人が避けられぬ
「老苦」「病苦」「死苦」が必ず訪れます。
「老苦」は肉体が古びていく苦しみ。
若いつもりがいつの間にやら随所に衰えが来ます。
幼い頃、なぜ祖父母が眼鏡を外して小さい文字を見るのか、
全く理解できなかったが、自分が老眼になるとよく分かる。
老いの嘆きは1000年以上前の『古今集』の時代から、
いずこでも常に変わらないのだと知らされます。
「老いらくの
来んと知りせば 門鎖して
なしとこたえて 会わざらましを」
(このように「老い」が来ると知っていたら、門を閉ざし
「用のある者はない」と言って会わぬようにしたものを)
「とどめあえず
むべもとしとは 言われけり
しかもつれなく 過ぐる齢か」
(とどめられず、まさに「疾し(年)」とはよく言ったもの。
かように人の気も知らず、「齢」は過ぎゆくものだなぁ)
長寿がかなった高齢社会の現代は、
老老介護や老後破産など、老苦はより深刻になっていようです。
「病苦」は病の苦しみです。
「やまいだれ」に「丙」と書くのは、
どんな病気も当事者には甲乙つけがたい苦痛だから、といわれます。
6月に亡くなったボクシング元世界ヘビー級チャンピオン、
モハンメド・アリさんは、“蝶のように舞い、蜂のように刺す”
華麗な戦いが多くの人を魅了しましたが、
彼の引退後の半生は、42歳から晩年まで
パーキンソン病との闘いでした。
並外れた身体能力も病一つで奪われ、
歩行もままならなかったといいます。
「死苦」は問答無用、「死ぬほどつらい」とよく口にしますが、
この100パーセントの未来が、
私たちの人生を巨大な不安で覆っているのです。
蓮如上人はこう仰せです。
「未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し」(白骨の章)
どこにも千年万年、生きている人を聞かない。
人生は実に短い。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず」
(白骨の章)
朝元気な人が、夜にはポックリ死んでしまうこともよくあること。
次の世に旅立つ時は、妻も子供も兄弟も連れにはなってくれない。
この世のもの何一つ、持ってはいけないのです。
●「絶対の幸福に救う大船あり」
親鸞聖人の断言
親鸞聖人は「こんな四苦八苦の難度の海に苦しむ私たちを、
そのまま乗せて絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土まで渡す大船があるのだよ」
と断言なされています。
阿弥陀仏の本願によってつくられた船ですから、
「大悲の願船」と聖人は仰っています。
阿弥陀仏とは、お釈迦さまが紹介された仏さまです。
大宇宙には地球のような世界が無数に存在し、
それぞれに仏さまがまします。
その大宇宙の諸仏方が異口同音に、
「われらの本師本仏である」
「最高無上の師の仏だ」
と仰ぐお方が阿弥陀仏です。
阿弥陀仏が、
「どんな人をも
必ず絶対の幸福に助ける」
という本願(約束)を建てておられます。
このお約束を果たすために、
阿弥陀仏がつくられたのが大悲の願船なのです。
この大悲の願船に乗せられ、絶対の幸福になるために、
私たちは生まれてきた。
これが「なぜ生きる」の答えであります。
●「永遠の命が救われる」
では、大悲の願船に乗せられる、とはどんなことでしょうか。
映画『なぜ生きる』で蓮如上人はこう仰います。
蓮如上人 「阿弥陀仏の救いは、肉体の救いとは比較にならぬ、
永遠の命が救われるご恩ですからね、
無限に大きくて深いものなのですよ」
大悲の願船に乗せていただけば、
四苦八苦に蹂躙される肉体の救いではなく、
「永遠の命が救われる」と言われています。
このことについて親鸞聖人からお聞きしましょう。
ご自身が大悲の願船に乗せられた時の歓喜と感謝を述べられた
『教行信証』総序のお言葉です。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
(ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
全くこれは、弥陀の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、弥陀の救いにあえぬままで終わっていたら、
未来永遠、幸せになることはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを)
「噫」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きとよろこびの、
言葉にならぬ言葉です。
「弘誓の強縁」とは阿弥陀仏の本願のこと。
“難度の海に苦しむ人々を、必ず大船に乗せて絶対の幸福に救う”
という強烈なお約束をいい、
その誓いどおりに、大船に乗ったことを、
「真実の浄信」と言われています。
それはもう、100年や200年求めて得られる、
ちっぽけな幸せではなかった、と知らされますから、
「親鸞、果てしない過去から、生まれ変わり死に変わり、
生死生死を繰り返してきた。
永い間迷い苦しみ、救いを求めてきたのだ。
その多生にもあえなかった弥陀の救いに今、あえた、
億劫にも獲がたいことを今、獲たのだ」
と言われているのです。
ここでいわれる「あう」は「値う」と書き、
過去無量劫、果てしない魂の歴史の間にも、
かつてなかったこと。
これから未来永劫、二度とないことに「値った」ことをいいます。
多生億劫の間求めても値えなかったことに値えたから
『噫』と驚嘆せずにいられなかったのでしょう。
山高ければ谷深し、救い摂られた山が高いほど、
後生の一大事に戦慄し、こう嘆息もされています。
「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん」
弥陀の大船を疑って乗らぬ心を、ここでは「疑網」と言われ、
「もしまた今生も、大悲の願船を疑い、
乗船せぬままで終わっていたら、未来永劫、
苦しみ続けていたに違いない。危ないところであったなぁ」。
合掌瞑目し、法悦に包まれる聖人が、
まぶたに浮かぶようです。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
「まことだった!本当だった。絶対の幸福に救い摂り、
必ず極楽浄土に渡してくださる弥陀の願船、ウソではなかった。
皆々、乗船してもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、大悲の願船の厳存を知ってもらいたい」
弥陀の救いはこの世の肉体の問題ではない。
まさしく「永遠の命を救っていただいた」という美しい感激に
満ちた告白であることが知らされます。
だからこそ、「身も粉に、骨砕きても」という恩徳讃の心になるのです。
●平生の一念に乗せられる
この大悲の願船には、いつ乗せていただけるのでしょう。
映画で蓮如上人は、こう教えられています。
蓮如上人 「それは、平生、生きている、今のことですよ。
今この大船に乗せていただき、どんなことがあっても
変わらぬ絶対の幸福になることを、
『平生業成』と親鸞聖人は言われています」
「平生業成」とは親鸞聖人の教えを漢字四字で表した言葉です。
「平生」とは死後ではない、「生きている今」のこと。
「業」とは人生の大事業。
これこそ「なぜ生きる」の答えであり、
大悲の願船に乗じて絶対の幸福(往生一定)になることです。
私たちに、これ以上大切なことはありません。
「成」とは「完成、達成する」ということです。
“人生には、これ一つ果たさねばならないという大事な目的がある、
それは現在、完成できる。だから早く完成しなさいよ”
と親鸞聖人は教えられていますから、
「平生業成」は聖人の教えの一枚看板といわれるのです。
「仏教」と聞くと、地獄や極楽などの死後物語ばかりと
思われているのが悲しい現実です。
その誤解を正し、弥陀の救いは“今”であることを
鮮明になされた方が親鸞聖人なのです。
「漂泊とは、たどりつかぬことである。
たとえ、それがどこであろうとも、われわれに夢があるあいだは、
『たどりつく』ことなどはないだろう」 (旅の詩集)
作家・寺山修司が言うように、果てなき夢を求めて
難度の海を漂泊する者は、
どこにでも「たどりつく」ことはない。
ゴールなき「死ぬまで求道」では永遠に救いがありません。
親鸞聖人は、「なぜ生きる」の答えがある、
この世でハッキリ絶対の幸福に救われる時がある、
と断言されているのです。
弥陀の大船には平生の一念に、乗せていただけるのですから、
こんな水際だった鮮やかな救いは、
阿弥陀仏の本願にしかありません。
真剣によくよく弥陀の本願を聞いて、
一日も早く「平生業成」の身にならせていただきましょう。