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どうすれば「南無阿弥陀仏」を受け取れるのか!? [南無阿弥陀仏]

〝生きてよし、

   死んでよし〟

浄土往生間違いない身に

 あなたも必ずなれる

       南無阿弥陀仏の大功徳

 

お釈迦さまは、私たちに西方、極楽浄土(彼岸)を示されて、

「ひたすら西へ進みなさい。必ず幸せになれる」

と教えられました。

極楽往生と聞くと、遠い先の死後のこと、

日常の生活と懸け離れた、おとぎ話のように思われるかもしれません。

しかし一日一日、死に向かって進んでいるのが私たちですから、

来世の問題は避けて通れません。

未来がハッキリしないままか、極楽往生とハッキリするのかで、

人生はガラリと変わります。

今回は、浄土へ往く身にハッキリ救われるとどうなるのか、

どうしたらなれるのか、親鸞聖人からお聞きしましょう。

 

親鸞聖人の教えは、釈迦の説かれた仏教以外にありません。

仏教とは仏の教え。

仏とは、世間でよくいわれるように、〝死んだ人〟のことではなく、

最高無上のさとりである仏覚をさとられた方をいいます。

仏覚までさとられた方は、地球上ではお釈迦さまだけですから、

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」

ともいわれます。

そのお釈迦さまの教えは、「一切経」に全て書き残されています。

その数は、7千余巻に上る膨大なものですが、

その中に、何が説かれているのでしょうか。

一切経を何度も読まれた親鸞聖人は『正信偈』に、

「釈迦如来が仏教を説かれたのは、

阿弥陀仏の本願唯一つを教えんがためだった」

と、断言されています。

ですから、阿弥陀仏の本願一つ分かれば、

仏教は全て分かったことになります。

では、その阿弥陀仏の本願とは何でしょうか。

まず阿弥陀仏とは、どんな仏さまか、

お釈迦さまは『大阿弥陀経』に、

「阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、

光明の中の最明無極なり」

阿弥陀仏は、大宇宙にまします仏方の王である。

そのお力は、あらゆる諸仏の中で最も強く尊く、

無限である

と教えられ、親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は、

阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり

                (御文章2帖目8通)

阿弥陀仏は、あらゆる仏の先生、師匠であると教えられています。

 

阿弥陀仏が、諸仏の王様、師匠と褒めたたえられるのは、

大宇宙のどんな仏さまもかなわぬ、

無上最高の本願を建てられたからです。

親鸞聖人は『正信偈』に

「阿弥陀仏は無上殊勝の願(本願)を建立し、

希有の大弘誓を超発せられた」

と仰がれています。

本願とは誓願ともいい、お約束のこと。

『大無量寿経』にはこの阿弥陀仏の本願が、

漢字36文字で記されています。

今日の言葉で表すと、

どんな人も必ず

    絶対の幸福に救う

と誓われています。

 

●人生の難度海に大船あり

 

親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、

この阿弥陀仏の本願をこう仰っています。

「難思の弘誓は難度の海を度する大船」(教行信証)

「難思の弘誓」とはどんな人をも救う阿弥陀仏の弘いお誓い、

本願のことです。

この阿弥陀仏の本願を親鸞聖人は、

大きな船に例えられ、「難度の海」を明るく楽しく渡す

大船と仰っています。

「難度の海」とは、私たちの人生のこと。

人生は〝忍耐、また忍耐〟の堪忍土。

無限に押し寄せる波のように、

つらいことが次々にやってきますから、

「苦海」ともいわれます。

若い時は意気揚々と肩で風切って歩いていても、

仕事・育児と駆け回るうちに、気がつけば中年、

老年になっている。

運動が大事と言われウオーキングに出掛けるが、

立つも座るも痛みを伴う。

ケガでもすれば、危ないからと禁止令。

仕方なく居間のテレビをつければ、

ここは異国かニッポンか?

聞き慣れぬ最近の言葉に戸惑って、

字幕を見ても目は薄く、ボリュームを上げると叱られる。

中学卒業後、50年ぶりの同窓会。

ドキドキしながら出掛けていくと、

「昭和○年度○○中学校同窓会」の立て看板。

「ここだ」と入った会場は、なぜか見慣れぬ人ばかり。

すっかり顔形が変わっていた。

「私、佐藤です・・・あなたは?」

「私、鈴木です。あ、お久しぶり!」

名前を聞いても分からない。

分かった顔して「お久しぶり!」。

それから記憶を捜し出す。

酒宴の会話も聞き取れず、尋ね直しも2回まで。

後は聞こえたふりして隣に合わせて笑ってる。

食後に持参の薬を出せば、病気の話題で盛り上がる。

帰る頃には

「ところで、あなた、お墓どうするの?」。

やっぱり気になるのは、行き先のようです。

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この苦悩の難度海を、現在ただ今、

絶対の幸福に救い摂って、

必ず浄土(彼岸)へ渡してくださる大きな船がある。

その大船に早く乗せてもらいなさいよと、

教え勧められたのが親鸞聖人です。

 

「そんな大船に乗らなくても、大丈夫」

と思う人があるでしょう。

周りを見ても、けっこう楽しそうに生きている。

人生は荒波あってこそと、豪語している人もある。

苦難にチャレンジする人生がいい、

まだまだやりたいことがあるから、

仏法は年を取ってからと思うのでしょう。

そのやりたいこと、心の支えにしていることを親鸞聖人は、

難度海に浮かんだ丸太や板切れに例えられています。

大海を泳ぎ続けるのは大変で、

何かにすがらずにはいられません。

丸太を目掛けて泳ぎ、ようやくすがってヤーレヤレと

安心するのもつかの間、大きな波のパンチを受ければ、

たちまちひっくり返ります。

健康自慢で、ゴルフだ旅行だと楽しんでいた人が、

突然の病に倒れ、

「こんなことになるとは、夢にも思わなかった」

と嘆いている。

大雨や大火事で、水や火が家をのみ込み驚き嘆く人もあります。

 

●生まれて来てよかったと、喜んでみたい

 

「奥さんらはいいですね。

もう、何もかも済んでしまって楽ですわね」

町内会の集まりで大きなおなかをしたお嫁さんが、

思うに任せぬ身体の不自由さと、

近づくお産の不安に顔を曇らせ、

60過ぎの隣の奥さんに、こうささやく。

すると彼女は、とんでもないよと言うように大きく首を振る。

「あんたら若い人はいいよ。私らのようになるともう、

死ぬのを待つばかりよ。

それも楽に死ねたらいいが、長患いでもしてみんなから嫌われ

邪魔者扱いされて、苦しんで死ぬのではなかろうかと、

それが心配で心配でならんのよ」

大学生の娘は試験がなかったら楽なのにとぼやき、

結婚して暴力亭主に苦しむ妻もありで、

人生、どちらに向いても難度海です。

 

あるスポーツ選手が

「苦しい練習をして栄光を勝ち取っても、

一瞬なんですよね、報われるのは」。

そして「こんなものかも・・・」とつぶやいていました。

欲しいと思ったものを、どれだけ手に入れても、

その喜びは続かず、失えば苦しみ悲しみの元になる。

太宰治は、小説『斜陽』の中で、

主人公にこう言わせています。

「幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと

胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。

ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。

生まれて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。

そうして毎日、朝から晩まで、

はかなく何かを待っている。

みじめすぎます。生まれて来てよかったと、

ああ、いのちを、人間を、世の中を、

よろこんでみとうございます」

 

苦しむばかりの人生なら、何のために人間に生まれ、

生きているのか。

なぜ生きなければならないのか分かりません。

生命の歓喜もなく難度海に漂い溺れ、

やがて死んでいかねばならぬ私たちを、

本師本仏の阿弥陀仏は、難度海から救い上げて

大船に乗せ、必ず絶対の幸福にしてみせると、

命を懸けて約束されているのです。

 

●未来がハッキリする絶対の幸福

 

私たちの幸せは、色あせ、崩れてしまうものばかりです。

だから不安、苦悩から離れられません。

では、阿弥陀仏が誓われている絶対の幸福とは、

どんな幸せでしょうか。

仏教の言葉では「往生一定」ということです。

「往生」とは、世間では困ったとか、

死ぬという意味で使っていますが「往生」の「往」も

「生」も困るとか死ぬという意味は、

全くありません。

「往生」とは、往(い)って生まれると読みます。

「往く」とは、阿弥陀仏の極楽浄土へ往く、

「生まれる」とは、阿弥陀仏と同じ仏さまに生まれるということ。

「一定」とは一つに定まる、ハッキリするということです。

ですから「往生一定」とは、いつ死んでも極楽浄土へ往って

仏に生まれることがハッキリするという意味です。

現在ただ今から、生きてよし・死んでよし、

大安心・大満足の無上の幸せに生かされるのです。

未来が明るければ、現在が明るくなります。

どれだけ富や名声に恵まれても、

人生が何となく灰色にくすんで不安なのは、

未来がハッキリしないからです。

死んでどこへ行くのか。

これ以上の大事はありませんから、

仏教では「後生の一大事」といいます。

お釈迦さまは、明日はどうなるか分からない私たちの、

危うい命に警鐘を鳴らされ、はやく後生の一大事を解決して、

未来明るい絶対の幸福になりなさいと言われているのです。

 

親鸞聖人は4歳でお父様、8歳でお母様を亡くされ、

この一大事の後生に驚かれました。

親がいなければ一日も安心できぬ子供にとって、

ご両親を亡くされた心境は計り知れません。

「明日ありと 思う心の 仇桜

  夜半に嵐の 吹かぬものかは」

と歌われ、次に死ぬのは自分の番だと9歳で仏門に入り、

後生の一大事の解決に取り組まれたのです。

その親鸞聖人が29歳の御時、法然上人から

「阿弥陀仏の本願」を聞かれ、

立ちどころに往生一定、絶対の幸福に摂取された。

その歓喜は泉のごとく、90歳でお亡くなりになるまで、

聖人の身にあふれています。

 

●どうすれば絶対の幸福になれるのか

 

ではどうすれば、生きてよし死んでよし、

の絶対の幸福になれるのでしょうか。

お釈迦さまも親鸞聖人も、

「聞く一つ」

と仰っています。何を聞くのか。

「聞其名号 信心歓喜」(その名号を聞きて信心歓喜す)

と教えられています。

「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと。

「南無阿弥陀仏」とは何か、蓮如上人から教えていただきましょう。

 

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、

更にその極まりなきものなり     (御文章5帖目13通)

 

南無阿弥陀仏といえば、字数はわずか六字であるから、

そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。

だがそれは猫に小判、豚に真珠といわれるように、

南無阿弥陀仏〈名号〉の真価を知る知恵がないからである。

本当は南無阿弥陀仏の六字の中には、

どんな人をも無上の幸福にする、

釈迦も説き尽くせなかった計り知れないお力があるのである

 

阿弥陀仏は「どんな人をも必ず絶対の幸福に助ける」

というお約束を果たすために、

すべての人を絶対の幸福(往生一定)にする力のある

南無阿弥陀仏を創られました。

釈迦の七千余巻の「一切経」は、

この南無阿弥陀仏の大功徳一つを説かれたといってもいいのです。

蓮如上人はこうも仰っています。

 

一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を

信ぜしめんがためなり     (御文章5帖目9通)

 

ある熱心なおばあさん、住職に尋ねた。

「住職さんは、一切経を何回読まれましたか?」

「一切経?何回って、7千余巻もあるんじゃぞ。

読めるものかい」

「住職さんともあろう人が、情けないですね~」

「情けないって、じゃあ、あんた読んだことあるんか?」

「もちろん、ありますよ」

「えーっ!?]

「毎日の勤行で、何十回も念仏称えています。

一切経をぎゅーっと絞った絞り汁が南無阿弥陀仏の六字ということ、

住職さん、知らんのですか」

 

まさしく南無阿弥陀仏の六文字には、7千余巻の一切経が

収まっているのです。

仏教を聞くとは、

「どんな人も、往生一定、絶対の幸福にする働きのある

『南無阿弥陀仏』の大功徳を聞いて、頂く」

ということ。

それを「聞其名号」と仰っています。

お釈迦さまが「弥陀の浄土(彼岸)へ向かって進みなさい」と

勧められているのは、南無阿弥陀仏の無上甚深の大功徳を聞き、

仏凡一体になりなさい、人間に生まれてよかった、

苦しくても生き抜いてよかった、

いつ死んでも浄土往生間違いなしと、

心から喜べる身になりなさいということです。

「『聞く一つ』で必ずなれるから、なりなさい」

と仰っているのです。

皆さんもぜひ、聞法精進し、この世から未来永遠の

幸せの身にならせていただきましょう。

聞法の場に足を運ぶことが、浄土(彼岸)への第一歩です。

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