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介護で知らされる「悪人正機」の真の意味 [親鸞聖人]

親鸞聖人の教えといえば「悪人正機」。
あまりに有名です。
「正機」とは「人間の正しい機ざま」の意であり、
「本当の人間の相(すがた)」ということですから、
「悪人正機」とは、すべての人間は悪人正機である、
ということです。
その悪人こそが救われる教えが親鸞聖人の教えなのです。

“えっ、私が悪人?”と
最初は戸惑う人も多いでしょう。

悪人と聞けば、
法律や倫理道徳に背いている人のこと、
と皆思っているからです。
前科もないし、
周りからもいい人と言われている私の
どこが悪人か、と。
ところが仏法を聞き、
教えのとおりに光に向かっていくと、
知らなかった自分に出会うことになる。
その時、聖人の仰る「悪人」の真の意味が知らされるのです。
私が出会う「私の知らない私」とは、どんな相(すがた)なのでしょう?

今回は「介護問題」を通して、
自己の「心」を見つめましょう。
母親を介護しているある女性の手記を紹介します。

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(とどろきの読者の体験手記をはさみます)

母はつらいベッドの上で
     私に教えてくれた

滋賀県 西川 博美さん(仮名)

母は若い頃から仏法熱心で、
弥陀の本願を喜んでいました。
(阿弥陀仏に救われていたということです。)
顔を合わせれば九割九分は仏法の話で、
私たち姉妹にも、
「今聞かせてもらうんやで」
といつも言っていました。

ところが私は、そんな母に反発ばかり。
親に逆らって思いのままに始めた結婚生活は、
案の定うまくいきませんでした。
苦しみもがく私に、
母は何度も分厚い手紙をくれたのです。

「博美、お母ちゃんは体がなくなっても
心は阿弥陀さまから賜った無量の命で、
すぐに博美のそばへやってきて、
お母ちゃんと同じ心になるまで
二世でも三世でも親子にならせてもらいますよ。
おまえが苦しければともに涙し、
法を聞いておまえが喜んでくれるまで
(弥陀の本願に救われるまでという意味です。)
お母ちゃんの心は博美に密着よ」


便箋の表も裏も縦も横も、
あふれる母の思いで埋め尽くされていました。

その母が体調を崩し、入院することになったのです。
私の仏縁を念じ続けてくれたせめてもの恩返し、
私は仕事をやめ、
「母を必ず支えてみせる」と自信一杯で、妹や娘の家族と看病を始めました。
病室に泊まり込み、付きっきりの食事や入浴、
排泄の介助は大変でしたが、
母の手足となれるのがうれしかった。
誰の目もはばからず母のそばにいられる
キラキラ輝く幸せな時間でした・・・。

“母のために”のはずが・・・

半年ほどたった頃、母の体力は目に見えて衰えていました。
私たちは一時もそばを離れたくなくて、
ベッドのすぐ脇に自分の布団を敷き、
母の寝息を聞きながら横になりました。
母が寝返りを打つ、わずかな物音でも目を覚まし、
夜中も心は休まりません。

そんなある日の深夜、
トイレの回数が頻繁になった母に、
「またかー。30分前に行ったやろ」。
こんな心が動いたのです。
愕然としました。
私は何のためにここにいるのか。
母を支えるためではないのか。
それなのに、自分が楽したいいっぱいで
母を邪魔に思うとは。
こんな心しかない自分だと気づかせるために、
母はつらいベッドの上で毎日を重ねてくれていたのか!
「ごめんお母ちゃん、こらえてなあ、
お母ちゃん、真心込めた看病ができると
うぬぼれていました」

 


 

斉藤 静子さん(仮名)の手記

立派に母を介護してみせる
     しかし現実は・・・

私は5年前から仏教を学んでいる50代の主婦です。
実家で認知症の母親を介護して2年になります。
夫と社会人の息子のいる自宅まで車で2時間弱ですが、
今は週に一度戻るのがやっとの状態です。

母は、若くして夫に先立たれ、
女で一つで私を育ててくれました。
80を過ぎても畑仕事に精を出し、病院とは無縁の生活でした。
それが二年前に、外出先で転倒して骨折。
2ヶ月の入院生活を余儀なくされたのです。
以来、足腰は見る見る弱り、軽い認知症も出始めました。
退院後、実家で母を世話することに、私は何の迷いもありませんでした。
永らく介護の仕事をしていたので知識もある。
「お母さんには今まで苦労をかけたもの。
今度は私が世話する番よ」
と自信いっぱい、意気揚々と介護を始めたのです。

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病気なのだから・・・
頭では分かっているけど

ところが、その自信はあっけなく打ち砕かれました。
ある日、歩行訓練をしようとした時のことです。

私「さあ、今日も歩く練習をしよう」
母「足が痛いからイヤ!」
私「このままじゃ歩けなくなっちゃうよ」
母「じゃあ、歩けなくてもいい」
私「そんなワガママ言わないで、ちゃんと練習しなくちゃだめ!やればできる!」

病気なのだから無理もないと頭では分かっているのに、
いざ母を目の前にすると、きつい口調になってしまうのです。
母は料理上手だったのに、
得意な肉じゃがも作れなくなりました。
服を着るにも、どこに手を通せばよいか分からず、
一人で着替えができません。
家中は貼り紙だらけ。
「このプラグ抜いちゃだめ」
「このスイッチは押さないで」等々。
それでもテレビのプラグを抜いてしまい、
抜いたことすら忘れて「テレビがつかない。壊れた、壊れた」
と大騒ぎするのです。
日常の簡単なことすら次々とできなくなっていく母。
私は無力感に襲われました。
仕事なら、どんなにつらくても仕事と割り切れる。
しかし実の親の介護となると全く勝手が違いました。

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“早く楽になりたい・・・”
     そう思うのは私だけ?

最近もこんなことがありました。
買い物に出かけている間に、携帯の着信が30回。
留守番にも「早く帰ってきて」と母の怒りの声。
急いで帰宅し、すぐ夕食の支度をしました。
母はテレビばかり見ています。

ムッとした私はつい、
「箸ぐらい準備してよ!」。
言ってから「しまった」と思っても手遅れです。
母は急に不機嫌になり、ベッドに潜り込んでしまいました。
何度呼んでも起きてきません。
仕方なく独りで食べ、後片づけも終えた頃、
母は起きてきて何事もなかったように
お菓子を食べ始めました。
もう私は怒る気力すら萎えてしまうのでした。
精神的に不安定だと、母が夜中にわめいたり、
物を投げつけてくることも少なくありません。
「いい加減にして!」
私はいつしか、手を上げるようにもなってしまいました。

もう嫌だ、こんな日々、いつまで続くのだろう・・・。
お釈迦さまが『仏説父母恩重経』に
親の恩の重いことを教えられているのに、
私はそのお話をお聞きしているのに、
母に対してひどいことを言い、叩いてしまう。
私には親の恩に報いようという気持ちがないんだ。
自分が楽になることしか考えていない。
何てあさましいんだろう。

毎日そんなことばかり考えていた頃、
『とどろき』の読者にも似た境遇の方がおられることを知ったのです。

やってみて
    初めて知らされる

ああ、西川 博美さんと同じだ。
私も真心込めた介護ができるとうぬぼれていた!
ふと、以前に「聞法のつどい」に参加した時のノートを取り出し、
ページをめくってみました。
そこには、親鸞聖人の『末灯鈔』のお言葉がありました。

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親をそしる者をば五逆の者と申すなり
                 (末灯鈔)

大恩ある親を殺すのは、
仏教で「五逆罪」といわれる重罪です。
だが手にかけて殺すばかりが親殺しではない。
「うるさい」「あっちへ行け」などと
ののしるのも五逆罪なのだよ、と親鸞聖人は教えられている。
また仏教では、行為といっても、
身・口・心の三つの行為をいいますが、
中でも最も重く見られるのが、心の行いです。
「殺るよりも、劣らぬものは、思う罪」
といわれるように、最も恐ろしいのは「心で殺す罪」。
心で親を邪魔者扱いする五逆罪は、
「無間業」といわれる大変恐ろしい罪だと教えられているのです。

都合が悪くなると、心で母を邪魔だなあと思う・・・。
これも五逆罪に間違いない。
そんな恐ろしいことを思い続けながら、
上辺(うわべ)はいかにも親の恩を感じているように
取り繕っている。
誰にも言えぬ、こんな罪深い私はどうして救われようか。
私、絶対に幸せになんかなれない!
やってみて初めて知らされる己の心に、
恐れおののきました。
ところが親鸞聖人は、
「そんな極悪人こそが、
阿弥陀仏の正客(お目当て)なのだよ」
と仰るのです。

無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ


阿弥陀さまは、苦悩の根元・無明の闇を
必ず破ってくださるから、決して悲しむことはない。
どんな悪人も、苦しみの海から必ず大船に救いあげてくださるから、
罪の重さを嘆かなくていいんだよ

希望の光を与えてくださった方は、
やはり親鸞さまでした。

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手記はここで終わります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

闇夜に光  唯一の灯炬
  すべての人を
    必ず救う大船あり

お釈迦さまは
「父母の大恩 山より高く 海より深い」
と教えられています。

その厚恩に報いようと努めていくと、
知らされる自己の醜さ。
そんな私に救いはあるのでしょうか。


父母なくして、
私がこの世に生まれることはできなかった。
そんな大恩ある方なのに、
いざ親が寝込むと介護は大変だから、
できればしたくない、
誰かにやってもらいたいと思いがちです。
しかし、仏法を求める人にとって、親の介護は、
いかんともしがたい己の心を知らされる、
貴重な体験ともなりましょう。
本当の自己を知ることは、最も幸せに近いのです。

お釈迦さまは、
「仏教は法鏡なり」
と仰っています。
「法鏡」とは“法”は真実、私の真実を映し出す鏡である、
ということです。
7000余巻の一切経の中で、
親鸞聖人は
それ真実の経を顕さば(あらわさば)、すなわち
『大無量寿経』これなり

            (教行信証)
と断定されています。
その『大無量寿経』には、
私たちの実相がこのように説かれています。

心常念悪(しんじょうねんあく・心常に悪を念じ)
口常言悪(くじょうごんあく・口常に悪を言い)
身常行悪(しんじょうぎょうあく・身常に悪を行じ)
曽無一善(ぞうむいちぜん・かつて一善もなし)

            (大無量寿経)

すべての人間は、心も口も身も、
常に悪ばかりで、いまだかつて一つの善もしたことがない。

法律や倫理道徳では、身の行いや、
口から出た言葉で善悪を判断され、
心で何を思っているかは、ほとんど問題にされません。

しかし仏教は、心を一番重視するところが、
全く違うのです。

私の姿とは、私の心の相(すがた)。
自分の心が分からなければ、
幸せな心にはなれませんから、
仏教は私の心の実態を教えられているのです。

心をのぞけば  
     何が見える

一体、私たちの心は、
日々どんなことを思っているでしょう。
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)の塊で、
常に悪を思い続けていると、
お釈迦さまは、教えられます。
貪欲とは、金が欲しい、金が欲しい、物が欲しい、
男が欲しい、女が欲しい、褒められたい、
認められたいとお金や異性や名声に手を伸ばし、
どれだけかき集めても満たされず、
もっと欲しいと求める心です。

「財色(ざいしき)を貪狼(とんろう)す」
飢えたオオカミが獲物を貪るようだとお経には説かれています。
外見は紳士・淑女を演じながら、内心は喉から出そうな欲望の手を
必死に抑えているのが私ではないでしょうか。

こんな話がありました。
病気の老父が、面倒を見てくれていたヘルパーさんと
再婚したいと息子に切り出した。
しかし、息子夫婦は父の遺産の半分が
結婚相手に渡ってしまうのを阻止したい。
事業も傾きかけていた息子らが
「結婚しても、相手に苦労かけるから」と言って、結婚に猛反対。
親の死を計算し、自分の欲ばかり考える子供に、
父親はどんな思いがしたことでしょうか。

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欲望のままにならないと、噴出するのが瞋恚(怒り)です。
積み上げた学問も修養も一瞬で焼き尽くし、
人を傷つけ、恨み憎しみの愚痴となってはトグロを巻く。

テレビや新聞で報道される犯罪に驚かぬ日はありませんが、
どれも皆、人間の心の仕業です。
すべての人間の心に貪欲・瞋恚・愚痴の鬼がすむのだと、
仏さまはスッパ抜かれています。
親鸞聖人は、ご自身の激しい罪悪をこう懺悔されています。

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる

       (悲歎述懐和讃)
性がやめがたく、
ヘビやサソリのような恐ろしい心だ。
こんな心でやる善行だから、
毒の混じった、ウソ偽りの善といわれて当然である

無明煩悩しげくして
塵数(じんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す
愛憎違順(あいぞういじゅん)することは
高峯岳山(こうぶがくさん)にことならず

           (正像末和讃)
欲や怒りや愚痴の煩悩は体一杯、
激しく毒を噴き、自分の思い通りになる者は
かわいく思って近づけるが、
反する者には憎悪の念が噴き上がり、
嫌って遠ざける。
そんな心が大きな山ほどあるのが親鸞だ

分かっちゃいるけどやめられない

善に励み、悪をやめようと努めるほど、
この悪性の根深さを知らされます。

悪業をば恐れながらすなわち起し、
善根をばあらませども得ること
能わざる凡夫なり
」   (口伝鈔)
悪を造らぬようにと恐れながら犯し、
善をしようと欲しながら、できないのが人間である

法律家が法を犯し、警察官が万引きをし、
教師が盗撮で逮捕される。
理性や教養では、どうにも止められない人間の悪性を、
お釈迦さまは2600年前から、教えられているのです。

罪業が重く、一生不善の我々人間は、
大宇宙の諸仏方に見捨てられた
と、
蓮如上人は『御文章(御文)』に記されています。

十悪・五逆の罪人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

十悪とは、欲や怒り、愚痴の心、
ウソや悪口、殺生(生き物を殺す)
偸盗(ちゅうとう・他人の物を盗む)
邪淫(邪な男女関係)などの十の悪をいいます。
五逆とは、大恩ある親を殺す罪で、
十悪よりも恐ろしい無間業(無間地獄へ堕ちる種まき)だと
教えられます。

真剣に親孝行しようとして初めて、
親不孝ばかりの己(おのれ)に泣かされる。
真心尽くして親を介護しようとして初めて、
噴き上がる己の悪性に愕然とさせられるのです。


「悪人を浮かばせる 
         大船あり」

こんな極悪人は救いようがないと、
十方諸仏にも見放された我々を
「私が必ず救ってみせよう」
とただ一人、立ち上がられたのが、
諸仏の本師・師匠である阿弥陀仏です

ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して

             (御文章二帖目八通)

智慧の眼(まなこ)がなく、
罪業の鎖に縛られて苦悩から逃げ出せぬ私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏だけが“誰が見捨てても、
我は見捨てぬ、必ず助けてみせる”
と今も呼び続けられているのです。

真っ暗な人生の海に、
明々(あかあか)と灯炬を掲げ、
苦海を渡す大船を造られ
「おまえを必ず乗せて極楽浄土へ連れていくぞ」
と阿弥陀さまは誓われているのです。

その大船に乗せていただくには、
どうすればよいのでしょう。
「仏法は聴聞に極まる」
聴も聞も、きくということですから、
仏法を聞く一つで助かるのです。
仏法を聞かねば、
地獄行きのタネしか持たぬ極悪の身とも知らず、
そのまま救う弥陀の大船には乗れませんから、
助かりません。

生死の大海を渡す大船に乗せていただき、
苦難の波が、
歓喜の法悦と転じる人生を
歩ませていただきましょう。

無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ

         
 (正像末和讃)

 


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